織田信長

2013年3月24日 (日) 13:30時点における>無いですによる版
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<戦国武将

上杉景勝

  1. 謙信の甥(姉の子)。父・長尾政景の死後、謙信に引きとられ、実子のない謙信の後継者として育てられる。
    • 父は舟遊びをしている時に舟がひっくり返って溺死。
      • 謙信による暗殺説もある。謙信にとって政景は何かと偉そうに口を出すうっとうしい存在だったようだ。
  2. 順当に謙信の後を継げるかと思ったら、北条氏から養子に入った景虎がいきなり存在感を増し、危ういことに。
    • 謙信の元の名であった「景虎」を名乗ることが許されただけでも、そっちが後継者かと人々が見たのは無理もない。
    • 無口で気むずかしい景勝に較べ、景虎は明るく社交的で、しかもイケメンだったので、たちまち人気者に。後継者に景虎を押す家臣も増えた。
  3. 謙信の死後、上杉家は景勝派と景虎派に分裂して大抗争。世に言う御館の乱。
    • 謙信がせっかく織田信長を越前まで押し戻していたのに、この内乱に乗じられ、加賀・能登・越中をあっという間に取られてしまう。
      • たまたま信長が本能寺で死んでくれたから良かったようなものの、もう少し長生きしていたら越後もヤバかった。
    • 武田勝頼の援助を得て景虎に打ち勝つ。
      • 実はこれが勝頼の命取りになった。武田勝頼の項目を参照。
      • 勝頼がほどなく死んでくれたので、武田の下風に立つことも免れた。景勝って意外と強運。
    • 先手を打って春日山城を押さえたことが大きな勝因。ただ景勝側に戦の大義があったのかは疑問。
  4. 生涯一度しか笑顔を見せなかったと伝えられる。
    • 滅多にしゃべることもなかった。
    • しゃべったり笑ったりすると、謙信の後継者としてボロが出ると怖れていたからかもしれない。
    • しかしこのコワモテ方針はそれなりに効果があり、沈着冷静に見られて他の大名からも信頼され、家臣からも畏敬された。
      • 効果がありすぎることもあった。
        • 景勝と家臣達が船に乗っているとき、人数が多すぎたのか船が揺れる。→景勝のコワモテがひどくなる。→「殿がお怒りじゃ!」家臣たち争って水に飛び込む。
  5. 秀吉には大いに信頼された。
    • 小早川隆景の死後、五大老に列せられる。
    • 越後から会津に移封されたが、これは秀吉の意地悪ではなく、徳川家康の背後を押さえる役目だった前領主の蒲生氏郷が急死したための窮余の一策で、信頼されていたからこそのことだった。
  6. 関ヶ原の戦いのきっかけを作る。
    • 家老の直江兼続が、石田三成と示し合わせていたと言われるが、真偽のほどは微妙。
      • 三成と示し合わせていたにしても連携がなっていなかった。
    • いずれにしろお膳立ては兼続が調えたようで、景勝はそれに乗っかっていただけっぽい。
    • 討伐に来た家康が、三成の蜂起を知って、結城秀康を抑えに残して反転した際、追撃しようとする兼続を制止。
      • 「去ってゆく敵を追撃するのは謙信公の教えに反する」というようなことを言ったと伝えられるが、それなら最初から挑発しなければ良かったので、実は景勝は家康と戦いたくなかったのかもしれない。
        • 考えてみると、景勝自身の軍事的能力はあんまりよくわからなかったりする。
    • 家康が一方的に叛意ありと決め付けて討伐軍を起こしたのが真相。
      • 景勝としては移封の後で忙しいのに上洛してる暇なんてないというのが本音だろう。
  7. でも、大坂の陣では徳川方の有力軍として参戦。

上杉謙信

  1. 女性説がある。
    • 信憑性は極薄。
    • 生前に描かれた可能性もある最も古い肖像画だと、顎がガッシリした、いかにも戦国武将らしく描かれている。
  2. Gakuto
  3. 越後の竜
    • 越後の虎ともいう。
  4. 自分が毘沙門天の化身だと思い込んでたらしい。
    • 旗に書かれた文字は「毘」の一文字。
    • 飯綱信仰にも凝っていて、兜の前立てが残っている。
    • 三宝荒神を模った兜もある。戦国時代の変わり兜を代表する名品。
  5. 大酒のみ。肴をほとんど食べず飲むタイプだったらしい。
    • 酒の肴は塩。それで脳溢血を起こし、便所で倒れたらしい。酒席の相手は専ら直江兼続だったらしい。
    • 梅干も好きだった。どっちにしろ塩分採り過ぎ。
    • 辞世の句も酒。
  6. 軍事の天才だったのは間違いないのだが、天才すぎて作戦構想を家臣に説明することができず、「黙って俺についてこい」というスタイルを貫き通した。
    • とはいえ、戦えば勝つしカリスマもあるので、家臣も「しょうがねえなあ(苦笑)」とか言いながら最後までついていくことになる。
      • けっこう家臣に裏切りが多くて、いじけて出奔したこともある。
        • 自分の必要性を分からせるための計算だったとも言われる。
  7. 女性説というか、オカンの香りがする逸話が残っている。
    • 甥の景勝宛に「雪が深くなる前に春日山に戻っておいで」「こっちは寒いからちゃんと身支度をして来るんですよ。途中まで迎えを出します」という手紙が。
    • 戦場で腹痛を起こして城に戻ったのに、城では人質の幼児をおぶってあやしていた。
    • 女性というより、性同一性障害だったのでは?
  8. 後継者候補の養子を二人も取っておいてはっきり指名せずに急死。そのため家中を二分する戦が勃発し北条や武田も巻き込み関東甲信越のパワーバランスを大きく乱す。
    • 最近の学説では、景虎に関東管領を、景勝には越後守護職を、それぞれ譲ろうとしたという見方が強い。
      • ただこれが実現すると、景虎が北条氏の出身故に実質北条に関東を譲る形になってしまう。何度も関東へ遠征した重臣たちからすると認めがたい事態で、景勝が勝ったのもその点にあるのだろう。
  9. ゲームとかでは「戦闘バカ」的な数値なことが多いが、意外に政治力もあった。
    • 何かと出費の多い当時で、財政を黒字に転換させてみせたことは、もっと評価されてもいい。
      • 彼が死去したとき、春日山城内には2万5千貫もの大金が遺されていた。
  10. 米沢では現在でも神様あつかい。近代になって遺骸の学術調査の依頼があったが、米沢市も上杉家も即座に断ったという。
    • 謙信公の遺骸は漆で固めて鎧を着せ、瓶に収めているため、身体が残っている可能性が高いそうな。

宇喜多直家

  1. 宇喜多秀家の父親で、戦国の梟雄といえばこの人。
  2. あらゆる謀略と暗殺を駆使して、備前国の大名となった。
    • この人の出すお茶は絶対に飲んではいけない。
    • 娘ごと娘婿を暗殺とか・・・ひどすぎる。
      • この事件が起きたのが七月七日だったため、この地方ではその後長い間、七夕祭りを行わなかったという。
    • 日本史上初の鉄砲による暗殺もこの人(の家臣)が実行した。
    • そのせいか、弟からも恐れられていた。
      • 曰く「兄は腹黒く、何を考えてるかわからなかったので、会うときは必ず鎖帷子を身に着けていた」
  3. 暗殺の実行に携わった家臣は終生庇いとおしていることは意外と知られていない。
    • つまりトカゲの尻尾切りみたいなことは決してしなかった。なので家臣団からの信頼度は抜群だった。
    • まあそのせいで、↓のように家臣団が尊大で息子が苦労するわけだが。

宇喜多秀家

  1. 備前岡山の大名。関ヶ原では西軍で奮戦した。
  2. 親父の直家は松永久秀と双璧の梟雄で、暗殺と陰謀を繰り返して備前を乗っ取った男。
    • でも晩年弱気になり、羽柴秀吉に頼る。
    • 父が成り上がり者だけに、家中には態度のでかい重臣が多く、のちに秀家がえらく苦労する。
  3. 母・お福がすごい美人で、直家の死後秀吉に身を寄せる。おかげで秀家も秀吉に大変かわいがられた。
    • 「八郎(秀家)ほど可愛い者はない」とさえ言われ、秀吉の猶子となる。
    • 秀家自身も肖像画を見る限りではイケメン。
      • あの肖像画は昭和になって地元の画家が描いた想像画。根拠は全く無い。
  4. 朝鮮の役でも大活躍した。
  5. 五大老に選ばれたが、いかんせん若すぎて重みに欠け、家康に翻弄された観がある。
  6. 関ヶ原のあとで八丈島に流され、とても長生きした。
    • 83歳まで生きた。このときの将軍は4代家綱。
    • 福島正則(実際には正則の家臣)から酒をせびった。
      • 話を聞いた正則は落涙し以後江戸に向かう船に八丈島に立ち寄り秀家に酒を贈るように命じたとか。
  7. 実は仮面ライダーだったりする。
  8. 八丈島から泳いで大坂まで帰ってきたとかいうネタをどっかで聞いたことがある。
    • 泳い で参った!!!

氏家卜全

  1. これの作者…ではない。
    • 当然ト全(とぜん)ではない。
  2. 美濃三人衆の一人で、諱は直元。安藤、稲葉よりも勢力が大きかったという。

浦上宗景

  1. 備前の大名。実の兄と抗争し、戦国有数の悪党である宇喜多直家に下克上されて追い出される。
  2. 直家のかませの印象が強いが、直家の謀反を一旦は鎮圧したり、織田信長とよしみを通じて直家を始末しようとするなど、なかなかの策略家である。

大久保忠教

  1. 徳川譜代の大久保氏の生まれ。通称彦左衛門。「天下のご意見番」と称される。
  2. 家康、秀忠、家光と三代にわたって将軍に仕えた。
  3. 戦国時代はもとより、江戸幕府成立後も武士としての生き方を貫いた。
    • その生き方に徳川氏と大久保氏の歴史と功績を交えた家訓書として『三河物語』を記した。
  4. 後世の講談等でヒーローとして祭り上げられたフシもある。
  5. 御茶ノ水駅西口から坂を下り、杏雲堂病院の敷地内に「大久保彦左衛門屋敷跡」の碑が建ってる。

大関高増

  1. 下野国の戦国大名那須家の忠臣(二代)(笑)。
  2. 色々ひどいことをしておきながらも、ちゃっかり生き残っている、処世術の達人。
  3. 父は大田原資清で、長男でありながらも嗣子を失った(笑)大関宗増の養子になる。
  4. 彼の悪事の数々。
    • 宿敵・宇都宮家との戦のことを主君に咎められ、宇都宮家や佐竹家と結んで主君に反旗を翻す。
      • だが負けてしまう。
    • 負けてしまったものの、主君の隠居を条件に、那須家忠臣(笑)に復帰することができた。
    • 同僚の千本家を謀殺し、遺領を兄弟で山分け。
    • 同じく同僚の伊王野家にいきなり攻め込んで殺す。
  5. 秀吉の小田原征伐に遅参して那須家が改易されたときは、家臣一同一致団結して秀吉に那須家復興を嘆願した。
    • おかげで那須家は旗本として存続を許された。
      • 一方大関家は大名に・・・ん?
        • 実家の大田原家も大名に・・・んん??
  6. 実家は弟が継ぎ、他の弟も他家の養子になったが、兄弟仲は良かったようだ。
    • 家臣団を見渡すと、ほとんど大関の息がかかっている連中。これは怖いw
      • まあこれは高増よりも父がすごい。


太田資正

  1. 犬使い。
  2. 生涯を北条氏との戦に捧げた人。
    • とにかく徹底的に反北条を貫いた。
      • しかし息子はさっさと北条の配下に。はらわた煮えくり返っただろうなぁ。
        • 2人いた息子のうちの兄のほう。弟のほうは父と行動を共にし、後に佐竹氏に仕えた。
          • ちなみにその兄はすぐに戦死している。「ざまぁ」と思ったかどうかは定かではない。
  3. 「酷い目に太田道灌」はひいじいちゃん。

太田康資

  1. 上記の太田資正の同族で、太田道灌の直系のひ孫にあたる。
  2. “三十人力”と呼ばれた怪力を誇る関東を代表する脳筋、もとい猛将。
  3. もう一人の関東の猛将、清水太郎左衛門政勝との一騎打ちは、「敵味方とも戦を忘れ、その光景に見入った」という凄まじいものだったという。
    • このときは太郎左衛門に刀を折られた康資の負け。くやしがった康資は、折れない武器をと長さ八尺の金棒を作って得物にした。

大谷吉継

  1. 石田三成の親友。実際の彼はハンセン病に罹患して顔面が崩れていたようだが、ゲームやドラマ、小説の挿絵などでは補正がかかって美形として描かれる事が多い。
    • または白い覆面で顔を隠した姿。
      • 但しそれは明治以降に出来た創作ではないかとも言われる。一次資料では「目が見えなくなった」と書状に書くのみでそうであったかは解らない。
    • 罹っていた病気には諸説アリ。トンデモ路線な感もあるが、「毒を盛られた」という説もTVでやってたな…
  2. 病のため歩く事もままならず、戦場では御輿に跨って采配を振るった。
    • 鎧も着ることができないので、紙子(紙の服)に鎧の絵を描いて戦に望んだと言われている。
  3. 秀吉から100万の兵を指揮させてみたいと言われるほど信頼されていたらしい。
    • 家康からの評価も高く彼が西軍についた時は狼狽したらしい。
    • ぶっちゃけリップサービス。この人も過大評価されすぎ。
  4. 死後亡霊となって小早川秀秋を呪い殺したという噂が昔からある。眉唾物だが、秀秋が裏切者として唾棄されていることと、秀秋の死様が尋常ではなかったせいで本当に吉継の亡霊に祟り殺されたと信じている人も多い。
    • 伝承にいわく、大谷軍の死者は全て秀秋の軍をにらみつけながら死んでいった。
  5. 官位は刑部少輔。石田三成の治部少輔と同位階・同系列なので、やっぱり秀吉が同じくらい目をかけていたんだろう。
    • それもあるだろうが、吉継の主な職務が軍政で、三成と職責上も被る部分があるためだろう。
    • 関ヶ原での活躍で補正がかかっているが、本来は丹羽長秀タイプの縁の下の力持ち的バランス型の人物。

大田原資清

  1. 下野国の戦国大名那須家の忠臣(初代)(笑)。
  2. 普通に那須家の家臣として仕えていたが、あるとき同僚の大関宗増の讒言により失脚してしまう。
    • 資清は越前に逃亡するが、26年後に再起し、宗増の嫡男を殺して長男を養子に送り込む。

大友義鎮(宗麟)

  1. 豊後の大名。北九州6カ国の守護となって大友氏の最盛期を現出した。
  2. 若い頃は酒色にふけって奇行も多かったために、親父の義鑑に後継から外されそうになった。
    • その直前に「二階崩れの変」と呼ばれる謀反が発生して義鑑が殺害される。
    • 義鎮の関与が疑われるも、「私は父上の勧めで別府に湯治に行っていました。謀反などと、そんな不孝な真似を。クックックッ」と不問に。
  3. 家督を継いだ後も女遊びが過ぎたため、正室に呪い、もとい浮気の虫を鎮める調伏をかけられる。
    • 義鎮は嫁の恐ろしさに失踪。町外れの小屋の中で一人ガタガタ震えているところを発見される。
    • 正室は奈多八幡宮の大宮司の娘。そのため義鎮がキリスト教にかぶれると、信仰の相違で争うことになる。
  4. 晩年はキリスト教にかぶれるを通り越して完全に帰依し、寺社仏閣をぶっ壊したりした。
  5. ことほど左様にろくでもない逸話だらけの人物だが、外交には定評があり総合的に見れば有能の部類に入る。
    • 基本的には有能なのだが、極端な行動に走る、精神的に不安定な人物という印象。
  6. 室町幕府や朝廷に多額の寄進をして九州支配の大義名分(官位)を得たが、贈りすぎて大友家の財政がやばくなり家臣に怒られた。
  7. 臼杵の郷土料理、黄飯の生みの親。ポルトガルの宣教師から聞いた、パエリアを真似て作らせたのがはじまりだという。
    • 平成から戦国時代にタイムスリップしてきたケンという人物はおそらく関与していないはず。

織田長益(有楽斎)

  1. 誰しもが最初に見たとき何て読むのか悩む。
    • うらくさいと読みます。
      • 有楽町の名はこの人の江戸屋敷があった事から来てるがそれならうらくちょうって言えばいいのに。人名由来なんだから訛るなってんだ。
        • 日本の人名って、わりとアバウトなところがあるので……漢字が合ってれば読み方はどうでもいいとか、発音が合ってれば漢字はどうでもいいとか、案外そんなこともありますな。「ゆうらくさい」と呼んでいた人も少なからず居たのかも。
        • 実際に彼が有楽町に住んでいたかは怪しいらしい。そもそも江戸に屋敷があったかすらも怪しいらしい。
  2. ゲンゴロウ
  3. 茶人としてはメジャー。武将としては…。
    • 関ヶ原では活躍したぞ。
  4. 本能寺の変の際、甥の信忠に自害を勧めて逃亡する。この振る舞いは京の民衆に「織田の源五は人ではないよ」と嘲笑された。

織田信長

  1. 戦国武将で人気No.1。
    • 嫌われ度でもトップクラス。
      • 歴史マニアやそうでない人のみならず、学者でも好き嫌いがはっきり分かれる。
        • 昔なんかの本で読んだがある高名な学者が「もし信長が生きていて世界に進出していたら?」という質問に「極めて短期間に世界征服してたに決まってるでしょ」と答え、さらに「この発言は公にしないで」と言ったらしい。なんかいろいろタブーがあるようだ。
          • どのみち生活習慣病で早死したとも言われる
        • 一乗谷遺跡や中世寺院史の研究者からは非常に嫌われている。まあ、当然か。
    • 明治政府がイメージアップに貢献したらしい。
  2. 魔王。
    • というか、「第六天魔王」と自ら署名した手紙を武田信玄に送っていた。
    • ちなみにこの第六天魔王、庶民を虐めては仏に成敗されるという悪の怪人ポジな存在だったりする。
  3. 大虐殺をたくさん行った。
    • 家康もやっている。
    • なのに英雄扱い。ヒトラーと扱いがまるで逆。
      • 信長の場合は政・戦略上必要だからやっている(やり過ぎだけど)。ヒトラーは、政略以上に差別意識に基づいてやってる。
        • 同族との戦いで尾張統一後も「ワシの野望はこんなものではない!」と豪語したとか。
      • 確かにヒトラーとしては、政略的にはユダヤ人を味方につけたほうがどう考えても得だったはずだよなあ。
        • ナチ党とユダヤ人は戦争していたわけではない。一方、比叡山や本願寺は信長とまちがいなく戦争をしていた。さらに、比叡山には焼き討ちする前に「中立を保ってくれ」と言っているし、本願寺とは2回和睦したのに2回とも向こうが破ってきて、それも最終的には許している。
    • 比叡山焼き討ちの件は悪く言われすぎ。
      • 平安時代の僧兵や足利義教、細川政元も行っている。信長ばかりが悪く言われるのは、やはり有名なせいだろう。
        • 特に院政期の僧兵同士の争いは宗教戦争の面があったため、貴重な宝物でも容赦なくぶっ壊した。
        • 抗議行動の一環として、比叡山の僧兵自身が自分の寺に火を付けるのもよくあった。
        • よく「信長のせいで比叡山の史料が焼けてしまった」という研究者がいるけど、信長以前に多くは焼けてしまって、あまり残ってなかったんじゃないかと思う。
      • 近年の発掘調査では、従来言われていたほど被害はなかったとされる。
      • 延暦寺はこの40年前の法華一揆で、京の町を焼き討ちし、応仁の乱以上とも言われるほどの被害を出している。自業自得の因果応報のような。
        • 平安、鎌倉、室町と重武装し、朝廷幕府の政策が意に沿わなければ京に乱入して乱暴狼藉を働き、南北朝では重要な武装勢力として介入。無力で平和主義なお坊さんではないことは確か。
    • 「影武者徳川家康」の中で怖いから惨たらしく殺した、みたいな表現があった。確かにそうかもしれない。
    • 伊勢長島一向一揆での虐殺は現代人の感覚からすると擁護できないレベルだが、当時としてはどうしようもない面もある。
      • 信長の本拠地の一つ清洲城と伊勢長島は、目と鼻の先。もし、清洲を奪われでもしたら信長は政治的にも経済的にも大打撃なため、断固たる処置を取らざるをえなかった。
      • 「一揆勢の武装解除をしたらいいんじゃね?」と思うかもしれないが、この時代にそんな慣習など無い。それどころか自衛が当然の中世で、争いの最中に「武器を捨てろ」などと言ったら、死ぬ以上の恥辱と受け取られかねない。
        • まさに日本版武装解除=刀狩りが始まるのはこの後、越前の一向一揆を平定した柴田勝家から。一向一揆への虐殺は天下統一の為仕方がなかったなどと口が裂けても言うべきではないが、少なくともこの犠牲により、人々が刀狩りという手法を学習し次の平和へと繋がったとすれば、決して無駄な犠牲ではなかったと信じたい。
  4. 桶狭間の戦い、長篠の戦い、本能寺の変など、歴史の教科書に載ってる出来事に多く関わっている。
    • 美濃攻略(稲葉山城攻防戦)後にもともとの「井ノ口」を現在の「岐阜」に変えた。
  5. 人間50年の舞いでも有名。
    • 謡曲の重厚なイメージがあるが、本当はこれではない。興味のある人は「幸若舞 敦盛」で動画を検索するべし。
  6. 神や仏を信じなかった。
    • 実父の葬儀で焼香する際、「死んだ者を拝んで何になるか!」と抹香を投げつけた位だもの。
    • 実際は普通よりちょっと信仰心の薄い大名ってレベルだろ。
      • 公式には法華宗を名乗っていた。おそらく当時、京や堺の商人・文化人は日蓮宗が多く、彼らとの関係を重視していたからだろう。
      • 桶狭間の合戦の前には熱田神宮に参拝したらしい。
    • 家臣たちに自らを神だとして崇めさせたってぇのは家臣の忠誠心を試す為だったのかそれともマジだったのか。
      • 正確には安土城の前に巨石を置き、「ぼんさん(盆山?)」と称して拝ませた。自分を神扱いしたのではなく、「お前らが有り難がっている神仏なぞ、この石みたいなものに過ぎん」と言いたかったように思える。
        • でも年賀の挨拶に来た家臣に、自分に対してお賽銭を払わせていたらしいぞ。
      • フロイスらこの当時の西洋の宣教師たちには「無神論」自体が想像できなかったので、信長が自らを神とした、というような表現になってしまったのではあるまいか。
      • おそらく「天下布武」の考え方の帰結。「武」とは武力と解釈されることが多いが近年は「武家」と解釈するのが有力。中世までの他の権門「公家」「寺家」に頼らず、武家、ひいてはその代表たる信長が天下を収める。よって、信長は、それまでの寺社への信仰の代替物を用意しようとしたのだろう。
        • 頼朝のスローガンは「天下草創」。草深い関東から武士の天下を創ろうという意味だろうが、信長の天下布武は、頼朝の事業を受け継ぎ、それを完成しようという意欲が読み取れると思う。
        • 秀吉が「豊国大明神」、家康が「東照大権現」としてそれぞれ自分を祀らせている事や、当時はまだ天皇が神の子孫だと信じられていた事に思い当たる人は少ない。また、上杉謙信が毘沙門天なのはOKでも、信長が神なのは受け入れがたい人が多いようだ。
  7. 安土城を一般公開し、ひとり百文の入場料を取った。
    • 展覧会のたぐいで定額入場料を取った世界最初のイベントらしい。
    • 玄関の受付には信長が自分で立って、来場者から入場料を集めていた。
  8. 月代を剃刀で剃ることを最初にはじめたと言われている。
  9. 自分の仕事を積極的に行う者には優しく、その逆を嫌った。以下一例。
    • 朝廷の運営費集めのため、駿河まで歩いて行こうとした公家の老人に代わって金を集め、自らも寄付した。
    • 部屋に果物の種を落としたままにしていた侍女を一刀両断。
  10. かつて義父が居城にしていた城の名前を稲葉山城から岐阜城に変えたらしい。
    • 岐阜の地名をつくった人物である。
  11. 三国志の曹操とキャラかぶってる。
  12. 木下藤吉郎秀吉(のち豊臣秀吉)の妻、ねねとは個人的に親しかった。安土に移った頃、ねねから「ウチのダンナが浮気して困ってます」という趣旨の手紙に対して返書を書いた。「あの野郎にあなたほどの女性を娶れるわけがないんだから、堂々としているべき。この手紙は秀吉に見せてやんなさい」と丁寧に激励する趣旨。
  13. 独創的なアイデアマン、みたいなイメージで語られることが多いが、相当誇張されている。
    • 比叡山焼き討ち:上記のように他の人もしてる。
    • 石仏(地蔵さんとか)を城の石垣等に利用:信長が信仰心がないから、とか言われるが別に珍しいことではない。
    • 楽市楽座:六角氏の方が先。
    • 長篠合戦の鉄砲三段撃ち:雑賀衆が先。しかも雑賀衆の方は撃ち手固定で能率が良かった。
      • そもそも三段撃ちそのものが無かった臭い。長篠では敵以上に兵力揃えて、堅固な陣地も築き、そこに敵を誘き出すのに成功しているわけで、ここまですれば別に鉄砲がなくても勝てるだろう。
  14. 父の代から受け継いだものもそこそこある。商業利権とか、朝廷との関係とか。アレクサンドロス大王やチンギス・ハーンもそうだが、信長についても大きく語られすぎる傾向があり、そしてその影に隠れている本当に優れた部分が見逃されがち。