もし日本プロ野球の試合数が○○だったら
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現在、NPB日本プロ野球のレギュラーシーズンは143試合です。
- お断り:この項では試合数に限った記述のみ行い、交流戦云々については、記述しない様お願いします。
1966~96年の試合数が多かったら
1966~96年は130試合(引き分け再試合規定がある場合は引き分け試合数を加算)でした。この時代に試合数が多かったら?
- 王貞治のホームランの世界記録は、1976年中か悪くても1977年春には達成(実史は1977年秋に達成している)
- 通算ホームラン数は、880本から900本位打ったか。
- 金田正一の400勝は、1967年か1968年中に達成。
- 選手生活がより短命になる選手が続出したか?
- 1994年のイチローの安打数は、230本位は記録したか?
- これにより、2010年の両リーグの最多安打数は最多にならない。
- イチローの日米通算4257安打目は、実史の2016年6月16日ではなく、これより早く記録していた。
- また、イチローのメジャー通算3000本安打も、2016年シーズン早々か、早ければ、2015年シーズン中に記録していた。
- 20勝投手は1990年代中に何人か出ていた。
- ホールド王争いやセーブ王争いが今以上に激化してた可能性も。
- シーズン40セーブを始めて記録したのは佐々木主浩ではなく森繁和か郭源治。
- 全盛期の松井秀喜は、王貞治が持つシーズン最多ホームラン記録・55本を軽々と更新していた。
- そうなると王の記録はタブー視されなくなる為、140試合制以降に史実で55本打っていたタフィ・ローズやアレックス・カブレラはもっと打っていただろう。
- 王自身が66年以降に更新した可能性もある。
- 「軽々と~」って言うけど、史実で144試合に試合数を上積みした所で55本を達成できた可能性のあるシーズンは1つも無い。逆に上でも言われてる通り、王さん自身が55本を上回る記録を残していた公算の方が遥かに高い。
- 可能性があるとしたらむしろ1985年のランディ・バースか落合博満ではないか。
- 前・後期制時代のパ・リーグではダブルヘッダーが続出していた。
- 1982年セ、1986年セ・パ、1988、1989年パ、1992、1994年セなど、僅差で決着したシーズンの優勝チームが変わっていた可能性も。1973年に阪神が優勝した可能性もある。
- 昭和30年代前半生まれの打者も何人か2000本安打を達成していた。
MLBと同じ試合数だったら
現在、メジャーリーグのレギュラーシーズンは162試合です。
- ホームラン・ヒット等の記録が1割強多くなる。
- 1994年のイチローは、2004年にメジャーで記録した数(262)とほぼ同じくらいの年間安打を記録していた。
- シーズン終盤にはダブルヘッダーになる試合が続出する。
- 開幕が1週間程度早くなる。
- 東日本大震災の影響があった2011年は、レギュラーシーズンの終了が10月下旬までずれ、CSファーストステージが10月下旬か11月上旬、ファイナルステージが11月上旬か中旬、日本シリーズが11月中旬か下旬に開催されたか?
- 厳密にはピッタリ162試合というのは難しい。総当りの回数を勘案すると、交流戦がない時代なら160試合、ありなら158~161試合といったところか。
- 200本安打の人数が増えていた。
- 名球会入りの条件が300セーブ以上になる。
- 年間100敗する球団が増えていた。
- チーム数が増やされるかもしれない。
- 年に数回はダブルヘッダーが起きる。
- 月曜日も試合を行うケースが出る。
- 地方開催が増える。
- 投球制限が義務化される。
2回戦総当たり方式だったら
サッカーリーグのように、同じ相手との対戦がホームとアウェーの1回ずつしかなかったら。
- レギュラーシーズンは計10試合。
- 地方球場の使用機会が大幅に減る。
- 日本シリーズはJリーグチャンピオンシップのようになる。
- クライマックスシリーズは存在せず。
- サッカー同様、勝ち点で順位を決定する。
- 「10点以上獲得して勝利」や「完封勝利(継投でも可)」でボーナス勝ち点がつくかも。
- あまりにも試合数が少なすぎるので、セパ統合して1リーグ制になる。
- この程度の試合数ではそもそも選手の給料も払えそうもなく、興行的に成り立つとは思えないが…。
- この場合はチーム数が現実よりかなり増加していた。
- 多分1県1球団くらいあったかも。
- この場合はチーム数が現実よりかなり増加していた。
1963~65年も130試合だったら
史実では150試合でした。
- 1964年の日本シリーズは東京五輪開幕前に終了できた。
- あるいはリーグ戦の開幕が4月だった。
- 1963年パは南海が、1964年セは大洋が優勝していたかもしれない。
- 野村の52HRや王の55HRもなかった。
- 1965年のペナントレースがあそこまで独走状態になることはなかった。