ざんねんな相撲事典

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相撲部屋[編集 | ソースを編集]

貴乃花部屋
  1. 貴ノ岩が日馬富士に暴行を受けてからはゴタゴタ続きで、貴乃花親方が角界を去ったことで閉鎖された。
    • 被害者のハズの貴ノ岩が付き人への暴力が発覚するなど元弟子らの不祥事が相次ぐ。同じ元弟子で優勝を経験した大関の貴景勝が不憫でならない。
  2. 部屋開設直後に元安芸乃島の千田川(現高田川)親方と確執を起こすなど、初っ端からゴタゴタしていた。
    • 貴乃花親方が千田川親方の移籍承諾書の捺印をごね続け、協会の仲介により先代親方の捺印で移籍が認められた。
      • 無所属の高田川部屋に移籍、先代親方の停年により後継者となり、自身が元々属していた二所ノ関一門入りとなった。
    • 一説によると現役時代から不仲で、安芸乃島が新弟子時代の貴花田を兄弟共々いじめていたとも。
    • 貴乃花が理事長になっていれば朝乃山や英乃海の不祥事はなかっただろうな
立浪部屋
  1. 横綱双葉山や羽黒山を輩出した名門だが、昭和50年代後半から旭國や黒姫山が引退して幕内力士がゼロの時期があった。
  2. その立浪部屋を救ったのが北尾で横綱に上がり、双羽黒となったが、当時親方だった安念山と衝突し、一度も優勝経験がないまま相撲界を去る羽目となった。
  3. 大島部屋の旭豊が安念山の娘と結婚し、安念山の停年と同時に立浪部屋を継承した。
    • 黒姫山の武隈はこの継承に不満で武隈部屋を創設した。
  4. 安念山は旭豊の引退相撲の収益を全部横取りするなど、旭豊と衝突、「立浪」株の買取を要求し、裁判に持ち込まれた。
    • 最終的には旭豊が勝訴した。
  5. 理事選挙で旭豊の師匠の旭國の大島が落選。「誰が票を入れなかったのか」と犯人探しが始まり、弟子の旭豊が大島でなく貴乃花に入れていたことが発覚した(もう一人は光法の安治川)。
    • そのため立浪部屋は一門の本家であるにもかかわらず一門から離脱しなければならなくなり、貴乃花一門に加入。その後は出羽海一門に移った。
  6. 創立者の緑島は「打倒出羽海」に執念を燃やしていたが、自分の興した部屋が対抗勢力の傘下に入ったのを見て、あの世からどう見ているのであろうか?
時津風部屋
  1. 不世出の大横綱双葉山が興した部屋だが、2007年に新弟子が稽古中に急死する事件が起きた。だが、実際には兄弟子らによる暴行を受けたものだった。
    • 新弟子の両親が不審に思ったことから事件が明らかになった。
    • 事件が明るみになり、親方は解雇、時津海が急遽部屋を継承することとなった。
    • 後日この事件で元親方と兄弟子が傷害致死で逮捕された。
  2. その時津海も、2020年9月に旅行先でマスク着用などの感染予防策を怠ったことやゴルフコンペに参加、実家に帰省するため福岡に滞在したことが、相撲協会が作成した新型コロナウイルス対応ガイドライン違反に当たるため、9月場所中の謹慎となった。さらに、委員から年寄への2階級降格処分となった。
    • 2021年1月にもマージャン店や風俗店に通ったことが発覚した。これらの行為が新型コロナ対応のガイドライン違反であるため、二度目は退職に追い込まれた。
  3. こうして時津風部屋は2代に続けて師匠が不祥事で相撲界を離れることとなった。
二所ノ関部屋(旧)
  1. 大鵬や力道山を輩出した名門だった。
  2. しかし、2度の分家独立騒動が起こってしまった。
    • 分家独立した部屋のうち、押尾川部屋では本家同様の分家独立騒動が勃発した。
  3. 元金剛が引き継いでからは関取がなかなか生まれず衰退、そして親方が脳梗塞で倒れ部屋を畳んだ。
花籠部屋(旧)
  1. 初代若乃花や輪島ら横綱を輩出した名門中の名門。
    • 但し、設立当初は食糧に困るほどの経営難で、巡業で二所ノ関一門からハブられた時期もあった。
  2. その輪島が引退し、花籠親方になったとたん、凋落が始まる。
    • 年寄株を相撲協会以外の人物に借金の担保にしていたことが発覚。
      • 借金を返せずに年寄株が金貸しの手に渡ったとして、その人が親方になるつもりだったんだろうか?
        • それとも「公表されたくなかったら年寄株を買い戻せ」と言って相撲協会を強請るんだろうか?
    • 花籠親方こと輪島は相撲協会を廃業し、花籠親方は空席に。
  3. その後、結局後継者は決まらず、花籠部屋は消滅した。
  4. ちなみにのちに太寿山によって再興されるが、経営難を理由に峰崎部屋に編入されている。
    • 独立当時は部屋の所在地がなんと山梨県上野原町だった。
  5. 峰崎親方(元三杉磯)は立場や系譜が違えど、二度の花籠部屋消滅の当事者となった。
    • 三杉磯は元々花籠部屋所属力士だったが、上記の輪島の不祥事で放駒部屋移籍を余儀なくされた。

力士[編集 | ソースを編集]

あ行[編集 | ソースを編集]

安藝ノ海節男
  1. 双葉山の70連勝を阻止したということだけで横綱になったような力士。
    • 優勝も関脇時代の1度だけ。
    • 地元の広島でもあまり知られてないような印象がある。
  2. 親方時代に経営していたちゃんこ店の地下にキャバレーを出店させたことや、離婚問題のせいで協会にいられなくなった。
曙太郎
  1. 外国出身力士として初めて横綱になり11回の優勝を重ねたが、なぜか全勝優勝は一度もできなかった。
  2. 足が長い体形だったため下半身がもろいという弱点があった。
    • 平成初期の相撲本でも「曙は重心が高く小錦ほど出世できるかどうか不安」と書かれたこともある。
  3. 相撲協会退職後は総合格闘技に転向したがさっぱり勝てず「マケボノ」と揶揄された。
  4. 2017年に心不全で死の淵をさまよい記憶のかなりの部分も消えてしまった。
朝潮太郎(3代目)
  1. 奄美諸島出身だったが日本復帰前に密航して入門したため、しばらく神戸出身を装う羽目になった。
  2. 横綱昇進後は調子のムラが激しく「強い朝潮と弱い朝潮がいる」と揶揄された。
    • 大阪場所に強く「大阪太郎」の異名を取り、4回の優勝の内3回が大阪場所で、横綱昇進も大阪場所後だった。
    • 反面、東京場所では一度も優勝していない(他1回の優勝は九州場所)
    • 正しくは5回の優勝の内4回が大阪場所
  3. 還暦土俵入りで使う赤い横綱をもらい楽しみにしていたが前年に急逝してしまった。
    • 一説によると体を鍛えるために無理なトレーニングをしていたのが原因だとか。
    • 弟子の小錦や南海龍がトラブルを起こしたことによる心労が原因とも。
朝青龍明徳
  1. 00年代の大相撲を代表する名横綱だったが土俵外での不祥事のイメージが強い。
    • 引退原因も一般人への暴力行為だった。
  2. 土俵上での振る舞いも物議をかもすことが多かった。
    • これによって、マスコミから「大ヒール」の烙印を押される羽目に。
  3. モンゴル人だったことが日本人の横綱審議委員や好角家の心証を悪くさせたように思えて仕方がない。
    • 心証というか単に差別されたというとことだろう。
      • 素行の悪い力士はなにも朝青龍に限らないところ、外国人でしかも強かったのが気に食わないという人が内外にいたんだと思う。
  4. Twitterの日本語があまりうまくない。
朝ノ霧満
  1. 平成12年夏場所7日目、対千代白鵬戦で取組中に廻しが急に緩み、行司の待ったも間に合わずに×××××が露わになってしまった。
    • 審判長から物言いがついた後「東方力士(朝ノ霧)の前袋が落ちたので西方力士(千代白鵬)の勝ちとします」と場内に説明され、朝ノ霧は反則負け(不浄負け)となった。
      • 大正6年夏場所3日目、十両・男嶌と幕下・友ノ山との対戦で男嶌が喫して以来、実に83年ぶりの珍事だった。
  2. この取組は翌日の日刊スポーツの一面トップに掲載、ロイター通信によって世界に打電されてしまった。
    • その記事で打たれた大見出しいわく→「決まり手は モロ出し」
  3. そのショックからか、当該場所は1勝6敗と大敗を喫し、それから1年も経たずに引退。
東富士欽壹
  1. 横綱になる力士にしては、番付に載るまで2年かかった。
  2. それでも幕下の頃から双葉山に目をかけられ、鍛えられて強くなった。
  3. 富士ヶ根部屋所属だったが、部屋を継いだ兄弟子だった若港と折り合いが悪く、部屋を出て出羽海部屋で生活し、正式に出羽海部屋所属になる予定だったが、前田山が、反対したため高砂部屋に移籍した。
    • 出羽海部屋の力士たちと確執を生むことになった。
  4. そのためか、本場所で力を発揮することができず、全勝優勝や連続優勝の経験がなかった。
  5. 引退時も一時「錦戸」を襲名したが、立浪部屋の双見山を廃業させたため、羽黒山から物言いがつき、この騒動で嫌気がさし、相撲協会を去ることになった。
    • このため横綱を経験しながら引退相撲は行われなかった。
  6. その後、プロレスラーを経て民放の大相撲中継の解説者、アパートやサラ金を経営していた。
安念山治
  1. 前相撲では8戦全敗だった。
    • 土俵に上がった途端、「目の前が真っ暗になった」というのが本人の証言。その理由が「北海道の山の中から出て、人前に出たことがなかった」から。
  2. 小結で優勝し、関脇で12勝を挙げたこともあったが、投げにこだわり過ぎて大関に上がれなかった。
  3. 栃錦や若乃花等には何度も勝った事はあるが、大鵬には21回戦って、一度も勝てなかった。
  4. 師匠の「羽黒山」を襲名したが、「安念山」の方が知られている。
  5. 師匠として弟子の双羽黒を横綱まで育てたが、相撲道の違いなどから衝突し、双羽黒は廃業に追い込まれた。
    • 安念山も「師匠として問題がある」として、減俸の処分が下った。
  6. 娘が旭豊と結婚し、旭豊が立浪部屋を継いだが、ここでも旭豊と衝突。さらに旭豊の引退相撲の収益を全部自分の物にし、旭豊にはビタ一文もやらなかった。
    • 旭豊は離婚と養子縁組を解消したが、安念山は年寄株の支払いの裁判を起こし、一審は勝訴したが、二審と終審で敗訴し、旭豊の勝訴に終わった。
  7. かなりの守銭奴(相撲界で言う「トウスケ」)で立浪部屋の1日のちゃんこ代が3万円なため、夕食は昼食と比べて質を落とさざるを得なかったという。
    • 弟子の双羽黒が廃業した一因に「こんなまずいちゃんこが食えるか!」と捨て台詞を吐いて部屋を出たことにあった。
    • こんな性格だから双羽黒や旭豊とモメたのは当然の事と言える。
維新力浩司
  1. 十両屈指の人気力士で西筆頭まで出世したが惜しくも入幕はできなかった。
    • 曙や若花田を破ったこともあるだけに平幕の実力はあったと思われる。
  2. プロレス入りした後も名前のわりに維新軍や長州力とは一切縁がない。
  3. あまりの小兵ゆえに付け人を連れて飲みに行った際に自らが付け人と間違われた。
板井圭介
  1. 大乃国から3つの金星を奪っているが、何れも綺麗に勝ったとは言えない相撲内容だった。
    • 板井の引退後の年寄襲名が認められなかった一因とも言われている。
      • 大乃国本人は板井のことを心底嫌っており、引退後のインタビューで「1人顔面を張ってくる力士(板井)がいた。あまりに腹が立つので組み止めたら両肘を極めて、土俵の外に出さずにそのまま腕を折ってやろうかと思ったほどだ」と語っている。
  2. 1991年7月場所で幕内全敗(0勝15敗)を記録してしまった。
    • 前場所の1991年5月場所は13日目から3連敗で終わったため通算で18連敗を記録した。
  3. 引退後に八百長を告発し物議を醸した。
  4. のちに家族と別れ、最期はアパートで孤独死となり、元付け人に発見された。
  5. 千代の富士が現役最後に勝利した時の相手。
逸ノ城駿
  1. 南海龍同様、酒癖の悪さで相撲人生を棒に振った。
    • 引退前年に幕内優勝、直前の場所でも好成績で十両優勝している。
  2. 酒に酔っておかみさんを殴り、師匠とは弁護士を通してしか話ができないほど、末期には関係が悪化。
  3. 南海龍と双羽黒のハイブリッドみたいなもの。
五ツ嶋奈良男
  1. 「稽古場横綱」の異名を取り、双葉山に2連勝するなど、力はあった。
  2. 関脇1場所で大関に昇進したが、安藝ノ海のついでの感がある。
  3. 大関昇進後、両膝の故障に見舞われ途中休場。角番の場所7勝7敗で千秋楽を迎えたが、この一番に敗れ、大関陥落。
  4. 関脇に落ちてすぐに引退。間もなく廃業した。

か行[編集 | ソースを編集]

魁皇博之
  1. 最高優勝5回・大関在位65場所という記録を残しているが、とうとう横綱には上がれなかった。
    • 特に平成16年九州場所(先場所優勝→優勝次点)の後には理事会で賛成多数だったが、北の湖理事長の意向により横審への諮問が見送られた。
  2. 地元福岡での九州場所では毎年大声援を送られていたが、優勝は一度も果たせなかった。
  3. 怪力すぎて握力計やホテルの手すりなどを破壊してしまったことがある。
    • 特に酒が入ると危険だったと伝えられる。
  4. 彼の功績から博多から出身地である直方を結ぶ特急「かいおう」が創設されたが、肝心の一番列車の出発式には体調不良で出席することができなかった。
    • ちなみに引退して浅香山を襲名したが「かいおう」の名前は変更されず今も残っている。
笠置山勝一
  1. 出羽海一門で打倒双葉山の参謀役を務めたが、本人は17回戦って一度も勝てなかった。
    • 奇策を考えても土俵に上がれば雰囲気に呑まれて出せなかったとか。
  2. 晩年は専門誌に自伝小説を連載していたが、本人の死去により完結できなかった。
  3. 当時としては珍しい大卒力士。早稲田大学在学中に幕下付出で初土俵を踏み、卒業前に十両に昇進したため卒業式は大銀杏を結って出席した。
    • そんなわけで引退後、早稲田大学大隈講堂で断髪式を行った。
稀勢の里寛
  1. 14年ぶりに誕生した日本出身横綱だったが、昇進初の本場所(平成29年3月場所)で優勝した後、怪我が多いため8場所連続休場や横綱ワーストの8連敗(不戦敗除く)もあり、横綱としては長くはなかった。
    • 日本出身だから昇進できたような気がしてならない。
  2. 2場所連続優勝をしたがその際の怪我を引きずってしまい、無理をして出場→連敗で怪我が悪化し休場という悪循環に陥っていた。
  3. 某バーチャルYoutuberとの同一人物説が噂されていたことが一時期あった。
北の湖敏満
  1. 全盛期はとにかく強すぎてかえって人気がなかった。
    • 自分が破った相手に一切手を貸さなかったことも響いている。
    • 横綱時代でも1場所に何日か一切懸賞が付かない取り組みがあった。
    • 当時ネットがあればどれほど叩かれていたか想像もつかない。
    • 70年代後半には嘗ての流行語だった「巨人・大鵬・卵焼き」をもじって、子供が嫌いなものとして「江川・ピーマン・北の湖」と揶揄されていた。
  2. 現役末期は両国国技館の土俵に上がるためボロボロの体で現役を続けたため休場が多かった。
    • そこまでして迎えた昭和60年初場所でも1勝もできず引退した。
  3. 理事長としても実績を残したが激務がたたり62歳で早世してしまった。
  4. 現役時代(おそらく関取になる前)に部屋の近くで騒いでいる酔っ払いを追い払おうとして逆に凄まれて逃げ帰ったことがある。
  5. 歴代横綱で唯一、取的時代に全敗を経験している。
  6. 強い相手にはとことん強かった(金城/栃光には29戦全勝、豊山にも21戦全勝)が、何故か朝汐→朝潮とは相性が悪く7勝13敗と苦手にしていた。
旭鷲山昇
  1. モンゴル人初の関取となり大相撲とモンゴルの懸け橋となった人物だが、同郷の後輩である朝青龍とはトラブルもあった。
    • その件で朝青龍に車のサイドミラーを壊されたこともある。
  2. 引退の原因に暴力団が絡んでいる。
    • モンゴルの金鉱山利権を二つの暴力団に二重に売ってしまったらしい。
      • 所属していた大島部屋に車が突っ込むという事件も発生している。
    • もっともその件がなくとも心臓がボロボロでこれ以上の現役続行は不可能だった。
久島海啓太
  1. 高校・大学時代に様々なタイトルを獲得したが、角界入りすると腰高で脇の甘い取り口からか三役への昇進は果たせなかった。
    • 平成5年春場所13日目の旭道山戦で、立合いから旭道山の強烈な張り手を一発喰らい土俵の中央で崩れ落ちてしまった。
      • この旭道山戦、実はあのレオパルドンを凌ぐ最短KO記録であったことが判明。(レオパルドンは0.9秒、久島海は0.8秒でKO、水曜日のダウンタウン調べ)
      • 久島海はここまで7勝していながらこの時に膝を打ってしまい休場。負け越してしまい三役昇進のチャンスを逃してしまった。
    • 全体的に番付運にも恵まれなかった。
  2. 引退後は田子ノ浦部屋を創設し、碧山を幕内まで育て上げたが2012年2月に急死。
    • 部屋を継承する親方もおらず田子ノ浦部屋は閉鎖、所属力士は出羽海部屋と春日野部屋にそれぞれ移籍した。
蔵間龍也
  1. 高校を中退し双葉山の時津風部屋に入門するも、直後に師匠が死去したため双葉山最後の弟子となってしまった。
  2. 腰痛に悩まされ思うように活躍できず、「善戦マン」と揶揄された。
    • 北の湖とは17回対戦したものの一度も勝てなかった。
      • 関脇までしか昇進できず、天覧相撲で昭和天皇に「蔵間は必ず大関になります」と大見得を切った春日野理事長の顔を潰してしまった。
  3. 白血病が発覚し引退、芸能界に転身し人気タレントになったが、優勝予想がいつも外れてしまうため現役力士から「俺が優勝するって言わないで下さい」と文句を言われることもあった。
  4. そんなこんなありながらも芸能人として活躍の場が広がりつつあったが、白血病が悪化し42歳の若さで急逝。
  5. 現役時代に四股名を地元・滋賀県の三上山の異名である「近江富士」へ改名する案が持ち上がったが、運悪く三上山で深刻な害虫災害が発生し、縁起が悪いということで立ち消えになってしまった。
    • 地元の後援会が「近江富士は低い山でスケールが小さい」と猛反発してお蔵入りになったという説もある。
琴錦功宗
  1. 速攻を持ち味として大関の有力候補とされたが、自らの不祥事や怪我のため関脇止まりだった。
    • 一部からは「八百長で儲けるためにあえて大関昇進を回避していたのではないか」とすら疑われたこともある。
  2. 引退後は15年にもわたり借株でしのぎ続けた。
  3. 平幕優勝を2度経験した唯一の力士(2024年現在)。最高位が関脇以下だった力士で初の複数回優勝を達成した力士。
小錦八十吉(6代目)
  1. とにかく巨体すぎた。
    • 昭和61年夏場所の北尾(後の双羽黒)戦でつり出そうとしたら自然と鯖折りになってしまい膝を強打し重傷を負った。
    • 飛行機のトイレに入りきらなかったという証言もある。
    • ヨーロッパ巡業の際に訪れたある宮殿でも一人で階段を登れなかったらしい。
  2. 順調に番付を上げていた頃には「黒船襲来」と恐れられたが、とうとう横綱になれなかった。
    • 特に平成3年から4年にかけては3場所合計38勝(優勝2回)という成績を残したが連覇でなかったため昇進を逃した。
    • しかもその件に絡んで付け人に問題発言を捏造され一時は自殺すら考えたという。
  3. 現役最後の場所となった平成9年九州場所では千秋楽に家族を呼んでいたがその前に負け越して休場させられてしまった。

さた行[編集 | ソースを編集]

新海幸藏
  1. しつこい足癖で鳴らし「タコ足の新海」とも呼ばれた力士だが、気性が荒く酒が入ると手がつけられなかったため、力士仲間からは嫌われていた。
  2. 1937年の九州巡業中に、酒に酔って先輩力士をビール瓶で殴ってしまい強制引退。
    • 引退相撲でも祝儀の分配を巡って師匠の出羽海と揉め、師匠を殴ったと言われている。
  3. 廃業後は様々な事業に手を出したが全て失敗し、晩年は川崎のアパートに移り住んで一人暮らしをしていた。
    • 最期も自身が吸っていた煙草の不始末からアパートを全焼させる火災を起こし、自分の部屋で焼死してしまった。
大鵬幸喜
  1. 誤審で連勝を止められた(昭和44年春場所2日目)。
    • なおビデオ判定の導入は翌場所からの予定だった。
    • あの戸田戦が正しく判定されていたら50連勝は間違いなかったという相撲ファンは少なくない。
  2. ライバルだった柏戸とともに拳銃密輸事件で書類送検されたことがある。
    • 当時はあまり騒がれなかったが、没後に某新聞が蒸し返すような記事を載せたこともある。
  3. 引退後には脳梗塞で倒れ後遺症が残ったため理事長への道を閉ざされた。
  4. NHKの相撲解説としては差別発言を複数回してしまったことがある。
  5. 現役時代にタニマチからプレゼントされたヨーロッパ旅行に行った際になぜか女性と間違えられたことがある。
    • 髷が日本髪に見えてしまったのではないかと思われる。
  6. 彼にあやかり「幸喜」と名付けられた人が多かった。脚本家の三谷幸喜もその1人。
隆の里俊英
  1. 糖尿病を克服して横綱になり千代の富士のライバルとも目されたが、病魔により本来の実力を発揮しきれず引退。
    • 最高優勝4回というのは明らかに少なすぎる気がする。
  2. 鳴戸親方としては稀勢の里や高安など多くの名力士を育てたが、自らの目で大関や横綱になるのを見届けることはできなかった。
  3. 千代の富士を倒すために何度もビデオを見て研究し尽くし、ビデオデッキを故障させ修理を受けた担当者から「一体、どんな使い方をしたんだ!?」と呆れられた。
貴闘力忠茂
  1. 1990年に入幕。1994年には幕尻で初土俵から102場所目(歴代2位。当時は歴代1位の遅さ)での初優勝を遂げた。
    • また、大鵬の三女と結婚しており、大鵬との養子縁組も行った。そのため現役引退後は大鵬部屋付きの親方となり、部屋を継承したこともあった。
  2. しかし根っからのギャンブル好きであり、年収の9割を費やすほどの依存症であった。
    • 幼いころはギャンブル依存症の父親のせいでギャンブルが嫌いだったが、初めてやった競馬で大穴を当てたことが切っ掛けでギャンブルにのめり込んでしまう。
      • その結果実に5億円以上ギャンブルで失ってしまった。また、ギャンブルで作った借金はたびたび大鵬に肩代わりしてもらっていたという。
  3. そして2010年、野球賭博に手を出したことが明らかになってしまう。結果相撲協会からは解雇されてしまう。
    • その後大鵬の三女とも離婚し、大鵬との養子縁組も解消。そして大鵬死去後の葬儀へも参列できなくなってしまった。
  4. 今現在も彼のギャンブル依存症は続いている。
高見藤英希
  1. 東洋大学時代に学生横綱、大学卒業後の2003年には実業団横綱を獲得し2004年3月場所で初土俵(幕下15枚目格付け出し)。
  2. 幕下上位で伸び悩んでいたが2007年3月場所でようやく新十両昇進を決めた。
    • 新十両の3月場所は6勝9敗で負け越し、幕下に転落した翌5月場所は4勝3敗と勝ち越して7月場所での十両復帰を決めたが…。
  3. ギャンブル癖のあった高見藤は再十両昇進の給金をあてにし数百万円の借金をしていたことが発覚。
    • 東関親方との口論の末部屋を飛び出し、そのまま引退となってしまった。
玉ノ海梅吉
  1. 師匠玉錦の急逝により二所ノ関親方としての職務も果たす羽目になったため大関になれなかった。
  2. 終戦直後に捕虜徴用の容疑でGHQに捕まったことがある。
    • その時の協会の対応が冷淡だったため親方をやめNHKの相撲解説者に転身した。
玉の海正洋
  1. 北の富士とともに「北玉時代」を築き上げたが、盲腸手術後の血栓症により急逝。
    • 健在なら一代年寄級の実績を残していてもおかしくなかった。
    • 女子プロボウラーとの婚約話も進んでいたらしい。
    • 玉の海死去の知らせを聞いた北の富士は当初は前項の玉ノ海梅吉氏が死去したと思い込んで信じず「ふざけるな!」とブチギレた。
      • そして真実を知った北の富士は人目をはばからず号泣したという。
  2. 父親は在日コリアンだったが存命中にその事実を明かすことができなかった。
    • 弟が暴力団員となった後、×××××で逮捕されたため、出自や家族については隠されていった。
鶴ヶ嶺昭男
  1. 井筒親方として自らの息子3人を関取にし霧島を大関にまで育て上げたが、晩年は寂しいものだった。
    • 内縁の妻が金遣いが荒い人物だったせいで慢性的な金欠状態だったという。
    • 息子の逆鉾や寺尾とも不仲だったという。
  2. 本人は77歳で死去し、元力士としては割と長生きだったが、息子たちは3人とも60歳前後で死去した。
出羽ヶ嶽文治郎
  1. 身長2mを超え昭和初期の大相撲を代表する人気力士だったが、本人はその巨体を恥じるところがあった。
    • 当時のラジオ放送で「総身に知恵が回りかね」などと茶化されたのも効いていると思われる。
    • 実際のところ巨人症のせいで骨がボロボロだった。
  2. 同時代に取っていた天竜三郎は「出羽海一門の宣伝で誇大評価されていたのではないか」と評している。
  3. 関取から転落した後は部屋で肩身が狭い思いをしていた。
    • 今でいうパワハラまがいの行為の標的にもされたという。
    • 引退後も巨体のせいで煙たがられていたとか。
栃乃和歌清隆
  1. 明治大学から幕下付出で角界入りし大関も期待されたが、攻めの遅さや怪我のせいで関脇止まりだった。
    • 武蔵丸に一度も勝てなかったことも響いている。
    • 千代の富士にも勝てなかった。
  2. 春日野親方としては大関も育てているが、その一方で弟子への暴力事件や保護責任者遺棄も明るみに出ている。
    • なぜかマスコミにほとんど取り上げられていないのが謎。
  3. 唇が分厚いためついたあだ名は「オバQ」。
栃乃若導大
  1. 報徳学園高校3年生時には高校横綱に輝くなど実績を残し、2007年初場所で初土俵を踏んだ。
    • 初土俵の時には「最終的には李(栃乃若の本名)が全員追い抜くよ」と予測した親方が数人いた。
    • 因みに入門時の四股名は「李」と大相撲史上最も短い四股名で、呼び出し泣かせと話題になった。
  2. 初土俵後はとんとん拍子の出世も幕下で壁にぶつかり、十両昇進は2年もかかった。
  3. 十両昇進後は3場所で新入幕を決めたが八百長問題で2011年の春場所が中止となってしまい、ご当地での新入幕を逃してしまった。
  4. 翌2012年の春場所では最高位となる西前頭筆頭まで番付を上げたが、その後は一進一退の成績を続け2014年12月に電撃引退。
    • 引退会見では春日野親方の指導に最後まで馴染めなかったことを告白。春日野親方も「栃乃若の疑問や苦労に気づけなかった私が不甲斐ない」と悔いていた。
  5. 幕内で2回一本背負いで負けたことがある(2011年9月場所5日目・磋牙司戦と、2014年1月場所12日目・里山戦)。
豊嶌雅男
  1. 双葉山を2度倒すなど戦時下の大相撲で活躍した人気力士だったが、昭和20年3月10日の東京大空襲で命を落とした。
    • 東武伊勢崎線高架下の隅田川で岸辺につかまり猛火から逃れようとした姿のまま遺体となって見つかった。
    • 没したときにはまだ25歳だったためあの戦争を生き延びていればどれほどの実績を残していたことやら…。
  2. 同じ出羽海部屋の横綱安芸ノ海は「生きていたら横綱は間違いなかった」と評しているが、意外と苦手力士が多かったという。
    • 羽黒山には6戦6敗とまったく勝てなかった。
鳥羽の山喜充
  1. 運動経験なしから角界入りし入幕を果たすが、新入幕初日(平成14年春場所)の朝稽古で膝を負傷し幕内の土俵には立てなかった。
    • その後も幕内復帰を目指し取り続けたが2015年に無念の引退。

なは行[編集 | ソースを編集]

南海龍太郎
  1. 西サモア(現サモア独立国)から入門し「サモアの怪人」と呼ばれ期待されたが、酒癖の悪さで力士人生を棒に振った。
    • 一度飲み始めるとビール100本は軽く飲み干すという底無しの飲みっぷりだった。
    • 酒乱でホテルマンに暴力をふるったり二日酔いで本場所を休場したりと数々の問題行動を起こし廃業に追い込まれた。
      • 酒と相撲のどちらかを取るか迫られ酒を選んでしまった。
  2. 引退後にプロレス入りしたが、こちらでも酒絡みの問題を起こしリングに立つことなく帰国した。
長谷川勝敏
  1. 私生活では食中毒や航空事故での死の危機を何度も回避しているが、番付運には恵まれなかった。
    • 関脇を通算21場所も務めたがとうとう大関に上がれなかった。
      • 昇進時に出す予定だったレコードも引退記念として出すことになった。
      • 引退会見でも大関への未練をはっきり口にしていた。
  2. 年寄としても引退時期の関係で佐渡ヶ嶽襲名のチャンスを逃している。
双羽黒光司
  1. 戦後で唯一の優勝経験なしの横綱。
    • 力士生活を通して最高優勝がないというのは横綱としては異例すぎる。
  2. 幕下時代から素行が最悪で実家に逃げ帰ることも普通にあった。
    • 最終的におかみさんへの暴力行為により引退に追い込まれる。
    • 後世の相撲ファンにとっては不祥事のイメージしかない。
    • 当時発売された「つっぱり大相撲」(FC)での変名が「大腹黒」だったのが妙に納得できる。
    • 横綱になってからも付け人をモデルガンやペーパーナイフの標的にして遊んでいたという。
      • 付け人の双羽黒に対する不満が高まり、巡業先で集団脱走されてしまった。
      • 元付け人は双羽黒が廃業したニュースを聞いて「来るべき時がついに来た!」と言ったそうだ。
      • 相撲漫画家の琴剣が現役時代に立浪部屋の力士と会って、顔中絆創膏だらけだったため、「どうしたの?」と聞いたら「横綱にやられた」と答えた。
  3. 引退後はプロレスラーに転身したが、相手を八百長野郎呼ばわりし実質的にプロレス界からも追放されてしまった。
  4. その後は総合格闘技に挑戦したり、古巣立浪部屋のアドバイザーを務めたりしたもののどれも長続きせず、病気を患い50代で死去。
  5. ちょっとした怪我でもすぐ休場するため、横綱になってからもその傾向が続いた。

ま行[編集 | ソースを編集]

前田山英五郎
  1. 大関時代は張り手を得意として大暴れしていたが、横綱になってからはろくな実績が残せなかった。
  2. 本場所を休場中に来日したサンフランシスコ・シールズの試合を見に行ったことがばれ、引退に追い込まれた。
  3. 横綱昇進時に「粗暴の振る舞いこれありし、時には自責仕る可く候」という但し書きを横綱免許状に付けられてしまうほどの暴れん坊。
    • 現代語訳すると「暴力的な行動がみられるため自覚が必要」といったところ。
  4. ただ引退後は朝潮(3代目)を横綱に、前の山を大関に昇進させるなど育成能力は高く、一時期は高砂部屋所属の力士が幕内で最多人数を数えたこともあった。
    • またアメリカ巡業の実施や高見山の入門、出羽海一門を破門された九重(千代の山)を受け入れるなどの功績を残している。
枩浦潟達也
  1. 色白の二枚目力士として知られ戦時下に幕内上位で活躍していたが、東京大空襲で新婚の妻とともに犠牲になった。
    • しかも豊嶌とは異なり遺体すら確認されていない。
      • 目撃証言から本所の自宅付近で消火にあたろうとしたが激しい火災のため断念し、深川方面へ避難途中に焼死したものと推測されている。
    • 遺品も自宅とともに燃えてしまったせいか今や出身地の唐津でもほぼ知る人はいない。
男女ノ川登三
  1. 一時期、高砂部屋伝統の「朝潮」を名乗っていたが、春秋園事件に連座したことが親方の逆鱗に触れ、四股名を剥奪されてしまった。
  2. 四股名を「男女ノ川」に戻した後は調子を戻し、1936年夏場所後に横綱に昇進。
    • しかし春秋園事件前に痛めた関節炎の影響で強弱の差が激しく、横綱時代は双葉山に全く歯が立たなかった。
      • 横綱時代の対双葉山戦では一度も勝てなかった。
  3. 1938年夏場所千秋楽では武藏山と対戦するが、両者とも横綱でありながら6勝6敗同士で勝ち越しと負け越しを掛けた一番という悲壮な対戦となってしまった。
    • 男女ノ川はこの一番に敗れて、横綱の皆勤負け越しという不名誉な記録を作ってしまう。
  4. 引退後は一代年寄制度で年寄・男女ノ川を襲名して相撲協会の理事に就任したが、自宅の庭に作った農園の経営に熱中し、相撲協会を去った。
    • その後は様々な職を経験するも長続きせず、不遇な晩年を過ごした。
  5. 最晩年は武蔵村山市の料亭で下足番をしていたが、1971年に脳出血のため都内の病院で死去(67歳)。
武藏山武
  1. 新十両・新入幕・新三役で当時の最年少記録を樹立、近代的な容貌、筋肉質の体型等で人気が高く、武藏山を題材にした応援歌まで作られた。
  2. ところが昭和6年秋場所9日目の沖ツ海戦で強烈なぶちかましを右肘に受け、それまでの最大の武器だった右腕の怪力が失われてしまった。
    • 大関昇進後は後遺症に苦しんで充分に相撲が取れず、休場が相次いで優勝争いに加わることすら出来なかった。
  3. それでも昭和10年春場所・夏場所と好成績を残し、夏場所後に第33代横綱に昇進。
    • しかし横綱昇進後は前述の肘の故障が更に悪化、胃酸過多症もあって休場がちで、皆勤したのは1938年夏場所のみ。
      • 幕内での最高優勝は小結時代の1回のみだった。右肘の故障が無ければ…。

やらわ行[編集 | ソースを編集]

露鵬幸生
  1. ロシア出身力士では初めて三役まで昇進したが、とにかく気性が荒かった…。
    • 2006年7月場所7日目の取組後に九重審判部副部長から厳重注意を受けた後に風呂場のガラスを拳で割り、それを撮ろうとしたカメラマン2人を平手で殴打、1人に打撲を負わせる事件を起こし3日間の出場停止処分を受けてしまった。
  2. 2008年9月場所直前に抜き打ちの尿検査で大麻の陽性反応が検出され、弟の白露山共々相撲協会から解雇されてしまった。
若嶋津六夫
  1. 諸方面から「次の横綱」と期待され続けたが、取り口や恵まれない体格などのせいでとうとう昇進できなかった。
    • 2度目の綱取りがかかっていた昭和59年秋場所では11勝4敗と健闘するも多賀竜の大活躍もあり昇進を逃した。
      • しかも多賀竜戦には八百長疑惑まで出ている。
  2. 還暦を迎えた直後に路上で転倒し一時は死の淵をさまよった。
  3. 現役時代に焼き肉12人前を平らげるも店を出るなり戻してしまったことがある。
若ノ鵬寿則
  1. 身長195cm・体重162kgという恵まれた体格、所要11場所での十両昇進(初土俵からの負け越しなし)を果たすなど将来性は評価されていた。
  2. しかし立合いの変化が多く、平成19年初場所の5勝中、3勝が立合いの変化で挙げた白星だった。
  3. また言動も粗暴で、平成20年夏場所8日目に安馬(後の日馬富士)に豪快なうっちゃりで敗れた後、悔しさの余り部屋の風呂場の壁を叩き割り、風呂桶を壊すなど暴れて厳重注意を受けてしまった。
  4. 平成20年名古屋場所後に大麻所持で検挙され、相撲協会から解雇されてしまった。
若羽黒朋明
  1. しつこい押し相撲で大関まで昇進したが、大の稽古嫌いが響き大関在位13場所で陥落。
  2. 柏戸・大鵬が優勝した場所で土を付け「オレは柏鵬の反逆児」と発言したが…。
  3. 廃業後の1965年にハワイから拳銃を暴力団へ密輸入していたことが発覚し、逮捕されてしまう。
    • 柏戸・大鵬・北の富士らが書類送検される拳銃密輸事件のきっかけを作ってしまった。
  4. 刑務所を出所した後、嘗てのファンの誘いで岡山市内の相撲料理店の副店長に就任、心機一転してよく働いたが、1969年に脳塞栓症のため岡山市内の病院で急逝した。34歳の若さだった。
輪島大士
  1. 日本大学から花籠部屋に入門し、あっという間に横綱に上がった。
    • 貴ノ花とともに「蔵前の星」と呼ばれ、北の湖と一時代を築いた。
  2. 名古屋場所では宿舎に寝泊まりせず、ホテルに寝泊まりしたため、「部屋頭の自覚がない」と指摘された。
  3. 現役時代から芸能人やスポーツ選手と交流し、銀座で豪遊していた。
  4. 大ノ海の娘と結婚し、花籠部屋を継いだが、親方になってからも銀座で豪遊し、朝帰りも珍しくなかった。
    • 元妻の暴露本によれば、部屋に寝泊まりせず、マンションで生活していた。
  5. 親方時代に年寄株を借金の担保に入れていたことが発覚、それで相撲界を追われることとなった。
  6. 廃業後、プロレスラーになったが、長続きしなかった。
  7. バラエティ番組に出演時の発言のテロップには、必ず最後に「?」が付く。(例:「マグロ?」)
  8. 学生相撲出身、初土俵が幕下付出で横綱に昇進した唯一の力士(2024年現在)。

本場所[編集 | ソースを編集]

昭和七年一月場所
  1. 春秋園事件の影響によりほとんどの幕内力士がごっそり抜け開催延期に。
    • 特に西方は首謀者の天竜と同じ出羽海一門だったため、大関武蔵山しか残らなかった。
  2. 十両どころか幕下上位まで平幕に持ち上げて無理やり開催したがほとんど儲からなかった。
昭和二十年十一月場所
  1. 敗戦後初の本場所でGHQの圧力により広めの土俵で行われた。
    • しかし力士たちから不満の声が上がり1場所限りで戻された。
    • この場所後の双葉山引退の原因になったのではないかという声もある。
昭和三十年九月場所
  1. 仕事帰りのサラリーマンを狙って中入り17時半、打ち出し20時というナイター興行だったが不評により今場所限りで取りやめ。
    • いつもの場所とリズムが変わり体調不良の力士が続出。
    • 全国紙の遠隔地域版には締め切り時刻の関係で中入り後の結果が載せられなかった。
平成十二年三月場所十日目
  1. 時津海対追風海戦と千代天山対安芸乃島戦の二番が取り直しになった影響で、NHKの大相撲中継が4分間延長。
  2. この日はBS2で『カードキャプターさくら』の最終回が放送されたが、この4分の延長で最終回の最後のシーンを録画できなかった人が続出。
  3. 所謂「武蔵丸の悲劇」。
大相撲平成二十二年七月場所
  1. 直前に発生した野球賭博問題の影響で、NHKの大相撲中継が中止に。
  2. 賭博問題の影響で大関琴光喜が解雇。18人の力士が謹慎休場となった。
平成二十三年五月技量審査場所
  1. 七月場所への番付編成のために開催された場所。
    • 天皇賜杯を含む外部からの表彰・取組に懸けられる懸賞金は辞退。
    • 呼出の着物に掲載される広告・力士幟は自粛。
    • NHKの大相撲中継も中止された。
      • 但し、今後の記録資料のための実況収録は通常通り行われた。
    • 「本場所ではない」との理由で、優勝額も作成されなかった。
大相撲平成二十七年一月場所
  1. 白鵬が史上初の全6場所全勝制覇を成し遂げた場所だったが、十三日目の稀勢の里戦が撮り直しになったことに対して審判批判を展開し物議を醸した。

関連項目[編集 | ソースを編集]