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#プロ通算で450号あるいは500号本塁打を達成していた。 | #プロ通算で450号あるいは500号本塁打を達成していた。 | ||
#*この時の負傷により原氏は「自分の思うようなバッティングが出来なくなった」と自ら語るほど左手首の後遺症に悩まされた。 | #*この時の負傷により原氏は「自分の思うようなバッティングが出来なくなった」と自ら語るほど左手首の後遺症に悩まされた。 | ||
#**成績上は翌年、翌々年と続けて3割30本塁打を達成しており、むしろキャリアハイを迎えていたことを考えると、そこまで大きく変わったか微妙。 | |||
#前世紀末まで主力として活躍していた。 | #前世紀末まで主力として活躍していた。 | ||
#'''「チャンスに弱い4番」'''と揶揄される事なく(とはいえ実際には勝負強かったようだが)、「ONの後継者」と評されていた可能性も。 | #'''「チャンスに弱い4番」'''と揶揄される事なく(とはいえ実際には勝負強かったようだが)、「ONの後継者」と評されていた可能性も。 |
2014年7月5日 (土) 09:00時点における版
野球
赤星憲広
- 2007年、広島戦でダイビングキャッチを試みた際に首を強打しなければ?
- 2011年現在も現役を続けている。
- 城島・藤井・新井などと1976年度生まれの同級生集団を形成していた。
- マートンを獲得することもなかったか?
- 左から鉢、赤星そしてマートンと言う布陣が組めたかも。
- 現役の限り、盗塁数だけ車椅子を寄贈している。
- 2008年以降の阪神の成績も史実よりは良かった。
- リーグ優勝を果たしていた可能性もある。
- 2000本安打を達成するまで活躍を続ければ、間違いなく「通算本塁打最少での記録達成者」になっていた。おそらく通算で一桁本塁打のままでの達成だっただろう。
伊藤智仁
- ひじ痛とルーズショルダーに悩まされなかったら
- 1990年代ヤクルトはさらなる黄金時代になっていた。優勝回数がいっそう増えていたか、V逸年でもBクラス転落はしなかった。
- その分阪神の成績は目も当てられない状態になっていた。
- 21世紀を迎えた頃にメジャーに移籍し活躍。
井上真二
- ブレークした1989年、夏場に阪神キーオから頭部死球を受けなければ?
- 規定打席到達の年度が数度はあったろう。
- 主軸を打つのは無理でも、末次くらいの存在にはなった可能性も。
今中慎二
- 左肩を故障がなかったら
- 中日は一時、野口・山本昌・岩瀬とともにスーパー左腕王国を形成。
- 1999年の優勝貢献を置き土産にメジャー移籍し、日米通算200勝を達成。
- 中日に残留していれば、2006年の優勝ぐらいまで貢献し、最近までプレーしていた。その間にもう1-2度中日の優勝が増えていた可能性もあり、いずれかの年で10.8の借りを返していたかも。
- 著書の題名は『悔いは、ありません』になっていた。
- 門真市を代表する有名人となっていた。(今中は門真市出身)
落合博満
- 高校にまじめに通っていたら・・・?
- 入部早々四番に定着(史実通り)。秋田県のレベルを考えると甲子園に最低1回は出て独特の打法が注目を浴びる。
- 高卒後に、ドラフト指名されるが、OBに打法をけなされて自身をなくす。
掛布雅之
- もし1986年に斉藤学投手から死球を受けなかったら?
- 1986年、優勝は無理でも優勝争いぐらいはできていた。翌87年も阪神の成績はあんな悲惨なものにはならなかった。
- どこかで同様のアクシデントに見舞われた可能性もあるが、それがなければ2000本安打・450本塁打ぐらいまで達成していたか。
- 阪神の暗黒時代の到来ももう少し遅れていた。結局は訪れたのは間違いないと思われるが…。
- 翌年に飲酒運転で検挙されることはなかったかもしれない。
- そのため阪神フロントとの軋轢は生まれず、引退後は監督に就任していた。
門田博光
- 1979年のキャンプで右足のアキレス腱を断裂しなかったら
- アキレス腱断裂からの復帰後「走らずに済む方法」としてホームランを追求することもなかったので、故障前と同様の中距離の巧打者として大成。本塁打王ではなく首位打者のタイトルを何度も獲っていた。
清原和博
- もし1989年にバット投げ事件を起こさなかったら?
- 連続試合出場記録が途切れることはなかった。
桑田真澄
- もし1995年のダイビングキャッチ事故がなければ?
- まず通算200勝は達成して名球界入りしていた。
- 1996年はメークドラマではなく巨人の独走優勝。日本シリーズに勝てたかどうかはわからないが…。
- 1995年もヤクルト、広島と僅差の戦いになっていた可能性も。
- メジャーリーグ入りも史実より早く実現できていた。
- メジャー行けなかったのは借金のせいだから、巨人で活躍している(=見放されない)限り無理だったのでは?
- むしろケガなく活躍し続けていたら、史実よりも返済は早まったのではなかろうか。年俸もいい具合に上がり続けただろうし。
- メジャー行けなかったのは借金のせいだから、巨人で活躍している(=見放されない)限り無理だったのでは?
小久保裕紀
- もし2003年のオープン戦で大怪我をしなかったら?
- もちろんあの「小久保事件」は起きなかった。
- もちろんホークスの4番は小久保のまま。
- 松中信彦の出番は少なかった。
- 吉武真太郎が巨人に移籍することは無かった。
- 2003年の強力打線が無かったことにされ、同年の日本一も無かった。
- 川崎宗則のブレイクも1年遅れていた。
- 2000本安打は2011年の内に達成できた。
栄村忠広
- 1988年、吉村との衝突事故がなければ?
- 代走、守備要員として巨人で数年過ごしたろう。
- その後、守備走塁コーチもしくはトレーニングコーチくらいにはなれたかも。
- やくみつるの漫画で、頭に角が生えた形で「悪魔」か「バイ菌」として悪意に満ちた描き方をされることはなかった。
セシル・フィルダー
- 1989年、指を骨折しなかったら
- 翌年も阪神で活躍していた
- 89年は本塁打王を獲得していた
- 92年まで在籍していたら92年に阪神が優勝していた
- 阪神暗黒期の成績は少しはマシになっていた
田淵幸一
- 1983年、近鉄柳田からの死球による長期欠場がなければ?
- バースの前にホームラン日本新記録挑戦が話題になった。
- それまで55本超のホームランペース。
- 多少ペースは落ちるにせよ、50本以上は現実的だった。
原辰徳
- 1986年9月の広島戦での津田恒美投手のストレートをファウルした時の左手首の骨折がなければ?
- 1986年はシーズン最後まで活躍し、巨人はリーグ優勝していたかもしれない(史実は広島)。
- プロ通算で450号あるいは500号本塁打を達成していた。
- この時の負傷により原氏は「自分の思うようなバッティングが出来なくなった」と自ら語るほど左手首の後遺症に悩まされた。
- 成績上は翌年、翌々年と続けて3割30本塁打を達成しており、むしろキャリアハイを迎えていたことを考えると、そこまで大きく変わったか微妙。
- この時の負傷により原氏は「自分の思うようなバッティングが出来なくなった」と自ら語るほど左手首の後遺症に悩まされた。
- 前世紀末まで主力として活躍していた。
- 「チャンスに弱い4番」と揶揄される事なく(とはいえ実際には勝負強かったようだが)、「ONの後継者」と評されていた可能性も。
- 80年代後期に発売された野球ゲームにて原氏のパラメーターが強打者とは言い難かったような扱いをされていたような感じがするが(当時のチームメイトであったクロマティや吉村よりも低かったような)、強打者にふさわしいパラメーターになっていたかもしれない。
平野恵一
- 2006年のロッテ戦でファウルフライの捕球の際の大怪我がなかったら?
- 阪神へのトレードはなかった。
- 平野ではなく後藤が阪神に行っていたかも。
- FAで巨人に行っていた。
前田智徳
- 1995年にアキレス腱を断裂しなかったら?
- 少なくとも慢性的な足の故障に悩まされることも無く、1996年以降もフル出場したシーズンは更にあった(史実では故障以降、2005年のみ)。
- 松中よりも先に三冠王を獲っていたか、トリプルスリーを達成していた可能性も。
- 2000本安打どころか、3000本安打も狙える位置にいたかも。
- 松井秀喜、福留孝介の最大のライバルとして君臨していた。
- 代打、またはDHに専念するのはもう少し遅くなっていた。
- 広島も優勝までとは行かなくても数回はAクラスに入ったシーズンが増えていたはず。
簑田浩二
- 1985年に頭部に死球を受けなかったら?
- その後巨人にトレードされることもなかった。
吉村禎章
- 上記の栄村との衝突事故がなければ?
- プロ通算200号本塁打を達成していた。
- 事故前の吉村の実力を考えれば200号どころではない。90年代を通して巨人の中軸打者として活躍し、350本塁打ぐらいは打っていたと思う。巨人の優勝回数も増えていたか。
- 90年代末の巨人の外野は「吉村・松井・高橋」と左の強打者が揃っていた。
- それくらいまで、現役続けられたら二岡の背番号は「7」以外の空き番号だった。
- 清水のレギュラー獲得は遅れていた。あるいはくすぶり続けたまま他球団にトレードされ開花していた。
- 巨人不動の3番打者となっていた。
- 中日に移籍した落合の最大のライバルになっていた可能性も。
- 広沢がヤクルトからFAで移籍してくることはなかったかも。
- その場合広沢の阪神移籍もなく、ヤクルトで選手生命を終えていた。
- あるいはヤクルトを自由契約になった後野村監督の誘いで阪神へ移籍していた。
- その場合広沢の阪神移籍もなく、ヤクルトで選手生命を終えていた。
大相撲
鶴嶺山宝一
- 右肩を脱臼しなかったら
- 幕内に上がり、父の四股名の「鶴ヶ嶺」を襲名できた。
- 弟の逆鉾と寺尾とともに史上初の三兄弟同時幕内が実現した。
- 1989年春場所で井筒部屋の幕内力士は6人(逆鉾、寺尾、霧島、陣岳、薩洲洋、貴ノ嶺)だったが、もう一人増えただろう。
- 父鶴ヶ嶺の停年後は井筒部屋を継いだ。
- 逆鉾は別の年寄名で井筒部屋から独立する。
- 鶴竜の師匠が鶴嶺山になっていたかもしれない。
- 逆鉾は別の年寄名で井筒部屋から独立する。
騏乃嵐和稔
- 1983年初場所前の稽古で左ヒザを負傷しななければ?
- もちろん、一度三段目まで落ちて、その後幕内に上がったが、再び悪化させて序二段にまで落ちて廃業することはなかった。
- 少なくとも三役に一度上がり、三賞も一度は受賞していた。
- 弟弟子の益荒雄とともに押尾川部屋を盛り立てていた。
- 怪我をさせた鳳凰が気落ちすることはなかった。
- 引退後も相撲界に残り、押尾川部屋を継いだかもしれない。
小錦八十吉
- 1986年夏場所、北尾戦でのヒザの負傷がなければ?
- いずれにせよ、どこかで負傷はしている。
- あれだけの巨体ゆえ、故障は必然。それどころか、力士生命自体絶たれるような大怪我をしていた可能性も?
- 北尾の横綱昇進はなかった。
- 若嶋津の引退が早まった可能性も。
- 千代の富士の5連覇や益荒雄旋風も生まれなかった。
小沼克行
- 1976年夏場所3日目に足首関節を骨折しなかったら
- 鏡山部屋初及び昭和30年代生まれ初の三役力士となった。
- ゆくゆくは大関・横綱に昇進していた。
- 「柏戸」の四股名をもらった可能性が高い。
- 師匠と対立して髷を切ることはなかった。
- 負傷時の相手である青葉城が伸び悩みせず、幕内上位でもっと活躍した。
大鵬幸喜
- 1969年春場所2日目、「世紀の大誤審」で連勝がストップしなかったら
- 少なくとも連勝が50を超えて、「超五十連勝力士碑」に名前が刻まれていた。
- ただ、双葉山の69連勝は超えたかどうか。
- この一番がきっかけで大相撲にビデオ判定が導入されたため、導入は実際より遅れるか、未だに導入されていないかもしれない。
- 実はこの場所前から機材の準備がなされていたのと、9日目にも疑惑の判定(琴櫻VS海乃山)があったので導入時期は変わらなかったかも。
- この場所もぶっちぎりで優勝できた。
- したがって優勝回数も1回増える。
- 一代年寄の授与が2場所早まった。
- 脳梗塞で倒れなかったら
- 現役時代の実績により、審判部長や理事長に就任していた。
- 日本相撲協会理事長に就任していたら、大ナタを振るって改革を進めていただろう。
- 還暦土俵入りでも四股を踏むことができた。
貴乃花光司
- 2001年夏場所14日目で大怪我をしなかったら
- 小泉首相の「痛みに耐えてよく頑張った」の名言は生まれなかった。
- 北の湖の優勝24回の記録は軽く超えていた。
- 運がよければ優勝30回、更に運がよければ大鵬の優勝32回の記録を超えていた。
- 既に若干の衰えは見られていたので、26~27回ぐらいじゃないかな?
- 朝青龍の横綱昇進が大幅に遅れていた。もしくは現時点でも大関。
- 少なくとも朝青龍の壁になっていた。
- 当時もう一人の横綱だった武蔵丸も衰えていたので遅くても2004年までには横綱になれたと思う。
- ただし35連勝できたかは疑問。
- あと、武藏丸の衰えは貴乃花の長期休場による実質一人横綱状態のため無理をし続けたのが原因なので、このケースだと治療に踏み切りやすくなるから手首の状態もさほど悪化せず、白鵬や欧州勢と対戦するまで現役でいられたかも。
- 当時もう一人の横綱だった武蔵丸も衰えていたので遅くても2004年までには横綱になれたと思う。
- 朝青龍の暴走はなかった。
- 少なくとも朝青龍の壁になっていた。
- 武双山が「ゆるふん」で叩かれることはなかった。
- 2001年秋場所の琴光喜の優勝は無かったかもしれない。魁皇の優勝は3回、千代大海と栃東の優勝は1回から2回に留まっていた。
- 2007年の時点でも現役。
- 二子山部屋は順当に若乃花親方が継ぎ、兄弟の確執はなかった。
- 若乃花は2000年12月に相撲協会を退職したのでそれはない。
- ということは父の死後、貴ノ浪が二子山に名跡変更して暫定継承するのかな。
- 安芸乃島とも仲違いしていない。
- 若乃花は2000年12月に相撲協会を退職したのでそれはない。
- 二子山部屋は順当に若乃花親方が継ぎ、兄弟の確執はなかった。
- 無論その後の長期休場はなかった。
- 当然、曙の引退土俵入りには参加(史実では断髪式のみ出席)。
- 大相撲の人気低下は現実よりも進まなかっただろう。
- 春場所の連続満員御礼記録はもっと長続きしていた。
- 国民栄誉賞を受賞していたかもしれない。
- 貴乃花に勝てなかった若の里、雅山、琴光喜、朝青龍は白星を得ていた。
隆乃若勇紀
- 2003年初場所千秋楽に左膝を負傷しなかったら
- 当該の相撲に勝っていれば三役で連続二桁勝利となり大関挑戦への機運が盛り上がる。
- 最低でも若の里並みの三役常連だった。
- 十両時代の増健が最後に対戦した相手は別の力士になっていた。
- もう少し長く現役だっただろう。
- 相撲協会に残り隆の里の死後に鳴戸部屋を継いだ可能性もある。
高見盛精彦
- 2000年秋場所3日目に右膝前十字靱帯を断裂しなかったら
- 少なくとも休場を重ねての幕下落ちはない。
- あの「気合い入れ」もなかった。
寺尾常史
- 1997年春場所13日目に右足親指を骨折しなかったら
- 連続出場記録が途切れることはなかった。
闘牙進
- 2000年12月に交通死亡事故を起こさなかったら
- 2001年初場所も出場して翌場所も幕内に留まっていた(史実では出場辞退による全休で十両落ち)。したがって、高砂部屋の連続幕内力士の在位記録も途切れることはなかった。
- 三役昇進が早まったかも。
前田山英五郎
- 右腕を負傷しなかったら
- 新十両〜幕下陥落直後の2場所連続全休はなく、その後の昇進ペースが早まった。
- 関脇を経験した可能性もある。
- 前田医師の手術を受けないので四股名は「佐田岬」のままだった。
- 弟子の若前田や前田川、前の山らも別の四股名に。
- 佐田の山…いや何でもない。
- 弟子の若前田や前田川、前の山らも別の四股名に。
竜虎勢朋
- アキレス腱を断裂しなかったら
- 公傷制度は生まれなかった。
- うまくいけば関脇に上がれた。
ボクシング
赤井英和
- 1985年、大和田正春戦で意識不明にならなければ?
- もう1回世界挑戦のチャンスを与えられただろう。
内山高志
- 2011年、三浦隆司戦で右拳を骨折しなければ?
- 4度目の防衛戦は夏頃に早まっていた。
- そして年末に5度目の防衛戦を決行し、世界戦連続KO勝利記録で具志堅用高に並んだ。
清水智信
- 2011年、ウーゴ・カサレス戦で負傷しなければ?
- 年末に亀田大毅と初防衛戦を予定通り決行。圧勝で防衛に成功。
- テーパリット・ゴーキャットジムは暫定のままで、2度目の防衛戦はその統一戦となった。もしかしたら佐藤洋太がこっちに挑戦したかも知れない。
竹原慎二
- 1996年、ウィリアム・ジョッピー戦で網膜剥離にならなければ?
- ミドル級王座奪取は無理でも、指名挑戦者ぐらいにはなれたかも。
天心アンリ
- 2008年、富樫直美戦で脱水症状にならなければ?
- 世界タイトルマッチで富樫と再戦したかもしれない。
浜田剛史
- 1981年、デオ・ラバゴ戦で左拳を骨折しなかったら?
- 史実(1986年)より2,3年早く世界王座を獲得する事が出来たかも。
プロレス
大仁田厚
1983年の東京体育館でのヘクター・ゲレロ戦後、リングを降りる際に足を滑らせ、左膝蓋骨粉砕骨折を負ってしまい、その怪我の影響で復帰後もベストな戦いが出来ず全日本プロレスを解雇されました。
- 全日で戦い続け、NOAHの旗揚げに参加していた。
- SWS移籍→崩壊で結局フリーなんてことも。
- 全日でジュニアヘビー級の絶対王者になっていた。
- インディブームは起こらず、団体乱立もなかった。
- 生涯現役を掲げ、引退は口にすらしないだろう。
- あるいは完全燃焼したところで本当に引退し、二度とリングに戻らなかった。
- 大学生や国会議員になることも無かった。
- バラエティ番組で松野に椅子を投げつけるシーンも見られなかった。
ハヤブサ
- 2001年5月、頚椎を損傷しなかったら
- もちろん、引退&歌手への転身もなかった。
- FMWもあと2,3年は保てた。
サッカー
我那覇和樹
- ニンニク注射を打っていなかったら(※実際には打っていません)
- 少なくとも6試合出場停止にはなっていなかった。
- 鄭大世が主力FWとして大活躍することもなかった。
- 逆に大活躍する我那覇をよそに、2008年シーズンで退団していた可能性も…。
- もちろん北朝鮮代表に選ばれず、場合によっては44年ぶりW杯出場もなかったかも。
- 2007年の川崎はACLで決勝まで進み、リーグ戦でも上位に食い込んだかもしれない。
- 2008年シーズンもリーグ優勝は間違いなかった。
- 2008年に戦力外通告されることもなかった。
- 岡田ジャパンにも招集され続けていた。
菊地直哉
- 不祥事を起こしていなかったら
- 大分や新潟に移籍することはなく、現在でも磐田の主力選手として活躍していた。
- 当然、ドイツにトンズラする事もなかった。
- 2008年に磐田が入れ替え戦でJ2降格のピンチに陥ることはなかった。
- 2010年の南アフリカW杯の代表に選ばれていた可能性も。
- ネスレが磐田のスポンサーから撤退→神戸に鞍替えすることもなかった。
久保竜彦
久保竜彦は怪我が多い選手で有名で、その為にワールドカップ時の日本代表に選出されなかったそうですが
仮に久保が実史とは逆に怪我の少ない選手だったら
- ワールドカップ日韓大会・ドイツ大会にも選ばれ自身もゴールを上げていた
- 日韓大会に出場していたらトルコを破っている可能性もある、場合によってはセネガルも?
- 怪我が少ないのであれば海外で活躍していた可能性も
- 現在もマリノスでレギュラーまたはスーパーサブとして活躍している
- 実史通り横浜FCに移籍していたら横浜FCの戦力が少しはマシになり1年で降格する事は無かった。
- ピンチヒッターの様な形で加入した三浦アツの横浜FC加入は無く、アツは福岡に加入していた。
- マリノスに行かずサンフレッチェに残留した場合は、サンフレッチェのJ2降格はなかった。
- ピンチヒッターの様な形で加入した三浦アツの横浜FC加入は無く、アツは福岡に加入していた。
- 実史通り横浜FCに移籍していたら横浜FCの戦力が少しはマシになり1年で降格する事は無かった。
- J1の年間得点数20発は余裕で突破、上手くいけばゴン中山以来の30点台に到達していた。
- (参考として02年にJ1で高原直泰は26発得点を決めている、久保は高原よりも身体能力が高かったので「30発は決めていたかも?」と考えてみた)
- マジレスすると東洋人の肉体であの身体能力ではどこかが壊れないまま活躍できたとは考えにくい。
- 骨と腱も超人的と仮定すると・・・ゴール前に居座ってDFぶっ飛ばしてドゴっと決めるタイプで大成したとか。
- 岡ちゃんによるとFWとしては異例に視野が広く戦術眼があるらしい。怪我さえなければ少々重くても大成した可能性は高い。
- 骨と腱も超人的と仮定すると・・・ゴール前に居座ってDFぶっ飛ばしてドゴっと決めるタイプで大成したとか。
城彰二
高校時代に患った膝の靭帯を切った事による怪我の悪化が元で2006年に31歳で現役を引退しましたが、仮に城が高校時代に靭帯を切らなかったら?
- 少なくとも31歳で現役を引退する事は無く実史よりも3年以上現役を続けられていた
- 横浜FCに移籍しなかった可能性があり、J1昇格も無かったかも知れない
- 横浜FCが打ち立てた数々の不名誉な記録も無かった
- 日韓ワールドカップにも選ばれていた
- 20年代まで海外で活躍していた
- スペインのバリャリードには数年は在籍していた
- 20年代って…平成20年代?それとも2020年代?
- スペインのバリャリードには数年は在籍していた
- 28歳くらいでマリノスに復帰したか、どこか別のチームに移籍していたかも知れない
高原直泰
まぎれもなく日本人トップクラスのFWでありながらワールドカップのたびに怪我や病気で参加も出来なかった高原。もし間の悪いアクシデントに見舞われていなかったら?
- 2002年日韓W杯では間違いなく主力。
- 直情タイプなのでトルシエ監督と衝突していたのは間違いないが、トルシエは喧嘩した選手でも平気で招集するので問題なし。
- 準々決勝でトルコに勝てていた・・・かも・・・?
- トルコは実は確変中だったことが後に判明。しかしこの時はまだ片鱗しか見せていなかった。もし勝っていたら日本vs韓国in大邱という「史上最も熱い3位決定戦」が行われていたかも(笑)。
- 2006年ドイツW杯でもやっぱり主力。
- ドイツでプレーしていただけに現地の注目度は中田よりも高かった。
- 予選リーグは突破できていた・・・かなぁ??
- チームの完成度以前の問題が多かっただけに可能性は低いが、分裂するリーダーシップにもう一つの軸を与えて奇跡を起こしていたかもしれない。
- 2010年南アW杯でももちろん主力・・・?・・・かな???
- この時もやっぱり怪我と所属チームの監督が原因なので可能性は大いにある。
- フランスW杯のカズのような運命をたどっていたりして・・・。
- この時もやっぱり怪我と所属チームの監督が原因なので可能性は大いにある。
- 2004年アテネ五輪にも予定通りOA枠で出場。
田中達也
- 2005年に土屋征夫からのタックルによる右足関節脱臼骨折で長期離脱しなかったら?
- 浦和サポーターの土屋へのバッシングは無かった。
- 勿論、ドイツW杯の最有力候補になっていたのは言うまでもない。
- 代わりに巻誠一郎か、調整不足が懸念されていた柳沢敦が落選していた。
- 2005年は浦和が優勝し、翌年も史実より早く優勝を決めていたかもしれない(史実では2005年は2位に終わっている)。
- 勿論2012年で退団することもなく、2013年以降も浦和に残留していた。
- いや、2912年はミシャのサッカーにフィットできなかった事が退団の要因。よって、あの時に大怪我していなくても浦和を離れていただろう。
- おい、おい、2912年ってあと900年も生きるのか?
柱谷幸一
- 女性スキャンダルを起こさなかったら
- 少なくとも謹慎はせず、もう1シーズン山形の監督を務めたかもしれない。
- スイカップが全国区になることはなかった。
- 少なくともフリーにはならなかった。
- 柱谷の翌年以降の去就に関わらず、史実よりも山形の昇格が早くなっていた。
森敦彦
- 審判に暴力を振るわなかったら
- 少なくとも楢崎正剛にポジションを奪われる事はなかった。
- フリューゲルス消滅後も移籍して活躍。
- あるいはフリューゲルス消滅もなかったとか?
- ワロタwww
- あるいはフリューゲルス消滅もなかったとか?
- 楢崎のグランパス移籍やジュビロのオファーも無く、別のクラブ(例えば当時低迷していたレッズ、ガンバ、ジェフ等)に移籍していたかも?
- 1998W杯のメンバーにも選ばれたかもしれない。
陸上競技
福島千里
- 2012年にインフルエンザに罹らなかったら
- もちろん世界室内60m準決勝を棄権しなかった。
- でも、決勝進出は微妙。
- 以降の調整も十分うまく行けた。
- 日本選手権100mで土井杏南にリードを許すこともなかった。
- ロンドン五輪も100m、200mとも準決勝まで行けたかもしれない。
- 400mリレーも予選通過は厳しいが記録はもう少しマシだった。
競馬
- ここでは競走馬ではなく騎手にケガやアクシデントなどがなければどうなっていたかということです。
佐藤哲三
- 2012年11月に落馬事故に遭わなかったら
- 史実では武豊騎手に乗り替わりになったが、そうならずキズナに乗り続けていた。
- だがキズナがダービーを勝てたかどうかは微妙
武豊
- 2010年3月に落馬事故に遭わなかったら
- ダービーにはヴィクトワールピサの鞍上で出場を果たせていた。
- 年間100勝の記録が途絶えることは無かった。
- 2011年以降も年間100勝の記録が継続できていた。
- 降着による繰り上がりではなく、1着入線の形でGIを取れていただろう。