もしイチローが○○だったら
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中日にスカウトされていたら
中日は高校時代のイチローを投手として評価しスカウトしに行きましたが投手としての評価が低かったため採用を見送りました。
仮に中日が打者としてイチローを注目しスカウトしていたら
- 少なくとも中日は90年代(松井が居た頃)の巨人最大の壁になっていた
- 松井在籍時の巨人が4回のセリーグ優勝は果たせたか如何か微妙・・・
- 94年の優勝はドラゴンズだった。
- イチローvs古田&野村監督の対戦も増える。
- 1996年も優勝していた。
- イチローが居なかったので当時のオリックスが優勝、日本一に輝け無かったかも
- 仰木彬監督が名将と呼ばれることは無かった。
- 地元名古屋出身と言う事で一躍スターに
- 中日が日本一に輝いていた可能性もある
- 中日の日本一を土産にメジャーに挑戦、大多数の名古屋市民の見送りの元イチローはアメリカへ出発する。
- 登録名はイチローではなく「鈴木一朗」(表記は「鈴木」or「鈴木一」)だった。
- 星野「鈴木はワシが育てた」が現実に。
- 飄々とした性格が星野の逆鱗に触れて干されていた。
- 星野「鈴木はワシが育てた」が現実に。
- 背番号はドラゴンズでも「51」
- ちなみに「51」はドラフト同期でドラゴンズに入った井手元がつけた
- 横浜戦で鈴木尚典との対決が注目を集める。
- 京田はおそらく「51」を付けなかっただろう。
- 1995年から背番号がおそらく「6」に変わっていた。(ちょうどこの年は空き番だった)
- 案外そこまで脅威的なバッターに育つことはなかったかも。当然、NPBの最多安打記録は、ラミレス(ヤクルト→巨人)。MLBのそれはジョージ・シスラーのまま。レベルで言うと、ヤクルトの青木レベル。
- 92-93年は落合と在籍が被るので目に留まり指導を受けて同じような成績を残す可能性も。
- レギュラークラスになるにはナゴヤドーム移転まで待たなければならなかった。
- 初の200本安打は青木宣親。
- 福留入団後トレードで他球団に放出されたかも。
- 福留は入団時はショートで外野に本格的に転向したのがイチローがメジャーに行った後。
- すぐに一軍に上がってそこそこ働いてしまうため、史実のように二軍でじっくり振り子打法を完成させる期間はなかったのでは。
- 中日でも打法についてコーチと衝突する。
- 1990年代における中日人気が現実よりも高かった。
- 当時の阪神は暗黒時代の最中にあったことから「伝統の一戦」は中日vs巨人と言われるようになっていた。
- 『ドカベン プロ野球編』では史実とは逆に殿馬が中日、影丸がオリックスに入団していた。
- イチローが殿馬との共演を望んだ故に御大が殿馬をオリックスに入団させたらしいから、これに関してはイチローの入団した球団次第とも言えるだろう。
- もちろん「燃えよドラゴンズ」の歌詞にも登場していた。
- 関川か李鍾範は中日に入団しなかった。
- ミスタードラゴンズ立浪和義とのコンビは、TS砲もしくはTI砲として親しまれていた。
- 本拠地がナゴヤドームなので日本でも本塁打がほぼ打てなくなり、MLBの時のようなあへ単になっていた。
- そのため、メディアが持ち上げる一方で野球通の間では早打ちあへ単が批判されていただろう。
- ただし、守備指標が発展してからある程度再評価される。
- アライバイチローと長打が少ないタイプが1ー3番まで埋めるのはヤバイので、荒木は下位打線に回されることが多くなっていたかも。
- ただし、守備指標が発展してからある程度再評価される。
- そのため、メディアが持ち上げる一方で野球通の間では早打ちあへ単が批判されていただろう。
野手に転向しなかったら
登録名が変更されなかったら
鈴木一朗外野手は、オリックスブルーウェーブ所属時の1994年、仰木彬監督に薦められて「イチロー」と改名しました。もし鈴木選手が改名されなかったら…
- 非常に平凡な名前であるため、いくぶんかは知名度が下がった。
- メジャーで活躍する選手の知名度はゴジラ松井→鈴木の順だった。
- 成績を考えるとそれはありえないと思うが?
- メジャーで活躍する選手の知名度はゴジラ松井→鈴木の順だった。
- 後に鈴木平が入団するため、スコアボードの表示は「鈴木一」に。応援団内では「イチロー」の呼称が普及。
- 一部では「スズキー」とネタにされる。
- メジャーリーグでも「Suzuki」の名で登録されていた。
- どっちみち「イチロー」と呼ばれることは変わらないってことか?
- 阪神での「中村豊」のようにファンの間での愛称だけ。特定チームファン以外は「鈴木」と呼ばれてただけだろう。
- 仰木監督が同時期に変更させた「パンチ佐藤」も生まれなかった。
- 登録名の「パンチ」が実現しないだけで、パンチ佐藤の愛称(あだ名)はそれ以前からあったので生まれないということはない。
- 大村三郎も「サブロー」に変更しなかったかもしれない。
- そうなれば、ロッテの本拠地「QVCマリンフィールド」での、あの名物アナウンスも無かった。
オリックスに残留していたら
2011年以前にヤンキースに移籍していたら
イチローはフリーエージェント権を取得した際、ニューヨーク・ヤンキースへの移籍が噂になっており、一方でヤンキースがマリナーズにトレードを打診していた事実も明らかになっていました。もし、ヤンキースに移籍していたら・・・。
- なお、現地時間2012年7月23日にイチローはマリナーズからヤンキースへ移籍しましたが、これはマリナーズ球団とイチローとの合意によるものですので、本項ではこの件は関係無い事とします。
- 戦力的にヤンキースにフィットしていたら、チャンピオンリングを手にしていたかもしれない。
- というか十分活躍してヒット数を伸ばしていたかもしれない(打席がよく回るようになって)。
- 松井秀喜がトレードに出されていた可能性も十分ありえる。
- 2005年オフの移籍だったら球団の意向でWBCに参加せず、日本の優勝もなかった。
- そのかわりイチローが変な因縁をつけられて怒ることもなかった。
1998年7月9日のロッテ戦の6回裏で満塁ホームランを打っていたら
1998年7月9日、ロッテと戦ったオリックスは5回が終わった時、9-1で負けていましたが、6回裏で8本のヒットで5点を獲って9-6にし、1アウト満塁でイチローが登場しましたが抑えられました。もし、イチローが満塁ホームランを打っていたら?
- 9-10でロッテが逆転負け、そして、19連敗。
- 20連敗を達成していたかもしれない。
- イチローがロッテファンに恨まれていた。