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ざんねんな野球選手事典/日本人

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※編集される方は「Chakuwiki:お願い/ざんねんなモノ事典」をご覧ください。

  • 「選手」とありますが監督としてざんねんだった方も含みます。

あ行

相川亮二
  1. 2006年のWBC優勝メンバーであるが、リーグ戦では優勝に縁がなかった。
    • 最初に所属した横浜は1998年に優勝しているが、彼の1軍デビューはその翌年だった。
    • 2009年にヤクルトに移籍するも、彼が巨人に移籍した翌年の2015年まで優勝から遠ざかっていた。
    • そしてもっと優勝できそうな巨人に移籍したのに優勝を経験できず引退。
井川慶
  1. 日本では沢村賞を受賞するなど大活躍を見せた。
  2. その後、ヤンキースでもプレーしたが、「ヤンキース史上最悪のFA補強」に選ばれてしまった。
  3. 阪神時代、何年も虎風荘から出たがらなかった。
    • 追い出されるように出て行った後もホテル暮らしだった。
  4. 阪神でバッテリーを組んでいた矢野輝弘から「言うことを聞いてくれない」と言われるほどワガママが強かった。
宇野勝
  1. 例の「ヘディング事件」以来、珍プレー番組の常連となる。
石井浩郎
  1. 巨人移籍もファーストが飽和状態、ロッテに放出、横浜であと一歩で全球団本塁打を逃す、優勝経験なし、岡村孝子夫人と離婚。
  2. その後地元秋田で参議院議員選挙に自民党から立候補し当選したが、党員獲得数でワースト10になったことがある。
伊東勤
  1. 西武監督時代の2007年に怪我人が相次ぎ、交流戦で10連敗を喫し、26年ぶりのBクラス (5位) に終わったことにより監督を辞任。
  2. その後WBC日本代表総合コーチ→韓国・斗山ベアーズヘッドコーチを経て2013年に千葉ロッテの監督に就任。3位→4位→3位→3位と来て、最後の2017年は最下位で監督を辞任。
    • 伊東自身にとって選手、監督通して31年目にして初の最下位だった。
伊良部秀輝
  1. ロッテで最優秀防御率、最多奪三振のタイトルを獲得し、ヤンキース時代もMLBでアジア人で初のワールドシリーズ制覇を果たしただけでなく2回も果たすなど輝かしい実績を残したが…。
  2. メジャー移籍時パドレスを拒否しピンストライプのユニフォームを着たいとヤンキース移籍に固執したことで騒動となる。
    • ロッテのファン感謝デーで「ニューヨークに行ってくれ」と掲示されたが早く出てけという真意だったらしい。
    • さらに俺はミケランジェロ発言で大顰蹙を買う。
  3. ヤンキース1年目はアジア人初の初登板初先発初勝利を達成したのだが…。
    • その後調子を落としまくりブーイングするファンにツバを吐く愚行をしてしまう。
    • 3年目のキャンプで「太ったヒキガエル」と酷評される。
    • そのワールドシリーズでは登板が一切無かった。
  4. その後モントリオール・エクスポズに移籍したが「エクスポズもピンストライプで良かった」とマスコミに皮肉られる。
    • 度重なる怪我で活躍できなかっただけでなく泥酔で意識不明になったのが原因で解雇されてしまう。
  5. レンジャーズを経て阪神と契約し日本球界に復帰してリーグ優勝に貢献したが翌年は不振で戦力外通告となり一度目の引退を表明。
  6. 引退の原因になった膝の痛みが消えたこともあって現役復帰し日米の独立リーグでプレーしたが腱鞘炎で2度目の引退。
  7. 2011年首吊り自殺してしまうが、その後もさらに悲惨なことになってしまった。
上田利治
  1. 選手時代は広島に在籍したものの、怪我で活躍できず早々と引退。
  2. ヤクルトとの1978日本シリーズ第7戦で6回裏一死からヤクルトの大杉勝男が左翼線に放った本塁打をファウルだと抗議し、そのためにシリーズ史上最長の1時間19分の中断を余儀なくされた。
    • その後試合は再開したものの、マニエルと再度大杉に本塁打を打たれた結果、阪急はヤクルト初の日本一を献上する形になり、上田はこの日本シリーズでの混乱の責任を取るため退任した。
  3. 1988年10月23日、阪急ブレーブスとしての西宮球場最終戦終了後の挨拶で「去る山田久志、そして残る福本」と言うつもりだったものを、間違えて「去る山田、そして福本」と言ってしまい、最終的に福本の引退に繋がってしまった。
  4. 1996年にはオリックスと熾烈な優勝争いを繰り広げたものの、同年9月に家庭の事情により休養しチームを離脱、オリックスに逆転優勝を許す形になってしまった。
    • 仮に優勝していたらこの年の日本シリーズは同じく東京ドームを本拠地とする巨人との対決になっていただろう。
江川卓
  1. 度重なるドラフト拒否、空白の一日でアンチ巨人を増やし、阪神に入団からのトレードで厳密には生え抜きにはならない。
  2. 数字だけなら安定していたが若くして引退。
緒方孝市
  1. 詳しくはこちらを参照。
小川博
  1. 引退後の2004年に強盗殺人事件を起こし、無期懲役の判決を受けてしまった。
  2. この影響で、あの10.19の第1試合が半封印状態になってしまった。
    • 小川は第1試合の先発投手だった。
    • 現役時代に付けていた背番号の「26」も事実上の永久欠番に。その理由は「ベンチ入りの25人の選手に次ぐファンの番号」としているが、ファンもこんな曰く付き物件いらんだろう…。

か行

梶本隆夫
  1. 阪急ブレーブスの左腕エースとして、米田哲也と共に「ヨネカジ」として活躍するも、チームが長らく低迷していたこともあってか通算254勝255敗と通算200勝以上した投手の中で唯一の負け越し投手になってしまった。
    • さらにルーキーイヤーには20勝を挙げるも、南海ホークスの宅和本司が26勝を挙げたため新人王を逃した。現在でも20勝して新人王になれなかったのは梶本だけ。
  2. 1957年7月23日の南海戦で9連続奪三振を達成したが、9人目を三振に奪った時に捕手の山下健に「カジ、これ新記録やで」と言われ急に記録を意識しだし、10人目の打者の皆川睦男(投手)にセンターフライを打たれ記録が途絶えた。
    • 後に梶本は「皆川を三振に取っていたら20は行ったんじゃないかな」と語っている。
  3. 投手の主要タイトルを遂に獲得できなかった。
    • あるシーズンの終盤、梶本に最多勝のタイトルを獲らせるために勝ち試合でのリリーフを監督から促されたことがあったが、梶本は「他人の勝ち星を奪うようなことは勘弁してください」と登板を断った。
加藤哲郎
  1. 1989年日本シリーズ第3戦終了後の例の失言により、近鉄悲願の日本一を逃したA級戦犯として大きな非難を浴びてしまった。
    • 加藤は第3戦の試合後のヒーローインタビューで「別に、とりあえずフォアボールだけ出さなかったらね、まぁ、打たれそうな気ぃしなかったんで。ええ、たいしたことなかったですね。シーズンの方がよっぽどしんどかったですからね、相手も強いし」と発言したが、これがいつの間にか「巨人はロッテより弱い」という発言になってしまった。
      • 加藤は第7戦に再び先発したが、2回表に駒田徳広に先制ソロホームランを打たれ、駒田に「バーカ!」と近鉄ベンチに向かって叫ばれるなど、3回3分の1を投げて3失点で降板。近鉄は悲願の日本一を逃してしまった。
      • 該当のインタビューでは当時のパ・リーグらしいまあまあ舐めた態度で受け答えをしていたので、むしろ被害者一辺倒の扱いになったのは幸せじゃないだろうか。
  2. その後は右肩の故障で成績が低迷。1993年に近鉄を自由契約となり、1994年は広島、1995年はダイエーでプレーしたが、結局1995年限りで現役を引退。
  3. 引退後は朝日放送で解説者をしていたり、俳優をしたり、焼肉店をしていたが倒産。
    • (2019年)現在は大阪の天満橋で麻雀教室を開いている。
金村義明
  1. 日本一に縁が無かった。
    • 1989年(近鉄)、1997年・1998年(西武)と日本シリーズには3回出場したが…。
      • 1989年はチームメイトの加藤哲郎の失言騒動もあり3連勝からの4連敗で日本一を逃す。
        • 1998年は西武の最後のバッターとなってしまった。
  2. 引退試合(1999年9月30日・千葉ロッテ戦)もJCOの臨界事故・中日のリーグ優勝・山本和範の引退試合と被ってしまった。
    • 金村は引退後にラジオ番組で「これまでの選手生活を思い出すと涙が溢れ、ボールが見えづらかった。にもかかわらず、先発の薮田(安彦)は容赦なくフォークを投げてきた。空気を読んで欲しかった。」と語っている。
亀山努
  1. 現役時代はヘッドスライディングの名手として新庄とともにフィーバーを巻き起こしたのだが・・・。
    • そのヘッドスライディングが原因で怪我をしてしまう。
    • その後ヘッドスライディング由来のけがは回復したのだが、今度は守備の際に別の選手とぶつかって頸椎を骨折し、結果1997年には戦力外通告を受けた。
    • 戦力外通告後、当時の近鉄の監督だった佐々木恭介が獲得を考えたが、フロントから反対され引退を余儀なくされた。
  2. 引退後に激太りしてしまったのも残念。
    • 一時期体重は135kgまで達していた。今はその頃よりは痩せてはいるもののそれでも100㎏を超えている。
    • 努が選手だった時は弟の忍の方が太っていたが、忍はその後痩せたのに対し努は太ってしまったため今では逆転している。
菊池雄星
  1. もの凄く、ソフトバンクに弱かった。初めて、ソフトバンクに勝ったのは2018年9月28日だった。
    • 2018年は残念なことだらけ。5月は左肩の張りで一軍登録を抹消され、勝率は規定投球回以上では1位になったが、規定により最高勝率はロッテのボルシンガーに譲って、タイトルを逃し、完投が1回だけで完封は0だった。
小久保裕紀
  1. 1997年脱税騒動を起こしてしまう。
  2. 巨人への無償トレードが大騒動になった。
  3. 引退後2013年に日本代表監督を務めるがプレミア12、WBCで優勝を逃した。
    • 特にプレミア12では激しく叩かれた。
  4. しかも監督退任後次のプレミア12で日本代表は優勝したため黒歴史扱いに。
  5. 引退試合でノーヒットノーランを達成させてしまった。
    • しかしその時の相手の投手を日本代表に選出していて、良く言えば本人はそのノーノーを評価しているのが分かる。

さ行

佐々木信也
  1. 湘南高校から慶應義塾大学を経て、1956年に高橋ユニオンズに入団。
    • 1年目から154試合(当時)フルイニング出場・ベストナインにも選出されたが、新人王は21勝・防御率1.06を記録した稲尾和久(西鉄)が獲得。
  2. その後高橋の大映との合併(正確には解散)、大映・毎日の対等合併後の大毎でもプレーしたが、1959年限りで現役を引退。
    • 巨人からのオファーもあったが、佐々木本人が断った。
  3. 引退の(表向きの)理由は、その年のオフに監督に就任した西本幸雄が「身長の低い選手はいらない」という考えを打ち出し、身長169cmの佐々木も戦力外通告の対象になってしまった、というものだが…。
    • 後に佐々木が「プロ野球ニュース」で西本に「なぜ僕はクビになったんですか?」と問いただしたところ、実は西本が監督就任した時期に佐々木は結婚しており、その相手が資産家の令嬢と聞いていた西本が「チーム事情で内野手を整理する必要があり、仮にクビになっても生活に困らない者」として佐々木をリストアップしていたというのが真相だった。
G.G.佐藤
  1. 北京オリンピック野球日本代表に選ばれたが、本番では痛恨のエラーを連発したため、メダルを逃したA級戦犯として大きな非難を浴びてしまった。
新庄剛志
  1. 2012年度の野球殿堂入りの候補者に上がったが、わずか5票しか得られずそれ以降は候補者リストから外された。
  2. 1999年6月に巨人の槙原寛己から敬遠球をサヨナラ打。その時お立ち台で決め台詞として「明日も勝つ!」と言い放ったが、その発言から一週間後に阪神は首位陥落。
    • さらに、1999年9月に新庄が8回裏に巨人のバルビーノから決勝ソロ本塁打、お立ち台で再び「明日も勝つ!」発言。ところが翌日から阪神は球団ワーストタイ記録の12連敗を喫し、最終的には2年連続最下位という散々な結果に…。
  3. 引退後には彼の金銭管理不足を露呈するように、現役時代の財産を預けていた関係者に奪われてしまった。
    • これがバリ島に渡った理由の一つと言われている。
菅野智之
  1. 入団からわずか6年間で最優秀防御率4度、最多勝2度、最多奪三振2度を経験した紛れもない巨人の、いや日本球界を代表するエースである。
  2. しかし2011年のドラフト会議で日本ハムに指名されて引き当てられた際にこれを拒否。そのせいで翌年巨人に入団した時には既にイメージは悪かった。
  3. とにかく無援護で有名で、2015年は防御率1.91なのに10勝11敗と負け越し。しかもこの防御率で最優秀防御率になれなかった(広島のジョンソンが1.85)。
    • 2016年も2.01で最優秀防御率なのに9勝6敗。ちなみに同じ9勝6敗だった内海哲也の防御率は3.94。
      • そのせいで実況パワフルプロ野球で「負け運」と言う特性が付いてしまった。
        • しかしアップデートでそのマイナス特性は消滅。パワプロ2018でも負け運は無くなっており本人は喜んでいた・・・が当時のチームメイトだったメルセデスに負け運がついた。
          • その後のアップデートで「勝ち運」というプラス特性がついたが、その代償として別のマイナス特性がついたり全体的に能力を下げられることになってしまった。
  4. 「フェアリーファンタジア」と言うソーシャルゲームに登録・課金していたと思われ、そこに「スガーヌォーグ」なるキャラクターが登場。菅野がモデル説がある。
    • しかもそれが明らかになってから成績が低下しており某板ではバレて動揺したとかこのゲームで中指を酷使して傷めたとか言われていた。
    • そして当の「スガーヌォーグ」も公式ではシュガー(Sugar)とノーグ(Noog)の合成語とされているが、某板では菅野+G→SUGANOG→スガーヌォーグではないかという説が長らく支持されていた。
      • なお公式も把握していたのかスポーツコスチュームを纏ったバージョンのスガーヌォーグも実装されていた。もちろんその衣装は言うまでもなく・・・。

た行

大豊泰昭
  1. とにかく優勝に縁がなかった。
    • 1994年のリーグ優勝がかかった最終試合(10.8決戦)で巨人に破れ、リーグ優勝を逃す。
    • 1998年に阪神に移籍するも、在籍した3年間は全て最下位。その阪神も彼が引退した翌年の2003年までリーグ優勝&Aクラスから遠ざかっていた。
    • そして中日に逆戻りしたのに優勝を経験できず引退。なお、中日は彼が引退した翌々年の2004年にリーグ優勝を果たしている。
  2. 中日時代は一本足打法だったが、阪神時代の野村克也監督が一本足打法の本家の王貞治を嫌いな為すり足打法に矯正された。
    • 年齢的なピークが過ぎる以前に、そのフォーム変更と阪神の本拠地甲子園球場の広さに適応できなかったのが重なって阪神時代は不本意なシーズン続きだった。
    • 2000年オフに阪神側から年俸の大幅ダウンを提示され、自ら自由契約を申し入れて阪神を退団。
    • 大豊は後年、「(野村監督とは)対話も少なかったし、誤解も生じた。でも、それは人生であり得ること。今は阪神と中日、両方を体験できてよかった」と振り返っている。
高橋由伸
  1. チームの都合で強制引退させられて監督に押し込まれた時点でざんねん。
  2. そして指導者経験一切無しで監督をやらされたため、戦術にもざんねんなところが多かった。
  3. 最後はその成績がざんねん過ぎて監督を退任。結局この前と後に監督をやって優勝を経験した原監督の噛ませという評価を喰らう事に。
  4. あくまでもざんねんだったのは監督時代のみ、選手の時はとても良い選手だった。
  5. すぐ怪我をして離脱する。後年にはその怪我で規定打席にすら立てなくなる始末。
    • 特にボールが良く飛んでいた2000年代前半に離脱が多かったため、そこで通算成績をかなり損したと思われる。
    • フェンス際の捕球が特に苦手だった。
多田野数人
  1. 説明不要。
    • ×××なビデオに出演しなければどれ程活躍していたことか...。
田淵幸一
  1. 阪神時代は「天才ホームランアーチスト」として名をはせるも・・・。
  2. 西武時代は、あの名作「がんばれタブチくん!」の主人公として名をはせることに。
    • その影響で、絶対に不可能なことを意味する「タブラン(タブチのランニングホームラン)」という言葉が生まれる始末。
多村仁志
  1. スペランカーとまで称される怪我の多さとあり得ない怪我の理由に最後まで悩まされ続けていた。
  2. スペ体質すら無ければ…と言われる選手筆頭である。
辻内崇伸
  1. 大阪桐蔭時代に甲子園を大いに沸かせ、ドラフトの目玉として注目を集める中で巨人に1位指名され入団するが、度重なる怪我のため一軍登板はないまま引退。
    • 大阪桐蔭を卒業する頃には既に肩がボロボロだったという。
辻発彦
  1. 西武の監督として2018年・2019年にリーグ優勝を果たすも、CSファイナルではいずれもソフトバンクに敗れている。
中村剛也
  1. 日本を代表するスラッガーのひとりだが、怪我が多いため侍ジャパンには2015年プレミア12の1回しか選ばれていない。

な行

長嶋茂雄
  1. 初めて監督に就任した年(1975)は後述に書かれているようにセリーグ最下位、その後の1976年と1977年はリーグ優勝を果たすも、日本シリーズではいずれも阪急に敗れている。
    • 1996年も当時リーグ史上最大の11.5ゲーム差をはね返してリーグ優勝(いわゆる「メークドラマ」)を果たすも、今度は阪急から改名したオリックスに敗れている。
      • なお、長嶋監督時代に日本一になったのは第2次監督時代の1994年・2000年の2回である。
  2. 2004年アテネ五輪を目指す日本代表監督にも就任したが、脳梗塞を患い五輪本番では指揮を執れず。
  3. また、日常生活での残念エピソードの宝庫でもある。
    • 球場に、息子の一茂を置き忘れたことは伝説。
長嶋一茂
  1. ミスタープロ野球・長嶋茂雄の長男として、鳴り物入りでヤクルトスワローズにドラフト一位で入団。プロ初安打をホームランで飾り、『ミスター二世』として注目を集めた。
    • しかし、プロ3年目に就任した野村克也監督の「ID野球」に全くなじむことができず、シーズン中に目立った活躍はなく、池山などにいじられる光景などがオフの番組を飾るくらい。
  2. 1993年、父・茂雄が監督に就任した読売ジャイアンツへ金銭トレードで移籍。しかし、そこでも目立った活躍はなく、3年後に父の介錯を受ける形で巨人をクビとなり、そのまま引退した。
    • その巨人時代、当時の総合守備コーチ・土井正三から2時間のバント練習をさせられたことに対して「いらねぇよ!あんな奴!!」と暴言を吐き、罰金50万円と二軍降格に加え、しばらくの出場停止処分を受けたことがある。
二岡智宏
  1. 2008年に巨人軍の選手会長に指名されたが、その年の開幕戦の試合中にふくらはぎの肉離れを起こして二軍調整、7月11日に一軍復帰の予定だったが直前に某女性アナとの五反田の9800円のホテルでの不倫が発覚し延期となってしまう。
    • 7月20日に復帰するも正遊撃手の座を坂本勇人に取られ三塁手に。さらに打席に立つたびに不倫相手をもじった名前や「五反田」「9800円」とヤジられる始末であった。
  2. 追い打ちをかけるように9月に足首の捻挫で二軍落ち。そのままシーズンを終え、その年の11月に日本ハムへトレードされてしまう。
    • 選手会長になってわずか1年の解任と選手会長がトレードされるというのは異例のケースであり。不倫騒動が原因でトレードされたのではと言われていた。
西本幸雄
  1. 監督として日本シリーズに8度出場しながらも優勝できなかった 「悲運の名将」 。
    • このうち5回は巨人のV9時代 (1967~1969・1971・1972) に重なっている。
      • 但し西本本人は「もし私が本当に悲運なら戦争で死んでいるし、復員してから野球に再会できたり、大毎・阪急・近鉄の3チームで素晴らしい選手に巡り合えて、8度も日本シリーズに出場などできない。『悲運の名将』なんておこがましい。敢えて言うなら『幸運な凡将』ですね」と1980年のインタビューで語っている。
根本陸夫
  1. 広島・西武・ダイエーのフロントを歴任し、黄金期の土台を築いたが、監督としてはAクラスが広島時代に1回 (1968年) のみで、それ以外はすべてBクラスである。
  2. そしてダイエー(として)の初優勝を見ることなく1999年4月にこの世を去った。
  3. 球団の項目のダイエーホークスにも書いたが、フロントとしての手腕がエグい。強くなったチームにとっては残念も何もないだろうが、西武が裏金でドラフト指名権を剥奪された土壌を作った原因かもしれない。
野川拓斗
  1. 横浜DeNAベイスターズに在籍していたがわずか2年で戦力外通告を受けた投手。
    • 最終年は背番号を変えられてしまったが挽回できなかった。
  2. なんと言っても「おたくと」と呼ばれるほどのアニメ、ゲーム好きであることが有名だった。
    • DeNA繋がりということでハッカドールの刺繍を入れたグラブを使用していた。
      • 因果関係は不明だが戦力外通告の翌年にハッカドールはサービスを終了した。
    • 最初の登場曲は自身がこよなく愛するらしいあるアニメの主題歌だった。
      • そのアニメはベイスターズの先代親会社である某局で放送されたのだが作画崩壊で有名でセールスでも結果が出なかった。
      • 2018年のみ使用した登場曲もヒットとは言い難いアニメの主題歌だった…。
野村克也
  1. 大阪スタヂアムの跡地に建てられたなんばパークスの「南海ホークスメモリアルギャラリー」では様々な理由で野村本人に関する展示が全く行われていない。
  2. 妻・サッチーのおかげで、監督をクビになったことがある。それも二回。
    • 1回目は1977年(南海)。当時まだ愛人関係だったサッチーの「チーム・選手への口出し、および度重なる公私混同」が理由で、野村を大事にしていた南海の川勝傳オーナーの耳に入り解任。
      • 野村の解任に反対していた柏原純一と江夏豊はそれぞれ日本ハム、広島に移籍。打撃コーチの高畠康真(78年からは導宏)も南海を退団し、野村と共にロッテに移籍した。
        • この年を最後に南海はAクラスに入ることなく1989年にダイエーに身売りされた。
          • また、ホークスの連続Bクラスも1997年まで20年続いた。
    • 2回目は2001年(阪神)。一度は留任も発表され秋季キャンプも指揮を執ったが、サッチーが脱税容疑で逮捕された日に辞任。
      • 野村本人はサッチーが逮捕されるまで、脱税行為をしているとは知らなかったという。

は行

平松政次
  1. 「カミソリシュート」と言われた速く切れ味鋭いシュートを武器に大洋ホエールズのエースとして通算201勝を挙げ、巨人キラーとしても有名だが、チームが弱かったせいもあって一度もリーグ優勝を経験できないまま引退した。
福本豊
  1. 1988年の本拠地最終戦で、当時の阪急監督である上田監督がうっかり失言してしまったせいで引退させられてしまった。
    • 上田監督「去る山田、そして福本」
  2. 国民栄誉賞を辞退したのは、有名。
    • 表向きは「立ちションベンもできんようになるがな」という理由だったが、実際は「王さんのように野球人の手本になれる自信がなかったから」と週刊ポストの記事でコメントしている。
  3. 引退後は、ABCやサンテレビの解説が主な活動。
    • しかし、必ず脱線することから「居酒屋中継」と呼ばれるように。
      • スコアボードに0が並ぶのを「たこ焼きみたいや」とか、延長戦突入で「加古川の人、帰られへんで」などに代表される、いわゆる「福本語録」が関西芸人のネタにされる始末。
  4. 「世界の盗塁王」として有名だが・・・
    • 西宮球場で、本物の競走馬と100メートル走対決をしたことがある。
      • 因みにこのイベント、当初福本は断るつもりでいたが球団社長から「公表した以上取り止めるわけにはいかない。西宮球場に来てくれるファンのためにも…」と頼まれたため、「一晩悩んだ末に仕方なく」受諾した。
藤川球児
  1. 阪神のクローザーとして圧倒的な実績を持つ・・・が、その実績のせいでシーズン終盤になるにつれ酷使されるようになっていった。
    • その結果終盤の肝心な試合で炎上してしまいそれがもとで試合を落とすことが多々あった。
  2. 2007年9月には10連投の疲労が抜けないなか3試合連続で登板しすべて炎上してしまった。
    • その炎上による敗戦で8連敗を招いてしまった。
  3. 2010年9月30日の対横浜戦では優勝に向けて落とせない試合でありなおかつ矢野燿大の引退試合という大事な試合で2点リードの9回表にクローザーを任せられるも・・・。
    • 制球に苦しみノーアウト1・2塁に、次のバッターである村田修一にスリーランホームランを被弾。逆転を許してしまう。
      • この試合を中継していたサンテレビのアナウンサーの「行くな!行くな!越えるな!」の絶叫からの沈黙、そして十数秒の沈黙のうちに絞り出された「悪夢のような現実がそこには待っていました」は今も阪神ファンの記憶に刻まれている。
  4. その結果出る予定だった矢野は引退試合に出られなくなり試合終了。引退セレモニーのみに出たがその時に花束を渡したのは村田だった。
  5. この試合以降、某所ではクローザーで炎上した投手のことを「○川○児」と揶揄するようになった。
  6. メジャーにも挑戦したが、何度も故障者リスト入りしたためまともな活躍ができなかった。
星野仙一
  1. 2008年の北京オリンピックの野球競技・日本代表で監督を務めるも、メダルなしの4位に終わった。
  2. 2013年の楽天で達成するまで、3度(中日で2度阪神で1度)日本シリーズに挑戦して日本一になれなかった。
    • 1988年・1999年・2003年の3回。その時の対戦チームは88年のみ西武で、他はいずれもダイエーだった。
堀内恒夫
  1. 巨人のV9時代のエースだったが、監督としては1年目の2004年は3位、翌2005年は5位に終わっている。
    • そのため巨人の球団史上初の胴上げ未経験監督となってしまった。
  2. 2005年の本拠地最終戦では堀内監督にブーイングが飛び、最終戦セレモニーが中止になった。
  3. 巨人がレギュラーシーズンで目の前で相手チームの胴上げを許した試合が(2019年現在)5回あったが不運にもそれらを全て現地で立ち会っている。
    • 1975年の広島(後楽園/当時巨人投手)、1995年のヤクルト(神宮/当時巨人投手コーチ)2005年の阪神(甲子園/当時巨人監督)、2006年の中日、2016年の広島(東京ドーム/日本テレビ解説者)

ま~わ行

村山実
  1. かの有名な「天覧試合」で、長島茂雄に打たれたホームランを「あれはファールだった」と、ずーーーっと言い続けていたのはあまりにも有名。
  2. 芦屋市のマンションを自ら購入して自分自身の会社の本社にしたが、その自宅マンションが1995年の阪神・淡路大震災で被災し、しばらく自家用車で寝泊りをする生活を強いられていたというエピソードもかなり有名。
森祇晶
  1. 横浜ベイスターズ監督時代は成績不振に喘ぎ、特に2002年は勝率3割台と落ち込み、シーズン終了まで14試合を残したところで解任された。
    • なお、森監督のBクラスは2002年のみである。
      • この頃から暗黒時代が再来したので、チームを弱くした元凶とも言われやすい。
山崎康晃
  1. 自分でタイブレークを作ってしまうことが多い。
  2. ネットで太ってしまったことが話題になってしまった。
山本浩二
  1. 2013年のWBCで3連覇を目指す侍ジャパンの監督を務めるも、ベスト4で終わった。
  2. 同級生で実績が上のはずなのに「星野仙一の舎弟」感が強い。
湯浅禎夫
  1. 初代日本シリーズ優勝監督であるが、前述の平和台事件の元凶になってしまい、責任を取って辞任することになった。
    • プロアマ両方で功績を残したにもかかわらず野球殿堂入りを果たしていないのは、平和台事件の影響だと言われている。
渡辺久信
  1. 西武黄金時代のエースとして工藤公康と共に優勝に貢献。最多勝3度記録、ノーヒットノーランも達成、さらに女性人気も非常に高かったのだが……
    • 93年以降成績が下降、2つ年上の工藤がその後7回も二ケタ勝利を上げたのに対しこちらはゼロだった。結果勝ち星で99勝(台湾除く)もの差がついてしまう事に。
  2. 20代半ばごろからかなり頭が薄くなっていた。その点でも工藤や秋山幸二と差が付いてしまった
  3. 最後の三年間は台湾に渡り指導者兼選手として活躍したが、そこで屋台飯にはまって太ってしまった。
  4. 2008年に西武監督に就任。初年度に日本一になるがその後はいわゆる「俺達」が蔓延、その後西武は日本シリーズに一度も出場できていない。

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