ざんねんな野球事典

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分割済み

人物

審判

マイク・ディミュロ
  1. 「日米間での野球の交流」「審判技術の向上」を目標としたセ・リーグがMLBに依頼し、1997年に来日。
  2. ところがディミュロのストライクゾーンは当時の日本野球のストライクゾーンとかなり違っていたり、当時の日本で採用されていた審判員の立ち位置に関する取り決めに戸惑い他の審判員との連携が上手く取れなかったことで、現場からは不満が続出。
    • ディミュロを招聘したセ・リーグの川島会長(当時)は彼の擁護に努めたが…。
  3. 1997年6月5日の中日対横浜戦(長良川)で判定に抗議した中日の大豊泰昭を退場処分した際に、大豊とコーチ数名と星野監督がディミュロを取り囲み、バックネット方向に追い詰めるという事態となった。
  4. 集団で猛抗議されたことに大きなカルチャーショックを受けたディミュロは試合後、「自分のアンパイアとしてのキャリアの中で経験したことのない恐怖感を覚えた」とコメント。翌日セ・リーグの事務局に辞表を提出した。
    • 事務局は慰留に努めたが、この一件がアメリカで大きく報じられ、MLBも日本に審判員を派遣するメリットがないと判断し、セ・リーグの事務局にディミュロを帰国させるよう要望し、セ・リーグは止むなくディミュロの辞表を受理。
  5. MLB復帰後も微妙な判定が多かった。
    • 2008年5月25日のヤンキース対マリナーズ戦の2回裏、2打席連続の見逃し三振の判定にイチローが抗議。
      • これに呼応して判定に異議を唱えた監督のジョン・マクラーレンに対して主審のディミュロは退場を宣告した。
    • 試合後イチローは「あの審判こそ退場すべき」「大豊さんの気持ちが分かった」と発言。
    • メジャーで初めて「チャレンジシステムで誤審が判明した」審判でもある。
  6. ディミュロの帰国後、現在まで日本プロ野球では外国人の審判員を採用していない。
    • また、ディミュロの審判員としての袖番号の「4」もディミュロ以降つけた審判員がおらず、事実上の永久欠番となっている。

代理人

ジョー・スローバー
  1. 1995年にケビン・ミッチェルの代理人をつとめる。
    • しかしそのミッチェルは、大リーグ時代から素行が悪く仮病で練習をサボるのは当たり前。
    • ホークスでも数試合出場しただけで仮病や無断帰国等の問題を起こし、退団の際に年俸をめぐって裁判沙汰。
  2. 1997年にはマイク・グリーンウェルの代理人をつとめるが…
    • グリーンウェル獲得を検討していた近鉄が獲得を断念したのは、スローバーが代理人であったことが最大の理由。
    • 阪神と契約の際も、グリーンウェルのマンションを2倍の広さにするよう要求したり、そのグリーンウェルがキャンプで怪我したためしばらく来日できないことを一方的に伝える等したため、当時の阪神球団常務取締役は彼に対する警戒心は最後まで解けなかったとのこと。

球団フロント

ジョージ・スタインブレナー
  1. 1973年にニューヨーク・ヤンキースのオーナー職に就き、札束攻勢で他球団の有力選手を次々と獲得し1977年・1978年とワールドシリーズを連覇。
  2. しかし翌年の1979年以降はワールドシリーズ制覇から遠ざかり、ストライキでシーズンが中断された1981年から1996年までは地区優勝すらない長期低迷の時代を迎えることになる。
  3. 監督をよく交代することでも知られ、1973年のオーナー就任から1996年のジョー・トーリの監督就任までの23年間で、延べ18人がヤンキースの監督を務めた。
    • 特にビリー・マーチンはこの間に5回監督に就任し、その都度スタインブレナーと対立して解雇された。
  4. 1990年にはデーブ・ウインフィールド選手のトレードに関して不利な情報を流したことが発覚し、オーナーの資格の永久停止処分(後に2年に短縮)が科せられた。
    • その処分のニュースが試合中のヤンキー・スタジアムに流れた時には、タイガースの攻撃中にも関わらずヤンキースファンが総立ちで拍手。
      • 打席のセシル・フィルダーがホームランを打つまで数分間拍手が鳴り止まなかった。
  5. 1992年に資格停止処分が明けるとオーナー職に復帰。身の丈にあった札束攻勢を仕掛け1996年と1998年~2000年と合計4回のワールドシリーズ制覇を果たす。
    • 一方で資格停止処分中にヤンキースが若手の育成に方針を切り替えた際に入団・成長したデレク・ジーターやマリアーノ・リベラ、ホルヘ・ポサダらが主力選手になっていたから4回もワールドシリーズ制覇が出来た、という見方もある。
    • 1997年にはゴタゴタの末にロッテから伊良部秀輝を獲得。デビュー戦で初登板初先発初勝利を挙げた際には「和製ノーラン・ライアンだ」と大絶賛したが…。
  6. ヤンキースタジアムのライトスタンドでは選手への野次について余りにもキツいものは自主規制される習慣があるが、「スタインブレナーへの野次については例外」という不文律が存在していた。
高塚猛
  1. 岩手県内のダイエーの関連ホテルの経営を再建した手腕を買われ、1999年から福岡3点事業(福岡ダイエーホークス・福岡ドーム・ホークスタウン)の再建を託された。
    • 高塚はロゴマークの著作権フリー化や九州出身選手(城島健司・松中信彦など)を前面に押し出したPRを展開。
      • 福岡ドームなどの建築によって生じた44億円の赤字を15億円の黒字に転換することに成功し、高塚の名は「平成の再建請負人」として広く知れ渡ることになった。
  2. しかしその一方でホークスの主力選手とは折り合いが悪く、1999年には同年の日本シリーズMVPを獲得した人気選手の秋山幸二を減俸。
    • 同じく人気選手の工藤公康に対しては「登板日の火曜日は客の入りが悪い」と言い放ち、工藤のFAによる巨人への移籍を決定的なものにしたと報じられた。
  3. そして2003年、ホークスの優勝パレード翌日に小久保裕紀を巨人へ無償トレードで移籍することを発表。
    • 小久保はこの年、開幕前のオープン戦で右膝を大怪我しシーズンを棒に振っていたが、それでもチームリーダーの小久保の無償トレードは球界全体に大きな衝撃を与えた。
      • ホークスの主力選手は優勝旅行をボイコット。松中信彦は「球団に『ふざけるな』と言いたい」「この球団は勝ちたくないんでしょうね」、斉藤和巳は「日本一の球団がやることじゃない」とコメント。
    • 無償トレードの理由に関しては「高塚の公私混同とも言える行動に小久保が苦言を呈したことへの報復」「右膝の大怪我に対する高塚と小久保の対立」などが推測されている。
  4. 高塚はその翌年に女性社員への強制猥褻が発覚し逮捕。その後裁判で懲役3年・執行猶予5年の判決を受け、2017年に慢性肝不全のため死去。
    • 小久保は2006年のオフにFA権を取得し、王貞治監督や孫正義オーナーの強い意向もあり2007年にソフトバンクに復帰している。
渡辺恒雄
  1. もはや説明不要。読売巨人軍のオーナーとして君臨、様々な残念エピソードを残した。

試合・シーズン展開

プロ野球

シーズン

ざんねんな野球事典/シーズン展開

試合

1956年5月20日 プロ野球セ・リーグ公式戦 広島対巨人(広島総合球場)
  1. 山口での試合は巨人が勝利し、場所を広島に移してのダブルヘッダー。第一、第二双方ともに巨人が大勝し、広島の三連敗となってしまった。
  2. これにフラストレーションを爆発させた広島ファンがスタンドからビール瓶を投げ込み、それがグランドからベンチへ引き上げようとしていた巨人の投手木戸美摸の右足に命中、膝下を2針縫うけがを負った。
  3. そのあとさらに広島ファンが巨人の水原茂監督に暴行を振るったこともあって、巨人側は「ビール瓶を投げ込んだ犯人を出さない限り、広島では二度と試合はしない」と通告。広島側が陳謝し、後の総理大臣である池田勇人(広島選出)が仲裁に乗りだしたものの、事態は収拾せず、広島のセ・リーグ脱退さえも危惧された。
  4. その後「犯人」と名乗る人物が現れたためやっと事はおさまったものの、のちに替え玉であったことが判明、それどころかさらに別人が替え玉となって出頭していたという(出頭した人物は結局注意だけで刑事事件にはなっていない)なんとも情けない結末を迎えている。
1971年7月13日 プロ野球パ・リーグ公式戦 阪急対ロッテ(阪急西宮球場)
  1. 7回表のロッテの攻撃での江藤慎一のハーフスイングの判定を巡って、ロッテの首脳陣が抗議を行ったが判定は覆らず。
    • その後ロッテ側が試合の続行を拒否したため、審判団は放棄試合を宣告した。
  2. 3年前の1968年に「放棄試合・没収試合は厳禁」という規定が出来ていたこと、更にこの試合は阪急の主催試合だったということもあり、ロッテ球団はNPBに制裁金・弁償金などを合わせ約500万円以上を支払うことに…。
  3. 放棄試合の責任を取り濃人渉監督は二軍監督に降格。後任監督には二軍監督だった大沢啓二が入れ替わりで就任したが、1972年オフに成績不振を理由に解任となってしまった。
    • 事件の発端となった江藤慎一はこの年首位打者のタイトルを獲得したにも関わらず、シーズン終了後に大洋ホエールズにトレードされてしまった。
  4. なお、この試合を最後にNPBの一軍公式戦では放棄試合・没収試合は発生していない。
1975年9月10日 プロ野球セ・リーグ公式戦 広島対中日(広島市民球場)
  1. 初優勝に向けて驀進する首位広島と逆転優勝でV2を狙う2位中日とがぶつかる決戦。
  2. 9回裏2アウト、山本浩二のセンター前ヒットで2塁ランナーの三村敏之がホームへ突入するも、中日のキャッチャー新宅洋志がブロック、三村の顔にタッチしてアウト、4対5で中日が逃げ切った。
    • このタッチに三村が激怒、両軍選手およびファンも入り乱れての乱闘となり、中日選手の数人が負傷。さらには「安全を保証できない」という理由で翌日、翌々日の試合が中止になるという事態となった。
1975年10月19日 プロ野球セ・リーグ公式戦 広島対中日(広島市民球場)
  1. 広島優勝が決まった後の消化試合である広島対中日の最終戦。しかし首位打者争いはまだ決着していなかった。
  2. 打率首位を行く山本浩二(広島)を井上弘昭(中日)が僅差で追いかけていたのだが、広島は山本に首位打者を獲らせるべく山本を欠場させ、さらには井上に対してプロ野球公式戦初の「満塁での敬遠」を行った。
  3. その後結局1975年セ・リーグの首位打者は山本浩二と決まったが、後味の悪い試合となってしまった。
1982年10月18日 プロ野球セ・リーグ公式戦 大洋対中日(横浜スタジアム)
  1. この試合がシーズン最終戦の中日は、引き分け以上なら優勝という大一番。
    • さらに首位打者争いも長崎啓二(大洋)と田尾安志(中日)の差が僅かに1厘差という状況で迎えた1戦。
  2. 大洋は長崎を試合に出さず、一方で田尾に対しては5打席連続敬遠を行った。
    • この行為に対し、田尾は5打席目で敬遠球に対し抗議の意味を込めた空振りを行ったほどだった。
  3. 試合はランナーとして出塁した田尾が失点に絡むケースもあり0-8で大洋が大敗。この結果、中日の優勝が決まったが…。
  4. ファンからは「イニングの先頭打者である田尾へ敬遠した大洋の行為は敗退行為ではないか」と連盟に抗議が集中する事態となった。


1991年6月18日 プロ野球セ・リーグ公式戦 中日対大洋(ナゴヤ球場)
  1. 6-6で迎えた延長10回裏に中日・彦野利勝がレフトにサヨナラホームランを打ったが、一塁ベースを回った所で転倒。
    • 脚を痛めて走塁ができなくなり、代走の山口幸司がホームインした。
  2. 彦野の怪我は当初捻挫と診断されていたが、その後の検査で右膝の靭帯が断裂していることが判明、長期離脱を余儀なくされてしまった。


2007年10月6日 プロ野球セ・リーグ 広島対横浜
  1. この試合は佐々岡真司の引退試合だったが、佐々岡が登板した9回表に村田修一が36号ホームランを放った。なお、このホームランは村田の本塁打王を決定付けるものだった。
    • 佐々岡は「真剣勝負をしてくれて気持ちよかった」とコメント。
2008年10月12日 プロ野球セ・リーグ ヤクルト対横浜
  1. ヤクルトの4選手の引退試合だったのにもかかわらず、またしても村田修一が7回表に46号3ランホームランを決め、これが村田の本塁打王を決定付けた。この46号が、横浜ベイスターズの年間のホームラン記録を塗り替えるものとなった。
    • この村田のホームランでヤクルトの先発・高市俊の勝ち星が消滅。高市はその後プロでの勝利がないまま引退。
2010年9月30日 プロ野球セ・リーグ 阪神対横浜
  1. この試合は阪神・矢野燿大の引退試合で、9回表2アウトの時点で阪神が勝ち越していれば矢野が捕手として出場する予定だったのが、9回表に横浜・村田修一が3ランホームランを放ち横浜が3対4で逆転。矢野は出場できなくなってしまった。試合は3対4で横浜が勝利。
  2. なお、試合後に行われた矢野の引退セレモニーで花束を贈呈したのは村田修一だった。
  3. この試合のサンテレビでの実況中継で 「行くな、行くな、越えるな!」 が話題となった。
2012年10月8日 プロ野球パ・リーグ ソフトバンク対オリックス
  1. この試合はソフトバンク・小久保裕紀の引退試合だったが、オリックスの先発である西勇輝がノーヒットノーランを達成。
  2. なお、このノーヒットノーランは平成生まれの選手では初記録となった。
  3. 小久保は試合前に「真剣勝負がしたい。最後だから全部真っすぐとかはやめてほしい」とコメントしていたが…。
2017年10月1日 プロ野球セ・リーグ 巨人対阪神
  1. この試合に巨人が4-5で敗れ、さらにDeNAが広島に13-7で勝利したため、巨人は初めてクライマックスシリーズ出場を逃すこととなってしまった。
    • その際にDeNAの応援団が二次会で「読売一生Bクラス!」コールをしたのが有名である。
    • 横浜DeNAの先発だったウィーランドが5回7失点だったのに勝利投手になるし(本人は凄く不思議な気持ちになった)、3ランホームランをかましてしまった。
    • ちなみに2010年代において、巨人がBクラスになったのはこの年が唯一である。

日本シリーズ

1975年の日本シリーズ
  1. 広島東洋カープが初めて出場した日本シリーズであったが、剛腕:山口高志を擁する阪急ブレーブスに4敗2分と1勝も出来ずに敗退した。
    • おかげで重松清の小説「赤ヘル1975」でも、日本シリーズについてはほぼ書かれていない。
1989年の日本シリーズ
  1. 第3戦までに近鉄が3連勝するも、加藤哲郎の発言が 「巨人はロッテより弱い」 と報道されてから、巨人が4連勝して逆転優勝を収めた。
    • 加藤曰く、第3戦の試合後のダッグアウトであるスポーツ新聞の近鉄の担当記者から「(巨人は)ロッテより弱いんちゃうの?」と振られ、「あれだけええピッチャーおったら(リーグ)優勝するで。でも打線はアカンなぁ」と答えたら、後半の部分だけがいつの間にか「巨人はロッテより弱い」という話にすり替えられたと後に主張している。
2000年の日本シリーズ
  1. 福岡ドームで第3戦から第5戦が開催される予定だった10月24日から10月26日にかけて、別のイベント(日本脳神経外科学会)が開催された影響で、東京ドーム2連戦→休養日なしで福岡ドームで第3戦→2日間中断→福岡ドーム2連戦→休養日なしで東京ドームで第6戦(巨人の日本一が決定)という変則日程になってしまった。
2005年の日本シリーズ 阪神ロッテ
  1. トラキチにとっては非常に最悪な結果に(33-4)。
  2. 第4戦以外はすべてロッテが10点とって勝利した。
2014年の日本シリーズ 第5戦 阪神対ソフトバンク
  1. トラキチにとっては悪夢以外の何物でもない。阪神の西岡剛が一塁へゴロを放つとファーストがバックホームで2死を取り、再びファーストへ投げたが、ファーストが捕球できず、外野へ転がる間にランナーが帰ったが併殺プレーにおいて西岡がラインの内側を走ったことによる守備妨害でアウトとなり、そのままソフトバンクの日本一が決定。
    • 西岡は2005年の日本シリーズでも活躍し、2度阪神を苦しめたとの皮肉も。

その他

セ・パ交流戦
  1. パ・リーグの強さが顕著になり、セ・リーグが勝ち越せたのは2009年のみ。
    • 交流戦優勝球団もパ・リーグ球団が12回 (うちソフトバンクが8回) 。
    • その究極と言えるのが2010年で1位から6位をパ・リーグが占めた。
  2. 2015年から2018年まで、交流戦で勝ち越したリーグがドラフト会議で優先的に指名できるルールだったのが、4回ともパ・リーグが勝ち越したこともあり、1年おきに交互に優先権が与えられるルールに変わった。
  3. その交流戦も、前半期のみにしか開催されず、オールスターゲーム以降の後半戦で開催がないのも残念このうえなく、面白みがない。
クライマックスシリーズ
  1. 一昔までは「リーグ優勝=日本シリーズ出場」という図式だったのに、いつからか導入されたこのクライマックスシリーズにより、必ずしも「リーグ優勝=日本シリーズ出場」と一致しなくなったため、ちぐはぐになって面白くなくなったと嘆くファンもいるが、何が面白いのか理解できない。
2015年のセ・リーグ
  1. 交流戦でパ・リーグに大きく負け越し、7月にはリーグ全球団の勝率が5割未満になる異例の事態が発生した。
2015年のパ・リーグクライマックスシリーズファイナルステージ ソフトバンク対ロッテ
  1. CSファイナルでは3度目となるソフトバンク対ロッテ。前回(2010年)は同年3位のロッテがパ・リーグ優勝球団のソフトバンクに勝利しており(あの「史上最大の下剋上」のシーズン)、さらにCSの前身であるパリーグプレーオフ(2005年)においても同年2位のロッテが同年1位のソフトバンクに勝利していた。
  2. しかもそれが5年周期であったことから「下剋上」・「ゴールデンイヤー」と銘打ったロッテであったが、パ・リーグ優勝球団のソフトバンクに3連敗し敗退を喫した(アドバンテージ分を除く)。
2019年のパ・リーグクライマックスシリーズファイナルステージ 西武対ソフトバンク
  1. パ・リーグ優勝球団の西武が、同年2位のソフトバンクに4連敗し敗退。ファイナルステージで (アドバンテージを除き) リーグ優勝球団が4連敗するのはパ・リーグで初めて (セ・リーグでは2014年に前例あり) 。
    • なお、西武は昨年度も同じくCSでソフトバンクに敗退したため、2年連続でパ・リーグ優勝球団が日本シリーズに出られないこととなった。
2014年度日本プロ野球新人選手選択会議 (2014年プロ野球ドラフト会議)
  1. 中日ドラゴンズが社会人の有力野手4人を獲得するなど即戦力重視の方針で指名したものの、2018年まで誰一人として一軍でまともに活躍できず批判が殺到。
    • 即戦力外ドラフトと揶揄された。
  2. ヤクルトも同じ年に即戦力重視の指名を行ったが、たった3年でドラフト1位含む5人+育成1人が戦力外。残る2人も2019年と2020年に戦力外となり全滅した。
    • ある意味こっちのほうが悲惨だが即戦力外ドラフトだと言われないのはなぜだろう。
  3. 同じ年の楽天のドラフトも僅か4年で3位以下の5人の内4人が戦力外となっており、残り1人も「即戦力」の期待に応えられているかというと…。
2000年代前半のダイエー対オリックス戦
  1. この時期のプロ野球は極端に飛ぶボールを採用していたことでホームランや点数がとにかく入りやすかった。
  2. この時期、30本カルテットや100打点カルテットを擁し、ダイハード打線と呼ばれたホークスと、投手力に不安のあったオリックスがぶつかると、大変なことになっていた。
  3. 毎度のように2桁得点だった気がする。
  4. そのもっとも極端な例が29対1の試合である。それも序盤に集中して点をとったため、一時はどうなることかと思った。
  5. オリックスの名誉のためいっておくと、当時の極端な打高投低では、二桁得点は珍しくなかった。また、オリックスの谷・セギノール・シェルドンのクリーンアップも破壊力があった。

高校野球

2006年春の選抜高校野球大会
  1. 前年夏の甲子園・秋の明治神宮大会優勝の優勝候補筆頭・駒大苫小牧が出場辞退したせいでどこが優勝しても「ナンバー2を決める大会」になってしまった。
  2. 決勝の横浜対清峰は21-0という記録的大差がついてしまい最後まで後味の悪い大会になった。
2011年春の選抜高校野球大会
  1. 東日本大震災で中止も検討された中、なんとか開催にこぎつけるも入場行進中止、鳴り物禁止、延長戦なし、終盤の逆転劇なし、ナイターなし、サヨナラゲーム1試合だけという非常に盛り上がりに欠ける大会に。
  2. 被災地からの出場で被災後数日連絡が取れてなかった東北高校は、全国から大声援を受けるも初戦で大垣日大に0-7で完敗。
    • 東北に勝利した大垣日大の学校や宿舎に(上記の明徳義塾のような)苦情電話が殺到。続く2回戦で大垣日大の選手は本来のプレーができず東海大相模に5-13で完敗。
    • なお優勝したのはその東海大相模。
2012年夏岩手大会決勝 花巻東対盛岡大付
  1. 3回表一死一・ニ塁の場面で、盛岡大付の選手が放ったレフトポール付近の打球を三塁塁審が本塁打と判定。
    • 花巻東の伝令が「ファウルじゃないのか」と抗議したが判定は覆らず。
      • 試合は3-5で花巻東が敗れた。
  2. この試合は岩手大会の準決勝で、アマチュア史上初となる160km/hを記録した大谷翔平の最後の夏の甲子園出場をかけた試合だったため注目度が高く、翌日のスポーツ紙は「大谷、審判の誤審に泣く」「花巻東、誤審の前に消える」などと誤審と決めつけるような見出しに。
  3. 岩手大会を優勝した盛岡大付も1回戦で立正大淞南に4-5で惜敗。
    • 更に閉会式で、高野連の奥島孝康会長が講評の中で「とりわけ残念なのが、大谷投手を甲子園で見られなかったこと」と発言してしまった。
2013年夏準々決勝 花巻東対鳴門
  1. 花巻東の選手がサイン盗みを行っていたことが発覚しネットで大問題に。
    • さらにカット打法も問題になる。
  2. 続く準決勝で花巻東の選手は本来のプレーができず延岡学園に完封負け。
2017年夏3回戦 仙台育英対大阪桐蔭
  1. 仙台育英の選手が大阪桐蔭の一塁手中川卓也の足を蹴った疑惑でネットが大炎上。
    • もし大阪桐蔭が勝っていたら前人未到の4季連覇もありえただけに…。
  2. 続く準々決勝で仙台育英の当該選手は欠場となり、広陵に完敗。

国際大会

アジアシリーズ
  1. 日本・韓国・中国・台湾の各リーグのチャンピオンチームによるアジア王者決定戦という名目でスタートするも…。
  2. スポンサーの撤退や日程、さらに参加国の都合により、2013年を最後に行われず。
    • 2014年にはWBSCより公認を得られていた。
  3. 2013年大会は中国が出場辞退したため、なぜかヨーロッパ代表が出場した。
日韓クラブチャンピオンシップ
  1. アジアシリーズの代替として開催されるも、2009年と2010年のたった2回で打ち切られた幻の大会
  2. 日本シリーズ優勝チームとKBOリーグ韓国シリーズ優勝チームの直接対決方式。
    • 二回とも日本のチームの勝利に終わり、韓国のチームは勝利できないまま終わった。
2006ワールドベースボールクラシック 第2ラウンド1組
  1. アメリカ戦ではボブ・デービッドソンによる誤審がクローズアップされてしまった。
    • 王監督は試合後「特に野球のスタートした国であるアメリカで、そういうこと(誤審)があってはいけない」とコメント。
    • 更にメキシコ‐アメリカ戦でも明らかな誤審が二つあり、この判定に奮起したメキシコ代表が2-1でアメリカに勝利。1勝2敗で並んだ日本・アメリカ・メキシコのうち、失点率が最も低かった日本が準決勝に進み、アメリカの第2ラウンド敗退が決定してしまった。
      • 一部には「この大会はワールド・ベースボール・クラシック(World Baseball Classic)ではなく、ワールド・ボブ・クラシック(World Bob Classic)だ」と揶揄する声もある。
  2. 韓国が日本に勝って準決勝進出を決めた際、マウンドに国旗を立てた行為も大きな問題になった。
2009ワールドベースボールクラシック
  1. 第1・2ラウンドではダブルイリミネーション方式が採用されたが、日韓戦が5回に及ぶなど欠陥が多く露呈した。
  2. 第2ラウンド2組1回戦でアメリカがプエルトリコにまさかの1-11コールド負け。
    • 敗者復活に回った後、プエルトリコに6-5でリベンジするなど準決勝進出を果たすも、1位決定戦でベネズエラに6-10、準決勝でも日本に4-9でそれぞれ敗れベスト4で終わった。
2013ワールドベースボールクラシック
  1. 日本のメンバー集め難航で強気に出た韓国と米国が優勝候補と目されながら早期敗退、日本のイケイケムードがあだとなり決勝進出失敗。

その他

全日本アマチュア野球王座決定戦
  1. 1991年から1997年にかけて開催されていた、事実上のアマチュア野球日本一決定戦なのだが…。
    • 時期的な問題点(社会人側が秋の日本選手権優勝チームなのに対し、大学側は春の全日本大学野球選手権の優勝チーム)・明治神宮大会と開催時期が近いという事情が現場の不評を買うことになり、1997年限りで廃止された。

野球場

札幌ドーム
  1. サッカー・野球の双方に使える多目的が売りだが、使用料が高いという理由で北海道日本ハムファイターズは北広島市に自前の球場を作り、本拠地を離れることになってしまった。
    • 元々2002 FIFAワールドカップの会場として建設された為、野球場としてはスタンドが急すぎる。
    • コンクリートに短い人工芝とかファウルゾーンが広すぎるなど構造上の問題も多く、ビジターチームからも「ここでは野球をやりたくない」と不満が出るほど。
    • 日ハムは使用量が高いの他にグッズはドームに卸す、飲食の運営と売上は全額ドームの利益、ホームゲームの警備費と清掃代は全額負担、看板代も買取で選手の年俸の総額とどっこいの額をドームに支払っていたのも原因の一つ。
    • 2016年6月23日北海道新聞朝刊 なんか変だな 著:長沼修
  2. 冬は天然芝が雪で使えないためサッカーの試合はできない。
  3. 一応「五大ドーム」の一つとなっているのだが、集客力と移動にかかるコスト、そして高額の使用料が重なり、開催実績はほかの4ドームに比べて圧倒的に少ない。
    • 嵐以外は一度やって埋まらなかったから二度とやらない、となる模様。ただしその嵐も2020年を最後に活動休止。
  4. 起死回生の新モードはラグビーW杯のパブリックビューイングで使われたのみで全く使われる気配がない。使われたイベントは札幌市が無料で招待したので収入なし。
  5. 解体論もでているがその費用はどこから捻出するかというと、札幌市民の税金になる。札幌市の所有物なので。
西武ドーム(メットライフドーム)
  1. 西武球場をドームにしたもの。ドーム球場になったのではなく球場の上に屋根を取り付けたという構造である。
    • その結果雨は防げるが風雨になると客席上段に雨が入って来る、空調はないので夏場は夜でも蒸し暑く、熱中症対策は必須である。冬場は寒風吹き曝し状態になるので寒さ対策も必要になってくる。
    • ドーム化初期は雨対策が不十分であったため、ドーム球場でありながら雨天中止になることがあった。
    • 元々屋根付きの屋外球場扱いにして、税金を安くするつもりだったが認められず、結局、一般的なドームと同じ税金がかかっているらしい。
  2. また、交通アクセスも良いとは言えない。西武球場前駅は6番線までホームはあるが狭山線が単線なので運行本数が増やせず、試合やイベント終了後は大混雑となってしまう。
  3. ネーミングライツを行っているが、命名権を買った企業に不祥事が発覚した事がある。
ヤクルト戸田球場
  1. 台風や集中豪雨等で増水した場合、球場全体が水没してしまう。
    • そもそも荒川の増水時に一時的に水を貯めておく役割の荒川第一調節池内にあるので増水時に水没するのは当たり前である。
  2. アクセスも良くなく、最寄りのバス停から降りて10分歩いてやっと到着。
  3. あまりのひどさに業を煮やした現役時代の宮本慎也が自腹で改修費用を出したこともある。
千葉マリンスタジアム(ZOZOマリンスタジアム)
  1. 幕張の海のそばに建てたため、浜風が強い!
  2. あまりに浜風が強いことから、かつて、千葉市議会で「千葉マリンのドーム化」が審議されたことがある。
    • 当時の市長が、「マリーンズが優勝したら考える」と発言したものの、いまだに実現されていない。
東京ドーム
  1. 日本初のドーム球場だが・・・
  2. ドーム球場のはずなのに、「風が吹いている」らしい。
    • 某仙一氏が「ここはホームラン風を吹かしている」と発言したことがある。
  3. 昔、ポール際の大飛球で大きく揉めたことがある。
    • これがきっかけで、ポールの色が塗り替えられた。
  4. キャパが4万5千のはずなのに、昔は毎日5万5千人も入っていたことがある。
  5. かつて巨人の怪我人が多かったのは、ここの人工芝のせいらしい。
武蔵野グリーンパーク野球場
  1. 首都圏の慢性的な球場不足を解消するために1951年に開設。
  2. 国鉄も三鷹駅からここまで支線を通していたが…。
  3. プロ野球の試合は僅か1シーズンしか使われず、球場も5年後に解体されてしまった。
  4. 短命だった理由は、都心からのアクセスの問題・土質の問題(天然芝が育ちにくかった)・神宮の接収解除などで首都圏の野球場不足が緩和された事などが挙げられている。
東京スタジアム
  1. 建設された1962年当時としてはかなり先進的な野球場だったが、ロッテオリオンズの監督に就任した金田正一が「投手に不利な球場だ」といったことによりわずか11年で使用終了し解体されてしまった。
  2. 実はこの球場での最後の試合にロッテは名を連ねていない。
    • 1971年10月15日のヤクルト対阪神戦が最後のプロ野球公式戦。
洲崎球場
  1. 戦前の1936年に東京瓦斯の資材置き場を大東京軍が買い取り、3ヶ月の突貫工事で同年10月に完成。
    • 12月には巨人とタイガースの年度優勝決定戦が行われ、翌1937年には公式戦92試合が開催されたが…。
  2. 球場が東京湾沿いの埋立地に建設されたこともあり、満潮時はグラウンドが海水で水浸しになりコールドゲームになる事態がしばしば発生。
    • 更に洲崎よりアクセスの良い水道橋に後楽園球場が9月に完成すると公式戦の開催が激減。翌1938年は公式戦の開催が僅かに3試合のみとなり、戦時中の1943年頃に解体されてしまった。
川崎球場
  1. 1988年、ロッテ対近鉄の 「10.19決戦」 が川崎球場で行われたため多くの観客が詰めかけたものの、球場に発券機がなく窓口はてんやわんやに。さらにもともと入場者数が少なかったのが災いし、売店や自動販売機が品切れとなり、トイレも男女兼用で鍵が壊れていたところもあり、特に女性にとっては不便だった。
  2. 1989年から1991年にかけて改修工事が行われ、1988年に比べると利便性は向上したものの、それでもロッテ球団側の不信感を拭えず、1992年にロッテは千葉に移転した。
  3. そして現在は野球場としてはほぼ使われておらず、主にアメリカンフットボールが行われている。
  4. 観客がスタンドで、試合そっちのけで流しそうめんや麻雀をしていたのは、もはや伝説。
    • アベックが試合そっちのけでイチャコラしていたのを、テレビカメラに抜かれて、珍プレー番組に使用されることも。
中日球場→ナゴヤ球場
  1. 試合中に火事になったことがある。
    • 戦時中に空襲を経験していた杉下茂は火の手を見た瞬間「ああ百年目、俺ももうだめだ」と思ったらしい。
    • 最後の火災の時、ファンはグラウンドへ避難した。
      • その試合は消化試合だったため、当時「EXテレビ」で上岡龍太郎や島田紳助から「これがホンマの消火試合や」と揶揄されていた。
  2. 伊勢湾台風で、水没したことがある。
    • グラウンドは冠水、スコアボードが大破した。
  3. 球場名が変わった経緯がざんねん。
ナゴヤドーム
  1. かつて、台風で冠水したことがある。ドームなのに。
    • おかげで、試合が中止になった。ドームなのに。
    • この影響で地下駐車場が冠水し、3選手(岩瀬仁紀・種田仁・神野純一)の愛車が水没する事態に…。
  2. 元々サッカーやアメフトでの使用も視野に入れて建設されたが、現在までプロレベルの試合が開催されたことはない。
    • 2002年のサッカーワールドカップの名古屋市の試合会場候補として挙げられた事もあったが、組織委員会に呆気なく却下されてしまった。
    • 但しグランパスのファン感謝祭で使用されたことはある。
大阪ドーム(京セラドーム大阪)
  1. 地盤が弱いため、応援などで集団でのジャンプができない。
    • 震度計が反応するらしい。
      • あるアーティストがライブ中に観客にジャンプを煽ったところ、そのアーティストは出禁になったらしい。
  2. 野球観戦の場合、死角になる部分がかなり多い。
  3. 音楽イベント用に屋根の高さを変えられるギミックがあったが、制御装置が販売終了してしまい、故障したらメンテナンスが出来ない事から一定の高さで固定されてしまった。
  4. 天井のスーパーリングに打球が挟まることがしばしばある。
    • 打球の挟まった場所によって、ホームランになったり、ツーベースになったり、ファールになったりと、ややこしいローカルルールがあるので、ある意味「審判泣かせ」の球場とも言われる。
藤井寺球場
  1. 照明の問題で1983年までナイター開催が不可能だった。
    • 1983年までの事実上の本拠地はナイター設備のある大阪市の日本生命球場(日生球場)。
      • 1979年と1980年の日本シリーズは、南海の本拠地だった大阪球場を借りて開催。
    • 球場の設備も悪かったようで、1984年に近鉄に入団したドン・マネーが音を上げて帰国してしまった程。
  2. 1984年にようやくナイター設備が完成するも、その13年後の1997年に近鉄は大阪ドームに本拠地を移転。
    • 晩年は近鉄の二軍戦や高校野球の大阪大会が中心となった。
  3. 2004年9月30日のウエスタン・リーグ優勝決定戦(近鉄対中日戦)が最後の試合となった。
    • 2006年に解体され、現在球場の跡地には学校やマンションが立て並んでいる。
阪神甲子園球場
  1. 阪神ファン=大阪人と思われていることから大阪府にあるものだと思ったら、住所は兵庫県西宮市。
    • 東京ディズニーランドのようにネタにも挙がらないので、素で大阪にあるもんだと間違われる。
      • 事実神戸市よりも大阪市の方が近い。
  2. あまりに、阪神ファンのヤジが多いことから、現役選手から「やりずらい球場」の筆頭に挙げられることが多い。
阪急西宮球場(阪急西宮スタジアム)
  1. 阪急ブレーブスの本拠地としても有名だが、1949年からは野球の試合の合間を縫って競輪も開催されていた。
    • 一時期はブレーブスの公式戦1年分の収入よりも、3日間の競輪開催のほうがお金を稼いでいた。
      • そのため、お盆の時はブレーブスの公式戦より競輪の開催が優先されるようになり、オリックス身売り後の神戸移転の遠因となった。
    • 1987年にはナイター競走も計画されたが、警備上の問題もあり実現には至らず。
  2. 結局競輪の開催は2002年を最後に終了し、その年の年末に施設の老朽化などを理由に球場の営業を終了。
    • 2004年から2005年にかけて解体工事が行われ、跡地には大型ショッピングセンターの阪急西宮ガーデンズが建設された。
神戸総合運動公園野球場(ほっともっとフィールド神戸)
  1. トイレが和式中心で評判が良くない。
  2. アクセスは比較的便利だが、神戸市の中心部からはやや行き辛い。
  3. ブルーウェーブ末期の平日のナイターはガラガラで、スタンドで寝ている人が居たらしい。
  4. その影響か、2011年以降オリックスの主催試合は年10~15試合程の開催となっている。
  5. ネーミングライツ適応後の略称が卑猥すぎる。
福岡ドーム(福岡 ヤフオク!ドーム→PayPayドーム)
  1. 開閉式ドーム球場として設計されたものの、諸々の理由により屋根が開閉されることは滅多にない…。
  2. 当初計画ではツインドームを作る予定だったが、ダイエーの経営難などにより取りやめになった。
  3. 2020シーズンから名前が変わるが、略称がかなり怪しくなってしまった。
  4. 「ホームランテラス」という、いわゆるラッキーゾーンの誕生で、ホームランの出やすい球場に。
ホークススタジアム筑後(タマホーム スタジアム筑後)
  1. ソフトバンクホークスの練習場、二軍・三軍の球場として2016年開場。
  2. 雁の巣の時と比べ物にならないぐらい福岡ドームから遠くなった。
    • 新幹線でも1時間かかる。
  3. 周囲に飲食店がほとんどなくコンビニ弁当を食べざるを得ないと言われている。
  4. 主力選手が契約更改の時改善を訴えた。

ユニフォーム

読売ジャイアンツ(1960)
  1. この年、日本テレビやNHKが、テレビのカラー放送を開始することを受けて、開発。
    • ホーム用は、白地のままだと、当時のカラーテレビではハレーションを起こすため、ベージュ地のユニフォームが採用され、「GIANTS」のロゴも赤色になった。
  2. しかし、なぜかたった3ヶ月で使用は終了。
    • 長い巨人軍の歴史の中で、もっとも短い期間しか使われなかったユニホームとされている。
  3. また、当時の解説者陣からの評判もすこぶる悪かったらしい。
中日ドラゴンズ(1968)
  1. 日本プロ野球史上初となるノースリーブのユニフォーム。
  2. しかし着用した途端にチームは低迷、さらにシーズン途中で監督(杉下茂)が休養、挙句の果てに最下位と、「縁起の悪いユニフォーム」としてシーズン終了と同時に封印された。
    • その後、1998年に中日は再びノースリーブのユニフォームを採用したが…。
  3. 36年後の2004年にNHKの特番でこのユニフォームが再現されたが、当時監督を務めていた杉下茂は「二度と見たくなかった」とコメント。
日拓ホームフライヤーズ(1973)
  1. オールスター開けの後半戦に登場した7種類のユニフォームが有名。
    • その中には、当時の中日ドラゴンズのホーム用のパクリみたいなデザインもあった。
    • 種類は、オレンジと白、黄色と黒がホームとビジターで2つずつ、白と青、青のビジター、そして紫と白である。色遣いはもちろんのこと、デザインもあまり褒められたものではなかった。
  2. シーズン終了後に、球団が日本ハムに身売りしたため、たった3か月でお蔵入りとなった。まさに「幻のユニフォーム」。
  3. 監督だった土橋正幸はダブルヘッダーの1試合目で勝ったため験を担いで同じユニフォームで2試合目にも臨もうとしたところ「せっかく7種類作ったんだから違うのを着てくれ」と球団側に言われた、毎試合出るわけではない先発投手だったルーキーの新美敏からは「どれか忘れたけど着てないユニフォームがある」と証言していた。
  4. 交流戦や復刻デザイン、球団の企画などで数試合限定で着るものなど、1年間に数種類のユニフォームを着ることが珍しくなくなったうえに当時と比べて色遣いが多彩になった昨今から見れば、発想が40年ほど早かったユニフォームだったといえる。
読売ジャイアンツ(1975ー1980)
  1. 第一次長嶋政権時代に登場した、サンフランシスコ・ジャイアンツのパクり・・・もとい、参考にしたユニフォーム。
  2. 登場した年が、球団史上初の最下位。さらに、このユニフォームの時には一度も日本一になれず、トドメに長嶋監督の解任で、完全に「曰く付きのユニフォーム」となってしまう。
    • オマケに、江川事件(いわゆる「空白の一日」)が起こったのも、このユニフォームの時だった。
  3. 長嶋茂雄前監督解任→藤田元司新監督就任の81年には、何事もなかったかのように74年以前のモデルに戻されてしまった。
太平洋クラブライオンズ(1976)
  1. 通称「アメフト型ユニフォーム」。
    • ホーム・ビジター用の前面に、背番号と同じ大きさの番号が着いていた。
  2. 当然選手やファンからは大不評で、後期途中からマイナーチェンジしたユニフォームに。
阪神タイガース(1982ー2006)
  1. タイガースの代名詞ともいえる縦縞のユニフォーム、1985年の虎フィーバーの時のユニフォームとしても有名だが・・・。
  2. それ以降の暗黒時代のユニフォームとしても有名になってしまう。
    • 長く使用されていただけに、暗黒時代に突入してからも85年のフィーバーを良くも悪くも引きずっていたのがよく分かる。
      • ホーム用よりも85年のリーグ優勝と日本一の胴上げを経験したビジター用の方が暗黒時代のイメージも強くなった。
        • 2000年に元々ビジター用だった黒の帽子のみになったがそのきっかけは野村克也監督から「(ホーム用の縦縞の帽子の)頭の白が間抜けっぽい」と意見をつけられたことだった。
        • ホーム用のユニフォームはのちに暗黒から脱却し85年以来の優勝となる2003年・05年にも着用し、暗黒のイメージを払拭させられたがビジター用は00年まででお役御免となった。
福岡ダイエーホークス(1989-1992)
  1. 世界的デザイナー・三宅一生のデザインだったが…。
    • 鷹の顔を模したヘルメットが「日本一恥ずかしいデザインのヘルメット」として有名に。
      • 通称「ガッチャマンヘルメット」。
  2. 1993年、平和台球場から福岡ドームへの移転に伴い、お役御免に。
千葉ロッテマリーンズ(1992-1994)
  1. 千葉マリンスタジアムへの移転を機に、チームのイメージカラーとしてピンクを採用。
    • 小宮山悟の証言によると、ユニフォームの選定段階ではいくつかのカラーパターンが選手側に提示され、その中でエメラルドグリーンが一番人気を集めた。
      • しかしオーナー代行の重光昭夫の鶴の一声でピンクに決まり選手は一様に落胆したとの事。
  2. 結局1995年に監督に就任したバレンタインが「戦う者の着るユニフォームではない」と批判し、現在の白地に黒の縦縞のユニフォームになった。
近鉄バファローズ→大阪近鉄バファローズ(1997-2004)
  1. 大阪ドームへの移転を機にユニフォームを大きく変更したが…。
  2. 当初のビジター用の赤のユニフォームが選手から「東芝のユニフォームみたい」「プロが着るユニフォームじゃない」と酷評されまくった。
    • 更にデザインを担当したコシノヒロコが、週刊ベースボールのインタビューで「私が作ったユニフォームなんだから誰が着たって似合うに決まってる」と発言した記事が載り、火に油を注いでしまった。
中日ドラゴンズ(1998)
  1. ホーム用・アウェー用の他に、日曜日の試合でのみ着用したサンデーユニフォームが存在した。
    • 1968年以来、2度目のノースリーブタイプのユニフォームだったが…。
  2. このユニフォームでの試合の勝率が、それ以外の試合より極端に低かった(12試合・3勝9敗、勝率.250)こともあり、この年限りで廃止された。
読売ジャイアンツ(2002-2004)
  1. ビジターユニフォームの胸のロゴを従来の「TOKYO」から「YOMIURI」に変更したことが物議を醸す。
    • ファンからは「俺たちは読売ファンじゃない!巨人ファンだ!」と抗議の横断幕を出されたり、それに対してナベツネが「あんなファンはファンじゃない」と吐き捨てるなど論争になってしまった。
  2. 2003年、中日戦(ナゴヤドーム)で工藤公康が先発した際にこのユニフォームではなく間違えて2001年までの「TOKYO」のユニフォームを着てグラウンドに立ち、審判から指摘を受けて着替え直すため試合中断、という出来事があった。
読売ジャイアンツ(2005)
  1. 昨年までの「YOMIURI」のユニフォームから心機一転し胸のロゴを帽子のロゴと同じものにした。
  2. しかしこの年は球団ワーストの80敗を喫して5位に終わった上に翌年からはサプライヤーがadidasに変更になったため1年でお蔵入りに。チーム成績も相まってゲンの悪いユニフォームと呼ばれるように…。
千葉ロッテマリーンズ(2005)
  1. 従来のピンストライプを「戦」、ギザギザ模様のセカンドユニフォームを「誠」、「誠」に黒のズボンを合わせたものを「侍」と3タイプのホームユニフォームを制定したが、「侍」だけは色合いもあって「ダサい」と大不評だった。
  2. この時は先発投手が着たいユニフォームを決めて着用するというスタイルを取っていたが、「侍」は選手からも不評だった上に着用した試合で大敗したため二度と着られる事は無かった。
オリックス・バファローズ(2005)
  1. オリックスブルーウェーブと大阪近鉄バファローズの合併で誕生。その初代ユニホームは…。
  2. ブルーウェーブのユニホームの胸のロゴを「BlueWave」から「Buffaloes」に変えただけ。帽子のロゴも字体はそのまま「BW」から「Bs」に変えただけ。
    • 吸収合併だから仕方ないのかもしれないが、これには旧近鉄のファンや近鉄出身の選手から、大バッシングを受けたことは言うまでもない。
      • この不評を受けて、大阪での主催試合用のユニフォームも作られた。
      • 結局このブルーウェーブ風ユニフォームも1年で廃止となり、翌年からは大阪用からラグランの青と帽子の赤ラインを抜いたデザインを神戸用として採用。
        • その3年後には大阪での主催試合が増えたのに合わせてか、神戸用そのものも廃止。
読売ジャイアンツ(2008-2009)
  1. 2008年の交流戦で着用していたユニフォームが好評だったためビジターユニフォームに昇格したが、色合いがホームの白にかなり似通っていたため「ビジターでもホームユニフォームを着ている」といわれのない非難を受ける羽目に。
埼玉西武ライオンズ(2009-2014)
  1. ロゴタイプを変更、この際のリーグ優勝なし。
    • 変更した背ネームのフォントが読みづらく、「KISHI」は「HISHI」に、「NARAHARA」に至っては「NAAAHAAA」としか読めないほどだった。
  2. ことあるごとに「ライオンズブルーに戻せ」と言われやすかった。
北海道日本ハムファイターズ(2012)
  1. 8月の札幌ドームでの3連戦で、過去に着用したユニフォームなどを再利用した黒い「エコユニ」として着用した。
  2. 日本ハムとしてはざんねんではなかったが、対戦相手がビジターユニフォームで黒を着用しているロッテ(この試合ではホームユニフォームを着用)で、荻野貴司が自軍のユニフォームと間違えて悪送球してしまうという珍プレーの元となった。
埼玉西武ライオンズ(2015)
  1. 親会社の西武鉄道の創立100周年を記念し、西武鉄道の車両をイメージした黄色の限定ユニフォームだったが、着用した試合が13連敗の真っ只中でその試合でも連敗を伸ばしてしまった。
  2. この年はソフトバンクも「鷹の祭典」で黄色の限定ユニフォームが、更には阪神も「ウル虎の夏」で黄色の限定ユニフォームを着用したため、黄色で被ってしまった。
    • ソフトバンクの関西の応援団からは、応援団幹部が蛇蝎の如く嫌う阪神や西武も黄色を着用していた事から「阪神や西武と同じ黄色を着るのは気分が悪い」とTwitterにて呟いてしまい、炎上してしまった。
福岡ソフトバンクホークス(2016)
  1. 毎年恒例の「鷹の祭典」のユニフォームとしてこの年は「カチドキブルー」と称した青いユニフォームを着用したが、このユニフォームを着た夏場から大失速が始まった。
    • 最終的には優勝を逃してしまい、アンチホークスやネットでは「顔面カチドキブルー」と揶揄されてしまう。

背番号

巨人の4番
  1. 腸チフスで現役中に死亡した黒沢俊夫の背番号で、永久欠番。
  2. 4が死に重なり、縁起が悪いから永久欠番になったと思ってる人が多い。
ロッテの26番
  1. ファンの番号として永久欠番にしているが、こちらも縁起が悪いという理由で永久欠番になったのと同じ(元26番が強盗殺人事件を起こした)。
阪神の40番
  1. 着用していた土橋修が1966年のシーズンオフに交通事故死。
    • その前に付けていた並木輝男も1988年に脳溢血のため急死、その後に付けたマイク・ラインバックも1989年に交通事故死するなど、かなり不吉な背番号となっている。
中日の18番
  1. 21世紀に入ってから、背負った選手がまるで活躍できていない。
    • 主にドラフト上位指名で入団の高卒投手が背負っているが、全員その後背番号変更を余儀なくされている。
    • 2018年に加入しそこそこ投げた松坂大輔も2019年に変更したらケガに見舞われ、その年限りで退団し西武に復帰した。
    • 一応ギャラードという例外はいるが、こちらも横浜へ移籍した。

関連項目