もしあの人が健在だったら/落語家

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  • 項目の追加は五十音順で、できれば何代目かもお願いします。

江戸落語家[編集]

桂三木助(3代目)[編集]

  1. 4代目となる息子も弟子にしていた。
  2. 桂木久男は林家正蔵(8代目・後の彦六)門下に移ることなく、木久蔵→木久扇を名乗ることもなかった。
    • その場合、息子(史実ではきくお→2代目木久蔵)は別の前座名を名乗り、真打昇進とともに木久男を名乗っただろう。
    • 新作の「桂三木助伝」で高座をにぎわせていただろう。

桂三木助(4代目)[編集]

  1. 今尚、『死ぬなら今』を十八番ネタとしている。
  2. 桂六久助(現・三遊亭司)に三木助の名を譲ってたかも。
    • その場合、高座名を初代桂盛之助としていた(本名が小林盛夫なだけに)。
    • 「三木助」自体は名人と呼ばれた先代・親父さんの名跡だし、少々継ぐのが早すぎたよ。(こぶ平→正蔵みたい段階を踏んでいれば)
      • (↑の意見に)同感です。
      • 同じく同感。落語は良かっただけに…。というか、1970年代に米朝が三木助を継いでいれば(もともと三木助は上方の名跡)…ってこれは歴史のif検討委員会ネタだな。
  3. 2006年5月に笑点の大喜利メンバーとなっていた。
    • その場合、春風亭昇太のテレビでの仕事が一本減っていた。
    • まあ2006年時点なら小朝クラスの扱いだったろうから無いだろうな。
  4. 「六人の会」メンバーは年齢やキャリアから見て柳家花緑ではなく三木助
  5. 甥(桂三木男→5代目三木助)を弟子にしていただろうか。
    • それはありえるな・・・。
  6. 意外と6代目小さんを継いでいたかもしれない

金原亭馬生(10代目)[編集]

  1. 小さんの後、落語協会会長になっていた。
  2. 年齢的に微妙だが孫の小駒は馬生門下だったかもしれない。

古今亭志ん朝(3代目)[編集]

  1. 三遊亭圓歌の後、落語協会会長になっていた。
    • 鈴々舎馬風は「会長への道」をまだやっていた。
      • 「あたしが会長ンなるはずだったのに、志ん朝の野郎がねぇ…」って愚痴を「会長への道」のどこかに入れる。
  2. 正蔵襲名前後に「志ん生襲名」の声がかかるも、固辞し続けていた。
  3. 自宅の在る矢来町の知名度がアップしてた。
  4. 名古屋・大須演芸場にとって大きな切り札になった。
  5. ファンである東出昌大とSWITCH達人達で対談していた。

三遊亭圓生(6代目)[編集]

  1. 圓丈vs圓楽(5代目)の対立は回避されていた。
    • 圓丈vs鳳楽の7代目争いは起こらず、名跡はどちらかが無事受け継いでいた。
  2. 圓丈が新作へ転向する時期が遅れるため、今のような新作落語ブームが起こっていたかは微妙。
  3. 落語三遊協会は現在もこの名前で活動していた。
    • 真打昇進基準は今も生前の圓生の考えに近いものが使われている。

三遊亭圓楽(5代目)[編集]

  1. 無事6代目圓楽の襲名に同席し、落語界から完全に引退するという形になっていた。
    • その後、何らかの機会でメディアに姿を出す際には、本名の「吉河寛海」で登場していた。
      • 6代目が師匠の完全引退を嫌がっていた(「師匠が落語家でなくなってしまうようで嫌だ」と語ったことがあった)ことで「5代目三遊亭圓楽」として二代揃い踏みを果たす。
    • 2010年の「24時間テレビ」には師弟同席という形で出演。
  2. 鳳楽の7代目圓生襲名の道筋を確実なものとしていた。
  3. 2014年の笑点新春スペシャルの寿大喜利にゲスト出演していた。
  4. 2016年の笑点50周年記念スペシャルと歌丸最後の大喜利にゲスト出演していた。
    • 歌丸共々終身名誉司会となった。
    • もちろん歌丸追悼特番にも出ていた。

三遊亭歌笑(3代目)[編集]

  1. 民放ラジオやテレビの番組に積極的に出演していた。
    • 「お笑い三人組」や「てなもんや三度笠」にも出演していただろう。
  2. 4代目三遊亭歌笑は「三遊亭歌寿美」のままだった。
    • 史実通り、歌笑を襲名していた場合は3代目歌笑が別の高座名にしていた。
  3. 初代林家三平のコメディアンとしての評価がやや下がっていた。

三遊亭小圓遊(4代目)[編集]

  1. 小遊三のメンバー入りが遅れていた。
    • 加入した場合、小遊三の色紋付はピンクか(実際に着用する水色はかつて小圓遊の色だった)。
  2. もちろん歌丸との罵倒合戦は相変わらず。
    • 歌丸の司会就任後も罵倒は続け、座布団がない状態がいつまでも続いていた。
    • 2ちゃんの実況板でも歌丸派と小圓遊派の罵倒合戦になる。
      • あまりの激しさに歌丸派と小圓遊派は専用スレッドに隔離されて、本物以上の罵倒合戦を繰り広げる。
        • 独演会で「こないだ2ちゃんねるっていうんですか、アレ見てたらすごい騒ぎになってましてねぇ…」とマクラ振るかもしれないw
  3. 楽太郎はおとなしく時事ネタを答えるのみであった。
    • 小圓遊と楽太郎でブラック団結成
      • どんだけエグイ事言うんだ、この二人で(笑)
      • 2人とも前橋と縁があったため「群馬同盟」といった名称のユニット?が結成されていた。
        • 新潟出身のこん平とも張り合っていた。
    • 史実では封印された瀬古利彦そっくりネタを長く使い続けていた。
  4. 歌丸師匠と『笑点』次期司会者の座をめぐって争った。
    • 落語芸術協会会長の座も。
      • 芸協会長職は案外すんなり引き継がれたかも。テレビ向けにケンカしてても、実際は仲が良く、下積み時代に切磋琢磨してたから。
      • 多分芸協副会長になっていたでしょう。そして史実の昇太×楽さんのような争いが歌丸と・・・
    • 2010年2月に急病で休んだ歌丸の代打で司会者に。
      • あるいは「歌丸がいない笑点に自分だけ残っても仕方ない」として一回答者のまま番組を卒業していた。
  5. まぁ確実に、圓遊の名跡は引き継いでいた筈。
    • 「小圓遊」の名跡が事実上封印されることもなかった。(史実では、歴代4人の小圓遊のうち2代目以外が客死しているため)
  6. 国立演芸場の「小圓遊・歌丸二人会」は笑点ネタ一切抜きでも大盛況。
  7. 歌丸の「真景累ヶ淵」「牡丹灯籠」に対抗して「子別れ」の上中下通しCDをリリース。
  8. 才賀のメンバー入りもなく、好楽も復帰しなかった。
    • たい平、昇太のメンバー入りもなかったかもしれない。
      • 好楽に関しては、小圓遊がメンバーだった頃に九蔵として既にいたので、小遊三が加入せず好楽の改名後も出続けた可能性も。
      • たい平・昇太に関しても、こん平の代理と、歌丸司会就任してからの新メンバーなので史実通りメンバー入りしていたかと。
  9. 酒びたりな生活から足を洗っただろう。
    • 史実でも晩年にはだんだん酒量が減っていたらしいのでおそらくそうなっていたはず。
  10. 最低1回でもテレフォンショッキングに出演していたかもしれない。
  11. ライバル歌丸と同様に勲章を授与されていた。
    • 授与の時期が同じでない場合は確実にそのことを大喜利でネタにしていた。
  12. 2018年7月の歌丸没後最初の放送のラストで発言していたのは圓楽ではなく小円遊。
    • セリフは「どうして俺を置いて先に逝っちまったんだ」あたりか。
  13. 2016年5月の歌丸の司会降板と共に降板していたかも。

立川談志(7代目、自称5代目)[編集]

  1. 竹島に行ってると思う。
    • 独演会でヘイトスピーチを支持する発言をして大騒ぎに。
  2. 北野武監督のヤクザ映画に出演していたかも………あの二人、仲はどうだったのかな?
  3. 自身と同じ咽頭癌を患い、自分とは逆に声帯摘出の決断をしたつんく氏に対して何かコメントをしていた。
  4. 談幸や当代円楽の芸協入りがなかったかも。
    • 立川流の上納金制度は続いていた。
  5. アキラ100%の全裸に股間をお盆芸を激怒していた。
    • いや、むしろ逆に絶賛してたかも。
  6. 笑点50周年の折にメッセージを送った…だろうか?
    • 40周年のときですら無かったからないと思われ。但し三平はボロカスに批判。
  7. トランプ大統領を候補時代から絶賛していた。
  8. 立川志らくがタレントとして売れっ子になることは無かったかも。
  9. どこかで高須院長と対談し大いに意気投合していた。

林家三平(初代)[編集]

  1. 9代目正蔵を襲名していた。
    • 8代目の没後に。
      • 8代目橘家圓蔵とのダブル襲名だったかもしれない。
  2. 息子を簡単に真打昇進させるような愚は犯さなかった。
    • 孫に当たる林家きくお(2代目林家木久蔵)は、今ごろ普通の会社員か…。
      • 海老名家と豊田家は一切血縁関係も師弟関係もないのですが・・・
        • でも、影響はあったと思う。
  3. 三波伸介の死後、「笑点」の司会に就任していたかも。
  4. 落語協会の会長もおそらく務めていた。
  5. 海老名家(香代子夫人&泰葉)&林家一門と下嶋家(美どり&峰竜太)の確執もなかった。
  6. 2008年末にワイドショーを賑わせた「泰葉騒動」では、「どうもすいません」と言っていたか…。
  7. 名跡や8代目正蔵の縁で、2009年3月の2代目露の五郎兵衛の葬儀に出席していた。
    • 上方にも「林家三平」が存在していたので(詳細はこちら)。
  8. 落語界初の”東京ドーム寄席”を開催・・・・・・はさすがに無理か?
  9. 林家こん平が若くして一門を持つことはなく、病にも倒れていなかった。
    • 田鹿明(林家たい平)も三平に弟子入りしていた。

上方落語家[編集]

桂吉朝[編集]

  1. 予定どおり5代目米團治を襲名していた。
    • 小米朝の米朝襲名も提案されており、米朝が「ワシは何を名乗ればいいんや」と言っていたので、場合によっては5代目文團治を襲名していたかも。
  2. 引き続き弟子を3代目米朝の内弟子としていた。

桂枝雀(2代目)[編集]

  1. 自ら企画していた20日間連続独演会を成功させていた。
  2. 桂三枝会長の呼び掛けに応じ、一門全員で上方落語協会に復帰していた。
    • もちろん、文枝の襲名披露公演にも出ていた。
  3. 連続テレビ小説『ちりとてちん』にも出演していた。
  4. 米朝の葬儀では事実上の惣領として、ざこばに代わって取り仕切っていただろう。史実では可朝が読んだ弔辞も、少なくとも双方が読むことになったのでは。

桂春蝶(2代目)[編集]

  1. 息子は当初の予定通り保育士になっていて、落語家にはなっていなかった。
    • 落語家になっていた場合、自分の弟子としていた。
    • 「坊っちゃん5」は存在しなかった。
  2. 2003年の阪神タイガース優勝を誰よりも喜んでいた。
  3. 3代目小春團治や5代目米團治の襲名をどのような目で見ていただろうか。
  4. 2018年に4代目春團治を襲名していた。

笑福亭松葉→笑福亭松鶴(7代目・死後に追贈)[編集]

  1. 「松鶴」襲名騒動も、笑い話として噺の枕にしていた。
  2. 上方落語協会の幹部に就任していた。
  3. 弟弟子に当たる鶴瓶は史実より早く、積極的に古典噺へ取り組んでいた。
  4. 連続テレビ小説『ちりとてちん』に徒然亭草若役で出演していた。
  5. 「痛快エブリデイ」の司会を最終回まで勤めていた。
  6. 襲名騒動の収拾もかねて、兄弟子の鶴光に「松竹」、鶴瓶に「吾竹」の由緒名襲名を求めていたかも知れない。
  7. 襲名後の出囃子は引き続き「独楽」を使うか、(5代目文枝の時のように)新たに作っていた。
    • 松鶴は春團治の「野崎」や文我の「せり」のように名跡と出囃子が一体化されてなかったので(6代目→「船行き」、5代目→「三下り鞨鼓」)。
  8. 若松は廃業していない。また弟子も増えていただろう。

林家小染(4代目)[編集]

  1. 四代目林家染丸を襲名していた。
    • 現四代目林家染丸は林家染二のままだった。
      • どちらかが「林家正三」の名跡を復活させていたかも。
    • 五代目林家小染は月亭八光より人気が出ていた。
  2. 桂文珍、月亭八方、桂きん枝と共に「ザ・パンダ」を再結成していた。
  3. 今でも関西ローカルの情報番組で「おこりないな~」と言っていた。
    • ナイトスクープの顧問、あわよくば局長になってたかも。
  4. NHKの連続テレビ小説「ちりとてちん」の徒然亭草若役をやっていた。
  5. 不祥事で一時破門となっていた桂きん枝の復帰はなかった or 遅れていた。
    • 小染の葬式の席で松鶴が「許してやれ」と文枝に言ったことが復帰のきっかけとなったため。
  6. 逆に松鶴の葬式で、三代目染三の復帰の方を後押ししていたかも。
    • 場合によっては、三代目染三を弟子にしていた可能性も考えられる。
  7. 史実で死亡の原因となった事故から生還できた場合、自虐ネタにしていた。
    • 交通事故防止を呼びかけるCMに自ら出演していただろう。
  8. 『テレフォンショッキング』や『ビストロSMAP』に、最低1回はゲスト出演していた。
  9. 笑点の40周年DVDに収録の1978年鶴亀大喜利で出演シーンが丸ごとカットされることもなかったかもしれない。



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