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ざんねんな野球選手事典/日本人/さ~な行

提供: chakuwiki
2020年8月2日 (日) 22:55時点における熱波 (トーク | 投稿記録)による版 (な行: 中村勝広を追加。)

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※編集される方は「Chakuwiki:お願い/ざんねんなモノ事典」をご覧ください。

  • 「選手」とありますが監督としてざんねんだった方も含みます。

あ行

相川亮二
  1. 2006年のWBC優勝メンバーであるが、リーグ戦では優勝に縁がなかった。
    • 最初に所属した横浜は1998年に優勝しているが、彼の1軍デビューはその翌年だった。
    • 2009年にヤクルトに移籍するも、彼が巨人に移籍した翌年の2015年まで優勝から遠ざかっていた。
    • そしてもっと優勝できそうな巨人に移籍したのに優勝を経験できず引退。
綾部翔
  1. 高校時代には5回連続で決勝で敗退し続けていた霞ヶ関高校を投手として悲願の甲子園出場に導いたことがある。
  2. 2015年にドラフト5位でDeNAに入団。その後2017年10月に一軍昇格。初戦で初勝利を挙げた。
    • 翌2018年は、右肩のスクリーニング手術を行いシーズンをリハビリに費やす。その間に入籍をしていた。
      • 復帰に向けて調整していた2019年の7月に過去に未成年の少女と関係を持っていたことを週刊誌の取材で判明、さらに翌日に発売された週刊文春には総勢18名の女性と関係を持っていたということが発覚。
        • 球団からは謹慎が言い渡され、この年の10月に戦力外となってしまった。さらに12月には県青少年保護育成条例違反と児童買春・ポルノ禁止法違反で略式起訴された。
井川慶
  1. 日本では沢村賞を受賞するなど大活躍を見せた。
  2. その後、ヤンキースでもプレーしたが、「ヤンキース史上最悪のFA補強」に選ばれてしまった。
  3. 阪神時代、何年も虎風荘から出たがらなかった。
    • 追い出されるように出て行った後もホテル暮らしだった。
  4. 阪神でバッテリーを組んでいた矢野輝弘から「言うことを聞いてくれない」と言われるほどワガママが強かった。
石井浩郎
  1. 巨人移籍もファーストが飽和状態、ロッテに放出、横浜であと一歩で全球団本塁打を逃す、優勝経験なし、岡村孝子夫人と離婚。
  2. その後地元秋田で参議院議員選挙に自民党から立候補し当選したが、党員獲得数でワースト10になったことがある。
伊藤敦規
  1. ここにも載っているように成績面では比較的幸運だった。
  2. しかしオリックスはまだともかくここここに所属したため野球人生後半のほとんどがBクラスだった。
    • そして退団した次の年から前所属チームが強くなると言う不運があり、一度もリーグ優勝は経験できなかった。(オリックス:94年トレードで退団→95・96年リーグ優勝、96年日本一。横浜:96年自由契約→97年2位98年日本一、阪神:2002年自由契約→2003年リーグ優勝)
伊東勤
  1. 西武監督時代の2007年に怪我人が相次ぎ、交流戦で10連敗を喫し、26年ぶりのBクラス (5位) に終わったことにより監督を辞任。
  2. その後WBC日本代表総合コーチ→韓国・斗山ベアーズヘッドコーチを経て2013年に千葉ロッテの監督に就任。3位→4位→3位→3位と来て、最後の2017年は最下位で監督を辞任。
    • 伊東自身にとって選手、監督通して31年目にして初の最下位だった。
伊良部秀輝
  1. ロッテで最優秀防御率、最多奪三振のタイトルを獲得し、ヤンキース時代もMLBでアジア人で初のワールドシリーズ制覇を果たしただけでなく2回も果たすなど輝かしい実績を残したが…。
  2. メジャー移籍時パドレスを拒否しピンストライプのユニフォームを着たいとヤンキース移籍に固執したことで騒動となる。
    • ロッテのファン感謝デーで「ニューヨークに行ってくれ」と掲示されたが早く出てけという真意だったらしい。
    • さらに俺はミケランジェロ発言で大顰蹙を買う。
  3. ヤンキース1年目はアジア人初の初登板初先発初勝利を達成したのだが…。
    • その後調子を落としまくりブーイングするファンにツバを吐く愚行をしてしまう。
    • 3年目のキャンプで「太ったヒキガエル」と酷評される。
    • そのワールドシリーズでは登板が一切無かった。
  4. その後モントリオール・エクスポズに移籍したが「エクスポズもピンストライプで良かった」とマスコミに皮肉られる。
    • 度重なる怪我で活躍できなかっただけでなく泥酔で意識不明になったのが原因で解雇されてしまう。
  5. レンジャーズを経て阪神と契約し日本球界に復帰してリーグ優勝に貢献したが翌年は不振で戦力外通告となり一度目の引退を表明。
  6. 引退の原因になった膝の痛みが消えたこともあって現役復帰し日米の独立リーグでプレーしたが腱鞘炎で2度目の引退。
  7. 2011年首吊り自殺してしまうが、その後もさらに悲惨なことになってしまった。
上田利治
  1. 選手時代は広島に在籍したものの、怪我で活躍できず早々と引退。
  2. ヤクルトとの1978日本シリーズ第7戦で6回裏一死からヤクルトの大杉勝男が左翼線に放った本塁打をファウルだと抗議し、そのためにシリーズ史上最長の1時間19分の中断を余儀なくされた。
    • その後試合は再開したものの、マニエルと再度大杉に本塁打を打たれた結果、阪急はヤクルト初の日本一を献上する形になり、上田はこの日本シリーズでの混乱の責任を取るため退任した。
  3. 1988年10月23日、阪急ブレーブスとしての西宮球場最終戦終了後の挨拶で「去る山田久志、そして残る福本」と言うつもりだったものを、間違えて「去る山田、そして福本」と言ってしまい、最終的に福本の引退に繋がってしまった。
  4. 1996年にはオリックスと熾烈な優勝争いを繰り広げたものの、同年9月に家庭の事情により休養しチームを離脱、オリックスに逆転優勝を許す形になってしまった。
    • 仮に優勝していたらこの年の日本シリーズは同じく東京ドームを本拠地とする巨人との対決になっていただろう。
宇野勝
  1. 例の「ヘディング事件」以来、珍プレー番組の常連となる。
    • 中京ローカルのお米屋さんのCMに出たことがある。しかし、「ヘディング事件」をネタに、米袋をヘディングする内容だった。
江川卓
  1. 度重なるドラフト拒否、空白の一日でアンチ巨人を増やし、阪神に入団からのトレードで厳密には生え抜きにはならない。
  2. 数字だけなら安定していたが若くして引退。
緒方孝市
  1. 詳しくはこちらを参照。
小川博
  1. 引退後の2004年に強盗殺人事件を起こし、無期懲役の判決を受けてしまった。
  2. この影響で、あの10.19の第1試合が半封印状態になってしまった。
    • 小川は第1試合の先発投手だった。
    • 現役時代に付けていた背番号の「26」も事実上の永久欠番に。その理由は「ベンチ入りの25人の選手に次ぐファンの番号」としているが、ファンもこんな曰く付き物件いらんだろう…。
奥浪鏡
  1. 岡山の創志学園から2013年のドラフトで6位指名でオリックスに入団。翌年のフレッシュオールスターで優秀選手賞に選ばれ、100キロ越えの体格ながら動きも良く、これからのオリックスの中軸を担う選手として期待されていた。
    • ちなみにこの年のフレッシュオールスターの優秀選手賞に選ばれたのは山川穂高(西武)・井上晴哉(ロッテ)と全員体重100キロ越えの重量級選手である。
      • その後山川・井上の2人はチームの主軸打者に成長。特に山川は2018年、2019年と2年連続で本塁打王を獲得する選手にまでなっただけに…
  2. しかし素行が悪いうえサボり癖が酷く、当時の監督に1時間の自主練をしていたと嘘を付いていたこともあった。
  3. 2017年、自家用車の運転中に速度違反を取られ免許停止の処分を受けてしまう、しかしそれを球団側へ報告せず、さらに5日後免許停止中の状態にも関わらず車を運転し事故を起こしてしまう。
    • 球団からは無期限の謹慎処分が下されるが、地元の広島で新しい進路を探す準備をするとの本人の希望を汲み、この年の8月をもってオリックスとの契約を解除した。
  4. その後、トライアウトに参加するも無安打に終わり、NPB復帰を目指すため関メディベースボール学院に入学。しかしここでも本人のサボり癖が出てしまいわずか半年で退学してしまう。
  5. そして半年後、女子高生に対する買春行為で逮捕され、更に同年5月には警官を装って高齢男性からキャッシュカードと現金をだまし取るという詐欺と窃盗の容疑で再逮捕されてしまう。
    • この年の9月に買春と特殊詐欺の罪で2年6か月(執行猶予なし)の実刑判決が言い渡された。

か行

香川伸行
  1. 浪商高校で「ドカベン」の愛称で甲子園のスターとなり、南海ホークスに2位指名され入団。
  2. なんといっても、その肥満体。
    • MAXで体重が150kg近くまであったそうな。
    • 球団からは減量命令を出され、オフの自主トレシーズンには、香川があの手この手で減量に努めているシーンが風物詩となっていた。
梶本隆夫
  1. 阪急ブレーブスの左腕エースとして、米田哲也と共に「ヨネカジ」として活躍するも、チームが長らく低迷していたこともあってか通算254勝255敗と通算200勝以上した投手の中で唯一の負け越し投手になってしまった。
    • さらにルーキーイヤーには20勝を挙げるも、南海ホークスの宅和本司が26勝を挙げたため新人王を逃した。現在でも20勝して新人王になれなかったのは梶本だけ。
  2. 1957年7月23日の南海戦で9連続奪三振を達成したが、9人目を三振に奪った時に捕手の山下健に「カジ、これ新記録やで」と言われ急に記録を意識しだし、10人目の打者の皆川睦男(投手)にセンターフライを打たれ記録が途絶えた。
    • 後に梶本は「皆川を三振に取っていたら20は行ったんじゃないかな」と語っている。
  3. 投手の主要タイトルを遂に獲得できなかった。
    • あるシーズンの終盤、梶本に最多勝のタイトルを獲らせるために勝ち試合でのリリーフを監督から促されたことがあったが、梶本は「他人の勝ち星を奪うようなことは勘弁してください」と登板を断った。
加藤哲郎
  1. 1989年日本シリーズ第3戦終了後の例の失言により、近鉄悲願の日本一を逃したA級戦犯として大きな非難を浴びてしまった。
    • 加藤は第3戦の試合後のヒーローインタビューで「別に、とりあえずフォアボールだけ出さなかったらね、まぁ、打たれそうな気ぃしなかったんで。ええ、たいしたことなかったですね。シーズンの方がよっぽどしんどかったですからね、相手も強いし」と発言したが、これがいつの間にか「巨人はロッテより弱い」という発言になってしまった。
      • 加藤は第7戦に再び先発したが、2回表に駒田徳広に先制ソロホームランを打たれ、駒田に「バーカ!」と近鉄ベンチに向かって叫ばれるなど、3回3分の1を投げて3失点で降板。近鉄は悲願の日本一を逃してしまった。
      • 該当のインタビューでは当時のパ・リーグらしいまあまあ舐めた態度で受け答えをしていたので、むしろ被害者一辺倒の扱いになったのは幸せじゃないだろうか。
  2. その後は右肩の故障で成績が低迷。1993年に近鉄を自由契約となり、1994年は広島、1995年はダイエーでプレーしたが、結局1995年限りで現役を引退。
  3. 引退後は朝日放送で解説者をしていたり、俳優をしたり、焼肉店をしていたが倒産。
    • (2019年)現在は大阪の天満橋で麻雀教室を開いている。
金村義明
  1. 日本一に縁が無かった。
    • 1989年(近鉄)、1997年・1998年(西武)と日本シリーズには3回出場したが…。
      • 1989年はチームメイトの加藤哲郎の失言騒動もあり3連勝からの4連敗で日本一を逃す。
        • 1998年は西武の最後のバッターとなってしまった。
  2. 引退試合(1999年9月30日・千葉ロッテ戦)もJCOの臨界事故・中日のリーグ優勝・山本和範の引退試合と被ってしまった。
    • 金村は引退後にラジオ番組で「これまでの選手生活を思い出すと涙が溢れ、ボールが見えづらかった。にもかかわらず、先発の薮田(安彦)は容赦なくフォークを投げてきた。空気を読んで欲しかった。」と語っている。
金本知憲
  1. 連続試合出場の世界記録を更新するなど阪神の主力として活躍したものの、年齢には勝てずだんだんプレーにミスが出るようになった。
    • そのため2ちゃんねる(現:5ちゃんねる)では彼を揶揄する大量のあだ名がつけられてしまった。
  2. 試合中にベンチでタバコを吸っている姿がテレビに映ってしまったことがある。
    • そのためファンからはアニキならぬ「ヤニキ」というあだ名がついてしまうことに。
  3. 引退後は阪神の監督になったものの謎采配や若手や投手陣の失速で2018年にはリーグ最下位に終わり、わずか2年でやめた。
亀山努
  1. 現役時代はヘッドスライディングの名手として新庄とともにフィーバーを巻き起こしたのだが・・・。
    • そのヘッドスライディングが原因で怪我をしてしまう。
    • その後ヘッドスライディング由来のけがは回復したのだが、今度は守備の際に別の選手とぶつかって頸椎を骨折し、結果1997年には戦力外通告を受けた。
    • 戦力外通告後、当時の近鉄の監督だった佐々木恭介が獲得を考えたが、フロントから反対され引退を余儀なくされた。
  2. 引退後に激太りしてしまったのも残念。
    • 一時期体重は135kgまで達していた。今はその頃よりは痩せてはいるもののそれでも100㎏を超えている。
    • 努が選手だった時は弟の忍の方が太っていたが、忍はその後痩せたのに対し努は太ってしまったため今では逆転している。
  3. 目覚まし時計10個以上鳴らしても起きない寝坊・遅刻常習犯。(但し、これは睡眠時無呼吸症候群を患っていたこともあったそうだが…。)
川上哲治
  1. 1980年の巨人・長嶋茂雄監督の解任劇の際には「長嶋監督を解任させた陰の黒幕」とされ、全国の長嶋信者を敵に回してしまう。
  2. 湯口敏彦事件で「球団こそ大損害を受けた、女性を乗せての自動車事故でなくてよかった」と発言。バッシングを悪化させた。
菊池雄星
  1. もの凄く、ソフトバンクに弱かった。初めて、ソフトバンクに勝ったのは2018年9月28日だった。
    • 2018年は残念なことだらけ。5月は左肩の張りで一軍登録を抹消され、勝率は規定投球回以上では1位になったが、規定により最高勝率はロッテのボルシンガーに譲って、タイトルを逃し、完投が1回だけで完封は0だった。
清原和博
  1. 言わずと知れた無冠の帝王。素質・才能共に十分なはずだったのに…。
  2. 主要打撃タイトルが取れなかった代わりに、死球歴代一位という不本意な記録も打ち立ててしまう。
  3. 一説には当時西武オーナーだった堤義明が溺愛したせいで、清原本人が増長してしまったという噂も…。
  4. 2016年2月には覚醒剤所持で逮捕。
小久保裕紀
  1. 1997年脱税騒動を起こしてしまう。
  2. 巨人への無償トレードが大騒動になった。
  3. 引退後2013年に日本代表監督を務めるがプレミア12、WBCで優勝を逃した。
    • 特にプレミア12では激しく叩かれた。
  4. しかも監督退任後次のプレミア12で日本代表は優勝したため黒歴史扱いに。
  5. 引退試合でノーヒットノーランを達成させてしまった。
    • しかしその時の相手の投手を日本代表に選出していて、良く言えば本人はそのノーノーを評価しているのが分かる。
小林繁
  1. 例の「江川事件」で、巨人から阪神にトレードされた為、「事件の最大の被害者」として有名になってしまう。
    • 阪神移籍直後の1979年は22勝・防御率2.89というキャリアハイの成績を挙げ、沢村賞・ベストナインのタイトルを獲得したが…。
      • 後に小林は「あの年に俺がやったことは野球選手として褒められたことじゃない」「自分のためだけの野球をやっていた」と否定的に振り返っている。
  2. 独特の投球フオームが、あの明石家さんまに物真似されたことは、あまりに有名。
  3. 開幕戦の9回に、よりによって暴投を投げてしまう。これで阪神がサヨナラ負けを喫した。
    • 結局、この年限りで現役を引退。

さ行

佐々木信也
  1. 湘南高校から慶應義塾大学を経て、1956年に高橋ユニオンズに入団。
    • 1年目から154試合(当時)フルイニング出場・ベストナインにも選出されたが、新人王は21勝・防御率1.06を記録した稲尾和久(西鉄)が獲得。
  2. その後高橋の大映との合併(正確には解散)、大映・毎日の対等合併後の大毎でもプレーしたが、1959年限りで現役を引退。
    • 巨人からのオファーもあったが、佐々木本人が断った。
  3. 引退の(表向きの)理由は、その年のオフに監督に就任した西本幸雄が「身長の低い選手はいらない」という考えを打ち出し、身長169cmの佐々木も戦力外通告の対象になってしまった、というものだが…。
    • 後に佐々木が「プロ野球ニュース」で西本に「なぜ僕はクビになったんですか?」と問いただしたところ、実は西本が監督就任した時期に佐々木は結婚しており、その相手が資産家の令嬢と聞いていた西本が「チーム事情で内野手を整理する必要があり、仮にクビになっても生活に困らない者」として佐々木をリストアップしていたというのが真相だった。
  4. 引退後、フジテレビの「プロ野球ニュース」のメインキャスターとなるが、この頃には、佐々木が元プロ野球選手と知らない視聴者が多くなる。
    • 中には、佐々木を「フジテレビのアナウンサー」だと勘違いする人もいたそうな。
G.G.佐藤
  1. 北京オリンピック野球日本代表に選ばれたが、本番では痛恨のエラーを連発したため、メダルを逃したA級戦犯として大きな非難を浴びてしまった。
塩谷和彦
  1. 阪神→オリックスへ移籍し、オリックスでは1年だけ活躍し3割も打ったものの現役時代は全ての年でチームがBクラスだった。
    • 更に引退後は詐欺で逮捕される。
新庄剛志
  1. 2012年度の野球殿堂入りの候補者に上がったが、わずか5票しか得られずそれ以降は候補者リストから外された。
  2. 1999年6月に巨人の槙原寛己から敬遠球をサヨナラ打。その時お立ち台で決め台詞として「明日も勝つ!」と言い放ったが、その発言から一週間後に阪神は首位陥落。
    • さらに、1999年9月に新庄が8回裏に巨人のバルビーノから決勝ソロ本塁打、お立ち台で再び「明日も勝つ!」発言。ところが翌日から阪神は球団ワーストタイ記録の12連敗を喫し、最終的には2年連続最下位という散々な結果に…。
  3. 引退後には彼の金銭管理不足を露呈するように、現役時代の財産を預けていた関係者に奪われてしまった。
    • これがバリ島に渡った理由の一つと言われている。
菅野智之
  1. 入団からわずか6年間で最優秀防御率4度、最多勝2度、最多奪三振2度を経験した紛れもない巨人の、いや日本球界を代表するエースである。
  2. しかし2011年のドラフト会議で日本ハムに指名されて引き当てられた際にこれを拒否。そのせいで翌年巨人に入団した時には既にイメージは悪かった。
  3. とにかく無援護で有名で、2015年は防御率1.91なのに10勝11敗と負け越し。しかもこの防御率で最優秀防御率になれなかった(広島のジョンソンが1.85)。
    • 2016年も2.01で最優秀防御率なのに9勝6敗。ちなみに同じ9勝6敗だった内海哲也の防御率は3.94。
      • そのせいで実況パワフルプロ野球で「負け運」と言う特性が付いてしまった。
        • しかしアップデートでそのマイナス特性は消滅。パワプロ2018でも負け運は無くなっており本人は喜んでいた・・・が当時のチームメイトだったメルセデスに負け運がついた。
          • その後のアップデートで「勝ち運」というプラス特性がついたが、その代償として別のマイナス特性がついたり全体的に能力を下げられることになってしまった。
  4. 「フェアリーファンタジア」と言うソーシャルゲームに登録・課金していたと思われ、そこに「スガーヌォーグ」なるキャラクターが登場。菅野がモデル説がある。
    • しかもそれが明らかになってから成績が低下しており某板ではバレて動揺したとかこのゲームで中指を酷使して傷めたとか言われていた。
    • そして当の「スガーヌォーグ」も公式ではシュガー(Sugar)とノーグ(Noog)の合成語とされているが、某板では菅野+G→SUGANOG→スガーヌォーグではないかという説が長らく支持されていた。
      • なお公式も把握していたのかスポーツコスチュームを纏ったバージョンのスガーヌォーグも実装されていた。もちろんその衣装は言うまでもなく・・・。
鈴木啓示
  1. 20世紀最後の300勝投手であり、選手としては間違いなく優秀。(彼を最後に300勝投手は現れていない。)
  2. しかし監督としては自分の考えを部下に押し付けるという残念な面が多く、それが原因でエースだった野茂英雄や吉井理人らとの対立を招いた。
  3. その結果近鉄は主力を失って低迷したばかりか、離反した野茂や吉井は大リーグやヤクルトで活躍したことから周りからの風当たりも冷たかった。
    • 当時若手だった中村紀洋・水口栄二・大村直之らを積極的に起用、ドラフトで的山哲也・川口憲史を指名するなど、2001年のリーグ優勝へ種を蒔いたとも言えるが…。
  4. 近鉄バファローズで唯一の永久欠番だった「1」もオリックスとの球団合併で引き継がれず消滅。

た行

田尾安志
  1. 東北楽天ゴールデンイーグルスの初代監督に就任したが・・・。
    • 記録的な大差で最下位に終わり、解任されてしまう。
  2. 柔和な風貌とは対照的に硬骨漢で知られ、上層部相手にも「言うべきことは言う」という姿勢を貫いていた。
    • 中日時代、人気・実力を持ちながらも西武にトレードに出されたのはそれが一因とされている。
大豊泰昭
  1. とにかく優勝に縁がなかった。
    • 1994年のリーグ優勝がかかった最終試合(10.8決戦)で巨人に破れ、リーグ優勝を逃す。
    • 1998年に阪神に移籍するも、在籍した3年間は全て最下位。その阪神も彼が引退した翌年の2003年までリーグ優勝&Aクラスから遠ざかっていた。
    • そして中日に逆戻りしたのに優勝を経験できず引退。なお、中日は彼が引退した翌々年の2004年にリーグ優勝を果たしている。
  2. 中日時代は一本足打法だったが、阪神時代の野村克也監督が一本足打法の本家の王貞治を嫌いな為すり足打法に矯正された。
    • 年齢的なピークが過ぎる以前に、そのフォーム変更と阪神の本拠地甲子園球場の広さに適応できなかったのが重なって阪神時代は不本意なシーズン続きだった。
    • 2000年オフに阪神側から年俸の大幅ダウンを提示され、自ら自由契約を申し入れて阪神を退団。
    • 大豊は後年、「(野村監督とは)対話も少なかったし、誤解も生じた。でも、それは人生であり得ること。今は阪神と中日、両方を体験できてよかった」と振り返っている。
高木守道
  1. 日本一に縁が無かった。
    • 1974年(中日現役時代)、1982年(中日コーチ時代)とリーグ優勝を2回も経験したが…。
      • 1974年はロッテ、1982年は西武にそれぞれ2勝4敗で敗れ、日本一を逃す。
  2. 中日監督時代の1994年・2012年は最後の最後で日本シリーズ進出を逃してしまった(1994年は勝った方が優勝の10.8決戦で敗戦、2012年はCS3連勝から王手をかけるもそこから4連敗)。
    • しかも両年とも対戦相手は1974年にその中日にV10を阻止された巨人である。
  3. 2013年は中日が12年ぶりのBクラスの4位に終わり、セ・リーグ5球団に負け越す結果となってしまう。そして高木はその責任を取るために退任。
    • そして、この頃から現在まで続く中日の暗黒時代が再来したので、チームを弱くした元凶とも言われやすい。
高橋直樹
  1. パ・リーグでは日拓所属時にノーヒットノーランを達成し、西武在籍時の1983年には最高勝率を獲得するほど活躍したが、セ・リーグでは通算169勝の内2勝しか出来ず、異常にセ・リーグに弱かった。(東映・日拓・日ハム→広島→西武→巨人、2勝はいずれも広島時代に挙げた)
  2. 西武在籍時日本シリーズにも3度出場したが1勝も挙げることはなかった。
高橋由伸
  1. チームの都合で強制引退させられて監督に押し込まれた時点でざんねん。
  2. そして指導者経験一切無しで監督をやらされたため、戦術にもざんねんなところが多かった。
  3. 最後はその成績がざんねん過ぎて監督を退任。結局この前と後に監督をやって優勝を経験した原監督の噛ませという評価を喰らう事に。
  4. あくまでもざんねんだったのは監督時代のみ、選手の時はとても良い選手だった。
  5. すぐ怪我をして離脱する。後年にはその怪我で規定打席にすら立てなくなる始末。
    • 特にボールが良く飛んでいた2000年代前半に離脱が多かったため、そこで通算成績をかなり損したと思われる。
    • フェンス際の捕球が特に苦手だった。
  6. そもそも学生時代から親兄弟に野球を強いられていた上に意中の球団に入れず巨人に入団という経緯はアンチ巨人ですら同情した。
    • 一流の選手に育てた一方で息子の人生狂わせたのは、正直な話どうしようもなさすぎると思った。
    • 当時の意中の球団の監督だった人ですら同情して激励するレベルだったから。
  7. ウルフという愛称がつけられたが定着しなかった。
多田野数人
  1. 説明不要。
    • ×××なビデオに出演しなければどれ程活躍していたことか...。
達川光男
  1. 広島時代、内角球がユニフォームに当たってないのに当たっているようにアピールする姿が珍プレー番組の常連に。
    • ついたあだ名が「グラウンドの詐欺師」。
  2. 松村邦洋に物まねのネタにされたのを気にして、一時期しゃべり方がぎこちなくなったことがある。
  3. 監督時代(1999年~2000年)は投手陣の崩壊に苦しんだ。
    • 若手の黒田博樹・新井貴浩・東出輝裕らを台頭させたがチームは2年連続5位に終わり(最下位に低迷していた阪神には2年連続で負け越し)、成績不振の責任を取る形で2000年に辞任。
田淵幸一
  1. 阪神時代は「天才ホームランアーチスト」として名をはせるも・・・。
  2. 西武時代は、あの名作「がんばれタブチくん!」の主人公として名をはせることに。
    • その影響で、絶対に不可能なことを意味する「タブラン(タブチのランニングホームラン)」という言葉が生まれる始末。
  3. 山本浩二同様、同級生で実績が上のはずなのに「星野仙一の舎弟」感が強い。
  4. 1990年から2年間、福岡ダイエーホークス(当時)の監督を務めるも、最下位→5位→4位と一度もAクラスに入れず、解任。
  5. 現役時代の天才選手ぶりを知らない人はいしいひさいちのタブチくんイメージが強いことだろう。
多村仁志
  1. スペランカーとまで称される怪我の多さとあり得ない怪我の理由に最後まで悩まされ続けていた。
  2. スペ体質すら無ければ…と言われる選手筆頭である。
辻内崇伸
  1. 大阪桐蔭時代に甲子園を大いに沸かせ、ドラフトの目玉として注目を集める中で巨人に1位指名され入団するが、度重なる怪我のため一軍登板はないまま引退。
    • 大阪桐蔭を卒業する頃には既に肩がボロボロだったという。
辻発彦
  1. 西武の監督として2018年・2019年にリーグ優勝を果たすも、CSファイナルではいずれもソフトバンクに敗れている。
土井正三
  1. 1991年から1993年までオリックスの監督を務めていたが、成績は3年とも優勝争いに加われない3位だった。
    • 上田前監督時代に活躍していた選手(松永・ブーマー・熊野・門田)を放出、新人の田口を厳しく指導しすぎてイップスを発症(土井監督退任後に外野にコンバート)するなど、「名将」とは言えない監督。
      • 松永とのトレードで獲得した野田浩司を覚醒させたのが唯一の功績か。
    • 特にパンチ佐藤は引退後のインタビューで「プロへの扉を開いてくれた上田監督、芸能界への扉を開いてくれた仰木監督、…途中誰かいましたけども」と辛辣にコメントしている。
  2. オリックスの監督として「イチローを見いだせなかった」というイメージが強いが…。
    • 実は土井は当時層が分厚かったオリックスの外野陣の中でイチローをかなり優遇しており、1992年は後半戦でそれなりに起用していたり、1993年の開幕戦ではスタメンとして起用していた。
      • イチロー本人は後に「みなさんが思っているような犬猿の仲ではない」「本当に感謝しているので、そこは誤解しないでくださいね」と語っている。
        • 近年、イチローの素質を見い出せなかったのは一軍の打撃コーチだった山内一弘と言われている。
  3. 一応フォローしておくが、選手・巨人のコーチとしては決してざんねんではない。
富田勝
  1. 法政大学時代、山本浩二・田淵幸一とともに「法政三羽ガラス」と呼ばれた三塁手。
  2. プロ野球でも通算1087安打と山本や田淵には及ばないまでもそれなりの実績を残しているが、南海(4年)~巨人(3年)~日本ハム(5年)~中日(2年)と4球団を渡り歩いたためかいまいち印象が薄い。
    • 全球団から本塁打を達成しているが、達成した試合は宇野ヘディング事件が起こった試合である。
  3. 引退後に、ビートたけし率いるたけし軍団の草野球チームの助っ人に入るが、そのイメージが強くなってしまう。

な行

中島宏之
  1. メジャーリーグに挑戦したが、日本のグラウンドとアメリカのグラウンドの差に翻弄されて、メジャー入り出来なかった。3Aでも低空飛行を続けた結果、2Aまで落ちることに。
  2. このことでwikipediaの略歴欄が揉めに揉めて、結局マイナーリーガーの2年間は記載されず、そこだけ見ると2年間無職に見えてしまう(ちゃんと本文にはこの2年間が記載されている)。
  3. その後何故か古巣西武ではなくオリックスに出戻り、しかし怪我がちで登録を抹消されたり戻ったりの繰り返し。
    • 体のケア云々ではなく、外野席からパイプが落ちてきて当たるという不運にも見舞われた。
  4. その後巨人に移籍したが、ここでも二軍に落ちた。
中村勝広
  1. 現役時代はしぶとい打撃と堅実な守備でセカンドとして活躍。
  2. しかし阪神の監督としては暗黒時代の代名詞的な存在で、名前とひっかけて「負広」と呼ばれていた。
    • フォローしておくと、暗黒時代の阪神で6年間も監督を務めたのはこの人だけ。
      • 1992年は亀山・新庄といった若虎たちの活躍もあり、暗黒時代では唯一のAクラス(2位)を記録している。
    • 結局、1995年に久万オーナー(当時)から「彼の采配はスカタン」と批判され、監督業を休養(その後退任)。
  3. その後2003年からオリックスのGMに就任。2005年には仰木監督の勇退に伴い監督に就任したが…。
    • 清原・中村を中心としたミックスモダン打線構想は両者の怪我などで呆気なく崩壊。
    • 主力選手(谷佳知・北川博敏)の故障もあり、最下位転落の危機を迎えたところで退任。
    • その後はオリックスのシニアディレクターや球団本部長を歴任したが、最下位の責任を取って2009年に退任。
  4. 2013年から阪神のGMに就任。掛布雅之のコーチとしての復帰や西岡・福留・外国人選手の獲得などGMとして奮闘したが、2015年に脳出血で66歳で死去。
  5. ドラフト会議での籤運が異常に悪く、野茂や松井などの抽選には悉く負け続けた。
    • 一応、阪神のGM就任直後の2012年のドラフト会議では大阪桐蔭の藤浪の当たり籤を引いたが…。
  6. トレード・FAでの失敗もかなり多い。
長嶋茂雄
  1. 初めて監督に就任した年(1975)は後述に書かれているようにセリーグ最下位、その後の1976年と1977年はリーグ優勝を果たすも、日本シリーズではいずれも阪急に敗れている。
    • 1996年も当時リーグ史上最大の11.5ゲーム差をはね返してリーグ優勝(いわゆる「メークドラマ」)を果たすも、今度は阪急から改名したオリックスに敗れている。
      • なお、長嶋監督時代に日本一になったのは第2次監督時代の1994年・2000年の2回である。
  2. 2004年アテネ五輪を目指す日本代表監督にも就任したが、脳梗塞を患い五輪本番では指揮を執れず。
  3. また、日常生活での残念エピソードの宝庫でもある。
    • 球場に、息子の一茂を置き忘れたことは伝説。
長嶋一茂
  1. ミスタープロ野球・長嶋茂雄の長男として、鳴り物入りでヤクルトスワローズにドラフト一位で入団。プロ初安打をホームランで飾り、『ミスター二世』として注目を集めた。
    • しかし、プロ3年目に就任した野村克也監督の「ID野球」に全くなじむことができず、シーズン中に目立った活躍はなく、池山などにいじられる光景などがオフの番組を飾るくらい。
  2. 1993年、父・茂雄が監督に就任した読売ジャイアンツへ金銭トレードで移籍。しかし、そこでも目立った活躍はなく、3年後に父の介錯を受ける形で巨人をクビとなり、そのまま引退した。
    • その巨人時代、当時の総合守備コーチ・土井正三から2時間のバント練習をさせられたことに対して「いらねぇよ!あんな奴!!」と暴言を吐き、罰金50万円と二軍降格に加え、しばらくの出場停止処分を受けたことがある。
  3. 引退後、巨人のフロント入りしたこともあるが、何故か1年程で退任してしまう。
    • その為、世間は一茂が巨人のフロントだったことはあまり知られていない。
中村剛也
  1. 日本を代表するスラッガーのひとりだが、怪我が多いため侍ジャパンには2015年プレミア12の1回しか選ばれていない。
中山裕章
  1. KKコンビを擁するPL学園との名勝負を演じた高知商業高校時代から剛腕投手として活躍し、大洋ホエールズでも若くしてエース級投手として活躍していたが1991年オフに横浜市内で幼女への連続わいせつ事件を起こして逮捕。球団も解雇された。
  2. その後はなんやかんやあって中日で球界復帰し1999年のリーグ優勝にも貢献したが、あの事件がなければもっと良い成績&印象を残せていただろう…
二岡智宏
  1. 2008年に巨人軍の選手会長に指名されたが、その年の開幕戦の試合中にふくらはぎの肉離れを起こして二軍調整、7月11日に一軍復帰の予定だったが直前に某女性アナとの五反田の9800円のホテルでの不倫が発覚し延期となってしまう。
    • 7月20日に復帰するも正遊撃手の座を坂本勇人に取られ三塁手に。さらに打席に立つたびに不倫相手をもじった名前や「五反田」「9800円」とヤジられる始末であった。
  2. 追い打ちをかけるように9月に足首の捻挫で二軍落ち。そのままシーズンを終え、その年の11月に日本ハムへトレードされてしまう。
    • 選手会長になってわずか1年の解任と選手会長がトレードされるというのは異例のケースであり。不倫騒動が原因でトレードされたのではと言われていた。
西本幸雄
  1. 監督として日本シリーズに8度出場しながらも優勝できなかった 「悲運の名将」 。
    • このうち5回は巨人のV9時代 (1967~1969・1971・1972) に重なっている。
      • 但し西本本人は「もし私が本当に悲運なら戦争で死んでいるし、復員してから野球に再会できたり、大毎・阪急・近鉄の3チームで素晴らしい選手に巡り合えて、8度も日本シリーズに出場などできない。『悲運の名将』なんておこがましい。敢えて言うなら『幸運な凡将』ですね」と1980年のインタビューで語っている。
根本陸夫
  1. 広島・西武・ダイエーのフロントを歴任し、黄金期の土台を築いたが、監督としてはAクラスが広島時代に1回 (1968年) のみで、それ以外はすべてBクラスである。
  2. そしてダイエー(として)の初優勝を見ることなく1999年4月にこの世を去った。
  3. 球団の項目のダイエーホークスにも書いたが、フロントとしての手腕がエグい。強くなったチームにとっては残念も何もないだろうが、西武が裏金でドラフト指名権を剥奪された土壌を作った原因かもしれない。
野川拓斗
  1. 横浜DeNAベイスターズに在籍していたがわずか2年で戦力外通告を受けた投手。
    • 最終年は背番号を変えられてしまったが挽回できなかった。
  2. なんと言っても「おたくと」と呼ばれるほどのアニメ、ゲーム好きであることが有名だった。
    • DeNA繋がりということでハッカドールの刺繍を入れたグラブを使用していた。
      • 因果関係は不明だが戦力外通告の翌年にハッカドールはサービスを終了した。
    • 最初の登場曲は自身がこよなく愛するらしいあるアニメの主題歌だった。
      • そのアニメはベイスターズの先代親会社である某局で放送されたのだが作画崩壊で有名でセールスでも結果が出なかった。
      • 2018年のみ使用した登場曲もヒットとは言い難いアニメの主題歌だった…。
野村克也
  1. 大阪スタヂアムの跡地に建てられたなんばパークスの「南海ホークスメモリアルギャラリー」では様々な理由で野村本人に関する展示が全く行われていない。
  2. 妻・サッチーのおかげで、監督をクビになったことがある。それも二回。
    • 1回目は1977年(南海)。当時まだ愛人関係だったサッチーの「チーム・選手への口出し、および度重なる公私混同」が理由で、野村を大事にしていた南海の川勝傳オーナーの耳に入り解任。
      • 野村の解任に反対していた柏原純一と江夏豊はそれぞれ日本ハム、広島に移籍。打撃コーチの高畠康真(78年からは導宏)も南海を退団し、野村と共にロッテに移籍した。
        • この年を最後に南海はAクラスに入ることなく1989年にダイエーに身売りされた。
          • また、ホークスの連続Bクラスも1997年まで20年続いた。
    • 2回目は2001年(阪神)。一度は留任も発表され秋季キャンプも指揮を執ったが、サッチーが脱税容疑で逮捕された日に辞任。
      • 野村本人はサッチーが逮捕されるまで、脱税行為をしているとは知らなかったという。

は行

板東英二
  1. 元祖・甲子園のエースとして活躍。中日ドラゴンズのピッチャーだったが・・・。
    • 中日時代、様々な副業に手を出して、ことごとく失敗したことがある。
  2. 引退後、タレントや俳優、司会者として活躍。
    • そのころには、板東が中日ドラゴンズにいたことを知る者は少なくなっていた。
  3. 何回か「水曜日のダウンタウン」に出演していたが・・・。
    • 2016年放送の「早朝リアル脱出ゲーム」では寝起きで機嫌が悪かったというのもあるが、企画内容を説明する仕掛け人の小峠の頭を叩くという行為をやらかした。
      • のちに企画の趣旨を理解し小峠に謝罪しなんとか企画は遂行され、事なきを得た。
    • 2019年6月放送の「中継先にヤバめの素人が現れてもベテランリポーターなら華麗にさばける説」では最後に登場。
      • ヤバ目の素人(役の男性)を強引に押しのけるなどのっけから不穏になり、そのままVTRからスタジオの画面に切り替わりVTRを見て唖然としているスタジオ出演者。最後のナレーションも「恐らくオンエアでは板東全カット」で締められた。
    • 2020年1月放送の「子供からもらった松ぼっくり、家まで持ち帰らざるを得ない説」でも最後に登場。最初は女の子からプレゼントされた松ぼっくりを嫌な顔をせず受け取ったが・・・。
      • ロケバス待ちの時間に松ぼっくりをポイ捨て。さらに仕掛け人の女の子から握手を頼まれても拒否するなどの鬼っぷりを見せてしまう。
        • その後スタッフがネタ晴らしをしたがその際、前回カットされたことに触れ「差別用語でも使ったらカットするんじゃないですか」「これから言うやつを使わなかったら2億ください」とスタッフに対し無理難題を突っ掛ける始末であり、またもスタジオ出演者をドン引きさせた。
張本勲
  1. 現役当時は、喧嘩速さで有名。
    • 巨人時代、広島での試合の際、移動のバスに乗る時カープファンから野次られ、ブチ切れてバットを持って大暴れしたことがある。
  2. 現役引退後は、東京放送(TBS)の解説者として活躍。「サンデーモーニング」のスポーツご意見番は、もはや彼の代名詞。
    • しかしながら、毎週賛否両論が相次ぐことが多い。
      • 特に番組中で彼の意見を批判したフリージャーナリストの江川紹子を降板に追い込んでしまった事件は有名。
平松政次
  1. 「カミソリシュート」と言われた速く切れ味鋭いシュートを武器に大洋ホエールズのエースとして通算201勝を挙げ、巨人キラーとしても有名だが、チームが弱かったせいもあって一度もリーグ優勝を経験できないまま引退した。
広岡達朗
  1. 川上哲治に対して「(自分の送球を)捕る努力をするべき」と言い放ち、川上との確執が表面化した後、追われるように巨人を辞めた。
  2. 吉田義男とは同じセ・リーグの遊撃手としてライバル関係にあったが、現役時代吉田は盗塁王を獲得するも広岡は無冠に甘んじ、吉田が阪神タイガースの、広岡が西武ライオンズの監督として対決した1985年の日本シリーズでも敗れている。
  3. 千葉ロッテマリーンズのGM時代にメジャー監督であるボビー・バレンタインを監督に招聘するも、野球観の違いなどから確執を起こし、1995年シーズンのロッテは2位であったにもかかわらずバレンタインを解任した。しかし翌年は一転して5位に転落し自らがGMを辞任する結果となった。
福本豊
  1. 1988年の本拠地最終戦で、当時の阪急監督である上田監督がうっかり失言してしまったせいで引退させられてしまった。
    • 上田監督「去る山田、そして福本」
  2. 国民栄誉賞を辞退したのは、有名。
    • 表向きは「立ちションベンもできんようになるがな」という理由だったが、実際は「王さんのように野球人の手本になれる自信がなかったから」と週刊ポストの記事でコメントしている。
  3. 引退後は、ABCやサンテレビの解説が主な活動。
    • しかし、必ず脱線することから「居酒屋中継」と呼ばれるように。
      • スコアボードに0が並ぶのを「たこ焼きみたいや」とか、延長戦突入で「加古川の人、帰られへんで」などに代表される、いわゆる「福本語録」が関西芸人のネタにされる始末。
  4. 「世界の盗塁王」として有名だが・・・
    • 西宮球場で、本物の競走馬と100メートル走対決をしたことがある。
      • 因みにこのイベント、当初福本は断るつもりでいたが球団社長から「公表した以上取り止めるわけにはいかない。西宮球場に来てくれるファンのためにも…」と頼まれたため、「一晩悩んだ末に仕方なく」受諾した。
藤川球児
  1. 阪神のクローザーとして圧倒的な実績を持つ・・・が、その実績のせいでシーズン終盤になるにつれ酷使されるようになっていった。
    • その結果終盤の肝心な試合で炎上してしまいそれがもとで試合を落とすことが多々あった。
  2. 2007年9月には10連投の疲労が抜けないなか3試合連続で登板しすべて炎上してしまった。
    • その炎上による敗戦で8連敗を招いてしまった。
  3. 2010年9月30日の対横浜戦では優勝に向けて落とせない試合でありなおかつ矢野燿大の引退試合という大事な試合で2点リードの9回表にクローザーを任せられるも・・・。
    • 制球に苦しみノーアウト1・2塁に、次のバッターである村田修一にスリーランホームランを被弾。逆転を許してしまう。
      • この試合を中継していたサンテレビのアナウンサーの「行くな!行くな!越えるな!」の絶叫からの沈黙、そして十数秒の沈黙のうちに絞り出された「悪夢のような現実がそこには待っていました」は今も阪神ファンの記憶に刻まれている。
  4. その結果出る予定だった矢野は引退試合に出られなくなり試合終了。引退セレモニーのみに出たがその時に花束を渡したのは村田だった。
  5. この試合以降、某所ではクローザーで炎上した投手のことを「○川○児」と揶揄するようになった。
  6. メジャーにも挑戦したが、何度も故障者リスト入りしたためまともな活躍ができなかった。
藤田平
  1. ベストナイン7回、首位打者1回、そして阪神生え抜き初の2000本安打などの実績を挙げたが、結局一度も優勝出来なかった。
    • しかも1984年引退の翌年にチームは初の日本一になっている。
  2. 上記の実績があるにも関わらず、ほとんどミスタータイガース扱いされていない。
  3. (暗黒時代だったこともあるが)阪神の監督としては全く良い成績を残せなかった。
    • 1995年・二軍監督として10年ぶりに復帰も新庄剛志と対立。
      • オールスター明けから一軍の監督代行を務めたが17勝36敗で勿論最下位。オフには新庄引退騒動も起こった。
    • 1996年・「鬼平監督」と呼ばれるほどの熱血指導も成績には結びつかず。
      • 東京駅で暴走した阪神ファンに詰め寄られる事態も発生、結局シーズン終盤の9月11日に監督を解任された。
    • 唯一の功績は二軍監督時代から目を付けていた平塚克洋(オリックス)をトレードで獲得し、レギュラーに定着させたことぐらいか。
星野仙一
  1. 2008年の北京オリンピックの野球競技・日本代表で監督を務めるも、メダルなしの4位に終わった。
  2. 2013年の楽天で達成するまで、3度(中日で2度阪神で1度)日本シリーズに挑戦して日本一になれなかった。
    • 1988年・1999年・2003年の3回。その時の対戦チームは88年のみ西武で、他はいずれもダイエーだった。
堀内恒夫
  1. 巨人のV9時代のエースだったが、監督としては1年目の2004年は3位、翌2005年は5位に終わっている。
    • そのため巨人の球団史上初の胴上げ未経験監督となってしまった。
  2. 2005年の本拠地最終戦では堀内監督にブーイングが飛び、最終戦セレモニーが中止になった。
  3. 巨人がレギュラーシーズンで目の前で相手チームの胴上げを許した試合が(2019年現在)5回あったが不運にもそれらを全て現地で立ち会っている。
    • 1975年の広島(後楽園/当時巨人投手)、1995年のヤクルト(神宮/当時巨人投手コーチ)2005年の阪神(甲子園/当時巨人監督)、2006年の中日、2016年の広島(東京ドーム/日本テレビ解説者)

ま~わ行

前川勝彦
  1. PL学園高校で2回甲子園に出場。1996年のドラフト会議で地元の近鉄から1位指名を受け入団。
  2. 2年目の1998年に12月1日に予定されていた契約更改をすっぽかし、更にフロントに対して「今日は11月31日だと思った」と発言し、免許証を没収されてしまった。
  3. 4年目の2000年に登録名を本名の「克彦」から「勝彦」に変えると頭角を現し、チーム最多の8勝・リーグ最多の8完投を挙げ、オールスターゲームにも初出場。
  4. 2001年もチーム最多の12勝を挙げ近鉄のリーグ優勝に貢献したが、好不調の波が激しかったこともあり防御率はリーグワーストの5.89を記録してしまった。
  5. 2002年は防御率こそ改善されたが勝ちに恵まれず、シーズン終盤には得意だったはずの西武にも打ち込まれ、最終成績は4勝11敗・防御率4.87。
    • 契約更改時にフロントから「V逸の戦犯は前川と磯部(公一)」と言われてしまう。
  6. 2003年も4勝2敗・防御率7.38と不振に終わり、オフに川尻哲郎とのトレードで阪神に移籍。
    • 因みに4勝のうち3勝は中継ぎで挙げたものだった。
    • 阪神でも先発として期待されていたが全く活躍できず、2005年のオフに相木崇とのトレードでオリックスに移籍。
  7. オリックス1年目の2006年は24試合に登板し1勝7敗・防御率4.37の成績に終わったが翌年以降の活躍を期待されていたが…。
    • 年が明けた2007年1月6日に無免許でひき逃げ事件を起こし逮捕。その後保釈されたがオリックスからは契約の解除を通告された。
    • 高校の先輩の福留孝介(当時中日)からは「これで人生終わりにしちゃったようなもん」「あんなヤツのことをもうこれ以上話す気になれん」とコメントされてしまった。
  8. その後マイナーリーグやメキシカンリーグ、四国アイランドリーグなどで野球を続けたがNPB復帰は叶わず2011年に引退。
真中満
  1. 現役時代はそこまでざんねんな部分は無く、現役引退後も二軍の監督として2013年にイースタンリーグの優勝を、その後2014年10月に一軍の監督に就任し、翌2015年にヤクルトをリーグ優勝に導いている。
  2. しかし2015年のドラフト会議のこと、ヤクルトと阪神は高山俊を1位指名としたためくじ引きでの抽せんとなった。
    • ヤクルトは真中監督、阪神は当時の監督だった金本監督がそれぞれくじを引いたが、くじを確認した真中が即座にガッツポーズをしたことで金本は外れたと思ってくじを確認せずに席に戻る。
      • 当然多くの観客やTVスタッフ、ドラフトの模様を見ていた視聴者、そして高山自身もヤクルトが交渉権を獲得したのだろうと思った瞬間だった。
  3. だがくじを確認した事務局が真中の引いたくじがハズレだと気づき慌てて阪神側のクジを確認する間に真中へのインタビューが始まってしまった。止められなかったのである。
    • 交渉権獲得の訂正が発表され改めて当たりを引いた金本へのインタビューが始まり、金本は「ビデオ判定でホームランに覆った心境」とコメントした。
  4. 真中がガッツポーズを暴発したのはくじの紙に左側に印字されているドラフト会議のロゴを当たりと勘違いしたのが原因であり、翌年以降はハズレには完全な白紙にするという措置が取られた。
    • しかしドラフトが近づくたびに彼のやらかしは度々穿り返されることとなった。
村山実
  1. かの有名な「天覧試合」で、長島茂雄に打たれたホームランを「あれはファールだった」と、ずーーーっと言い続けていたのはあまりにも有名。
  2. 芦屋市のマンションを自ら購入して自分自身の会社の本社にしたが、その自宅マンションが1995年の阪神・淡路大震災で被災し、しばらく自家用車で寝泊りをする生活を強いられていたというエピソードもかなり有名。
  3. 監督1年目の1988年に春季キャンプで自ら打撃投手を買って出たが、無理しすぎて股関節を痛め人工関節手術を受けることになってしまった。
森祇晶
  1. 横浜ベイスターズ監督時代は成績不振に喘ぎ、特に2002年は勝率3割台と落ち込み、シーズン終了まで14試合を残したところで解任された。
    • なお、森監督のBクラスは2002年のみである。
      • この頃から暗黒時代が再来したので、チームを弱くした元凶とも言われやすい。
  2. 西武ライオンズ監督時代には、たくさんの名選手を輩出し、黄金時代を築き上げたものの、ある年に堤オーナー(当時)から「監督やりたかったら、どうぞ。」と言われてしまう。
柳川福三
  1. 1961年のシーズン中に日本生命から中日ドラゴンズに入団。
    • この入団を巡って社会人野球界とプロ野球界の関係が大きく冷え込み、社会人野球はプロ野球との関係断絶を発表した。
  2. 柳川自体もそれほど活躍できず1965年限りで引退。
山内一弘
  1. 2271安打、396本塁打(本塁打王2度)、1286打点(打点王4回)、首位打者1回と言う紛れもない大打者である。
  2. しかし指導者として残念エピソードが多い。
  3. まずロッテの監督として3年務めたが、2度前期優勝しながらどちらも総合優勝できなかった。
    • 中日の監督を務めた際には初年度こそ2位だったが2年目は5位、3年目は途中休養させられた。
      • 与那嶺監督から谷繫監督の間、唯一「燃えよドラゴンズ」の歌詞に出ない監督だった。(ニコニコ動画にPVが入った動画はあるが)
  4. 趣味に「コーチ」と書くほど教えるのが大好きであり、監督時代には相手チームの選手(ペナント争いをしていた広島)にまで指導をしていた。
    • 確かに多くの打者を一流に育て上げたが、落合博満には当初理解されず、イチローとは打法を巡ってかなりいさかいがあったとされる。
      • 当初「イチローを見いだせなかった」存在は土井正三であったが、近年は打法を強引に改造しようとしたされる山内の方がやり玉に挙げられやすい。
山崎康晃
  1. 自分でタイブレークを作ってしまうことが多い。
  2. ネットで太ってしまったことが話題になってしまった。
山本浩二
  1. 2013年のWBCで3連覇を目指す侍ジャパンの監督を務めるも、ベスト4で終わった。
  2. 同級生で実績が上のはずなのに「星野仙一の舎弟」感が強い。
  3. 広島の監督を2度務めたが、2度とも最終年は最下位に終わってしまった。(1993、2005年)
山本八郎
  1. 「ケンカ八郎」と呼ばれるほどの喧嘩っ早い性格で、東映時代に2度も出場停止処分を受けてしまった。
    • 山本の退場処分はこの2回だけなのだが、その2回があまりにも強烈だった。
  2. 1度目は1958年5月10日の南海戦(駒沢)、判定を巡って一塁塁審の角田隆良へ暴力行為を働き退場。
    • この時はファンからの署名活動により、1ヶ月半後の6月23日に出場停止処分が解除された。
  3. 2度目は1959年5月30日の近鉄戦(駒沢)、ホームへの猛烈なスライディングを敢行したが近鉄のキャッチャー・加藤昌利が完全にブロックしアウトの判定。
    • 加藤はボールを持ったままの右手で山本の肩を軽くたたいて諭したが、殴られたと勘違いした山本は振り返りざま加藤の左首筋にパンチ。殴られた加藤もよろけた後に持っていたボールを山本目がけて投げつけた。
      • これをきっかけに両軍ベンチ入り乱れての乱闘に発展。結局山本の非を認めた東映の岩本義行監督が山本を自主的に退場させることで決着した。
    • 福井・永平寺での約20日間の精神修行の後、シーズン終盤の9月にようやく復帰した。
  4. 1962年のオフに監督だった水原茂との確執もあり、1963年に近鉄バファローズへ移籍。
    • 中心打者として活躍するが、1967年にはサンケイアトムズへ移籍。ここでは出場機会に恵まれず、同年限りで現役を引退。
  5. 引退後は関西テレビの解説者・鴨川シーワールドでのシャチの飼育係・大阪で実家の生花店などを継ぐなど、球界からは完全に一線を引いた。
湯浅禎夫
  1. 初代日本シリーズ優勝監督であるが、前述の平和台事件の元凶になってしまい、責任を取って辞任することになった。
    • プロアマ両方で功績を残したにもかかわらず野球殿堂入りを果たしていないのは、平和台事件の影響だと言われている。
渡辺久信
  1. 西武黄金時代のエースとして工藤公康と共に優勝に貢献。最多勝3度記録、ノーヒットノーランも達成、さらに女性人気も非常に高かったのだが……
    • 93年以降成績が下降、2つ年上の工藤がその後7回も二ケタ勝利を上げたのに対しこちらはゼロだった。結果勝ち星で99勝(台湾除く)もの差がついてしまう事に。
  2. 20代半ばごろからかなり頭が薄くなっていた。その点でも工藤や秋山幸二と差が付いてしまった
  3. 最後の三年間は台湾に渡り指導者兼選手として活躍したが、そこで屋台飯にはまって太ってしまった。
  4. 2008年に西武監督に就任。初年度に日本一になるがその後はいわゆる「俺達」が蔓延、その後西武は日本シリーズに一度も出場できていない。
和田豊
  1. 阪神タイガースの監督就任時に「ちょっとしたスパイスで優勝できる」と豪語したのだが・・・。
    • その年のタイガースは早々と優勝争いから脱落し、リーグ5位に終わった。
  2. 監督就任中に週刊新潮に過去の不倫をすっぱ抜かれてしまった。
    • しかもその中で不倫相手に送ったとされるメールが公開されたのだが、その文章が読んでて恥ずかしくなるような内容だったため、以降阪神タイガースを揶揄するスラングの中にその文章を基に「阪神タイガーチュッ」が加えられてしまった。
  3. ただ選手としては暗黒時代の阪神に17年間在籍し1739本の安打を記録、ベストナインにも2回(1992年・1994年)選出されるなど決してざんねんではない。

関連項目




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