もしあの鉄道事故が○○だったら/1990年代以前

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1960年代以前

西成線脱線火災事故

起きていなかったら
  1. 西成線の電化が遅れた。
    • 関西線奈良地区が先に電化していた。なぜならこの時、西成線と関西線奈良地区のどちらを先に電化するかといわれていたので。
    • ガソリンカーの全廃はヨン・サン・トオのころになっていた。
    • 安治川口駅が悪い意味で有名にならなかった。今でもマイナーな駅のまま。
    • 電化はおそらく環状線開業と同じ時期になっていた。
      • 電化自体は事故以前から計画されてたので、史実より1.2年ほど後になってそう。
  2. ゆめ咲線には今頃、昔の京葉線に例えるとシャトルマイハマのような車両が走っている。
事故車両の車掌が労働組合員だったら
  1. 関西には関東でいう千葉動労のような組織ができている。
    • JR西日本の砂丘色のような派手なキハ58系は登場しなかった。

八高線列車脱線転覆事故

起きていなかったら
  1. 八高線のイメージがそれほど悪くなっていなかった。
  2. 西成線脱線事故の知名度が史実より上がっていた。
  3. 1945年の正面衝突事故もなければ、八高線絡みの事件といえば線路内の犬の立ち入りになっていた。
    • Chakuwiki住民以外には知られてないだろうが。
  4. 木造客車の鋼体化は史実より遅れ、木造客車の全廃はヨンサントオ改正の頃になっていた。また、オハネ17(→スハネ16)・オシ16は木造車の台枠を流用して製作された。
別の時代に起きていたら
  • 全般
  1. 死者は現実より少なかったはず。
    • なぜなら戦後の混乱期で定員の3倍もの乗客を乗せていたため。
    • 国鉄末期ならけが人が何人か出たぐらいだったかもしれない。
  • 1960年
  1. 事故車は気動車になっていた。
    • 死者の数は史実より少なかった。
  • 1985年
  1. 日本航空123便の事故と重なった場合、その事故の遺族の身元確認にも影響が出ていた。
    • 距離が離れていたので高崎付近のみの折り返し運転で対応したか。
  • 1994年
  1. 八王子~高麗川の電化工事に影響が出ていた。
    • 1~2年ほど延期されていたかもしれない。
    • 史実同様「超満員の乗客による事故」だった場合、電化と同時期に6両編成化も行われていた。
      • 中央線の乗り入れが行われていた場合、逆に五日市線が4両になっていた。
  • 1996年3月
  1. 非電化時代最後の事故になっていた。
    • 気動車によるラストランなどは行われず、電車化も少し遅れていた。
  • 1996年4月以降
  1. 事故車は電車だった。
  2. 電化早々の事故となり、八高線への不信感が強まっていた。
  3. 中央線との直通運転はなかった。
    • 一時的に女性専用車が導入されることもなかった。
  4. 福知山線事故の知名度が史実より下がっていた。

塩狩峠での暴走事故

詳細はこちらを参照

職員が線路に飛び降りなかったら
  1. 事故が史実以上に大きくなり多数の死者が出ていた。
  2. 三浦綾子がこの職員をモデルとして「塩狩峠」を書くことはなかった。
起きていなかったら
  1. 塩狩信号所(後の塩狩駅)はなかったかもしれない。
  2. この場合も小説「塩狩峠」は存在せず。
  3. かつて発売されていた「ご当地入場券」の設定駅も和寒駅になっていた。

桜木町事故

起きていなかったら
  1. 非常用ドアコックの設置が遅れていた。
  2. 逆に三河島事故は防げていたかもしれない。
  3. 63系の置換えが遅れた。
    • 73系への改番は1960年代になってからで、同時に72系920番台と同じ車体への載せ替えも併せて行われた。また、モハ63形のうち855-858は1959年の形式称号改正時にクモハ73形400番台に改番された。

六軒事故

起きていなかったら
  1. 三重県内のJR東海にもフリークエンシーダイヤが導入されている。
    • 快速みえの利用客も多かった。
  2. 伊勢志摩方面への輸送で近鉄に客を奪われる時期は史実より10年以上遅くなっていた。
  3. JR東海もSLの動態運転に積極的になっていた。もちろん葛西氏の勢力は強くならなければの話だが。
別の時代に起きていたら
  • 2011年
  1. 事故車両は快速みえだった。
    • 東海の会社のカラー自体変えることになっていた。
事故車両が〇〇だったら
  • 現実ではSL同士でした。
キハ55系
  1. キハ55系同士の場合、SLではないため水蒸気漏れはなかった。
    • その代わり西成線事故のように炎上していた。
      • ディーゼル車であるため、むしろそこまで深刻なものではない(西成線の事故はガソリン車だから余計に炎上させた)。

三河島事故

起きていなかったら
  1. 三河島は今でもマイナーな地名のまま。
    • むしろ荒川区の行政地名としての「三河島」が存続していた。
    • 古参の相撲ファンには三河島事件のイメージを持たれる。
  2. 国鉄がスワローズをフジサンケイグループに売却することはなかった。
    • それでも1980年代に国鉄分割民営化が決まる前後には売却されていた。ただ売却先はヤクルトではないかも。
  3. ATSの整備が遅れていた。
    • 常磐無線アンテナも存在しなかった。
  4. 漫才の春日三球・照代コンビは誕生していない。
    • JR東日本では首都圏の複々線と3複線路線において何か発生した場合、全ての線路を止めることはなかった。

第一富士脱線事故

  1. クロ151-7は新性能電車廃車第1号にならなかった。
    • 新幹線開業後に格下げ改造され「クハ181-57」を名乗る。
    • もちろんクロ150-3→クハ181-53は誕生しない。
      • 国鉄特急型初の先頭車化改造車はクロ481-50番台だった。
  2. 153系「かえだま」の記録写真が少なくなる。
  3. 157系が新潟県内で営業運転することはなかった。

近鉄河内国分駅列車追突事故

起きていなかったら
  1. 10000系初代ビスタカーの先頭車であるモ10007が18200系に準じた貫通型に改造されることはなかった。

南海三大事故

男里川橋梁列車脱線転落事故・箱作駅構内列車衝突事故・天下茶屋駅列車衝突事故

起きていなかったら
  1. 南海の新塗装が史実と異なっていた。
    • 新塗装は緑をベースにしていた。
      • 羽車マーク→Vマーク→ファインレッドとブライトオレンジのCIマークへの変更もなく今もターミナル駅や広告は「NANKAI」ではなく「南海電鉄」と書いていた。
  2. 南海は女性乗務員を派遣会社に委託することはなかった。
    • その結果、関西の鉄道で初めて南海は駅員と乗務員は全員スラックスになっている。
      • 女性鉄道職員と言えばスカートがいいという輩から「南海の女性乗務員の制服は男性とそっくりでつまらない」といれれた。
        • 「パッセンジャー・アテンダント」という造語もない。
          • もしくは仮に女性乗務員を業務委託していても90年代中に女性乗務員の業務委託は廃止されてそれと同時に南海の鉄道職員の制服はスラックスのみに統一されていた。
  3. その後の南海ホークスは史実よりも成績が良かった。
    • 1970年代のパ・リーグが阪急ブレーブスの一強にならなかった。
    • 場合によってはダイエーに球団売却されることはなかった。
      • それでも大阪球場は再開発のため撤去され、中百舌鳥あたりに新球場を作っていた。
  4. 11001系は元の形式のままで全車昇圧改造・冷房改造を受けて、1000系に形式名が変更されたり京福電鉄福井支社に譲渡されたりすることなく、1980年代後半まで南海本線で使命を全うした。
    • 1974年に京福に譲渡されたのは別の私鉄の車両になっていた。また11001系(史実の2代目1001系)は1987年に引退後、一部は大井川鉄道に譲渡されていた。
  5. 泉北高速鉄道は当初から南海の路線として建設されていた。
  6. 1970年代以降関西大手私鉄における南海の政治力が現実よりも高くなっていた。
    • 地下鉄に置き換えられて平野線と天王寺支線を失わなかったかもしれない。
      • 阪堺電気軌道の発足もなかったか現実より遅れていた。
        • 貴志川線撤退の時は両備グループに売らず近鉄でいう伊賀鉄道・養老鉄道のような方式の分社化で対応した。

1970年代

近鉄特急正面衝突事故

起きていなかったら
  1. 近鉄大阪線の全線複線化はなかったか遅れていた。
    • 恐らく全線複線化されていたとしても1980年代になっていた。
    • 全線複線化されるにしても旧線に沿う形で線増されていた。そのため現実よりカーブが多くなり、大阪~名古屋・伊勢間の所要時間が増加していた。
      • 「アーバンライナー」は振り子式車両になっていたかも。
        • 21020系・22600系以降の特急車には車体傾斜装置が設置されていた。
      • 旧青山トンネルが現役のため、心霊スポットになることもなかった。
  2. 近鉄とは関係ないが、東武日光線の全線複線復活(合戦場-新鹿沼の複線復活、史実では1973年)も1980年代まで実施されなかったかもしれない。

北陸トンネル火災事故

起きていなかったら
  1. 10系客車の早期廃車はなかった。
    • JRマークが付いた車両が見れたかも。
    • 燃焼実験のために廃車となることもなかった。
    • その代わり旧型客車の廃車のペースが早かった。
    • ナハ11形・ナハフ11形については冷房改造も実施されていた。
  2. 食堂車の衰退はなかった。
    • 数年遅れた程度で、80年代には衰退していただろう。
  3. 24系客車は登場しなかった。
    • 14系15形が1974年に登場し、史実の24系25形と同様の形態変化を見せる。
  4. 自動消火装置の実用化が遅れた。
  5. KATOのオシ17は違う車番になっていたかもしれない。
  6. 青函トンネルが気動車での自走ができなくなることもなかった。
客車が尾久所属だったら
  1. 確実に事故は起きていなかった(高砂工場のいい加減な施工と宮原区の検査手抜きが火災原因)。
  2. オシ17は50.3改正まで生き残っていた。
    • でも、12・14・20系の急行運用は下手すると分割民営化直前の61.10改正まで無かったかも?
火災を起こしたのが○○だったら
  • 現実では10系客車でした
  • 気動車
    • 事故が起こる1か月前まで特急白鳥はキハ82系気動車を使用していた
  1. 火災が気動車白鳥だった場合、特急の火災という事で国鉄内部のショックは大きかった。
    • 後の石勝線火災事故と比較されていた。
      • 石勝線は長大トンネルもあるので、むしろ開業時から電化されていただろう。
        • その場合根室本線の新得-釧路間も電化されていた。
  2. この事故以降長大トンネルでの気動車の通行が禁止されていた。
    • 幹線の電化は現実よりも早いペースで進んでいた。
    • 能登半島から大阪に直通する急行は廃止されるが、代わりに七尾線の電化か能登空港の開港が80年代に実現した。
      • 場合によっては和倉温泉どころか輪島までの全線が電化されていた。その場合七尾線和倉温泉以北ののと鉄道移管や穴水以北の廃止はなかったかもしれない。雷鳥→サンダーバードにも輪島発着が設定されていた。
    • 智頭急行も電化路線として開業していた。
      • 予讃線の電化も早く、内子回りの新線開通と同時に宇和島までの全線で行われていた。
        • それでも伊予長浜経由は非電化のまま…。
  • 電車
    • この事故が起きた直後に急行立山3号(電車)がトンネル内に進入しようとしていた
  1. 原因の一つに架線設備の故障が疑われていた。
  2. 電車の不燃化が推進されていた。
  3. 半鋼製車両の地下線乗り入れが禁止されていた。
    • 京阪1300・1700・山陽820系などの廃車が早まっていたか、車体の載せ替えが行われていた。

東海道新幹線回送列車脱線事故

起きていなかったら
  1. 1970年や2004年に起きた脱線事故の扱いが大きくなっていた。
  2. ATCの安全性が問題提起されることはなかった。
営業列車と衝突していたら

実際上下線とも数分違いで通過していました。

  1. もちろん新幹線の営業列車としての初めての事故に。
    • 確実に死者が出ていた。
  2. 新幹線の安全神話は生まれず、利用者も史実ほど増えなかった。
    • 現実よりも航空機に旅客がシフトしていた。
    • 近鉄名阪特急も史実より数年早く回復していた。名阪ノンストップに18200系が使用されることはなかった。
  3. 基地から最寄り駅までの回送線と営業線の分離が検討されていた。

京阪100年号事故

起きていなかったら
  1. 大都市の蒸気機関車運転が躊躇されることはなかった。
    • C57 1は山口線ではなく奈良線や山陰線などで運転されていた。
    • 「SL北びわこ号」の運転開始も早かった。
  2. 鉄道事故は起きなくても群衆事故はそのうち起きただろうから史実と大差ないような。

営団東西線列車横転事故

起きていなかったら
  1. 「地下鉄に鉄橋なんかあるわけない」と誤解されることはなかった。
  2. 『スパイダーマン』の映像のネタにされることはなかった。
横転したのが国鉄車だったら
  1. 103系1200番台が追加製造されていた。
  2. 10両化に影響が出た。
    • 301系だったら103系との混結編成が史実より早く登場した。

常磐線列車衝突脱線転覆事故

起きていなかったら
  1. モハ403-1がモハ401-26に改造されることはなかった。
    • モハ401-7の寿命がもう少し延びた。
  2. クハ401-51は非冷房のまま廃車されたかもしれない。
  3. 「低運転台・デカ目・新塗装」の401系は存在しなかった。
  4. クハ401-83・84の前面強化はJR化後になってからだった。
    • その際前照灯がシールドビーム化される。
1984年以降に起きていたら
  1. モハ403-1は電装解除されてサハ401-1になっていた。

1980年代

京阪置石脱線事故

起きていなかったら
  1. 関西の大手私鉄において線路脇のフェンスが高くなることはなかったか、設置が遅れていた。
  2. 5000系が4連で営業することはなかった。
  3. 京阪は関西私鉄で唯一重大鉄道事故は一回も起こしていない。
    • 1966年に発生した蒲生信号所での衝突事故くらいだった。
      • 蒲生の事故は小さな事故では?
  4. 京阪の車両は6000系以降も先頭車はモーターなしの設計だった。
    • 京急も2000形以降の先頭車はモーターなしだった。
      • 京急は先頭モーターありが伝統だったので変わっていないだろう。
脱線したのが5000系ではなかったら
  1. 京都方先頭車がMc車の2200系などの場合、脱線はしても線路沿いのの民家に突っ込むことはなかった。
    • 車両も修理されて復帰していた。
  2. 脱線したのが特急車の3000系だった場合、復旧まで一般車による代走が頻繁に発生していた。
死者が出ていたら
  • 史実では死者は出ませんでしたがもし死者が出ていたら?
  1. 現在までに続く京阪電鉄100年以上の自慢であった「創業以来旅客死亡事故・従業員死亡事故ゼロ」がこの時点で途切れていた。
    • 「京阪グループ全社では1回も死者を出した事件・事故は起こしていません」という自慢はできなかった。
  2. 死者が出たため置石をした中学生の親にはもっと責任が重くなっていた。
  3. 線路侵入対策は史実以上に徹底されている。
  4. 枚方市や寝屋川市付近の高架化が早まっていた。
    • 平成のうちに枚方市以西が完全に立体交差化されていた。
  5. 被害規模が2005年の福知山線脱線事故並みだった場合、1980年代初頭に京阪の塗装が変更されていた。
    • 6000系以降は当初から新塗装で登場していた。
  6. 事故後事故現場に慰霊碑を設置。

富士川鉄橋流失事故

大垣夜行を巻き添えにしていたら
  • 現実では富士駅で乗客待ちで遅れたため事故は防げました。
  1. 鉄橋流失で列車が巻き込まれる事故になっていた。
  2. 165系はJR化時点で定期運用を持たなかったかも。
    • 現実の20系客車より早く全廃された。
起きていなかったら
  1. 今も大幹線の鉄橋流失は起きていない。
    • 鉄橋流失は現実以上にローカル線のイメージになっていた。

名古屋駅寝台特急「紀伊」 機関車衝突事故

起きていなかったら
  1. 寝台特急紀伊は近鉄観光特急しまかぜ登場まで運行が続けられた。
    • むしろ出雲と同時期じゃない?
    • というか、紀伊の廃止はこの事故で利用客が離れたとみなされることもなかった。
  2. 運転士の飲酒運転を晒すこともなかった。
    • 職員のモラルのなさと関係のこじれを晒すこともなかった。
    • 西明石事故も起きなかった。
    • 既に当時、この事故がなくても国鉄の民営化は不可避の情勢となっていたが、6分割ではなく全国一元維持か東西2分割で行われ、国労・動労の組織解体などは行われなかった。
      • その場合、労組の衰退がなかったので、新自由主義という考え方が生まれず、バブル崩壊後の失われた20年もなかったかもしれない。
  3. スハネフ14の24系からの改造車は全車JRに引き継がれていた。

阪急六甲駅衝突事故

起きていなかったら
  1. 阪急と山陽の相互直通運転が廃止されることはなかった。
    • 直通特急は阪神梅田と阪急梅田双方に発着するようになっている。
      • その分阪神は近鉄との直通に力を入れていたかも。
    • 同時に山陽電鉄は8両対応に施設を改良し、阪急も山陽車両が乗り入れられるように車両限界を拡大していた。
  2. 阪急2000系のトップナンバーは能勢電鉄に移籍して今も健在。
    • 能勢電鉄から引退後は正雀工場あたりで保存される。
  3. 山陽3000系鋼製車の塗色変更はなかった。
    • あったとしても後に復刻塗装が施されていた。
      • 現実には2019年7月から行われたが、それが早まっていた。
        • 恐らく3000系登場50年となる2014年か、神戸高速鉄道開業50周年となる2018年に行われていた。
死者が出ていたら
  • 史実では衝突した阪急特急が山陽の車両に気がついて減速していたため、幸いにも死者は出なかったそうです。
  1. GWで車内も混雑していたため、最悪福知山線脱線事故級の大事故となっていたかも。
    • 110km/hで衝突していたらあり得る(現実には阪急の運転士が山陽の車両に気がついて50km/hに減速していた)。
    • 六甲駅構内に慰霊碑が立てられていた。
  2. 阪急と山陽の相互直通は事故後直ちに中止されていた。
    • 阪神梅田~山陽姫路の直通特急が同時に実現してたかどうかは微妙。
      • 早くても1991年(明石駅高架化=山陽6連対応)
    • 山陽車の阪急神戸三宮乗り入れも廃止されていた。
    • 阪急の神戸市営地下鉄西神・山手線への乗り入れ計画及び神戸高速線阪急神戸三宮~高速神戸間の廃止計画が現実よりも早く進んでいたかも。
  3. 山陽電鉄は事故後暫く運転見合わせを命じられていた。
    • お陰で並行して走る国鉄が混雑し、史実よりも早く全ての新快速が姫路まで乗り入れるようになったかも。
      • その結果、史実より早く山陽電鉄から国鉄→JRへの旅客流出が起こり、その対策として阪神大震災までに阪神・山陽直通特急を運転開始していた。
        • 場合によっては阪神の子会社になっていたか吸収合併されていた。
          • 神鉄粟生線のように廃止論議が発生していた。
事故車両がアルミ車だったら
  • 史実では阪急、山陽とも鋼製車でしたが、もし、これが山陽3000系や阪急7000系などのアルミ車だったら?
  1. 阪急側の車両は7000系が代替新製されていた。
  2. 山陽側の車両は史実通りに復旧に尽力させるが、困難を極めていた。
    • 最悪、代替新製された可能性も。
  3. 山陽側の車両はアルミ車も鋼製車と同様の塗装をされていた。
    • 現在の塗装ではなく、旧塗装に塗られていた。
事故車両のどちらかがアルミ車だったらの場合
  1. 上述と同じかな。


余部鉄橋列車転落事故

起きていなかったら
  1. 余部鉄橋が架け替えられることはなかった。
  2. 「みやび」はJRに継承されていた。
    • 「あすか」は登場しなかった。
    • ブルーリボン賞orローレル賞を受賞していた。
営業列車だったら
  • 現実には回送列車でした
  1. 犠牲者の数がは現実よりもかなり多くなっていただろう。
    • 特に事故を起こした列車が現実と同じ「みやび」か特急列車だった場合、恐らく福知山線脱線事故と同等かそれ以上になっていた。
    • あの高さから落ちていたら生存者の方が少ないと思われる。
    • あの「カサンドラ・クロス」(1976年制作の欧州映画)での惨劇が現実のものとなっていた。欧米でも「カサンドラ・クロス」に酷似した列車事故として有名になっていた。
  2. 事故後直ちに余部鉄橋は架け替えられていた。
    • 智頭急行も史実よりも早く開業していた。
    • 旧鉄橋の一部が保存されることもなかった。
  3. むしろ乗客の重みで転落しなかったのかもしれない。

上海列車事故

起きていなかったら
  1. 海外への修学旅行が減少することはなかった。
    • 1990年代に入ると公立学校でも海外に修学旅行に行く学校が出ていた。
  2. 尾形大作の曲「無錫旅情」はこの事故の後に放送自粛をすることはなかった。
  3. 高知学芸高校の知名度は現実ほどではない。
  4. 中国国鉄は日本の旧国鉄並みの体質を晒すことはなかった。

サロンエクスプレスアルカディア火災事故

火災がトンネル内で発生していたら
  • 現実では新清水トンネルを通過した後に火災が発生しました。
  1. 犠牲者が出ていたかもしれない。
  2. Kenjiへの改造は無く、全車両がこの時に廃車になっていた。
  3. この事故以降清水トンネルなどでの気動車運行がタブーになっていた。
    • どうしても運行したい場合はトンネル部分のみ電気機関車による牽引となっていた。
    • 長大トンネルを含む区間は原則として電化されることになっていた。
      • その結果、石勝線の特急「おおぞら」の火災事故はなかったかもしれない。
      • 智頭急行も電化路線になっていた。
  4. 全長5キロ以上のトンネルを持つ路線は気動車は出禁になっていた。
  5. 1972年に発生した北陸トンネル火災事故と比較されていた。
起きていなかったら
  1. JR東日本は団体用ジョイフルトレインの電車化を推進させことはなかった。
    • E655系やTRAIN SUITE 四季島は汎用性を高めるため、気動車として製造されたかも。
      • JR東日本は特急形気動車を保有しないと言われ続けることもなかった。
  2. DMH17エンジンの取り換えもなかった。
  3. Kenjiも登場していない。
    • サロンエクスプレスアルカディアは2000年代半ば頃に廃車となっていた。
    • キハ58系は2000年代までにJRから運用を撤退している。
    • 上越線を走る夜行を含む優等列車は1990年以降、臨時を含めて全く走っていなくて団体列車しか走っていない。
  4. アルカディアがJR西または東海の車両だったら起きなかった(JR東のいい加減な気動車の管理体制と上沼垂区の検査手抜きが火災要因)。

中央線東中野駅列車追突事故

起きていなかったら
  1. ATS-Pの導入が遅れていた。
  2. 中央・総武緩行線に205系が投入されることはなかった。
    • 103系1200番台や301系の塗色変更も209系500番台投入時に行われていた。
  3. モハ103-334は2005年まで稼働した。
  4. 故・山之内秀一郎氏はJR東日本の社長になっていた。
  5. カナリアイエローが忌み嫌われることはなかった。

阪和線天王寺駅車止め追突事故

起きていなかったら
  1. 阪和線は遅れと運転見合わせが多いというジンクスはなかった。
  2. 101系を改造編入した103系がもう少し長く運用された。
車止めを突破していたら
  1. 宿毛の事故どころでは済まなかった。
    • ターミナル駅のため利用者を巻き添えにして死者が出ていた。
  2. JR西日本のクラッシャブルゾーンの導入が早まっていた。
事故車両が〇〇だったら
  • 現実では103系でした。
113系
  1. 阪和線の113系は関空開港の時点で全廃されていた。
    • 現実より早く奈良の221系を借り受けて113系を全廃していた。
    • 廃車にならなくても湘南色に塗装変更されていた。
165系
  1. 165系は少なくとも日根野からは1994年に全廃になっている。

1990年代

日高線踏切事故

起きていなかったら
  1. JR北海道の車両が高運転台化されることはなかった。
    • その結果深川のスーパーカムイ踏切事故で死者が多数出た可能性が。
  2. キハ160形は登場しなかった。
    • 少数派車両ゆえにハイブリッド試験車に改造されることもなかった。

信楽高原鐵道列車衝突事故

起きていなかったら
  1. 「世界陶芸祭」は予定通り最終日まで開催されていた。
  2. 途中の行き違い設備やJRとの連絡線は現在でも残っている。
    • 運転本数が増便され、JRとの直通も残っていたかも。
  3. 信楽高原鐵道が経営難に陥ることはなかった。
  4. 2013年に豪雨で被災した際も早くに復旧できていた。
  5. 地方私鉄・第3セクターとJRの臨時直通列車の廃止・削減はされなかった。
    • 常磐線の海水浴列車である「あじがうら」「おおあらい」は廃止されなかった。
      • 「ビーチイン大洗ひたち」の運行も実現していた。
    • 「サンダーバード」の宇奈月温泉・立山直通も2015年3月の北陸新幹線開業まで廃止されなかった。
    • JR各社間またがりの列車の削減も史実ほど進んではいなかった。
    • 東武東上線は秩父鉄道への直通特急「みつみね」「ながとろ」も廃止されなかった(こちらは秩父鉄道のATS導入絡みもあるが)。
      • 東武は多くの線区で系統を分断することもなかった。
  6. 富士重工LE-carシリーズが生産中止になることもLE-DCが標準化されることもなかった。
  7. 史実では、当時の本場所で負けが込んで「体力の限界、気力も無くなった」と言って事故当日の夜に引退した大横綱・千代の富士がどうなっていたか?
    • むしろマスコミの取り上げ方が大きくなっていたと思われる。
  8. 信楽高原鐡道所属車両の塗色変更はなかった。
  9. ICカードが使えるようになっていたかもしれない。
直後に火災が発生していたら
  1. 死者が西成線事故に匹敵していた可能性がある。
  2. それでも信楽線が電化されることはあるまい。

成田線大菅踏切事故

起きていなかったら
  1. 113系などが前面強化されず、「鉄仮面」と呼ばれることはなかった。
  2. 「踏切事故撲滅キャンペーンCM」は製作されず、怖いCMとして話題になることも無かった。
  3. E217系以降のJR東日本の近郊型電車に衝撃吸収構造が採用されることはなかった。若しくは遅れていた。

島原鉄道列車正面衝突事故

起きていなかったら
  1. キハ2500形の導入はなかったか遅れていた。
    • 取手事故の二の舞になることはなかった。
  2. 島原鉄道の経営が悪化することはなかった。
    • 島原外港-加津佐間の廃止もなかった。
  3. 種村直樹は島原鉄道への救援カンパ呼び掛けを打ち切ることなく、関係が悪化することもなかった。
  4. 信楽の場合と同様、ICカードが使えるようになっていた。

ニュートラム暴走衝突事故

起きていなかったら
  1. 100系(初代の車両)の置き換えが数年遅れていた。
    • それでも鋼製車体なので塩害の影響もあることから遅くとも20世紀中には置き換えられていただろう。
  2. 大阪市バスに「ニュートラム代行バス」の方向幕が用意されることはなかった。
車止めを突破して地上に落ちていたら
  1. 現実には出なかった死者が確実に出ていた。
    • 最悪、車止めの真下の道路を走る車を直撃していた。
  2. 新交通システムにおける無人運転は現実よりも普及しなかった。
  3. 100系車両は1両も保存されることなく全車解体されていた。
  4. OTS線の利用客は現実ほど低迷しなかった。
    • 大阪市交通局への運営移管はなかったか現実よりも遅れた。
      • 大阪市交通局の赤字はひどくなり史実より早く民営化されている。
    • それはむしろ起きていなかった場合じゃね?
  5. ニュートラムは廃止になり、バス転換された。
    • その後同じルートでリニア地下鉄が計画され、住之江公園以東も長居公園通の地下を喜連瓜破まで延伸されていた。
    • つまりシーサイドライン暴走事故の後シーサイドラインは廃止されてたか?
回送列車だったら
  1. 無人運転なので、恐らくけが人はいなかった。
  2. 「もし営業列車だったら大変な惨事になっていただろう」とマスコミがコメントしていただろう。
  3. 人的被害はなかったものの、一応事故は起こったことになるので、安全対策の強化が求められるようになっていた。
    • 史実と同様、事故後しばらくは運転席に係員を添乗させていた。
    • 但し運行再開は現実よりも早かっただろう。

銚子電鉄列車正面衝突事故

起きていなかったら
  1. 銚子電鉄の経営が悪化することはなかった。
  2. 「澪つくし号」は現在でも運行していた。
  3. その後の減便もなかった。
  4. ICカードが使えるようになっていた。ぬれせんべいとたい焼きの購入にもICカードでの購入が可能になっていた。

三島駅乗客転落事故

起きていなかったら
  1. 現在も運行者責任での新幹線死亡事故は起きていない。
  2. 0系の廃車は史実より早かった。
  3. 全国各地で駆け込み乗車に起因するトラブルが社会問題になっていた。
    • 須田寛氏はJR東海のCEOになっていた。
      • その結果、JR東海はゲームや全面展望映像の商品化を断ったりイベントをほとんどしなくなることもなかった。
        • JR東海ファンはもっと多くなっていた。東海地方の鉄道イベントはすべて自由参加になっていた。
          • JR東海はイベントが一番多いといわれていた。あと観光列車もしている。JR東海の葛西さんの勢力は強くならなかった。

中央本線大月駅列車衝突事故

起きていなかったら
  1. あずさが旧あさま用の189系による代走はなかった。
    • 「あさまずさ」と呼ばれることもなかった。
  2. E351系がもっと量産されていたかも。
    • 引退も現実よりも遅かったかもしれない。
      • もしくはスーパーあずさ引退後、宇都宮線に転属してスワローあかぎの宇都宮線版「スワローとちぎ」になっていた。

ICE脱線事故

起きていなかったら
  1. 台湾高速鉄道はフランスのTGVとドイツのICEの技術が採用され、日本の新幹線の輸出はなかった。
    • 「台湾新幹線」と呼ばれることはない。
  2. 日本の新幹線はヨーロッパに遅れをとっていると言われていた。

相模鉄道相模大塚駅脱線事故

起きていなかったら
  1. 3000系は10000系誕生まで使い続けられていた。
    • さよなら運転も行われていた。
    • もちろん湘南台入線も実現していた。

関連項目