もしあのプロ野球選手が○○だったら
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独立項目
- テーマ別
- もしあのプロ野球選手が現実以上に活躍していたら
- もしあの選手が日本プロ野球入りしていたら
- もしあのプロ野球選手があの球団に移籍していたら
- もしあのプロ野球選手があの球団に残留していたら
- もしあのプロ野球選手があの球団に入団していたら
- もしあのプロ野球選手があの記録を達成していたら
- もしあの選手の守備位置が○○だったら
- もしあのプロ野球選手がもう少し現役を続けていたら
- もしあのプロ野球選手にアクシデントがなかったら
- 選手別
あ行
五十幡亮汰
- 陸上競技を続けていたら?
2021年度のドラフト会議で北海道日本ハムファイターズから2順目で指名されましたが、中学までは陸上をやっており、中学時代は後に陸上100mで日本記録を出すサニブラウンよりも良い記録を持っており、複数の陸上強豪高校からの誘い有ったが、若くして亡くなった母親の遺志もあり、野球の道へと進みました。もし、野球ではなく、陸上の道へ進んでいたら?
- 高校では、インターハイなどで活躍。
- 大学も陸上強豪校に進み活躍し、2020東京五輪代表に選出されたかもしれない。
岩隈久志
- 2010年にメジャー移籍していたら
2010年にポスティングシステムでメジャー移籍を目指したが、アスレチックスとの交渉が破談となった。
- 2011年の楽天は最下位になっていた可能性が高い。
- 2012年以降は史実通りか。
- 2015年のノーヒットノーラン達成はなかったかも。
- 2018年まで在籍していたら大谷翔平との対決が見られた。
江川卓
- 法政大学以外に進学していたら
- 慶応義塾大学
- 史実では江川卓が最初に受験して不合格になった大学です。
- 70年代から80年代前半の低迷期は無かった。
- 史実とは逆にニュース速報で合格を報道されていた。
- 投資をする際には三田会の人脈を生かしていた。
- 史実とは異なり、投資で成功して実業家としても活躍。現実以上に羽振りが良かったかもしれない。
- 失敗していた場合は、現実以上に大損していたかも。
- 史実とは異なり、投資で成功して実業家としても活躍。現実以上に羽振りが良かったかもしれない。
- 早稲田大学
- 高校時代にバッテリーを組んでいた小倉(現:亀岡)偉民とまたバッテリーを組んでいた。
- 連覇も何回も成し遂げていた(史実では1957年から2001年までの間に連覇はわずか1回)。
- 巨人入団してそれなりに活躍をしたら、1985年ドラフトで桑田を指名しなかったかもしれない。
- 明治大学
- 当時の監督であった御大とはソリが合わず対立していた。
- 慶大受験に失敗した直後、受験できる大学を検討したところ、青学大は東都リーグ所属、明大は島岡監督の存在、という理由で回避し、消去法で法大を選んだのが真相らしい。
- 結局は中退。そしてプロ入団の際に、ドラフト指名できるのか、ドラフト外入団させられるのか等をめぐって「江川問題」が発生する。
- 球団首脳陣の中に明治OBがいる場合は「御大に歯向かった奴は絶対入れない」と主張し、明治以外の出身者と揉める。
- 球団首脳陣で江川を取るか否かで意見が一致しても、親会社から横槍が入って揉めるなんてこともあったかも。
- 入団してからも、明治OBの指導者や選手から敵視されるが本人は意に介さず。
- 球団首脳陣の中に明治OBがいる場合は「御大に歯向かった奴は絶対入れない」と主張し、明治以外の出身者と揉める。
- 立教大学
- 巨人入団時に当時の長嶋監督から同じ大学の後輩であるためか江川は可愛がられていた。
- 当時の立教のチーム事情から江川のワンマンチームになっていた。
- 東京大学
- 史上最高の「文武両道選手」と言われていた。
- まさしく「江川一人のチーム」になっていた。
- あの剛速球をまともに捕球できる捕手の存在も不可欠。
- それでも東大は優勝出来なかった。
- 江川の大学時代に東大から首位打者が出ており、ベストナインに選ばれた選手も2人いる(うち1人は前述の首位打者)。上手く噛み合えば上位進出はあったかも。
- すべて上手くいけば優勝もあった…かもしれない。
- 実際に江川は東大戦で1敗している。
- ある程度野球が強い進学校の球児が、現実よりも多く東大野球部に入部したかもしれない。
- 野球経験に関係なく、東大の野球部入部志願者が増えたかも。
- 江川の大学時代に東大から首位打者が出ており、ベストナインに選ばれた選手も2人いる(うち1人は前述の首位打者)。上手く噛み合えば上位進出はあったかも。
- 法政大学は…
- 低迷期に入っていた。
- 76・77年の東京六大学4連覇も実現できなかった。
- 法政大学の全国的な知名度は低くなっていた。
- さすがにそれはない。
- 東京六大学以外の大学
- 東都や首都、旧関西六大学等、それなりにマスコミで取り上げられているリーグの大学に進学した場合は、そのリーグ全体のマスコミでの扱いも現実より良くなっていた。
- 卒業後は元に戻る。
- それ以外のリーグの大学に入った場合は、江川が出場した試合だけはマスコミで大きく扱われた。
- 全日本大学野球選手権には4年連続出場できたかもしれない。
- リーグ8連覇できただろう。
- 全日本大学野球選手権に出場した場合は、現実以上に注目された。
- 法政大学も不合格に終わっていたら
慶応義塾大学を受験するも不合格になり法政大学へ入学しましたが、もし法政大学も不合格になっていたら?
- 進学志望だったことと阪急入りを拒否した経緯から、更なる大学受験に挑んでいたと思われる。
- その後の顛末は「法政大学以外に進学していたら」を参照。
- 一校も合格できなかったら、社会人に進んでいたかもしれない。
- 巨人との繋がりが強いチーム(巨人にOBが多い、本業で読売グループと関係がある等)が獲得に動く。
- 思うような社会人チームに入団できない場合は、史実での大学卒業後と同様に「作新学院の職員」になる。
- その場合、栃木県内の社会人のクラブチームに在籍。あるいは作新学院が社会人チームを作る。
- 作新学院のチームは、江川のプロ入団と同時に解散。
- その場合、栃木県内の社会人のクラブチームに在籍。あるいは作新学院が社会人チームを作る。
- 不合格をニュース速報で報道されていた。
王貞治
- 一本足打法を編み出していなかったら
王貞治は読売ジャイアンツ入団から数年間、大きな期待を寄せられていながら目立った成績を残せずに伸び悩んでいました。その為師匠である当時の荒川博打撃コーチとバッティングの試行錯誤を繰り返し1962年一本足打法を完成させ、それ以来打棒が爆発し急激に成績を伸ばして本塁打の数を量産していきました。もし、彼が転機となった一本足打法を習得していなかったらどうなっていたでしょうか?
- 王は打撃が開花せず終いに終わり、未完の大器のまま30歳前後で退団。他球団に移るか、引退して電気技師になるか(王の父は息子を電気技師にさせたがっていた)、実家のラーメン店を継いでいたかもしれない。
- あるいは中距離打者として活躍していたかもしれない。
- 未完の大器の代表格として挙げられていた。
- 仮に史実通り868本ホームランを打っていたとしても、「ホームランの数だけ」という評判で長嶋茂雄ほどの人気は出なかったかも。
- 野村克也は本塁打・打点の日本記録を王に抜かされずに現在まで保持し続けてていた。
- 野村は現役時代の知名度が史実より高くなっていた。
- 巨人は打線を長嶋茂雄1人に依存する状態が長年に渡って続いてしまう事に。
- 他球団の警戒が長嶋1人に集中する為、長嶋は史実より成績を落としていたかもしれない。
- もしかしたら333本で引退していたかもしれない(史実では444本)
- 巨人はV9どころか、常勝の座を維持できていたかどうかも怪しい。
- 史実のV9の時期に、阪神や中日が何回か優勝していた。
- 大洋の2度目の優勝や、広島・ヤクルト(サンケイ)の初優勝も早まっていた。
- 阪急は西本監督の時代に日本一になれていた。
- 他球団からクリーンナップ級の選手を獲得していたのはもちろん、純国産路線を諦めて外国人野手を獲得していた。
- 他球団の警戒が長嶋1人に集中する為、長嶋は史実より成績を落としていたかもしれない。
- 他の選手が一本足を真似る事もなかった。
- あるいは他の選手が一本足打法を編み出していた可能性がある。
- まさかひょっとしたらイチローの振り子打法が一本足に発展して・・・いたのか?
- 一本足打法の代表的選手が田淵幸一になっていた。
- あるいは他の選手が一本足打法を編み出していた可能性がある。
- バリー・ボンズの756号本塁打達成が日本でもっと大きく取り上げられていた。
- 1980年の長嶋の監督解任後、藤田元司監督が史実の王監督の時期も含め長期政権を築いていただろう。
- 亀屋万年堂の「ナボナ」はそこまで有名にならなかった。
- ピンク・レディーの「サウスポー」は特定の選手をモチーフとした曲にならなかった。
- 国民栄誉賞は存在しなかったかもしれない。
- 創設の理由が「既存の内閣総理大臣顕彰ではプロ野球選手の記録を表彰しにくい」というものだったため。
- 後楽園球場→東京ドームのゲートに特定選手の名前が付けられることはない。
- 王シュレット事件はなかった。よって2003年、フジテレビは何事もなく日本シリーズを放送。
- 故夫人の間に息子が生まれていたら
王貞治には故夫人との間に3人の娘さんを授かりましたが、もし2人の間に息子さんが生まれていたら、球界や王家の生活はどうなっていたでしょう?
- 名前は背番号にちなんで「一(はじめ)」?
- 次男も生まれていたら、「貞治」から取って「貞男(さだお)」?
- 父である王氏は、彼がプロ野球選手になることを夢見ていたであろう。
- 無事にプロで活躍できれば、長嶋茂雄の長男・一茂氏と「ONジュニア」が出来ていた。
- CMでも共演。
- 野茂やKKコンビの世代前後になるであろう。彼らと対戦があったかも知れない。
- 当然、ジャイアンツは欲しがるが王は息子の指名を拒否、ホークスへ入団した。
- 打者なら父親の半分(434本)ぐらいは本塁打を打っていた。
- FA取得後、メジャーに移籍、打者初のメジャーリーガーとなる。
- 第1回WBCの主軸を打っていた。
- 最初は投手だったことを考えれば、投手という線もありそう。
- 先発なら200勝、クローザーなら250セーブぐらいはできそう。
- 打者の場合と同様、FA取得後メジャーに移籍。
- 第1回WBCでは先発もしくは2番手で投げていたであろう。
- 一茂氏がタレントに転向した際には、彼も同時にタレント転向していたかも。
- そして貞治氏の次女・理恵さんとの3人共演もありえた。
- 一茂氏とのコンビ、あるいは理恵さんも含めたトリオを組んだかも。
- 最初からタレント、ひょっとして議員になっていたかも。
- 一茂のように球場に忘れて帰られたりはしない。
- 暁星学園あたりに小学校から入学し、高校で甲子園初出場。
- 早実に進学するのか?
- あるいはそのまま暁星へ進み、硬式野球部が強豪に。
- 現在(2012年)暁星に硬式野球部は無いが、当時も無かったとしたら王ジュニアのために創設。OBの財力で豪華な設備を整えて優秀な指導者を招聘。いきなり強豪として台頭し、東東京大会の台風の目になる。
- 上記のような過度な期待を掛けられて早いウチにプレッシャー等で潰れちゃうんじゃないかという気がする。間違いなく周り(家族除く)が期待するのはホームランだけで、ヒットでは満足しないはずだから。
大谷翔平
大谷翔平はドラフト会議前に「メジャー宣言」したものの、日本ハムが指名を強行し入団に至りました。もしこれが違う展開になっていたらどうなったか?
- メジャー宣言がなかったら
「メジャー宣言」自体がなかった場合
- ドラフトでは少なくとも競合は避けられなかった。
- 間違いなく指名していたであろう球団は地元の楽天と高校の先輩がいる西武。
- どこに指名されようとも入団拒否には至らないと思う。
- 二刀流にされることはなく、おそらくは投手一本だった。
- ただし、指名した球団の事情にもよるかも。
- メジャー移籍は史実より遅れていたかも。
- 移籍して大活躍しても史実ほどは騒がれなかった。
- 指名されていなかったら
→もしあのプロ野球選手があの球団からドラフト指名されていなかったら#大谷翔平(2012年・日本ハム)
- 日本ハムへの入団を拒否していたら
- 日本ハムは菅野に続いて2年連続でドラ1に入団拒否される憂き目に遭っていた。
- そのため、トレードなどでの投手補強が大きな課題になっていた。
- 後は「指名されていなかったら」とほぼ同じ。
大塚晶則
- 2002年にメジャー移籍していたら
2002年にポスティングシステムでメジャー移籍を目指したが、入札ゼロで移籍ならず。
- 2003年に中日に移籍することは当然なかった。
- 中日の抑えはもちろんギャラード。
- ギャラードの横浜移籍もなかった。
- それでも落合監督就任と同時にギャラードは退団、岩瀬が抑えに。
- 2004年以降も中日にいたら
- 岩瀬と大塚の無敵のWストッパー。
- 当時の中日の磐石な投手陣がさらに磐石になっていた。
- リリーフ偏重しすぎなので岡本が先発転向していたかもしれない。少なくても平井のリリーフ復帰と同時に先発に配置変えされそう。
- そうなっていれば和田の人的補償で出ていくこともなかった。
- それでも2008年以降怪我で実戦を離れるのは変わらず。
- 2014年の体罰スキャンダルは起きなかった。
- 2004年は西武を破り日本一になっていたかも。
- 2007年はレギュラーシーズンでも優勝していた。
- CSのアドバンテージルール改正は史実より遅くなっていたかも。
- 落合監督の評価は史実以上に高まっていた。
- 中日新聞社や中日フロントの問題は史実以上に批判されていたかも。
- 立浪派閥は史実以上に失脚しており、監督になることはなかった。
- 身売りして新潟に移転していたかもしれない。
- 中日新聞社や中日フロントの問題は史実以上に批判されていたかも。
落合博満
- プロボウラーになっていたら
落合博満はプロボウラーを志していたが、プロテスト受験の直前にスピード違反で捕まり罰金を支払ったためにプロボウラーになれませんでした。そこでもし落合がプロボウラーになっていたらを考える。
- 球界
- 牛島和彦は引退まで中日でプレー。
- 上川誠二も引退まで中日でプレー。
- 中日監督も牛島が務めている。
- 2004年から中日監督に。
- 大矢明彦は2005年から横浜監督を務めている。
- 未だに年俸一億の壁が破られていない。
- 日本人選手では松井秀喜が初めに破っている可能性もある。
- 川相は読売を「中退」で現役終了。
- 中村紀は単なるわがままな人として野に下る。
- 未だに中日は日本一になれず相変わらず万年2位が確定している
- 阪神と巨人の優勝回数が史実より増えている。
- ひょっとしたらヤクルトか広島も一回くらい優勝していたか?
- 阪神と巨人の優勝回数が史実より増えている。
- この乱闘事件はなかった(平沼定晴もロッテへトレードされた)
- 清原は連続試合出場数を更に伸ばした
- 2009年のWBCにも中日選手が出場していた。
- 井端弘和が大幅な減俸をたたきつけられ退団する事はもちろんない。
- 小笠原道大も中日には移籍せず、引退まで巨人で過ごしたか移籍先がロッテかDeNA辺りになっていた。
- 落合博満個人
- 信子夫人と結婚することはなかった。福嗣君も生まれなかった。
- ボウリングでも俺流の投げ方を開発。
- 子供たちにその投げ方を指導する。
- テレビ東京『ザ・スターボウリング』に出ていたか?
- 日テレG+「P league」で解説やってたりして…。
- 西城や酒井のいいライバルになっていた…かな。
か行
金本知憲
連続フルイニング出場記録が○○だったら
- なかったら
- ここまで話題になることもなかった。
- それでも、広島→阪神の間では有名な選手となるだろう。
- フルイニング出場は広島時代からだが、仮にフルイニング出場でなくてもトリプルスリーやタイトル獲得などをしていたら移籍していただろう。
- 史実より早く途切れていたら
- どこで途切れたかにもよるが、「鉄人」と呼ばれることもなかったかも。
- プロ野球選手で鉄人と言えば今でも衣笠祥雄。
- なんでも実況Jで変に話題になることもなかった。
- ヤニキはともかく「左ニキ」なんてあだ名はなかったかもしれない。
- 特にフルイニング出場の呪縛が解けて代打屋に転向していたらあまり守る機会もなかっただろうし。
- ヤニキはともかく「左ニキ」なんてあだ名はなかったかもしれない。
- 鳥谷敬がここまで聖域化することもなかったはず。
- 2016年の成績はもう少し良かった。
- 2004年、7月29日の対中日ドラゴンズ戦での怪我で途切れていたら
- この頃はまだ現役バリバリだったため、そこまで影響することはないだろう。
- ただし、史実より早く引退していた可能性はある。
- フルイニング出場記録は更新されなかった。
- 2007年の左膝半月板損傷の怪我で途切れていたら
- この頃になると守備力にも陰りが見えてきていたため、他の選手にレギュラーを取られていたかもしれない。
- レフトを守る選手は史実よりも変わっていたはず。
- 浅井良、桜井広大などが史実より活躍していた。
- あるいは外国人選手を取っていたかもしれない。
- レフトを守る選手は史実よりも変わっていたはず。
- なんだかんだで成績は史実と同等くらいになっただろう。
- 史実より長く続いていたら
- もはや満身創痍の状態だったので、史実より早く引退していたかもしれない。
- 引退までフルイニング出場を保ったまま引退になったかもしれない。
- 少なくとも1500試合は続けていただろう。
- DH制を生かすためパリーグへの移籍も検討される。
- 連続試合出場記録のみ続いていたら
- そこまで注目されることはなかったかもしれない。
- 史実通り1999年から記録が始まっていた場合、衣笠祥雄の記録(2215試合)を達成するには最低でもあと4年は続けないといけない。この時金本48歳、いくらなんでも厳しいか…。
- 世界記録はあと400試合は多いので難しそう。
- 連続試合出場が始まったのは1999年ではなく1998年。
- 史実の試合で途切れていた場合、藤川俊介は史実以上に叩かれていた。とばっちりで藤川球児も被害を受けていたかも。
- 「○川○児」に加えて「○川○介」というスラングができていた。
- 藤川俊介は大松のような畜生キャラになっていたかも。
工藤公康
- 熊谷組入りしていたら
工藤公康は甲子園でノーヒットノーランを達成するなど活躍しましたが、高校卒業後は熊谷組入りを表明していました。結果的に西武の強行指名と根本陸夫氏の説得により西武へ入団しましたが、もしそのまま熊谷組入りしていたら?
- 本人は
- プロ入りは早くて80年代後半以降になっていた。
- 頭角を現したのは最優秀防御率を獲得した85年だから今と大差のない成績を残していただろう。
- 200勝到達も遅れていた。
- 多分、2008年修了時点でもまだ200勝到達できてなかった。
- 最多実働記録は早い段階で山本昌の記録になっていた。
- 在籍球団が変わっていたかも。(実史は、ライオンズ→ホークス→ジャイアンツ→ベイスターズ→ライオンズと在籍した。)
- 史実では未達に終わった熊谷組4回目の都市対抗優勝に貢献。
- 球界は
- 西武黄金時代は実史ほど長くなかったと思われる。
- 近鉄の優勝回数が増えていたかもしれない。日本一も達成していたかも。
さた行
斎藤佑樹
- 高卒でプロ入りしていたら
- 大学での酷使がない分、史実以上に一軍で活躍できた可能性が高い。
- 田中将大との同期入団となるので「祐ちゃん・マー君対決」がメディアで盛り上がっていた。
- ネット上で「カイエン青山」等の蔑称が生まれることはなかった。
G.G.佐藤
- 北京オリンピックで落球をしていなかったら
- 日本は間違いなく金メダルを獲得していた。
- ネット上で「E.E.佐藤」などと揶揄されることはなかった。
- この年、本塁打は30本を超えていた。
- クライマックスシリーズ・日本シリーズにも出場していた。
- 「キモティーーーッ!」が流行語年間大賞になっていた。
- 2009年のWBC日本代表メンバーに参加していた。
- イタリアンベースボールリーグでプレーすることはなかった。
- 『しくじり先生 俺みたいになるな!!』で先生として出演することはなかった。
- 以降も契約で揉めた事が多く、「自費自費佐藤」や「ゴネゴネ佐藤」などと揶揄されている。
- それが原因で西武から他球団に移籍していたかもしれない。
- いずれにせよ若手は台頭したと思うが。
- それが原因で西武から他球団に移籍していたかもしれない。
多田野数人
- AVに出演していなかったら
- 2002年のドラフトで普通に横浜に指名されて、今頃は先発ローテの2,3番手くらいにいた。
- しかしそこはベイスターズ、炎上しまくって勝ち星には恵まれず。
- 2014年の時点ではすでに現役を引退していた可能性も。
- 当然のようにホモという疑いはかけられない。
- 出演しなかっただけで性癖が同じならば横浜の若手選手の数人は被害にあう可能性がある。
- 東スポあたりでそんな疑惑が取りざたされるも大して話題にされず。
- アメリカに渡る事もないので「ただのボール」も開発される事はなかった。
- 小宮山悟の「シェイク」、星野伸之の「素手キャッチ」も注目されない、もしくは記憶から薄れていた。
- 「怒り新党」で「ふしぎなボール使い」として紹介されることはなかった。
- ヴァン・ダークホーム(現実のTDNコスギ)の愛称はどうなっていただろう・・・
- おそらく「VAN様」という呼称が広く用いられていた。
- あるいは「VANコスギ」や「ダーク♂ケイン」といった史実と異なる名前になっていた。
- 下北沢の「あずま寿司」は閉店しなかった。
- 経営が傾いていたとすればやばり閉店していた。
- ニコニコ動画の荒らしが若干ながら減っていた。
- だがヤマジュンやレスリングシリーズがあるので結果ホモネタの需要は変わらない。
- なんJの定番ネタが減っていた。
- そもそもなんJ自体過疎板のままだった。
- 二岡がスキャンダルを起こさないか小笠原が日ハムに残留しない限りそれはないかと。
- 実際野球chのスレッド保持数削減(=なんJ移動の原因)はカッスレと二岡スレの乱立からと言われてるし。
- そもそも多田野の騒動がないならプロ野球板の日ハムスレがあらされず野球chに専門スレッドを立てる文化はなかったんじゃないかな。
- そもそもなんJ自体過疎板のままだった。
- レイザーラモンHGがブレイクしていない。
- 真夏の夜の淫夢がネット上で知られることもなかった。
ニコニコ界隈では
- 真夏の夜の淫夢を始めとする淫夢動画(COAT,Acceed)は発掘されなかった。
- しかし誰かが「有名人がいる」と発掘してしまい、以後現状どおり。
- まあCOAT,Acceedにはほかにも有名人いっぱいいるからね、しょうがないね。
- それでも今のように煙たがられるほどに有名にはなっていなかった可能性も高し。
- まあCOAT,Acceedにはほかにも有名人いっぱいいるからね、しょうがないね。
- ただしTDNは別の人になっていた。
- 佐村河内やRevoがKBTITの同類呼ばわりされることはなくなっていたか。
- 野獣先輩が史実ほど有名になることはなかった。
- しかし誰かが「有名人がいる」と発掘してしまい、以後現状どおり。
- クッキー☆はただの東方の二次創作で終わっていた。
- 多分10万再生どまりだったか。
- しかし固定ファンはいるので2014年時点で50万くらいはいってたかと。でもミリオンいくのはもっと後。
- この声優の一人に殺人予告が来ることもなかった。
- これを企画した人にセクハラ疑惑がかかることもなかったので今も活動していた。
- それでもクッキー☆単体のMADは作られる。
- 多分10万再生どまりだったか。
- ↑を始めとする風評被害作品が被害を受けていなかった。
- Aチャンネルも2期が制作されていた。
- いや、風評被害以外の問題もあるから史実同様OVAだけだと思う。
- スローロリスの知名度は今よりなかった。せいぜい「かわいらしい絶滅危惧種」として動物カテで扱われる程度。
- Aチャンネルも2期が制作されていた。
- 史実よりレスリングが煙たがれていた。
- まだ釣り動画の素材として使われている。
- くそみそも同じく。
- ただし運営側が強引に動画削除などの弾圧を行うことはなかった。
- しかしそのせいで「運営に庇護されている」と思われ、レスリングの用語を過剰に使うガキが「レスリング厨」呼ばわりされるなど反感を買われた。
- それこそレスリング以外のホモネタの動画を削除するようなことがあればなおさら。
- 結局叩きの対象が「淫夢」から「レスリング」に替わっただけかも。
- しかしそのせいで「運営に庇護されている」と思われ、レスリングの用語を過剰に使うガキが「レスリング厨」呼ばわりされるなど反感を買われた。
- ニコニコ動画ももっと平和だったか……と思ったがyoutubeからヒカキン信者が大量に入ってきてもっと荒れる。
- ニコ動の生放送重視の体制はますます加速していただろう。
- おそらくヒカキン関係の動画が過剰なまでにネタにされていたかも。
- 結局Syamu発掘以降は殆ど変わらなかったりして。
- 「ホモと見るシリーズ」は誕生しなかった。
- 代わりにレスリング語録を書き散らす「ゲイと見るシリーズ」的なものが誕生していたかも。
- 出演したAVがゲイ向けではなかったら
- 普通のAV(男性と女性が出演)に出演したという仮定です。
- 「AVに出演していなかったら」の場合と同様、ホモという疑いはかけられない。
- 当然「アッー!!」や「TDN」という言葉も存在しない。
- なんJでも史実ほどAV出演をネタにされることは無かった。
- ニコニコ動画の荒らしも若干ながら減っていた。
- どこかの球団にドラフト指名はされていたかもしれない。
- ただ、出演したAVの内容によってはなんJで変なキャラ付けをされていた可能性も無きにしも非ずか。それこそ変態的・SM的な内容だったら・・・。
- 監督にたまげられていなかったら
- 立教大学野球部の監督が多田野のAV出演を認めていなかったら
- それでも週刊現代は記事にしただろうが、大スクープと言うほどではなかったかもしれない
- 釈明会見も行われないので「たった1度の過ち」「これだけははっきりと真実を伝えたかった」という名言は誕生しなかった
田中将大
- もし2013年の連勝記録が途中で途絶えていたら
東北楽天投手・田中将大は2012年8月19日の対西武(6失点)で負け投手になってから、2013年11月2日に日本シリーズの対巨人戦(4失点)で負け投手となるまで、レギュラーシーズン・ポストシーズン通算で驚異の30連勝を達成、2013年レギュラーシーズンは開幕から24連勝を達成しました。ところが、2013年シーズンは24勝の内、チームがサヨナラを含む逆転したことによる勝ち星が10もありました。もし、チームの逆転がなく、田中投手に黒星が付いていたら?
- 黒星の数が極端に少なかったら
- 楽天のリーグ優勝は、実史の2013年9月26日ではなかった。
- 他は、ほぼ実史通りであろう。
- 黒星の数がそこそこだったら
- 楽天はクライマックスシリーズには出場するが、リーグ優勝できたかどうか?
- 楽天がリーグした場合でも、恐らく最終盤までもつれたか。
- 「楽天がリーグ」ではなく「楽天がリーグ優勝」なのでは?
- ロッテ、ソフトバンクor西武との団子レースになっていたかも。
- 黒星の数が10(チームの逆転が無かった)の場合
- 楽天がAクラスに入ったかどうか微妙なところ。
- 他が実史通りなら、チーム最多勝はルーキーの則本昂大。
- 2013年の沢村賞は、選考基準全てを満たしたオリックスの金子千尋。
- 金子の活躍でオリックスがAクラス入りしていたかもしれない。
- 翌年に「ニューヨークヤンキースへ移籍」など有り得なかった。
- その他
- 田中の妻・里田まいが再注目される事も無く、里田まいといえば未だに「おバカキャラ」のイメージのまま。
- 元ソフトバンクのエース・斉藤和巳と結婚したスザンヌと同じくらいに語られるだろう。
- 2013年の日本シリーズでは、展開によっては、(実史上で)田中が第6戦で完投した次の日(第7戦)にリリーフ登板した事に対し、アメリカの野球関係者などから『懸念』される事も無かったか?
- 2013年の日本シリーズ第6戦で負け投手にならなかったら
上にもある様に、この年の日本シリーズ第6戦の対巨人戦(Kスタ宮城)で、東北楽天投手・田中将大は、この年のレギュラーシーズン・ポストシーズン通じて、唯一の負けを喫しました。もし、この試合で、負けを喫しなかったら?
- 田中は、この年の公式戦負けなしの26連勝、前年から通算31連勝の前人未到の記録を達成。
- 当然、この試合で楽天が日本一になるので、(実史上で)田中が『連投で第7戦にリリーフ登板』という事も無かった。
- 7戦目のリリーフが無いため、田中と星野の名場面がひとつ減るか、史実と違った形になる。また、9回に「あとひとつ」の大合唱に包まれながら田中がマウンドに立つ場面が無くなるため、この曲の知名度が少し下がる。
- 勝敗が付かなかった場合は…ほぼ実史通り?
辻本賢人
- 高校に入学していたら
- おそらく「超高校級の投手」として話題を集めていた。
- そこまで注目を集めることはなかった。
- ただ、「NPB唯一の昭和64年生まれ」として一部に知られるくらいだった。
- どこに入学していたかにもよるが、斎藤佑樹や田中将大と甲子園で対戦していたかもしれない。
リチャード・デービス
- 大麻所持で逮捕、解雇されなかったら
- 近鉄はラルフ・ブライアントを獲得しなかった。
- シーズン終盤に西武を追い上げることができず、10.19もなかった。
- 翌年も西武、オリックスとの優勝争いに加われたか怪しい。
- 西武は1989年もリーグ優勝し、V10を達成していたか?
- 翌年も西武、オリックスとの優勝争いに加われたか怪しい。
- ブライアント自身も中日の外国人枠の関係で一軍に上がれず、史実のように大成はしなかったかもしれない。
- シーズン終盤に西武を追い上げることができず、10.19もなかった。
な行
中山裕章
- 強制猥褻事件を起こした後、そのまま引退していたら
- 横浜(→DeNA)の19番は封印されていた。
- 小桧山・戸叶・ギャラード・杉本・染田・藤江・山崎康晃の背番号は別の番号になっていた。
- いや、史実でも小桧山が(中山の球界復帰が決まる前に)自ら19番を志願して着用していたからそれはない。もっとも史実と同じくヤスアキが入団するまで「呪われた背番号19」扱いされることは確実だろうけど。
- 小桧山・戸叶・ギャラード・杉本・染田・藤江・山崎康晃の背番号は別の番号になっていた。
- 1990年代の中日の成績は史実より悪くなっていた。
- 1996年は最後まで優勝争いをすることもなく、3位に終わっていた。
中畑清
- 横浜DeNAの監督をやらなかったら
- 選手がやる気を出すことはなかった。
- 横浜DeNAが2013年、最下位を脱出することはなかった。
- 最悪の場合、横浜DeNAが消滅していた。
- 中村紀洋が問題行動を起こしても、2軍に落ちることはなかった。
- 日本テレビ以外の野球解説者をやる事は無かった。
西村健太朗
- 入場曲が「ハレ晴レユカイ」になっていたら
- 理解出来ない人はgoogle:ハレ晴レユカイ 西村へ
- 巨人軍の観客動員数が増加。
- そして西宮の地元チームのファンもこっちへ乗り換える。
- 地元の住民曰く「柄の悪い地元を応援するより西村のいる巨人を応援した方がいい」
- むしろあのアニメのアンチが飛躍的に増える予感がする…
- むしろ原作者が阪神ファンなので許諾を得られない可能性が。
- 意外とすんなり乗り換えたりしてw
- そして西宮の地元チームのファンもこっちへ乗り換える。
- 西村本人は麻生太郎のような存在になる。
- むしろ長島☆自演乙☆雄一郎じゃない?
- チーム主催ゲームで登板する度に踊るファンがいる。
- 後にホークスに移籍し、球場全体がメガホンダンスで踊るようになる。
- そうなった場合、入場曲をニャル子さんOPにしてペーニャ以上に注目される。
- この場合西村が内川と同じくホークスの名誉生え抜き選手扱いされている可能性も。
- そうなった場合、入場曲をニャル子さんOPにしてペーニャ以上に注目される。
- 後にホークスに移籍し、球場全体がメガホンダンスで踊るようになる。
- 勤労感謝の日に東京ドームで行われるファン感謝イベントでは2駅東の人らがやってくる。
- アニメに興味のない観客は理解不能という目で見ているが涼宮ハルヒファンは球場でニヤニヤしながら見ている。
- 巨人ベンチ側の外野席では、選手のユニホームを着る人よりコスプレイヤーの方が明らかに多い。
- 西村婦人の野添央子(めえこ)氏は今よりもっと支持されている。
- ニコニコ動画では阪神叩きが日常茶番に。
- なんJから33-4やVやねん!文化が入ってきた頃に消滅。
- 毎年オールスターにファン投票で選出されている。そしてファンが踊る。
- 成績不振の年だと、97年の新庄みたいな扱いを受ける。
- 恐らく2009年にはエンドレスエイトでファンが激減したお陰でけいおん!のEDにしてしまったと思う。(そして生き残ったファンから総スカンを食らう)
- それじゃなければ2007年の時点でらきすたのOPにしてしまう。但しこちらの場合ハルヒファンは許していた(こなたも同じ類だったからなあ…)
- 西村はプロ野球選手における「アニソンのパイオニア」となっている。
- プロ野球の登場曲で普通にアニソンで登場する選手は今以上に増えている。
- ヤクルト押本ももっと早くアニソンを使っていた。
- 「巨人軍は紳士たれ」に反するので、西村自体が処罰トレードされていたかも。
- 二岡・林と共に日ハムへのトレードが有力か。
- そして後に西武へFA移籍。
- 二岡・林と共に日ハムへのトレードが有力か。
- 平野綾、茅原実里、後藤邑子の始球式が行われる。
- DeNA野川卓斗への注目度は史実より小さかった。
- 現役期間がもう少し長かったら実現していたかも(後に入団した丸や畠がガッツリアニソンの入場曲にしている)。
野村克也
- 伊東沙知代(サッチー)と出会わなかったら
- 少なくとも公私混同で監督を解任されることもなく、生涯南海ホークス。背番号19は永久欠番になっていた。
- 鶴岡一人氏とも絶縁状態にはならなかった。
- そうかぁ? 南海蔭山新監督急死騒動の頃には、すでに鶴岡監督とは縁切りを決めていたはず。
- 蔭山氏急死の時に鶴岡親分を見限ったって発言は、南海追放されてからの後付け。
- そうかぁ? 南海蔭山新監督急死騒動の頃には、すでに鶴岡監督とは縁切りを決めていたはず。
- なんばパークスのホークスギャラリーには、当然のごとく野村克也の資料も展示されていた。
- 鶴岡一人氏とも絶縁状態にはならなかった。
- 南海の暗黒時代は訪れず、本拠地が福岡に移ることもなかった。
- 団野村は野球と関係ない仕事をしていた。
- 野茂英雄や伊良部秀輝などの選手がメジャー入りしても違う進路を歩んでいたかもしれない。
- ヤクルトは依然として馴れ合い主義なチームのまま。
- 関根潤三の後は普通に若松勉が監督をしていた。1992年くらいは優勝できたと思うが…
- 最悪の場合ヤクルトがダイエーに球団を売却し、福岡に移転していた。
- そして2004年にソフトバンクに球団を再売却。
- 後任が若松なら問題無く優勝してたし安定して強かったろうな。野村が優勝できたのは土橋・関根が松園の「馴れ合い主義」を6年かけて片付けて基盤を作ってくれてたおかげだし。阪神見れば一目瞭然。
- ただその阪神は野村時代に赤星・藤本など若手を育てて基盤づくりをし、次の星野監督でリーグ優勝を果たした。
- 若松の手腕次第では日本ハムの北海道移転前後に監督就任していたかもしれない。
- 最悪の場合ヤクルトがダイエーに球団を売却し、福岡に移転していた。
- 関根潤三の後は普通に若松勉が監督をしていた。1992年くらいは優勝できたと思うが…
- 今の「つば九郎」の妹の名前が「つばみ」ではなく「スッチー」に…。
- サッチーは「ドーベルマン」ではなく「ブルドッグ」だった。
- サッチーのタレント活動もなく、逮捕されることもなかっただろう。
- 明石家さんまとテレビ朝日の絶縁もなかった。
- 浅香光代の知名度は現実より低く、「ミッチー」なんて呼ばれることは無かった。
- 「浅香」といえば浅香唯を思い出す人の方が多かった。
- カツノリは生まれなかった。
- 実兄とも絶縁状態にはならなかった。
- 鶴岡一人や南海球団と和解出来ていたら
- 引退後、80年代前半にホークスの専任監督として再登板していた。
- 後の王監督への「生卵事件」の際、南海ファンが掲げた横断幕は「杉浦監督再登板」じゃなくて「野村監督再登板」。
- 南海OB会長になっていた。
- 副会長は杉浦さん。
- なんばパークスのホークスギャラリーは、ノムさんをギャラリーの看板的存在として前面に出していた。
- 史実以上にレジェンド扱いされていた。
- 1980年代の南海の成績低迷はなかった。
- うまくいけばダイエーへの球団売却もなかったかも。
- 代わりに阪急がダイエーへ売却され、福岡へ移ったかも。
- うまくいけばダイエーへの球団売却もなかったかも。
- この場合、中百舌鳥に新球場ができていた。
- 大阪ドームがホークスの本拠地に。南海と近鉄が合併された上で楽天誕生。
- でも近鉄とオリックスの球団合併と同時期にソフトバンクに売却される。
- 「大阪ソフトバンクホークス」になっていたかも。
は行
ランディ・バース
- あの時に戦力外通告を受けていたら
阪神で活躍したバースも1988年には長男の病をめぐって球団と対立し、その結果阪神を去る事になりましたが、それ以前にもバース解雇話が複数回持ち上がっていました。もしあの時バースが阪神から戦力外通告を受けていたら?
- 1983年シーズン途中に解雇されていたら
- 1985年は良くてAクラスだった。
- ストローターも育たず解雇の場合、暗黒時代入りが早まった。
- 1985年のドラフトでは、清原ではなく桑田を指名していたかもしれない。
- 安藤統男監督は1983年限りで辞任していた。
- シーズン最高打率は、イチローによって更新された。
- バースの名は一部マニアックだけにしか記憶されず、世間的には忘れ去られた。
- 阪神暗黒時代によく言われた「バースの再来」のネタは違う外国人選手になっていた。
- 1984年オフに解雇されていたら
- やはり1985年は良くてAクラスだった。
- その後安藤統男は叩かれていた。
- 吉田義男監督も誕生しなかった可能性も。
- やはりシーズン最高打率は、イチローによって更新された。
- バースの名は単発的な活躍助っ人として記憶された。
- この場合も阪神暗黒時代によく言われた「バースの再来」のネタは違う外国人選手になっていた。
- 1988年に退団しなかったら
- 前年すでに「バースが活躍しても最下位」だったことを考えれば阪神の低迷は免れなかっただろうが、1988年後半の成績は史実ほど悪くはなかっただろう。
- 年齢的に、活躍したのは1990年ぐらいまでか。史実で1989年に入団したセシル・フィルダーが例年のバースに匹敵する成績を残したことを考えれば以後の阪神の成績もそれほど変わらないか。
- 阪神球団代表の古谷真吾氏が飛び降り自殺することはなかった。
福原忍
- 史実より早くセットアッパーとしてブレイクしていたら
プロデビューしてからなかなか思わしくない成績続きの福原でしたが、2011年頃から遅咲きの中継ぎエースとして覚醒、時には臨時ながら守護神も務めるほどになりましたが、もし若き日の頃からセットアッパーとして定着していたら?
- 久保田は先発として定着し、この場合の「JFK」は「ウィリアムス・福原・藤川」と言う方程式になっていた。
- ただし福原本人は酷使の影響で史実の藤川同様に肩の手術を受けるか、史実より早く引退に追い込まれていた可能性もあった。
- 一方で久保田は酷使の影響を受けずに史実より現役を長く続けられていた。
- 安藤がスランプに陥らなければ、福原の代役を務める事もあった。
藤川球児
- もしも「火の玉ストレート」を会得していなかったら
阪神時代、山口高志投手コーチに「なぁ球児、右足ちゃうか?」と指摘された事がきっかけで、それまでの低迷がウソのような大活躍を見せるようになった藤川でしたが、もしあの一言が無いままだったとしたら?
- 未成のドラ1のまま阪神を退団していた可能性が高かったであろう。
- 藤田太陽くらいの知名度だった。
- 西武などにトレードされ、1・2年くらいだけ活躍したかもしれない。
- ファンからも「あーいたなそんなの」程度の認識で終わっていたであろう。
- 一部では広末涼子の同級生というイメージが強いままだったかも。
- 当然ながら「JFK」が流行語になる事も無かった。
- 藤川俊介の登録名が「俊介」になる事も無かった。
- リンドバーグの曲が彼の登場曲として有名になることもなかった。
- 2012年オフに阪神残留を決断していたら
2012年オフにシカゴ・カブスへの移籍に踏み切った藤川でしたが、もしあの時に阪神に残留していたら?
- 久保がストッパー転向する事はまず無かった。
- そして2014年にDeNAへFA移籍する事も無かった。
- その代わりに鶴岡が来る事も無かった可能性が高い。
- そして2014年にDeNAへFA移籍する事も無かった。
- 史実通りに2013年5月末に肩の故障で離脱したら、チームは史実以上に中継ぎ陣再編成で大混乱状態に陥っていた可能性が高かった。
- やはりその場合も最終的に臨時守護神を史実通りに福原がやっていた。
- 故障の度合いによっては、史実通り呉昇桓獲得に動いていた可能性もあった。
- ドリスが阪神に入団する可能性がかなり低くなっていた。
- 故障の度合いによっては、史実通り呉昇桓獲得に動いていた可能性もあった。
- やはりその場合も最終的に臨時守護神を史実通りに福原がやっていた。
ベーブ・ルース
- もしレッドソックスに残留していたら
- いわゆる「バンビーノの呪い」は存在せず、ルース引退まで2,3回は優勝していた。
- ヤンキースは中堅のまま今日に至る。
- 1950年代後半にドジャースの誘いを受け西海岸に移転していた。
- ニューヨークに残るのはジャイアンツ。メッツはアメリカンリーグに参入。
- 松井秀喜もニューヨーク・ジャイアンツでプレーしていた。
- 同じリーグだからそれによる移動の負担軽減もあった。
- ジョー・ディマジオもレッドソックスでプレーしていただろう。
- ディマジオに限らず、往年のヤンキースの名選手はヤンキース以外の球団でプレーしていたはず。
- ルー・ゲーリッグの2130試合連続出場記録は、生まれなかった。
- ディマジオに限らず、往年のヤンキースの名選手はヤンキース以外の球団でプレーしていたはず。
- ミュージカル「くたばれ!ヤンキース」はなかった。
- 代わりに「くたばれ!レッドソックス」が出来ていた。
- 野手転向が遅れていた可能性があるので、714本塁打は記録できなかった。
- その代わりに200勝していたかも。
ま~わ行
ケビン・ミッチェル
- ダイエーに入団しなかったら
1986年のワールドシリーズ制覇、1989年のナショナルリーグMVPなど、輝かしい実績や経験をひっさげて1995年にダイエー入りしたミッチェルですが、活躍は今一つで問題児ぶりが露呈され、すぐ解雇されました。
もし、ミッチェルがダイエーに入団しなかったら?
- トラックスラーの解雇はなかった。
- チーム自体も、あと10勝は勝ち星を増やせていたと思う。
- 1996年の生卵事件はなかったかも。
- 2001年にケビンのいとこのトニーが入団することも無かった。
- 水島新司の漫画に助っ人外国人が引き続き登場していた。
- あれはアップショーらしいぞ。ミッチェル関係ない。
村上宗隆
- 1988年に新潟県で生まれていたら
- 村上市がネタにされた。
- 並びに聖地になっていた。
- 並びに現実通りヤクルト入団なら燕市も聖地になっていた。
- 中越地震で被災かつ現実通りの活躍なら、中越地震で被災した地元新潟を勇気づける存在になっていた。
- 1988年度生まれはハンカチ世代ではなく村上世代と呼ばれた。
- 恐らくは日本文理あたりの出身だった。
- 場合によっては日本文理並びに新潟県勢の甲子園ベスト4進出が早まっていた。