もしあの選手にアクシデントがなかったら
2016年1月21日 (木) 16:06時点における>羞恥心なしによる版 (→清水智信)
独立項目
ボクシング
赤井英和
- 1985年、大和田正春戦で意識不明にならなかったら
- もう1回世界挑戦のチャンスを与えられただろう。
内山高志
- 2011年、三浦隆司戦で右拳を骨折しなかったら
- 4度目の防衛戦は夏頃に早まっていた。
- そして年末に5度目の防衛戦を決行し、世界戦連続KO勝利記録で具志堅用高に並んだ。
清水智信
- 2011年、ウーゴ・カサレス戦で負傷しなかったら
- 年末に亀田大毅と初防衛戦を予定通り決行。圧勝で防衛に成功。
- テーパリット・ゴーキャットジムは暫定のままで、2度目の防衛戦はその統一戦となった。もしかしたら佐藤洋太がこっちに挑戦したかも知れない。
- テーパリットには史実通り敗れたとは思うが、その時点で引退はせず再起を目指したかもしれない。
竹原慎二
- 1996年、ウィリアム・ジョッピー戦で網膜剥離にならなかったら
- ミドル級王座奪取は無理でも、指名挑戦者ぐらいにはなれたかも。
辰吉丈一郎
- 1991年、グレグ・リチャードソン戦で網膜裂孔にならなかったら
- 翌年2月に予定されていた初防衛戦を予定通り決行し、初防衛に成功していた。
- 暫定王座が乱立する事は無かったか遅れていた(辰吉の怪我が端緒であるため)。
天心アンリ
- 2008年、富樫直美戦で脱水症状にならなかったら
- 世界タイトルマッチで富樫と再戦したかもしれない。
浜田剛史
- 1981年、デオ・ラバゴ戦で左拳を骨折しなかったら
- 史実(1986年)より2,3年早く世界王座を獲得する事が出来たかも。
プロレス
大仁田厚
1983年の東京体育館でのヘクター・ゲレロ戦後、リングを降りる際に足を滑らせ、左膝蓋骨粉砕骨折を負ってしまい、その怪我の影響で復帰後もベストな戦いが出来ず全日本プロレスを解雇されました。
- 全日で戦い続け、NOAHの旗揚げに参加していた。
- SWS移籍→崩壊で結局フリーなんてことも。
- 全日でジュニアヘビー級の絶対王者になっていた。
- インディブームは起こらず、団体乱立もなかった。
- 生涯現役を掲げ、引退は口にすらしないだろう。
- あるいは完全燃焼したところで本当に引退し、二度とリングに戻らなかった。
- 大学生や国会議員になることも無かった。
- バラエティ番組で松野に椅子を投げつけるシーンも見られなかった。
ハヤブサ
- 2001年5月、頚椎を損傷しなかったら
- もちろん、引退&歌手への転身もなかった。
- FMWもあと2,3年は保てた。
サッカー
我那覇和樹
- ニンニク注射を打っていなかったら(※実際には打っていません)
- 少なくとも6試合出場停止にはなっていなかった。
- 鄭大世が主力FWとして大活躍することもなかった。
- 逆に大活躍する我那覇をよそに、2008年シーズンで退団していた可能性も…。
- もちろん北朝鮮代表に選ばれず、場合によっては44年ぶりW杯出場もなかったかも。
- 2007年の川崎はACLで決勝まで進み、リーグ戦でも上位に食い込んだかもしれない。
- 2008年シーズンもリーグ優勝は間違いなかった。
- 2008年に戦力外通告されることもなかった。
- 岡田ジャパンにも招集され続けていた。
菊地直哉
- 不祥事を起こしていなかったら
- 大分や新潟に移籍することはなく、現在でも磐田の主力選手として活躍していた。
- 当然、ドイツにトンズラする事もなかった。
- 2008年に磐田が入れ替え戦でJ2降格のピンチに陥ることはなかった。
- 2010年の南アフリカW杯の代表に選ばれていた可能性も。
- ネスレが磐田のスポンサーから撤退→神戸に鞍替えすることもなかった。
- ただしネスレの本社が神戸、ということを考えると磐田のその後成績などによっては史実通りヴィッセルのスポンサーに乗り換えていた可能性はあったかも。
久保竜彦
久保竜彦は怪我が多い選手で有名で、その為にワールドカップ時の日本代表に選出されなかったそうですが
仮に久保が実史とは逆に怪我の少ない選手だったら
- ワールドカップ日韓大会・ドイツ大会にも選ばれ自身もゴールを上げていた
- 日韓大会に出場していたらトルコを破っている可能性もある、場合によってはセネガルも?
- 怪我が少ないのであれば海外で活躍していた可能性も
- 現在もマリノスでレギュラーまたはスーパーサブとして活躍している
- 実史通り横浜FCに移籍していたら横浜FCの戦力が少しはマシになり1年で降格する事は無かった。
- ピンチヒッターの様な形で加入した三浦アツの横浜FC加入は無く、アツは福岡に加入していた。
- マリノスに行かずサンフレッチェに残留した場合は、サンフレッチェのJ2降格はなかった。
- ピンチヒッターの様な形で加入した三浦アツの横浜FC加入は無く、アツは福岡に加入していた。
- 実史通り横浜FCに移籍していたら横浜FCの戦力が少しはマシになり1年で降格する事は無かった。
- J1の年間得点数20発は余裕で突破、上手くいけばゴン中山以来の30点台に到達していた。
- (参考として02年にJ1で高原直泰は26発得点を決めている、久保は高原よりも身体能力が高かったので「30発は決めていたかも?」と考えてみた)
- マジレスすると東洋人の肉体であの身体能力ではどこかが壊れないまま活躍できたとは考えにくい。
- 骨と腱も超人的と仮定すると・・・ゴール前に居座ってDFぶっ飛ばしてドゴっと決めるタイプで大成したとか。
- 岡ちゃんによるとFWとしては異例に視野が広く戦術眼があるらしい。怪我さえなければ少々重くても大成した可能性は高い。
- 骨と腱も超人的と仮定すると・・・ゴール前に居座ってDFぶっ飛ばしてドゴっと決めるタイプで大成したとか。
城彰二
高校時代に患った膝の靭帯を切った事による怪我の悪化が元で2006年に31歳で現役を引退しましたが、仮に城が高校時代に靭帯を切らなかったら?
- 少なくとも31歳で現役を引退する事は無く実史よりも3年以上現役を続けられていた
- 横浜FCに移籍しなかった可能性があり、J1昇格も無かったかも知れない
- 横浜FCが打ち立てた数々の不名誉な記録も無かった
- 日韓ワールドカップにも選ばれていた
- 20年代まで海外で活躍していた
- スペインのバリャリードには数年は在籍していた
- 20年代って…平成20年代?それとも2020年代?
- スペインのバリャリードには数年は在籍していた
- 28歳くらいでマリノスに復帰したか、どこか別のチームに移籍していたかも知れない
セバスティアン・ダイスラー
高原直泰
まぎれもなく日本人トップクラスのFWでありながらワールドカップのたびに怪我や病気で参加も出来なかった高原。もし間の悪いアクシデントに見舞われていなかったら?
- 2002年日韓W杯では間違いなく主力。
- 直情タイプなのでトルシエ監督と衝突していたのは間違いないが、トルシエは喧嘩した選手でも平気で招集するので問題なし。
- 準々決勝でトルコに勝てていた・・・かも・・・?
- トルコは実は確変中だったことが後に判明。しかしこの時はまだ片鱗しか見せていなかった。もし勝っていたら日本vs韓国in大邱という「史上最も熱い3位決定戦」が行われていたかも(笑)。
- 2006年ドイツW杯でもやっぱり主力。
- ドイツでプレーしていただけに現地の注目度は中田よりも高かった。
- 予選リーグは突破できていた・・・かなぁ??
- チームの完成度以前の問題が多かっただけに可能性は低いが、分裂するリーダーシップにもう一つの軸を与えて奇跡を起こしていたかもしれない。
- 2010年南アW杯でももちろん主力・・・?・・・かな???
- この時もやっぱり怪我と所属チームの監督が原因なので可能性は大いにある。
- フランスW杯のカズのような運命をたどっていたりして・・・。
- この時もやっぱり怪我と所属チームの監督が原因なので可能性は大いにある。
- 2004年アテネ五輪にも予定通りOA枠で出場。
田中達也
- 2005年に土屋征夫からのタックルによる右足関節脱臼骨折で長期離脱しなかったら
- 浦和サポーターの土屋へのバッシングは無かった。
- 勿論、ドイツW杯の最有力候補になっていたのは言うまでもない。
- 代わりに巻誠一郎か、調整不足が懸念されていた柳沢敦が落選していた。
- 2005年は浦和が優勝し、翌年も史実より早く優勝を決めていたかもしれない(史実では2005年は2位に終わっている)。
- 勿論2012年で退団することもなく、2013年以降も浦和に残留していた。
- いや、2912年はミシャのサッカーにフィットできなかった事が退団の要因。よって、あの時に大怪我していなくても浦和を離れていただろう。
- おい、おい、2912年ってあと900年も生きるのか?
中村憲剛
- 2014年のACLで左足首を痛めていなかったら
- もしかしたら、ブラジルW杯のメンバーに逆転で選出されていたかもしれない。
- 後半戦の長期離脱が無ければ、川崎は念願の初タイトルにありついていただろう。
- タイトルを取れずとも、史実(6位)よりもマシな順位でシーズンを終えていた。
- 大久保嘉人は史実でも得点王にはなっていたが、もしかしたら史実よりも得点を稼いでいたかも。
柱谷幸一
- 女性スキャンダルを起こさなかったら
- 少なくとも謹慎はせず、もう1シーズン山形の監督を務めたかもしれない。
- スイカップが全国区になることはなかった。
- 少なくともフリーにはならなかった。
- 柱谷の翌年以降の去就に関わらず、史実よりも山形の昇格が早くなっていた。
森敦彦
- 審判に暴力を振るわなかったら
- 少なくとも楢崎正剛にポジションを奪われる事はなかった。
- フリューゲルス消滅後も移籍して活躍。
- あるいはフリューゲルス消滅もなかったとか?
- ワロタwww
- あるいはフリューゲルス消滅もなかったとか?
- 楢崎のグランパス移籍やジュビロのオファーも無く、別のクラブ(例えば当時低迷していたレッズ、ガンバ、ジェフ等)に移籍していたかも?
- 1998W杯のメンバーにも選ばれたかもしれない。
陸上競技
谷口浩美
- 1992年のバルセロナ五輪のマラソンで他の選手に左足を踏まれなかったら
- 順位も実際の8位より上の順位でゴールでき、メダルも獲得できたかもしれない。
- 競技後のインタビューで「こけちゃいました」と言うことはなかった。
福島千里
- 2012年にインフルエンザに罹らなかったら
- もちろん世界室内60m準決勝を棄権しなかった。
- でも、決勝進出は微妙。
- 以降の調整も十分うまく行けた。
- 日本選手権100mで土井杏南にリードを許すこともなかった。
- ロンドン五輪も100m、200mとも準決勝まで行けたかもしれない。
- 400mリレーも予選通過は厳しいが記録はもう少しマシだった。
競馬
- ここでは競走馬ではなく騎手にケガやアクシデントなどがなければどうなっていたかということです。
佐藤哲三
- 2012年11月に落馬事故に遭わなかったら
- 史実では武豊騎手に乗り替わりになったが、そうならずキズナに乗り続けていた。
- だがキズナがダービーを勝てたかどうかは微妙
武豊
- 2010年3月に落馬事故に遭わなかったら
- ダービーにはヴィクトワールピサの鞍上で出場を果たせていた。
- 年間100勝の記録が途絶えることは無かった。
- 2011年以降も年間100勝の記録が継続できていた。
- 降着による繰り上がりではなく、1着入線の形でGIを取れていただろう。
福永洋一
- 1979年3月に落馬事故に遭わなかったら
- 2000勝は勿論のこと、武豊以前に3000勝は普通に達成していた。