もし徳川将軍が○○だったら

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あの人物が将軍になっていたら

結城秀康

  1. 幼少期に家康から忌み嫌われていなければ可能性はあったと思う。
    • 豊臣家に飛ばされることも無かっただろうから、恐らく「秀康」という名前にはなっていない。
      • 忠・康ともに松平の通字であるため史実通りの可能性もなくはない。
  2. 後の福井藩全般に影響が出ていた可能性大。
    • 秀康が将軍になる→福井に行かないとなると、松平春嶽が存在しない+橋本左内や由利公正が目立たなくなるなどと幕末期に大きく影響が出る。
      • 「安政の大獄で処刑された福井の人物」としては小浜藩の梅田雲浜の方が知られていたかもしれない。

徳川家達

  • もし江戸幕府が存続していれば16代将軍になっていたと言われている。
  1. 慶喜の代わりに15代将軍になっていたとすれば、家継の様にほとんど目立たないまま倒幕…という流れになっていた可能性大。
    • 当時の家達はまだ幼児だったので、政治的判断を自ら行うことはおそらくないだろうから、下手すると大政奉還が史実のような形で行われていたかどうかも怪しい。
    • この場合はおそらく慶喜が「十六代様」と呼ばれていた。
  2. 史実通りなら太平洋戦争直前まで生存していたので、最後の徳川将軍としてのエピソードは慶喜以上に波乱万丈になっていたかもしれない。
    • 但し将軍を一回経験してしまう→徳川将軍が政治の場に再び出てしまうという事になる為、貴族院議員になれたかどうかは微妙。
    • 国際的な観点では愛新覚羅溥儀辺りと比較される機会が増えていたかもしれない。

徳川家康

三方ヶ原の戦いで戦死していたら

  1. 当然、徳川幕府は存在しない。
  2. 信長も後ろ盾を失うため、統一が遅れる。
    • 信長が反撃に出るが、長篠のような大勝利は望めない。

秀吉に対して徹底抗戦していたら

信長没後は秀吉と家康は暫く対立していたのは有名ですが、家康が北条・伊達と同盟と組んで徹底抗戦する可能性があったそうです。 と言うのも伊達・北条ともに三家とも結構長い付き合いだったからだそうです。仮に家康が秀吉に対して徹底抗戦していたら

  1. 少なくとも資金・兵力を考えても徳川側としては絶望的な戦いになったかと・・・
    • 九州攻めの際に豊臣軍の総兵力は20万、当時の豊臣は徳川と比べても金も権威もあった訳だから・・・
      • 東の家康が臣従したから、九州にそれだけ手をまわせた、というのもある。
  2. 仮に徳川を滅ぼしていたら中部地方のほぼ全域が豊臣領になる
    • 更に実史どおり北条も滅ぼしていたら関東の一部も併合し豊臣の天下は強大(少なくとも後継者問題以外では)なものに
    • 徳川家と同盟していたという仮定ならば、後ろの伊達・北条も潰されているであろう(降伏しない限り)
  3. 以下の事を考えると、家康がこの時点で天下を取るとしたら暗殺しか考えられん
    • (上記にも書いたが秀吉には後継者問題もありますから)
    • 天下統一前の名君時代の秀吉なら秀次一族を殺すということは・・・するか。
    • 秀吉の死まで持ち込めればなんとかなるかも。ただそれでも最上義光や伊達政宗、佐竹義重らも健在なので微妙。
  4. 関東地方が独立し、北条氏支配のまま18世紀頃まで続く。
    • 東北も伊達の天下。だが南部・松前・最上などの中小勢力が多く、まとまらない。
  5. 織田信雄の子孫が東海地方の大名として繁栄。
    • 結局、いちゃもん付けられ潰されそう。但し正史と違うのは事実上本家筋であるということ。
  6. どちらが勝っても論功行賞で不満が続出し再び戦国時代に戻る。
    • 豊臣側では石田ら文官と加藤・福島はじめ武官との対立し始めるが、徳川という共通の敵がいる間は大丈夫かも。
  7. 佐々成正は登山家としては有名にならなかった。
  8. 真田が徳川と豊臣の間をうまく泳ぎ、領土拡張。
  9. 紀州の雑賀衆・根来寺らが大坂を再度 突こうとする。
    • また岸和田あたりで追い返されるのが関の山か。
      • 長宗我部がなんだかんだ四国を平定し、彼らと組んで畿内に攻め込む。
  10. とにもかくにも秀吉には始末に負えなかった。
  11. 朝鮮出兵は出来ないか、出来てもかなり遅れる。

関東での拠点を川越城にしていたら

寿命が50年だったら

  1. 結局1600年頃に関ヶ原の戦いは起こる。
    • 東軍総大将は一応徳川秀忠であるが、事実上福島正則が中心。
      • この場合、東軍が日本を半分に割るほどの味方を集められたとは思えないが……家康が生きていてさえ、数の上では西軍のほうが多かったんだし。
    • 小早川秀秋が動く頃には、既に西軍の勝利が決定的になっている。
      • そもそも豊臣一族である秀秋を寝返らせるなどというウルトラCは、強大な権威のある家康だからできたことであって、秀忠では無理だったろう。家康が生きていてさえ、秀秋は迷いに迷っていたわけで。
        • 権威というよりは高台院ねね様という、秀秋にとっては母親同然の人が、豊臣のために徳川殿のお力が必要だと考えていたからじゃないの。秀秋さんって、裏切り者とか言われるけど家族思いの優しい方だったようだし。
  2. 九州で天下取りを策動していた黒田如水はどうなっただろうか。
    • 天下分け目の戦の行方にもよるが、結局領有できたのは筑前一国止まりだったと思う。
  3. それ以前に、朝鮮出兵を断れずに勢力を削られる。最悪徳川自体がつぶされてそう。
  4. 家臣を味方につけた場合、秀忠では無く結城秀康が家康の後継者になっていた可能性がある
    • (実際家臣の一部からは秀忠よりも秀康の方が後継者に相応しいと考えていた家臣がいた)
  5. ドサクサに紛れて伊達政宗が天下をとっている可能性も・・・
    • 標準語が東北弁になっていたかも。
      • 今の東北弁そのものではあり得ないだろうが、アクセントや発音などはかなり影響を受けた可能性も…
    • なんか歴イフのコーナー、妙に伊達政宗ageな執筆者が居る気がする……
  6. 死因は美食嗜好による中毒か薬の調合ミス。
  7. この場合秀吉より先に家康が死んでいるわけなので、相続にあたって秀忠の所領が大幅に削られていたか、他の場所に移されていた可能性が高い。
    • 秀吉は筒井家や丹羽家など、この手を頻繁に使っていた。忠実だった蒲生家や堀家にさえやっている。
    • 酒井や大久保など、徳川家を支える氏族を引き抜いて直臣にし、秀忠の命令が届かないようにするなどの手も打っただろう。
    • 徳川本家の所領が百万石程度まで落ちていたら、関ヶ原の戦いは起こりようもなかった。
      • しかし、内乱の要素はあったわけで、結局石田vs福島で慶長の大乱が発生する。
        • しかも徳川も居ないので、もう少し拮抗する。
      • 戦国時代がもう少し延長された。
      • 豊臣家は秀頼が2代目となるも、どっちが勝っても内乱でまとめきれず。

徳川秀忠

家康の後を継ぎ、徳川幕府の基礎を築いたとされる秀忠・家光ですが、もし別の歴史を歩んでいたら・・・

兄達が健在だったら

結城秀康は養子に行かなかったか、松平姓を名乗ったと仮定して。

  1. 徳川一門の一大名で生涯を終えていた。
    • いずれ館林や甲府のような運命をたどっていたかも。
    • 御三家ならぬ御四家なっている可能性も。(紀州・尾張・水戸+甲州)

関ヶ原に間に合っていたら

  1. 東軍勢の活躍が若干減り、討ち取られる西軍勢が若干増えた。
  2. 黒田長政や藤堂高虎らの働きが、史実よりも過小評価されて、西国外様大藩の石高が減る。
    • その分、天領や親藩、譜代大名の割合が増えて、徳川の地盤はより盤石となる。
      • ただし、時期が少し遅くなるだけで、江戸時代中期以降に財政難になるのは変わらない。
        • しかし、外様大名も相対的に小さくなってるわけでね・・・。
上田城を攻め落としていた場合
  1. 真田昌幸・信繁親子が討ち取られていたら、後世で軍記物が出たり真田十勇士が誕生することはなかった。
    • 真田信繁は、幸村の名の方が有名になることもなかった。
  2. どちらにせよ信幸は生き残る。
上田城を通過していた場合
  1. 真田親子を放置した件を家康に叱責されるが、家臣達の取り成しで事なきを得る。
    • 軍勢の背後を突かれるとか、そう言うシナリオが待っていた。

関ヶ原遅参を理由に廃嫡されていたら

  1. 秀康を徳川姓にさせ後継とする。すぐ下の弟である忠吉が後継だった場合も、やはり忠吉死後に秀康の血統が主流となる。
    • 秀康と忠輝は嫌われてたらしいし、結局徳川義直に将軍職を任せることになるだろう。

徳川家光

将軍就任前に夭折していたら

  1. 斎藤福は春日局になることなく生涯を終え、今程の知名度もなかったろうから、大河ドラマになることもなかった。
  2. 同母弟の忠長が三代将軍となり、『長七郎江戸日記』の設定が大幅に変更(将来の四代将軍か、家光の落とし種になるか)される。
    • 忠長が「家光」という名前になっていたかも。
  3. 保科正之は要職に就くことなく、会津松平家もなかった。
  4. のちの徳川家基みたいに、幻の将軍と後世呼ばれていた。

将軍になれなかったら

  1. 大体上記と同じ。
  2. 史実での忠長と同じ道を歩むか、生き延びたとしても出家して(させられて)いた。
  3. 長子相続の原則を作れなかったので、代々誰が将軍になるかで大揉めに・・・。
    • 江戸幕府が早期に終わっていた可能性もある。
    • 幕末まで続いても、攘夷志士にもっとあっけなく潰されるか、薩長に早期に倒されていた。
      • だから無血開城なんてなかった。
    • 伊達政宗は史実よりさらに暗躍。どさくさ紛れで領土拡大を図るなど江戸初期のトリックスターとして名を残す。
  4. 教科書には載っていない。
  5. 将軍と大名の関係がなあなあになってしまう。

世継ぎが出来なかったら

  1. 大奥は家光の死で消滅していたか、次代以降規模が縮小していた。
  2. 衆道が明治以降も大っぴらに存続し、同性愛者の市民権が確立していたかもしれない。
    • キリスト教の影響で明治以降の禁止だから、結局一緒。
  3. 鎌倉将軍家みたいに、摂関家将軍とか、宮将軍が来ていたかも。
    • 御三家(尾張か紀州)から来る方が先では? あるいは(かなり可能性低いが)異母弟の保科正之を末期養子に定めて(結果的に諸大名の末期養子の制限緩和が早まる)四代将軍にするとか。
  4. 永正の錯乱みたいなことになっていたかも。
    • 展開次第によっては、戦国時代再来の可能性も。

男色癖がなかったら

  1. それでも正室とは別居していた。
  2. 子供が史実の倍近く生まれた。
    • 男子の名前も「光重」とか「光吉」になる。
    • 紀伊・水戸家や有力外様大名にも娘を嫁がせた。
  3. 家綱は将軍就任時点で20歳を超えており由井正雪の乱も起きない。その代わり武断政治から文治政治への転換が遅れる。

徳川綱吉

将軍にならなかったら

  1. 館林徳川家は少なくとも綱吉の死までは存続する。
  2. 堀田正俊の大老就任はなかったかも。
    • その代わり稲葉正休に刺殺されなくて済んだ。
  3. 光圀との軋轢はなかった。
甲府家が将軍になっていたら
  1. 綱重が家綱の死去時点で存命だったら。
    • 9代将軍の諱はおそらく違っていた。
  2. 綱豊(家宣)がこの時点で就任していたら。
    • 家綱の死の間際に後継者と定められたため江戸城西の丸に入ることはなく、「家宣」への改名もなかった。
  3. いずれにせよ松平清武の立場はもう少し良かった。
有栖川宮幸仁親王が将軍になっていたら

結城秀康の血を引いていたため擁立されたとする説が存在。

  1. 酒井忠清は失脚しなかった。
  2. おそらく幕府は分裂していた。
    • あくまでも徳川家に忠誠を尽くそうという人々が別の人物を擁立していた。
    • 最悪の場合、譜代大名同士の争いに外様が介入しまた戦乱の世に逆戻りしていた危険もある。
  3. 現在では「江戸時代最大の謎の一つ」とみなされることが多い。
  4. 明治維新の時の展開が変わっていた。

世継ぎができていたら

  1. 生類憐みの令が続行。その結果江戸は野良犬天国となり、人間よりも犬の数が多い都市として名をはせることに。
    • でも綱吉の子が綱吉の死後に取り消す。
  2. 法のおかげで江戸はかなり平和に。長引いていればみんな慣れていたかも。しかし綱吉の子までで終わると恨みが増し、江戸の犬は殺されまくって全滅。「犬」と聞くだけで怒り出す。
  3. 逆に生類憐みの令が無かった可能性も。
    • 世継ぎが産まれないために始めた法令ですからね~。
    • 日本人の戦国時代の気風を改めるために法令を出したって説もあるからやっぱり出された可能性もあるかもよ
    • 長男の徳松が成人して世継ぎになっていた場合十分にありえた。
  4. 甲府徳川家は冷遇された。ヘタすりゃ越前松平家並の扱い。
    • 結局は綱重・綱豊・鍋松の3代で断絶。
      • あるいは綱吉の系統か御三家から養子が入って幕末まで存続。
    • 越智松平家は成立しなかった。
  5. 鶴姫は紀伊綱教に嫁がなかったかもしれない。

生まれ年が戌年以外だったら

  • 史実では戌年生まれだったので、生類憐れみの令の中でも特に「お犬様」を大事にした。
子年生まれ
  1. さあ、大変。ネズミの駆除ができないどころか、収容施設を作ってねずみ算で増やそうとする。
    • 穀物は食い荒らされるは、疫病が蔓延するは。
      • 天領や譜代大名領から外様領への逃亡者が続出。
      • 下手をすると日本の総人口がかなり減っていた。
  2. 後世、綱吉は某ネズミの国の象徴的存在になるかも。
  3. 大奥関係者(化粧道具などに被害)や僧隆光(経典や仏像に被害)の怒りを買い早々と失脚に追い込まれていた。
    • 下手をすると怪しげな薬を盛られ将軍位どころかこの世を追われていた。
丑年生まれ
  1. 当然、使役としての農耕牛は全面禁止。農業生産率ががた落ちに。
    • 史実でも番犬禁止令などは出ていないのでせいぜい「ひどい取り扱いはするな」程度で収まっていたのでは。
  2. 京の公家たちにも、牛車の禁止を徹底する。
    • その代用に、明治以前から貴族の間で馬車が普及するかも。
  3. 牛乳は元々飲む習慣はないし、仮に飲んでも殺生には当たらないから関係がない。
  4. 死んだ牛の皮を革製品に加工する穢多の人々がさらにひどい差別を受けていた。
    • その絡みもあり戦後の一部歴史教科書では綱吉がもっと叩かれている。
  5. もちろん彦根藩からの近江牛の献上などできるわけがない。
寅年生まれ
  1. 日本にトラはいないので、大勢に影響なし…と思いきや、ネコ科つながりでの保護を徹底する。
  2. 加藤清正が大悪人扱いされる。
  3. 虎革製品の売買を禁じる法令が出された。
  4. 清国やオランダの商人に生きた虎をねだる。
    • 実際に江戸に到着したが飼育が難しく死亡させてしまった。
      • この場合飼育責任者は切腹を申し付けられていた。
    • この虎の絵が残され後世の日本芸術に影響が残る可能性あり。
卯年生まれ
  1. ウサギは「鵜と鷺」だから獣肉じゃないという言い訳は、もはや通用しなくなる。
  2. 「ウサギとカメ」の寓話は、ウサギが勝者という改竄が行われる。
    • 現在では「イソップ物語と伊曽保物語の異なる部分」としてこの点がよくクローズアップされる。
    • 結局綱吉の死後に元に戻りそうな気がしてならない。
  3. 兎を神の使いとする京都の岡崎神社に大規模な社殿を寄進した。
辰年生まれ
  1. 伝説上の生物なので影響なし。
    • 「鯉が龍になる」と言う伝承を真に受けて、鯉を含めた魚全般が過剰に保護されていたかもしれない。結果として日本の魚食文化にとんでもない悪影響が…。
      • この場合鯉だけを偏愛した政策が実行に移される気がする。
        • 例:江戸のどこかに巨大な池を作りそこで大量の鯉を飼育。
      • タツノオトシゴも対象に含まれるかもしれない。
  2. 広く動物愛護を推進するが、特定の動物をターゲットにした極端な政策に走らない。
    • 世界初の本格的な動物愛護法として、後世グリーンピースあたりがもてはやす。
  3. 日本中に呼びかけて、竜を見つけてくるように命令するかもしれない。
巳年生まれ
  1. まあ、蛇はそんなに身近な生き物じゃないから、保護するといってもたかがしれている。
    • まむし酒の禁止くらいか。蛇の皮の利用は、脱皮後の抜け殻だから殺生じゃないし。
  2. ウミヘビやウツボはどうなるんだろう?
午年生まれ
  1. 乗馬の全面的な禁止で、武士階級の全面的な反感を買う。
    • むしろ「人馬一体」を推進するような政策が行われていた。
      • 馬小屋で愛馬と寝食を共にする武士が絶賛された。
  2. 農耕馬も禁止なので農業生産にも影響大。
  3. こちらでも穢多の人々は地獄を見ていた。
未年生まれ
  1. 羊も当時日本にはいないから影響なし。辰年生まれの場合と同様になる。
  2. 毛織物を着た南蛮人は、入国禁止か。でも羊毛生産は殺生してないから関係ないか。
  3. オランダ商人により生きたヒツジが献上されていた。
    • その「お羊様」の毛を用いた製品が諸大名や旗本への褒美として活用された。
      • 毛を刈ることは暑さ対策として必要なため適切な時期に行うのは推奨された。
申年生まれ
  1. 猿回しの禁止くらいで、市民生活にあまり影響はない。
  2. 「サル知恵」や「猿も木から落ちる」は、良い意味で使われるようになる。
  3. 徳川家が過去に倒したの一族の扱いがややこしいことになる。
    • 下手をすると庶民の間で太閤記ブームが起きかねない。
酉年生まれ
  1. 鶏肉はもちろん、食用禁止に。鶏卵は有精卵以外は大丈夫か。
  2. 闘鶏も禁止になる。
    • 鳥を獲物とする鷹狩も当然禁止。
亥年生まれ
  1. 牡丹鍋はもちろん食用禁止。数少ない江戸時代の獣肉料理がさらに縁遠くなる。
  2. 日本以外では亥年=豚年なので、豚も食用禁止にする。イスラム教と同じ姿勢なので、布教を推進するかも。
    • 当時豚を食べていたのは長崎の外国人と奄美(外様の薩摩藩領)・琉球(名目上独立国)だけだったので特に手は打たれなかったのでは。
    • またイスラームは当時まだ日本に伝来していない。
  3. 猪による農作物への被害が深刻になったが何も対策ができず百姓の逃散や一揆増加の原因になった。

徳川家継

参考:もしあの歴史上の人物が長生きしていたら/日本史#徳川家継

尾張家が将軍になっていたら

徳川家宣は尾張殿(徳川吉通)に将軍職を譲ることも考えていたようだが…

  1. 徳川吉通が第7代将軍に。
    • …と思ったら、翌年に亡くなってしまい、なぜか五郎太が引き継ぐことに。
      • 五郎太の死去が現実と同じだったら、結局家継が将軍になっていた。
      • 家宣(正徳2年死去)→吉通(正徳3年死去)→五郎太(正徳3年死去)→家継(正徳6年死去)と将軍がコロコロ変わるので幕府の権威が揺らいでいたかも。

徳川吉宗

将軍にならなかったら

  1. 松平健が伸び悩む。
  2. 大河ドラマで吉宗を演じた西田敏行の立場は・・・・・。
  3. 紀伊徳川家では吉宗の跡継ぎを巡って揉め事が起きる。
  4. 御三卿は創設されない。
  5. 田沼家は大名どころか旗本にもなれなかった。
尾張家が将軍になっていたら
  1. 幕府の財政は余計に火の車に。
  2. 芝居小屋が大繁盛。
  3. だからといって名古屋が首都になるわけではない。
    • 逆に空洞化してしまう恐れもある。
  4. 8代以降の将軍にも3代将軍家光の血が流れていることになる。
  5. むねハルくんは存在しない。
  6. 宗春の方針は、いわばケインズ政策みたいなものだから、世の中の景気は良くなるはず。
    • ただし、カネの経済がさらに急速に進行し、コメ頼りの各藩はもはや財政を維持できなくなり、幕府に領地を返上して宮廷貴族化しただろう。
      • その結果、徳川幕府の絶対王政化が進む。その代わり倒れるのももっと早かったろう。ブルボン王朝みたいな結末に。
      • 面白いけど、正直あり得ない。日本には王権神授説のような、絶対王政を正当化する思想的根拠がない。
        • 江戸時代の武士は殆ど名目上になってはいたが、鎌倉武士以来の「土地を持っている」という事に未だに強い拘りを残していた。将軍の代替わりに出される知行安堵状は、藩でもっとも重要な文書として、未だに残っている例が多く、幕臣や藩士も知行取は、蔵米取よりたとえ手取りが少なくても身分は上だった。つまり同じ支配階層内の支持が絶無。
          • 仮に貨幣経済化しても、松代藩みたいに年貢を金納にするくらいで、土地までは返上しないだろう。
        • 享保期では、まだ藩の財政はそこまで悪くなってないから、抜本的な改革よりをやろうという政治的コンセンサスが得られ難い。
          • 江戸時代の支配層に、廃藩置県を断行した明治初期の維新の元勲たちのような、改革への強い意志や危機意識を求めるのは無い物ねだり。
    • 災害や不幸があるたびに日本人が「自粛ムード」に陥ることもなくなった。
  7. 案外、将軍になったら素直に吉宗らに倣って、質素倹約といった当時常套的な改革をする可能性が捨て切れない。
    • 宗春の放漫政策は、吉宗への反発という面が多かった。将軍になったら対抗心が生まれず、吉宗の政策の敢えて逆をやるという宗春の動機が失われる。
    • 傍系から将軍になったというイレギュラーな事態は変わらず、改革で成果を上げて自己の正当性を認めさせるという目的は残るので、改革自体は行われる。
水戸家が将軍になっていたら
  1. 幕府の財政はいっそう悪化した上に武士から平民まで一様に怒りを買い、乱がおき、戦国時代に逆戻り。
  2. 大日本史の研究が、はかどる可能性がある。
    • 逆に、平時に無用の乱を起こす可能性ありとして、封印されていたかもしれない。
館林藩主松平清武が将軍になっていたら
  1. 松平清武は6代将軍家宣の弟にあたる。
  2. 幕府の財政はいっそう悪化した上に武士から平民まで……水戸家の説明と変わらないな。
  3. 実子がいなかったので、結局跡継ぎをめぐって騒動が起きていた。
    • 清方という息子がいたが清武より先に早世してる
  4. 結局8年遅れ(1724年)で吉宗か継友が継ぐ

徳川家治

11代将軍が松平定信だったら

第10代将軍家治には実子家基がいましたが、18歳で急死したため、一橋家より養子を取って第11代将軍家斉としました。この時、田安家(8代将軍吉宗の次男宗武の系列)の賢丸も候補に挙がっていましたが、白河藩の養子となり、松平定信となりました。この時、もし第11代将軍になっていたら・・・。

  1. 財政を引き締めていたため、江戸幕府の財政破綻が起きず、もう少し長く続いていた。
    • むしろ商業の軽視が祟りさらなる財政の悪化を招いていたかも。
  2. 田沼意次が史実以上に悪く言われた。
    • 田沼家は取りつぶされていた。
    • 現代でもほとんど評価されていない。
    • さらに田沼時代に関係するものも悪影響を受けた。
      • 『赤蝦夷風説考』や『解体新書』が禁書に指定された。
  3. 蘭学が弾圧されていた。
  4. 江戸時代後期の文化はそこまで発展しなかった。
    • 後世では「市民の自由な動きを弾圧した人物」として非難される。
    • 大っぴらに楽しむのが厳しくなるだけで、やはりかなりの程度発達はするだろう。
  5. 朱子学以外の儒学が壊滅していた。
    • 大塩平八郎の乱は発生しなかった。
    • 折衷学派と名乗りつつ、実質徂徠学派という学者が増えて、本質は変わらない気がする。
  6. 隠密を多用するなど陰険な気性だったため庶民や外様大名の不満が高まった。
    • 倒幕がもう少し早くなっていた可能性もある。
    • その反面、諜報活動が史実より重視されていた。
    • 近代になってからのスパイ活動もうまくいっていた。
  7. 白河市でダルマが作られることはなかった。
  8. 長谷川平蔵は大岡越前や遠山景元以上に人気を集めていた。
    • 「鬼平犯科帳」のレギュラー放送が現在も行われている。
  9. 幕府がもう少し社会福祉に熱心になっていたかも。
  10. 家斉が将軍になっていないので化政文化はない。
  11. 加賀藩上屋敷に赤門はできなかった。
  12. 尊号一件は起きなかったかも。
    • ということは、幕府延命のためだけを考えると、この方がよかったのかな。
  13. 白河松平家は桑名に転封しなかった。
    • 後年に会津と兄弟で防衛線を張る。
    • 行田を合わせた3市で姉妹都市協定を結ばない。
  14. 次男は真田家ではなく田安家を継いでいた。
    • 佐久間象山の人生も変わる。

徳川慶喜

14代将軍になっていたら

14代将軍は井伊直弼らが推す徳川慶福(家茂)と徳川斉昭らが推す一橋慶喜との間で対立し、最終的には徳川家茂が14代将軍になりました。ではここで徳川慶喜が将軍になっていたら?

  1. 井伊直弼は失脚。
    • 島津斉彬を始めとする改革派が実権を掌握。
      • 慶喜の在世中は薩摩藩が倒幕に動くことはなかった。
  2. 日米修好通商条約の調印が難航した。
    • 慶喜派も開国には賛成だったので、いずれは調印されたと思われる。
  3. 安政の大獄がないので、吉田松陰や橋本左内が死なずに済んだ。
    • 吉田松陰は偉大なる教育者として生涯を全う。後年、その流れを組む私立大学ができていたかも。
      • 正式な名前は「松下村塾大学」。通常は「松下(しょうか)大学」と呼ばれる。
      • 萩市は日本には珍しい大学都市となっている。
        • 地方の大学としては高レベルを誇る大学になっていた。
        • 萩市そのものが現実よりも発展していた。
      • 東京に作っていた場合、長州藩の下屋敷があった六本木(現・東京ミッドタウン)に大学を作っていた。
  4. 慶喜の改革が成功し、後世「安政の改革」と呼ばれ江戸四大改革のひとつに数えられる。
  5. 公武合体は起こる事無く、和宮も有栖川宮熾仁親王夫人として普通に皇族の女性としての生涯を全うしていた。
  6. 坂本龍馬は慶喜に心酔し、海援隊が幕府御用の国営企業になっていた。開国後は渋沢栄一と並ぶ実業界の大物に。

処刑されていたら

「ラスト・ショーグン」徳川慶喜は、大政奉還後に出された王政復古の大号令に反抗して、大坂城に篭城し鳥羽・伏見の戦いを起こしますが敗北。江戸に脱出の後朝廷に降伏しました。明治新政府は慶喜の処遇を謹慎にとどめましたが、もし新政府が慶喜を朝敵として処刑していたら…。

  1. おそらく切腹。
  2. 新政府の宣伝の為、相当な悪人として描かれる。
    • 例)妊婦の腹を裂いて赤ん坊を見たり、往来の人を切ったり。
    • 名誉が回復されるのは第二次世界大戦後。
  3. 軍人から反面教師として見られていた。
  4. 慶喜が詠んだ辞世の句が現代に伝えられている。
  5. 江戸城は燃えていた。
  6. 旧幕府軍が猛烈な勢いで戦うために、もっと戊辰戦争が酷くなっていた。
    • しかし負けている。
    • 徳川家達が担ぎあげられてかもしれない。
  7. 1998年の大河ドラマ「徳川慶喜」は涙無しでは見られない。
  8. 逆に2004年の「新撰組!」ではどうしようもない男として描かれる。
  9. 2008年の「篤姫」では、処刑の直前に篤姫との絡みがある。
    • 瀧山「慶喜公が処刑されるとのことにございます」篤姫「何を言っておるのじゃ・・・」。
    • この状況で江戸城無血開城はありえない為、最終回はかなり悲しい結末に。