もし大阪相撲が現在もあったら
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- 昭和2年の東西合併により、東京に吸収され消えてしまった大阪相撲。ここではその後も存続していたら?を考えます。
- どのみち東京に吸収される。
- 昭和10年代の東京・双葉山ブームと比較されては…
- 確かに。「春秋園事件」を機に消滅していたかも。また、春秋園事件は起きなかったとしても、別の形で昭和10年頃までには崩壊していた。
- 史実で事件後に「関西相撲協会」が設立された経緯を考えると、むしろ天竜らがこちらに移ることで活況を博した可能性も否定できない。
- 春秋園事件で脱退した力士を受け入れていたかも。
- 確かに。「春秋園事件」を機に消滅していたかも。また、春秋園事件は起きなかったとしても、別の形で昭和10年頃までには崩壊していた。
- 戦中~戦後の混乱で、存続どころではなくなる。
- 昭和10年代の東京・双葉山ブームと比較されては…
- 横綱宮城山が大阪力士として、引退する。
- 従って弱い横綱が1人実在しなくなり、他の弱い横綱がより目立つ。
- 朝青龍が転属する。
- サッカー騒動に嫌気がさし、大阪に行ってしまう。
- そもそも師匠が近畿大学出身なので最初からこちらに入門していた可能性も。
- どのみち「日本人横綱の不在」は東京・大阪の片方だけに留まっていた可能性大。
- 力士のリクルートに苦労するため、外国人枠を無制限にして外国人に寛容な姿勢をとっていれば、いずれ東京相撲より実力が高いと言われていたかも。
- 協会運営への暴力団の関与や力士のモチベーション・実力の低下に対して効果的な策が打てない限り存続できなかっただろう。
- 前者に対しては大阪相撲協会の抜本的な組織改革、後者に対しては放送などのメディアの活用などが効果を発揮していた。
- 興行は大阪府立体育会館ではなく自前の会場で行われていた。
- 新世界の大阪国技館が残っているか、史実で東西合併後に国技館が建設された関目に会場があったと考えられる。
- その場合組織が再統合された後も「日本相撲協会関西本部」が設置され、大阪相撲由来の相撲部屋は大阪に置かれている。
- 巡業や新弟子の獲得において「東日本は東京相撲、西日本は大阪相撲」という勢力範囲が暗黙の了解になっていた。
- ルールの細かい部分が東西で違っていたかもしれない。
- 決まり手の一部、死に体や、かばい手、かばい足の判定、水入りや引分、痛分の判断、番付の昇・降格の基準辺りか。
- 1940年頃に一度「大日本相撲報国会」として統合されるが、終戦とともに再分割された。
- 年末に天皇賜杯争奪の東西対抗戦が行われていた。
- おそらく団体戦。
- 7.のように東西でルールが異なる場合は統一ルールを作ろうとするがまとまらず、1年おきに東京ルール・大阪ルールで行うことに。
- 東京相撲との関係は基本的に悪くない。
- しかし有力力士の移籍などを巡る問題が時々発生する。
- 東京より先に地方での本場所を開催していた。
- それでもマスコミは東京相撲の方を大きく取り扱う。
- NHKの中継はどうなっていたんだろう。どちらも流すのか地域によって東京相撲と大阪相撲を分けるのか?
- 北海道~関東甲信越、静岡までは東京相撲、以西が大阪相撲。
- 東日本での大阪相撲、西日本での東京相撲は、結びの一番の後に三役・横綱、平幕の注目力士の取組のみ録画で紹介。
- デジタル化後は、東日本のサブチャンネルで大阪相撲、西日本のサブチャンネルで東京相撲を放送。
- あるいは日程をずらして開催とか。
- 北海道~関東甲信越、静岡までは東京相撲、以西が大阪相撲。
- NHKの中継はどうなっていたんだろう。どちらも流すのか地域によって東京相撲と大阪相撲を分けるのか?
- 朝日山、時津風、三保ヶ関などは今でも大阪相撲の名跡。
- 時津山が時津風部屋に留まるので「立浪四天王」は生まれなかった。
- 双葉山は時津風部屋を名乗れない。(東京相撲系だから)
- アマチュアの大会も分割されたか、東西交互開催になっていた。
- インターハイは統一で行われるが、大学や社会人は分割されていた。
- 東京一極集中も史実より緩和されていた。