ページ「戦国武将/な行」と「もしあの区間に国鉄が連絡船を運航していたら」の間の差分

< 戦国武将(ページ間の差分)
ナビゲーションに移動 検索に移動
タグ: 改変
 
(「瀬戸」など修正あり)
タグ: 改変
 
1行目: 1行目:
====
新規追加はエリアごとに東から西、北から南(海岸線の位置基準)になるようにお願いします。
===直江兼続===
==北海道==
#当主・[[上杉景勝]]を終生支え続けた名家老。
===江差~奥尻===
#*歴史通の間では元々有名な存在だったが、大河ドラマ「天地人」で更に多くの人に知られるようになった。
#名称は「奥尻連絡線」
#*一方で上杉大減封の責任者でもある。
#江差駅は江差港に作られた。
#何と言っても「愛」の文字をあしらった兜が有名。
#奥尻島に国鉄バスが走っていた。
#*軍神として名高い愛染明王、もしくは愛宕権現にちなんだとされる。
#遅くとも江差線廃止と共にJRは運営から離れていた。
#黒田如水や山本勘助と同様に、名ナンバー2として語られることが多いが、兼続は軍師、参謀というよりは家宰、宿老タイプ。
#*実史で江差線「木古内⇔江差」間の廃止で、バス転換を引き継いだ函館バスにより運行かな?その場合、社名は、「HBフェリー」かも。
#[[伊達政宗]]が大嫌いで、2度ほど口撃を仕掛けている。
#*江戸城ですれ違ったとき、挨拶しなかったことを政宗に咎められると「戦場でも後ろ姿しか見たことなかったから顔を知らなかったものでw」と。
#*伏見城で政宗が大名たちに小判の自慢をした際、小判が兼続に回ってくると「60万石の大名ともあろう方が金なんて穢れたものを手で直接持って回すとかw」と言いながらそれを扇に乗せて鑑賞した。
#家康相手に啖呵切ったことで有名だが、関ヶ原が終わった後は家康のところに「調子こいてすみませんでした」と主君ともども謝罪している。
#戦国無双2では作中屈指のネタキャラだったが、大河ドラマ「天地人」の後に発売された戦国無双3では大人しい設定になった。


===長野業正===
===函館~小湊===
#上野の小領主だけど、武田信玄を6度も撃退した名将。
正確には航路再開(一時期青森港が使えなかったことによるもの、その後常設航路化の[http://logging-railway.arrow.jp/modules/haisen/kominato.html 陳情]があった。)
#*跡を継いだ息子も、武田軍を相手に何年も持ちこたえたが、遂に攻め落とされてしまった。
#岸壁が小型のものしかないため船も小型のみだった。
#剣豪の上泉信綱を配下にしていたこともある。
#*そのため青函航路現役時はあくまで補完航路の位置づけだった。
#わかっていても'''なりまさ'''とは読めんなぁ…。在原業平(全然時代が違うし武将ですらないけど)にしてもそうだが。
#青函航路廃止後青函トンネルを通過できない危険貨物列車のため存続している。
#*東京人には普通に読める。浅草の「業平橋」があるので。
#小湊駅から国鉄小湊港線から開通。
#**そうかぁ~?業平橋と在原業平が繋がるヤツってそんなにいるかぁ~?そんなのピンとくるってぇのぁ(俺やアンタのような)ひねくれた歴史好きぐれぇだろ。ましてや業正は…。
#旅客輸送はほとんど期待できないためJRグループだとしてもJR貨物の運航だった。
#***どうでも良いが(自称)在原業平の子孫。十二人の娘が凄い美人だったとか。
#*そのため青函貨物をこちらに移行していた。
#「[[信長の野望ファン|武将風雲録]]」では随分と脳天気な顔をしている。
#*俺は爽やか長野と覚えていた。後のシリーズで爺さんってのを知ってショック。
#*業平の子孫も糞もないような顔だ。
#なぜか名のある武将が出ていない群馬にあって数少ない名将。(他に有名なのが新田義貞ぐらいというのでお察し)


===夏目吉信===
===函館~大間===
#徳川家の家臣ながら三河一向一揆に参加。鎮圧された後、再び帰順。
#大間線はもちろん全線開通していた。
#三方ヶ原の戦いにおいて家康の兜と馬で敵陣に特攻。壮絶な最期を遂げた。
#*戸井線もできてたら戸井港発着だったかも。
#夏目漱石は末裔にあたる。
#青函トンネル東ルートの伏線とも言われてたかも。
#青函連絡船廃止の頃にJRグループから分離される。


===長束正家===
==日本海側==
#五奉行のひとりで、役人としては有能だったが、武の面では全くいいところがない。
===新潟~両津===
#徳川家康の会津征伐の時、居城・水口城を宿舎に提供することになっていたが、「正家が暗殺を企んでいる」という風聞があって、家康は水口城を素通り。
#佐渡島に国鉄バスが走っていた。
#*「徳川殿に疑われた。もう俺はダメだ」と絶望して石田三成と合流。家康はみすみす敵を増やしてしまった。
#*そうなると佐渡島内のバスは現在は新潟交通佐渡ではなくJRバス新潟(仮)かJRバス信越(仮)だった可能性もある。
#**新潟県内のバス事情も多少変わっていたかもしれない。
#*むしろ国鉄佐渡線構想が実現していた。
#[[東日本旅客鉄道|JR東日本]]に引き継がれていた場合、当航路が「土日きっぷ」のエリアになったため、佐渡島の観光客は現実よりも増えていたかも。
#*えちごワンデーパスが1,500円、ツーデーパスが2,500円、現実の佐渡汽船の同区間カーフェリーが2等2,320円(全て大人料金、2012年1月現在)なので、ワンデーパスは無理かもしれないがツーデーパスの範囲には含まれているかも。
#[[佐渡の交通#佐渡汽船|佐渡汽船]]は存在していない。
#(存在していたとして)直江津~小木間の航路は周遊券の指定地接続線から外れていた。
#*「周遊指定地 佐渡 乗換駅」の表記は新潟駅にしか存在しなかった。
#国鉄ジェットフォイルが就航。


===鍋島直茂===
==太平洋側==
#クマーこと龍造寺隆信の腹心。クマーが頓死して竜造寺家が没落すると事実上家政を掌握するに至り、佐賀藩の礎石となる。
===久里浜~金谷===
#*隆信の嫡男政家が、病弱な上おつむが少々弱い人だったため、直茂がトップに立って差配しないと主従まとめて路頭に迷いかねない状況に。
#名称は「久金(きゅうきん)連絡船」?
#*政家と対面して失望した秀吉にも、「後々までしっかり頼むぞ」と言われてしまう。
#横須賀線は久里浜の港まで延長されていた。
#忠臣か逆臣か、諸説ささやかれているが本当の所は不明。有能な人物であったことは間違いない。
#*かつての「東京湾フリーきっぷ」はJRだけで完結できていた。
#*クマーは、未亡人だった自分の母親を直茂の父と結婚させるという荒業で、直茂を一族に加えた。
#*複線化も進展していた。
#**竜造寺家が敵に囲まれてピンチの時に、鍋島親子が颯爽と助成に現れて逆転勝ちした。「この親子を一門に加えなければ!」とクマーの母親がやもめだった直茂の父に強引に迫った(後添い)。
#奥さん(彦鶴姫)も聡明な賢婦であったらしく、今時の大河ドラマの主人公の題材におあつらえ向き…しかし朝鮮出兵のせいで大河化はまず不可能。
#*ちなみ彦鶴姫との馴れ初めは彦鶴姫がイワシを焼いており、その臭いにつられて直茂が寄っていったことに起因する。夜這いをしかけて姫の父石井常延にあわや狼藉者として殺されそうになったエピソードもある。
#竜造寺家が大友家と合戦して、数倍の敵に周囲をぐるりと包囲された状態で、敵の本陣に夜襲を掛ける事を提案。これに義母(クマーの母)が大賛成してクマーその他に発破をかける。かくして直茂一行は翌未明に大友本陣に突入、見事主将の首を取り大逆転勝利を得た(今山合戦)。
#敵将の[[戦国武将/た行#立花道雪|立花道雪]]が、「こいつにはかなわん」と言ったとか。
#*知仁勇を兼ね備えた大将とまで言っている。


===南部信直===
===沼津~松崎===
#領地は北の果てにあるのに南部。
#鉄道敷設法別表第61号の先行航路として開業。
#*先祖が甲斐武田の一族で、南部(現・山梨県南巨摩郡[[山梨/巨摩#南部町の噂|南部町]])を領していたから。
#*名称は伊豆箱根鉄道に併せて「西伊豆連絡船」か。
#高橋克彦氏著の「天を衝く」では逃げ足だけが取り得の愚鈍な人物として描かれている。いくら敵役だからってあんまりだ。
#松崎から国鉄バスが下田まで走っていた。
#敵対する同族を打ち滅ぼして、今の青森むつ~岩手中北部地域をゲット。
#駅が設置される予定の町にも寄港していた。
#*信直は秀吉についたが、同族の九戸政実(くのへ・まさざね)はそれが不満で謀反を起こした。津軽氏や秀吉から派遣された武将らと共に戦って滅ぼした。北東北の結構広い範囲を領したのは、この功績による。
#JRバスの撤退と共に廃止される。
#秀吉に臣従して上方に出てきたが、「上方の大名は我々を田舎者と馬鹿にするので、必要なとき以外屋敷から出ていません。国に帰りたい……」とホームシックにかかってしまった。
#*前述の伊豆箱根鉄道にでも譲渡されたか。
#*↑は国元の家臣に宛てた手紙だが続きがあって、<br />「上方は奥州とは違った決め事で動いている。上方では身分の低い者でも一生懸命に奉公すれば、すぐに取り立てられて侍になれる。まず身分や家柄を調べ、一族に組み込む奥州とはまったく違う」(中略)
#国鉄こばるとあろーが就航
#*「今は新しい時代である。うまく対応しなければ、身分や財産はたちまちなくなってしまう。以前のような大名の心ではいけないのだ」
#*伝統とか家柄といったこれまでの価値観が激変したのを、我が身で味わっていることが伺える。


===南部晴政===
===伊良湖~師崎===
#伊達政宗のせいで影が薄くなりがちだが、当時の奥羽ではかなりの勢力。
#国鉄渥美線、あるいは武豊線師崎延伸は実現していた。
#甲斐武田氏の遠い親戚。
#前者のみの場合、武豊~師崎に国鉄バスが走っていた。
#*武田の一族が、鎌倉時代に奥州に行って土着したのが南部氏の起こり。
#武豊線の電化が早まっていた。
#**一族中のはぐれ者が海賊として沿岸を荒らしに行ったものの、帰れなくなって土着したという情けない話もある。
#***千葉や若狭の武田もそんな感じだろうか。
#***千葉(上総)・安芸・若狭の武田氏は総て守護として赴任し大名化したもの。ちなみに嫡系で言うと若狭武田家が甲斐源氏の正当後継になる
#晴政の代に南部氏は最盛期を迎えるが、その晩年には早くも落ち目に。
#*一族の大浦(津軽)為信が津軽地方を占拠してしまい、しかもさっさと秀吉に通じて所領を安堵して貰ったため、出遅れた晴政はみすみす大領を失う。
#*今に至る[[青森]]県の津軽地方と南部地方の仲の悪さの発端となった。


====
===伊良湖~鳥羽===
===新納忠元===
#[[豊橋鉄道]]渥美線が伊良湖まで延伸の上JRに
#島津家の親指。残る人差し指から小指が誰だったのかは不明。
#*最低でも快速列車は走っていた。
#*人は指で物を数えるときにまず親指から使う。つまり彼が親指と呼ばれたのは島津家の名臣として最初に挙がる人だから。
#*渥美線が豊橋駅に乗り入れる代わりに、新豊橋駅が名鉄の所有となりJRと線路を共用しなくなった。
#戦上手。和歌も上手。そして長生き。
#参宮線が延伸し中之郷周辺まで
#*肥後水俣城を攻めたとき、城兵の顔が見えるところまで近づいて「秋風に 水俣落つる木ノ葉哉」と即興で詠む。
#*複線化されていたかも。
#*守将・犬童頼安も応えて「寄せては沈む 月の浦波」と返す。なんてロマンあふれる戦。
#**全線ではなく、交換駅の連続するところだけの複線化ならやりそう。
#ロバート・デ。
#快速みえが特急に格上げ。
#鬼武蔵とも呼ばれたが、別に森長可みたいなことをやらかしたわけではない。
#ここにも国鉄ホーバークラフトが就航。
#主君義久が御所に参内するとき、御所の公家からの謎かけを、和歌の教養で即座に解いた。
#足腰が弱っても戦場に出たがり、屈強な兵士が背負った籠(二人組で肩に担ぐアレではなく、背中に背負うやつ)に乗って戦ったという。


===二階堂盛義===
==瀬戸内海==
#大して実績がないのに、なぜかネット上では有名な武将だ。
===明石~岩屋===
#*ネット上の肖像画が凄まじい形相だから。「目が異常に釣り上がり、口を大きく開け、まるで発狂しているかのごとし」だぞ。これじゃあ武将じゃねぇよ、危ねぇおっさんだよ。
#名称は「明岩連絡船」。
#**「敵に大筒が!ひょえー!」
#*読み方はみょうがん? めいがん?
#**「信長の野望・覇王伝」ではキョトンとした顔だ。
#当然ながら明石海峡大橋の架橋と同時に廃止。
#子供を芦名盛氏の養子にして芦名家を継がせることに成功したが、その子は暗殺されてしまう。
#*JRバス「大磯号」などが事実上の代替路線となる。
#*どうやら男色のもつれから小姓に寝首を掻かれたそうな。
#山陽新幹線の停車駅が、西明石→明石駅に変わっていたかも。
#奥さんは伊達政宗の伯母。二階堂氏そのものは甥の政宗に攻略されて滅ぶが、戦さの前に「政宗に頭下げて養ってもらいたくない」と拒み、相馬氏に養ってもらった。
#鉄道先行の観点から、岩屋~洲本間に国鉄バスが走っていた。
#*洲本~福良間は当時あった淡路鉄道線にお任せ。
#**後々岩屋~洲本に国鉄淡路島線が開通し、その後淡路鉄道線も買収されていた。
#*この場合、鳴門~福良間の「鳴福(めいふく)連絡船」も存在したかも。
#**となると「国鉄線⇔国鉄連絡船⇔国鉄バス⇔淡路鉄道⇔国鉄連絡船⇔国鉄線」という連絡運輸が設定されることになる。
#*[[もし本四架橋の神戸鳴門ルートに鉄道が通っていたら|神戸鳴門ルートには鉄道が通っていた]]。


===丹羽長秀===
===和歌山~小松島===
#信長股肱の臣の一人。通称「米五郎左」。大河ドラマや時代劇によく出てくるが、大抵ハリボテ、空気。
#南海和歌山港線は、国有化された。
#*「米五郎左」とは、「かかれ柴田に退き佐久間、米五郎左に木綿藤吉」と織田家臣団をいう唄があり、地味なれどもいないと困る男という意味である。
#*但し、歴史的経緯から[[南海電気鉄道|南海電鉄]]とは線路を共用するかたちとし、南海の列車もそのまま(使用料無しで)乗り入れる。飯田線の豊橋~平井(信)と同様。
#**しかし柴田は北陸方面司令官、佐久間は出奔するまでは最高位の信長の家臣にして対本願寺司令官、秀吉は中国方面司令官だったが、丹羽長秀はそのような軍事の司令官経験なし。信長は軍事に関しては期待していなかったのかも。
#*久保町、築地橋、築港町の3駅はJR駅として今も存続。飯田線の船町、下地駅のような存在。
#小説・漫画などでは地味な中年男性の姿で描かれる事が多いが、漫画「戦国ストレイズ」で美青年化して登場。ストーリー上でも登場頻度の多い枢要な役として活躍。
#**和歌山港-水軒間は史実通り廃止になっている。
#*戦国もののシミュレーションゲームでも相変わらず影が薄いものの、登場率はそこそこ高い。
#*久保町から先は和歌山県が線路を保有していることを考えると、国有化ではなく南海と共に第二種鉄道事業として乗り入れを選んだ可能性が高い。県が保有していない和歌山市-久保町間は上にある通り国鉄と南海が線路を共用する形になるとは思うけど。
#定かではないが、絶望して腹を掻っ捌き、腸を自分の手で握りつぶして自殺したという説がある。
#名称は「和小(わしょう)連絡船」。
#*胃ガン、もしくは結石の悪化という説もある。腹を掻っ捌いて病巣を抉り出し、「ほう、こいつが俺を長年苦しめていたのか」と眺めた後、憎き秀吉に送りつけるように遺言して死んだそうな。
#阪和線の紀伊中ノ島駅から紀和駅への連絡線が造られ、天王寺~和歌山港間に快速が運転されていた。
#一貫して秀吉びいき。小者の頃から、長秀が後ろ盾になってくれたことで秀吉が受けた恩恵は計り知れない。
#*使用車両は急行「きのくに」と共通運用のキハ58系か。電化後は113系青帯車。
#*秀吉が普請奉行として清洲城の石垣修築にあたった時には、名目上の総奉行になってくれた。おかげで家中からの妨害や職人達の怠業が起きなかった。
#**電化も実史より早かった。
#*秀吉の苗字「羽柴」の「羽」は「丹羽」から貰った。また秀吉の弟・秀長の「長」は長秀の偏諱を貰ったもの。目上からの偏諱を前にするという通例により、秀長も最初は「長秀」を名乗ったが、紛らわしいので逆にした。
#**車両はいずれ223系に置き換えられていただろう。
#**丹羽の「羽」を先頭に持ってきて、柴田勝家の「柴」を二文字目に回した。
#*所要時間が1時間程かかるので、指定席が設けられたと思われる。そのため愛称も設定されていた。
#*清洲会議で秀吉が柴田勝家を手玉に取れたのも、長秀が味方してくれたため。ただし、この時長秀は、明智光秀を討つにあたっての遅参で、やや秀吉に対して後ろめたい気分があったらしい。
#*和歌山線がここまで衰退することはなかった。
#*賤ヶ岳合戦では、秀吉方の苦戦を聞き、なんとかかき集めたごく少数の兵を率いて琵琶湖を押し渡る。<BR>「このような人数で参陣しても、役に立たないのではありませんか」という家臣の疑問に、<BR>「なに、丹羽五郎左の旗が駆けつけたと見れば、敵は大軍が攻め寄せてきたと思い、浮き足立つものよ」と泰然と答え、結果もその通りになった。
#**南海和歌山市駅が史実以上に賑わっていた。
#*が、最後の最後で失望。秀吉が信長の子供たちを思いっきり冷遇し始めたため。
#*場合によってはこちらが新快速を名乗る。
#家紋が×印。
#*普通列車は和歌山-和歌山港間のピストン運行になっている。
#織田家中では禄こそ低めだが、イベントや安土城築城など、肝心なところで重用されている。
#*天王寺駅の連絡線が完成後は新大阪発着になっている。
#*安土城の築城現場に視察に来た信長が「城できてないけど、今日から俺ここに住むわ」と言い出したが、「はい。仮の屋敷は準備出来ております」とあっさり返す。主君をよくわかってるなあ。
#**それ以前に[[おおさか東線|<span style='color:#00f;background-color:#f9feff;'>おおさか東線]][[もしあの鉄道路線が別の年に開業していたら/近畿#おおさか東線|<span style='color:#00f;background-color:#fdfdff; '>の開業]]が早まり[[もしあの鉄道路線が旅客化されていたら#阪和貨物線|<span style='color:#00f;background-color:#fdfdff; '>阪和貨物線も旅客化されていた。]]
#信長時代の重臣の中で唯一江戸時代に大名としてその血をつないだ。
#和歌山駅が東和歌山駅のままだったかも。
#国鉄小松島線は廃止されなかったかもしれない。
#*小松島市は現実ほど衰退しなかった。
#*もし小松島線が廃止されていた場合、現実どおり四国側の発着地を徳島港に変更、「和徳連絡船」と改称されていた。
#競合相手である南海フェリーの便数に影響が出ていた。
#民営化後はJR西日本とJR四国の共同運航になっていた。
#大阪~徳島を青春18きっぷで移動する人が多くなっていた。
#船は明石海峡大橋開通後の2000年まで宇高連絡船と同型のものが使用されていた。宇高航路の伊予丸と同型の「紀伊丸」「淡路丸」が就航し、瀬戸大橋開通で宇高連絡船が廃止された後は讃岐丸が転属して2000年まで使用された。2000年以降はそれらの船の引退と同時に鉄道車両の航送を廃止してカーフェリーに転換していた。


==ぬ==
===三原~今治===
===沼田祐光===
#[[瀬戸大橋]]開通までは本州から[[愛媛|愛媛県]]へのメインルートとなっていた。
#津輕氏の重臣だが、どこから沸いてきたかわからない人。
#*三原駅への「ひかり」停車は現実よりも多かった。
#*若狭の武田氏に仕えていただとか、足利将軍家に仕えていただとかいろいろ言われる。
#*特急「宇和海」は国鉄時代から今治~宇和島間で運転されていた。
#**近江にいたとか言う割には、その辺もよくわからない。
#[[しまなみ海道]]の本州側起点は三原になっていた。
#ついでに言えば、その功績もよくわからない。
#広島県東部の中心都市は福山市ではなく三原市になっていた。
#*でも、信長の野望シリーズに登場するなどしてるので、一定の知名度はある模様。
#名称は「三今連絡船」
#確実なのは、津輕にその墓があると言うことだけかも知れない。
#*サンコン連絡船?
#*あるいは「予備連絡船」。伊予と備後を結ぶので。
#国鉄ホーバーマランが就航。


===広島~松山===
#名称は「広松連絡船」
#*あるいは駅名から取って「宇<!--品-->三<!--津浜-->連絡船」かもしれない。
#[[松山市]]の広島志向が現実以上に強くなっていた。
#*広島と愛媛でテレビ放送の相互乗り入れが行われていたかも。
#国鉄宇品線は連絡船がある限り存続している。
#*名前も役割も似ている[[瀬戸大橋線|宇野線]]と時折混同されていた。
#**のちに分かりやすくする為「広島港」駅に改称されていた。
#*[[山陽本線|<span style='color:#fdfdff;background-color:#00f;'>山陽線]][[もしあの鉄道路線が○○だったら/JR西日本#宇品線|<span style='color:#00f;background-color:#fdfdff; '>の支線扱いになっていたら]]あり得た。
#乗り継ぎ割引制度が「広島に発着する新幹線」-「松山に発着する特急・急行」間にも適用されていた。
#本四備讃線開通前の寝台特急「瀬戸」は東京-宇野・宇品を結んでいた。
#*宇品(広島港)発着の寝台特急が「安芸」を名乗った可能性も。
#仁堀航路は存在しないか、その代わりとして運行が開始された。
#三津浜駅に今も特急が停車している。
#*しかし、港から駅まで少し距離があるので国鉄バス→JR四国バスで連絡。
#**のちに松山駅へ延伸される。
#国鉄水中翼船が就航。


==関連項目==
===八幡浜~別府===
{{行別|戦国武将}}
#路線名は「国鉄九四連絡船」となっていた。
#別府港の最寄り駅として予定通り新別府駅が開業していた。
#*八幡浜側は駅から港との距離が離れていたので国鉄バスでの連絡になった。
#*「新別府駅」じゃなくて「別府港駅」だと思う。
#現在も存続していたら最長片道切符の旅で四国を経由することができた。
#船名は「九重丸」や「石鎚丸」といったあたりが想定される。
#民営化後にJR四国の所有になっていたら元宇高連絡船が使用されていたかもしれない。


[[Category:戦国武将|]]
===宿毛~佐伯===
#なるとすれば宿毛観光汽船を買収して宿毛線の支線扱いとする。
#宿毛線は宿毛までは完成していたかもしれない。
#おそらく中村線・宿毛線共々土佐くろしお鉄道に引き継がれていた。
 
==九州==
===博多~郷ノ浦~厳原===
#路線名は「国鉄壱岐・対馬連絡船」か?
#博多臨港線は旅客化されていた。
#もちろん壱岐・対馬にも国鉄バスの路線がある。
#*「国鉄対馬線」の構想も出そう。
#関釜連絡船に「壱岐丸」や「対馬丸」が就航することはなかった。
#国鉄ジェットフォイルが就航。
 
===三池~島原===
#路線名は「三島(さんとう)連絡船」。
#国鉄が大牟田駅から三池港まで運炭を兼ねて連絡線を建設していた。
#*三池港駅から博多駅まで急行が走っていた。
#島原鉄道が国有化されていた。
#*但し、現在でもJRかどうかは不明。
 
===鹿児島~桜島===
*桜島港から垂水方面へのバス路線は国鉄バスだったのだから、実現していたとしても不思議ではない。
#名称は「桜島連絡船」。
#宮島と同様に、桜島フェリー(桜島町営→鹿児島市船舶部)も並存するかたちだったかも。
#西鹿児島駅が中心駅の地位を確立した時点で、西鹿児島駅→鹿児島駅、鹿児島駅→'''鹿児島港'''駅への改称が行われた。
#*よって[[九州新幹線]]部分開業時の駅名改称騒動はなく、「鹿児島中央」という駅名も存在しない。
#[[JR九州バス]]桜島線は廃止されなかったかも。
#戦前からあった場合、国鉄大隅線を(志布志から)垂水~国分ではなく垂水~桜島港に変更していたら今もJR大隅線として残っていたかもしれない。
 
===鹿児島~那覇===
#名称は「鹿那(かな)連絡船」。
#*普通に「沖縄連絡船」とかのような気が。
#戦時中は米軍に度々撃沈されていた。
#戦後途絶えるも沖縄の日本復帰とともに復活。
#長距離の為1日1便か2便となる。
#寝台特急「なは」の愛称は文字通り沖縄連絡を意味するものとなっていた。
#*もちろんこの連絡船と接続するダイヤ。
#「JR沖縄バス」という会社がJR九州傘下に存在した。
#*JRバスに対抗するために、既存バス会社は1~2つに合併していたかも。
#*史実の沖縄高速バス111番系統も「国鉄沖縄ハイウェイバス(沖縄高速線)」として開業。JR沖縄バスに引き継がれ現在も運行中。
#*沖縄ではバスターミナルを「駅」と呼ぶことが一般化していた。
#青春18きっぷは利用できなかった。
#「JR九州沖縄支店」は那覇港の近くに存在していた。
#*恐らく、定期旅客船が多数発着する泊港に置かれる。
#「途中駅」として奄美大島などを経由していたかもしれない。
#採算が取れないため民営化後に奄美まで短縮or廃止されていた。
#*奄美まで短縮したらもっと採算取れないと思う。
#意外に、(実史の)博多~釜山間の国際航路を運行する「JR九州高速船」が、この区間も運行するとか。
#鉄道敷設法には沖縄の路線計画も存在していた(実際にどれほど建設されたかは不明)。
#*旧[[沖縄ぬ交通#沖縄県営鉄道|沖縄県営鉄道]]をそのまま省線に編入かな。
#*戦後の[[もし沖縄の鉄道復旧計画が実現していたら|鉄道復旧計画]]にも関わってくる。
 
[[カテゴリ:歴史のif検討委員会 国鉄・JR史|れんらくせん]]

2022年1月21日 (金) 16:28時点における版

新規追加はエリアごとに東から西、北から南(海岸線の位置基準)になるようにお願いします。

北海道

江差~奥尻

  1. 名称は「奥尻連絡線」
  2. 江差駅は江差港に作られた。
  3. 奥尻島に国鉄バスが走っていた。
  4. 遅くとも江差線廃止と共にJRは運営から離れていた。
    • 実史で江差線「木古内⇔江差」間の廃止で、バス転換を引き継いだ函館バスにより運行かな?その場合、社名は、「HBフェリー」かも。

函館~小湊

正確には航路再開(一時期青森港が使えなかったことによるもの、その後常設航路化の陳情があった。)

  1. 岸壁が小型のものしかないため船も小型のみだった。
    • そのため青函航路現役時はあくまで補完航路の位置づけだった。
  2. 青函航路廃止後青函トンネルを通過できない危険貨物列車のため存続している。
  3. 小湊駅から国鉄小湊港線から開通。
  4. 旅客輸送はほとんど期待できないためJRグループだとしてもJR貨物の運航だった。
    • そのため青函貨物をこちらに移行していた。

函館~大間

  1. 大間線はもちろん全線開通していた。
    • 戸井線もできてたら戸井港発着だったかも。
  2. 青函トンネル東ルートの伏線とも言われてたかも。
  3. 青函連絡船廃止の頃にJRグループから分離される。

日本海側

新潟~両津

  1. 佐渡島に国鉄バスが走っていた。
    • そうなると佐渡島内のバスは現在は新潟交通佐渡ではなくJRバス新潟(仮)かJRバス信越(仮)だった可能性もある。
      • 新潟県内のバス事情も多少変わっていたかもしれない。
    • むしろ国鉄佐渡線構想が実現していた。
  2. JR東日本に引き継がれていた場合、当航路が「土日きっぷ」のエリアになったため、佐渡島の観光客は現実よりも増えていたかも。
    • えちごワンデーパスが1,500円、ツーデーパスが2,500円、現実の佐渡汽船の同区間カーフェリーが2等2,320円(全て大人料金、2012年1月現在)なので、ワンデーパスは無理かもしれないがツーデーパスの範囲には含まれているかも。
  3. 佐渡汽船は存在していない。
  4. (存在していたとして)直江津~小木間の航路は周遊券の指定地接続線から外れていた。
    • 「周遊指定地 佐渡 乗換駅」の表記は新潟駅にしか存在しなかった。
  5. 国鉄ジェットフォイルが就航。

太平洋側

久里浜~金谷

  1. 名称は「久金(きゅうきん)連絡船」?
  2. 横須賀線は久里浜の港まで延長されていた。
    • かつての「東京湾フリーきっぷ」はJRだけで完結できていた。
    • 複線化も進展していた。

沼津~松崎

  1. 鉄道敷設法別表第61号の先行航路として開業。
    • 名称は伊豆箱根鉄道に併せて「西伊豆連絡船」か。
  2. 松崎から国鉄バスが下田まで走っていた。
  3. 駅が設置される予定の町にも寄港していた。
  4. JRバスの撤退と共に廃止される。
    • 前述の伊豆箱根鉄道にでも譲渡されたか。
  5. 国鉄こばるとあろーが就航

伊良湖~師崎

  1. 国鉄渥美線、あるいは武豊線師崎延伸は実現していた。
  2. 前者のみの場合、武豊~師崎に国鉄バスが走っていた。
  3. 武豊線の電化が早まっていた。

伊良湖~鳥羽

  1. 豊橋鉄道渥美線が伊良湖まで延伸の上JRに
    • 最低でも快速列車は走っていた。
    • 渥美線が豊橋駅に乗り入れる代わりに、新豊橋駅が名鉄の所有となりJRと線路を共用しなくなった。
  2. 参宮線が延伸し中之郷周辺まで
    • 複線化されていたかも。
      • 全線ではなく、交換駅の連続するところだけの複線化ならやりそう。
  3. 快速みえが特急に格上げ。
  4. ここにも国鉄ホーバークラフトが就航。

瀬戸内海

明石~岩屋

  1. 名称は「明岩連絡船」。
    • 読み方はみょうがん? めいがん?
  2. 当然ながら明石海峡大橋の架橋と同時に廃止。
    • JRバス「大磯号」などが事実上の代替路線となる。
  3. 山陽新幹線の停車駅が、西明石→明石駅に変わっていたかも。
  4. 鉄道先行の観点から、岩屋~洲本間に国鉄バスが走っていた。
    • 洲本~福良間は当時あった淡路鉄道線にお任せ。
      • 後々岩屋~洲本に国鉄淡路島線が開通し、その後淡路鉄道線も買収されていた。
    • この場合、鳴門~福良間の「鳴福(めいふく)連絡船」も存在したかも。
      • となると「国鉄線⇔国鉄連絡船⇔国鉄バス⇔淡路鉄道⇔国鉄連絡船⇔国鉄線」という連絡運輸が設定されることになる。
    • 神戸鳴門ルートには鉄道が通っていた

和歌山~小松島

  1. 南海和歌山港線は、国有化された。
    • 但し、歴史的経緯から南海電鉄とは線路を共用するかたちとし、南海の列車もそのまま(使用料無しで)乗り入れる。飯田線の豊橋~平井(信)と同様。
    • 久保町、築地橋、築港町の3駅はJR駅として今も存続。飯田線の船町、下地駅のような存在。
      • 和歌山港-水軒間は史実通り廃止になっている。
    • 久保町から先は和歌山県が線路を保有していることを考えると、国有化ではなく南海と共に第二種鉄道事業として乗り入れを選んだ可能性が高い。県が保有していない和歌山市-久保町間は上にある通り国鉄と南海が線路を共用する形になるとは思うけど。
  2. 名称は「和小(わしょう)連絡船」。
  3. 阪和線の紀伊中ノ島駅から紀和駅への連絡線が造られ、天王寺~和歌山港間に快速が運転されていた。
    • 使用車両は急行「きのくに」と共通運用のキハ58系か。電化後は113系青帯車。
      • 電化も実史より早かった。
      • 車両はいずれ223系に置き換えられていただろう。
    • 所要時間が1時間程かかるので、指定席が設けられたと思われる。そのため愛称も設定されていた。
    • 和歌山線がここまで衰退することはなかった。
      • 南海和歌山市駅が史実以上に賑わっていた。
    • 場合によってはこちらが新快速を名乗る。
    • 普通列車は和歌山-和歌山港間のピストン運行になっている。
    • 天王寺駅の連絡線が完成後は新大阪発着になっている。
  4. 和歌山駅が東和歌山駅のままだったかも。
  5. 国鉄小松島線は廃止されなかったかもしれない。
    • 小松島市は現実ほど衰退しなかった。
    • もし小松島線が廃止されていた場合、現実どおり四国側の発着地を徳島港に変更、「和徳連絡船」と改称されていた。
  6. 競合相手である南海フェリーの便数に影響が出ていた。
  7. 民営化後はJR西日本とJR四国の共同運航になっていた。
  8. 大阪~徳島を青春18きっぷで移動する人が多くなっていた。
  9. 船は明石海峡大橋開通後の2000年まで宇高連絡船と同型のものが使用されていた。宇高航路の伊予丸と同型の「紀伊丸」「淡路丸」が就航し、瀬戸大橋開通で宇高連絡船が廃止された後は讃岐丸が転属して2000年まで使用された。2000年以降はそれらの船の引退と同時に鉄道車両の航送を廃止してカーフェリーに転換していた。

三原~今治

  1. 瀬戸大橋開通までは本州から愛媛県へのメインルートとなっていた。
    • 三原駅への「ひかり」停車は現実よりも多かった。
    • 特急「宇和海」は国鉄時代から今治~宇和島間で運転されていた。
  2. しまなみ海道の本州側起点は三原になっていた。
  3. 広島県東部の中心都市は福山市ではなく三原市になっていた。
  4. 名称は「三今連絡船」
    • サンコン連絡船?
    • あるいは「予備連絡船」。伊予と備後を結ぶので。
  5. 国鉄ホーバーマランが就航。

広島~松山

  1. 名称は「広松連絡船」
    • あるいは駅名から取って「宇三連絡船」かもしれない。
  2. 松山市の広島志向が現実以上に強くなっていた。
    • 広島と愛媛でテレビ放送の相互乗り入れが行われていたかも。
  3. 国鉄宇品線は連絡船がある限り存続している。
  4. 乗り継ぎ割引制度が「広島に発着する新幹線」-「松山に発着する特急・急行」間にも適用されていた。
  5. 本四備讃線開通前の寝台特急「瀬戸」は東京-宇野・宇品を結んでいた。
    • 宇品(広島港)発着の寝台特急が「安芸」を名乗った可能性も。
  6. 仁堀航路は存在しないか、その代わりとして運行が開始された。
  7. 三津浜駅に今も特急が停車している。
    • しかし、港から駅まで少し距離があるので国鉄バス→JR四国バスで連絡。
      • のちに松山駅へ延伸される。
  8. 国鉄水中翼船が就航。

八幡浜~別府

  1. 路線名は「国鉄九四連絡船」となっていた。
  2. 別府港の最寄り駅として予定通り新別府駅が開業していた。
    • 八幡浜側は駅から港との距離が離れていたので国鉄バスでの連絡になった。
    • 「新別府駅」じゃなくて「別府港駅」だと思う。
  3. 現在も存続していたら最長片道切符の旅で四国を経由することができた。
  4. 船名は「九重丸」や「石鎚丸」といったあたりが想定される。
  5. 民営化後にJR四国の所有になっていたら元宇高連絡船が使用されていたかもしれない。

宿毛~佐伯

  1. なるとすれば宿毛観光汽船を買収して宿毛線の支線扱いとする。
  2. 宿毛線は宿毛までは完成していたかもしれない。
  3. おそらく中村線・宿毛線共々土佐くろしお鉄道に引き継がれていた。

九州

博多~郷ノ浦~厳原

  1. 路線名は「国鉄壱岐・対馬連絡船」か?
  2. 博多臨港線は旅客化されていた。
  3. もちろん壱岐・対馬にも国鉄バスの路線がある。
    • 「国鉄対馬線」の構想も出そう。
  4. 関釜連絡船に「壱岐丸」や「対馬丸」が就航することはなかった。
  5. 国鉄ジェットフォイルが就航。

三池~島原

  1. 路線名は「三島(さんとう)連絡船」。
  2. 国鉄が大牟田駅から三池港まで運炭を兼ねて連絡線を建設していた。
    • 三池港駅から博多駅まで急行が走っていた。
  3. 島原鉄道が国有化されていた。
    • 但し、現在でもJRかどうかは不明。

鹿児島~桜島

  • 桜島港から垂水方面へのバス路線は国鉄バスだったのだから、実現していたとしても不思議ではない。
  1. 名称は「桜島連絡船」。
  2. 宮島と同様に、桜島フェリー(桜島町営→鹿児島市船舶部)も並存するかたちだったかも。
  3. 西鹿児島駅が中心駅の地位を確立した時点で、西鹿児島駅→鹿児島駅、鹿児島駅→鹿児島港駅への改称が行われた。
    • よって九州新幹線部分開業時の駅名改称騒動はなく、「鹿児島中央」という駅名も存在しない。
  4. JR九州バス桜島線は廃止されなかったかも。
  5. 戦前からあった場合、国鉄大隅線を(志布志から)垂水~国分ではなく垂水~桜島港に変更していたら今もJR大隅線として残っていたかもしれない。

鹿児島~那覇

  1. 名称は「鹿那(かな)連絡船」。
    • 普通に「沖縄連絡船」とかのような気が。
  2. 戦時中は米軍に度々撃沈されていた。
  3. 戦後途絶えるも沖縄の日本復帰とともに復活。
  4. 長距離の為1日1便か2便となる。
  5. 寝台特急「なは」の愛称は文字通り沖縄連絡を意味するものとなっていた。
    • もちろんこの連絡船と接続するダイヤ。
  6. 「JR沖縄バス」という会社がJR九州傘下に存在した。
    • JRバスに対抗するために、既存バス会社は1~2つに合併していたかも。
    • 史実の沖縄高速バス111番系統も「国鉄沖縄ハイウェイバス(沖縄高速線)」として開業。JR沖縄バスに引き継がれ現在も運行中。
    • 沖縄ではバスターミナルを「駅」と呼ぶことが一般化していた。
  7. 青春18きっぷは利用できなかった。
  8. 「JR九州沖縄支店」は那覇港の近くに存在していた。
    • 恐らく、定期旅客船が多数発着する泊港に置かれる。
  9. 「途中駅」として奄美大島などを経由していたかもしれない。
  10. 採算が取れないため民営化後に奄美まで短縮or廃止されていた。
    • 奄美まで短縮したらもっと採算取れないと思う。
  11. 意外に、(実史の)博多~釜山間の国際航路を運行する「JR九州高速船」が、この区間も運行するとか。
  12. 鉄道敷設法には沖縄の路線計画も存在していた(実際にどれほど建設されたかは不明)。