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<[[もしあのアニメが大ヒットしていなかったら]]
==就任しなかったら==
===イビチャ・オシム(千葉)===
#ジェフは今ごろJ2を彷徨っていた。
#*少なくとも、2009年以前にJ2降格の憂き目に遭っていたのは間違いないだろう。
#*ただ、同時のGMを務めた祖母井氏の事なのでオシム氏に匹敵する様な監督を招聘していたかも知れない。
#日本代表の監督就任もなかった。
#*代表監督には岡ちゃんが復帰していたかも。あるいはシャムスカとか。
#*フッフバルトが就任して「ギドジャパン」がという可能性もある
#**'''ブ'''ッフバルトね。
#*契約が残っていたけどガンバの西野朗とか
#*当時フリーに近かったセレーゾが就任してたと思う
#*関塚監督をフロンターレから引き抜く…という可能性もありえたかもしれない。
#**2006年中ならまずそれはありえない。J2から昇格したばかりだった川崎に対する協会内での認知度も低かっただろうし。
#阿部勇樹は欧州へ移籍していた。
#*或いは浦和への移籍が早まってジェフ時代の阿部はフリューゲルス時代の遠藤の様にマイナーな存在になっていた
#巻誠一郎が代表に選ばれる事もなかった。
#SMAPの草薙がやっている「悲劇の監督オシモ」もなかった。
#今の監督はアマルじゃなかった(2007年現在)。
#リトバルスキーはアビスパ福岡では無くジェフ千葉の監督に就任していた


==全般==
===ハンス・オフト(浦和)===
#実写化されることはなかった。
#タイトル獲得はおろか、2度目のJ2降格を味わっていた。
#*ミュージカルもなし。
#負けが重なる度にサポーターが減っていった。
#*したがって北川景子は存在しなかったことになる。
#*今もなおホームゲームは駒場。埼スタは超赤字スタジアムと化した。
#**DAIGOとの結婚もない。
#そして大宮と合併し、「'''さいたまレッドアルディージャ'''」となっていた。
#*実写化しても現実の[[TBS]]並みの視聴率低下で[[中部日本放送|CBC]]が自爆する。
#史実通りブッフバルトが監督になっても、最高でも中位争いにとどまった(移籍組を除き、当時の主力がオフトの元で育った選手が中心だったため)。
#*実写版セーラームーンの前番組だった[[星のカービィファン|星のカービィ]](アニメ版)はあと1年延長していたか、別のアニメが史実の実写版セーラームーンの枠で放送されていた。
#*一昔前のガンバや、名古屋のようなポジションに落ち着いていた。
#「[[なかよしファン|なかよし]]」の部数が現実以上に落ちていた。
#*最悪の場合、休刊に追い込まれていたかも。
#スーパー戦隊シリーズが金曜夕方から枠移動(つまり土曜日に復帰)してたかも。
#作者が冨樫義博と結婚する事は無かった。
#*冨樫が「とらぶるカルテット」を描いて、車田の「男坂」が長期連載されてアニメ化されて、「きんぎょ注意報!2」がやってたら、たらぜんぜん違う未来になったと予測。
#[[女性声優ファン/ま行#三石琴乃ファン|三石琴乃]]の運命は大きく変わっていただろう。
#*緒方恵美も(ry
#**綾波レイの名前も変わっていた。
#***緒方恵美に関しては幽遊白書があるから大して影響ないと思うが。
#*深見梨加も細々と外国ドラマや洋画の吹き替えで生計を立てていただろう。
#*もしかしたら新山志保(セーラースターファイター役の声優)が白血病で[[もしあの人が健在だったら/女性声優#新山志保|この世を去ることはなかったかもしれない]]。
#*古谷徹はどっちみちドラゴンボールのヤムチャのせいで、女運がない男性担当(?)のイメージが変わることはなかった。
#本番組の後枠で、史実では制作されなかった『きんぎょ注意報!』の続編『きんぎょ注意報!2(仮称)』が放送されていたかもしれない。
#*仮に『きんぎょ注意報!2』が制作され史実の『きんぎょ注意報!』同様にヒットしていたら、『セーラームーン』は名実ともに『きんぎょ注意報!』のつなぎ番組と認識されていたかもしれない。
#*この番組を敬遠した男児層が復帰し『[[SLAM DUNKファン|SLAM DUNK]]』とセットになって大ヒットに。
#美少女戦士というジャンルが定着することはなかった。
#その後の女児向けアニメ・漫画の歴史は大きく変わっていた。
#*アニメ版の赤ずきんチャチャにバトル要素が組み込まれることはなかった。
#*[[もしあのアニメが大ヒットしていなかったら/プリキュアシリーズ#ふたりはプリキュア|「ふたりはプリキュア」は大コケ]]し、[[もし「プリキュア」がシリーズ化されなかったら|「プリキュア」はシリーズ化しなかった]]。
#**そもそもプリキュアが作られたかどうか怪しい。
#***そして、ナージャが長期に渡って放送されていた。
#*変身少女の定番といえば、おじゃ魔女どれみのような魔法で物事を解決する女児向けの魔法少女モノ。バトル要素は敬遠されたため、[[もしあのアニメが大ヒットしていなかったら/ま行#魔法少女リリカルなのは|このアニメはヒットせず、]]以降の[[魔法少女まどか☆マギカ|魔法少女バトル作品]]も作られなかった。
#**そのため「もえたん」や「まじかるカナン」も作られない。
#**[[カードキャプターさくらファン|某少女漫画]]も存在せず。
#**それ以前に少女向けアニメ・変身ヒロインアニメの勢いが史実より弱まっていた。
#***そして、[[もしあのアニメが大ヒットしていなかったら/ら・わ行#わがまま☆フェアリー ミルモでポン!|この作品はヒットせず、]][[きらりん☆レボリューションファン|某アイドル漫画]]も作られなかった。
#***結果、少女向けアニメ・変身ヒロインアニメといえば未だにリボンの騎士が挙げられる。
#****夢野サリー「・・・・・」
#*後番組の「キューティーハニーF」もヒットしていない。
#*「魔法騎士レイアース」も当然、制作されていない。
#**「愛天使伝説ウェディングピーチ」も制作されなかった。
#「月に代わってお仕置きよ」などの台詞が流行することはなかった。
#「ムーンライト伝説」の原曲とされるKEY WEST CLUBの「夢はマジョリカ・セニョリータ」が注目されなかった。
#*その後「夢はマジョリカ・セニョリータ」が曲を変更してCD化されることもなかった。
#*あるいは後に「1992年に放送されていたセーラームーンのOP曲は、この曲のパクリだった」とネットで知られるようになったかもしれない。
#「大きなお友達」という言葉は生まれなかった。
#テレビ朝日土曜夜7時前半は『[[wikipedia:ja:クイズ!渡る世間は金ばかり?!|クイズ!渡る世間は金ばかり?!]]』が放送開始するまでは番組がコロコロ変わっていた。
#本番組終了後、この枠は少年向け路線に戻っていた。
#*史実でR以降を放送するはずだった枠には代わりに『[[wikipedia:ja:ろくでなしBLUES|ろくでなしBLUES]]』を放送していた。
#*講談社繋がりで『蒼き伝説シュート!』(史実ではフジテレビ系列で放送)が放送されていたかも。
#*ジャンプ枠なら『[[ジョジョの奇妙な冒険ファン|ジョジョの奇妙な冒険]]』が史実より早くこの枠で放送されていた。
#*『[[SLAM DUNKファン|SLAM DUNK]]』がセーラームーンの後番組として放送されていた可能性もある(もちろん半年前倒しで)。
#*『V』以降のガンダムシリーズがセーラームーンの後番組として放送され、この枠は東映からサンライズの枠に変わっていたかもしれない。
#「クレヨンしんちゃん」にセーラームフーンが登場することはなかった。
#当初の計画通り、1年で終了していた。
#「平成教育委員会」の独走状態が続いていた。
#*そのため、セーラームーンは裏番組の平成教育委員会の影響をモロに喰らって打ち切られたとみなされていた。
#*『きんぎょ注意報!2』+『SLAM DUNK』だったら逆に平成教育委員会の方が打ち切りに。
#「まんが日本昔ばなし」はもう少し長く続いていた。
#「不思議コメディシリーズ」がもう少し長続きしていた。
#*ひょっとしたら「メタルヒーローシリーズ」を吸収合併していた可能性もある。
#テレビ朝日系列局全体の低迷がさらに深刻化していた可能性がある。
#*セーラームーンのレギュラー放送当時、テレビ朝日は「素敵にドキュメント」のやらせ問題、山形テレビのネットチェンジへの反発、ワイドショー大改編の不評など問題を抱えていた為。
#*結果テレビ東京に追い抜かれ、「振り向けばテレビ東京」も「振り向けば誰もいない」へ転落していた可能性も。
#**「振り向けばNHK教育」に転落していたかも。
#*場合によっては愛媛朝日テレビや琉球朝日放送、岩手朝日テレビは開局していなかった可能性がある。
#**沖縄ではQABの代わりに[[もし南西放送が開局していたら|南西放送が開局していた]]かもしれない。
#中川翔子がアニメと関わることはなかった。
#*熱狂的ブルース・リーファンとして有名になっていた。
#映画『ザ・コア』で、「いつもセーラームーンを見ている高速回線があるだろう」という台詞が登場することはなかった。
#Barenaked Ladiesの楽曲「One Week」の歌詞にセーラームーンが登場することはなかった。
#ゲームセンターは今でも男性客が大半。(90年代からゲームセンターの女性客が増えたのはセーラームーンの影響が大きいため)
#*「ゲームセンター=不良の溜まり場」というイメージが拭えないままなため今でも大半の学校の校則で禁止されていた。
#**それどころかゲーセンの激減も史実よりかなり早まっていただろう。
#今でもJK・JC・JSが化粧していたらそれだけで不良扱い。
#前世少女ブームはもうしばらく続いていた。
#メドベージェワがエキシビジョンでセーラームーンのコスプレをして「ムーンライト伝説」を踊ることはなかった。
#セーラー服=スケバン、ヤンキーの印象を拭うことができなかった。
#*白いセーラー服は清楚な印象が強まることはなく、「高校教師」においても白いセーラー服が採用されることはなかった。
#欧米人が「セーラー服は日本では女子生徒用の学校制服として使われている」ことを知る機会が減っていた。
#アニメージュの人気アニメキャラNo.1はナウシカのままだった。
#久川綾が人気声優になるのが確実に遅れていた筈。
#作者の代表作が「チェリープロジェクト」だった。もしくは「コードネームがセーラーV」がアニメ化して、別の路線でヒットした可能性も。
#ラムネ&40のロイヤル美少女戦士も、「バトルガール藍」(少女コミック)とかも作られない。
#「こちら葛飾区亀有公園前派出所」に月光刑事&美茄子刑事が登場する事はなかった。


==美少女戦士セーラームーンCrystal==
===ペリクレス・シャムスカ(大分)===
テレビ放送も見送られるほど大失敗だったら。
#ポタフォゴの監督をもう少し長く務めていた。
#三石琴乃はアニメの仕事を失いナレーター専業になっていた。
#当然「シャムスカ・マジック」もないので大分は2005年にJ2降格していた。
#*むしろ「うさぎだけ声優を変えなかったのが失敗だった」として同情されそう。
#*同年のJ1優勝争いにも大きく影響した。
#*スタッフやうさぎ以外の声優を一新した事が失敗した原因と見なされていた。
#**浦和やガンバが大分相手に星を落とすことはなく、最終節前にセレッソが首位に立つ可能性は低かった。よって「長居の悲劇」は再発せず。
#アニメは最初からテレビで放送しないとヒットしない時代が続いていた。
#*ただ降格を機に身の丈に合った健全経営に移行→その後リーグ側から6億円もの借金をするような事態にはならなかったかも知れない。
#*ニコニコ動画は単なる見逃しや未放送地域の救済としか見なされない時代が続いていた。
#*西川周作は史実より早い時期に広島か浦和に移籍していた
#**公式配信の再生数が宣伝にならないことになり存亡の危機に瀕する可能性もあった。
#九州勢のタイトル獲得は未だに無い。
#***視聴率や円盤・玩具の売上以外評価基準が無い時代が続いていた。
#2009年の14連敗はなかった。
#ももいろクローバーZも活動停止が検討されるようになっていた。
#もちろん2014年に磐田の監督に就任することもなかった。
#*アニサマなどに出なくなりアニメと距離を置くようになっていた。
#*名波浩の監督就任が早まったかもしれない(史実では2014年途中に就任。それもシャムスカの後任で)。
#ソフトバンクやエーザイのCMなど様々な企業とのコラボは無かった。
#過去の作品をいまさら作成したって大したヒットにはならないという風潮が根付くことになっていた。
#セーラームーンは完全に過去のアニメ扱いにされていた。
#声優変更がなかったら。
#*うさぎ以外のセーラー戦士も旧シリーズの声優が担当した。
#*ルナ役は潘恵子という点はCrystalでも活かされていた。


[[カテゴリ:もしあのアニメが大ヒットしていなかったら|ひしようしよせんしせえらあむうん]]
===ミハイロ・ペトロヴィッチ(広島)===
#少なくとも、2012年の優勝はなかった。
#当時の監督代行だった望月一頼が昇格していた。
#*実際この時点でセレーゾとハシェックに断られ、なり手がいない状況だった。
#*この年はその後も残留争いを余儀なくされ、場合によってはJ2へ降格していた。
#ポポヴィッチが日本で監督になることはなかった。
#*大分はともかく、ゼルビアに関しては大きく歴史が変わっていたかもしれない。
#**もしかしたら町田ゼルビアのJ2昇格はなかった可能性も。1年早くアルディレスが就任してれば分からないが…
#*FC東京は大熊清がそのまま続投していた…か?
#当然その後浦和の監督になることもなかった、と考えると現在(2013年)は誰がやっていることやら?
#*順当にいけばひとまず堀孝史の昇格か、または福田正博を監督に就任させたか…だと思う。
#**タイミングによるがチームOBの曺貴裁が浦和の監督に就任していた可能性もある
#***その場合、ベルマーレの昇格回数は史実より少なく、2018年にルヴァン杯で優勝する事も無かった
#*槙野智章・森脇良太が浦和に移籍して来ることもなかった(柏木陽介はミシャ就任前に既に移籍していたので史実通り?)
#**あと、西川周作・李忠成も。
#J2降格で監督解任・辞任がこれまでの規定路線だったので、2007シーズンのJ2降格決定時にミシャを解任しなかったことのJリーグへの影響は少なからずあったと思う。上の大熊もその一人だけど。
#*これを考えると2011年の柏の優勝も無かった可能性がある。
#森保一が史実より何年か早い時期に広島の監督に就任していた
#*ただペトロビッチ時代のフォーメーションをある程度受け継いでチームを強化してきた事考えると史実よりリーグ制覇に苦労するかも知れない、まして史実どおり主力が浦和へ流出となったら
#*代表監督に就任することもなかった。
#森保一の退任が史実より早まった場合、チームOBである片野坂知宏か風間八宏が監督に就任していた(時期として2016年~2018年ごろを想定)
#*片野坂知宏が広島の監督に就任していた場合、2018年のJ1リーグ戦で何とか逃げ切って優勝しこの時に広島は初タイトルを得ていた
#*史実では2018年のJ1では後半に息切れして広島は優勝を逃している
 
===西野朗(G大阪)===
#もしかしたらリーグ優勝はおろか、史実(2012年)より早くJ2降格の憂き目に遭っていたかもしれない。
#二川孝広、橋本英郎のブレイクは勿論、大黒将志の日本代表入りは無かった。
#*遠藤保仁にも影響はあったかもしれないが…まあ、あまり大きくない気もする。
#吉原宏太、都築龍太、新井場徹などの移籍は無かった。
#*2002年以降の浦和、鹿島の成績にも少なからず影響を与えているのは必至で、川崎か千葉が一度はリーグ優勝しているかもしれない。
 
===片野坂知宏(大分トリニータ)===
#大分トリニータの2018年でのJ1昇格は無かった
#*最悪大分はJ2への復帰を2019年現在でも果たせず、再び財政難に陥る可能性も
#*2018年度もJ3に居た場合、前年まで清水エスパルスの監督を務めていた小林伸二がトリニータの監督に復帰しようやくJ2に復帰する形になる
#2016年以後も片野坂知宏がガンバ大阪のコーチを続けていた場合、長谷川健太の後任として片野坂知宏がガンバ大阪の監督に就任していた
#*宮本恒靖のガンバ大阪の監督就任が史実より遅れていた
 
==就任していたら==
===関塚隆(札幌)===
関塚隆は2004年から2008年まで[[川崎フロンターレ]]の監督を務め、J1昇格、さらに首位争いに加わりACL出場にまで導きましたが、川崎だけでなく[[北海道コンサドーレ札幌|コンサドーレ札幌]]も監督就任オファーを出していました。もし、川崎でなく札幌の監督に就任していたら…
#代わりに柳下正明が川崎の監督になっていたかも。
#札幌がJ1昇格を2005年までに決め、2008年現在ではJ1中位に定着した可能性が高い。
#*低予算なので大物選手の獲得は無いが、優秀な下部組織を持つ札幌だけに若手選手の台頭は著しくなっていた。
#一方、川崎はJ1になかなか辿り着けず、中村憲剛らは移籍していただろう。
#*それよか、今現在で引退していた可能性もあっただろう(関塚監督就任後にレギュラーに定着したため)。
#*少なくともJ1に昇格できていたとしても、残留争いの常連となっていただろう。
#札幌の鹿島色は強くなっており、現在までに一つぐらいはタイトルを獲得していたかもしれない。
#*相馬直樹も札幌に移籍して現役引退し、その後監督に就任していたかも。
 
===長澤和明(山形)===
{{注意|この項目は実際に山形の監督に就任する前に作られたものです。}}
1996年、[[モンテディオ山形]]は[[ジュビロ磐田]]の初代監督でクラブをJリーグに昇格させた長澤和明(女優長澤まさみの父)に監督就任のオファーをしましたが、当時小学生だった娘・まさみが静岡を離れたくない、と拒否したため話は流れ、代わって長澤の紹介で大学時代のチームメイトだった石崎信弘<!--(現[[北海道コンサドーレ札幌|コンサドーレ札幌]]監督)-->が監督に就任しました。その後石崎が監督として色々なクラブを渡り歩くことになる訳ですが、もしまさみがゴネずに当初の予定通り長澤が山形の監督に就任していたら果たしてどうなっていたでしょうか?
 
#名監督・石崎の誕生はなかった。
#代わりに長澤が石崎が監督を務めたクラブ(モンテディオ山形→[[大分トリニータ]]→[[川崎フロンターレ]]→[[清水エスパルス]]→[[柏レイソル]]→コンサドーレ札幌)で指揮を執っていた。
#(家族で山形に引越していた場合)長澤まさみの芸能界入りもなかった可能性大。
#*芸能界入りは生田智子(ゴン中山夫人)の薦めだったので。
#常葉学園サッカー部の監督として高校選手権に出場することもなかったかも。
 
===フース・ヒディンク(名古屋)===
1994年、[[名古屋グランパス|名古屋グランパスエイト]]の監督候補となったヒディンクですが、同時期にオランダ代表の監督就任のオファーが来た為、立ち消えとなりました。もし、オランダ代表でなくグランパスの監督に就任していたら…。
#ストイコビッチがグランパスで活躍できていたかは微妙なところ。
#グランパスの監督にベンゲルが就任しないので、フランスの後の岡田の後任は誰になっていたか…。
 
==辞任していなかったら==
*年は辞任した年を書いて下さい。
===レネ・デザイェレ(C大阪・1999年)===
1999年、セレッソ大阪の監督に就任したレネ・デザイェレ。シーズンの成績は19勝11敗の6位と好成績を残しましたが、クラブとの方針の違いにより天皇杯を目前にした12月に辞任しました。<br>もし、2000年以降もレネが監督を続けていたら…?
#2000年の1stステージで優勝していた。
#*Jリーグにおける関西勢の初タイトルになっていた。
#2001年のセレッソのJ2降格は無かった。
#*この場合降格したのはアビスパとF・マリノスorヴェルディ。
 
===岡田武史(札幌・2001年)===
#少なくとも2003年はJ1。
#横浜F・マリノス監督就任もなかっただろう。
#柱谷哲二が「凍傷」と呼ばれることもなかった。
#山瀬功治はマリノスに移籍しなかった。
#ハーフナー・マイクも札幌ユースからトップに昇格していた。
 
===ヴァレリー・ニポムニシ(広島・2001年)===
2001年、サンフレッチェの監督に就任したヴァレリー・ニポムニシ。1stステージは13位と低迷するも、2ndステージは3位と良い成績を残しました。しかし、この年の11月に夫人の病気を理由としてあっさり辞任してしまいます。<br>もし、2002年以降もヴァレリーが監督を続けていたら…?
#少なくとも、翌年のJ2降格は無かった(この場合降格したのはコンサドーレとヴィッセルorレイソルか?)
#久保竜彦は日本代表に選ばれているだろう。
#*マリノスへの移籍も無かった。
 
===関塚隆(川崎・2008年)===
2009年シーズンに復帰した関塚隆監督ですが、その前年はJ1優勝を含むタイトル奪取を期待されながらも、フッキの移籍騒動による心労や自らの健康問題を理由にシーズン途中の辞任を余儀なくされました。<br>もし、2008年シーズンに何事も起きずに辞任せずにフルシーズンで監督を務めていたら…。
#それでもフッキの退団騒動は回避できなかった。
#優勝争いに加われたかどうかは微妙なところ。
#*史実では高畠勉監督(現・ヘッドコーチ)の就任後に成績を上げた感がするので。
#我那覇の出番はもう少し増え、戦力外通告で川崎を去ることもなかった。
#*ドーピング騒動がひと段落ついたところで代表に返り咲いていた。
#*レナチーニョの加入は無く、ジュニーニョ・鄭大世・我那覇の3トップになっていた。
#確実に2009年あたりで一つぐらいはタイトルを獲得しており、ガンバ時代の西野監督並みの長期政権になっていた。
#*U-22の監督にはおそらく城福浩が就任していた(当然、史実通り2010年に東京の監督を退任していたら)。
#*そのあとの低迷期は無く、2010年以降の川崎の成績は史実よりも良くなっていた。
 
===内田一夫(甲府・2010年)===
2010年シーズン、甲府をJ1へ導きながらも指導経験の乏しさを疑問視したクラブの判断で、1年限りで退任となった内田監督。もし、翌年も内田監督が指揮を執ったら…
#少なくとも翌年、甲府が1年でJ2へ降格することは無かった。
#*となれば、ハーフナー・マイクは残留していたはず。
#城福浩は相馬直樹の解任と共に、川崎の監督に就任していた。
#逆に浦和がJ2へ降格し、冬の時代が到来していた可能性が。
 
===尹晶煥(鳥栖・2014年)===
2014年シーズン、サガン鳥栖から「今後のチーム作りのビジョンや考え方がクラブと合わない」という謎の理由で解任された尹晶煥監督。もし監督を続けていたら…。
#その年のサガンの最終成績は5位だったので、もしかしたら優勝していたかも…。
#その後のセレッソの監督就任も、無かったか遅れていた。
 
[[カテゴリ:歴史のif検討委員会 日本サッカー史|あのしえいくらふのかんとく]]

2021年3月1日 (月) 12:05時点における版

就任しなかったら

イビチャ・オシム(千葉)

  1. ジェフは今ごろJ2を彷徨っていた。
    • 少なくとも、2009年以前にJ2降格の憂き目に遭っていたのは間違いないだろう。
    • ただ、同時のGMを務めた祖母井氏の事なのでオシム氏に匹敵する様な監督を招聘していたかも知れない。
  2. 日本代表の監督就任もなかった。
    • 代表監督には岡ちゃんが復帰していたかも。あるいはシャムスカとか。
    • フッフバルトが就任して「ギドジャパン」がという可能性もある
      • ッフバルトね。
    • 契約が残っていたけどガンバの西野朗とか
    • 当時フリーに近かったセレーゾが就任してたと思う
    • 関塚監督をフロンターレから引き抜く…という可能性もありえたかもしれない。
      • 2006年中ならまずそれはありえない。J2から昇格したばかりだった川崎に対する協会内での認知度も低かっただろうし。
  3. 阿部勇樹は欧州へ移籍していた。
    • 或いは浦和への移籍が早まってジェフ時代の阿部はフリューゲルス時代の遠藤の様にマイナーな存在になっていた
  4. 巻誠一郎が代表に選ばれる事もなかった。
  5. SMAPの草薙がやっている「悲劇の監督オシモ」もなかった。
  6. 今の監督はアマルじゃなかった(2007年現在)。
  7. リトバルスキーはアビスパ福岡では無くジェフ千葉の監督に就任していた

ハンス・オフト(浦和)

  1. タイトル獲得はおろか、2度目のJ2降格を味わっていた。
  2. 負けが重なる度にサポーターが減っていった。
    • 今もなおホームゲームは駒場。埼スタは超赤字スタジアムと化した。
  3. そして大宮と合併し、「さいたまレッドアルディージャ」となっていた。
  4. 史実通りブッフバルトが監督になっても、最高でも中位争いにとどまった(移籍組を除き、当時の主力がオフトの元で育った選手が中心だったため)。
    • 一昔前のガンバや、名古屋のようなポジションに落ち着いていた。

ペリクレス・シャムスカ(大分)

  1. ポタフォゴの監督をもう少し長く務めていた。
  2. 当然「シャムスカ・マジック」もないので大分は2005年にJ2降格していた。
    • 同年のJ1優勝争いにも大きく影響した。
      • 浦和やガンバが大分相手に星を落とすことはなく、最終節前にセレッソが首位に立つ可能性は低かった。よって「長居の悲劇」は再発せず。
    • ただ降格を機に身の丈に合った健全経営に移行→その後リーグ側から6億円もの借金をするような事態にはならなかったかも知れない。
    • 西川周作は史実より早い時期に広島か浦和に移籍していた
  3. 九州勢のタイトル獲得は未だに無い。
  4. 2009年の14連敗はなかった。
  5. もちろん2014年に磐田の監督に就任することもなかった。
    • 名波浩の監督就任が早まったかもしれない(史実では2014年途中に就任。それもシャムスカの後任で)。

ミハイロ・ペトロヴィッチ(広島)

  1. 少なくとも、2012年の優勝はなかった。
  2. 当時の監督代行だった望月一頼が昇格していた。
    • 実際この時点でセレーゾとハシェックに断られ、なり手がいない状況だった。
    • この年はその後も残留争いを余儀なくされ、場合によってはJ2へ降格していた。
  3. ポポヴィッチが日本で監督になることはなかった。
    • 大分はともかく、ゼルビアに関しては大きく歴史が変わっていたかもしれない。
      • もしかしたら町田ゼルビアのJ2昇格はなかった可能性も。1年早くアルディレスが就任してれば分からないが…
    • FC東京は大熊清がそのまま続投していた…か?
  4. 当然その後浦和の監督になることもなかった、と考えると現在(2013年)は誰がやっていることやら?
    • 順当にいけばひとまず堀孝史の昇格か、または福田正博を監督に就任させたか…だと思う。
      • タイミングによるがチームOBの曺貴裁が浦和の監督に就任していた可能性もある
        • その場合、ベルマーレの昇格回数は史実より少なく、2018年にルヴァン杯で優勝する事も無かった
    • 槙野智章・森脇良太が浦和に移籍して来ることもなかった(柏木陽介はミシャ就任前に既に移籍していたので史実通り?)
      • あと、西川周作・李忠成も。
  5. J2降格で監督解任・辞任がこれまでの規定路線だったので、2007シーズンのJ2降格決定時にミシャを解任しなかったことのJリーグへの影響は少なからずあったと思う。上の大熊もその一人だけど。
    • これを考えると2011年の柏の優勝も無かった可能性がある。
  6. 森保一が史実より何年か早い時期に広島の監督に就任していた
    • ただペトロビッチ時代のフォーメーションをある程度受け継いでチームを強化してきた事考えると史実よりリーグ制覇に苦労するかも知れない、まして史実どおり主力が浦和へ流出となったら
    • 代表監督に就任することもなかった。
  7. 森保一の退任が史実より早まった場合、チームOBである片野坂知宏か風間八宏が監督に就任していた(時期として2016年~2018年ごろを想定)
    • 片野坂知宏が広島の監督に就任していた場合、2018年のJ1リーグ戦で何とか逃げ切って優勝しこの時に広島は初タイトルを得ていた
    • 史実では2018年のJ1では後半に息切れして広島は優勝を逃している

西野朗(G大阪)

  1. もしかしたらリーグ優勝はおろか、史実(2012年)より早くJ2降格の憂き目に遭っていたかもしれない。
  2. 二川孝広、橋本英郎のブレイクは勿論、大黒将志の日本代表入りは無かった。
    • 遠藤保仁にも影響はあったかもしれないが…まあ、あまり大きくない気もする。
  3. 吉原宏太、都築龍太、新井場徹などの移籍は無かった。
    • 2002年以降の浦和、鹿島の成績にも少なからず影響を与えているのは必至で、川崎か千葉が一度はリーグ優勝しているかもしれない。

片野坂知宏(大分トリニータ)

  1. 大分トリニータの2018年でのJ1昇格は無かった
    • 最悪大分はJ2への復帰を2019年現在でも果たせず、再び財政難に陥る可能性も
    • 2018年度もJ3に居た場合、前年まで清水エスパルスの監督を務めていた小林伸二がトリニータの監督に復帰しようやくJ2に復帰する形になる
  2. 2016年以後も片野坂知宏がガンバ大阪のコーチを続けていた場合、長谷川健太の後任として片野坂知宏がガンバ大阪の監督に就任していた
    • 宮本恒靖のガンバ大阪の監督就任が史実より遅れていた

就任していたら

関塚隆(札幌)

関塚隆は2004年から2008年まで川崎フロンターレの監督を務め、J1昇格、さらに首位争いに加わりACL出場にまで導きましたが、川崎だけでなくコンサドーレ札幌も監督就任オファーを出していました。もし、川崎でなく札幌の監督に就任していたら…

  1. 代わりに柳下正明が川崎の監督になっていたかも。
  2. 札幌がJ1昇格を2005年までに決め、2008年現在ではJ1中位に定着した可能性が高い。
    • 低予算なので大物選手の獲得は無いが、優秀な下部組織を持つ札幌だけに若手選手の台頭は著しくなっていた。
  3. 一方、川崎はJ1になかなか辿り着けず、中村憲剛らは移籍していただろう。
    • それよか、今現在で引退していた可能性もあっただろう(関塚監督就任後にレギュラーに定着したため)。
    • 少なくともJ1に昇格できていたとしても、残留争いの常連となっていただろう。
  4. 札幌の鹿島色は強くなっており、現在までに一つぐらいはタイトルを獲得していたかもしれない。
    • 相馬直樹も札幌に移籍して現役引退し、その後監督に就任していたかも。

長澤和明(山形)

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この項目は実際に山形の監督に就任する前に作られたものです。

1996年、モンテディオ山形ジュビロ磐田の初代監督でクラブをJリーグに昇格させた長澤和明(女優長澤まさみの父)に監督就任のオファーをしましたが、当時小学生だった娘・まさみが静岡を離れたくない、と拒否したため話は流れ、代わって長澤の紹介で大学時代のチームメイトだった石崎信弘が監督に就任しました。その後石崎が監督として色々なクラブを渡り歩くことになる訳ですが、もしまさみがゴネずに当初の予定通り長澤が山形の監督に就任していたら果たしてどうなっていたでしょうか?

  1. 名監督・石崎の誕生はなかった。
  2. 代わりに長澤が石崎が監督を務めたクラブ(モンテディオ山形→大分トリニータ川崎フロンターレ清水エスパルス柏レイソル→コンサドーレ札幌)で指揮を執っていた。
  3. (家族で山形に引越していた場合)長澤まさみの芸能界入りもなかった可能性大。
    • 芸能界入りは生田智子(ゴン中山夫人)の薦めだったので。
  4. 常葉学園サッカー部の監督として高校選手権に出場することもなかったかも。

フース・ヒディンク(名古屋)

1994年、名古屋グランパスエイトの監督候補となったヒディンクですが、同時期にオランダ代表の監督就任のオファーが来た為、立ち消えとなりました。もし、オランダ代表でなくグランパスの監督に就任していたら…。

  1. ストイコビッチがグランパスで活躍できていたかは微妙なところ。
  2. グランパスの監督にベンゲルが就任しないので、フランスの後の岡田の後任は誰になっていたか…。

辞任していなかったら

  • 年は辞任した年を書いて下さい。

レネ・デザイェレ(C大阪・1999年)

1999年、セレッソ大阪の監督に就任したレネ・デザイェレ。シーズンの成績は19勝11敗の6位と好成績を残しましたが、クラブとの方針の違いにより天皇杯を目前にした12月に辞任しました。
もし、2000年以降もレネが監督を続けていたら…?

  1. 2000年の1stステージで優勝していた。
    • Jリーグにおける関西勢の初タイトルになっていた。
  2. 2001年のセレッソのJ2降格は無かった。
    • この場合降格したのはアビスパとF・マリノスorヴェルディ。

岡田武史(札幌・2001年)

  1. 少なくとも2003年はJ1。
  2. 横浜F・マリノス監督就任もなかっただろう。
  3. 柱谷哲二が「凍傷」と呼ばれることもなかった。
  4. 山瀬功治はマリノスに移籍しなかった。
  5. ハーフナー・マイクも札幌ユースからトップに昇格していた。

ヴァレリー・ニポムニシ(広島・2001年)

2001年、サンフレッチェの監督に就任したヴァレリー・ニポムニシ。1stステージは13位と低迷するも、2ndステージは3位と良い成績を残しました。しかし、この年の11月に夫人の病気を理由としてあっさり辞任してしまいます。
もし、2002年以降もヴァレリーが監督を続けていたら…?

  1. 少なくとも、翌年のJ2降格は無かった(この場合降格したのはコンサドーレとヴィッセルorレイソルか?)
  2. 久保竜彦は日本代表に選ばれているだろう。
    • マリノスへの移籍も無かった。

関塚隆(川崎・2008年)

2009年シーズンに復帰した関塚隆監督ですが、その前年はJ1優勝を含むタイトル奪取を期待されながらも、フッキの移籍騒動による心労や自らの健康問題を理由にシーズン途中の辞任を余儀なくされました。
もし、2008年シーズンに何事も起きずに辞任せずにフルシーズンで監督を務めていたら…。

  1. それでもフッキの退団騒動は回避できなかった。
  2. 優勝争いに加われたかどうかは微妙なところ。
    • 史実では高畠勉監督(現・ヘッドコーチ)の就任後に成績を上げた感がするので。
  3. 我那覇の出番はもう少し増え、戦力外通告で川崎を去ることもなかった。
    • ドーピング騒動がひと段落ついたところで代表に返り咲いていた。
    • レナチーニョの加入は無く、ジュニーニョ・鄭大世・我那覇の3トップになっていた。
  4. 確実に2009年あたりで一つぐらいはタイトルを獲得しており、ガンバ時代の西野監督並みの長期政権になっていた。
    • U-22の監督にはおそらく城福浩が就任していた(当然、史実通り2010年に東京の監督を退任していたら)。
    • そのあとの低迷期は無く、2010年以降の川崎の成績は史実よりも良くなっていた。

内田一夫(甲府・2010年)

2010年シーズン、甲府をJ1へ導きながらも指導経験の乏しさを疑問視したクラブの判断で、1年限りで退任となった内田監督。もし、翌年も内田監督が指揮を執ったら…

  1. 少なくとも翌年、甲府が1年でJ2へ降格することは無かった。
    • となれば、ハーフナー・マイクは残留していたはず。
  2. 城福浩は相馬直樹の解任と共に、川崎の監督に就任していた。
  3. 逆に浦和がJ2へ降格し、冬の時代が到来していた可能性が。

尹晶煥(鳥栖・2014年)

2014年シーズン、サガン鳥栖から「今後のチーム作りのビジョンや考え方がクラブと合わない」という謎の理由で解任された尹晶煥監督。もし監督を続けていたら…。

  1. その年のサガンの最終成績は5位だったので、もしかしたら優勝していたかも…。
  2. その後のセレッソの監督就任も、無かったか遅れていた。