ざんねんな歴史上の人物事典/日本/大正時代~太平洋戦争

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  • 1900年以前に生まれた人物でお願いします。
  • 以下は出来る限り年代順に並べていただくと助かります。

大正時代~太平洋戦争

山本権兵衛

  1. 桂太郎の退陣後と関東大震災直後の2度首相を務めているが、そのどちらも短期で政権が崩壊している…。
    • 1回目はシーメンス事件の責任を、2回目は虎ノ門事件の責任を問われた。
    • 一応、第一次桂内閣の海軍大臣であり、日露戦争を指揮した海軍のトップだったから、海軍軍人としての評価は高いんだけどね…。

原敬

  1. 爵位をもらわなかったため「平民宰相」と呼ばれたが、実は(賊軍とはいえ)盛岡藩の家老の子供でありなかなかのボンボンである。
    • 足軽出身でありながら名誉欲が非常に強かった山県有朋とは対照的。
    • ちなみに爵位を拒否した理由は賊軍出身だったため。(原が首相になる前は薩長の連中が政府の中枢に沢山いた)
  2. 国民からの人気は高かったが、亡くなるまで普通選挙には反対していたなど結構腹黒い面もあった。
    • また、小選挙区制を導入したのも原が所属する立憲政友会に有利になるようにという理由からである。
  3. 最期は東京駅で暗殺された。
    • が、その理由が非常に「ざんねん」過ぎる…。原を暗殺した鉄道員の中岡艮一が上司の橋本栄五郎と政治の話(原批判が中心)をしており、その中で橋本が「腹を切れ」(責任を切れ)と言ったのだが、中岡が「腹」を「原」と勘違いしたために暗殺事件が起こった。
  4. 地方の鉄道網などの交通インフラ整備は大きな功績だが、同時に金権政治だとして批判も多かった。

高橋是清

  1. 財政家としては非常に評価の高い人物。しかし総理大臣としては並以下の評価である…。
  2. 横浜英語を身に付けたのは良いが、英語以外の悪い習慣まで身に付けてしまった。10代のうちから酒を飲むようになっていたのである。
  3. アメリカに留学した際にある書類にサインしてしまったのだが、それが不幸なことに「奴隷契約書」だった。
    • 奴隷として働かされる日々が続いたが、何とか脱出&帰国に成功した。
    • ちなみに是清本人は自分が奴隷だと思っておらず、あくまで「将来のためのキツい勉強をさせてもらっている」と思っていたらしい。
  4. ペルーの鉱山を開発して一攫千金を狙ったが、その鉱山が既に掘り起こされており廃坑になっていた。そして借金まみれに…。
    • 逆に言えばこの大失敗の経験があったからこそ、後に「財政の神様」と呼ばれるほどの功績を残すようになったのかもしれない…。
  5. ケインズよりも先に積極的財政政策を実行した人物であり本来ならば世界的偉人であってもおかしくないレベルなのだが、その割に海外での知名度が低い人物である…。
    • ちなみにケインズも是清もノーベル経済学賞が創設される前に亡くなっている。
  6. 世界恐慌から日本経済を復活させたと言われるが恩恵を受けたのは都市部が中心であり、地方の農村にはあまり効果が無かったと言われている。
    • それで地方出身者の怒りを買った。ちなみに陸軍軍人の殆どは地方の農家出身。
      • 軍事費を削減したことによって軍人が実家に仕送りすることが難しくなったと言われている。
  7. 二・二六事件で暗殺されてしまったが、肥満だった上に亡くなった時点で82歳という高齢だったためにあまり同情されなかった。
  8. 是清が亡くなったことによって軍部の暴走がさらにエスカレートしてしまった。その意味でも「ざんねん」である…。
  9. 仙台藩士の養子として育てられたが、是清本人は江戸(東京)生まれ江戸育ちのため、宮城県出身の首相として数えられることはほとんど無い。
  10. 他人の顔や名前を覚えるのが苦手という、政治家としては致命的な欠点があった。

田中義一

  1. 昭和天皇にメチャクチャ怒られたことでメンタルを壊し首相を辞任し、その後まもなく持病の心臓病の悪化で亡くなった人物。
    • 昭和天皇が激怒した理由は「関東軍が張作霖爆殺事件に関与した疑いがあったにもかかわらず、田中内閣が調査に乗り出したのが遅かったため」。
      • ちなみに昭和天皇は「自分が田中を厳しく叱ったことが内閣総辞職どころか田中の死に繋がった」と後悔しており、それ以降は政治に不満があっても一切口を挟まないように決めたという。
    • 幣原喜重郎の協調外交を転換し、積極外交に方針を変えた首相である。
  2. 政治家としては評価が低いが、人柄は良かったらしい。
  3. タモリこと森田一義氏の名前は田中義一が由来。
  4. 同姓の田中角栄元首相に比べて知名度が低い。

犬養毅

  1. 平和主義者だったと思われがちだが、野党時代は軍部とグルになって与党(浜口雄幸内閣)を攻撃したことがある。
    • 鳩山一郎と共に統帥権干犯問題に火を付けた人物である。
      • 軍部が統帥権の利用価値に気付き、政治家からの批判を全て「統帥権の干犯」として押しのけるようになってしまい、結果として軍部の暴走を手伝ってしまった…。
    • しかも犬養は元々軍縮賛成派だったにもかかわらず、浜口のロンドン海軍軍縮条約調印に反対するだけのために軍縮反対派に寝返ったのである。
  2. 首相に就任した後は軍縮賛成派に戻ったのだが、それが軍部の怒りを買って暗殺された。五・一五事件である。
    • しかも国民が同情したのは犬養ではなく軍部だった…。
  3. 毒舌が多かったために敵が多かった。
  4. シチューや油っこいパンが大好物だったが、妻が洋食嫌いだったために、家では食べさせてもらえなかった。
    • 理由は「家がバター臭くなるから」。

斎藤実

  1. アメリカ留学の際に「細身の体格」がコンプレックスとなり、太って体力をつけるためにビールをがぶ飲みしている。
    • 海軍軍人だった斎藤は体格を良くするためにビールを毎日大量に飲んだ。
      • 作戦は見事成功しました。
  2. シーメンス事件(ドイツの造船会社が日本海軍に賄賂を渡していた汚職事件)で当時首相だった山本権兵衛と海軍大臣だった斎藤が責任を問われ失脚に追い込まれた。
    • しかしそれでも何度でも復活した。
  3. 国際派の首相として期待されていたが、結局は満州国を承認し国際連盟を脱退したことで日本の孤立化を深めてしまった。そのため斎藤内閣の評価は低い。
    • ちなみに犬養毅が暗殺された後、犬養と同じ立憲政友会の鈴木喜三郎が首相になる予定だったが、陸軍が反対したため斎藤が首相になった。
  4. 軍部の中では比較的良識派だったのだが、最期は二・二六事件で暗殺された。(当時の首相は岡田啓介)
    • 首相退任後も昭和天皇からの信頼は厚く、内大臣に任命された。
    • ちなみに斎藤同様226で暗殺された高橋是清とは親友。斎藤、高橋共にアメリカ留学経験があり、英語力も非常に高かった。

廣田弘毅

  • 「広田弘毅」とも書く。
  1. A級戦犯として死刑になった7人の内の一人。その中で唯一の文官である。
    • 東条英機をはじめとする他6人は全て武官(軍人)であり、逮捕される直前に自決した近衛文麿や病死した松岡洋右に代わって「どうしても連合国が文官を一人死刑にしたかった」という理由で死刑判決を受けた悲劇の人物…。
      • 実際、連合国側の中にも「広田の死刑判決は不当である」と抗議した者も多かった。
  2. ただ、(死刑の是非は置いておいて)広田がやったことは実際かなり酷かったのも事実ではある。
    • 首相として就任した後、軍部の言いなりとなって軍部大臣現役武官制を復活させ、結果的に軍部の暴走を助長してしまった。
    • 外交官としては有能だったらしく首相になる前は協調外交を心掛けていたが、首相になってからは軍部(特に陸軍)の操り人形になってしまい、日中戦争にも協力してしまった。
      • かつて広田を尊敬していた部下も、広田が軍部に迎合するようになってからはかつての上司だった広田を見限っている。
  3. 平和主義者だったと思われているが、実は右翼団体「玄洋社」の社員だった。
  4. 実は昭和天皇からは近衛文麿と並んでメチャクチャ嫌われていた。そもそも昭和天皇は当時の右翼系の人間のことは例外なく嫌悪していた。

平沼騏一郎

  1. 右翼団体「国本社」を創設するほどの極右主義者。
    • 平沼と正反対のリベラル派・親英米派の西園寺公望とは犬猿の仲だった。
  2. 一応大東亜戦争が始まってからは同じく首相経験者であった岡田啓介や若槻礼次郎などと協力して東条内閣を倒そうとしている。そのため和平工作に尽力したと評価する声もある。
    • しかしその割には降伏反対も唱えており優柔不断で立場が一貫しておらず、昭和天皇からは厳しく批判されている。
  3. A級戦犯として終身刑になった。
    • 刑務所では深夜に大声で泣き出したり、「西園寺公望こそが国を誤った元凶だ!」などと叫ぶなど奇行が目立った。
      • 精神衰弱を理由に仮釈放され、その後すぐに亡くなった。
  4. 実は司法省の官僚としてはかなり有能だったらしく、犯罪者の指紋登録を考えたのは騏一郎である。

阿部信行

  1. 平沼騏一郎が退陣した後に「他に相応しい人間がいない」という消極的な理由で首相に選ばれた人物。
  2. 陸軍の中では良識派であり日中戦争の決着や協調外交を目指そうとしたが、反感を買って半年にも満たずに内閣総辞職。
  3. 一度はA級戦犯として連合国に逮捕されたものの、目立った罪状を見つけることができず、証拠不十分として釈放された人物。連合国から見ても影が薄い人物だったようだ…。
  4. 一応学生時代は成績優秀だったらしく、陸軍大学校卒業時には明治天皇から「恩賜の軍刀」を頂いている。政治家にさえならなければ後世の評価は多少はマシだったかも?
  5. 朝鮮半島では何故か安倍晋三元首相の祖父であると誤解されている(それも一般人だけでなく歴史学者にも…)が、血縁関係は全く無い。
    • ちなみに安倍元首相の父方の祖父は安倍寛、母方の祖父は岸信介元首相である。

米内光政

  1. しばしば山本五十六と並んで「海軍の平和主義者の一人」に数えられることが多いが、正直美化されすぎ。日中戦争を悪化させた責任や首相としての無能ぶりはあまり語られない…。
    • 百歩譲って大東亜戦争(太平洋戦争)についてはほぼ陸軍が悪いとしても、日中戦争に関しては海軍にも陸軍と同じくらい責任がある。
  2. 成績はあまり宜しくなく、学生時代はお世辞にも優等生とは言えなかったらしい。

松岡洋右

  1. 東条英機と並び「大東亜戦争で最も責任が重い重要人物の一人」と言われている。
  2. リットン調査団が満洲国を認めなかったため、松岡は国際連盟脱退を宣言。これにより日本の孤立化を招いた人物。
    • また、国際連盟では日本が常任理事国であったにもかかわらず抜けてしまったため、実質的に機能しなくなってしまい後の第二次世界大戦を防ぐことができなくなってしまったのである。
    • しかし意外にも当時のマスコミや国民は松岡を英雄として称えたのである…。
  3. 第二次近衛内閣では外務大臣として悪名高い日独伊三国同盟を締結した。
    • また、独断で日ソ中立条約を結んでいる。しかしナチスドイツが独ソ不可侵条約を無視してソ連に侵攻した際には、自分が結んだばかりの日ソ中立条約を無かったことにしてソ連侵攻を主張するというメチャクチャぶり…。
    • ちなみに第三次近衛内閣は暴走した松岡をクビにするためのだけに成立した内閣である。(戦前は首相が国務大臣をクビにすることができなかったため)
  4. A級戦犯として逮捕されるが、判決の直前で病死してしまう。
    • もし仮に病死していなかった場合、確実に死刑になっていただろうと言われている。また、もし松岡が死刑になっていたら広田弘毅は終身刑止まりで済んだのでは無いかと言われている。

近衛文麿

  1. 後述の東条英機と並んで「史上最低の首相の一人」に数えられることが多い人物。
    • 戦後生まれの人間だと「むしろ東条よりもイメージが悪い」って言う人も多いかも…?
  2. 血統の良さだけで持ち上げられた人物だったため、リーダーシップはまるで無かった。軍部の暴走を抑えつけることができず、日中戦争を泥沼化させてしまった…。
    • しかし(海軍の影響もあっただろうが)本心は平和路線を追求していたらしく、強硬派の松岡洋右をクビにしたりもしている。
      • たしかに日中戦争の責任者であったことは非難されるべきだが、それでも近衛本人はアメリカとは戦いたくなかったようだ。だから多少は同情の余地もある。ちなみに近衛内閣が崩壊したのは当時陸軍大臣だった強硬派の東条英機がゴネたため。
  3. 難局に遭遇するとすぐに投げ出す「弱い人物」と言われることが多い。
    • そのため昭和天皇からは東条英機以上に嫌われていた。
    • ちなみにその性質は孫の細川護熙氏にも引き継がれている。
  4. 日本の歴代宰相の中で最も若くして亡くなった人物。かつ死因が自殺である唯一の人物である。
    • 理由は「戦犯に指名されたことが恥ずかしかったから」。しかしそれでも「戦陣訓」を出しておきながら自分はそれに従わなかった東条英機よりはまだ「男らしかった」と言えるかもしれない…。
  5. きわめて裕福な家庭で育ったと誤解されがちだが、実は父親の近衛篤麿は多額の借金を背負っていたため、文麿は子供時代は貧乏な生活をしていたのだとか…。
  6. 西園寺公望が近衛を自分の後継者として育てようとしたのだが、西園寺が親欧米派だったのに対し、近衛はアジア主義者かつ社会主義に関心を持っていたため、上手くいかなかった。
    • 実際、晩年の西園寺は近衛を首相に指名したことを非常に後悔している…。
  7. 大東亜戦争開戦時の首相と言えば東条英機が有名だが、食料品の配給制度の導入や日独伊三国同盟の締結、大政翼賛会の創設などの戦時体制の確立は近衛内閣で行われている。
    • だからこそ近衛がアメリカと戦争をしたがっていたと誤解されがち…。
  8. 逮捕寸前で自決したため戦犯指定を免れたが、もし仮に東条同様自決に失敗していたら、確実に終身刑以上の判決になっていた。
    • 一応近衛は和平工作も少しはやっていたので、もしかしたら死刑は免れていたかもしれない。しかしやはり日中戦争の責任は重いので、良くて終身刑。
      • ただ広田弘毅が近衛や松岡の代わりに死刑になったことを考えると、やはり死刑になっていた可能性も低くは無かったと思う。
  9. アメリカとの関係が最悪のタイミングで首相を投げ出したため、「都合が悪くなるとすぐ逃げる人物」と後世からの評価は非常に低い。
    • ただこれは近衛本人だけでなく第三次近衛内閣の幹部だった東条のせいでもあるため同情する意見も多い。次に首相となる東条が自分で自分の首を絞めた結果(自業自得)とも言える。
      • 近衛「俺にはアメリカと戦争する自信が無い。自信がある奴がやってくれ!」
  10. 次の首相(東条英機)を決めるための重臣会議を、病気を理由に欠席している。前の首相だったにもかかわらず、である。
    • しかもこの会議、当時91歳の清浦奎吾ですら出席していたので、「その近衛の病気というのは老体の清浦より悪いのか?」と批判されている。

東條英機

  • 「東条英機」と書くこともある。
  1. しばしば「太平洋戦争(大東亜戦争)の直前で運悪く貧乏くじを引いて総理大臣になった人」と同情されることが多いが、その不幸の原因を作った最大の元凶がこの人であるということはあまり知られていない…。
    • 前任の近衛文麿内閣で陸軍大臣だったのが東条英機。対米戦争に反対していたと誤解されがちだが、事実はその真逆で、むしろ開戦を煽りまくった人。
      • しかも太平洋戦争の遠因にもなった日中戦争を強力に促進したのも東条英機。
      • そもそも首相になる直前まで強硬派のリーダー格だった人間が首相になってから急に平和主義者になるはずなどないと思うのだが…。
    • そもそも東条自身が好戦主義者だったため、「たまたまタイミングは悪かった」は当てはまらないと思う…。
  2. 「ヒトラーと違って独裁者ではない」という意見もあるが、その割には総理大臣だけでなく沢山の大臣を兼務。強力な権力を握っていた。
    • また、身内には甘い一方で、少しでも自分に対して批判的な人間に対しては容赦なかった。
      • 憲兵を使いまくって恐怖政治を行った。
        • 東條を批判した中野正剛は逮捕され、保釈直後に自殺した。松前重義は逓信省局長で勅任官であるにもかかわらず東條によって陸軍二等兵として召集令状がきて、南方に送られた。
        • 中野正剛の逮捕では側近から「証拠も無いのに逮捕できない」と難色を示されたが、強引に逮捕した形となった。
  3. 日本とアメリカの国力の差が非常に大きかったのは事実。にもかかわらず「根性さえあればアメリカも怖くない」と豪語するほどの重度の精神論者。
    • 東条が重度の精神論者だったことを示すエピソード。「根性さえあれば1+4=80にもなり得る!」と発言し、「致命的に算数ができない首相」と揶揄された。
      • これは「東条英機の算術」とも呼ばれ、戦時下の松下電器産業の社内スローガン「2+2=80」のモデルにもなった。
  4. 「極東国際軍事裁判(東京裁判)で昭和天皇を守ったヒーロー」と言われることがあるが実際には東条は全く関係なく、東条がいなくても昭和天皇はアメリカの強い意向で無罪が確定していた。
    • それどころか東京裁判で「我々日本人は誰もが天皇の命令に従わなければならない」という超弩級の失言もかましている…。
      • 田中隆吉が東条を説得し、アメリカが東条の失言を撤回させたため事なきを得たが、この東条の失言によって昭和天皇を訴追したがっていたソビエト連邦や中華民国が態度を強めたのは事実であり、最悪の事態だと昭和天皇が死刑になってしまう可能性すらあった。
  5. 本籍地は岩手県盛岡市で本来ならば「岩手県出身の内閣総理大臣の5人目」と認められるべきなのだが、英機本人は東京都千代田区生まれなので、原敬や米内光政などと異なり岩手県では地元出身の首相とは認められていない…。
    • ちなみに英機の父親の東条英教が盛岡育ちである。
  6. 左翼どころか右翼ですらこの人を高く評価する人はほとんどいないという事実…。
    • 故・石原慎太郎氏ですら東条を酷評していた…。
    • 全方位からとにかく評価が低い人物である。
  7. 「昭和天皇からの信頼が厚かった」と言われているが、それは他の陸軍の面子がお粗末な報告しかしなかったのに対し、東条は細かいところまでちゃんと報告してくれるのでその点は見直したってだけ。
  8. 「東条は開戦回避のために努力した」と言う人がいるが、そんな記録は全く存在しない。海軍の山本五十六や米内光政などは残っているが。
  9. 「ボンボンの近衛文麿と違って東条英機は立派な人物!」と擁護する人が多いが、そういう人は「英機も陸軍中将の息子なのでボンボンである」ということに気付いていない…。
    • しばしばアドルフ・ヒトラーと比較されるが、ヒトラーは貧しい家庭で育ち最終学歴も中卒だったため、おぼっちゃまだった東条英機とは対照的である。
  10. 大東亜戦争の日本側の最高責任者であったにもかかわらず、米軍に逮捕される直前まで(自分が逮捕される可能性があることすら気付いておらず)「これからは戦後の平和な世の中に貢献したい」などと呑気なことを言っていたのだとか。
  11. 「東条英機が開戦を回避できなかったために皇居に向かって号泣した」という話が有名だが、孫娘の東条由布子氏(故人)による作り話である。
    • ちなみに由布子氏は結婚して一旦別の姓に変わったにもかかわらず、大好きなおじいちゃんの名誉を回復させるためにわざわざ東条姓に戻したらしいw
      • ただこれに関しては由布子氏が戦後、学校で壮絶ないじめを受けたというのもあるので、多少は同情の余地がある…、かも?
        • 「東条くんのお爺ちゃんは泥棒よりも悪いことをしました!」と当時の担任教師が言ったらしい。
  12. 政治家ではなく官僚としては有能だったらしく「カミソリ東条」のあだ名があるが、具体的にどんな功績があったのかを語れる人間はほとんどいない…。
  13. 「同盟国であるナチス・ドイツの手からユダヤ人を守ったヒーロー」と誤解されることが多い。それは杉原千畝氏だろ定期。
    • 陸軍では極寒の満洲でユダヤ人難民を救った樋口季一郎がいるが、見るに見かねての決断だった。ドイツは「樋口を処罰しろ」と猛抗議したが、当時樋口の上官だった東條がその処分を不問にしただけ、東條はユダヤ難民救出には関与していない。
    • とはいえナチスのユダヤ人虐殺に加担しなかったのも事実ではある。この点は普通に偉いと思う。
  14. 当時東大と並ぶエリート大学と言われた陸軍大学校を卒業しているが、実は留年を繰り返していたことはあまり知られていない…。
    • 部下の石原莞爾から「東條上等兵」と陰口を叩かれた
  15. 長州閥が大嫌い。
    • 理由は父親が長州閥の連中のせいで出世できなかったため。
  16. 史実では東京裁判で死刑判決を喰らったが、もし仮に東京裁判が無かったとしても上記の恐怖政治を行った罪などを問われて死刑になっていた可能性が非常に高い…。
    • 時々「東京裁判は連合国による復讐劇」だの「茶番劇」だの言って「東条英機は英雄だ!」と擁護する人間がいるが、そもそも東条は日本人から見ても「国賊」と呼ばれても仕方ない人物であり、「東条が始めた戦争で惨敗し餓死者が沢山出た日本で、日本人の代わりに連合国が東条を処刑してくれた」という考え方すらある。
  17. 歴代首相の中には「あいつはお粗末だった」と言われる人間が何人もいるが、実際に国を潰すレベルの大失態を犯してしまったのは東条英機だけ。
    • 「あの鳩山由紀夫氏や菅直人氏ですら、(少なくとも結果論で言えば)日本を焼け野原にした東条英機よりはマシだった」と言われる始末…。
  18. 悪名高い「戦陣訓」を出した張本人。
    • にもかかわらず英機本人は米軍にあっさりと逮捕されてしまった(笑)
  19. 靖国神社には一般の兵士の方々だけでなく東条英機など戦争指導者も一緒に祀られているが、果たして自称右翼さんたちは「不幸にも亡くなってしまった一般の兵士の方々が東条英機のことをあまり快く思っていない」ということを知っているのだろうか…。
    • だから歴代天皇は靖国神社に参拝しないのである。
  20. 「東条英機は昭和天皇の忠臣だった」という人がいるが、そもそも天皇陛下は開戦に反対していたし、その天皇陛下の反対を押し切って開戦したのが東条英機である。どこが忠臣なのだろうか。
    • 東条英機を忠臣と言っている人たちは、果たして昭和天皇が本気で戦争をしたがっていたと思っているのだろうか…?
    • むしろ東条(だけでなく陸軍全体の話だが)の方が昭和天皇を操り人形のように利用したようにすら思える…。
  21. 意外にも部下に対しては優しかったらしく、自分の失敗を部下に責任転嫁することはしなかった。一応これは誉められる点かも。
    • しかし非常に細かい点まで部下に聞く癖があり、やはり上司にしたら面倒くさい人ではあったと思う。
  22. よく「東条英機は家族想いの人間だった」とか「東条英機は人格者だった」などと擁護する人がいるが、残念ながらそんなのは政治家としての評価には一切関係ない。
    • そもそも東条は身内には甘かったがライバルに対しては陰湿ないじめを平気で行っていたため、お世辞にも人格者だったとは言い難い…。
    • ちなみに東条英機の家族や遺族には戦争責任は一切無い。念のため。
    • 社会的に極悪人とされている人間でも1つくらいは良い点があるのは常識。あのアドルフ・ヒトラーですら芸術を愛する人という面があったのだから。
  23. サイパンの戦いで降伏した責任を取って首相を辞任したことになっているが、実際には海軍などによる激しい倒閣運動に勝てなかったために「辞めさせられた」だけ。
    • ちなみに東条内閣の商工大臣だった岸信介も東条首相を裏切っている。だから戦犯指名リストから除外されたのである。
    • 指導者として余りにも無能だったにもかかわらず恐怖政治を行い権力にしがみついたため、海軍どころか陸軍内でも東条首相暗殺計画があった。もし東条が首相を辞めていなければ敗戦より前に暗殺されていた可能性すらあった。
  24. 終戦後ピストル自殺しようとして銃口を胸に当てたが、手元が狂って一命を取り留めてしまった。
    • 「自殺するならなぜ銃口を頭に当てなかった!」「生き恥さらした」と今も言われ続けている。
      • 公家の近衛文麿ですら自決を成功させていたため、「貴様はそれでも軍人か!?」と大バッシングを受けた。
    • そもそも本当に自決する気があったのかどうかすら怪しい。狂言説もある。
      • ちなみに敗戦の責任を取って自決した高級軍人は30人以上いた。また、女性でも(後を追って)切腹する人がいたのだとか…。
      • 開戦時の参謀総長の杉山元は自決し、妻もその後を追った。
    • そして「昭和天皇を守るためにあえて生き残った」と擁護する者もいるが、それは自決に失敗したからという結果論であり、もし仮に自決に成功していたら天皇を守れないという矛盾点に気付いていない…。
  25. しばしば一部の自称左翼さんが言うような「残忍な独裁者」や「狂人」のイメージとは程遠い人物である。誤解が多いという意味で「ざんねん」な人物でもある…。
    • 東条英機の評価が低いのはむしろ「視野が狭く大局観やリーダーシップに欠けていたこと」「独裁者としての能力すら中途半端だったこと」などが理由。少なくともヒトラーやスターリンなどと比べてかなり小物。せいぜいムッソリーニと並ぶかどうかレベル。
  26. 金銭面ではクリーンな人物であり金権政治の類は一切やっていなかった(これは事実だが、だからといって良い政治家だったと擁護するわけではない)のだが、東京裁判では連合国によって汚職の罪をなすりつけられてしまった。
  27. 日本がポツダム宣言を受け入れて降伏した際に「国民がこんなに意気地なしだったとは思わなかった。たった2発の原爆で降伏してしまった。」などという、あまりにも無責任すぎるメモを残している。
    • 「本土決戦になってでも最後まで戦うべき」と本気で思っていた…。困った人物である。
  28. 東条信者の中には「東条だけが悪かったわけではない」という人もいるが、そういう人は国政を任されることはどういうことなのか、とか総理大臣の地位や権限、責任をよく分かっていない場合が多い…。
    • また東条信者の多くは「東条大将は愛国者だったし私欲も無かった。現代の政治家よりよっぽど立派!」と口を揃えて言うが、そういう人たちはそもそも政治家の評価は結果が全てであるということを理解しているのだろうか…?
  29. 開戦前、総力戦研究所が日本がアメリカと戦った場合のシュミレーションを行い、出した結論が「日本は負ける」というのだった。だが、結論を聞いた陸軍大臣の東条は衝撃を受けたからか、研究員に「口外してはならない」と釘を刺した。

山本五十六

  1. 名前の由来が悲しすぎる…。
    • 生まれたとき父親の年齢が56歳だったことから名付けられた。
      • ちなみに母親も45歳。高齢出産である。
  2. 本当は軍人ではなくギャンブラーになりたかったらしい。
    • モナコのカジノで勝ち過ぎて出入りを禁止になった。
  3. 親英米派であり日独伊三国同盟には反対していたが、結局は開戦への流れを止めることはできなかった。
    • そこで仕方なく真珠湾攻撃を実行し、「敵(アメリカ)の戦意を喪失させ、こちら(日本)に有利な条件で講和に持ち込もう」と考えたが、この作戦が大きく外れてしまった…。
      • 結果、アメリカの闘争心に火を付けてしまったのである…。
    • ちなみにアメリカでは当時五十六は悪魔と言われていたが、最近は評価が見直されているのだとか。
  4. 前線視察の途中でアメリカ戦闘機の待ち伏せに遭い戦死。
    • 前線視察が事前に伝えられたが、視察先の司令官が「こんなバカな電報を打つ奴がどこにいる」と憤慨した。
    • 部下が護衛の零戦を50機つけようとしたが、山本は「そんなに多くはいらない」と6機に減らされた。
    • 戦死については「自責の念に駆られての自決」という自決説がある。

牟田口廉也

  1. 大日本帝国陸軍の軍人で、「史上最低の作戦」の代名詞である「インパール作戦」の立案者。
    • 当時、イギリス領であったインドを攻めるのに、ビルマ方面から物資輸送もままならないジャングルを超えて、インドの都市インパールを攻めようという作戦。
    • 約9万人近い兵を動員して、飢餓やマラリア、英国からの攻撃により、7~8割が死傷するという有様だった。
    • 「もしベタなダメ上司・上官キャラの法則が現実に存在したら」を体現したような人物である。
  2. インパール作戦で前線で戦う兵士が食料も物資も無い最中で、後方にいる作戦立案者の牟田口は料亭で酒と女を連日喰らっていたという。
  3. 物資を運ぶのに「自動車が無ければ牛に牽かせればいいじゃないか。食料にもなるし」とジンギスカン作戦を思いつくが、当の牛は足が遅くてイギリス軍の恰好の的になり、泳げないので河を渡ろうとして流される有様だった。
  4. 物資が無くなって作戦継続が不可能となっても牟田口は撤退させず「武器が無いのなら腕がある、腕が無くなれば足で蹴ればよい、足も無くなれば口で噛みつけ、それが大和魂というものだ」と取り合わず。自身の無策を棚に上げて、精神論で片付けようとした。
  5. 前線指揮官の一人である佐藤陸軍中将は、物資食糧が尽きて補給が無く伝染病が蔓延し全滅不可避となった余りの惨状から、死刑になるのを覚悟して独断で撤退を決定する。
    • 司令部に補給要請を何度も送るも、いつまで経っても物資を送ってこない上に、牟田口からは「作戦を継続しろ」の一点張り。
      • 決死の撤退戦を行った佐藤中将は、ボロボロになりながらも後方司令部にたどり着くやいなや「牟田口はどこに行った!今すぐ叩っ切ってやる!!」と怒号をあげる。
        • 佐藤中将の剣幕をみて、恐れた牟田口は顔を合わせないようにとどこかに隠れていた模様。
    • 佐藤中将が勝手に撤退したことに対し、牟田口は「気合と根性が足りないからだ!」「ジャングルなんだから食料になる草くらい生えているだろ!」と佐藤中将を罵倒する。
      • 牟田口は、飢餓と病で苦しむ兵を集め、訓戒と称して佐藤中将の悪口を長々としゃべるが、栄養失調で気力を失っている兵は訓戒中に次々に倒れていった。
  6. インパール作戦の失敗に多少は責任を感じて部下に「自刃して陛下にお詫びしたいのだが」と問いかけるも、部下は「一応、私の役割だから上官が自刃すると聞いて止めないわけにもいかないが、古今東西、人に死ぬと告げて実際に死んだ人間はいません。閣下が少しでも責任を感じ、本当に自刃する意思があるのならば、誰にも告げず自刃してください。」とバッサリ返される。
    • 戦後も生きながらえ続けている通り、そういわれても自決なんてしなかった。
  7. 戦後「インパール作戦の失敗は、自分のせいでなく、部下が無能だったためだ」と喧伝し、一切反省はしなかったという。
  8. 余談であるがゲーム『パワプロクンポケット2』の裏サクセスで無能な参謀長「任月高志」が登場するが、そのモデルは牟田口であり、やっていることがほぼ全部牟田口の逸話そのまんまである。
  9. 日中戦争の発端となった盧溝橋事件で部下から「発砲されました」の報告に「応戦しろ!」と返答したため、戦争が始まった。
  10. 昭和天皇の即位式で当時の首相田中義一が「万歳」と叫ぶ前に祝砲が鳴ってしまうというハプニングが起きたが、その原因が牟田口だった。
    • 牟田口は即位式で祝砲を鳴らすためのボタンを押す係で、田中が「万歳」と叫ぶのを合図にボタンを押す手筈だったが、御所の外の市民の「万歳」の声が大きかったため、それで合図のボタンを押してしまった。

辻政信

  1. 大東亜戦争初期のマレー作戦で功績をあげ「作戦の神様」と言われたが、近年は独断専行や部下への責任転嫁などが厳しく批判されている。
    • 最近では神様どころか「悪魔」と言われている。
  2. 中国系住民を大量虐殺した「シンガポール華僑粛清事件」や米軍やフィリピン軍の捕虜が大量に死亡した「バターン死の行進」の主犯であるが、それらの責任を部下になすり付け、辻自身は戦犯として訴追されなかった。
    • 辻はタイで玉音放送を聴いて「自分が逮捕される可能性が非常に高い」と考え、数年間海外に逃亡していた。
  3. 責任から逃れて戦犯にならなかったどころか、戦後は国会議員になっている。
    • 戦後に書いた回顧録がベストセラーにもなった。
  4. 冒険旅行のために内戦状態だったラオスに行き、その後の消息は不明となっている。
    • まだ反日感情が残っていた現地住民の怒りを買って暗殺されたと言われている。
  5. 石川の黒歴史。
  6. 「良くも悪くも凡庸な役人だった東条英機」と異なり、こちらはガチで狂人扱いされることが多い。

小磯國昭

  • 「小磯国昭」と書くこともある。
  1. 「東条英機以外なら誰でも良いんじゃね?」という消去法的な理由で選ばれた、太平洋戦争末期の日本の首相になった人物。
    • サイパンの戦いでアメリカに負けた責任を問われ辞めさせられた東条英機に代わって首相に選ばれた人物。日本の戦況が悪化した最悪のタイミングで就任した首相である。
      • 本当に貧乏くじを引いたのは東条ではなく小磯だと思う。
  2. 流石に小磯だけでは力不足だったためか海軍の米内光政と協力して組閣し、実質的には2人首相という状態だった。
  3. 東条英機の知名度の高さに比べてあまりにも知られていなさすぎる影が薄い首相の一人。
  4. 最後はA級戦犯に指名され終身刑となった。東条英機などと異なり死刑にならなかったのだけは救いだが。
  5. 自分が首相に就いた時、戦況が悪化していることを知らず、「日本はこんなに負けているのか」と驚いたという。
  6. 指導力不足で決断が遅く、「木炭自動車」と揶揄された。
  7. 陸海軍の指揮系統を一本化しようとしたが、海軍の反対で断念。作戦会議に出席し発言しても、身内だった陸軍から「口出しするな」と言われる始末だった。

関連項目