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*1900年以前に生まれた人物でお願いします。 | |||
*以下は出来る限り年代順に並べていただくと助かります。 | |||
==鎌倉時代以前== | |||
;天智天皇 | |||
#とにかくビビリ屋。少しでも造反の気配があったら即刻殺してしまう。 | |||
#*元がほぼクーデター(乙巳の変。まあ、これは蘇我親子が調子に乗り過ぎていたからだが)で権力を手にしたようなものなので、奪われるのは怖かったんだろう。乙巳の変の実行犯である蘇我石川麻呂も自害させてるし。 | |||
#*更に白村江の戦も「ヒィィー大陸が攻めてくるぅー!」とビビりすぎて出兵させたようなものであり、負けたら「ウワァー! 攻めてくる! どうしよ! どうしよ!」と防人制度まで作った。 | |||
#今際の際に大海人皇子(弟、後の天武天皇)に皇位を譲ろうとしたのも勿論難癖付けて殺す為であり、出家されたことで肩透かしを食らう。そして死後に息子は大海人に討たれる。 | |||
;聖武天皇 | |||
#藤原広嗣の乱の最中に行幸を始めたり、遣都を繰り返したり、仏教にのめりこんで寺をあちこちに建てたりとメチャクチャして、官民の受けがよくなかった。 | |||
#*これら一連の事件は長屋王の祟りなどと言われる。聖武天皇がロクに調べもせずに、藤原氏による長屋王叩きを「かまわん、ドンドンやれ」と放置したせいで、ほとんど何も悪い事をしていない彼の自殺を招いた。<del>どこかで聞いたような話である</del> | |||
# | #元々藤原家は天皇家にすり寄っていたが、聖武天皇が光明子を「皇后」にしてしまったせいで藤原氏の台頭を招く結果となる。 | ||
# | #また、天下一の公共事業である東大寺盧舎那仏建立に着手するも、結局大仏が完成する様を見る前に崩御した。 | ||
# | #*なおその大仏は'''5回も破壊されている'''。 | ||
#*大仏の表面に施す金メッキによる水銀公害で、平城京は甚大な被害を受けてしまったので長岡京へ遣都したのではないか、という仮説が近年浮上している。 | |||
#1873年(明治5年)にグレゴリオ暦へ移行した際、換算間違いにより、崩御日が1日早くなっていた。 | |||
#*約140年後の2012年(平成24年)に、ようやく正しい崩御日に訂正された。 | |||
;孝謙天皇/称徳天皇 | |||
# | #この人のせいで、万世一系の天皇家が危うく途絶えるところだった。 | ||
#* | #*男を知らずに育つとどうなるかがよく判る事例。 | ||
#* | #**宗教にハマりすぎるのも怖いね。 | ||
#*言い方は悪いがこの親にしてこの娘在りということかねぇ…。 | |||
#* | #趣味は、自分の気に入らない人間に、お下劣な名前を付けること。 | ||
# | |||
;桓武天皇 | |||
#この人もビビリ屋。 | |||
#*父・光仁天皇の皇后だった井上廃后とその息子の他戸廃太子、弟の早良廃太子と、身内に非業の死を遂げた人達を怨霊として恐れ、彼らへ追称を送ったり、慰霊する寺院や神社を建てたりと、それはもうビビりまくった。 | |||
#**早良親王については、聖武天皇と同じようなことをして死に追い込んだ故、後年は自責の念にとらわれていたようで、流刑した淡路国からわざわざ大和国へ改葬し、「崇道天皇」と追称したりしている。 | |||
# | #*平城京から長岡京に都を遷すも、災害やら身内の不幸が起きまくったことにビビり、そこから更に平安京へ遣都した。 | ||
#* | #*石上神宮から神宝を運び出したら病気になり、自分の歳と同じ人数の僧侶にお経を読ませて、神宝を納め直すも回復せず、崩御してしまった。 | ||
#* | |||
#* | |||
#* | |||
;花山天皇 | |||
#一言で言うなら'''変態'''。 | |||
#*父の冷泉天皇も、手紙にでっかい{{あきまへん}}の絵を添えて送るほどの変態であったが、花山天皇は性欲の権化の如きお方であらせられた。 | |||
#'''即位式の真っ最中'''に女官と{{あきまへん}}を行った。当時16歳なのに…。 | |||
#* | #即位後も親子丼に明け暮れる始末であった。 | ||
# | #奥さんが死んでしまったため「オレもう出家する!」と言い出し、周囲からは「陛下ならそのうち飽きて還俗するだろ」と陰口を叩かれた。 | ||
#結局在位2年で出家するが、そのときまだ19歳である。性欲が収まるわけがなく、女には手を出しまくり。 | |||
#*あまりにスケコマしすぎたため、'''恨みを買って暗殺されかけた'''。しかもそれをダシに藤原道長はライバルを蹴落とし出世した。 | |||
#西国三十三所巡礼を復活させた人物として有名であるが、第20番札所の[[京都市の寺院#善峯寺|善峯寺]]は花山院崩御後の創建なので、明らかに矛盾している。 | |||
# | |||
# | |||
# | |||
#* | |||
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# | |||
;菅原孝標女 | |||
# | #本名不明なのでこう表記するしかない。『更級日記』の作者。 | ||
# | #通称'''1000年前のお前ら'''。やる事なす事とても1000年前の人物とは思えないほどアグレッシブ。 | ||
# | #*物語を読みたすぎて、13歳の時に薬師如来像'''(等身大)'''を彫る。しかもその内容が「この世の全ての物語を読ませてください」。[[ONE PIECE|海賊王]]かお前は。 | ||
# | #*やっと都入りを果たすと、源氏物語の写本を手にした途端部屋に引きこもり数日間微動だにしない。 | ||
# | #**親も呆れて勉強しろと言ったが、耳に入るわけも無かった。 | ||
#**この時の心境が凄い。「ひき出でつつ見る心地、后の位も何にかはせむ」!! 当時の皇后はいわば「全世界のNo.2」であり、それすら今の心地には劣るわ! というわけ。 | |||
#こんなんでも一応結婚は出来たが、30歳になってからなので当時ではかなりの行き遅れ…。 | |||
#更級日記とはいわば「子供たちも独り立ちし、夫にも先立たれた菅(ryの心境を綴った日記」であり、上記のようなイカれた回顧録の末には「こういうことはやるものではない」と結論付けている。 | |||
;梶原景時 | |||
# | #鎌倉幕府の重鎮であるが、豊臣で言う所の石田三成ポジション。 | ||
#* | #逆梶論争が有名なように、とにかく敵を作りやすいやつ。 | ||
# | #*説明力が高かったらしく、報連相をきちんとするという点では評価できるのだが(笑)。 | ||
# | #*空気を読まずに勇猛果敢な畠山重忠をボロクソに非難したことで、より源氏の猪武者どもから恨まれるようになった。 | ||
# | #ついには頼朝の死後、我慢の限界が来たのか'''66名'''もの連判(勿論重忠も含む)で訴追、失脚の後に襲撃を受けて一族郎党滅ぼされる。死人に口なし。 | ||
#余談だが、[[茨城県]]の一部地域ではゲジゲジのことを'''カジワラ'''と呼ぶ。深くは探るまい。 | |||
;平宗盛 | |||
#平清盛の息子の中でも'''できの悪い'''ほう。 | |||
# | #*兄の重盛や、弟の知盛などは武士らしく武勇に優れているが、宗盛はというと臆病で、とても武士らしくなく「驕る平家は久しからず」を体現している。 | ||
# | #清盛が亡くなり、すでに嫡男であった重盛も亡く、平家の棟梁として指揮をするも戦経験もほとんどなかったので、そのほとんどは弟の知盛まかせになっている。 | ||
#壇ノ浦の戦いで、義経軍に敗れた平家武士が次々に入水自殺をする中、どうしたらよいのかわからずオロオロするばかりであった。 | |||
# | #*それを見かねた家臣が「お供いたす」といって入水するも、無駄に泳ぎが得意だったため、死ぬことができず源氏方に捕縛されてしまう。 | ||
# | #*鎌倉に護送され、頼朝から死罪を賜るがその最中、ずっと頼朝にへりくだり、命乞いをしたという。 | ||
#* | |||
#* | |||
;北条政子 | |||
# | #'''鬼嫁'''。 | ||
# | #*当時としては非常に珍しい恋愛結婚であり、夫・頼朝が浮気した際には浮気相手の家をハンマーでぶっ壊している。 | ||
# | #政治的には非常に優秀だったが、優秀過ぎて自分の息子たちも最終的に死に追いやる結果を招く(意図していたのではないと思うが)。 | ||
# | #*彼女と弟の義時によって頼朝の重臣たちはほとんど始末されている。前漢の呂一族かよ(呂一族と違って完全に夫の一族を滅ぼしている分たちが悪い)。 | ||
# | #最終的に頼朝との間の子は全て先立たれ、源氏政権は数十年で滅亡している。 | ||
;源義経 | |||
#戦'''しか'''得意じゃなかった英雄。兄の頼朝は戦'''だけが'''ダメだったので性格も真逆(女癖は同レベルだが)。 | |||
# | #*政治的センスの欠如のせいで、「俺は頼朝兄さんの弟だから鎌倉武士より優遇されているはずだ」と思い込み、後白河法皇から官位を躊躇なく受け取り決定的な亀裂を生んでしまう。 | ||
# | #その戦の方法も奇襲とか放火とか、木曽義仲と大差ないレベルのDQNぶり。 | ||
# | #*彼らだけがそうだったわけじゃなく、基本的に源氏はやり方が汚い。 | ||
# | #*特に問題視されたことが、非戦闘員(船の漕ぎ手など)への加害行為。当時の価値観では絶対的なタブーだった。 | ||
# | #平家物語では「出っ歯で背が低く、平家の中の選り屑よりもブサイク」などと不必要なまでに容姿をけなされている。 | ||
# | #*両親が美男美女だったんだから彼だけそこまでブサイクだったとも思えないので、ブサイクだった方は山本義経という別の武将ではないかという説が濃厚。 | ||
# | #*隣にいつも弁慶がいたから相対的にチビに見えたという説もある(笑)。 | ||
#生存し蝦夷地(北海道)からモンゴルに渡りチンギス=ハンになりましたというのはとっくに否定されている。 | |||
#*北行伝説に至ってはアイヌへの同化政策のために義経北行伝説が利用されたこともあった。いわば家系に義経の名を加え箔をつけ見栄を張ったというわけである。 | |||
#**しかもアイヌの伝承では義経は悪役になることが多かった。 | |||
;四条天皇 | |||
#歴代皇室で最も<del>4コマ漫画みたいな</del>ざんねんな御崩御を遂げた天皇。 | |||
# | ##ある日のことです。陛下は廊下をご覧になり、「この廊下に滑る石を置いたら転ぶかもな」とお思いになられました。 | ||
# | ##陛下は試しに石を置いてみましたが、本当に滑るのか気になって、自分でお試しになられました。 | ||
# | ##ところが陛下が石を踏んでみると、思った以上に滑りました。そして、別の石がたまたま転んだところにございました。 | ||
# | ##頭をお打ちになられた陛下は'''そのまま12年の短い一生を終えました'''。 | ||
# | |||
# | |||
==== | ==室町時代== | ||
# | ;足利尊氏 | ||
# | #室町幕府初代将軍であるが、生きている内に乱戦を終わらせられなかったどころか、むしろ悪化させている。 | ||
#* | #一般的なイメージ(後述)とは異なり、尊氏は「私は早く隠居してゴロゴロしたい」という手紙を残しているくらい、めんどくさがり屋であった。 | ||
# | #*まず建武の新政の折、弟の直義が鎌倉幕府残党に虐められていたので、尊氏は後醍醐天皇の許可を得ずに出兵。尊氏をウザがっていた後醍醐帝は「尊氏が関東の武士を手下にして、鎌倉幕府を復活させる気だな」と難癖をつけて新田義貞に尊氏討伐令を下す。 | ||
# | #*これを知った尊氏は「私はそんなことしましぇぇーーーん!!」と即出家して隠居。勿論その程度で新田軍は攻撃をやめず、直義はボコボコにやられる。ヘタレか! | ||
# | #*結局尊氏もボコボコにやられ、北朝を開いて抵抗。後醍醐一味に逆襲したが、鋼鉄メンタルで吉野に逃げた後醍醐帝は南朝を開き、南北朝時代が開始される。 | ||
#*ところが今度は尊氏の執事・高師直が直義と政争に明け暮れ、直義は南朝に逃げて猛襲。ではここで尊氏は何をしたか!? | |||
#**はい、諸悪の根源である師直を見捨てて逃げました。人として正しいことにしろ武将としてそれはどうなのか。 | |||
#*その後、心労がたたって直義共々病没。これにより更に南北朝の戦いは激化していく。 | |||
#要するに'''ヘタレ'''であり、消極的な方に消極的な方に逃げて保身にばかり走ったせいでこんなにわかりづらい歴史を歩ませている。筆者も学生時代は「何がしたいんだこいつは!」と頭を抱えながら歴史の勉強をしていた物である。 | |||
#更に、南北朝時代を作った張本人ということで、幕末~戦前にかけては「勇者」楠木正成を崇め奉るためのわかりやすい「魔王」にされ、木像が義詮(息子)・義満(孫)共々首を刎ねられるわ、教科書でも平清盛と並ぶ極悪人呼ばわりされるわ、尊氏ファンだということがばれただけで'''国会で訴追される'''わ、日本史史上No.1の嫌われ者扱いされていた。 | |||
;足利義教 | |||
#室町幕府6代将軍。かの有名な3代将軍義満の子(三男説が有力)。 | |||
# | #元々出家していたが、5代将軍義量(義教の甥っ子)が早死にしたため、くじ引きで選ばれた。 | ||
# | #くじ引きで選ばれた負い目故に、部下をうんと厳しく縛り付けたため、'''万人恐怖'''とまで呼ばれた。 | ||
#* | #*闘鶏の見物人に道を遮られたのに激怒し、都中から鶏を追放した。 | ||
#* | #*酌の仕方が下手だっただけで侍女の髪を掴んで切り落とし、出家させてしまった。 | ||
# | #*あまりにバンバン部下を手打ちにするため日親という高僧が説教に来たが、カッとなって灼熱の鍋を被せ、舌を切り落とした。 | ||
# | #こんなんだから家臣の赤松満祐が'''あまりにビビり過ぎてしまい'''、「やられる前にやるしかない」と決起して嘉吉の乱を起こして殺された。厳しすぎる締め付けが逆効果となったのである。室町幕府としては初の暗殺された征夷大将軍となる(後に13代・義輝も暗殺される)。 | ||
;足利義政 | |||
#室町幕府8代将軍。今でいう、オタク。 | |||
#超口うるさい乳母や重臣たちが何でもかんでも決めてくれた(最も義政の父・義教があまりに強烈なワンマンだった反動かもしれないが)ので、「義政」という名前にもかかわらず全く政治に興味を示さず、もっぱら芸術にばかり関心を示していた。 | |||
# | #*銀閣を建てたのもこの人であり、日本のわびさびを含んだ文化は義政の後ろ盾あって完成されたと言える。評価できるのはここだけである。 | ||
# | #**当時、芸術家というのは最低の扱いであり苛烈な差別を受けていた。しかし義政はそーゆーのに全く興味を示さなかったため、身分に関係なく優秀な(芸を持つ)人は丁重に召し抱えた。 | ||
#* | #そして「もう一刻も早く将軍を辞めたいから、子供もできないし弟・義視に譲ってやる」と言い出した途端に息子が生まれ、鬼嫁・日野富子の後押しもあって応仁の乱が勃発してしまう。 | ||
#*この最中も戦争をうっちゃらかして芸術に金を使っていたため、富子は「あのバカ夫め~!」と激怒しながらも政治改革に次ぐ政治改革を行い、市民を滅茶苦茶に搾り取りつつかろうじて幕府の運営を保っていた。 | |||
#が、応仁の乱は予想以上にグダグダとなり、京都周辺は灰燼と化し、結局何のために戦争をしているのかもわからなくなって義視も降参し9代将軍は義尚となった。 | |||
#** | |||
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#* | |||
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;日野富子 | |||
# | #足利義政の正妻で'''鬼嫁'''。 | ||
# | #同じ鬼嫁でも北条政子の場合、武家政権確立の為にと辣腕を振るった尼将軍だったが、こちらは守銭奴といった方が良いかもしれない。 | ||
# | #足利義尚と足利義視との後継者争いの体で始まった応仁の乱勃発の原因の一人であるが、この混乱に乗じて金儲けをしようとたくらむ。 | ||
# | #*敵味方関係なく、戦費に困った東軍・西軍の諸大名に高利貸しを行い、自分の懐を蓄えようとする。 | ||
;足利義尚 | |||
# | #というわけで、親はオタクでも子は育つということで選ばれた9代将軍。 | ||
#* | #*「緑髪将軍」と言われるほどの美男子で、女の子にモテモテであった。しかしこれが彼の悲劇を生む。 | ||
# | #応仁の乱が原因で信用が地に落ちた幕府の威光を取り戻す為、六角氏征伐などを敢行。母譲りの才覚と父譲りの芸術観を持ち多くの人に慕われた。 | ||
# | #…のだが、あまりに働き過ぎで遂にプッツン来てしまったのか、六角征伐終了後に突如として女狂いとなり、浴びるように酒を飲んでは{{あきまへん}}にふけった。 | ||
#*その結果、わずか25歳で早逝。父よりも先に逝く親不孝により、義政は心身を病み後を追うように亡くなった(55歳没なので人生わずか50年の時代としては大往生である)。 | |||
#* | |||
;武田信長 | |||
# | #武田信玄でおなじみの甲斐武田氏の傍流にあたる、上総武田氏(真里谷氏)の祖。 | ||
# | #*ネーミングだけ見ると、「武田」と「信長」で何かと強そうなイメージだけは湧く。 | ||
#上総一国でおよそ10万石を有する有力な大名ではあるが、戦国時代の主戦場である畿内から離れた関東にあるので、何かと歴史の片隅に追いやられている感が強い。 | |||
#信長の野望より、前の時代のひとなので、ゲームには登場しない。 | |||
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# | |||
;一休宗純 | |||
#僧侶の中ではかなりのスケベだった。 | |||
# | #*男色だけではなく女犯も平気で行い、森侍者という愛人がいたり、実の子供の弟子がいたりした。 | ||
#* | #*彼の漢詩集「狂雲集」では女性との{{あきまへん}}のことが多く詠まれている。 | ||
#* | |||
;細川政元 | |||
#一言で言うなら'''オカルトおじさん'''。 | |||
#「半将軍」と呼ばれるほどの権力の座にありながら、天狗となって空を飛ぶことを夢見る修験道オタクであった。 | |||
# | #*度々公務をすっぽかして「旅に出ます」と書き残して失踪したり、後柏原天皇の即位式を「意味がないから」と言って中止させたりと、もうムチャクチャ。 | ||
#*そのため名門細川家の当主でありながら生涯独身であり、養子を3人貰っているが、そのせいで派閥闘争が発生。 | |||
# | #*しかし我関せずと修行にふけっていたため、風呂場で行水していた所を暗殺される。 | ||
#* | #ちなみに、信長より先に本能寺を焼いている。 | ||
#* | |||
#* | |||
# | |||
== | ==戦国・安土桃山時代== | ||
;佐久間信盛 | |||
# | #信長のかなり古い家臣で、「退き佐久間」の異名を持つ重臣だが…。 | ||
#* | #*裏を返せば「攻めには使えない」って言ってるようなものである。 | ||
#あまりに使えなさ過ぎて「もうお前いらんから、敵の城でも分捕るくらいの手柄立ててくるかサッサと隠居しろ、'''イヤなら腹切れ'''」というとんでもない命令を受けてしまった人。 | |||
#*その際に19項目にも及ぶダメ出しを受けており、相当に苛立たせていたことが推察される。 | |||
# | #基本的に信長は下っ端は即手打ちにするが重臣は割と大事にするので、ここまで怒らせてしまった人は彼と明智光秀くらいであろう。 | ||
#* | |||
# | |||
;大友宗麟 | |||
# | #名代のスケベさで名を遺した。 | ||
# | #*あまりに好色すぎるため腹心の立花道雪からも叱責されている、と歴史書に残されてしまっている。 | ||
#* | #**グチグチ行ってくる道雪がムカついたようでペットの猿を嗾けて脅かそうとしたら、逆に'''鉄扇で一撃粉砕(物理)'''されてしまい猿のように反省した(創作説があるが、そういう創作が出てくるくらいざんねんな人物であったことは事実である)。 | ||
# | #知名度に反して意外と敗北回数が多い。 | ||
#おまけに奥さん(重臣の妹なので無下に扱えなかった)が悪魔のように恐ろしかった、と宣教師が語っており、キリシタン大名なのに嫁さんがキリシタンを弾圧していた。 | |||
#*出自は奈多八幡宮の宮司の娘。当然、夫とは信仰で相いれない。 | |||
#*当時のキリスト教関係者は、彼女に対し旧約聖書に登場する悪女にちなむあだ名を付けていた。 | |||
;[[上杉謙信]] | |||
# | #いうまでもなくチート武将であるが、重度のアル中。 | ||
#* | #*馬の上で飲酒するためにわざわざ特注の盃を作らせていた。飲酒運転じゃん。 | ||
#* | #*しかも塩(敵に送るくらいだからたくさんあった)や味噌や梅干しといった高血圧まっしぐらメニューをつまみに浴びるように飲んでいたので、冬に'''トイレで気張り過ぎて脳の血管が切れて'''死ぬ。(まあ49歳だから早逝ではないんだが) | ||
#** | #**おまけに後継者を決めずに何の前触れもなく突然死したので、甥の景勝と養子の景虎で大戦争が勃発してしまう。 | ||
# | #生涯不犯(未婚)であり、美少年をたくさん侍らせていたという逸話からガチホモ、もしくは女性だと言われている。ホントかよ? | ||
# | #*そもそも女性説自体学者の勝手なる思い込みから生まれたものであってまぁまずないと思われる。(当時の学者からも酷評された) | ||
# | #**だが否定されながらもサブカル界隈ではいろんなところで女性版謙信が登場している。 | ||
#さらに近年では、後述の弱い方のオダの城の人間を食い扶持に困るからという理由で売り飛ばしていたことが判明している。勿論、謙信以外の武将もこのようなことは当たり前のように行っていた。 | |||
# | #また「敵に塩を送る」の美談は、現在では「塩を有料で売り捌いた」ということが判明している。世の中そう甘くはないのである、塩だけに。 | ||
# | |||
;小田氏治 | |||
# | #通称'''「弱い方のオダ」'''。 | ||
# | #小田城の城主であったが'''6回'''も奪われており、史上最も城を奪われたことが多い大名として知られる。 | ||
#*裏を返せば5回は取り戻している(最後は取り戻せなかった)わけでただ弱いだけではないのだが…。 | |||
#最後は豊臣秀吉の小田原征伐の巻き添えを喰らって惣無事令違反で全領地を没収されてしまい、結城秀康の家来にまで零落れてしまった。 | |||
#* | |||
# | |||
;[[織田信長]] | |||
#'''裏切られすぎ。''' | |||
* | #*日本の歴史で一番たくさん謀反を起こされたのではないかと言うくらい、裏切られて裏切られて裏切られまくった。 | ||
# | #**最終的に一番目をかけてた奴に裏切られて死んだ。 | ||
#* | #*最初に裏切った弟の信勝は、一度許してやったのにまた裏切ったせいで殺す羽目になった。これはまあ信勝が兄を舐めすぎたというのもあるが。 | ||
#* | #*従わない奴はキルオブゼームとばかりに殺しまくるほど短気な割に、身内と優秀な奴には評価が甘いので、悉く裏切られ、何度も包囲網を敷かれる羽目になる。 | ||
#一方本人はそんなに裏切ったことはない。せいぜい足利義昭を操ろうとしてたくらいか。 | |||
# | #肝心な時に限って雨がやたら降る「雨男」であり、せっかく鉄砲戦術で戦争史に革命を起こしたのに、雨のせいで火縄銃が全く使えず完敗ということもあった…。(まあ、桶狭間に関してはそれが勝因になったんだけどね) | ||
# | #食生活の内容が不健康すぎていた。40歳を過ぎたあたりから糖尿病の合併症由来と思われる体調不良の記録が多く見受けられる。 | ||
# | #*40前後でそうなるということは30代前半あたりで既に基礎疾患として持っているということ。それゆえ、仮に本能寺の変が無かったor切り抜けられたとしても早々に表舞台から退場となったかもしれない。 | ||
#* | #実際には「普段はどっしり構えていられるけどいったんキレてしまったら誰にも止められない」と言ったところだが、どういうわけかのべつ幕無しでキレまくっているような誤解を持つ人も多い。 | ||
# | |||
;荒木村重 | |||
# | #織田信長に仕えた戦国武将で、茶器マニア。 | ||
# | #羽柴秀吉が播磨攻めをやっている最中に、突然信長に反旗を翻す。 | ||
#* | #*秀吉の死者としてやってきた黒田官兵衛を捕縛して、1年間土牢の中に監禁する。 | ||
#信長に反旗を翻したまでは良いが、結局負けてしまう。 | |||
# | #*負けるのはやむなしとしても、平蜘蛛をかかえて爆死した松永久秀と違うのは、自分の家族や家臣を見捨てて一人、茶器コレクションをかかえて逃亡したという事である。 | ||
#* | #*謀反を引き起こした当事者は単身逃亡中の最中、残された妻子をはじめとした一族郎党は皆処刑される。 | ||
#* | #**妻の「だし」は当時でも楊貴妃に例えられるくらい美人との評判だったが、その美人の妻よりも自分の命と茶壷の方を優先した。 | ||
#** | #こうして、あまりの無念さに自分の名前を'''「道糞」'''に変えてしまった。 | ||
#*結局、信長が死んで何十年も経った後秀吉に「もう流石にええやろ」と許されて「道薫」の号となる。 | |||
# | |||
#* | |||
;[[豊臣秀吉]] | |||
# | #日本史上最も出世した男であるがゆえに、良くも悪くも庶民的。 | ||
# | #*当時男色は当たり前だったが、農民(下級武士説もあり)出身だったため一切そんなことは考えず、女を死ぬほど侍らせていた。 | ||
#* | #**イケメンの部下を見つけると「ねぇ~ん、姉か妹居ない~?」としつこく問い詰めた。 | ||
# | #***あまりに美女に目が無さ過ぎるため、後述の細川忠興なんかは奥さんに「天下人に言い寄られそうになったら'''自害しろ'''」と本気で帯剣を勧めていた。 | ||
#**しかも己の出自の低さ故に、高貴な身分の女性を特に好んでいたという。 | |||
#**そこまでスケベだったにもかかわらず子供が出来るのが非常に遅く、2代で御家断絶となってしまった。こればっかりはしょうがないが。 | |||
#天下統一後はハッキリ言ってボケ老人である。 | |||
#*二度の朝鮮出兵、利休抹殺、秀次を一族郎党抹殺したうえに「殺生関白」の汚名を被せると、もうやりたい放題。そりゃ次の代で滅ぶわ。 | |||
#*何もかも金ピカで飾るという足利義満の'''猿'''マネに走り、千利休からも失望される。 | |||
#**もっとも彼の親友である前田利家も同じようなことをやっていたのでヤンキー友を呼ぶとでも言うべきなのか…。 | |||
#*ストッパーである弟・秀長が先に逝ってしまったのがターニングポイントだったのだろうか…。 | |||
;[[徳川家康]] | |||
#「恐れさせた男」があまりに多すぎる。 | |||
# | #*何でもかんでもビビりまくるほど小心者だったからこそ、あれほど盤石な政権を建てたのも頷ける。 | ||
#* | #我慢強いくせに気が小さく、三方ヶ原の戦いでは「よっしゃ! 信玄の野郎ワシらに背向けよったがね! 今のうちに追撃だぎゃ!(方言間違ってたらごめんなさい)」と突撃してまんまと返り討ちに会い、ウンコを漏らすほど完敗する。 | ||
# | #我慢強いイメージどおり非常にケチであり、「フンドシは黄色いものを使え、汚れても目立たないから何百回も洗濯できる」と言いつけていたほど。 | ||
# | #また秀吉に並ぶほど助平であり、青年期によそで愛人を囲いまくったために正室・築山殿から何度も叱責されている。 | ||
# | #*まあ子供がやたら多かったがために男は親藩・譜代に、女は外様大名に嫁がせ盤石な政権を作れたのは秀吉と真逆と言えるが。 | ||
#* | |||
;山内一豊 | |||
# | #'''嫁さんのオマケ。''' | ||
# | #*というか、地元以外では嫁さんの逸話しか知られてない。『功名が辻』はよくやったよ。 | ||
# | #その地元では長宗我部派一層の為に「親睦を深めるために相撲大会を開きます」と言って一か所に集め、'''全員撃ち殺して黙らせた'''というひどい話が残っている。 | ||
# | #*嫁さんの話は信憑性がないが、こっちは史実と確定している。最近は慰霊祭も行われた。 | ||
#その後も長宗我部一派は差別されまくり、一豊の死後は上士下士の制度が幕末まで残り悲惨なことに…。 | |||
;毛利輝元 | |||
#凡人すぎる…。 | |||
# | #*優秀な祖父や叔父たち、人望高かった父と異なり、突出した才が無く極めて地味。「毛利輝元のやった最大の偉業は、関ヶ原の戦いで何もしなかったこと」とか言われるくらい。 | ||
#* | #*足利義昭という負債を抱え、秀吉には散々にやられて朝鮮出兵で全体の4割もの将兵をねん出され、関ヶ原の戦いでは「何もしなかった」が故に処刑は免れるがド田舎に転封、せっかく建てた広島城は分捕られ、後継ぎ騒動は勃発し…。 | ||
#* | |||
;織田信雄 | |||
# | #信長の次男で、スケート選手・織田信成のご先祖様なのだが…。 | ||
#* | #非常に素行に問題があり、「うつけ」な所しか受け継がなかったなどと言われる。 | ||
# | #*「攻めるな」と言われたのに、領地欲しさに伊賀を強襲。石を投げれば忍者に当たるような戦闘国家・伊賀に無策で突っ込み、大敗。 | ||
# | #**あまりにぼろ負けしたので'''「親子の縁切ってやる」と書状に残すほど'''キレた父ちゃん信長が総攻撃し、伊賀が一時期壊滅状態に陥る。その後家康の庇護下に入るが。 | ||
#* | #*本能寺の変で父と兄が死ぬと、'''勝手に安土城に火をつけて焼いてしまう'''。 | ||
#* | #*そのせいで信長の後継者を決める清須会議でも'''誰も推薦せず'''、尾張一国を渡され大人しくしているように言われる。 | ||
# | #*賤ケ岳の戦いでは秀吉に乗せられ、まんまと異母弟・神戸信孝を敗死させてしまう。 | ||
# | #*が、その秀吉から冷遇されたことに怒り(立て直した安土城から追い出された)、家康と結託して小牧・長久手の戦いを起こすが…。 | ||
#**途中で面倒になって'''家康に無断で秀吉と講和'''。これには家康もポカーンであった。 | |||
#*こうして秀吉の手下に成り下がり、三河への転居を命じられるも、「俺の故郷だから」と言い張ったため'''改易'''を喰らう。天下人の息子がこの扱い…。 | |||
#*その後、家康のおかげでなんとか大名に戻る。この恩義を感じてか、大阪の陣では西軍方でありながら最後は東軍に寝返り、5万石を得た。 | |||
#あまりに「うつけ」だったため、周囲からは'''「三介殿のなさる事」'''と呼ばれ呆れられていた。 | |||
;森長可 | |||
# | #'''キング・オブ・殺人狂'''。 | ||
# | #*初陣で27個の首を挙げたのを皮切りに、数々の戦で武勲を立てまくった。 | ||
# | #**森家の当主なのに自ら槍を振り回して'''単騎で'''突撃し、'''慌てて部下たちが追いかけていく'''という、戦国時代なのに'''三国志みたいな合戦'''を行っていた。 | ||
# | #*が、民間人の虐殺も率先して行っており、非常に評判が悪い。 | ||
# | #**「人質を無事に国境で解放する」と言っておいて、解放した直後に全員殺す、なんて序の口。 | ||
# | #**武芸一辺倒ではなく卑怯な手も平気で使う策謀家であり、清州会議後は神戸信孝(信長の3男)を利用するだけ利用した挙句、旗色が悪くなるや否や寝返っている。 | ||
#* | #*カッとなったら味方でも平気で殺してしまうため、小牧・長久手の戦いで戦死したら'''味方からも'''泣いて喜ばれた。 | ||
#**ちなみにこの鬼を倒したのは井伊直政と水野勝成という、長可に勝るとも劣らないざんねんなコンビである。 | |||
#何より恐ろしいのは'''あの超短気な信長に、1度も怒られたことが無い'''と言う事である。弟のコネとはいえ…。 | |||
#*ある日、橋を渡っていた長可は、織田の門番から「ここは通行禁止です」と言われ、その場で殺してしまった。当然家臣団は激怒したが、信長は「橋で勝ったんだから、お前武蔵坊弁慶みたいだな! '''よしお前は武蔵守を名乗れ'''」と一笑に付したという。 | |||
#塩の専売を「腐らないから内地でやれ」と命じるなど意外と合理的な思考を持つのだが、晩年にはすっかり政治がめんどくさくなってしまい、遺言書に「万が一にもワシが死んだら、'''城に火をつけて死ぬように'''」という恐るべき内容を書き記している。 | |||
;石田三成 | |||
# | #非常に戦が弱い。 | ||
#*官僚タイプだったので実際の「戦術」は下手で、ほぼ負け通しであった。 | |||
#* | #真面目一徹タイプ故に人望が無さすぎる。(当時珍しく側室がいなかったことでも知られる。子供は6人いたが) | ||
# | #*「家康を討つぞ」と大谷吉継に漏らしたら、「お前が総大将じゃ誰もついてこねえよ」と即突っぱねられて、仕方なしに毛利輝元に総大将を依頼したくらい、その人望の無さは周知の事実であった。 | ||
#* | #なお全くの余談であるが、後述の水戸光圀公は「石田三成は主の為に心を尽くした憎めない奴だ、武士はかくあるべきだ」と褒め称えている。 | ||
# | #*その光圀の従兄である三大将軍家光は…(以下[[#江戸時代|家光の項目]]に続く) | ||
# | |||
# | |||
;福島正則 | |||
# | #大酒飲みだが非常に酒癖が悪かった。 | ||
# | #*'''酔った勢いで部下に切腹を命じ'''、翌日「おい、アイツはどうした」と聞いたら「死にました」と言われ、生首に縋りついて泣いた。 | ||
# | #*母里太兵衛に「酒に酔ったら黒田武士は何もできん」と挑発して盃を勧め、怒った太兵衛と飲み比べをした。しかも敗北し、日本三名槍の一つ「日本号」を奪われる。かの有名な黒田節の由来である。 | ||
# | #戦場では怖いもの知らずだったが、カミさんが物凄く怖く、浮気がばれて'''薙刀を振り回した'''ため背中を見せて逃げ出した。 | ||
# | #台風が直撃してボロボロになった城の修理を幕府に届け出るのを忘れたため、これ幸いと旧豊臣派の一掃を図る二代将軍・秀忠にあっさり改易を命じられてしまった。 | ||
;細川忠興 | |||
# | #当時の歴史書で「戦国で一番気が短い殿」と断言されてしまうくらい、とてつもなく短気。彼に比べれば信長など「相撲大好きおじさん」でしかないくらい。 | ||
# | #*あまりに気が短すぎて、自分の剣の兼定に「オレ、この剣で36人斬ったから歌仙兼定って名前にするわ」と言い出す始末。しかもこの36人は全部'''部下'''。 | ||
# | #**上記は創作らしいが30人近く殺したのは史実なんだと。 | ||
# | #***そんな性格なのに八十三歳まで生きた。ストレスを発散しまくったから? | ||
# | #降伏した相手も完全無抵抗でも皆殺しにする。あんまり殺し過ぎるので光秀(後述)から「降伏する者をやたらめったら殺しちゃダメなんだよ」とやんわり断り書きの手紙が来るくらい殺す。 | ||
#* | #*こんな性格のせいで、自分の妹婿を躊躇なく討ち取らせたため、妹がマジギレして顔に短剣で切りかかり、死ぬまで顔に傷が残った。武士なんだから避けろよ。 | ||
#妻は明智光秀の娘・玉。とても美人であったが、忠興は独占欲も強かったため、色目を使った(と勘違いして)庭師を妻の眼前で首チョンパしている。 | |||
#*玉はそれでも動じず「鬼のような殿には、蛇のような心の私がお似合いでしょう」と冷淡に言ったという。 | |||
#**その後、光秀は本能寺の変を起こし玉は謹慎となり、細川家に戻った時には忠興は妾を抱えていた。そんなんだから玉はキリスト教に帰依して「細川ガラシャ」に名を変えちゃうんだよ。 | |||
#こんな性格だから豊臣の学級委員長こと石田三成と反りが合うわけもなく、三成の書いた記録に「なんで俺、忠興公にここまで嫌われなあかんねん」と記されている始末。そんでもって、関ヶ原前哨戦で三成は細川屋敷を真っ先に狙い、その結果ガラシャは主の元に召される。 | |||
#要はヤンデレ。 | |||
;[[伊達政宗]] | |||
# | #古くから「もっと早く生まれていれば天下取りにも絡めていただろう」という見解が多い。 | ||
# | #*実際には外交の天才ながら戦にはあまり強くなかったのでかえって埋もれた可能性もあり。 | ||
# | #敵軍を味方ごと後ろから鉄砲隊で蜂の巣にして白を切る、馬を煽り運転して「前田利家様のお使いです」と言われ血相を変えて謝罪する、貴重な文化財を欲しいと言われ真っ二つにして片割れを渡すなど、ざんねんな逸話には事欠かない。 | ||
#*ちなみに上記細川忠興も文化財に関しては政宗と一緒に悪乗りしていた。政宗はともかく忠興、お前は当時日本最高峰のインテリだっただろうが。 | |||
#直江兼続にシカトされキレたところ、猛烈な嫌味で切り返された。 | |||
#*「後ろ姿しか存じあげなかったもので……」→負けて逃げ回ってばっかりのところしか見たことが無い | |||
;淀殿 | |||
# | #浅井三姉妹の長女で太閤秀吉の側室。 | ||
# | #*当時としては男よりも高い165㎝もの長身を持つ絶世の美女として知られている。 | ||
# | #しかし「織田一族の短気な所だけを受け継いだ」と言われるくらい気性が荒く空気が読めない。 | ||
# | #*もう少し大局的な見地を有していれば、豊臣家は滅亡せずに済んだかもしれない。 | ||
# | #ちなみに息子・秀頼には大野治長や石田三成の隠し子という説もある。その位秀吉に似てなかったらしい。 | ||
;島津忠恒 | |||
#薩摩藩初代藩主。島津義弘の息子で本名は家久(徳川家康の「家」の字を拝領した)だが、紛らわしいことに義弘の弟にも家久という人物がいるのでこちらで表記する。 | |||
# | #通称「DQN四天王・南の忠恒」。親父同様に気が強く、朝鮮出兵では10倍もの兵力をひっくり返した「薩摩隼人」だったのだが、あまりに気が強すぎた。 | ||
# | #性格が極めて苛烈かつ陰湿であり、気に入らない部下はすぐ殺してしまう。 | ||
#* | #*前掲の朝鮮戦争の時も、部下が'''朝鮮側に'''寝返ったほど人望が無かった。 | ||
# | #正室・亀寿(いとこ同士であり、父は義弘の兄・義久)をことあるごとに'''ブス'''と罵り続けており、子が出来なかった腹いせに、叔父にして義父の義久が死んだ途端に'''速攻で城から追い出し'''、当てつけのように側室を8人囲い、{{あきまへん}}しまくって子供を作っては政略結婚のダシにした。 | ||
# | #*この時亀寿のシンパを一族郎党虐殺した。 | ||
#朝鮮のみならず琉球でも侵略を重ねたため、後々まで島津の繁栄を築いたと同時に数百年にもわたる憎悪を買うことになる。 | |||
#ただ、こんなんでも(法律で殉死が禁止されてたのに)9人も殉死者が出たので、必要最低限の人望はあったのだろう。文化的には優れていた人のようで、「錦江湾」の名も忠恒の歌に因むという。 | |||
;小早川秀秋 | |||
#'''言うまでもない'''。 | |||
# | #しかし関ヶ原以前から非常に問題がある人物として知られていた。 | ||
# | #*秀吉の正室・ねね(北政所)の甥というだけでバカボンボンまっしぐらな少年期をおくり、'''元服前'''からねねに金をせびって酒色に溺れていた。 | ||
#* | #**それでも足りなかったのか、友人からも金を借りまくっていた。 | ||
# | #**また片倉重長の美男ぶりに惚れ熱烈に付きまとっていたなど、醜聞が絶えない。 | ||
#*朝鮮出兵ではっちゃけすぎたため、石田三成から疎まれて石高が1/2の越前に左遷。 | |||
#**その後、筑前に転封となり石高が4倍にまで膨れ上がるが…。 | |||
#知っての通り関ヶ原での裏切りの後、たった2年後に亡くなっている。享年わずか21歳。 | |||
#*その死因も「急性アルコール中毒」「大谷刑部の祟り」「裏切った罪悪感によるノイローゼ」'''「農民と喧嘩したら金玉を蹴られてショック死」'''など、どれもこれもろくな説が挙がっていない。 | |||
;宮本武蔵 | |||
# | #1000人に一人の異相と言われるほど、顔が怖かったとされる。しかもムサシは6尺(180㎝以上)もあり、恐れられていた。 | ||
#* | #*おまけに大の風呂ギライで、メチャクチャ臭かったらしい。 | ||
# | #*無敵、無敗と名高いが、実の所本当に強い人とは戦いを避け……いやなんでもありません。 | ||
# | #**イメージ通り卑劣、よく言えば策士だったことは事実なようで、一説によれば巌流島の戦いでは合図と同時に'''弟子と一緒に襲い掛かって'''小次郎を倒したという話もあるとか。 | ||
# | #最後の戦いとして天草四郎の島原の乱に出撃したが、投石が膝に当たって敗走。なんと、生涯初の敗北が生涯最後の敗北となった。 | ||
# | #ちなみに武蔵の著作「五輪書」にも偽書説が出ている。 | ||
#* | #[[NHK大河ドラマ/2000年代#武蔵 MUSASHI(2003)|彼をメインにした大河ドラマ]]は非常にざんねんな出来だった。序盤のあるシーンが「七人の侍」に似てると言われ黒澤プロ側から提訴され、そのときは棄却されたものの・・・ | ||
# | #*「芸術的な完成度が全然違うから」という理由だった。さらに「『武蔵』には『七人の侍』のような高邁な人間的テーマや高い芸術的要素はうかがえない」とまで言われてしまった。 | ||
#*同作は21世紀の大河ドラマで唯一ソフト化も再放送もされておらず、2016年に開催された大河人気投票では'''0票'''で最下位に…。 | |||
;薄田兼相<!--生没年不詳なので一番下に持ってくる。武蔵より若いということは無いと思うけど--> | |||
#「誰コイツ?」と言っている読者も、「狒々退治の岩見重太郎」と言えば1割くらいは伝わるかもしれない。 | |||
# | #*小早川隆景の剣術指南役だった父が部下に裏切られて殺され、流浪の果てに剣の腕を極め、仇討ちを成し遂げたということで有名な豪傑で、今でも彼の名をした柔術が残っているのほど猛者なのだが、ざんねんながら'''脳の出来が力に追い付いていなかった'''。 | ||
# | #大坂冬の陣では5000石の食い扶持を持つ大名として大坂方についたが、戦の最中に'''遊郭で飲み過ぎて'''その間に砦を落とされる。今川義元ですらそこまで慢心してはいなかったぞ! | ||
#*あまりのふがいなさに、「見掛け倒しで中身は食えない(役に立たない)」ということで「橙武者」という仇名で呼ばれてしまう。 | |||
#夏の陣においては霧でウロウロしている内に豪傑・後藤又兵衛を討ち取られてしまい、「あの後藤又兵衛を討ち取ったぞー!」とテンションが限界突破していた伊達・水野連合軍の総攻撃を受けて絶命した。 | |||
#*もっとも、この際に何人もの東軍兵をあの世の道連れにしており、(個人の武勇が)「強い」という最大の長所だけは発揮したまま華々しい最期を遂げられただけマシか。 | |||
==== | ==江戸時代== | ||
# | ;後水尾天皇 | ||
# | #花山天皇とタメ張れるくらいのスケベ。 | ||
# | #*お忍びで遊郭へ遊びに行ったり、宮中に遊女を招き入れて{{あきまへん}}を繰り広げた。 | ||
#*色んな女に30余人の子を産ませる。 | |||
#**56歳で出家後もお盛んで、58歳の時に識仁親王(後の霊元天皇)を産ませた。 | |||
#***この霊元天皇も父親譲りのスケベ。 | |||
#*徳川秀忠の末娘・和子が中宮として入内することが確定してたが、大坂の陣やらで入内が延期になってしまい、その間に典侍・四辻与津子に手を出して子供を2人孕ませてしまった。 | |||
#**幕府側が与津子ら関係者を内裏から追放処分したので、それに激怒して退位してやろうとしたら藤堂高虎に恫喝されて辞められなかった。これが「およつ御寮人事件」。 | |||
#*幕府が禁中並公家諸法度を制定したのは、このように風紀乱れ切った朝廷を見かねてのことだった。 | |||
#大の父親嫌いだった。 | |||
#*父・後陽成天皇は、徳川家康の意向で後水尾天皇へ譲位したことを納得しておらず、自分に対して冷たい態度で接してきたのをずっと恨んでいた。 | |||
#**父が崩御した時は、陽成天皇から採って「後陽成」と追号し、自分は陽成天皇の父である清和天皇の別名「水尾」から採った「後水尾」を遺諡にする。 | |||
#***つまり、わざと父子逆の追号をするという、歴史に残る嫌がらせをやってのけたのである。 | |||
;松倉勝家 | |||
#'''史上最低の大名'''と名高い。最大にして最後の農民反乱・島原の乱の諸悪の根源である。 | |||
# | #ハッキリ言って「ざんねん」というか「ざん'''に'''ん」な歴史上の人物であった。 | ||
# | #*'''前年度比250%'''という誰がどう考えても無茶な徴税を行い、年貢だけでは足りないため「死亡税」「窓税」などありとあらゆることに税金を課した。 | ||
# | #*勿論そんなにたくさん税を払えるわけもなく、勝家は農民に苛烈な拷問・処刑を繰り返した。 | ||
# | #**更にキリシタンに対しては蓑踊り(蓑を被せ火を点ける)などの処刑で弾圧した。 | ||
# | #その結果、天草四郎をはじめとする農民や国衆の怒りを買い、島原の乱が勃発。 | ||
# | #幕府も九州のみならず日本中の兵力を集めて鎮圧する大騒ぎになったため、「どうしてこうなった」と追及した結果、勝家が苛烈な年貢の取り立てを行っていたのが主因と判明。探ってみたら出るわ出るわ、'''屋敷からまで刑死者の遺骸が出た'''。 | ||
# | #これを知った家光(後述)は綱紀粛正のため、松倉家を改易。そして切腹すら認めぬ'''斬首刑'''に処した。江戸時代260年以上の歴史の中で、唯一斬首された大名となってしまったのである。 | ||
;徳川家光 | |||
# | #当時の男色は珍しくもなかったが、家光はあまりにも男好きすぎて、世継ぎが出来そうにないからという理由で大奥が作られる。 | ||
#* | #*後述の柳生十兵衛も家光の衆道相手だったとする説がある。 | ||
# | #*大奥から家光の枕元に女性を送る際に、'''わざわざ男装させ、男性名の通称を設定していた'''時期がある。 | ||
# | #**ちなみに、最初の妻は石田三成の曾孫。なんとも奇縁である。 | ||
# | #*そこまで筋金入りの同性愛者になったのは後天的な理由との説もある。母親(お江の方)との関係が悪すぎて極端な女性恐怖症になった、というもの。 | ||
# | #歴史上の知名度はあるが、だいたいの偉業は親父の秀忠と、優秀な部下(知恵伊豆、土井利勝、柳生親子他)がやってくれたおかげであり、このオッサン自体は大したことをやってない。 | ||
;柳生十兵衛 | |||
# | #とにかくひどすぎる酒癖。親父の親友である沢庵和尚から「君は酒だけは注意してくれ」と言われる始末。 | ||
#* | #*謹慎の原因も酔って暴れたから、家光を殴ったからという説があるくらい。 | ||
;徳川光圀 | |||
# | #若い頃の職業は『人間のクズ』でだいたいあっている。 | ||
# | #*昼間から酒を飲んで女を侍らせ、夜は'''辻斬り'''まで行っている。信長が可愛く見えるレベル。 | ||
#* | #その後、司馬遷の『史記』を読んで感動して猛勉強を始め(実に日本人の好きなパターンである)、藩主の座を継いでからは改革に乗り出した。 | ||
# | #*のはいいのだが、その結果として民にはメチャクチャ重税を敷いていた。 | ||
# | #**水戸藩挙げての大事業である『大日本史』編纂作業に予算をつぎ込んだため。光圀以降、明治になってようやく完成するまで、代々の藩主のライフワークとなっていった。 | ||
#将軍・綱吉の生類憐みの令に対し犬の毛皮を送り付けるという実に元ヤンらしい仕返しを行っている。 | |||
#ドラマでは悪者を懲らしめているが、史実では地元でめちゃくちゃ高い税を取っていた。 | |||
#かなりの食道楽で、(当時の価値観的には)ゲテモノ食いでもあった。「初めて〇〇を食べた日本人」に彼が名を残しているものが複数ある。 | |||
;小林一茶 | |||
#農家の長男として生まれたが、継母(相当性格が悪かったらしい)や腹違いの弟とあまりに仲が悪すぎて、父の死後、家を巡って13年にもわたってバトルを繰り広げた。 | |||
# | #52歳(当時からすれば老人である)で結婚するまで童貞であったが、非常に性豪であったため、毎日{{あきまへん}}の回数を日記につけている。しかも'''年間1000回を超える'''レベルで。 | ||
# | #*妻の夭折の原因も{{あきまへん}}による過労と言われている。 | ||
# | #*童貞をこじらせるとヤバイことになるという事実を後世に残した人。 | ||
#* | |||
;水野忠邦 | |||
#虎の尾でダンスダンスレボリューションした男。 | |||
# | #*過去に松平定信がやって失敗した緊縮財政を、何を勘違いしたんだかもっと強烈にするという愚行に走る。 | ||
#* | #前に改革を行った3人と違って水野忠邦は'''本当に誰からも好かれなかった'''というのだから、いかに天保の改革が悲惨であったかがよくわかる。 | ||
#*あまりに嫌われすぎて、失脚後に家が焼き討ちに遭っている。 | |||
# | #そもそも己の幕政参画の野心のために領地替え関連で贈賄しまくった末に家老が抗議の切腹をしたり、以後の禍根を残しまくっている。 | ||
#* | |||
# | |||
;鳥居耀蔵 | |||
# | #上記水野忠邦の腰巾着。通称「妖怪」「蝮の耀蔵」。 | ||
#* | #*よくロボットアニメとかに出てくる「[[ベタなダメ上司・上官キャラの法則|腐敗した組織の無能なくせにしぶとい上官]]」をイメージしていただくと''だいたいこのオッサン''である。 | ||
# | #極度の石頭であり、幕府軍の西洋式訓練に徹底反発。蛮社の獄を引き起こしている。 | ||
# | #*邪魔する奴は権力にものを言わせて左遷の嵐。かの「遠山の金さん」こと遠山金四郎も、天保の改革の行き過ぎた言論統制に文句を言ったせいで、鳥居にトばされてしまった。 | ||
# | #*しかも風呂や便所に筆硯を持ち込むほどの勤勉さであった。何でこういう奴に限ってサボり癖が無いのだろうか。 | ||
#* | #ところが忠邦が上知令を出すと、幕臣の腹積もりを伺い、手のひらを反して忠邦を糾弾する。 | ||
# | #*政敵のドンである老中・土井利位に密かに国家機密を横流しし、'''忠邦を失脚に追い込み'''、自分は元の権力の座を固持。 | ||
#しかし、江戸城の失火の責を取らされて利位は辞任。「他にいないので、<del>心底ざんねんだが</del>再び水野忠邦を大老とする」と12代将軍・家慶が命じたことにより、忠邦から恨まれて職を解かれる。 | |||
#<del>私怨</del>義憤に燃える忠邦に訴追された結果、'''全財産没収'''の末に丸亀藩に軟禁状態にされる。 | |||
#*その際には丸亀藩士たちから恨まれまくり、'''1年間一言も口をきいてもらえなかったり'''、私物をパクられたりした。どんだけ嫌われてたんだ…。 | |||
#*勿論市民の味方である遠山の金さんを冷遇したため、江戸の人々達からも嫌われていた。というか、好かれたという資料がほとんど残ってない。 | |||
#なお明治維新の際には「ワシに任せなかったから、日本はこうなったのだ」と言っていたという。なって良かったとしか言いようがない。 | |||
#こんな奴だが後のテレビドラマでは名優・岸田森が演じた(しかもかなりのハマリ役)。また時代劇TRPG『天下繚乱』では史実と全く異なるキャラクターになっている。どうなってんだか。 | |||
== | ==幕末~明治時代== | ||
# | ;西郷隆盛 | ||
#* | #知っての通り巨漢であるが、あまりに太り過ぎて「あんた、このままだと'''死ぬよ'''」と医者に本気で言われるほど太っていた。 | ||
# | #*仕方がないからダイエットを始めた。この時に犬を連れて野山を走っていたので、上野西郷像は犬を連れ浴衣を着ている。 | ||
#* | #**しかし、食事制限に失敗し激しい下痢にさいなまれ、一時期は一日50回もトイレダッシュしていた。 | ||
# | #フィラリアに罹ったため{{あきまへん}}がとても巨大化していた。 | ||
# | #*西南戦争で首実検を行った際<BR>兵卒「太って身なりの良いホトケがありました!」<BR>将軍「西郷どんとは限らんでゴワス」<BR>兵卒「で…ですがものすごく{{あきまへん}}がデカいんです!」<BR>将軍「逝ったでゴワスか西郷どん…」<BR>という会話があったというウソかホントかわからん伝説もある。 | ||
#*{{あきまへん}}を丸出しにしながら周辺の毛を火であぶり、「薩摩の焼き芋」と台詞を決める一発芸をやったことがある。 | |||
#鷹揚な性格のイメージを持たれやすいが、実は人に対する好き嫌いの差が激しかったらしい。 | |||
#写真を撮られることが大嫌いで、それがために'''明治天皇に抗命'''したことがある。 | |||
;勝海舟 | |||
# | #幼い頃に犬に金玉を咬まれて生死の境を彷徨い、死ぬまで犬がトラウマだった。 | ||
# | #イケメンだったのでモテたようで妾がたくさんおり、しかも子供を全部家で育てていた。その結果、正室・民子は死に瀕した時「た…頼みます! 海舟の…夫の墓に…'''入れないでぇ~~!!!'''」と言い残して死んだという。 | ||
#彼を主人公とした[[NHK大河ドラマ/1980年代以前#勝海舟(1974)|大河ドラマ]]はトラブルが頻発した。 | |||
# | |||
# | |||
;土方歳三 | |||
# | #写真からもわかる通りイケメンであったが、とにかく自信過剰。 | ||
#*新選組は女にモテた奴が多かったが土方はその中でも1番と言っていいくらいモテた。モテすぎて、現代で言えば中坊の時に奉公先の女に手を出してクビになるくらいモテた。 | |||
#* | #**「京都では私は若い婦人にモテモテで、国の為に働くことを忘れてしまいそうだ(意訳)」という手紙(ホレられた女の名前を全部書いている)を地元に送っている始末。 | ||
#* | #*刺繍や俳句もたしなんでいるが……要は中学二年生レベルである。(隊内からも不評だったらしい) | ||
#局中法度を作って部下の自律を促したが、あまりに厳しくし過ぎて切腹・暗殺だらけに。これが原因で優秀なブレーンだった山南総助や、弟分だった藤堂平助、有能な経理だった河合耆三郎などを失っている。谷三十郎? あいつはまあ別にいいや…。 | |||
#*最終的に新選組は戦死者よりも隊士に殺された奴の方が多いという破綻する組織の典型例のような惨状を招いた。 | |||
#* | |||
# | |||
#* | |||
;坂本龍馬 | |||
# | #明治になるまで生き延びていたら経済面でどれほど活躍していたことか…。 | ||
# | #友人の武市半平太の家でしょっちゅう立ちションをしており、あまりにいつも立ちションをするので武智夫人が半平太に注意するようにせがんだらしい。 | ||
#*ガキの頃は10歳になるまでオネショしていた話といい、なんでこうションベンに縁があるんだこの人は。 | |||
#* | #歴史上の超有名人だし、ドラマも何作も作られ「日本の夜明けぜよ」と言った人という事で知名度はあるが、実際、何をしたのかよくわかっていない。 | ||
# | #*海運商社の海援隊を作って、薩摩と長州をくっつけて、裏貿易をしていたということまでは分かるが、直接戦争にも政治にも参加していたわけではない。 | ||
#* | #日本史上初の海難審判の当事者になった際、現在の貨幣価値に換算し約137億4400万円を紀州藩から'''詐欺った。''' | ||
# | #*但しこの金は龍馬に渡る前に本人が死亡しており、どこに資金が消えたのかは大きなミステリーになっている。 | ||
#* | #**現場である[[福山市]]鞆の浦の観光ガイド原稿では「岩崎弥太郎横領説」を示唆している。 | ||
#* | |||
;岡田以蔵 | |||
#幕末四大人斬りの一人。前掲の龍馬の幼馴染で、結社「土佐勤王党」の最古参メンバーの一人。 | |||
# | #土佐藩は極めて身分制度が激しく、岡田家は最下層の足軽出身だったため学も無く剣しかすがるものが無かった。 | ||
#* | #*勿論我流だったので、親分の武市半平太にはかなわなかったという(土佐にいた頃の話)。 | ||
#* | #とにかく自分に自信が無さ過ぎたため、一回はずみで人を斬ったのを誉められたのをいいことに、「武市がウザいって言った奴を斬れば人気者になれる」と勘違いして暗殺に手を貸しまくった。 | ||
# | #*勿論武市もそれを止めるどころか推奨した。そういう時代だったのだ。 | ||
#…が、ここで調子に乗って酒と女に溺れたせいで捕まってしまい、拷問にかけられ、物凄くあっさり仲間を売ってしまった。結果的に、一番土佐勤王党で働いたのに、'''その土佐勤王党にトドメを刺した張本人'''に成り下がってしまった。 | |||
#*漫画『竜馬がゆく』とか大河ドラマ『龍馬伝』では激しい拷問に耐え…みたいな描写だが、あれは創作である。 | |||
#*あまりに簡単に口を割ってしまったので、武市からは「日本一の泣き味噌である」と嘆かれた。 | |||
#**しまいには'''毒殺用のまんじゅう'''まで送る計画が出た(未遂)。『龍馬伝』では楽に死ねるように、という解釈だったが、どう考えても怒りか呆れで送り付けてるよなあ…。 | |||
#死に際に反省したのか「武市先生によろしゅう」と言ったそうだが、武市からは「お前のせいだろがい!」と最後まで許してもらえなかった。 | |||
;高杉晋作 | |||
# | #金の扱いがルーズすぎる。 | ||
# | #*どうも公金とポケットマネーの違いが全く分からなかったらしく、藩の許可を得ずに4万両もの金をはたいて戦艦を購入している。 | ||
#* | #*藩命で「上海に行ってこい」と命令が下った時には、'''長崎で'''お小遣いを使い果たしたうえ、芸者を見受けまでした。んでもって、金が足りなくなったので、'''その芸者を売った'''(さすがに同意は貰ったうえである)金で上海に向かった。 | ||
;伊藤博文 | |||
# | #日本国初代内閣総理大臣であるが'''スケベすぎる。''' | ||
# | #*掃いて捨てるほど女がいたので「箒」という仇名を持つ。 | ||
# | #**留学時代にもイギリスで女遊びしすぎて金を速攻で使い果たした。 | ||
#**広島銘菓「もみじ饅頭」は茶屋の娘の手を掴んで「このように赤く可愛い手を食べてみたい」と言ったことからできたらしい。 | |||
#**40度の高熱に魘されているときでも枕元に芸者を2人も呼んでいた。 | |||
#*遂には明治天皇直々に「もう少し女遊びを控えなさい」と言われた始末。こんな人はおそらく世界で彼だけであろう。 | |||
#*愛人にした女性の最年少者は'''13歳'''である。 | |||
#今の首相官邸は、伊藤が'''女遊びで金をはたき過ぎて家を追い出された'''ためにわざわざ新しく作った住まいが元となっている。 | |||
#*伊藤は女以外には割と適当にしか贅沢しなかったので、使用人は奉公先が伊藤家だと決まった途端に「きつく言われずに済む!」と大喜びしていたらしい。 | |||
#ちなみにアダルトゲーム『School Days』の主人公・伊藤誠は博文から苗字が取られている。つまりはそういうことである。 | |||
#初代総理大臣の座を争った三条実美に最終的に競り勝てた理由は、三条に語学力が欠けていたことだけ。それ以外の要素はどれも不利だった。 | |||
;黒田清隆 | |||
# | #第2代内閣総理大臣。在任中に大日本帝国憲法が発布されたことで有名。 | ||
#* | #しかし超がつくほどの酒乱。 | ||
# | #*おまけに怪力の持ち主で、一度酔ったら周囲を破壊してしまうこともあったらしい。 | ||
# | #*北海道開拓長官だったころ、酔った勢いで'''大砲を撃ち、うっかり民間人を爆殺した'''。 | ||
#**遺族は'''「俺も金を払うから、黒田を爆殺させろ」'''と泣いて悔しがったらしい。当たり前である。 | |||
#*奥さんが病気で突然死した時も、「ああ、黒田さんなら(酔った勢いで)殺りかねんな」とか誤解されたらしい。どんだけだよ。 | |||
#酔っていなくてもかなり苛烈な性格だったようで、大隈重信からは「あいつはいつも拳銃を隠し持ってるし、気に入らない奴にはすぐケンカを売る物騒な奴だった」と暴露されている。 | |||
#ちなみに榎本武揚は黒田のことを「コイツは福島正則に知恵を足した奴だ」と評している。黒田と黒田節をかけたシャレかもしれないが、要はそういう人であった。 | |||
;三浦啓之助 | |||
# | #学者・佐久間象山の隠し子。 | ||
#* | #象山が河上彦斎に討たれたため、その仇を討つべく新選組に入ったのだが…。 | ||
#* | #新選組では親の威光を振りかざして威張り散らすばかりで、ドラ息子丸出しだった。 | ||
# | #*剣技が劣ることを同僚からバカにされた際には、土方と沖田が囲碁を打っているのを見物している所を'''闇討ちにしようとした'''始末であり、逆上した沖田から面罵された挙句に畳に顔面をぶつけて鼻に傷を作った。 | ||
# | #*おまけに仕送りの金をばらまいて郎党を手名付けており、沖田からは恨まれていたらしい。 | ||
#そして「隊を脱するを許さず」の禁を破って逃げ出し、故郷の松代で地元のDQNとつるんだ挙句'''「俺は新選組だぞぉ」と言いふらしていた'''。 | |||
#その後、'''無銭飲食がばれて'''逮捕され、西郷隆盛のとりなしで出所し慶應義塾に入ることになるが、ここでも素行が悪すぎて退学。 | |||
#呆れた勝海舟のコネで裁判官として就職するが、酔った勢いで人力車夫を殴って左遷。 | |||
#左遷先で結婚し一児を設けるも、34歳の若さで食中毒で死ぬという、死ぬまでざんねんな一生であった。 | |||
== | ==大正時代~太平洋戦争== | ||
;牟田口廉也 | |||
# | #大日本帝国陸軍の軍人で、「史上最低の作戦」の代名詞である「インパール作戦」の立案者。 | ||
# | #*当時、イギリス領であったインドを攻めるのに、ビルマ方面から物資輸送もままならないジャングルを超えて、インドの都市インパールを攻めようという作戦。 | ||
# | #*約9万人近い兵を動員して、飢餓やマラリア、英国からの攻撃により、7~8割が死傷するという有様だった。 | ||
# | #*「もし[[ベタなダメ上司・上官キャラの法則]]が現実に存在したら」を体現したような人物である。 | ||
#* | #インパール作戦で前線で戦う兵士が食料も物資も無い最中で、後方にいる作戦立案者の牟田口は料亭で酒と女を連日喰らっていたという。 | ||
#** | #物資を運ぶのに「自動車が無ければ牛に牽かせればいいじゃないか。食料にもなるし」とジンギスカン作戦を思いつくが、当の牛は足が遅くてイギリス軍の恰好の的になり、泳げないので河を渡ろうとして流される有様だった。 | ||
#*** | #物資が無くなって作戦継続が不可能となっても牟田口は撤退させず「武器が無いのなら腕がある、腕が無くなれば足で蹴ればよい、足も無くなれば口で噛みつけ、それが大和魂というものだ」と取り合わず。自身の無策を棚に上げて、精神論で片付けようとした。 | ||
#** | #前線指揮官の一人である佐藤陸軍中将は、物資食糧が尽きて補給が無く伝染病が蔓延し全滅不可避となった余りの惨状から、死刑になるのを覚悟して独断で撤退を決定する。 | ||
#* | #*司令部に補給要請を何度も送るも、いつまで経っても物資を送ってこない上に、牟田口からは「作戦を継続しろ」の一点張り。 | ||
# | #**決死の撤退戦を行った佐藤中将は、ボロボロになりながらも後方司令部にたどり着くやいなや「牟田口はどこに行った!今すぐ叩っ切ってやる!!」と怒号をあげる。 | ||
# | #***佐藤中将の剣幕をみて、恐れた牟田口は顔を合わせないようにとどこかに隠れていた模様。 | ||
#*佐藤中将が勝手に撤退したことに対し、牟田口は「気合と根性が足りないからだ!」「ジャングルなんだから食料になる草くらい生えているだろ!」と佐藤中将を罵倒する。 | |||
#**牟田口は、飢餓と病で苦しむ兵を集め、訓戒と称して佐藤中将の悪口を長々としゃべるが、栄養失調で気力を失っている兵は訓戒中に次々に倒れていった。 | |||
#インパール作戦の失敗に多少は責任を感じて部下に「自刃して陛下にお詫びしたいのだが」と問いかけるも、部下は「一応、私の役割だから上官が自刃すると聞いて止めないわけにもいかないが、古今東西、人に死ぬと告げて実際に死んだ人間はいません。閣下が少しでも責任を感じ、本当に自刃する意思があるのならば、誰にも告げず自刃してください。」とバッサリ返される。 | |||
#*戦後も生きながらえ続けている通り、そういわれても自決なんてしなかった。 | |||
#戦後「インパール作戦の失敗は、自分のせいでなく、部下が無能だったためだ」と喧伝し、一切反省はしなかったという。 | |||
#余談であるがゲーム『パワプロクンポケット2』の裏サクセスで無能な参謀長「任月高志」が登場するが、そのモデルは牟田口であり、やっていることがほぼ全部牟田口の逸話そのまんまである。 | |||
==関連項目== | |||
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2020年12月25日 (金) 17:57時点における版
※編集される方は「Chakuwiki:お願い/ざんねんなモノ事典」をご覧ください。
- 1900年以前に生まれた人物でお願いします。
- 以下は出来る限り年代順に並べていただくと助かります。
鎌倉時代以前
- 天智天皇
- とにかくビビリ屋。少しでも造反の気配があったら即刻殺してしまう。
- 元がほぼクーデター(乙巳の変。まあ、これは蘇我親子が調子に乗り過ぎていたからだが)で権力を手にしたようなものなので、奪われるのは怖かったんだろう。乙巳の変の実行犯である蘇我石川麻呂も自害させてるし。
- 更に白村江の戦も「ヒィィー大陸が攻めてくるぅー!」とビビりすぎて出兵させたようなものであり、負けたら「ウワァー! 攻めてくる! どうしよ! どうしよ!」と防人制度まで作った。
- 今際の際に大海人皇子(弟、後の天武天皇)に皇位を譲ろうとしたのも勿論難癖付けて殺す為であり、出家されたことで肩透かしを食らう。そして死後に息子は大海人に討たれる。
- 聖武天皇
- 藤原広嗣の乱の最中に行幸を始めたり、遣都を繰り返したり、仏教にのめりこんで寺をあちこちに建てたりとメチャクチャして、官民の受けがよくなかった。
- これら一連の事件は長屋王の祟りなどと言われる。聖武天皇がロクに調べもせずに、藤原氏による長屋王叩きを「かまわん、ドンドンやれ」と放置したせいで、ほとんど何も悪い事をしていない彼の自殺を招いた。
どこかで聞いたような話である
- これら一連の事件は長屋王の祟りなどと言われる。聖武天皇がロクに調べもせずに、藤原氏による長屋王叩きを「かまわん、ドンドンやれ」と放置したせいで、ほとんど何も悪い事をしていない彼の自殺を招いた。
- 元々藤原家は天皇家にすり寄っていたが、聖武天皇が光明子を「皇后」にしてしまったせいで藤原氏の台頭を招く結果となる。
- また、天下一の公共事業である東大寺盧舎那仏建立に着手するも、結局大仏が完成する様を見る前に崩御した。
- なおその大仏は5回も破壊されている。
- 大仏の表面に施す金メッキによる水銀公害で、平城京は甚大な被害を受けてしまったので長岡京へ遣都したのではないか、という仮説が近年浮上している。
- 1873年(明治5年)にグレゴリオ暦へ移行した際、換算間違いにより、崩御日が1日早くなっていた。
- 約140年後の2012年(平成24年)に、ようやく正しい崩御日に訂正された。
- 孝謙天皇/称徳天皇
- この人のせいで、万世一系の天皇家が危うく途絶えるところだった。
- 男を知らずに育つとどうなるかがよく判る事例。
- 宗教にハマりすぎるのも怖いね。
- 言い方は悪いがこの親にしてこの娘在りということかねぇ…。
- 男を知らずに育つとどうなるかがよく判る事例。
- 趣味は、自分の気に入らない人間に、お下劣な名前を付けること。
- 桓武天皇
- この人もビビリ屋。
- 父・光仁天皇の皇后だった井上廃后とその息子の他戸廃太子、弟の早良廃太子と、身内に非業の死を遂げた人達を怨霊として恐れ、彼らへ追称を送ったり、慰霊する寺院や神社を建てたりと、それはもうビビりまくった。
- 早良親王については、聖武天皇と同じようなことをして死に追い込んだ故、後年は自責の念にとらわれていたようで、流刑した淡路国からわざわざ大和国へ改葬し、「崇道天皇」と追称したりしている。
- 平城京から長岡京に都を遷すも、災害やら身内の不幸が起きまくったことにビビり、そこから更に平安京へ遣都した。
- 石上神宮から神宝を運び出したら病気になり、自分の歳と同じ人数の僧侶にお経を読ませて、神宝を納め直すも回復せず、崩御してしまった。
- 父・光仁天皇の皇后だった井上廃后とその息子の他戸廃太子、弟の早良廃太子と、身内に非業の死を遂げた人達を怨霊として恐れ、彼らへ追称を送ったり、慰霊する寺院や神社を建てたりと、それはもうビビりまくった。
- 花山天皇
- 一言で言うなら変態。
- 父の冷泉天皇も、手紙にでっかい×××××の絵を添えて送るほどの変態であったが、花山天皇は性欲の権化の如きお方であらせられた。
- 即位式の真っ最中に女官と×××××を行った。当時16歳なのに…。
- 即位後も親子丼に明け暮れる始末であった。
- 奥さんが死んでしまったため「オレもう出家する!」と言い出し、周囲からは「陛下ならそのうち飽きて還俗するだろ」と陰口を叩かれた。
- 結局在位2年で出家するが、そのときまだ19歳である。性欲が収まるわけがなく、女には手を出しまくり。
- あまりにスケコマしすぎたため、恨みを買って暗殺されかけた。しかもそれをダシに藤原道長はライバルを蹴落とし出世した。
- 西国三十三所巡礼を復活させた人物として有名であるが、第20番札所の善峯寺は花山院崩御後の創建なので、明らかに矛盾している。
- 菅原孝標女
- 本名不明なのでこう表記するしかない。『更級日記』の作者。
- 通称1000年前のお前ら。やる事なす事とても1000年前の人物とは思えないほどアグレッシブ。
- 物語を読みたすぎて、13歳の時に薬師如来像(等身大)を彫る。しかもその内容が「この世の全ての物語を読ませてください」。海賊王かお前は。
- やっと都入りを果たすと、源氏物語の写本を手にした途端部屋に引きこもり数日間微動だにしない。
- 親も呆れて勉強しろと言ったが、耳に入るわけも無かった。
- この時の心境が凄い。「ひき出でつつ見る心地、后の位も何にかはせむ」!! 当時の皇后はいわば「全世界のNo.2」であり、それすら今の心地には劣るわ! というわけ。
- こんなんでも一応結婚は出来たが、30歳になってからなので当時ではかなりの行き遅れ…。
- 更級日記とはいわば「子供たちも独り立ちし、夫にも先立たれた菅(ryの心境を綴った日記」であり、上記のようなイカれた回顧録の末には「こういうことはやるものではない」と結論付けている。
- 梶原景時
- 鎌倉幕府の重鎮であるが、豊臣で言う所の石田三成ポジション。
- 逆梶論争が有名なように、とにかく敵を作りやすいやつ。
- 説明力が高かったらしく、報連相をきちんとするという点では評価できるのだが(笑)。
- 空気を読まずに勇猛果敢な畠山重忠をボロクソに非難したことで、より源氏の猪武者どもから恨まれるようになった。
- ついには頼朝の死後、我慢の限界が来たのか66名もの連判(勿論重忠も含む)で訴追、失脚の後に襲撃を受けて一族郎党滅ぼされる。死人に口なし。
- 余談だが、茨城県の一部地域ではゲジゲジのことをカジワラと呼ぶ。深くは探るまい。
- 平宗盛
- 平清盛の息子の中でもできの悪いほう。
- 兄の重盛や、弟の知盛などは武士らしく武勇に優れているが、宗盛はというと臆病で、とても武士らしくなく「驕る平家は久しからず」を体現している。
- 清盛が亡くなり、すでに嫡男であった重盛も亡く、平家の棟梁として指揮をするも戦経験もほとんどなかったので、そのほとんどは弟の知盛まかせになっている。
- 壇ノ浦の戦いで、義経軍に敗れた平家武士が次々に入水自殺をする中、どうしたらよいのかわからずオロオロするばかりであった。
- それを見かねた家臣が「お供いたす」といって入水するも、無駄に泳ぎが得意だったため、死ぬことができず源氏方に捕縛されてしまう。
- 鎌倉に護送され、頼朝から死罪を賜るがその最中、ずっと頼朝にへりくだり、命乞いをしたという。
- 北条政子
- 鬼嫁。
- 当時としては非常に珍しい恋愛結婚であり、夫・頼朝が浮気した際には浮気相手の家をハンマーでぶっ壊している。
- 政治的には非常に優秀だったが、優秀過ぎて自分の息子たちも最終的に死に追いやる結果を招く(意図していたのではないと思うが)。
- 彼女と弟の義時によって頼朝の重臣たちはほとんど始末されている。前漢の呂一族かよ(呂一族と違って完全に夫の一族を滅ぼしている分たちが悪い)。
- 最終的に頼朝との間の子は全て先立たれ、源氏政権は数十年で滅亡している。
- 源義経
- 戦しか得意じゃなかった英雄。兄の頼朝は戦だけがダメだったので性格も真逆(女癖は同レベルだが)。
- 政治的センスの欠如のせいで、「俺は頼朝兄さんの弟だから鎌倉武士より優遇されているはずだ」と思い込み、後白河法皇から官位を躊躇なく受け取り決定的な亀裂を生んでしまう。
- その戦の方法も奇襲とか放火とか、木曽義仲と大差ないレベルのDQNぶり。
- 彼らだけがそうだったわけじゃなく、基本的に源氏はやり方が汚い。
- 特に問題視されたことが、非戦闘員(船の漕ぎ手など)への加害行為。当時の価値観では絶対的なタブーだった。
- 平家物語では「出っ歯で背が低く、平家の中の選り屑よりもブサイク」などと不必要なまでに容姿をけなされている。
- 両親が美男美女だったんだから彼だけそこまでブサイクだったとも思えないので、ブサイクだった方は山本義経という別の武将ではないかという説が濃厚。
- 隣にいつも弁慶がいたから相対的にチビに見えたという説もある(笑)。
- 生存し蝦夷地(北海道)からモンゴルに渡りチンギス=ハンになりましたというのはとっくに否定されている。
- 北行伝説に至ってはアイヌへの同化政策のために義経北行伝説が利用されたこともあった。いわば家系に義経の名を加え箔をつけ見栄を張ったというわけである。
- しかもアイヌの伝承では義経は悪役になることが多かった。
- 北行伝説に至ってはアイヌへの同化政策のために義経北行伝説が利用されたこともあった。いわば家系に義経の名を加え箔をつけ見栄を張ったというわけである。
- 四条天皇
- 歴代皇室で最も
4コマ漫画みたいなざんねんな御崩御を遂げた天皇。- ある日のことです。陛下は廊下をご覧になり、「この廊下に滑る石を置いたら転ぶかもな」とお思いになられました。
- 陛下は試しに石を置いてみましたが、本当に滑るのか気になって、自分でお試しになられました。
- ところが陛下が石を踏んでみると、思った以上に滑りました。そして、別の石がたまたま転んだところにございました。
- 頭をお打ちになられた陛下はそのまま12年の短い一生を終えました。
室町時代
- 足利尊氏
- 室町幕府初代将軍であるが、生きている内に乱戦を終わらせられなかったどころか、むしろ悪化させている。
- 一般的なイメージ(後述)とは異なり、尊氏は「私は早く隠居してゴロゴロしたい」という手紙を残しているくらい、めんどくさがり屋であった。
- まず建武の新政の折、弟の直義が鎌倉幕府残党に虐められていたので、尊氏は後醍醐天皇の許可を得ずに出兵。尊氏をウザがっていた後醍醐帝は「尊氏が関東の武士を手下にして、鎌倉幕府を復活させる気だな」と難癖をつけて新田義貞に尊氏討伐令を下す。
- これを知った尊氏は「私はそんなことしましぇぇーーーん!!」と即出家して隠居。勿論その程度で新田軍は攻撃をやめず、直義はボコボコにやられる。ヘタレか!
- 結局尊氏もボコボコにやられ、北朝を開いて抵抗。後醍醐一味に逆襲したが、鋼鉄メンタルで吉野に逃げた後醍醐帝は南朝を開き、南北朝時代が開始される。
- ところが今度は尊氏の執事・高師直が直義と政争に明け暮れ、直義は南朝に逃げて猛襲。ではここで尊氏は何をしたか!?
- はい、諸悪の根源である師直を見捨てて逃げました。人として正しいことにしろ武将としてそれはどうなのか。
- その後、心労がたたって直義共々病没。これにより更に南北朝の戦いは激化していく。
- 要するにヘタレであり、消極的な方に消極的な方に逃げて保身にばかり走ったせいでこんなにわかりづらい歴史を歩ませている。筆者も学生時代は「何がしたいんだこいつは!」と頭を抱えながら歴史の勉強をしていた物である。
- 更に、南北朝時代を作った張本人ということで、幕末~戦前にかけては「勇者」楠木正成を崇め奉るためのわかりやすい「魔王」にされ、木像が義詮(息子)・義満(孫)共々首を刎ねられるわ、教科書でも平清盛と並ぶ極悪人呼ばわりされるわ、尊氏ファンだということがばれただけで国会で訴追されるわ、日本史史上No.1の嫌われ者扱いされていた。
- 足利義教
- 室町幕府6代将軍。かの有名な3代将軍義満の子(三男説が有力)。
- 元々出家していたが、5代将軍義量(義教の甥っ子)が早死にしたため、くじ引きで選ばれた。
- くじ引きで選ばれた負い目故に、部下をうんと厳しく縛り付けたため、万人恐怖とまで呼ばれた。
- 闘鶏の見物人に道を遮られたのに激怒し、都中から鶏を追放した。
- 酌の仕方が下手だっただけで侍女の髪を掴んで切り落とし、出家させてしまった。
- あまりにバンバン部下を手打ちにするため日親という高僧が説教に来たが、カッとなって灼熱の鍋を被せ、舌を切り落とした。
- こんなんだから家臣の赤松満祐があまりにビビり過ぎてしまい、「やられる前にやるしかない」と決起して嘉吉の乱を起こして殺された。厳しすぎる締め付けが逆効果となったのである。室町幕府としては初の暗殺された征夷大将軍となる(後に13代・義輝も暗殺される)。
- 足利義政
- 室町幕府8代将軍。今でいう、オタク。
- 超口うるさい乳母や重臣たちが何でもかんでも決めてくれた(最も義政の父・義教があまりに強烈なワンマンだった反動かもしれないが)ので、「義政」という名前にもかかわらず全く政治に興味を示さず、もっぱら芸術にばかり関心を示していた。
- 銀閣を建てたのもこの人であり、日本のわびさびを含んだ文化は義政の後ろ盾あって完成されたと言える。評価できるのはここだけである。
- 当時、芸術家というのは最低の扱いであり苛烈な差別を受けていた。しかし義政はそーゆーのに全く興味を示さなかったため、身分に関係なく優秀な(芸を持つ)人は丁重に召し抱えた。
- 銀閣を建てたのもこの人であり、日本のわびさびを含んだ文化は義政の後ろ盾あって完成されたと言える。評価できるのはここだけである。
- そして「もう一刻も早く将軍を辞めたいから、子供もできないし弟・義視に譲ってやる」と言い出した途端に息子が生まれ、鬼嫁・日野富子の後押しもあって応仁の乱が勃発してしまう。
- この最中も戦争をうっちゃらかして芸術に金を使っていたため、富子は「あのバカ夫め~!」と激怒しながらも政治改革に次ぐ政治改革を行い、市民を滅茶苦茶に搾り取りつつかろうじて幕府の運営を保っていた。
- が、応仁の乱は予想以上にグダグダとなり、京都周辺は灰燼と化し、結局何のために戦争をしているのかもわからなくなって義視も降参し9代将軍は義尚となった。
- 日野富子
- 足利義政の正妻で鬼嫁。
- 同じ鬼嫁でも北条政子の場合、武家政権確立の為にと辣腕を振るった尼将軍だったが、こちらは守銭奴といった方が良いかもしれない。
- 足利義尚と足利義視との後継者争いの体で始まった応仁の乱勃発の原因の一人であるが、この混乱に乗じて金儲けをしようとたくらむ。
- 敵味方関係なく、戦費に困った東軍・西軍の諸大名に高利貸しを行い、自分の懐を蓄えようとする。
- 足利義尚
- というわけで、親はオタクでも子は育つということで選ばれた9代将軍。
- 「緑髪将軍」と言われるほどの美男子で、女の子にモテモテであった。しかしこれが彼の悲劇を生む。
- 応仁の乱が原因で信用が地に落ちた幕府の威光を取り戻す為、六角氏征伐などを敢行。母譲りの才覚と父譲りの芸術観を持ち多くの人に慕われた。
- …のだが、あまりに働き過ぎで遂にプッツン来てしまったのか、六角征伐終了後に突如として女狂いとなり、浴びるように酒を飲んでは×××××にふけった。
- その結果、わずか25歳で早逝。父よりも先に逝く親不孝により、義政は心身を病み後を追うように亡くなった(55歳没なので人生わずか50年の時代としては大往生である)。
- 武田信長
- 武田信玄でおなじみの甲斐武田氏の傍流にあたる、上総武田氏(真里谷氏)の祖。
- ネーミングだけ見ると、「武田」と「信長」で何かと強そうなイメージだけは湧く。
- 上総一国でおよそ10万石を有する有力な大名ではあるが、戦国時代の主戦場である畿内から離れた関東にあるので、何かと歴史の片隅に追いやられている感が強い。
- 信長の野望より、前の時代のひとなので、ゲームには登場しない。
- 一休宗純
- 僧侶の中ではかなりのスケベだった。
- 男色だけではなく女犯も平気で行い、森侍者という愛人がいたり、実の子供の弟子がいたりした。
- 彼の漢詩集「狂雲集」では女性との×××××のことが多く詠まれている。
- 細川政元
- 一言で言うならオカルトおじさん。
- 「半将軍」と呼ばれるほどの権力の座にありながら、天狗となって空を飛ぶことを夢見る修験道オタクであった。
- 度々公務をすっぽかして「旅に出ます」と書き残して失踪したり、後柏原天皇の即位式を「意味がないから」と言って中止させたりと、もうムチャクチャ。
- そのため名門細川家の当主でありながら生涯独身であり、養子を3人貰っているが、そのせいで派閥闘争が発生。
- しかし我関せずと修行にふけっていたため、風呂場で行水していた所を暗殺される。
- ちなみに、信長より先に本能寺を焼いている。
戦国・安土桃山時代
- 佐久間信盛
- 信長のかなり古い家臣で、「退き佐久間」の異名を持つ重臣だが…。
- 裏を返せば「攻めには使えない」って言ってるようなものである。
- あまりに使えなさ過ぎて「もうお前いらんから、敵の城でも分捕るくらいの手柄立ててくるかサッサと隠居しろ、イヤなら腹切れ」というとんでもない命令を受けてしまった人。
- その際に19項目にも及ぶダメ出しを受けており、相当に苛立たせていたことが推察される。
- 基本的に信長は下っ端は即手打ちにするが重臣は割と大事にするので、ここまで怒らせてしまった人は彼と明智光秀くらいであろう。
- 大友宗麟
- 名代のスケベさで名を遺した。
- あまりに好色すぎるため腹心の立花道雪からも叱責されている、と歴史書に残されてしまっている。
- グチグチ行ってくる道雪がムカついたようでペットの猿を嗾けて脅かそうとしたら、逆に鉄扇で一撃粉砕(物理)されてしまい猿のように反省した(創作説があるが、そういう創作が出てくるくらいざんねんな人物であったことは事実である)。
- あまりに好色すぎるため腹心の立花道雪からも叱責されている、と歴史書に残されてしまっている。
- 知名度に反して意外と敗北回数が多い。
- おまけに奥さん(重臣の妹なので無下に扱えなかった)が悪魔のように恐ろしかった、と宣教師が語っており、キリシタン大名なのに嫁さんがキリシタンを弾圧していた。
- 出自は奈多八幡宮の宮司の娘。当然、夫とは信仰で相いれない。
- 当時のキリスト教関係者は、彼女に対し旧約聖書に登場する悪女にちなむあだ名を付けていた。
- いうまでもなくチート武将であるが、重度のアル中。
- 馬の上で飲酒するためにわざわざ特注の盃を作らせていた。飲酒運転じゃん。
- しかも塩(敵に送るくらいだからたくさんあった)や味噌や梅干しといった高血圧まっしぐらメニューをつまみに浴びるように飲んでいたので、冬にトイレで気張り過ぎて脳の血管が切れて死ぬ。(まあ49歳だから早逝ではないんだが)
- おまけに後継者を決めずに何の前触れもなく突然死したので、甥の景勝と養子の景虎で大戦争が勃発してしまう。
- 生涯不犯(未婚)であり、美少年をたくさん侍らせていたという逸話からガチホモ、もしくは女性だと言われている。ホントかよ?
- そもそも女性説自体学者の勝手なる思い込みから生まれたものであってまぁまずないと思われる。(当時の学者からも酷評された)
- だが否定されながらもサブカル界隈ではいろんなところで女性版謙信が登場している。
- そもそも女性説自体学者の勝手なる思い込みから生まれたものであってまぁまずないと思われる。(当時の学者からも酷評された)
- さらに近年では、後述の弱い方のオダの城の人間を食い扶持に困るからという理由で売り飛ばしていたことが判明している。勿論、謙信以外の武将もこのようなことは当たり前のように行っていた。
- また「敵に塩を送る」の美談は、現在では「塩を有料で売り捌いた」ということが判明している。世の中そう甘くはないのである、塩だけに。
- 小田氏治
- 通称「弱い方のオダ」。
- 小田城の城主であったが6回も奪われており、史上最も城を奪われたことが多い大名として知られる。
- 裏を返せば5回は取り戻している(最後は取り戻せなかった)わけでただ弱いだけではないのだが…。
- 最後は豊臣秀吉の小田原征伐の巻き添えを喰らって惣無事令違反で全領地を没収されてしまい、結城秀康の家来にまで零落れてしまった。
- 裏切られすぎ。
- 日本の歴史で一番たくさん謀反を起こされたのではないかと言うくらい、裏切られて裏切られて裏切られまくった。
- 最終的に一番目をかけてた奴に裏切られて死んだ。
- 最初に裏切った弟の信勝は、一度許してやったのにまた裏切ったせいで殺す羽目になった。これはまあ信勝が兄を舐めすぎたというのもあるが。
- 従わない奴はキルオブゼームとばかりに殺しまくるほど短気な割に、身内と優秀な奴には評価が甘いので、悉く裏切られ、何度も包囲網を敷かれる羽目になる。
- 日本の歴史で一番たくさん謀反を起こされたのではないかと言うくらい、裏切られて裏切られて裏切られまくった。
- 一方本人はそんなに裏切ったことはない。せいぜい足利義昭を操ろうとしてたくらいか。
- 肝心な時に限って雨がやたら降る「雨男」であり、せっかく鉄砲戦術で戦争史に革命を起こしたのに、雨のせいで火縄銃が全く使えず完敗ということもあった…。(まあ、桶狭間に関してはそれが勝因になったんだけどね)
- 食生活の内容が不健康すぎていた。40歳を過ぎたあたりから糖尿病の合併症由来と思われる体調不良の記録が多く見受けられる。
- 40前後でそうなるということは30代前半あたりで既に基礎疾患として持っているということ。それゆえ、仮に本能寺の変が無かったor切り抜けられたとしても早々に表舞台から退場となったかもしれない。
- 実際には「普段はどっしり構えていられるけどいったんキレてしまったら誰にも止められない」と言ったところだが、どういうわけかのべつ幕無しでキレまくっているような誤解を持つ人も多い。
- 荒木村重
- 織田信長に仕えた戦国武将で、茶器マニア。
- 羽柴秀吉が播磨攻めをやっている最中に、突然信長に反旗を翻す。
- 秀吉の死者としてやってきた黒田官兵衛を捕縛して、1年間土牢の中に監禁する。
- 信長に反旗を翻したまでは良いが、結局負けてしまう。
- 負けるのはやむなしとしても、平蜘蛛をかかえて爆死した松永久秀と違うのは、自分の家族や家臣を見捨てて一人、茶器コレクションをかかえて逃亡したという事である。
- 謀反を引き起こした当事者は単身逃亡中の最中、残された妻子をはじめとした一族郎党は皆処刑される。
- 妻の「だし」は当時でも楊貴妃に例えられるくらい美人との評判だったが、その美人の妻よりも自分の命と茶壷の方を優先した。
- こうして、あまりの無念さに自分の名前を「道糞」に変えてしまった。
- 結局、信長が死んで何十年も経った後秀吉に「もう流石にええやろ」と許されて「道薫」の号となる。
- 日本史上最も出世した男であるがゆえに、良くも悪くも庶民的。
- 当時男色は当たり前だったが、農民(下級武士説もあり)出身だったため一切そんなことは考えず、女を死ぬほど侍らせていた。
- イケメンの部下を見つけると「ねぇ~ん、姉か妹居ない~?」としつこく問い詰めた。
- あまりに美女に目が無さ過ぎるため、後述の細川忠興なんかは奥さんに「天下人に言い寄られそうになったら自害しろ」と本気で帯剣を勧めていた。
- しかも己の出自の低さ故に、高貴な身分の女性を特に好んでいたという。
- そこまでスケベだったにもかかわらず子供が出来るのが非常に遅く、2代で御家断絶となってしまった。こればっかりはしょうがないが。
- イケメンの部下を見つけると「ねぇ~ん、姉か妹居ない~?」としつこく問い詰めた。
- 当時男色は当たり前だったが、農民(下級武士説もあり)出身だったため一切そんなことは考えず、女を死ぬほど侍らせていた。
- 天下統一後はハッキリ言ってボケ老人である。
- 二度の朝鮮出兵、利休抹殺、秀次を一族郎党抹殺したうえに「殺生関白」の汚名を被せると、もうやりたい放題。そりゃ次の代で滅ぶわ。
- 何もかも金ピカで飾るという足利義満の猿マネに走り、千利休からも失望される。
- もっとも彼の親友である前田利家も同じようなことをやっていたのでヤンキー友を呼ぶとでも言うべきなのか…。
- ストッパーである弟・秀長が先に逝ってしまったのがターニングポイントだったのだろうか…。
- 「恐れさせた男」があまりに多すぎる。
- 何でもかんでもビビりまくるほど小心者だったからこそ、あれほど盤石な政権を建てたのも頷ける。
- 我慢強いくせに気が小さく、三方ヶ原の戦いでは「よっしゃ! 信玄の野郎ワシらに背向けよったがね! 今のうちに追撃だぎゃ!(方言間違ってたらごめんなさい)」と突撃してまんまと返り討ちに会い、ウンコを漏らすほど完敗する。
- 我慢強いイメージどおり非常にケチであり、「フンドシは黄色いものを使え、汚れても目立たないから何百回も洗濯できる」と言いつけていたほど。
- また秀吉に並ぶほど助平であり、青年期によそで愛人を囲いまくったために正室・築山殿から何度も叱責されている。
- まあ子供がやたら多かったがために男は親藩・譜代に、女は外様大名に嫁がせ盤石な政権を作れたのは秀吉と真逆と言えるが。
- 山内一豊
- 嫁さんのオマケ。
- というか、地元以外では嫁さんの逸話しか知られてない。『功名が辻』はよくやったよ。
- その地元では長宗我部派一層の為に「親睦を深めるために相撲大会を開きます」と言って一か所に集め、全員撃ち殺して黙らせたというひどい話が残っている。
- 嫁さんの話は信憑性がないが、こっちは史実と確定している。最近は慰霊祭も行われた。
- その後も長宗我部一派は差別されまくり、一豊の死後は上士下士の制度が幕末まで残り悲惨なことに…。
- 毛利輝元
- 凡人すぎる…。
- 優秀な祖父や叔父たち、人望高かった父と異なり、突出した才が無く極めて地味。「毛利輝元のやった最大の偉業は、関ヶ原の戦いで何もしなかったこと」とか言われるくらい。
- 足利義昭という負債を抱え、秀吉には散々にやられて朝鮮出兵で全体の4割もの将兵をねん出され、関ヶ原の戦いでは「何もしなかった」が故に処刑は免れるがド田舎に転封、せっかく建てた広島城は分捕られ、後継ぎ騒動は勃発し…。
- 織田信雄
- 信長の次男で、スケート選手・織田信成のご先祖様なのだが…。
- 非常に素行に問題があり、「うつけ」な所しか受け継がなかったなどと言われる。
- 「攻めるな」と言われたのに、領地欲しさに伊賀を強襲。石を投げれば忍者に当たるような戦闘国家・伊賀に無策で突っ込み、大敗。
- あまりにぼろ負けしたので「親子の縁切ってやる」と書状に残すほどキレた父ちゃん信長が総攻撃し、伊賀が一時期壊滅状態に陥る。その後家康の庇護下に入るが。
- 本能寺の変で父と兄が死ぬと、勝手に安土城に火をつけて焼いてしまう。
- そのせいで信長の後継者を決める清須会議でも誰も推薦せず、尾張一国を渡され大人しくしているように言われる。
- 賤ケ岳の戦いでは秀吉に乗せられ、まんまと異母弟・神戸信孝を敗死させてしまう。
- が、その秀吉から冷遇されたことに怒り(立て直した安土城から追い出された)、家康と結託して小牧・長久手の戦いを起こすが…。
- 途中で面倒になって家康に無断で秀吉と講和。これには家康もポカーンであった。
- こうして秀吉の手下に成り下がり、三河への転居を命じられるも、「俺の故郷だから」と言い張ったため改易を喰らう。天下人の息子がこの扱い…。
- その後、家康のおかげでなんとか大名に戻る。この恩義を感じてか、大阪の陣では西軍方でありながら最後は東軍に寝返り、5万石を得た。
- 「攻めるな」と言われたのに、領地欲しさに伊賀を強襲。石を投げれば忍者に当たるような戦闘国家・伊賀に無策で突っ込み、大敗。
- あまりに「うつけ」だったため、周囲からは「三介殿のなさる事」と呼ばれ呆れられていた。
- 森長可
- キング・オブ・殺人狂。
- 初陣で27個の首を挙げたのを皮切りに、数々の戦で武勲を立てまくった。
- 森家の当主なのに自ら槍を振り回して単騎で突撃し、慌てて部下たちが追いかけていくという、戦国時代なのに三国志みたいな合戦を行っていた。
- が、民間人の虐殺も率先して行っており、非常に評判が悪い。
- 「人質を無事に国境で解放する」と言っておいて、解放した直後に全員殺す、なんて序の口。
- 武芸一辺倒ではなく卑怯な手も平気で使う策謀家であり、清州会議後は神戸信孝(信長の3男)を利用するだけ利用した挙句、旗色が悪くなるや否や寝返っている。
- カッとなったら味方でも平気で殺してしまうため、小牧・長久手の戦いで戦死したら味方からも泣いて喜ばれた。
- ちなみにこの鬼を倒したのは井伊直政と水野勝成という、長可に勝るとも劣らないざんねんなコンビである。
- 初陣で27個の首を挙げたのを皮切りに、数々の戦で武勲を立てまくった。
- 何より恐ろしいのはあの超短気な信長に、1度も怒られたことが無いと言う事である。弟のコネとはいえ…。
- ある日、橋を渡っていた長可は、織田の門番から「ここは通行禁止です」と言われ、その場で殺してしまった。当然家臣団は激怒したが、信長は「橋で勝ったんだから、お前武蔵坊弁慶みたいだな! よしお前は武蔵守を名乗れ」と一笑に付したという。
- 塩の専売を「腐らないから内地でやれ」と命じるなど意外と合理的な思考を持つのだが、晩年にはすっかり政治がめんどくさくなってしまい、遺言書に「万が一にもワシが死んだら、城に火をつけて死ぬように」という恐るべき内容を書き記している。
- 石田三成
- 非常に戦が弱い。
- 官僚タイプだったので実際の「戦術」は下手で、ほぼ負け通しであった。
- 真面目一徹タイプ故に人望が無さすぎる。(当時珍しく側室がいなかったことでも知られる。子供は6人いたが)
- 「家康を討つぞ」と大谷吉継に漏らしたら、「お前が総大将じゃ誰もついてこねえよ」と即突っぱねられて、仕方なしに毛利輝元に総大将を依頼したくらい、その人望の無さは周知の事実であった。
- なお全くの余談であるが、後述の水戸光圀公は「石田三成は主の為に心を尽くした憎めない奴だ、武士はかくあるべきだ」と褒め称えている。
- その光圀の従兄である三大将軍家光は…(以下家光の項目に続く)
- 福島正則
- 大酒飲みだが非常に酒癖が悪かった。
- 酔った勢いで部下に切腹を命じ、翌日「おい、アイツはどうした」と聞いたら「死にました」と言われ、生首に縋りついて泣いた。
- 母里太兵衛に「酒に酔ったら黒田武士は何もできん」と挑発して盃を勧め、怒った太兵衛と飲み比べをした。しかも敗北し、日本三名槍の一つ「日本号」を奪われる。かの有名な黒田節の由来である。
- 戦場では怖いもの知らずだったが、カミさんが物凄く怖く、浮気がばれて薙刀を振り回したため背中を見せて逃げ出した。
- 台風が直撃してボロボロになった城の修理を幕府に届け出るのを忘れたため、これ幸いと旧豊臣派の一掃を図る二代将軍・秀忠にあっさり改易を命じられてしまった。
- 細川忠興
- 当時の歴史書で「戦国で一番気が短い殿」と断言されてしまうくらい、とてつもなく短気。彼に比べれば信長など「相撲大好きおじさん」でしかないくらい。
- あまりに気が短すぎて、自分の剣の兼定に「オレ、この剣で36人斬ったから歌仙兼定って名前にするわ」と言い出す始末。しかもこの36人は全部部下。
- 上記は創作らしいが30人近く殺したのは史実なんだと。
- そんな性格なのに八十三歳まで生きた。ストレスを発散しまくったから?
- 上記は創作らしいが30人近く殺したのは史実なんだと。
- あまりに気が短すぎて、自分の剣の兼定に「オレ、この剣で36人斬ったから歌仙兼定って名前にするわ」と言い出す始末。しかもこの36人は全部部下。
- 降伏した相手も完全無抵抗でも皆殺しにする。あんまり殺し過ぎるので光秀(後述)から「降伏する者をやたらめったら殺しちゃダメなんだよ」とやんわり断り書きの手紙が来るくらい殺す。
- こんな性格のせいで、自分の妹婿を躊躇なく討ち取らせたため、妹がマジギレして顔に短剣で切りかかり、死ぬまで顔に傷が残った。武士なんだから避けろよ。
- 妻は明智光秀の娘・玉。とても美人であったが、忠興は独占欲も強かったため、色目を使った(と勘違いして)庭師を妻の眼前で首チョンパしている。
- 玉はそれでも動じず「鬼のような殿には、蛇のような心の私がお似合いでしょう」と冷淡に言ったという。
- その後、光秀は本能寺の変を起こし玉は謹慎となり、細川家に戻った時には忠興は妾を抱えていた。そんなんだから玉はキリスト教に帰依して「細川ガラシャ」に名を変えちゃうんだよ。
- 玉はそれでも動じず「鬼のような殿には、蛇のような心の私がお似合いでしょう」と冷淡に言ったという。
- こんな性格だから豊臣の学級委員長こと石田三成と反りが合うわけもなく、三成の書いた記録に「なんで俺、忠興公にここまで嫌われなあかんねん」と記されている始末。そんでもって、関ヶ原前哨戦で三成は細川屋敷を真っ先に狙い、その結果ガラシャは主の元に召される。
- 要はヤンデレ。
- 古くから「もっと早く生まれていれば天下取りにも絡めていただろう」という見解が多い。
- 実際には外交の天才ながら戦にはあまり強くなかったのでかえって埋もれた可能性もあり。
- 敵軍を味方ごと後ろから鉄砲隊で蜂の巣にして白を切る、馬を煽り運転して「前田利家様のお使いです」と言われ血相を変えて謝罪する、貴重な文化財を欲しいと言われ真っ二つにして片割れを渡すなど、ざんねんな逸話には事欠かない。
- ちなみに上記細川忠興も文化財に関しては政宗と一緒に悪乗りしていた。政宗はともかく忠興、お前は当時日本最高峰のインテリだっただろうが。
- 直江兼続にシカトされキレたところ、猛烈な嫌味で切り返された。
- 「後ろ姿しか存じあげなかったもので……」→負けて逃げ回ってばっかりのところしか見たことが無い
- 淀殿
- 浅井三姉妹の長女で太閤秀吉の側室。
- 当時としては男よりも高い165㎝もの長身を持つ絶世の美女として知られている。
- しかし「織田一族の短気な所だけを受け継いだ」と言われるくらい気性が荒く空気が読めない。
- もう少し大局的な見地を有していれば、豊臣家は滅亡せずに済んだかもしれない。
- ちなみに息子・秀頼には大野治長や石田三成の隠し子という説もある。その位秀吉に似てなかったらしい。
- 島津忠恒
- 薩摩藩初代藩主。島津義弘の息子で本名は家久(徳川家康の「家」の字を拝領した)だが、紛らわしいことに義弘の弟にも家久という人物がいるのでこちらで表記する。
- 通称「DQN四天王・南の忠恒」。親父同様に気が強く、朝鮮出兵では10倍もの兵力をひっくり返した「薩摩隼人」だったのだが、あまりに気が強すぎた。
- 性格が極めて苛烈かつ陰湿であり、気に入らない部下はすぐ殺してしまう。
- 前掲の朝鮮戦争の時も、部下が朝鮮側に寝返ったほど人望が無かった。
- 正室・亀寿(いとこ同士であり、父は義弘の兄・義久)をことあるごとにブスと罵り続けており、子が出来なかった腹いせに、叔父にして義父の義久が死んだ途端に速攻で城から追い出し、当てつけのように側室を8人囲い、×××××しまくって子供を作っては政略結婚のダシにした。
- この時亀寿のシンパを一族郎党虐殺した。
- 朝鮮のみならず琉球でも侵略を重ねたため、後々まで島津の繁栄を築いたと同時に数百年にもわたる憎悪を買うことになる。
- ただ、こんなんでも(法律で殉死が禁止されてたのに)9人も殉死者が出たので、必要最低限の人望はあったのだろう。文化的には優れていた人のようで、「錦江湾」の名も忠恒の歌に因むという。
- 小早川秀秋
- 言うまでもない。
- しかし関ヶ原以前から非常に問題がある人物として知られていた。
- 秀吉の正室・ねね(北政所)の甥というだけでバカボンボンまっしぐらな少年期をおくり、元服前からねねに金をせびって酒色に溺れていた。
- それでも足りなかったのか、友人からも金を借りまくっていた。
- また片倉重長の美男ぶりに惚れ熱烈に付きまとっていたなど、醜聞が絶えない。
- 朝鮮出兵ではっちゃけすぎたため、石田三成から疎まれて石高が1/2の越前に左遷。
- その後、筑前に転封となり石高が4倍にまで膨れ上がるが…。
- 秀吉の正室・ねね(北政所)の甥というだけでバカボンボンまっしぐらな少年期をおくり、元服前からねねに金をせびって酒色に溺れていた。
- 知っての通り関ヶ原での裏切りの後、たった2年後に亡くなっている。享年わずか21歳。
- その死因も「急性アルコール中毒」「大谷刑部の祟り」「裏切った罪悪感によるノイローゼ」「農民と喧嘩したら金玉を蹴られてショック死」など、どれもこれもろくな説が挙がっていない。
- 宮本武蔵
- 1000人に一人の異相と言われるほど、顔が怖かったとされる。しかもムサシは6尺(180㎝以上)もあり、恐れられていた。
- おまけに大の風呂ギライで、メチャクチャ臭かったらしい。
- 無敵、無敗と名高いが、実の所本当に強い人とは戦いを避け……いやなんでもありません。
- イメージ通り卑劣、よく言えば策士だったことは事実なようで、一説によれば巌流島の戦いでは合図と同時に弟子と一緒に襲い掛かって小次郎を倒したという話もあるとか。
- 最後の戦いとして天草四郎の島原の乱に出撃したが、投石が膝に当たって敗走。なんと、生涯初の敗北が生涯最後の敗北となった。
- ちなみに武蔵の著作「五輪書」にも偽書説が出ている。
- 彼をメインにした大河ドラマは非常にざんねんな出来だった。序盤のあるシーンが「七人の侍」に似てると言われ黒澤プロ側から提訴され、そのときは棄却されたものの・・・
- 「芸術的な完成度が全然違うから」という理由だった。さらに「『武蔵』には『七人の侍』のような高邁な人間的テーマや高い芸術的要素はうかがえない」とまで言われてしまった。
- 同作は21世紀の大河ドラマで唯一ソフト化も再放送もされておらず、2016年に開催された大河人気投票では0票で最下位に…。
- 薄田兼相
- 「誰コイツ?」と言っている読者も、「狒々退治の岩見重太郎」と言えば1割くらいは伝わるかもしれない。
- 小早川隆景の剣術指南役だった父が部下に裏切られて殺され、流浪の果てに剣の腕を極め、仇討ちを成し遂げたということで有名な豪傑で、今でも彼の名をした柔術が残っているのほど猛者なのだが、ざんねんながら脳の出来が力に追い付いていなかった。
- 大坂冬の陣では5000石の食い扶持を持つ大名として大坂方についたが、戦の最中に遊郭で飲み過ぎてその間に砦を落とされる。今川義元ですらそこまで慢心してはいなかったぞ!
- あまりのふがいなさに、「見掛け倒しで中身は食えない(役に立たない)」ということで「橙武者」という仇名で呼ばれてしまう。
- 夏の陣においては霧でウロウロしている内に豪傑・後藤又兵衛を討ち取られてしまい、「あの後藤又兵衛を討ち取ったぞー!」とテンションが限界突破していた伊達・水野連合軍の総攻撃を受けて絶命した。
- もっとも、この際に何人もの東軍兵をあの世の道連れにしており、(個人の武勇が)「強い」という最大の長所だけは発揮したまま華々しい最期を遂げられただけマシか。
江戸時代
- 後水尾天皇
- 花山天皇とタメ張れるくらいのスケベ。
- お忍びで遊郭へ遊びに行ったり、宮中に遊女を招き入れて×××××を繰り広げた。
- 色んな女に30余人の子を産ませる。
- 56歳で出家後もお盛んで、58歳の時に識仁親王(後の霊元天皇)を産ませた。
- この霊元天皇も父親譲りのスケベ。
- 56歳で出家後もお盛んで、58歳の時に識仁親王(後の霊元天皇)を産ませた。
- 徳川秀忠の末娘・和子が中宮として入内することが確定してたが、大坂の陣やらで入内が延期になってしまい、その間に典侍・四辻与津子に手を出して子供を2人孕ませてしまった。
- 幕府側が与津子ら関係者を内裏から追放処分したので、それに激怒して退位してやろうとしたら藤堂高虎に恫喝されて辞められなかった。これが「およつ御寮人事件」。
- 幕府が禁中並公家諸法度を制定したのは、このように風紀乱れ切った朝廷を見かねてのことだった。
- 大の父親嫌いだった。
- 父・後陽成天皇は、徳川家康の意向で後水尾天皇へ譲位したことを納得しておらず、自分に対して冷たい態度で接してきたのをずっと恨んでいた。
- 父が崩御した時は、陽成天皇から採って「後陽成」と追号し、自分は陽成天皇の父である清和天皇の別名「水尾」から採った「後水尾」を遺諡にする。
- つまり、わざと父子逆の追号をするという、歴史に残る嫌がらせをやってのけたのである。
- 父が崩御した時は、陽成天皇から採って「後陽成」と追号し、自分は陽成天皇の父である清和天皇の別名「水尾」から採った「後水尾」を遺諡にする。
- 父・後陽成天皇は、徳川家康の意向で後水尾天皇へ譲位したことを納得しておらず、自分に対して冷たい態度で接してきたのをずっと恨んでいた。
- 松倉勝家
- 史上最低の大名と名高い。最大にして最後の農民反乱・島原の乱の諸悪の根源である。
- ハッキリ言って「ざんねん」というか「ざんにん」な歴史上の人物であった。
- 前年度比250%という誰がどう考えても無茶な徴税を行い、年貢だけでは足りないため「死亡税」「窓税」などありとあらゆることに税金を課した。
- 勿論そんなにたくさん税を払えるわけもなく、勝家は農民に苛烈な拷問・処刑を繰り返した。
- 更にキリシタンに対しては蓑踊り(蓑を被せ火を点ける)などの処刑で弾圧した。
- その結果、天草四郎をはじめとする農民や国衆の怒りを買い、島原の乱が勃発。
- 幕府も九州のみならず日本中の兵力を集めて鎮圧する大騒ぎになったため、「どうしてこうなった」と追及した結果、勝家が苛烈な年貢の取り立てを行っていたのが主因と判明。探ってみたら出るわ出るわ、屋敷からまで刑死者の遺骸が出た。
- これを知った家光(後述)は綱紀粛正のため、松倉家を改易。そして切腹すら認めぬ斬首刑に処した。江戸時代260年以上の歴史の中で、唯一斬首された大名となってしまったのである。
- 徳川家光
- 当時の男色は珍しくもなかったが、家光はあまりにも男好きすぎて、世継ぎが出来そうにないからという理由で大奥が作られる。
- 後述の柳生十兵衛も家光の衆道相手だったとする説がある。
- 大奥から家光の枕元に女性を送る際に、わざわざ男装させ、男性名の通称を設定していた時期がある。
- ちなみに、最初の妻は石田三成の曾孫。なんとも奇縁である。
- そこまで筋金入りの同性愛者になったのは後天的な理由との説もある。母親(お江の方)との関係が悪すぎて極端な女性恐怖症になった、というもの。
- 歴史上の知名度はあるが、だいたいの偉業は親父の秀忠と、優秀な部下(知恵伊豆、土井利勝、柳生親子他)がやってくれたおかげであり、このオッサン自体は大したことをやってない。
- 柳生十兵衛
- とにかくひどすぎる酒癖。親父の親友である沢庵和尚から「君は酒だけは注意してくれ」と言われる始末。
- 謹慎の原因も酔って暴れたから、家光を殴ったからという説があるくらい。
- 徳川光圀
- 若い頃の職業は『人間のクズ』でだいたいあっている。
- 昼間から酒を飲んで女を侍らせ、夜は辻斬りまで行っている。信長が可愛く見えるレベル。
- その後、司馬遷の『史記』を読んで感動して猛勉強を始め(実に日本人の好きなパターンである)、藩主の座を継いでからは改革に乗り出した。
- のはいいのだが、その結果として民にはメチャクチャ重税を敷いていた。
- 水戸藩挙げての大事業である『大日本史』編纂作業に予算をつぎ込んだため。光圀以降、明治になってようやく完成するまで、代々の藩主のライフワークとなっていった。
- のはいいのだが、その結果として民にはメチャクチャ重税を敷いていた。
- 将軍・綱吉の生類憐みの令に対し犬の毛皮を送り付けるという実に元ヤンらしい仕返しを行っている。
- ドラマでは悪者を懲らしめているが、史実では地元でめちゃくちゃ高い税を取っていた。
- かなりの食道楽で、(当時の価値観的には)ゲテモノ食いでもあった。「初めて〇〇を食べた日本人」に彼が名を残しているものが複数ある。
- 小林一茶
- 農家の長男として生まれたが、継母(相当性格が悪かったらしい)や腹違いの弟とあまりに仲が悪すぎて、父の死後、家を巡って13年にもわたってバトルを繰り広げた。
- 52歳(当時からすれば老人である)で結婚するまで童貞であったが、非常に性豪であったため、毎日×××××の回数を日記につけている。しかも年間1000回を超えるレベルで。
- 妻の夭折の原因も×××××による過労と言われている。
- 童貞をこじらせるとヤバイことになるという事実を後世に残した人。
- 水野忠邦
- 虎の尾でダンスダンスレボリューションした男。
- 過去に松平定信がやって失敗した緊縮財政を、何を勘違いしたんだかもっと強烈にするという愚行に走る。
- 前に改革を行った3人と違って水野忠邦は本当に誰からも好かれなかったというのだから、いかに天保の改革が悲惨であったかがよくわかる。
- あまりに嫌われすぎて、失脚後に家が焼き討ちに遭っている。
- そもそも己の幕政参画の野心のために領地替え関連で贈賄しまくった末に家老が抗議の切腹をしたり、以後の禍根を残しまくっている。
- 鳥居耀蔵
- 上記水野忠邦の腰巾着。通称「妖怪」「蝮の耀蔵」。
- よくロボットアニメとかに出てくる「腐敗した組織の無能なくせにしぶとい上官」をイメージしていただくとだいたいこのオッサンである。
- 極度の石頭であり、幕府軍の西洋式訓練に徹底反発。蛮社の獄を引き起こしている。
- 邪魔する奴は権力にものを言わせて左遷の嵐。かの「遠山の金さん」こと遠山金四郎も、天保の改革の行き過ぎた言論統制に文句を言ったせいで、鳥居にトばされてしまった。
- しかも風呂や便所に筆硯を持ち込むほどの勤勉さであった。何でこういう奴に限ってサボり癖が無いのだろうか。
- ところが忠邦が上知令を出すと、幕臣の腹積もりを伺い、手のひらを反して忠邦を糾弾する。
- 政敵のドンである老中・土井利位に密かに国家機密を横流しし、忠邦を失脚に追い込み、自分は元の権力の座を固持。
- しかし、江戸城の失火の責を取らされて利位は辞任。「他にいないので、
心底ざんねんだが再び水野忠邦を大老とする」と12代将軍・家慶が命じたことにより、忠邦から恨まれて職を解かれる。 私怨義憤に燃える忠邦に訴追された結果、全財産没収の末に丸亀藩に軟禁状態にされる。- その際には丸亀藩士たちから恨まれまくり、1年間一言も口をきいてもらえなかったり、私物をパクられたりした。どんだけ嫌われてたんだ…。
- 勿論市民の味方である遠山の金さんを冷遇したため、江戸の人々達からも嫌われていた。というか、好かれたという資料がほとんど残ってない。
- なお明治維新の際には「ワシに任せなかったから、日本はこうなったのだ」と言っていたという。なって良かったとしか言いようがない。
- こんな奴だが後のテレビドラマでは名優・岸田森が演じた(しかもかなりのハマリ役)。また時代劇TRPG『天下繚乱』では史実と全く異なるキャラクターになっている。どうなってんだか。
幕末~明治時代
- 西郷隆盛
- 知っての通り巨漢であるが、あまりに太り過ぎて「あんた、このままだと死ぬよ」と医者に本気で言われるほど太っていた。
- 仕方がないからダイエットを始めた。この時に犬を連れて野山を走っていたので、上野西郷像は犬を連れ浴衣を着ている。
- しかし、食事制限に失敗し激しい下痢にさいなまれ、一時期は一日50回もトイレダッシュしていた。
- 仕方がないからダイエットを始めた。この時に犬を連れて野山を走っていたので、上野西郷像は犬を連れ浴衣を着ている。
- フィラリアに罹ったため×××××がとても巨大化していた。
- 西南戦争で首実検を行った際
兵卒「太って身なりの良いホトケがありました!」
将軍「西郷どんとは限らんでゴワス」
兵卒「で…ですがものすごく×××××がデカいんです!」
将軍「逝ったでゴワスか西郷どん…」
という会話があったというウソかホントかわからん伝説もある。 - ×××××を丸出しにしながら周辺の毛を火であぶり、「薩摩の焼き芋」と台詞を決める一発芸をやったことがある。
- 西南戦争で首実検を行った際
- 鷹揚な性格のイメージを持たれやすいが、実は人に対する好き嫌いの差が激しかったらしい。
- 写真を撮られることが大嫌いで、それがために明治天皇に抗命したことがある。
- 勝海舟
- 幼い頃に犬に金玉を咬まれて生死の境を彷徨い、死ぬまで犬がトラウマだった。
- イケメンだったのでモテたようで妾がたくさんおり、しかも子供を全部家で育てていた。その結果、正室・民子は死に瀕した時「た…頼みます! 海舟の…夫の墓に…入れないでぇ~~!!!」と言い残して死んだという。
- 彼を主人公とした大河ドラマはトラブルが頻発した。
- 土方歳三
- 写真からもわかる通りイケメンであったが、とにかく自信過剰。
- 新選組は女にモテた奴が多かったが土方はその中でも1番と言っていいくらいモテた。モテすぎて、現代で言えば中坊の時に奉公先の女に手を出してクビになるくらいモテた。
- 「京都では私は若い婦人にモテモテで、国の為に働くことを忘れてしまいそうだ(意訳)」という手紙(ホレられた女の名前を全部書いている)を地元に送っている始末。
- 刺繍や俳句もたしなんでいるが……要は中学二年生レベルである。(隊内からも不評だったらしい)
- 新選組は女にモテた奴が多かったが土方はその中でも1番と言っていいくらいモテた。モテすぎて、現代で言えば中坊の時に奉公先の女に手を出してクビになるくらいモテた。
- 局中法度を作って部下の自律を促したが、あまりに厳しくし過ぎて切腹・暗殺だらけに。これが原因で優秀なブレーンだった山南総助や、弟分だった藤堂平助、有能な経理だった河合耆三郎などを失っている。谷三十郎? あいつはまあ別にいいや…。
- 最終的に新選組は戦死者よりも隊士に殺された奴の方が多いという破綻する組織の典型例のような惨状を招いた。
- 坂本龍馬
- 明治になるまで生き延びていたら経済面でどれほど活躍していたことか…。
- 友人の武市半平太の家でしょっちゅう立ちションをしており、あまりにいつも立ちションをするので武智夫人が半平太に注意するようにせがんだらしい。
- ガキの頃は10歳になるまでオネショしていた話といい、なんでこうションベンに縁があるんだこの人は。
- 歴史上の超有名人だし、ドラマも何作も作られ「日本の夜明けぜよ」と言った人という事で知名度はあるが、実際、何をしたのかよくわかっていない。
- 海運商社の海援隊を作って、薩摩と長州をくっつけて、裏貿易をしていたということまでは分かるが、直接戦争にも政治にも参加していたわけではない。
- 日本史上初の海難審判の当事者になった際、現在の貨幣価値に換算し約137億4400万円を紀州藩から詐欺った。
- 但しこの金は龍馬に渡る前に本人が死亡しており、どこに資金が消えたのかは大きなミステリーになっている。
- 現場である福山市鞆の浦の観光ガイド原稿では「岩崎弥太郎横領説」を示唆している。
- 但しこの金は龍馬に渡る前に本人が死亡しており、どこに資金が消えたのかは大きなミステリーになっている。
- 岡田以蔵
- 幕末四大人斬りの一人。前掲の龍馬の幼馴染で、結社「土佐勤王党」の最古参メンバーの一人。
- 土佐藩は極めて身分制度が激しく、岡田家は最下層の足軽出身だったため学も無く剣しかすがるものが無かった。
- 勿論我流だったので、親分の武市半平太にはかなわなかったという(土佐にいた頃の話)。
- とにかく自分に自信が無さ過ぎたため、一回はずみで人を斬ったのを誉められたのをいいことに、「武市がウザいって言った奴を斬れば人気者になれる」と勘違いして暗殺に手を貸しまくった。
- 勿論武市もそれを止めるどころか推奨した。そういう時代だったのだ。
- …が、ここで調子に乗って酒と女に溺れたせいで捕まってしまい、拷問にかけられ、物凄くあっさり仲間を売ってしまった。結果的に、一番土佐勤王党で働いたのに、その土佐勤王党にトドメを刺した張本人に成り下がってしまった。
- 漫画『竜馬がゆく』とか大河ドラマ『龍馬伝』では激しい拷問に耐え…みたいな描写だが、あれは創作である。
- あまりに簡単に口を割ってしまったので、武市からは「日本一の泣き味噌である」と嘆かれた。
- しまいには毒殺用のまんじゅうまで送る計画が出た(未遂)。『龍馬伝』では楽に死ねるように、という解釈だったが、どう考えても怒りか呆れで送り付けてるよなあ…。
- 死に際に反省したのか「武市先生によろしゅう」と言ったそうだが、武市からは「お前のせいだろがい!」と最後まで許してもらえなかった。
- 高杉晋作
- 金の扱いがルーズすぎる。
- どうも公金とポケットマネーの違いが全く分からなかったらしく、藩の許可を得ずに4万両もの金をはたいて戦艦を購入している。
- 藩命で「上海に行ってこい」と命令が下った時には、長崎でお小遣いを使い果たしたうえ、芸者を見受けまでした。んでもって、金が足りなくなったので、その芸者を売った(さすがに同意は貰ったうえである)金で上海に向かった。
- 伊藤博文
- 日本国初代内閣総理大臣であるがスケベすぎる。
- 掃いて捨てるほど女がいたので「箒」という仇名を持つ。
- 留学時代にもイギリスで女遊びしすぎて金を速攻で使い果たした。
- 広島銘菓「もみじ饅頭」は茶屋の娘の手を掴んで「このように赤く可愛い手を食べてみたい」と言ったことからできたらしい。
- 40度の高熱に魘されているときでも枕元に芸者を2人も呼んでいた。
- 遂には明治天皇直々に「もう少し女遊びを控えなさい」と言われた始末。こんな人はおそらく世界で彼だけであろう。
- 愛人にした女性の最年少者は13歳である。
- 掃いて捨てるほど女がいたので「箒」という仇名を持つ。
- 今の首相官邸は、伊藤が女遊びで金をはたき過ぎて家を追い出されたためにわざわざ新しく作った住まいが元となっている。
- 伊藤は女以外には割と適当にしか贅沢しなかったので、使用人は奉公先が伊藤家だと決まった途端に「きつく言われずに済む!」と大喜びしていたらしい。
- ちなみにアダルトゲーム『School Days』の主人公・伊藤誠は博文から苗字が取られている。つまりはそういうことである。
- 初代総理大臣の座を争った三条実美に最終的に競り勝てた理由は、三条に語学力が欠けていたことだけ。それ以外の要素はどれも不利だった。
- 黒田清隆
- 第2代内閣総理大臣。在任中に大日本帝国憲法が発布されたことで有名。
- しかし超がつくほどの酒乱。
- おまけに怪力の持ち主で、一度酔ったら周囲を破壊してしまうこともあったらしい。
- 北海道開拓長官だったころ、酔った勢いで大砲を撃ち、うっかり民間人を爆殺した。
- 遺族は「俺も金を払うから、黒田を爆殺させろ」と泣いて悔しがったらしい。当たり前である。
- 奥さんが病気で突然死した時も、「ああ、黒田さんなら(酔った勢いで)殺りかねんな」とか誤解されたらしい。どんだけだよ。
- 酔っていなくてもかなり苛烈な性格だったようで、大隈重信からは「あいつはいつも拳銃を隠し持ってるし、気に入らない奴にはすぐケンカを売る物騒な奴だった」と暴露されている。
- ちなみに榎本武揚は黒田のことを「コイツは福島正則に知恵を足した奴だ」と評している。黒田と黒田節をかけたシャレかもしれないが、要はそういう人であった。
- 三浦啓之助
- 学者・佐久間象山の隠し子。
- 象山が河上彦斎に討たれたため、その仇を討つべく新選組に入ったのだが…。
- 新選組では親の威光を振りかざして威張り散らすばかりで、ドラ息子丸出しだった。
- 剣技が劣ることを同僚からバカにされた際には、土方と沖田が囲碁を打っているのを見物している所を闇討ちにしようとした始末であり、逆上した沖田から面罵された挙句に畳に顔面をぶつけて鼻に傷を作った。
- おまけに仕送りの金をばらまいて郎党を手名付けており、沖田からは恨まれていたらしい。
- そして「隊を脱するを許さず」の禁を破って逃げ出し、故郷の松代で地元のDQNとつるんだ挙句「俺は新選組だぞぉ」と言いふらしていた。
- その後、無銭飲食がばれて逮捕され、西郷隆盛のとりなしで出所し慶應義塾に入ることになるが、ここでも素行が悪すぎて退学。
- 呆れた勝海舟のコネで裁判官として就職するが、酔った勢いで人力車夫を殴って左遷。
- 左遷先で結婚し一児を設けるも、34歳の若さで食中毒で死ぬという、死ぬまでざんねんな一生であった。
大正時代~太平洋戦争
- 牟田口廉也
- 大日本帝国陸軍の軍人で、「史上最低の作戦」の代名詞である「インパール作戦」の立案者。
- 当時、イギリス領であったインドを攻めるのに、ビルマ方面から物資輸送もままならないジャングルを超えて、インドの都市インパールを攻めようという作戦。
- 約9万人近い兵を動員して、飢餓やマラリア、英国からの攻撃により、7~8割が死傷するという有様だった。
- 「もしベタなダメ上司・上官キャラの法則が現実に存在したら」を体現したような人物である。
- インパール作戦で前線で戦う兵士が食料も物資も無い最中で、後方にいる作戦立案者の牟田口は料亭で酒と女を連日喰らっていたという。
- 物資を運ぶのに「自動車が無ければ牛に牽かせればいいじゃないか。食料にもなるし」とジンギスカン作戦を思いつくが、当の牛は足が遅くてイギリス軍の恰好の的になり、泳げないので河を渡ろうとして流される有様だった。
- 物資が無くなって作戦継続が不可能となっても牟田口は撤退させず「武器が無いのなら腕がある、腕が無くなれば足で蹴ればよい、足も無くなれば口で噛みつけ、それが大和魂というものだ」と取り合わず。自身の無策を棚に上げて、精神論で片付けようとした。
- 前線指揮官の一人である佐藤陸軍中将は、物資食糧が尽きて補給が無く伝染病が蔓延し全滅不可避となった余りの惨状から、死刑になるのを覚悟して独断で撤退を決定する。
- 司令部に補給要請を何度も送るも、いつまで経っても物資を送ってこない上に、牟田口からは「作戦を継続しろ」の一点張り。
- 決死の撤退戦を行った佐藤中将は、ボロボロになりながらも後方司令部にたどり着くやいなや「牟田口はどこに行った!今すぐ叩っ切ってやる!!」と怒号をあげる。
- 佐藤中将の剣幕をみて、恐れた牟田口は顔を合わせないようにとどこかに隠れていた模様。
- 決死の撤退戦を行った佐藤中将は、ボロボロになりながらも後方司令部にたどり着くやいなや「牟田口はどこに行った!今すぐ叩っ切ってやる!!」と怒号をあげる。
- 佐藤中将が勝手に撤退したことに対し、牟田口は「気合と根性が足りないからだ!」「ジャングルなんだから食料になる草くらい生えているだろ!」と佐藤中将を罵倒する。
- 牟田口は、飢餓と病で苦しむ兵を集め、訓戒と称して佐藤中将の悪口を長々としゃべるが、栄養失調で気力を失っている兵は訓戒中に次々に倒れていった。
- 司令部に補給要請を何度も送るも、いつまで経っても物資を送ってこない上に、牟田口からは「作戦を継続しろ」の一点張り。
- インパール作戦の失敗に多少は責任を感じて部下に「自刃して陛下にお詫びしたいのだが」と問いかけるも、部下は「一応、私の役割だから上官が自刃すると聞いて止めないわけにもいかないが、古今東西、人に死ぬと告げて実際に死んだ人間はいません。閣下が少しでも責任を感じ、本当に自刃する意思があるのならば、誰にも告げず自刃してください。」とバッサリ返される。
- 戦後も生きながらえ続けている通り、そういわれても自決なんてしなかった。
- 戦後「インパール作戦の失敗は、自分のせいでなく、部下が無能だったためだ」と喧伝し、一切反省はしなかったという。
- 余談であるがゲーム『パワプロクンポケット2』の裏サクセスで無能な参謀長「任月高志」が登場するが、そのモデルは牟田口であり、やっていることがほぼ全部牟田口の逸話そのまんまである。