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*史実で指名していない球団が指名していた場合は[[もしあのプロ野球選手があの球団にドラフト指名されていたら]]へお願いします。
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*ドラフト以外で入団した選手は[[もしあのプロ野球選手があの球団に入団していたら]]へお願いします。
*史実でプロ入りしていない選手は[[もしあの選手が日本プロ野球入りしていたら]]へお願いします。
*抽選の結果、指名を拒否した選手が指名球団に素直に入団していた場合は[[もしあの選手がドラフト指名を拒否しなかったら]]へお願いします。
==1980年代以前==
===江夏豊(1966)===
※史実では阪神に入団
;巨人
#1968年の奪三振がさらに増えていた。
#高橋一三とともに左腕の二枚看板を形成する。
#南海か日本ハムへトレードされた可能性もある。
#現実と真逆に阪神の打者(特に田淵幸一あたり)との因縁の対決が話題になる。
#引退後にクスリに手を出さなかった可能性がある。


;東映
==JR==
#尾崎行雄に代わる先発のエースとして定着。
===湖西線===
#日本ハムへの売却時に放出されたかも。
;1930年代
#高橋直樹はトレードされず、引退まで日本ハムに所属していた。
#江若鉄道は存在しなかったか、湖西線開通の時点で国に買収されていた。
#現実よりも地上区間が多くなっている。
#*踏切も存在していた。
#当初は非電化単線として開通し、1960年代の高度成長期に電化や複線化が行われている。
#*それと同時に大幅な線形改良も行われた。
#*それでも現実ほど高速運転はできない。
#開業当初は近江塩津ではなく木ノ本で北陸本線に接続していた。
#*当時は北陸本線が深坂トンネルではなく柳ヶ瀬ルートだったため。
#山科~大津京は浜大津経由だったかも。
#*もし当初から現在のルートで建設された場合、浜大津は早くに衰退していた。
#*山科ではなく大津分岐だった可能性もある。
#**その場合西大津駅が大津京駅に改称されることはなかっただろう(大津駅と紛らわしくなるため)。
#***そもそも湖西線の駅も「皇子山」を名乗っていたと思われる。
#急行「きたぐに」は湖西線経由で運行されていた。
#それでも若江線(琵琶湖若狭湾快速鉄道)が鉄道として開業できたかどうかは微妙。


;阪急
;1990年代
#2年後入団した福本と共に「W豊」と呼ばれる。
#智頭急行や北越急行と同じく、JRではなく第三セクター会社での建設となっていた。
#黄金時代がもう少し長く続いていた。
#*社名は「湖西急行」か?
#山口高志はずっと先発主体だった。
#*運賃も現実より高額となっている。
#トレードで広島か中日に移籍していたかもしれない。
#*681・683系や223系にこの三セク所有の車両が存在していた。
#それでも大都市京都や大阪に近いことから、三セクとしては優等生ともいえる経営状況だったに違いない。
#三セクの会社には京阪や西武が出資していただろう。
#各駅停車は全列車が京都止まりになっていた。
#*流石に快速や新快速は京都以西に乗り入れている。
#永原-近江塩津間は北陸本線ともども開業時に直流電化になっていた。
#江若鉄道の廃止は史実よりも遅く1970~1980年代だった。
#*土佐電安芸線のごとく廃止されたにもかかわらず後継路線の開業が大幅に遅れるという悲劇もあり得た。
#貨物列車の走行に対応出来なかったかもしれない。


===江川卓(1978)===
===大阪環状線===
*[[もし江川問題が○○だったら#阪神以外が交渉権を獲得していたら]]
;明治~大正期
===木田勇(1978)===
#東京の山手線の場合と同じく、私鉄は大阪環状線の駅をターミナルとして郊外に延びるようになっていた。
※史実では広島の指名を拒否→翌年日本ハムに入団
#*大阪環状線の内側は大阪市交通局の市電・地下鉄の独占状態となっていた。
;大洋
#**戦後に開業した地下鉄路線は私鉄との直通を前提に建設されていた。その結果多くの路線が架線集電式となっていた。
#在京(というか地元)球団なので当然入団していた。
#***[[大阪市高速電気軌道千日前線|地下鉄千日前線]]は阪神と近鉄が乗り入れる路線として建設され、その結果[[阪神なんば線]]は存在しなかった。
#*広島の指名を拒否したのは両親の病気が理由だったため。
#***[[大阪市高速電気軌道四つ橋線|四つ橋線]]も南海が直通していたことから、なにわ筋線はJRだけが乗り入れる路線となっていた。
#1979年の大洋は優勝できていたかもしれない。
#****戦前に建設が始まった大国町-玉出間は四つ橋線とはならず、御堂筋線の支線扱いになっていたが、平成になってからやっと「西成線」という線名が名付けられる。
#*そうなれば「江夏の21球」も存在しなかった。
#*[[京橋 (大阪)|京橋]]や[[鶴橋]]・新今宮が東京における[[渋谷]]・[[新宿]]・[[池袋]]のようなターミナル繁華街として発展していた。
#**[[心斎橋]]~[[難波]]は東京で言う[[銀座]]みたいな感じになっている。
#*経営者の性質からしてそこまで変わったような気がしない。
#現実より高架区間が短く地平区間が長かった。
#*戦後復興期もしくは昭和30年代に連続立体交差化され、史実とほぼ同じようになる。
#史実の戦後開業区間では舟運にかなり悪影響があった。
#大阪市の市域拡張も史実より早く、明治末期もしくは大正初期の頃には東成郡・西成郡の全域が大阪市に編入されていた。


===岡田彰布(1979)===
;昭和初期
※史実では阪神に入団
#開業時は「「大大阪」にふさわしく環状線もできた」と大騒ぎだった。
#1985年に優勝できていなかった可能性が高い。
#*当時の観光ポスターなどにも環状線がデザインされたものが多い。
#某CMからどんでんと言われることも、阪神の監督にもなっていない。
#*大大阪地下鉄行進曲のように、「大大阪環状線行進曲」といった開業記念の歌が制作されていたかもしれない。
#大正あたりからも貨物線が延びている。
#船舶への配慮として安治川をまたぐ部分が地下だったかもしれない。
#芦原町駅を通っていた可能性もある。
#大阪市西部が空襲に遭った際この路線の高架などのおかげで助かった人がいた。
#戦後の高度成長期までに複々線化される。
#*[[関西本線]]の気動車が大阪駅に乗り入れていた。
#**関西本線の奈良以西電化も史実より早かったかもしれない。
#関西本線とは今宮駅で分岐していた。
#*新今宮駅は国鉄と南海の接続駅として史実(1964年)より早く同時に開業していた。
#*つまり当初から環状線の今宮駅ホームが存在していた。(史実では1997年に開業。)
#**戸籍上の大阪環状線は天王寺~大阪~今宮となっていた。
#旧西成線の西九条-桜島も環状線開業と同時に電化されていた。
#*1940年の安治川口駅構内での車両火災はなかったかもしれない。
#[[大阪市高速電気軌道御堂筋線|地下鉄御堂筋線]]の動物園前駅は新今宮駅に隣接する形に設置され、駅名も「新今宮」になっていた。
#*国鉄(JR)新今宮駅ホームには地下鉄駅と連絡・直結する「中央口」が設置されていた。
#新今宮-弁天町のルートは史実より南側を通っていた可能性もある。
#*史実の国道43号線のルートに並行して建設され、大正駅は泉尾交差点付近に建設されていた。史実の芦原橋に相当する駅は中開交差点付近に建設され、駅名も「中開」となっていた。
#**その場合大正駅は大阪ドーム(京セラドーム大阪)へのアクセス駅にはならず、現在に至るまで快速は通過していた。
#***現実の大正駅と同じ位置には地下鉄長堀鶴見緑地線の「三軒家」駅が設置されている。
#***大阪ドームへのアクセスとして阪神なんば線の建設が前倒しされ、1997年3月のドーム完成と同時に開業していた。
#**その場合大正区は現実よりも発展していた。
#*南海高野線(汐見橋線)木津川駅は環状線との乗換駅となっていた。
#**阪神なんば線西九条~大阪難波間の整備目的は「[[Wikipedia:ja:第52回国民体育大会|なみはや国体]]の交通整備」とされた。
#弁天町駅は市岡駅を名乗っていた(芸備線の市岡駅は戦後に開業したため)。
#*芸備線の市岡駅は「備中市岡」を名乗っていた。


;阪急
;1970年
#当時の打線に更に磨きがかかっていた。
#同年に開催された大阪万博を機に整備されたことになっていた。
#三塁ではなく、外野に転向していたか?
#[[大阪駅]]の環状線ホームは環状運転開始と同時に現在の形になっていた。
#松永の代わりに阪神へトレードされた。
#[[ダイエー]]京橋店(現[[イオン]]京橋店)の開店が1年ほど早まっていた。
#仰木監督退任後、石毛ではなく岡田がブルーウェーブの監督を務めた。
#*大阪環状線の全通を見越しての開店となっていた。
#*「29-1」が「[[33-4]]」になっていたかも。
#弁天町駅は[[大阪市高速電気軌道中央線|地下鉄中央線]]の駅の方が先に開業していた。
#1985年以降も何度か優勝出来ていたかも。
#*その場合、現実とは逆に大阪環状線の方が中央線をオーバークロスする形になっていた。
#関西本線奈良-湊町間の電化も大阪環状線の全線開業と同時に実施されていた。


;西武
;1990年代
#石毛の三塁転向は遅れていた。
#大阪環状線という名前ではなかった。
#1985年も日本一になれた。
#*桜島ー大阪がゆめ咲線、大阪ー京橋ー天王寺が城東線、天王寺ー今宮が大和路線。今宮ー西九条間が新線。
#**環状運転時にJRが「大阪環状線」という路線愛称を付けていただろう。
#***おおさか東線同様、「おおさか環状線」になっていたかもしれない。
#開業時に207系が導入されていた。
#*201系の導入も早まっていた。
#阪神なんば線の開業が早まっていたか。
#*その場合地下鉄千日前線は桜川から大正区内に延伸されていた。
#*おそらく1970年の大阪万博の頃には開業していたと思われる。
#鉄道施設などは大阪府・市出資の会社が保有している。
#大阪花博までに開業させることが目標になっていた。
#*花博で盛り上がる大阪の象徴になった。
#大和路線直通の快速は当初から221系で運転されていた。


;南海
===JR東西線===
#大阪出身ということで歓迎される。
;1970年
#王監督の後任になっていた可能性が高い。
#大阪万博に合わせての開業となっていた。
#藤原満の引退後三塁に再転向した。
#開業当初の車両は103系1000番台だった。
#連続Bクラスがダイエーに代わるまで続いていなかったかも。
#路線名は「東西線」ではなかった。
#*恐らく「片福線」という名前が使われていたかあるいは片町線の延伸区間になっていた。
#**片町線のラインカラーは「水の都大阪」の中心地を通る理由で青22号に変更か。代わりに阪和線のカラーが赤1号辺りになる。
#***開業当初の保安装置はATC-4であった。2000年頃にATS-P(全線形)に更新される。
#****207系・321系の集電装置は1両辺り1基のみ(103系1000代に合わせ)。
#一部の駅名が違っていた。
#*大阪城北詰→片町、大阪天満宮→南森町、北新地→桜橋あるいは南梅田、御幣島→歌島橋。
#**史実の北新地駅は「片福線大阪駅」になっていたかもしれない。京葉線東京駅みたいに。
#***大阪駅と片福線大阪駅を改札内で直結する地下連絡通路も建設されていた。
#****自動改札機が国鉄で最初に設置されたかも。
#地下区間は現実よりも浅い場所に建設されていた。
#片町線と福知山線は早くに近代化されていた。
#*1970年の時点では福知山線の尼崎~宝塚間の複線電化、片町線の四条畷~長尾間の電化が完成していた。福知山線宝塚以北に関しては現実通り、あるいは現実より少し早い時期に複線化や電化が完成し片町線の長尾以東は国鉄時代のうちに電化されていた。
#当時は淀川を地下トンネルで潜る技術が確立されていなかったため、海老江以北は地上区間になっていた可能性もある。
#阪神国道線の代替路線としても位置づけられていたため、阪神国道線・甲子園線は史実より5年早く廃止されていた。


;近鉄
;1990年
#1980年は日本一になり前年の雪辱を果たす。
#国際花と緑の博覧会の開催を機に、開業していた。
#大石より先にバファローズの監督に就任した。
#*国際花と緑の博覧会へのアクセス路線として、賑わっていた。また、JR神戸線・JR宝塚線から片町線に向かう臨時列車も運行されていた。
#福知山線の新三田~篠山口間の複線化も1990年頃に完成した。
#207系電車の登場が史実より早まり、開業時に登場した。
#*それ以前に205系1000番代(207系900番代を基本に、車内外A-A対応、先頭車を207系900番代同様にした車両)が淀川電車区・高槻電車区・明石電車区に配置される。当初は黄5号の帯を貼付。その代わり205系0番代は近畿圏に配置されない。また、史実の205系1000番代にあたる車両は製作されない。
#駅名は史実通り。また、地下路線として、開業していたのも史実通り。
#堂島・北新地・南森町付近の再開発が史実より早く進んでいた。
#同年に開業した京葉線とともに注目された。
#おおさか東線の開通が史実より早まっていた。
#*1997年3月に放出~久宝寺間が開通し、2008年3月に新大阪~放出間が開通した。
#*衣摺加美北駅の開業も早まっていた。
#京葉線と同様に日本鉄道建設公団の手によって、建設された。
#場合によっては、1989年3月に開業していた可能性もある。


===原辰徳(1980)===
;1990年代(1991年以降)
※史実では巨人に入団
#国鉄(JR西日本)の手によって、工事が行われた。
#80年代の巨人は暗黒時代になっていた可能性が高い。長嶋解任・青田問題・江川事件の暗い影を史実より長く引きずっていただろう。
#*関西高速鉄道は設立されなかったかもしれない。
#日本ハムがクジを引いていたら入団拒否→江川事件の再来となっていたかも。
#*いや、京葉線と同様に日本鉄道建設公団によって、建設された。
#*入団したなら、2011年に菅野智之を引いても拒否されない。
#早くても、1993年3月に、遅くても、1996年3月に開業していた。
#*巨人以外は全て入団拒否だったのでは…?
#*1995年開業の場合、阪神大震災の復旧を優先したことから3月ではなく10月頃の開業となっていた。
#**大洋は入団容認していたはず。もし大洋なら遠藤との東海大コンビで騒がれただろう。
#おおさか東線の開通が史実より早まっていた。
#無論巨人の監督にも就任せず、2000年代後半以降の優勝回数が減っていた。
#*1997年3月に放出~久宝寺間が開通し、2008年3月に新大阪~放出間が開通した。
#入団拒否→浪人だった場合、翌年槙原寛己は巨人に指名されなかった。
#207系電車が1990年に登場し、開業までに103系電車が片町線での運用から撤退していた。
#*福知山線での運用も史実よりも早く撤退していた。
#1994年までに開業していたら、1995年の阪神・淡路大震災の影響で一時的に不通になっていた。


;広島
===おおさか東線===
#川口和久は他球団に指名されていた。
久宝寺~放出間は、2008年3月15日に開業し、新大阪~放出間は、2019年3月16日に開業しました。
#*巨人だったら引退まで巨人に居れたかも?
;国鉄時代
#史実の三塁手ではなく、二塁手になっていた。
#同時に阪和貨物線の旅客化も実現していた。
#当然あの手首負傷はない。
#*その場合加美~久宝寺で関西本線と十字形に立体交差していた。
#2000本安打も達成していたはず。
#*当時は竜華操車場が現役だったことから、久宝寺駅には乗り入れなかったかも。
#*車両も関西本線ではなく阪和線と共通運用になっていた。2019年現在は225系5100番台の6両が運用されている。
#*[[大阪市高速電気軌道谷町線|谷町線]]の平野以南は建設されなかったかもしれない。
#**むしろ谷町線は阿倍野からそのまま南進して遠里小野方面に伸びていた可能性も。その場合は平野線は阪堺電気軌道に譲渡されて存続している。
#天王寺駅の大和路線⇔阪和線の連絡線がまだ完成していなかったことから、一部の「くろしお」が新大阪発着~おおさか東線経由で運転されていた。
#*JR東西線も開業していないので、放出駅で片町線からおおさか東線に乗り換える客も多かった。
#もちろん「JR」付きの駅名は存在しない。
#*「城北公園通」駅も「赤川」駅になっていた。
#*「JR長瀬」駅は「柏田」駅を名乗っていた。
#*「JR淡路」「JR野江」駅は「東淡路」「西野江」だったかも。
#**私鉄にかまわず「淡路」「野江」を名乗るという可能性もあった。
#ルート的に被る[[大阪市高速電気軌道今里筋線]]は計画されなかったかも。
#*むしろ[[大阪市高速電気軌道千日前線|千日前線]]の新深江-南巽が建設されなかった可能性もあった。
#*今里筋線は蒲生四丁目-湯里六丁目の路線となっていたかも。蒲生四丁目以南の区間はルート的に被っていない。
#1985年以前に開業していた場合、現実の高井田中央駅が「高井田」駅を名乗っていた。
#*現実の高井田駅は「東高井田」駅になっていたかも(日豊本線に北永野田駅という類似例があることから)。
#**もしくは「河内高井田」駅だったかもしれない。
#**もし現実の高井田駅の開業がJR化後だったら駅名は「JR国分」になっていた可能性も。
#1970年に開業していた場合、大阪万博開催に伴う鉄道整備の一環として行われたことになっていた。
#*当初は72系などの旧型国電が運用されていた。
#*1980年代にはウグイス色に黄帯の101系も使われており、101系が新大阪駅に姿を見せていた。
#**阪和線杉本町-鳳の複々線化が実現した可能性が。1971年の和歌山国体に合わせ和歌山-紀伊田辺間の複線電化が実現した。新快速はそれと同時に登場。新大阪-紀伊田辺間・天王寺-紀伊田辺間で合わせて2本/h運行される。
#直通快速には春日色の113系が運用されていた。
#*1973年から1988年頃までは快速 新大阪という表記であった。
#1964年以前に開業していた場合、起点は新大阪駅ではなく吹田駅だった。
#1964年に開業した場合、東海道新幹線開業に合わせる形となっていた。
#新大阪駅に新快速が停車するのが早まっていたかも。
#路線名は大阪外環状線になっていた。
#*加美~杉本町間も開業していたら、路線名が「おおさか東線」になることはなかった。


;大洋
;1990年代に開業した場合
#1~4位まで全員当たりという大成功ドラフトになっていた。(2位の堀井は指導者として成功)
#大和路快速の発足と同時に、姫路~放出~久宝寺~奈良間の直通列車が運行されていた。
#FAで駒田を取りに行っていなかった。
#1990年に鶴見緑地で開催された花博に合わせて開業したことになっていた。
#*屋鋪・高木豊も横浜で引退していた。
#*花博の開催期間中は放出駅から会場に向かうシャトルバスも運行され、特に奈良方面からの来場客に重宝されていた。
#2000年代中盤に監督就任、よって大矢明彦の再任はなかった。
#223系電車よりも207系電車が先に運用されていたかもしれない。
#*もしくは権藤博の後任あたりで就任し森祇晶が横浜の監督になることもなかったかも。
#JR東西線の時と同じく、工事は関西高速鉄道が受け持っていたかもしれない。
#背番号は巨人に移籍した松原誠の後を受けて25が有力か?
#*日本鉄道建設公団の手によって建設された可能性もあった。
#80年代~90年代半ばの大洋(横浜)は優勝までとは行かなくとも史実より成績も良くAクラスに入った回数も増えていたはず。
#奈良方面からJR東西線に乗り入れる有料の通勤ライナーが設定されていたかもしれない。
#*史実で3位になった1983年に優勝できていたかも。その場合、翌年最下位に転落することはなかった。
#1996年までに開業した場合、放出~久宝寺間or放出~新大阪間のどちらかが先行開業し、その区間における折り返し普通列車が運行されていた。
#田代富雄は史実より早く一塁手にコンバートされていた。
#*2008年3月には全線開業し、衣摺加美北駅も開業していた。
#*近藤貞雄は山下大輔と高木豊の守備位置を入れ替えるだけでよかった。
#*1997年にJR東西線が開業した時に、直通快速が運行されていた。
#ロッテからレオン・リーをトレードで獲得することはなかった。
#久宝寺駅の橋上駅舎化と大和路快速の久宝寺への停車が史実よりも早まっていた。


===石毛宏典(1980)===
;2008年に新大阪~放出間が開業した場合
※史実では西武に入団
#放出~久宝寺間の開業が2001年~2007年あたりに早まった。
#*JR東西線の開業が早まっていたら、1997年3月に開業していた。
#*その場合、直通快速は207系電車で運用され、新大阪延伸後も207系電車・321系電車で運用されていたかもしれない。
#直通快速が奈良~尼崎間と奈良~新大阪間の2つが設定されていた。
#*学研都市線方面から新大阪に直通する系統も設定されたかも。
#衣摺加美北駅の開業が史実より早まったか、延伸時に開業していた可能性もあった。
#*放出~久宝寺間の開業時に開業していた可能性もある。その時は「衣摺駅」になっていたかもしれない。
#2010年の平城遷都1300年祭の際に、新大阪~奈良間の臨時特急が運行されていた。
#東淀川駅の橋上駅舎化や駅前後の踏切の廃止、赤川橋梁の歩道撤去が10年早まっていた。
#ウグイス色の103系が新大阪駅に乗り入れていた。
#*223系電車が史実より多く増備されて、直通快速は223系電車で運用されていたかもしれない。(207系電車や321系電車に置き換わることはなかったかもしれない。)
#**223系が放出以北の北区間にも入線していた。
#*直通快速の本数も史実より多くなっていた。(2010年代のダイヤ改正で実現していた。)
#**新大阪発着と尼崎発着がともに設定されていた。
#***場合によっては学研都市線方面からの新大阪行きも設定されていた。
#阪急新大阪線(十三~新大阪~淡路間)が先に開業していたら、早まっていた。
#北梅田駅への乗り入れに考慮されているどうかは怪しい。
#*当初の予定通り新大阪駅のホームは1番東側に建設されていた。
#[[もし2008年のオリンピック開催地が北京でなく大阪だったら|2008年のオリンピックが大阪で実現していたら]]そうなっていたかもしれない。
#*当時の状況を踏まえるとそこまで手が回ったかどうか微妙。
#放出~久宝寺間の開業が1999年3月頃に早まっていた。
#*その場合、久宝寺駅の橋上駅舎の完全が史実より早まっていた。(史実では、1997年7月に完成した。)
#*開業時に、久宝寺駅は大和路快速の停車駅になっていた。
#*竜華操車場跡地の再開発が史実より早く進んでいた。
#*その場合、直通快速は207系電車・321系電車で運用されていた。
#*207系電車が史実より多く投入され、福知山線での103系電車の撤退が史実より早まっていた。


;阪急
;2008年に新大阪~放出~久宝寺間が開業した場合
#バンプ・ウィルスの加入はなかった。
#前述と同じ。
#1984年の日本シリーズでは、日本一になっていた。
#奈良駅発着の直通快速は当初から新大阪駅へ向かうようになっていた。
#オリックスの監督就任の際に問題になることはなかった。
#*その場合223系→207・321系ではなく221系が運用されていたかもしれない。
#直通快速の本数が史実より多くなっていた。
#*平城遷都1300年祭が開催された2010年3月のダイヤ改正と外国人観光客の増加に伴う2016年3月以降のダイヤ改正を機に本数が増加していた。
#*新大阪を発着する天理臨が運行されていた。


===金村義明(1981)===
==大手私鉄==
※史実では近鉄に入団
===阪急千里線(千里山~北千里間)===
;1930年代
実際に、前身の新京阪鉄道が免許(千里山~山田間)を取得していました。もし、これが実現していたら…
#千里山~南千里or山田間で開業していた。戦後、史実より早く北千里までの延伸を実現していた。
#*北千里以北への延伸の実現も否定できない。
#史実より千里ニュータウンが発展していた。
#大阪外国語大学が山田駅or南千里駅or千里山駅付近に移転してきた可能性がある。
#*これが実現した場合、戦後、近畿日本鉄道は大阪外国語大学のグラウンドを買収し、近鉄花園野球場を整備し、近鉄バファローズの本拠地にした。
#新京阪鉄道の路線が阪急の手に渡ったのは史実通り。
#阪急新大阪線(十三~新大阪~淡路間)が実現していた可能性が高い。


;阪急
;1964~1966年頃
#地元に加えて本人も意中の球団、ということで歓迎されていたのは間違えない。
*史実では、1967年に開業。
#打者転向は史実通りだが、三塁には松永浩美がいたので外野手になっていた?
#1963年8月に千里山~南千里間の開業は史実通り。
#自動改札機の導入も早まっていた。
#*そこは開発する立石電機(現オムロン)の問題になるので別の路線が初導入になっていただけでは。
#**東京モノレールの整備場駅あたりが有力候補か。
#早まった分、新大阪線(十三・神崎川~新大阪~淡路間)は1967年頃に開業していた。
#*その際、新大阪駅にも、自動改札機が導入されていた。
#大阪万博が1964年に開催していたら、1964年3月に開業していた。


===荒木大輔(1982)===
===京阪鴨東線===
※史実ではヤクルトに入団
;1930年代
#最初から京阪が建設していたら本当に1930年代に開業できていたかもしれない。
#*史実では「地方鉄道」だった京都電燈叡山鉄道部が作ろうとしていたため「軌道」だった京都市電との交差をどうするかに時間を取られ過ぎ建設できなかった。
#京阪本線の延長線として建設されている。
#*三条-出町柳間固有の路線名は存在しない。
#現実の出町柳駅が「今出川」駅になっていたかもしれない。
#*この場合2008年に「下鴨今出川」あたりに改名されている。
#叡山線車両の京阪線乗り入れが実現していた。
#いずれ叡山線は京阪に編入されていた。
#*場合によっては京福電鉄ごと京阪→阪急に食われていた。
#**この場合嵐電相当の区間は阪急のものになっている。
#**福井地区は戦後に別会社(おそらく阪急グループ)として独立。
#加算運賃は最初から存在しない。


;巨人
;1950年代~1960年代
#史実より引退が早くなっていた。
#鴨東線は地上線として開業していた可能性が高い。
#巨人に斎藤雅樹が入団しないため、巨人の90年代の優勝回数が減っていた。
#*1500Vへの昇圧と淀車庫の開設と京阪特急8両編成での運行の開始が史実よりも早まっていたかもしれない。
#王監督就任時に野手への転向を打診される。
#*1987年5月に京阪本線の東福寺~三条間と共に鴨東線も地下化された。
#**同時期に8000系電車と7000系電車が投入されていた。
#*三条駅の京阪線ホームは2面2線のホームとなり、出町柳駅のホームは2面3線のホームになっていた。また、京福電鉄との連絡線も設けられていたかもしれない。
#*鴨川沿いに沿って、建設され、跡地は川端通の建設に活用された。
#*1960年代後半の場合、京阪本線の東福寺~三条間の地下化が史実よりも早まっていたかもしれない。
#3000系電車は全て7両編成化されていた。
#*京橋駅の移設及び複々線化と同時に8両編成化された可能性が。
#1963年7月に開通した阪急京都本線の河原町延伸開業と比較されていた。
#遅くても、1969年までに開業していた。
#1968年までに開業していた場合、近鉄電車が出町柳に乗り入れていた。
#*但し京阪側の昇圧が近鉄よりも早かった場合、近鉄の京阪乗り入れはその時点で廃止されていた。
#*むしろ、近鉄との直通運転が史実よりも早く取りやめていた可能性もあった。
#京福電鉄との相互直通運転が1980年代までに行われていた可能性もあった。
#*計画通りに京福電鉄の車両は中書島までに乗り入れ、京阪電鉄の車両は岩倉か八瀬遊園までに乗り入れていた(ただし、京阪は4両編成で乗り入れていた)。
#*京阪特急が八瀬遊園までに乗り入れていたかもしれない。
#**その場合、3000系電車は4+3両編成で登場し、出町柳で切り離しを実施し、出町柳以北は4両で運行されていた。
#**乗り入れに対応していた京福電鉄のデオ300形電車が史実よりも多く製造されていた。
#***2両編成で製造されていたかもしれない。
#*京阪線が1500Vに昇圧された時に打ち切られたか。
#鴨川電気鉄道が設立されることはなかった。
#1900系電車が特急として当路線に乗り入れていた。
#*3000系電車の登場が史実よりも早まっていたかもしれない。
#森のゆうえんちの閉園が史実よりも遅くなっていた。
#観光地としての鞍馬、貴船、八瀬の知名度が史実よりも高くなっていた。
#*行楽シーズンになると、鞍馬、貴船、八瀬と書かれた運行標示板が掲げられた京阪特急が運行されていた。また、京阪は「鞍馬、貴船、八瀬へは京阪特急で」という宣伝を行っていた。
#叡山電鉄の京都精華大前駅の開業が1970年代までに実現していた。
#地上線での開業の場合、京都市電丸太町線と交差するので、ダイヤ上のネックになっていた。
#叡山電鉄鞍馬線の岩倉~市原間の複線化が1970年代までには実現していた。


===高野光(1983)===
;1970年代
※史実ではヤクルトに入団
#本線の東福寺~三条の地下化も同時期に実現していた。
#いずれにせよ新人開幕投手は務めていなかった。
#*1500V昇圧や8両編成化も現実よりも早く行われていた。
#叡山線が京福電鉄から分社化されることはなかった。
#*史実では京都市電の廃止後連絡する鉄道が皆無になり赤字が増大して分社化されたため。
#*京阪と叡電の直通も実現していたかも。
#**その場合、叡山線は京福から京阪に移管されていた。
#**1971年に登場した京阪3000系は鞍馬乗り入れを考慮して勾配対応仕様となっていた。
#1970年開業だった場合、大阪万博が路線開業のきっかけになっていた。
#*3000系も史実よりも1年早く登場していた。
#**京阪線の15分サイクルダイヤ実施も。
#*新門真(現門真市)駅も同時に開業している。
#**開業と同時に京阪本線の1500V化された場合,5000系は製造されなかった。8両運転も同時に開始される。
#***3000系が6000系を名乗るかも(京阪開業60周年を記念する意味合いも込め)
#*3000系は4+4両編成で登場していた。
#*1970年に開業した場合は、地上線として開業していた可能性もあった。その場合、むしろ1960年代の項目と同じであった。
#加算運賃は2010年代に入って撤廃されていた。
#*タイミングとしては2014年か2019年の増税のタイミングだったと思われる。
#8000系は1990年代前半に登場していた。
#*その場合、最初から8両編成で登場し、2階建て車両も最初から連結されていた。
#*もしくは登場が1980年代後半に前倒しされていた可能性もあった。
#1989年までに運行されていた宇治線直通急行が当路線に乗り入れていた。


;西武
;1983年
#渡辺久信が入団せず、西武の優勝回数が減っていた。
#6000系は鴨東線開業に合わせてデビューしていた。
#*渡辺←→高野のトレードがあったかも。
#*同時に新型特急車両もデビューするが、8000系ではなく7000系となっていた。
#渡辺が西武監督に就任することはなかった。
#**この新型特急車が好評で旧3000系を置き換えるのは史実通りだが、置き換え時期が史実よりも早く車齢も若かったので2→3扉化をはじめとする通勤車化改造が行われていた。
#***その場合、1900系の冷房改造は行われなかった可能性が高い。
#本線の東福寺~三条の地下化や架線電圧600→1500V昇圧も同時に行われていた。


;大洋
;1987年
#銚子利夫は他球団に指名されていた。
#京阪本線の東福寺~三条間の地下化と同時に開通していた。
#*長内孝は広島で現役を全うした。
#7000・8000系の登場も2年程早まっていた。
#3000系は8両編成化されていた。
#*8000系は平屋の8両編成で登場、増備されていた。
#**いや、当初から2階建て車両が連結されていた。


;阪急(オリックス)
;1988年
#投手層の薄い阪急で史実より活躍していた。
#この年に開催された京都国体に合わせて、4月上旬ごろまでに開業していた。
#1984年の日本シリーズでは、日本一になっていたかもしれない。
#7000・8000系の登場が史実よりも早まっていた以外で1989年に開業していた頃と変わらなかったか。
#阪急電鉄の広告やCMに出演していたかも。
#*その代わりに、8000系の2階建て車両の投入が史実よりも早まっていた。
#引退後、オリックスでコーチを務めていていたのは史実通り。
#*8000系の登場時に2階建て車両が投入された(同時に8両化)かも。
#**3000系は同時に8両化されたかも。
#叡山電鉄の京都精華大前駅の開業も史実よりも早まっていた。(当路線の開業に合わせて実施されため)


===広沢克己(1984)===
===近鉄難波線===
※史実ではヤクルトに入団
;1914年
#大阪電気軌道の手で開業し、現在は大阪線の一部。
#*1912年の「ミナミの大火」の焼け跡を駅用地・線路用地に転用できたため、比較的容易に難波乗り入れができた。
#難波における南海との開発競争が激しくなる。
#*一方上本町は繁華街にならず「上六」という通称もない。
#**せいぜい某スポーツ強豪校の最寄り駅や地下鉄谷町線との乗換駅程度の認識。
#**[[近鉄百貨店]]は上本町ではなく難波にできていた。勿論来店客数も現実の上本町店よりも多い。
#***阿倍野店と並ぶ存在となっていた。
#***南海の駅ビルの[[高島屋]]との競合で難波を盛り上げていたかも。
#*難波-上本町間には日本橋駅の他、松屋町筋との交点に下寺町駅が設置されていた。
#加算運賃はなかった。
#1956年に複々線化され、[[もし近畿日本鉄道が○○だったら#難波線|これ]]の大半が実現していた。
#阪神なんば線開通に合わせて奈良線と大阪線のいずれかが地下化されていた。
#*難波駅は現実の大阪上本町駅と同じく地下と地上の2階建て構造となっていた。
#*阪神なんば線も史実とは違って1970年に開通していた。千日前通の拡幅と阪神高速道路の建設、なんばウォークの建設は史実通り。


;西武
;1960年代
#大久保・清原をドラフト指名することはなかった。
#早くても、1963年頃までに、遅くても、1968年頃までに開業していた。
#*広沢が指名されても清原指名は史実通りだろう。当初構想にあった清原のサードコンバートが実現していた。
#これを機に、1959年頃に、花園ラグビー場周辺に近鉄花園野球場を整備し、そこを近鉄バファローズの本拠地にしていた。
#巨人に移籍していなかったかもしれない。
#1970年3月には、阪急新大阪線(十三~新大阪~淡路)が開業していた可能性もある。


;日本ハム
===阪神なんば線===
#大島康徳をトレードで獲得せず、大島の監督就任もなかった。
→[[もし阪神なんば線が別の時代に全通していたら]]
#*山本正之は「熱血ファイターズの歌」を制作しなかった(他の中日出身者が日本ハムの監督に就任していれば別の話だが)。


===清原和博(1985)===
===近鉄けいはんな線===
*[[もし1985年プロ野球ドラフトで○○だったら]]
;1970年
#大阪万博が開業のきっかけだった。
#開業当初は4両編成で運転されるものの、相互直通する地下鉄中央線共々史実よりも早く6両編成化されていた。
#*けいはんな線開業前に大阪港-本町で使用されていた800形(旧6000形)・900形(旧6100形)は四つ橋線に転用されていた(その後1970年代末に四つ橋線から谷町線に転属し、史実通りT車化のうえ50系に組み込まれた)。
#近鉄7000系は北大阪急行2000形と同じく大阪市30系をベースとした車両になっていた。
#*非冷房なので1990年前後には新車に置き換えられていた。
#**廃車にはせず台車交換(10400系・11400系の廃車発生品に)・パンタグラフ集電への変更・冷房改造(ラインデリア車向けの2コブキセ使用)のうえ、三重県内の路線に転用されていた。一部の車両は先頭車化改造も行われた。
#*7000系の換気装置には当時製造された近鉄車両と同様のラインデリアが採用され、三角形の蛍光灯カバーも付き、化粧板は当時の近鉄車両と同じベージュのコルク模様で、車体帯も近鉄マルーン色になっていた。
#*近鉄奈良線8000系のアルミ車8069Fは東大阪線用7000系でアルミ車体を採用するための試作車として開発された。
#阪神高速道路東大阪線とは一体構造にはならなかった。
#生駒~学研奈良登美ケ丘延伸も1980年代に実現。
#*但し生駒以東の駅名は現実と違っていた。
#*高の原あるいは学研都市方面への延伸も既に実現。
#加算運賃は設定されるものの、現実よりは安く設定される。
#*当初の目標であった近鉄奈良線の混雑緩和に役立っていた。


===阿波野秀幸(1986)===
;生駒~学研奈良登美ヶ丘間が別の時期に開業していたら
※史実では近鉄に入団
史実では、2006年3月に開業。
#1987年パリーグ新人王は西崎幸広が獲得。
;1990年代
#10.19決戦と1989年の近鉄優勝はなかった。
#7020系電車の登場は史実通りだが、「シリーズ21」に準拠したタイプになっていなかった。
#指名された複数球団全てで出場した唯一の選手にはならなかった。
#奈良生駒高速鉄道は設立されずに、東大阪生駒電鉄が設立された。


;大洋
;2000年前半
#史実通り1年目から活躍しセリーグ新人王を獲得。
#7020系電車は史実よりも早く登場していた。
#長年左のエースとして君臨し、史実通り1998年の横浜優勝にも貢献、引退まで大洋・横浜一筋で通した。
#2004年までに開業していたら、近鉄バファローズを応援するラッピング列車が運行されていた。
#*野村弘樹のブレイクが遅れる。
#*近鉄バファローズがパ・リーグを優勝した2001年に開業した場合、近鉄グループにとって、喜ばしい年になっていた。
#巨人のコーチには就任しなかった。
#*2005年に開催された愛知万博をPRするために、ラッピング列車が運行されていたかもしれない。
#国立国会図書館関西館や私のしごと館の開館と時期が重なっていた。


;巨人
#やはり先発の一角として活躍するが、長嶋監督時に構想から外れ横浜にトレード、その後は史実通り。
#西武との日本シリーズで伊原春樹から執拗に抗議されボークを連発してしまう。


===立浪和義(1987)===
;1980年代
※史実では中日に入団
#東大阪線が1970年代に開業していたら、あり得た。
;南海
#[[Wikipedia:ja:関西文化学術研究都市|学研都市]]は大阪のベッドタウンとして現実より発展していた。
#中日入団の場合と同様1年目からレギュラーを獲得し新人王に。
#*1990年頃に沿線の開発が大幅に進んでいた。
#翌年ダイエーが元木大介をハズレ1位で指名→入団拒否はなかった。
#*特に白庭台地区と登美ヶ丘地区では大幅に進んでいた。
#*おそらく浜名千広、もしかしたらポジション的に考えると小久保や井口も他球団へ、となっていたかも知れない。
#東大阪奈良電鉄か京阪奈急行電鉄として設立されて、建設されていた。
#**史実でも浜名は中日とダイエーで競合しているが。
#*その場合、1986年10月に長田~学研奈良登美ヶ丘間として開業していたか、1988年か1989年に生駒~学研奈良登美ヶ丘間として開業していた可能性もあった。
#ダイエーの初優勝ももう少し早まっていた?
#7020系電車は登場しなかったか、登場したとしても、7000系電車と同じタイプになっていた。
#本人の残した数字自体は史実とあまり変わらず2000本安打と二塁打の日本記録も達成していた。
#1987年の南海のドラフトがドラフト史上最大級の大当たりと言われる。(もっとも、立浪の外れで獲得したのが吉田豊彦で、それ以降も若井基安、柳田聖人、大道典嘉、吉永幸一郎、村田勝喜とそうそうたるメンバー。)


;中日のその後
===京阪中之島線===
#種田仁はトレードに出されず中日で現役生活を全うしていた。
;1970年
#小学生の時キャンプで立浪にバットを貰ってファンに→立浪に憧れてPLに進学した、というエピソードのある福留孝介は中日に入団しなかった(おそらく巨人入り?)
#同年開催された大阪万博に合わせての開業だった。
#*どっちにしても近鉄は蹴っていた。
#*蒲生信号場~天満橋間の複々線化も早まっていた。
#森野将彦や荒木雅博はレギュラー獲得が早まっていたかも。
#中之島西部エリアの開発も現実と違った形になっていた。
#*[[大阪大学]]が中之島から撤退することはなかったかも。
#ドーチカが渡辺橋駅まで繋がっていた。
#*場合によってはなにわ橋-北浜、大江橋-淀屋橋の地下通路もできていた。
#バブル期前後に西九条あたりまで延伸し、阪神との乗り入れも実現していた。
#*この場合近鉄との乗り入れはどうなっていたか…。
#旧3000系の登場が1年ちょっと早まり、中之島線開業に合わせる形となっていた。
#加算運賃は21世紀に入って撤廃されていた。


===長嶋一茂(1987)===
;1980年
※史実ではヤクルトに入団
#守口市~寝屋川信号所間の複々線化とセットで開業していた。
;大洋
#当時はまだ京阪の輸送量が伸びていたので天満橋以西が実質複々線化されることにより本線の淀屋橋~天満橋間の混雑緩和に役立っていた。
#史実よりは出番を与えられて活躍出来ていたかも知れない。
#1990年代に入ると中之島駅以西の延伸計画が具体化し、21世紀に入って西九条方面への延伸が実現していた。
#外れ1位の盛田幸妃は他球団が指名していた可能性も。
#*延伸開業が阪神の難波延伸より先だった場合、阪神との直通も実現していた。
#父親の巨人監督再就任とともに移籍、は史実通りか?
#**この場合、阪神は阪急ではなく京阪と経営統合していた。
#背番号は当時空き番の5になっていた可能性が高そう(3番は高木豊の番号のため譲られなかっただろう)。
#中之島駅周辺の再開発も早まった。
#*朝日放送の社屋も昭和時代のうちに移転していた。
#**築20年かそこらで移転するのはさすがに想像しにくい。
#**むしろ88年移転の読売テレビあたりが来る方が自然。
#***90年移転の毎日放送だったかも。


===川崎憲次郎(1988)===
;1989年
※史実ではヤクルトに入団
#翌年に開催される国際花と緑の博覧会に見据えての開業であった。
#大阪大学医学部附属病院の吹田市への移転が史実よりも早まり、ほたるまちの開業が史実よりも早まっていた。
#*「こども本の森 中之島」の開業も史実よりも早まっていた。
#時期的に鴨東線の開業と重なっていた。
#*むしろ鴨東線の開業が1950年代~1960年代に早まっていた可能性もあった。
#*遅くても1988年までに開業していた。
#7000系電車と7200系電車が史実よりも多く増産されていた。
#*中之島~出町柳間を結ぶ急行列車が運行されていた。
#**むしろ同時に快速急行が設定されていたかも。
#2代目3000系電車は登場しなかったか史実よりも遅れて登場していた。
#大阪市立科学館の開館と同時に開業していた。


;巨人
;1990年
#中日に移籍することはなかった。
#同年開催された国際花と緑の博覧会に合わせて開業したことになっていた。
#*勿論川崎祭も起きてない。
#駅の内装は1987年完成の東福寺~三条の地下線や前年に開業した鴨東線と同じような感じになっていた。
#吉田修司同様巨人では振るわずダイエーにトレードされていたかも。
#中之島線各駅のホームは10両編成対応となっていた。
#[[京阪の車両/形式別#7000系|7000系]]が現実以上に増備されていた。
#*少数派系列に終わることはなかった。


===野茂英雄(1989)===
;1994年
※史実では近鉄に入団
#[[関西国際空港]]開港に合わせて開業していた。
;ロッテ
#[[大阪の鉄道#なにわ筋線(仮)|なにわ筋線]]も同時に開業していた。
#90年代にあと3~4回ぐらいAクラスに入れたかも
#[[京阪の車両/形式別#7200系|7200系]]は中之島線開業に合わせて登場していた。
#バレンタイン監督に太鼓判を押されてメジャー行きか?
#特急の一部が中之島発着になっていたかも。
#*広岡GMと揉めてメジャーへ、ってあれ?誰かと全く同じだ…
#*その場合、ダブルデッカーの連結は中之島線開通と同時に行われていた。
#拒否され、翌年(社会人なので)再度複数球団による競合というシナリオも。
#*小池秀郎の行き先にも影響が及ぶ場合もある。
#*その場合、プロ入りは92年のバルセロナ五輪後まで無かった。
#*12球団OKじゃなかったっけ?


;ダイエー
;1997年
#ダイエーの旧南海時代から続くBクラス更新は無かった
#奇しくも北側を並行する[[JR東西線]]とほぼ同時期に開業していた。
#99年と98年以外は優勝は出来なくともAクラスにはなっていたかも知れない
#*同年開催されたなみはや国体に伴う交通整備と位置づけられていた。
#野茂のメジャーへの移籍が遅れていたら藤井将雄のダイエー入団は実現しなかったかも知れない
#9000系及び8000系ダブルデッカーは中之島線開業と同時にデビューしていた。
#元木大介は無事巨人入り。
#*快速急行も同時に設定され、これに9000系が運用されていた。
#*元木の2位単独は当時の評価から考えて厳しいので抽選にはなりそう。
#同時期に京阪のCMキャラクターを務めていた渡辺満里奈が開業式に呼ばれていた。
#*「渡辺」繋がりで渡辺橋駅の1日駅長も務めていた。


;オリックス
;2001年
#オリックスブレーブス元年、上田監督に「ええで」と言われ新人王。
#USJの開業に合わせて、開業した。
#次の監督土井正三に「あんな出鱈目なフォームのヤツ、使えん」と言われ実力を発揮しつつも寡黙になる。
#*新桜島駅まで開業していた。
#*その翌シーズン(1992)には史実より3年早くアメリカへ旅立ってたかもしれない。
#*2000年に開業していた可能性もある。
#そして仰木監督。イチロー、パンチと一緒に「ヒデオ」と登録名変更を要望されるも拒否。しかしマジックにも乗りオリックス4連覇(94年~97年)。全盛期を迎える。
#中之島周辺の再開発が史実よりも進んでいた。
#*佐藤和弘は外れ1位なのでこのケースだと入団していない可能性がある。
#京阪電車おでかけ情報誌「K PRESS」が阪神の駅でも配布されていた。
#**ただ佐藤は2位でも取れそうだがら入団はあり得ないとまではいえない。
#*阪神は阪急ではなく京阪と経営統合していたかも。
#第一次仰木政権終了の01年末に退団→渡米も全盛を過ぎマイナー契約で終了。現役を終える。
#**その場合、西九条から[[阪神なんば線]]に繋がる連絡線が建設され、阪神と京阪が乗り入れていた。
#*逆に阪神の広報誌も京阪の駅で配布されていた。
#特急の一部が新桜島発着になっていた。
#2025年の万博開催に合わせ夢洲への延伸工事が行われるようになっていた。


;日本ハム
;2003年
#数年後「そのまんまハムの広告」と賞賛される。
#3000系電車 (2代)の登場が史実よりも早まっていた。
#*江夏~矢作の後継者と呼ばれる
#中之島地区における再開発が史実よりも早まり、2010年代までには全体工事が完成していた。
#いろいろな意味で○モ○デオに関係のある某投手と比較される。
#*国立国際美術館の開館と同時期に開業していた。
#東京ドーム時代に1回は優勝出来ていた。
#2003年のダイヤ改正は史実よりもより大がかりなものになっていた。


;阪神
===京阪本線(淀屋橋~天満橋間)===
#大阪出身なので一躍大スターに。
;1930年代
#中村監督に甘やかされた後、藤田監督と衝突、最終的に球団と対立し数年後メジャ…あれ?
#阪神梅田駅や神戸市内の地下線や新京阪線の京都市内と同様、戦前に完成した地下線となっていた。
#*でも92年は優勝できたのかも
#天満橋駅は現実と異なり複線分しか確保されていなかった。
#史実である葛西稔が他球団に指名されていた。
#*そのため、京橋駅の移設及び高架複々線化と同時に梅田方面への分岐線が建設されていた。
#*よって彼が入団1年目にバッシングの標的に遭うことはなかった、というよりそれを糧に2年目以降実績を上げること自体なかったかも・・・
#**あるいは中之島線がこの時に建設されていた。
#*もちろん「遠山→葛西→遠山→葛西」の投手リレーも存在しなかった。
#1960年代に鴨東線が開業していた。
#*彼が引退後阪神コーチとなって藤川球児をブレイクさせる下地を作ることもなく、藤川もひっそりと球界を去っていたかもしれない。
#大津線以外の600V→1500V化が京橋駅の移設及び高架複々線化までに実現。
#**葛西氏が2位以下で阪神に指名されたかもしれないので、同氏については史実通りだったかも・・・。
#開業時期次第では御堂筋線の淀屋橋駅と一体で建設されていた。
#**ロッテが外れ1位で葛西を指名予定だったため、阪神が2位指名になることはありえなかった。
;1970年
#***ロッテは外れ1位1番目で小宮山を獲ってるけど?
#大阪万博開催に合わせて開業したことになっていた。
#京橋駅の移設及び高架複々線化と同時施工されていた。
#淀屋橋駅は現実とは異なり、御堂筋線の下をくぐって地下3階に設置されていた。
#*位置も御堂筋の西側になり、御堂筋線淀屋橋駅とともに四つ橋線肥後橋駅とも接続していた。
#*中之島線は淀屋橋から延伸される形になっていた。
#地下線が複線なのは現実通りだろう。
#*そのため、中之島線開通後も天満橋行きが残っていた。
#1960年代に京阪線の直流1500への昇圧が実現していたかもしれない。
#*京都側の市電(600V)との平面交差をどうにかできなければ無理。


;大洋
==地下鉄==
#先発に野茂、抑えに佐々木という強力な投手陣が出来上がる。
===神戸高速鉄道===
#*野茂の外れ一位で佐々木が近鉄に。
;1930年代
#**それはない。佐々木は大洋以外狙ってなかったらしい。(佐々木と大学の同期、大塚(元西武)談)
#神戸市の第三セクター会社ではなく、阪急・阪神の延長線として開業していた。
#***でも、1位じゃなかったら佐々木は入団しなかったと思う。
#*阪急・阪神と山陽は新開地を境に会社が分かれる形となっていた。
#***日本ハムの大沢啓二(当時、常務)が大声で「佐々木で行こう」といったため、指名を繰り上げて1位で指名した。
#*阪急・阪神~山陽・神鉄に乗る場合、3社から2社に減ることから運賃が安くなっていた。
#*斎藤隆は大洋ではなく中日に入団
#山陽電鉄の電鉄兵庫駅は戦前に廃止されていたか、三宮方面の線路がここから延長する形で建設されていた。
#ベイスターズに改名した直後には優勝していた。
#阪神大震災で地下トンネルが崩壊することはなかったかも。
#*実史では戦前に建設された高架橋や地下トンネルは大きな被害を受けなかったため。
#梅田~姫路の直通特急も早期に実現していた。
#*阪急も直通特急の運行に参加していた。
#**「省線への対抗」で開業から運行したかもしれない。大阪万博までにカルダン駆動車での運行に統一。
#阪神大水害で浸水し大きな被害を受けていた恐れあり。


;ヤクルト
;1966年
#ソウル五輪でバッテリーを組んだ古田との相性はバッチリ。ヤクルトは現実以上の黄金時代を築く。
#同年開催された姫路博覧会に合わせての開業だった。
#*ノーコンを意に介さないピッチングスタイルは、次第に野村監督と古田をイラつかせる要因になっていった。
#*大阪方面から山陽で姫路博覧会に行く人などで博覧会の入場者が現実よりも増えていた。
#「ヤクルトみんなでノモ」のCMがヒットし、人気者に。
#**それでも姫路モノレールの運命は一切好転しなかった。
#女性芸能人若しくは[[フジテレビ]]の女子アナと結婚していた。
#*阪神・阪急も姫路博覧会のPRを行っていた。
#石井一久は指名されていないかもしれない。
#*阪急梅田・阪神梅田~山陽姫路間を結ぶ臨時特急が運行されていた。
#**その後も阪急・阪神梅田-山陽姫路を結ぶ特急が運行される。国鉄時代は梅田-姫路間の通し利用者が多かった。
#阪神本線と阪急神戸線の昇圧は1965年頃に行われていた。
#阪急3000系電車、5000系電車の登場が史実よりも早まっていた。
#*3000系電車は宝塚線をメインにして投入されていたかもしれない。


;近鉄のその後
;1967年
#他のパリーグチームに入団していた場合、90年代初頭には早くもBクラス常連チームへ転落。
#この年は、阪急千里線の北千里までの延伸開業と阪急ブレーブスのパ・リーグ初優勝という阪急にとっては、輝かしい年であった。
#人気も低下し、20世紀中に球界再編の可能性も。
#阪神本線や阪急神戸線の1500Vへの昇圧が史実よりも早まっていた。
#*阪急5000系電車の登場も史実よりも早まっていた。
#昭和42年7月豪雨による被害を受けて、一時不通になっていたかもしれない。


==1990年代==
;1990年代
===小池秀郎(1990)===
#建設理由は阪神大震災の復興。
;全般
#*阪急・阪神・山陽・神鉄の地上側ターミナルは撤去。
#社会人(松下電器)時代に成績を落とさなかったので、史実より活躍できていた。
#神戸電鉄は三宮駅に乗り入れていた。
#直通特急のスピードアップのため、途中に追い越し線が設置されていた。
#地下トンネル及び駅ホームは近鉄車両の入線が可能な設計になっていた。
#*近鉄車も新開地までは殆どが直通していた。場合によっては奈良-姫路間の直通列車も運行されていた。
#阪急神戸線と神戸市営地下鉄の直通構想は浮上しなかったかもしれない。


;近鉄
===神戸市営地下鉄海岸線===
#2年連続で当たりを引き当てた仰木監督は「ゴッドハンド」と呼ばれていた。
;1980年代
#右の野茂、左の小池の両輪で悲願の日本一を達成した。
{{駅名標/神戸市営|name=栄町|roma=Sakaemachi|back=元町|back2=Motomachi|next=神戸|next2=Kōbe|color=#03c}}
#とはいうものの入団しただろうか?
#リニア地下鉄ではなく西神・山手線と同一規格の路線となっていた。
#*巨人・ヤクルト・西武以外は拒否の方針だったので、近鉄入りは微妙なところ。
#*線路も当然つながっていて直通運転が行われていたかも。
#*ロッテじゃなければという話もあったので、ごねたけど最終的には入団になりそうな気がする。
#*あるいは史実で構想があった高架式新交通システムだった。
#一部の駅の駅名が現実と異なっていた。
#*「ハーバーランド」は「神戸」、「みなと元町」は「栄町」、「旧居留地・大丸前」は「元町」になっていた。
#JR和田岬線は廃止されていたかもしれない。
#*キハ35系300番台は登場しなかった。


;ヤクルト
;1990年代
#高津臣吾も史実通り入団していたら、「亜細亜大学コンビ」と呼ばれていた。
当初は1999年に完成する予定でした。
#石井一久のブレイクが遅れていた。
#史実よりも利用客が若干多くなっていた。
#史実でヤクルトの外れ1位で指名された岡林洋一は当初の予定通りロッテが指名し入団していた。


;西武
===京都市営地下鉄烏丸線===
#工藤公康の移籍後に左腕エースとして君臨。西武の黄金時代はさらに長くなっていた。
;1930年代
#前年に続いて8番目にくじを引いた球団が当てたため「残り物には福がある」と言われた。
#(大阪市営地下鉄→大阪メトロ御堂筋線と同じく)世界恐慌の失業者対策で建設された。奈良電(→近鉄)との直通は考慮されない。
#高山郁夫(西武)⇔高木宣宏(広島)のトレードはなかった。
#*南の終点が竹田ではなく中書島あたりだった。
#**南部延伸が完了した時点で(おそらく昭和30年代)市電伏見線は消えていた。
#駅構内は豪華な造り。↑の御堂筋線梅田-なんば間に近い雰囲気。
#「京都人の先進性」を語るエピソードの一つとしてよく使われる。
#皇紀二千六百年までに京都-北大路間は開業済み。
#京都市の人口は現実より1-2割多い。
#*戦後の景観条例もあるのでそこまで劇的に影響があったかどうかは分からない。
#丸太町と四条の間では御池ではなく三条に駅が置かれていた。
#戦後の阪急京都線延伸工事がさらに難しくなっていた。
#*烏丸駅が史実より深い位置にできていたかもしれない。
#史実でも検討されたように堀川通経由だった可能性も。
#戦前のことなので御所付近の区間では宮内省ともめていた恐れもある。
#御池線(東西線)の建設開始も早まっていた。
#*昭和のうちに一部区間ができていたかもしれない。


;中日
;1975年
#岐阜出身なので歓迎される。
*当初の開業目標年。
#小島弘務か矢野輝弘のいずれかが指名されない。
#あまりバリアフリーには配慮されなかった。
#高木監督時代に優勝していた。
#市電の烏丸車庫が史実より早く廃止される代わりに九条車庫が全廃まで残る。
#1997年の最下位は回避できた。
#もちろん市電と地下鉄の乗り継ぎ割引もあった。
#2000年と2002年のどちらかは移籍しなかったかもしれない。
#市電廃止前の工事なので一部区間では難しい工程が必要だった。
#車両のデザインはもう少し古臭い感じ。
#*開業当初の車両は非冷房、抵抗制御で登場していた。
#一部駅では市電との連絡の関係で現在はあまり役に立たない出口があった。
#近鉄3000系は登場時から烏丸線に乗り入れていた。
#*量産化されていたかも。
#*初期車は冷房準備車(ラインデリア装備)として登場していた。


;広島
===京都市営地下鉄東西線===
#大野や川口の後釜と目される。
;1970年代
#1996年は優勝していた。
#京阪乗り入れがなかった。
#江藤と同時にFA移籍した可能性も。
#*どのみち京津三条~御陵or山科間は廃止されていた。直通が無かった場合は分社化が断行されていたかもしれない。
#車両サイズが路面電車並みに小さかった?
#*その上で高架だったかも。ただし景観論争勃発。
#嵐山まで延伸していたか。
#*計画通り洛西ニュータウンまで延伸していただろう。但し開業は早くても1990年代末。
#*嵐山方面は嵐電に乗り入れていたかも。
#ホームドアは現在も設置されていない。
#烏丸御池駅は最初からこの駅名だった。


===矢野輝弘(1990)===
;1994年
史実では、巨人と中日の2位競合で抽選の結果、中日が交渉権を獲得。
*当初の開業目標年
;巨人
#平安遷都1200年を記念して開業していた。
#村田真一と兼用で捕手を務めていた。
#京阪700形は現実よりも早く登場していた。
#*村田が年齢と共に出場機会が減った後、矢野は正捕手となる。
#*80形は冷房改造されずに廃車されていた。
#阿部慎之助は巨人に逆指名で入団しなかった。
#六地蔵や太秦天神川への延伸も現実よりも早かった。
#*ファンであった阪神に逆指名で入団していたかもしれない。


;中日のその後
===大阪市高速電気軌道今里筋線===
#殆ど影響無し?
;1970年代
#リニア式ではなく第三軌条方式になっていた。
#谷町線と直通していた。
#*太子橋今市~関目高殿(関目成育)間は新森古市経由ではなく千林大宮経由になり、谷町線と2階建ての構造になっていた。
#*大日~今里間や井高野(または上新庄)~文の里・八尾南間の系統も運転されていた。
#井高野ではなく上新庄が起点だったかも。
#1990年代以降に今里~湯里六丁目間が延伸されていた。
#*谷町線駒川中野駅は今里筋線との交差部分に近い場所に設置され、相互乗り換えも可能となっていた。
#*JR大和路線との接続駅の名称は「杭全東部市場前」となっていた。
#表向きはトロリーバスの代替路線ということになっていた。トロリーバス廃止の翌日に開業していた。


;阪神のその後
===大阪市高速電気軌道長堀鶴見緑地線===
#正捕手は山田勝彦のままだった。
;1970年代
#*当時の阪神は暗黒時代だったので、1998年以降の成績はもっと酷くなっていた。
#他の地下鉄路線と同じ第三軌条方式となっていた。
#上記のように、阿部は阪神に逆指名で入団していた可能性がある。
#*日本初のリニア地下鉄は都営地下鉄大江戸線となっていた。
#*その場合、当時の監督は野村克也だったので、彼に指導された分、リードは史実の巨人より少し良くなっていたかもしれない。
#路線名は「長堀線」となっている。
#*阿部が阪神に入って現実通り活躍出来ていれば、阪神も現実通りAクラスに浮上に黄金時代を築けていたかも。
#東側の鶴見緑地側ではなく都心側から開業していた。
#*2016年以降も阪神に在籍していれば、彼の父親の元チームメイトである掛布雅之と師弟関係になっていた。
#恐らく千日前線と同様4両編成での運転となっている。
#当時はOBPがまだなかったので、京橋~谷町六丁目は森ノ宮経由ではなく上町筋経由になっていたかも。
#1980~90年代に大正以南鶴町方面への延伸が実現している。
#当時は大阪ドームがまだなかったので「大阪ドーム前千代崎」→「ドーム前千代崎」は「千代崎」として開業していた。
#*そしてドームの開業後に改名していた。
#「四ツ橋」駅は長堀線開通と同時に「心斎橋」駅に改称されていた。


;全般
===大阪市高速電気軌道千日前線===
#声優の水樹奈々は矢野のファンになることはなかった。
;1990年代
#*野球の知らない水樹奈々ファンにも矢野の名前が知れ渡ることはなかった。
#長堀鶴見緑地線と同じくリニア地下鉄となっていた。
#阪神にトレードされない限りあの引退試合はないと見られるので村田修一が引退試合キラーと言われることはなかった。
#*長堀鶴見緑地線及び今里筋線との連絡線が設置されていた。


===斎藤隆(1991)===
===神戸市営地下鉄西神・山手線===
※史実では横浜に入団
;1972年
;中日
#新神戸駅の利用客が早いペースで増加していた。
#1998年は中日が優勝していた。
#当初の予定通り青谷・王子動物園方面に延伸されたかもしれない。
#*[[もし日本プロ野球であの球団が優勝していたら/セ・リーグ#中日ドラゴンズ|1994年や1996年も巨人ではなく、中日がリーグ優勝を果たしていた]]
#*[[阪急神戸線]]との乗り入れも早期に実現していたかも。
#ストッパーに転向していなかったかもしれない。
#1000形は非冷房で登場した。
#「ササキ様に願いを」は作られなかった。
#表向きは前年に全廃された市電の代替を兼ねた。上記の新神戸駅は当線開業時から存在した。「のぞみ」の全列車停車は2000年頃か。
#史実で斎藤隆の外れ1位として中日から1位指名された落合英二は2位で指名されていた(他球団は落合の故障を考慮して指名を見送っていた)。
;1981年
#ポートピア博覧会に合わせて開業したことになっていた。
#同じ年に開業した京都市・福岡市の地下鉄と何かと比較されていた。


===松井秀喜(1992)===
===大阪市高速電気軌道御堂筋線(我孫子~中百舌鳥間)===
※史実では巨人に入団
;1971年
;阪神
#[[泉北高速鉄道]]と同時に開業していた。
#阪神暗黒時代はなかったかも。
#*場合によっては泉北高速鉄道は南海ではなく御堂筋線と直通運転していた。
#*松井が何人いようとどうにもならないと思えてしまうのが[[阪神タイガース/暗黒時代|阪神暗黒時代]]なのである。阪神の歴史はあんまり変わらなかったと思う。
#中百舌鳥駅は南海・泉北高速鉄道と御堂筋線が一体構造になっていた。
#*ただ最下位と言う最悪の状況だけは免れる事が出来たかも知れない
#*乗り換えが現実よりも便利になっていた。
#*暗黒時代でもないが優勝にも届かない微妙な状況が続いたってことか?
#*中百舌鳥駅に南海の優等列車が停車していたかもしれない。
#*優勝は出来なくとも、少なくともAクラス入りは何度か果たしていただろう。松井の加入によりチームの雰囲気が変わり選手が勢いづくだろうから。
#この時点で車庫も我孫子から中百舌鳥に移転していた。
#**現実にはFAで入った金本や西岡がその役割を果たした。
#*10両編成化も現実よりも早かったかもしれない。
#*普通に中村監督時代に優勝できていたかもしれない。1992年の阪神の成績からみてありえない話じゃない。
#我孫子以南は高架線になっていたかもしれない。
#**1993年か1994年にリーグ優勝していただろう。上手く行けば連覇とか?
#それどころか星野時代に史上初の連覇+日本一を達成していたりして。
#*というか、連覇以前に2002年のオフ後にさっさとヤンキースに移籍したと思う。
#*上のように、星野監督就任よりも以前に達成しているだろう。
#指導者に恵まれず1軍昇格がないまま退団。
#ヤンキースタジアムのスポンサー広告が'''何故か'''オレンジ色の「[[読売新聞|○○新聞]]」などではなく「[[朝日新聞]]」になっていた。
#*勢い余って一塁側には「大阪西川」、照明下には「川上塗料」、バックスクリーンには「[[三菱電機]]」。
#浜風の影響で意外とホームラン数は伸びていないと思う。東京ドームが本拠地の巨人と比べて5本ぐらい減るだろう。
#外野ではなく高校時代と同じ三塁を守っていたかも。
#*内野手のままだったら片岡が移籍しなかった。FAしたとしても別球団に行っていた。
#3番新庄・4番松井という黄金クリーンナップが実現していたかも。
#一部で阪神ファンだという話を疑問視する声があるので入団拒否して駒澤大学へ進学して4年後に逆指名で巨人入団なんて事も。
#*ドラフトでの表情を見る限り巨人ファンではなかっただろうし、事前に拒否してないのに突然入団拒否はありえないだろうと思う。
#萩原誠放出後に31をつけていたのは間違いない。
#天然芝の甲子園球場でプレーすることになったため、メジャー入りしてしばらくした後に怪我で悩まされるということはなかったかもしれない。


;中日
==その他==
#巨人を差し置いて中日が松井在籍時に4回リーグ優勝または日本一に。
===大阪モノレール===
#少なくとも背番号は「55」ではなかったのは間違いない(大豊泰昭が王の年間55本塁打にあやかって着けていたので)
;1970年
#*有力なのは宇野のロッテ移籍で空いた「7」あたりか?
#中国道・近畿道と一体で建設された。
#松井の出身地の[[石川|石川県]]での[[石川のメディア#北陸中日新聞|北陸中日新聞]]の購読者が増えていた。
#少なくとも大阪空港-万博会場が最初から開業している。
#*その逆に北國新聞は活躍をほとんど報じなかった。そのため、石川県での人気は低かった。
#*東側の終点は国鉄茨木駅。
#1996年最終戦での敬遠はなかった。
#**門真市への延伸はやや後年にずれ込んだ。
#福留孝介は入団しなかった可能性も。
#***国鉄茨木駅は中央環状線からは北にずれているので、門真市への延伸はスイッチバックで行われていた可能性もある。
#*福留は当初遊撃手。
#***1970~80年代前半までに門真市延伸を果たしていた場合、大阪府運転免許試験場へのバスは門真市発着のままだった。
#1994年・1996年は巨人ではなく中日が優勝していたかも知れない。
#****地下鉄谷町線も1977年の時点で大日まで延伸していた。
#***京阪門真市駅が島式2面4線ホームとなり、準急が停車していた可能性もある。
#**宇野辺駅は当初からこの駅名で開業していた。
#日本跨座式の初お目見えとなった。
#大阪万博を象徴する場面として「会場をバックに走るモノレール」というシーンがよく使われている。
#*大阪万博の思い出として「モノレール」を挙げる人が少なくない。
#*そもそも史実の大阪万博でもモノレール(大阪モノレールとは別)は走っていたんだが…。
#**万博会場のモノレール車両が万博閉幕後大阪モノレールに譲渡されていた可能性もある(方式がともに同じ日本跨座式だったため)。
#**記念公園駅が中国道の北側に建てられ、万博会場内モノレールの1/2-1/4は彩都線に転用されるほか、車両基地も万博時のものを拡張し会場内モノレールの北側は出入庫線として転用されている。東急電鉄が大阪モノレールの大株主になっている。
#現在は門真市以南へ延伸している。
#*延伸の時期にもよるが、近鉄けいはんな線の荒本駅が現実とは異なり中央環状線の交点に建設されていたかも。
#*門真市以南への延伸が1990年までに実現した場合、鶴見緑地で開催された花博へのアクセスとしても活躍していた。
#**地下鉄長堀鶴見緑地線もモノレール開通と同時に門真南まで開通していた。
#イベントなどで万博当時の塗装を復元した車両が走る。
#千里中央駅は北大阪急行の駅と一体で建設されていた。
#大阪府と在阪私鉄出資の第三セクターではなく、[[東急電鉄|東急]](もしくはその子会社)が運行していたかもしれない(因みに万博モノレールの運行は東急が行っていた)。
#*東急グループの関西進出の一環とされた。系列であった日本国内航空は特別塗装機を飛ばした。後にこの塗装を復元した機体を飛ばす。東急系のホテルが1970年頃から関西に多く建設される。
#開業時の車両が1990年代半ばまで走った。1両程度は車庫に保存される。冷房付きの車両は1980年代から導入。
#*開業時の車両は「100形」だったと思われる。
#**その次に登場する車両が「1000形」を名乗った(号車付番方法は100形と同じ)と思われる。
#*1000形以降もATOに対応していると思われる。
#**ホームゲートはいつ頃設置されただろうか。
#現実より運賃が安くなっていた。
#*そのため利用者数が史実より多くなっている。


;ダイエー
;1980年代
#活躍した場合、いつの間にかポスティングでメジャーに行ってしまっている。
*ちなみに当初の計画では、南茨木~千里中央間は1988年春に開業する予定でした。
#謎の無償トレードで[[読売ジャイアンツ|ナベ○ネ部隊]]にプレゼントされる。
#最低でも、1989年までに南茨木~千里中央間が開業していた。
#王の後継者として期待される。
#*その場合、翌年に開催された国際花と緑の博覧会の開催に間に合い、それに伴って、ラッピング列車が運行されていた。
#*「門田2世」との呼び声も高かった。背番号も44になっていそう。
#それ以外の面で、史実とあまり変わらなかったか。
#ホークスの暗黒時代は1990年代中盤には終わっていた。
#*生卵事件もなかった。
#星稜高校の1年先輩の村松有人とともに外野手でコンビを組んでいた。
#松中信彦が逆指名して入団しなかったかも知れない。
#高校時代と同じ内野手だった場合、小久保裕紀の指名はなかったか入団してもブレイクが遅れていた。


;巨人のその後
;門真市~瓜生堂間が平成期に開業していたら
#おそらく戦力の劣化はほとんどないと思われる。
史実では、2029年度に開業予定。
#*ただチームの意気は今より下がっていたかもしれない。
#早くても、1999年頃に、遅くても、2019年3月頃に開業していた。
#外野手補強のために稲葉や谷辺りが巨人に指名されていたかもしれない。
#*それよりも、南茨木~門真市間の開業も史実よりも早まり、なみはや国体が開催された1997年に開業していた。
#長嶋監督の復帰の盛り上がりが小さくなっていたかも。
#近鉄奈良線に「瓜生堂」駅が開業していた。
#「10.8決戦」やメークドラマも存在しないかも。
#東大阪市役所の荒本地区への移転が史実よりも早まっていたかもしれない。
#近鉄のラッピング広告列車が運行されていた。
#2010年代に開業していた場合、3000系電車の登場が史実よりも早まっていたかもしれない。
#2010年までに開業していたら、近鉄ハーツはリニューアル化されて、存続していた。
#1997年のなみはや国体の開催に合わせて、門真南までの先行開業が実現していたかもしれない。


;全てに言えること
;彩都線(阪大病院前~彩都西間)が2004年に開業していたら
#長嶋茂雄との師弟関係が出来なかったので、2013年の国民栄誉賞受賞はなかった可能性が高い。
*史実では、2007年3月に阪大病院前~彩都西間が開業しました。本来は彩都の街開きが行われる2004年に開業する予定でした。
#*長嶋茂雄の国民栄誉賞受賞も死去後に?
#大阪外国語大学へのアクセスが史実よりも良くなっていた。
#国際文化公園都市の整備が史実よりも進んでいた。
#*2007年3月に彩都東(計画では東センター)までに延伸していたかもしれない。
#*もしくは、2007年3月に東大阪市への延伸が実現していたかもしれない。
#それでも大阪モノレールの経営状態が良くなっていたかどうかは分からない。
#街開きの時に阪急バスが千里中央~彩都間の路線バスを開設することはなかった。
#*JR茨木・阪急茨木市~彩都間の路線バスが開設されるのが史実よりも早まっていた。


===伊藤智仁(1992)===
===愛宕山鉄道===
;広島
;1950年代
#ヤクルトよりも選手生命が短くなってた可能性が高くなる。
#京福と阪急の合弁企業が運行。
#投手コーチになり黒田・マエケンに高速スライダーを伝授していただろう。
#平坦線の車両は京福嵐山本線との共通運用。
#愛宕駅-愛宕神社のロープウエーも開業していた。
#建設時期によっては朝鮮戦争による鋼材高騰に苦しめられた。
#遊園地やスキー場開発も史実通りやっている。
#*八瀬遊園はなかったかもしれない。
#*なお現在はほとんど閉鎖もしくは売却されている。
#鳥居本駅は後に門前町の景観に調和した駅舎に建て替えられた。


;オリックス
===姫路モノレール===
#小林宏は入団しなかった。
;1980年代
#*小林-オマリーの14球もなかった。
#日本跨座式が採用されている。
#スローカーブの星野伸之と好対照をなしていた。
#まずは姫路駅-姫路城の間ができる。
#広島の場合同様に選手生命は短くなっていた可能性が高くなる。
#*のちに書写山まで延伸されるが山陽本線以南へは延びない。
#*姫路駅は地下に設置されていたかもしれない。
#一部区間では同時に道路整備も行われる。
#姫路城駅の位置によっては世界遺産登録の際に何か問題になっていた。
#姫路市の直営ではなく兵庫県や姫路市、山陽電鉄、神姫バス、地元企業などが出資した第三セクターとして開業していた。
#今頃は、ワンマン運転を行っている。


===福留孝介(1995)===
===泉北高速鉄道===
;全般
;1970年代後半
#中日・巨人以外に指名され拒否していた場合、福留個人については史実通り。
#同時期に開通した[[京王相模原線]]と同様、鉄建公団の「P線方式」を適用して南海の路線として開業していた。
#*運賃も安くなっていた。
#*1990年代のバブル期に通勤用の有料特急が運転されていたかも。
#**「泉北ライナー」のデビューが早まったかも。
#**11000系はあと2編成ぐらい製造されていた。
#*路線名は「南海泉北線」になっていた。
#*深井地区は泉北ニュータウンから外れるので、多摩境駅のように駅開業が遅れていた(助成されるのがニュータウンから外れる1駅目までという要項があるので)。
#場合によっては中百舌鳥~光明池間が一気に開業していたかも(史実では中百舌鳥~泉ヶ丘が1971年開業で光明池までは1977年に開業)。
#*和泉中央への延伸は史実通り。
#大阪府都市開発が鉄道事業に乗り出すことはなく、トラックターミナルを運営するのが主体の会社となっていた。
#*南海の子会社になることもなく、現在でも大阪府の第三セクター。


;中日
===北大阪急行電鉄===
#原俊介はすんなり巨人が獲得。
;1964年
#荒木雅博の指名はなかった。
#御堂筋線の梅田~新大阪延伸と同時開業していた。
#*1998年ドラフトで井端弘和を指名していなかったかもしれない。
#*もちろん新大阪~江坂も同時開業している。
#**こちらは福留が史実通り外野に転向していれば可能性はあったかも。
#千里ニュータウンの街開きからすぐに開業していた。
#*いずれにせよ荒木・井端の名二遊間は誕生しなかった。
#*千里ニュータウンの発展も現実よりも早かったかもしれない。
#*1999年ドラフトで中日は誰を1位指名していただろう?岩瀬は逆指名で2位だろうし・・・。
#車両は大阪市50系に似たような仕様になっていた。
#**おそらく松坂大輔を指名していたはず。
#*車内外は阪急3000系の仕様を取り入れる。登場時は「御堂筋線に乗り入れる阪急電車」として注目された。後の大阪市30系の車内はもう少し良質だったかも。
#種田仁は中日で現役を全うしていた。
#千里中央駅が現在地に開業していた場合、万博アクセスとして活用されていたのだろうか?
#*「タネダンス」をしていたのは中日の応援団だった。
#*大阪モノレールが20年早く開業,大阪空港-万博会場が最初から存在したかもしれない。大株主は東京モノレール(日立)と東急辺り。阪急は千里線と京都線梅田-淡路を8両運転対応にする。梅田駅の移転は大阪万博までに完了。同時に北千里まで8両運転を行う。
#1996年と1998年に優勝していた。
#千里中央~箕面萱野の延伸も1980~90年代に実現していた。
#阪急千里線が南千里~上新田~桜井間のルートが初めから構想されることはなく、南千里~上新田~桜井間のルートで構想されていた。
#*場合によっては、南千里~北千里間の開業が史実よりも早まっていたかもしれない


;巨人
;1971年以降の場合
#原俊介はすんなり中日が獲得。
#阪急新大阪線(十三~新大阪~淡路)が開通し、阪急千里線が万博会場に乗り入れ、会場輸送のメインルートになっていた。
#*その代わり荒木雅博を2位指名か?
#*その場合、大阪市営地下鉄御堂筋線は江坂駅まで開業し、江坂駅から会場へはバスで輸送していた。
#*この年の中日2位は逆指名の門倉健なので、荒木を取るなら3位以下になる。
#早くても、1974年に開業していた。
#2007年CSでの巨人惨敗もなかった。
#緑地公園駅も開通時に開業していた。
#メジャー挑戦をもっと早くに表明していた可能性も?
#沿線にある駿台予備学校大阪校(1981年開校)及び代々木ゼミナール大阪校(1987年開校、2015年閉鎖)の開校が史実より早まっていた。
#二岡が入団することはなく、山本モナは芸能活動を続行していた。
#*中津にある河合塾大阪校(1984年開校)も史実より早く開校していた。
#*史実通り外野手転向なら、高橋由伸の獲得に動かなかった可能性も{{極小|裏事情にもよるが}}。
#1980年前後に開業した場合、自社の車両は現実の大阪市10系に酷似した冷房付き電機子チョッパ車となっていた。
#*高橋由伸よりも清水が指名されていない。
#*但し内装は阪急タイプとなっていた。
#佐々木恭介と出会わなかったので史実ほどの成績は残せない。
#*現実の10系は試作車と同じく20系を名乗っていたかも(北急2000形と車番が被るころが改番の理由だったので)。その場合北急の車両が1000形を名乗っていた。
#*初代ポールスターこと8000形は登場せず、2010年代に入って9000形に置き換えられていた。
#千里ニュータウンの発展が現実よりも遅れた。
#もし大阪万博の開催がなかったか、あるいは史実(1970年)よりも遅れていたらこうなっていたかもしれない。
#*もし前者だったら運賃は現実よりも高くなっていた。


;オリックス
;千里中央~箕面萱野が1990年代に開業していたら
#1年目に育成成功していたら谷は他球団に指名されていた。
#8000形ポールスターがさらに増備されいてた。
#2学年上の福留宏紀と区別するためスコアボードでは「福留孝」と表記される。
#*御堂筋線で見かける機会も多くなり、現実ほどレアな存在ではなくなっていた。
#2000年代前半にメジャー移籍したか、山崎武司とトレードされていた。
#*9000系電車の登場は史実通りだが、登場は史実よりも遅れていた。
#箕面市東部地域や彩都の開発が現実よりも進んでいた。
#*彩都の開発はあまり関係がないと思うが…
#阪大箕面キャンパスの箕面船場地区移転が現実よりも早まっていた。
#*統合前の大阪外国語大学時代に移転していたかもしれない。
#*1979年にできた校舎であるので、そう早く移転することはなかったと思う。
#みのおキューズモール(旧ヴィソラ)の来客数が現実よりも多くなっている。
#*逆に千里中央地区が相対的に地盤沈下し、対抗のためセルシーは2018年の大阪北部地震以前に建て替えられていた。
#*みのおキューズモールの開業と109シネマズの開館が史実よりも早まっていたかもしれない。
#**その際には、ダイエーが出店していたかもしれない。
#場合によっては、御堂筋線の10両化が史実よりも早まっていたかもしれない。
#阪急は、客離れを防ぐために、箕面線直通列車は今でも運行されていた可能性があった。
#当初の予定通りに、「箕面船場駅」になっていた。
#*2010年代になって、「箕面船場阪大前駅」に改称されていた。
#箕面市の人口が史実よりも増えていた。
#当社の情報誌である「ザ・ポールスター」がA4サイズに拡大していた。
#1996年に開業した場合、スルッとKANSAIの導入と同時期であった。


;ヤクルト
;千里中央~箕面萱野が1980年代に開業していたら
#岩村明憲は指名されていない。
#8000形電車は史実よりも多く増備されていた。
#池山隆寛の引退が早まっていた。
#*開業時に登場していた場合もあり得る。
#外野に転向した場合、真中満はレギュラーを獲れずじまいだった。
#御堂筋線の10両編成化が史実よりも進んでいた。
#*国際花と緑の博覧会が開催されていた1990年までに実現していた。
#大阪外国語大学は開業を見据えて、箕面市粟生間谷ではなく、箕面船場地区に移転していたか移転する時期が史実よりも早まっていた。
#*開業時は「箕面船場駅」だが、2010年代になって、「箕面船場阪大前駅」に改称されていた。
#阪急グループの主導によって、箕面萱野地区や箕面船場地区において、宅地開発が行われていた。
#*彩都も現実よりも早く開発されていた。
#阪急箕面線の梅田直通は早期に廃止されていた。
#*いや、阪急箕面線は箕面市の中心部を通っており、また、創業以来の路線でもあるから、梅田直通の列車はある程度維持されていたのではないかと。
#勝尾寺へ訪れる人が史実よりも多くなっていた。
#箕面市の人口が史実よりも増加し、2010年代か2020年代に中核市に移行していた。


;近鉄は
;千里中央~箕面萱野が2015年に開業していたら
#外れ1位で澤井良輔を再競合していたか?
#9000形電車は増備用として登場していた。
#当然「ヨッシャー」も話題にならず。
#*8000形電車の廃車は史実よりも遅れていた。
#まあ、どっちにしてもチームの状況はあんまり変わらなかったということで…。
#みのおキューズモールも開業に合わせて、リニューアル化されていた。


===原俊介(1995)===
;千里中央~箕面萱野が2000年代に開業していたら
この年、[[中日ドラゴンズ|中日]]は1位で福留孝介を指名して外し、外れ1位で原俊介を指名して外し、外れの外れ1位で荒木雅博を獲得した。原と荒木のその後の活躍の差は周知の通り。
#延伸開業に合わせて、みのおキューズモールが開業していた。
#増備車として、8020形電車か8050形電車が登場していた。
#9000形電車の登場は史実よりも4年程度遅れていた。
#箕面市北部にある水と緑の健康都市が延伸開業を見据えて、開発が進められていた。
#*箕面萱野と結ぶ路線バスが運行されていた。


#でも荒木は3位ぐらいで獲ってた。
===北神急行電鉄===
#*ちなみに2位は逆指名入団の門倉健。
;1985年
#どっちにしろ中村武志が健在だったので出番は無かった。
#神戸市営地下鉄西神・山手線が大倉山~新神戸間が開業したのと同時に開業した。
#小田幸平が中日に移籍しなかった。
#*同年開催されたユニバーシアード神戸大会に合わせる形にもなっていた。
#*落合監督は小田を高く評価していたので、いずれにせよ野口の人的補償でなくとも、原とトレードしてでも獲得していたと思う。
#ひょっとしたら、1986年4月にずれ込んで、開業していたかもしれない。
#7000系電車の登場は史実通り。
#*但しVVVFインバータ制御車ではなく、神戸市1000形と同じチョッパ制御車となっていた。
#*神戸市交通局1000形電車、2000形電車とともに、6両化されるのが史実よりも早まっていた。(史実では、1989年11月に実施された。)


===松坂大輔(1998)===
;1987年
※史実では西武に入団
当初の開業予定
;横浜
#神戸市営地下鉄西神・山手線が名谷~西神中央間が開業したのと同時に開業していた。
#少なくとも2002年~2004年・2006年の最下位はなかったかも。
#6000形電車は最初から6両編成で登場していた。
#*その他の年はともかく、'''2003~2004年'''はどんなに好投しても味方の貧打と中継ぎの乱調に足を引っ張られ、勝ち星がなかなか付かずに[[横浜DeNAベイスターズ|横浜]]の順位は変わらなかったと思う。
#**04年の場合打線だけ見れば優勝してもおかしく無いレベル
#*マルハがTBSへ株式を売却するところまでは現実通りあったとしても、DeNAへの身売りはなかったかもしれない。
#*その分阪神が現実よりも苦戦したかも。2003年と2005年のどちらかはリーグ優勝できなかったかもしれない。
#背番号は1998年当時空き番だった17(過去に斉藤明夫らが使用)か27(平松政次らが使用)だった。
#横浜高校から横浜ベイスターズに入団したことから「ミスター横浜」という異名がつけられる。
#古木克明は(第一志望の)ダイエーに入団していた。
#*古木が小学校の卒業文集に「絶対に行きたくない球団は大洋」と書いていたことが話題にされることもなかった。
#**逆に「行きたい球団はダイエー」と書いていたと話題にされていた。
#史実通りの時期にポスティングでメジャー入り。
#99~01年の間に横浜がもう一度優勝できていた可能性もある。ただしいずれポスティングでメジャー移籍した後は史実通りの暗黒時代へ。
#*優勝できていた場合、[[もしあのプロ野球球団の監督が○○だったら#権藤博(横浜)|権藤監督は辞任せずに済んだかもしれない。]]
#99年には「新人にして開幕投手」の大偉業を達成し、この年まで在籍していた大魔神と組んで連覇を達成。ただし以後孤軍奮闘の末メジャーに移籍することになる。
#三浦と共に先発の柱で「W大輔」と間違いなく呼ばれていた。
#セリーグでは打席に立つため攻撃面でも大きく貢献した。


;日本ハム
{{DEFAULTSORT:へつのとしにかいきようきんき}}
#北海道移転前に1回くらい優勝していた。
[[カテゴリ:歴史のif検討委員会 鉄道路線史]]
#06年奇跡の日本一を手土産にメジャーへ…
[[カテゴリ:もしも借箱/鉄道路線]]
#背番号は広瀬哲朗が引退して空き番になっていた1(史実では同年ドラフト5位の阿久根鋼吉が着ける)だった。
[[カテゴリ:近畿地方|もしあのてつとうろせんかへつのとしにかいきようしていたら]]
#入団拒否→社会人入り、の可能性も…
#父の出身地である[[稚内市]]で主催試合が行われた。
 
===新垣渚(1998)===
※史実ではオリックスの指名を拒否
;ダイエー
#無論オリックスの三輪田スカウトは自殺していない。
#暴投記録更新は史実通りかも。
#*2011年頃にはトレードされていたか、戦力外になっていた可能性もある。
#2002年のドラフト会議で、多田野数人氏を指名していた可能性が高い。
#1999年に新人王を巡って、西武の松坂大輔氏と争っていた。
 
===田中賢介(1999)===
;中日
#荒木か井端のどちらかが完全に外野に転向することになっていた。
 
==2000年代==
===寺原隼人(2002)===
※史実ではダイエーに入団。
;共通する事
#ダイエー以外はセ球団(中日・巨人・横浜)からの指名だったため公式戦で近鉄と対戦する事が無く、何らかの形でソフトバンクに移籍したとしても13球団勝利は達成できていない。
 
;巨人
#2003年の巨人投手陣の成績が少しだけまともになっていたかもしれない。
#ソフトバンクへのトレードもなかったかもしれない。
#*寧ろ、小久保裕紀と交換で移籍していた。
 
;横浜
#2016年現在、横浜生え抜き投手として活躍していた。
#FAでソフトバンク行きか、多村仁志の復帰時にトレードで交換要員になっていた可能性も。
#*そもそも多村仁はトレード放出されなかった。或いは、ソフトバンク以外の球団に放出されたかも。
 
===陽仲壽(陽岱鋼)(2005)===
*関連項目:[[もしプロ野球であの事件が起きなかったら#2005年高校生ドラフトでの交渉権間違いがなかったら|2005年高校生ドラフトでの交渉権間違いがなかったら]]
;ソフトバンク
#史実通り外野手に転向して活躍していたら、長谷川勇也・柳田悠岐・中村晃のいずれかはブレイクしていなかった。
#*柳田は地元の広島に指名されていたかも。
#ショートのままだった場合、川崎宗則の渡米まで活躍できなかった。
#*今宮健太を獲得していなかったかも。
#史実通り同じ年に実の兄の耀勲も入団していたら、同一球団所属の兄弟選手として現実以上に話題となっていた。
#*この場合、名前の読みは兄と揃えて「ヤン・チョンソ」としていた。
 
===田中将大(2006)===
※史実では楽天に入団
;全部に共通すること
#1年目から活躍し、新人王を取る可能性はまず無かった。
#2009年も楽天はBクラスだった。
#*2013年もリーグ優勝はおろか、Aクラスに入れたかどうかも微妙。
#2013年に24連勝無敗の偉業を達成することはなかった。
 
;日本ハム
#投手陣が充実していたため1年目から先発は無かった。
#斎藤佑樹は指名しなかった。
#吉川光夫は(大嶺祐太が史実通りなら)地元ソフトバンクの外れ1位として指名されていた。
 
;オリックス
#一応、出身地なので大いに歓迎された。
#もしかしたら2008年はリーグ優勝、2011年もクライマックスシリーズ進出を果たしていた。
#里田まいとは結婚していなかったかも知れない(日ハムは彼女の出身地、横浜も在京球団ということで出会いの接点はありそうだがここの場合は…)
#*その代わりに他の女性芸能人、もしくは在阪局の女子アナあたりが結婚相手だったかも?
 
;横浜
#1年目から先発で投げれていたが楽天と違ってチーム状態がアレなのでそんなに勝ち星は挙げられなかった。
#広島の前田健太とは同学年なので非常に強力なライバル関係になっていた。
#*同郷の巨人・坂本勇人の対決も注目されていた。
#2013年以降もDeNAに残留していた場合、2017年以降は番長から背番号「18」を引き継いだ。
 
===堂上直倫(2006)===
;巨人
#相思相愛だった中日ファンから「立派に育ってFAで中日に来い!」とエールを受ける。仮にそれが実現していれば巨人にとって駒田以来2人目の生え抜き選手FA他球団流出となった。
#坂本勇人は外れ1位で中日が獲得していた?
 
;阪神
#野原将志を獲得することはなかった。
#甲子園で活躍したヒーローだが思うような実績を残せない…?
#*小林宏之をFAで獲得の際の人的保障でロッテへ、となっていたかも(史実では高濱卓也)
 
===中田翔(2007)===
※史実では日本ハムに入団
;全部に共通すること
#1軍に入れてた?
#*他の3球団はレギュラーが固定されていて、割り込むのが困難だっただろう。結局日本ハムが一番マシだったということになる。
#野手ではなく投手として指名されていたら?
 
;阪神
#福留は阪神に入団していなかっただろう。
#*福留は鹿児島出身なので、地元九州のソフトバンクに入団。
#*古巣中日への復帰もあった。
#本拠地が天然芝の球場になるので膝を痛める事は無く今でもレフトを守っていたかも。
#2020年に岡本和真と並ぶ本塁打王(を含む)と打点王による二冠王になっていた。
 
;ソフトバンク
#ドラフトでの柳田悠岐の指名と長谷川勇也、中村晃のブレイクはなかった可能性も。
 
===大田泰示(2008)===
※史実では巨人に入団。後に日本ハムへトレード。
;ソフトバンク
#巨人の外れ1位はもちろん長野久義。
#大田は指名を拒否して[[東海大学]]に進学していたかも。
#*その場合、巨人が2011年に菅野智之を外していたら更に悩ましいことに。
#結局は史実とあまり変わらず、か?
#*史実より一軍出場は多かったと思う。
#巨人の背番号55は空き番号のまま。
#*間違いなく松井の国民栄誉賞受賞を持って永久欠番になっていた。
 
==2010年代==
===斎藤佑樹(2010)===
※史実では日本ハムに入団
;東京ヤクルト
#神宮のヒーローが帰ってくると大盛り上がり!
#神宮での初登板は、大フィーバーとなっていた。
#かつての荒木大輔の「大ちゃんフィーバー」を超える「佑ちゃんフィーバー」が起こっていた。
#史実で外れ1位で入団した山田哲人はクジの競合相手だったオリックスへ。
#*その結果、2014年のオリックスはリーグ優勝を達成し、2015年のヤクルトはリーグ優勝を逃していた。
#*高校時代と同様、先輩にちなんで「T-山田」と呼ばれていた。
#*オリックスは、翌年山田とポジションの被る安達了一を指名しなかった。
#**西野真弘の指名もなかった。
#*オリックス入団の場合でも史実のようにトリプルスリーを達成するような選手にまでなれていたかどうか?という部分はあるが、少なくともレギュラークラスで活躍していたのは間違いないだろう。
#*それでも史実の1位指名だった駿太は他球団が指名しなければ2位以下で獲っていたはず。
#斎藤は群馬県出身なので、ヤクルトの主催試合が前橋(敷島球場)で行われていた。
#1年目から活躍できていれば、2011年にヤクルトが優勝出来ていた。
 
;ソフトバンク
#大先輩の王会長のもと、英才教育が施される。
#ただ、活躍できなかった場合はとことん出番がなかったと思われる。
#*最悪の場合育成契約になっていた可能性も。
 
===山田哲人(2010)===
;オリックス
#オリックスは2011年はクライマックスシリーズ進出を、2014年には18年ぶりの優勝を果たしていた。
#一方、ヤクルトの2015年は良くてAクラスになっていた、
#*日本シリーズに進出できても、ソフトバンクに4連敗していたと思われる。
#尽く高卒野手が育たないオリックスなので、史実通り育っていない可能性も多分にある。
#駿太は他球団か2位以下でオリックスに入団していただろう。
#*他球団の場合は登録名を「駿太」にせず、本名フルネームの「後藤駿太」だった。
#*他球団の場合は、背番号繋がりでローズと関連付けられることもなかった。
 
===菅野智之(2011)===
;巨人
#それでもアンチ巨人からのバッシングは必至だが、史実よりはマシになっていた。
#当然ながら浪人した時以上に実戦勘は研ぎ澄まされてはいるだろうから、新人王を取っていた2013年(13勝6敗)よりもさらにえげつない成績を残したかも。
#*巨人は史実以上に大差をつけてセ・リーグを制覇していた。
#**CSにおける初戦からの3連敗もなかった。
#*となれば、2012年の新人王は野村祐輔ではなく菅野だった。
#日ハムの外れ1位はいったい誰になっていただろうか…。
#*松本剛を1位指名し、その他選手も史実通り順位を繰り上げる形で指名していた。
#この年の巨人の外れ1位松本竜也はどうなっていたか。
#*巨人と競合した横浜に入団していた?<!--その場合2015年の野球賭博には関与しなかったのでは?-->
#**DeNAだった場合、2014年オフに自由契約になっていた可能性もある。
#2012年に大累進を指名することも無く、日本ハムへ入団したと思われる(史実でもトレードで日本ハムへ移籍)。
#翌年、巨人の1位指名は誰になっていただろう?
#*東浜巨か藤浪晋太郎を指名していたか、或いは指名拒否覚悟で大谷翔平かもしれない。
#*2位で獲得候補だった鈴木誠也かも。
#背番号は最初から「18」を付けていた。
#*杉内俊哉は「21」あたりか。
 
===藤岡貴裕(2011)===
※史実ではロッテに入団。後に日本ハム→巨人へトレード。
;横浜
#高城俊人・白崎浩之と共にオリックスへ移籍していた。
#*少なくてもトレードでたらい回しにされる事は無かったのか?
#プロ入り後の活躍度合いは微妙だが、少なくともこの年の横浜のドラフトが『嫌がらせドラフト』と呼ばれる事は無かった。
 
===藤浪晋太郎(2012)===
※史実では阪神に入団
;ヤクルト
#ライアン小川を抑えて新人王を獲得出来たかも。
#石山は指名されなかった。
#*その場合、2018年のヤクルトは交流戦優勝を逃しシーズンもAクラスに入れたかどうか微妙な所。
#2013年のヤクルトは最下位を免れていた。
#*2015年も日本一になれていた。
 
;ロッテ
#2013年に楽天を抑えてリーグ優勝あるいはCS優勝・日本シリーズ出場を果たしていたかも。
#*もちろん田中マー君の連勝を止めていた。
 
;オリックス
#史実の阪神と同様、地元の星として歓迎され注目される。
#2014年にリーグ優勝出来ていて、15年以降もまともな成績を残している。
 
;阪神のその後
#2013年以降も低迷を続けていて、14年のCS優勝もなかった。
#*西岡や福留も移籍してこなかった場合尚更。
#*和田豊の監督退任が早まっただろう。
#和田豊が当たりくじを引けなかった分手のひら返しもないので、2012年のチームの不振を引きずるファンが現実より多かった。
#西岡との大阪桐蔭OBコンビもなかった。
 
===石川歩(2013)===
※史実ではロッテに入団
;巨人
#ロッテは小林誠司(史実の巨人1位)を指名か。
#*そうなった場合、某所で「肘」と呼ばれることはなかったかも。
#巨人ではヒゲは禁止なのでイメージがガラリと変わっていた。
#「セ・リーグには行きたくなかった」と入団後のインタビューで語っているので入団拒否した可能性も(本人は子供の頃から大の中日ファン)。
#*その場合、翌年のドラフトで中日が単独1位指名。
 
===松井裕樹(2013)===
※史実では楽天に入団
;DeNA
#地元出身選手の指名で大フィーバー。
#当時は金城龍彦が所属していた為、入団当初の背番号は「1」ではない。
#*史実通りに金城が退団した場合、活躍次第で与えられたかも。
#史実通り抑えとして定着した場合、山﨑康晃は新人王を獲れなかったかも。
#石橋杏奈との交際→結婚は史実通り?
#史実の外れ1位だった柿田裕太は阪神か日ハムへ。
#楽天の外れ1位指名で岩貞祐太を指名した可能性も。
 
===山﨑康晃(2014)===
※史実ではDeNAに入団
;阪神
#呉昇桓が中継ぎになっていた。
#「小さな大魔神」と呼ばれることはなかった。
#横浜DeNAの抑えは三上朋也のままだった。
#ヤスアキジャンプをやることはなかった。
#そもそも最初からリリーバー起用を行っていたか疑問。
#*「先発ローテの一角を任される康晃」も多分にあったかもしれない。
 
===高山俊(2015)===
※史実では阪神に入団
;ヤクルト
#オリックスから坂口智隆を獲得することはなかった。
#河載勲は契約されていなかった。
#*背番号は「00」を背負っていた。
#**山田哲人の後を受けて「23」かも。
#***大成していた場合、青木復帰はなかった。
#真中監督の「幻のガッツポーズ」がネタにされることもなかった。
#阪神は外れ1位で誰を指名していたのやら?
#*同じ外野手のオコエ瑠偉を指名し楽天と競合していた可能性も?
#**そちらも外していた場合、坂本誠志郎が1位指名されて以下の選手の順位が繰り上がったか重信慎之介(史実の巨人2位)辺りを指名してお茶を濁していた。
#*逆に原樹理(史実のヤクルト外れ1位)を指名していたかもしれない。
#*競合回避或いは外れ1位候補といわれていた上原健太かも。
#2016年シーズンの阪神は現実以上の苦戦を強いられていた。
#*「超変革」の目玉選手が1人減っていた。
#*阪神とヤクルトの順位が逆になった可能性がある。
 
===柳裕也(2016)===
※史実では中日に入団
;DeNA
#DeNAが2017年のポストシーズンで史実通りの善戦が出来たかは微妙。
#*但し、2位以下でも濱口遥大の指名に成功していたら別。
#球団通算4000勝になった際の勝利投手になっていた。
#今永昇太、濱口遥大、大貫晋一、石田健大、平良拳太郎による令和ベイスターズ投手王国を築いていた。
#入団3年目の2019年に最優秀防御率を獲得した。
#中日は次の指名でやはり他球団と同じく佐々木千隼だっただろうか。
#*そちらも外した場合、京田陽太が1位指名されて以下の順位が繰り上がっていたか吉川尚輝(史実の巨人1位)を指名して競合していた?
 
===清宮幸太郎(2017)===
※史実では日本ハムに入団
;ヤクルト
#王柏融(北海道日本ハム)が球団通算8000本塁打になっていた。
#史実の外れ1位だった村上宗隆はクジの競合相手だった巨人か楽天へ。
#*清宮を外した日ハムが村上を指名→クジを引き当て史実とは所属球団が逆になっていた可能性も。
#高校時代より通い慣れた神宮球場でホームランを量産していただろう。
#村上に代わって史実より多少は活躍出来ていたかもしれない。
 
;巨人
#背番号は「55」を背負っていた。
#岡本和真のブレイクが遅れていた可能性がある。
#*岡本は三塁かレフトを守っていた。
#オリックスから中島宏之を獲得することはなかった。
#阿部慎之助は400本塁打を打てずに引退していた。
 
;阪神
#甲子園のヒーローが帰ってくると大盛り上がり!
#*甲子園での初出場は、大フィーバーとなっていた。
#2018年の阪神は最下位を免れていた。
#背番号は「31」を背負っていた。
#*著書でこれを提唱していた遠藤章造が喜ぶ。
 
;ソフトバンク
#大先輩の王会長のもと、英才教育が施される。
#背番号は「3」を背負っていた。
#*松田宣浩は史実より1年早く背番号を「5」に戻していた。
#2018年のレギュラーシーズンはリーグ優勝できていた。
#*このチームの育成方針を考えると、1年目から一軍出場できなかった可能性も高いので結局同じかも。
 
===村上宗隆(2017)===
※史実ではヤクルトに入団
;楽天
#球団初の開幕6連勝で波に乗り、令和になって初のパ・リーグ優勝した後、その年の日本シリーズで4タテ(史実ではソフトバンク)による日本一になった。
#*35本塁打で、令和になって初のパ・リーグMVPを獲得した(入団2年目によるMVPは、稲尾和久投手(57年 元西鉄)・杉浦忠投手(59年 元南海)で、打者は史上初)。
#2019年のセの新人王は近本光司が受賞した。
 
===馬場皐輔(2017)===
※史実では阪神に入団
;ソフトバンク
#飯田優也(ソフトバンク)・松田遼馬(阪神)によるトレードは破談していた。
 
===根尾昂(2018)===
※史実では中日に入団
;日本ハム
#「大谷2号」として、注目されていた。
#先輩の中田翔氏から可愛がられていた。
#吉田輝星氏は指名されることはなかったかもしれない。
 
===藤原恭大(2018)===
※史実ではロッテに入団
;楽天
#浅村栄斗氏が移籍することはなかったかもしれない。
 
;阪神
#地元のスター選手として注目されていた。
#史実の1位指名入団である近本は他球団が指名していた。
#*2019年の阪神はAクラスになれなかった可能性が大。
#**もしロッテが近本を取り史実レベルに活躍した場合、ロッテがAクラスになっていたかも。
 
===小園海斗(2018)===
※史実では広島に入団
;DeNA
#遊撃は大和がレギュラーだったため1年目から史実通りに試合に出られたかは微妙だが……。
#*仮に史実通りに試合に出ていた場合、倉本寿彦、石川雄洋、中井大介の出場機会は史実より少なくなり、柴田竜拓のブレークもやや遅れた。
#*1年目から遊撃以外の守備位置での出場機会があったかも。
#宮崎敏郎が所属していたため、背番号は「51」では無い。
#*多分、白崎浩之のトレード移籍で空き番号となっていた「6」を付けていた。
#翌年のドラフトで森敬斗がDeNAに1位指名されることは無かったかも。
#上茶谷大河は根尾昂を外したヤクルトが一本釣りか。
 
===佐々木朗希(2019)===
※史実ではロッテに入団
;楽天
#千葉ロッテから涌井秀章氏が金銭トレードで獲得することはなかった。
#背番号は「18」を背負っていた。
 
;日本ハム
#背番号は「11」を背負っていた。
#同じ岩手県の高校から日本ハムに入団したこともあって、名実共に「大谷2世」として、大注目されていた。
#監督の栗山英樹氏から可愛がられていた。
#*「朗希」と下の名前で呼ばれるのは確実だろうな。
 
==2020年代==
===佐藤輝明(2020)===
※史実では阪神に入団
;ソフトバンク
 
===早川隆久(2020)===
※史実では楽天に入団
;ロッテ
 
[[category:歴史のif検討委員会 日本プロ野球史|とらふとちゆうせん]]

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