もしあの競馬場が○○だったら
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札幌競馬場が芝コースを内馬場に設置していたら[編集 | ソースを編集]
- 札幌競馬場は1989年に現在の形態となりました。
- 札幌記念がダート2000mの競走のまま残っている
- そしてフェブラリーステークスではなく札幌記念がJRA初のダート競走G1(JpnⅠ)になっていた
- ホッカイドウ競馬ののブリーダーズゴールドカップも札幌2000mで実施
- 夏~秋のダート交流重賞は帝王賞→札幌記念→ブリーダーズGCが定着
- エルムステークスは珍しい芝1700mの競走として実施
- マイラーは関屋記念→エルムS→京成杯オータムHのローテーションが定着
- もしくはダート1500mの珍しい競走だな
- フルゲート14頭立てだから実施しない、JRAは
- おいおい内馬場1700mは13頭立てだぞ、やはりダート1500mのほうが
- サマー2000シリーズやサマースプリントシリーズを札幌競馬場では行わない
- 小倉記念か新潟記念がグレード別定戦になってる
- 上記の3に関連付けてサマーマイルシリーズを実施するかも
- 小倉記念か新潟記念がグレード別定戦になってる
- 内馬場で芝2400mの競走ができるから菊花賞や古馬の長距離を見据えた重賞が実施される
- フルゲートが内馬場の2400mは12頭だから・・・・・・・・
- おそらく1回はJBCが開催されていたかも。
- 札幌2歳Sと北海道2歳優駿が合体し、交流GIIIのダート1800mレースとして9月に施行されていた。
- 函館競馬場が改修された際に史実の札幌競馬場のような形状になっていた可能性大。(芝1500mコースの新設)
- そのため、札幌競馬場で施行されていた重賞のいくつかは函館競馬場で施行されていた。
- 巴賞は史実の函館記念と同条件のGIIIに、函館記念はGII格上げされ、別定戦となっていた。
新潟競馬場に芝直線1000mコースが設置されなかったら[編集 | ソースを編集]
- 新潟競馬場は2001年に現在の形態となりました。
- 新潟競馬場は現在も福島や小倉などと変わらないローカル場の一つとしてしか見られていない。
- 重賞が増えることもなかったかもしれない。
- 日本にはばんえい競馬を除いて未だに直線のみで行う重賞…というよりそんなレース自体が存在しなかった。
- サマースプリントシリーズをはじめとする夏競馬のスプリント路線整備はなかった。
- 北九州記念は未だに芝1800㍍・別定戦のままだった。
- CBC賞も12月開催のままなので、阪神カップは新設されなかった…かも。
- GⅢへの格下げもなかった。
- キーンランドカップも1000万円以下(2勝クラス)の特別戦のまま。
- もしかしたら周回方向も右回りのままだったかも。
- 左回りじゃないと決勝線の位置を変えなければ直千コースが設置すらできないと思うので、設置する必要が無ければ周回方向を変える必要性も無くなるはず。
阪神競馬場[編集 | ソースを編集]
外回りコースが設置されなかったら[編集 | ソースを編集]
- 阪神競馬場は2006年に芝外回りコースが設置されました。
- 芝1600mの内外論争が現在も続いていた。
- ジャパンカップダートは現在も東京2100mで開催されていた。
- 当然開催時期が1週ずれることもない。
- 外国馬も出走していた。
- その代わり朝日杯とラジオNIKKEI2歳Sが統合され、芝2000mのGIとして朝日杯FSが施行されていた。
今も鳴尾にあったら[編集 | ソースを編集]
- 阪神競馬場は最初は鳴尾にありましたが、戦時中に軍に接収され今は仁川に移転しています。
- 競馬場へのアクセスは阪神電鉄が担っていた。
- 競馬開催日には直通特急・快速急行・急行が鳴尾駅に臨時停車していた。
- 甲子園の野球開催と重なったら大変なことになりそう…。
- 阪神の尼崎~甲子園が複々線化されていたかもしれない。
- 阪神なんば線も現実より早く開業していた。
- 阪神の尼崎~甲子園が複々線化されていたかもしれない。
- 武庫川女子高校は現実と場所が異なっていた。
- 仁川の知名度が現実ほと高くなかった。
- 仁川と聞くと韓国を思い出す人が大半だった。
東京競馬場で右回りのレースが今も行われていたら[編集 | ソースを編集]
- 東京競馬場では1984年まで一部の短距離レースが右回りで開催されていました。
- 改修の際に右回り用のゴール板が設置される。
- 一部の短距離重賞が東京で施行されていた。
中京競馬場[編集 | ソースを編集]
改修工事が行われなかったら[編集 | ソースを編集]
- 中京競馬場は2010年~2011年の間大規模な改修工事が行われました。
- 東海ステークスは未だにダート2300mで施行され、中央開催唯一の2000m越えダート重賞になっていた。
- 東日本大震災の際、中山開催の重賞は中京競馬場で代行開催されていた。
- ただ改修前の中京に芝1600mの距離設定はなかったので、ダービー卿チャレンジトロフィーとニュージーランドトロフィーは史実通り阪神開催だったかも。
- サマーマイルシリーズはなかった。
- 中京記念は1800㍍に短縮されていたかも。
- チャンピオンズカップ(ジャパンカップダート)は現在も阪神で開催されていた。
- 中京2歳ステークスも12月開催のままだった。
地方競馬の開催が今も行われていたら[編集 | ソースを編集]
- 中京競馬場では1953年から2002年まで、愛知県競馬組合が主催する地方競馬の中京開催が行われていました。
- 現在は4月下旬~6月上旬、8月下旬~11月上旬まで地方競馬が開催されていた。
- 芝コースを使用した重賞(駿蹄賞・東海桜花賞)もいくつか開催されている。
- ターフチャンピオンシップも廃止されず、未だに地方競馬における芝コースの最高峰レースとして存続している。
横浜競馬場[編集 | ソースを編集]
廃止されていなかったら[編集 | ソースを編集]
- 第二次世界大戦の激化で戦時中に休止となり、戦後はGHQによって接収。現在は、根岸森林公園と馬の博物館があります。
- 秋の天皇賞と皐月賞は、横浜競馬場で開催されていた。
- 関東の競馬開催は、東京競馬場4開催、中山競馬場3開催、横浜競馬場3開催。(現在の中山第2、第3開催と東京第4開催が、そのまま横浜開催に)
- 現在でもチャンピオンズCは東京で、朝日杯フューチュリティステークスは中山で開催されていた。
- 競馬開催時は、市道80号線(横浜駅根岸道路)は大渋滞に見舞われていた。
- 根岸駅までの道はオケラ街道と呼ばれていた。
- 山手駅周辺の住宅地の道を歩いて帰る人も多く、住民から問題になっていた。
- 交通渋滞解消のため、横浜市営地下鉄2号線は市道80号線を通る形で計画通り開通していた。
移転が実現していたら[編集 | ソースを編集]
横浜競馬場は相模原市の相模大野駅の東側から東林間駅前付近までに至る土地に移転する計画がありましたが、戦時中のために結局実現しませんでした。もし実現したら…
- 名前が「相模原競馬場」になっていた。
- 小田急電鉄は開催時に新宿~相模大野間を結ぶ臨時急行列車が運行されていた。
- 「小田急杯」が開催されていた。
- テレビ神奈川は今でも競馬中継に力を入れていた。
宮崎競馬場[編集 | ソースを編集]
中央競馬の競馬場のままだったら[編集 | ソースを編集]
- 第二次世界大戦の激化で戦時中に休止となり、戦後国営競馬・中央競馬は開催されず地方競馬が行われましたが、それも1963年に廃止され今ではJRA宮崎育成牧場となっています。
- 夏の札幌・函館のように冬の時期開催される遠征先の競馬場となっていた。
- 九州産馬がもっと多かった。
花園競馬場が廃止されていなかったら[編集 | ソースを編集]
- 1926年に数回の開催を行っただけで廃止されました。
- 大阪外国語大学のグラウンドの敷地の辺りに移築されていた。
- 1950~1960年代に壊されて、「近鉄花園野球場」が整備されて、そこが近鉄バファローズの本拠地になっていた。
- 藤井寺球場は近鉄の準本拠地・二軍本拠地として整備される。
- 花園中央公園野球場(花園セントラルスタジアム)は存在していない。
- もし今も存在していた場合、大阪府内では唯一の競馬場となっていた。
- ラグビーも合わせて花園はスポーツの殿堂となっていた。
函館競馬場で今もホッカイドウ競馬が行われていたら[編集 | ソースを編集]
函館競馬場では1955年から1991年まで、ホッカイドウ競馬の函館開催が行われていました。
- 現在は4月~5月、9月~10月にかけてホッカイドウ競馬が開催されている。
- 1000m・1700m・2400m以外にも、他の距離がいくつか設定されていたかも。
- スーパーフレッシュチャレンジ(この世代最初の新馬戦)は函館1000mでの開催になっていた。