もしあの人が健在だったら/囲碁・将棋
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囲碁
安部吉輝
- 東日本大震災の時、故郷の石巻を復興させようと頑張っていた。
加藤正夫
- 日本棋院のさらなる改革に取り組んでいた。
- 引き続きタイトル戦にも精力的に出場していた。
- 七大タイトルで唯一獲得できなかった棋聖になっていたかもしれない。
- 弟子の吉原(梅沢)由香里の出産にお祝いコメントを出していた。
- ただ時期的な意味(2011年3月)でそれを出すのは遅くなっていたかも。
木谷實
- 弟子の趙治勲や加藤正夫の台頭を喜んでいた。
- 孫の小林泉美の育成に、娘の小林禮子やその夫の小林光一とともに取り組んでいた。
- 娘の吉田智子と一緒に囲碁の冠ラジオ番組を作って出演していた。
- 「それでもボクはやってない」の映画公開時にも生きていたら息子つながりで試写会に招待されていた。
小林禮子
- 弟子をさらに輩出していた。
- 妹の吉田智子の朗読会に特別出演していた。
- やはり「それでもボクはやってない」の試写会に招待されていた。
坂田栄男
- 日本棋院の名誉顧問をさらに務めた。
- 林海峰との対戦経験から、井山裕太の台頭を苦々しく思っていた。
藤沢秀行
- 孫の藤沢里菜の最年少プロ入りを見ることができた。
- 書道の世界でもさらに精力的に作品を発表し、個展も開いていた。
- 藤沢秀行記念室や藤沢秀行記念館は作られなかった。
- 盟友・米長邦雄に触発される形で囲碁AIとの対局に挑んでいたかもしれない。
- 井山裕太や芝野虎丸の台頭を喜びつつ、弟子の高尾紳路に「若造にタイトル独占されやがって!お前もっとしっかりしろ」と叱咤している。
将棋
板谷進
- 少なくとも現役中に九段に昇段できていた。
- 父である板谷四郎の最期を見届けていた。
- 孫弟子である藤井聡太の活躍を喜んでいただろう。
- 杉本昌隆(板谷の弟子、藤井の師匠)と同様にメディアに引っ張りだこになっていた。
- 史実以上に東海地区の棋士育成に尽力していた。
- 弟子も史実より多くとっていた。(上記の藤井聡太も板谷の直接の弟子になっていたかも)
- 中学校卒業する1995年まで日進市に住んでいた松尾歩、存命なら60代のときに奨励会に入っている澤田真吾、石川優太あたりは板谷進門下になっていたかもしれない。
- 弟子も史実より多くとっていた。(上記の藤井聡太も板谷の直接の弟子になっていたかも)
大山康晴
- その後もずっとA級で活躍し続けた。
- A級のままなら現役継続年数が加藤一二三より長くなっていた。
- ただしB級に落ちたら潔く辞めていたかもしれない。
- というか自ら宣言していたようです。
- ただしB級に落ちたら潔く辞めていたかもしれない。
- シャンチー(中国象棋)の知名度は史実より上がった。
木村義雄
- 息子の木村義徳の引退を見届けていた。
- 息子と共に弟子育成に取り組み、史実よりさらに棋士を生み出した。
京須行男
- 森内俊之の師匠はこの人になっていた。
- そして森内は名人位を取るまで史実より「親の七光り」的に見られ、パッシングを受けた。
小池重明
- アマチュアですが有名なので載せます。
- プロ編入試験を受けた2番目の棋士になっていた。(史実では瀬川晶司)
- プロ編入試験に受かっていたら史実より編入制度の導入が早まった。
- 瀬川晶司のプロ編入に対し喜んでいた。
- 可能性はかなり低いが瀬川の後にプロ編入試験を受けていたかも。
- 団鬼六が彼をモデルにした小説を書いていた。
- あ、もうすでに書かれてあったのか。
- それでも、ノンフィクションの体裁をとってインタビューとかも書いていたかも。
- あ、もうすでに書かれてあったのか。
坂口允彦
- 流石に史実と同じ頃に引退していただろう。史実でも76歳の時に引退したので。
- 戦後一時期チェスに専念していたことがあるため、現役引退後はチェスの普及に尽力していた。
- 未だに法人でも任意団体でもなく個人事業である日本チェス協会のグダグダぶりに愛想を尽かし、戦後自ら設立しその後自然消滅した日本チェス連盟を再建した。
- 坂口によって再建された日本チェス連盟はアンチ日本チェス協会のチェスプレーヤーやチェスファンから支持され、日本チェス協会に代わって国際チェス連盟に加盟することになった。
- 日本チェス協会と異なり再建後の日本チェス連盟は法人化された。少なくとも任意団体にはなっていた。
- 本職が将棋棋士であることから同じくチェスプレーヤーとして活動した(orしている)棋士である大山康晴・宮坂幸雄・羽生善治・森内俊之も日本チェス協会ではなく日本チェス連盟の会員となった。
- 本職が将棋観戦記者である東公平も将棋界出身と言うことで日本チェス協会ではなく日本チェス連盟の会員となった。
- 未だに法人でも任意団体でもなく個人事業である日本チェス協会のグダグダぶりに愛想を尽かし、戦後自ら設立しその後自然消滅した日本チェス連盟を再建した。
花村元司
- 木村義雄の弔辞を読んでいた。
- もちろん木村に「たった1つ悪いことをした。」とは言われなかった。
- 瀬川晶司がプロ編入試験を受けるのが史実より早くなった。
- 史実で瀬川がプロ編入試験に受かった時にお祝いしていた。
- 深浦康市の王位獲得時に生きていたらそれを喜んでいた。
升田幸三
- 日本将棋連盟の会長になっていた。
- 谷川浩司や羽生善治などとと囲碁だけでなく将棋をやっていた。
- 禁煙運動を「禁煙ファシズム」として筒井康隆や養老孟司などと共に反対していた。
- お酒のCMに出ていたかも。
村山聖
- 少なくとも現役で九段になることはできた。
- ネフローゼがなければタイトルを佐藤康光や森内俊之、郷田真隆あたりからいくつか奪っていた。
- 下手すると森内は先崎学みたいになっていたかも・・・・・・。
- ネフローゼがなければ、将棋をしていなかった世界も考えられるが…
- 羽生善治の良きライバルになっていた。
- 藤井猛の知名度は低いままだった。
- 丸山忠久や深浦康市も。
- 将棋を続けていれば渡辺明のタイトル戦での対戦相手の1人として羽生や森内などと共に君臨していた。
- 「聖の青春」はなかった。
- あったとしても内容が少し変わっており、ドラマ化はされていない。
- A級棋士を維持している。
- 羽生善治から名人位を奪取した後ほどなく引退し、故郷広島で後進育成にあたっていた。
- 史実では弟弟子にあたる片上大輔や糸谷哲郎らを弟子にしていた。
森安秀光
- A級に復帰して「だるま流」とまた呼ばれていた。
- もしかしたらタイトル戦にも食い込めるようになっていたかもしれない。
- (史実で死ぬ原因となった長男の刺殺から生還できていた場合)少年法の厳罰化運動に参加していた。
- 兄がやっている将棋教室の講師になっていた。
山田道美
- 大山康晴や升田幸三とタイトル戦を繰り広げていた。
- 中原誠から棋聖を奪い返し、中原の活躍が史実より遅れた。
- もしかすると十六世名人は中原ではなく山田になっていたかもしれない。
- 名人になっていたら中原や加藤一二三、谷川浩司の挑戦相手になっていた。
- 研究会の原点として「山田学校」の知名度は高かった。
米長邦雄
- 今も日本将棋連盟の会長をしていた。
- ツイッターでもさらに面白い投稿を繰り返していた。
- 雑誌「正論」の投稿も続けていた。
- 桐谷広人がテレビに取り上げられることはなかったかもしれない。
- 若手棋士の電王戦の結果を受けてまたコンピューターソフトと対決していた。
- 日本将棋連盟とLPSAとの軋轢は噴出しなかったかもしれない。
- 弟子の中村太地が王座を獲得した際、我が事のように喜んでいた。