もし戦前に民間ラジオ局が開局していたら
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- 日本最初のラジオ局はTBS・MBS・CBCのいずれかになっていた。
- この3局で、日本最初の民放ネットワークができる。
- むしろ既存の新聞社がラジオ部門に進出している。
- 史実でも大阪毎日・大阪朝日といった大新聞がラジオの実験放送を行ったことがある。
- MBSは「大日本放送」という局名だった。(史実では「新日本放送」。)
- 二番目・三番目に開局した局は「帝國放送」、「皇國放送」だった。
- ちなみに「皇国」という語を民間企業の名称に使った例は現実では皆無に等しい。
- 「毎日放送」に改称したのは戦後になってからだろうか。
- 二番目・三番目に開局した局は「帝國放送」、「皇國放送」だった。
- TBSが当初「ラヂオ東京」という名前なら戦前のNHKワールド・ラジオ日本は別の名称に?
- 1920年代中に誕生していれば、1930年代までに全国に民間ラジオ局ができる。
- 但し、当時の不景気により合併が発生した可能性も。東名阪でも1局のみ?
- 1930年代後半からはラジオの普及やノウハウの確立などにより経営が安定してきた気がする。
- テレビ開局第1号も、NTVではなくTBS(KRT)になっていた可能性もある。
- 背景は「民放主体のアメリカ式と公共放送主体の欧州式のいいとこ取りを狙った」というところか。
- 史実よりかなり早く放送法が制定されていた。
- 既存の新聞社や通信社ではなく電力会社が絡んだ放送局もあった。
- エリア設定はもう少し柔軟だった。
- どこかの私鉄が放送局と組んで「ラジオカー」を走らせていた。
- 「民間放送」ではなく英語圏・中国語圏のように「商業放送」と呼ばれていたかもしれない。
- かつてのテレビと同じように昼間は停波状態という局もあった。
- 放送免許更新の審査は現在よりずっと厳格。
- 特に外地の日本人以外の資本による放送局への審査は相当厳しくなっていた。
- 免許を更新してもらえず消滅した放送局も複数あった。
- 放送分野の事情が戦中の新聞統制にも影響を与えていた。
- ネットワークは当初は番組販売が中心のものだった。
- 東京ではなく大阪がキー局のものもあったはず。
- 太平洋戦争の頃に「大日本放送株式会社」といった感じの国策会社に統合されていた。
- 終戦後には過度経済力集中排除法を適用され分割された。
- 分離分割後の大日本放送の放送エリアは関東広域圏だけになる。昭和30年代に「東京放送」と改称し、その後の経過は史実のTBSと同じ。
- 戦前それぞれ別の民放に属していた関係者の対立があるはずなのでそうはいかなかったのでは。
- 分離分割後の大日本放送の放送エリアは関東広域圏だけになる。昭和30年代に「東京放送」と改称し、その後の経過は史実のTBSと同じ。
- 国に買収されNHKの一部にされる放送局もあったかもしれない。
- いや新聞のように一都道府県一局に再編された。
- 終戦後には過度経済力集中排除法を適用され分割された。
- 欧米と同じように選局の必要が早くから生じたため国産受信機の性能はもっと高くなっていた。
- 電波の選択度や感度に優れた受信機が作られ一部は輸出品にもなった。
- 大戦中には中華民国やアメリカによる中波での宣伝放送が史実以上に盛んに行われた。
- 朝鮮、台湾、樺太、南洋諸島の放送局は戦後国有化されていた。
- ただし内地資本の局に限る。
- 放送内容が、史実の戦後のような場合、日本人の価値観が好戦的でなくなり、世論もその影響を受ける。そのことで、日本は日中戦争や太平洋戦争を起こさない。欧州の第二次大戦では中立国になるか、連合国側になり(ドイツ・イタリアに宣戦布告)後方支援のみ行う。
- 当時、史実の戦後のような放送内容で放送する事は可能か。
- 現在のようにマスコミが反戦を訴えだしたのは太平洋戦争での空襲による被害経験があってのことなので反戦に傾くことはなかったはず。
- 新聞と同じように「皇軍の快進撃」を報道した方が広告収入が入っていたと推測されるので普通に好戦的な内容だったのでは。
- 現在のようにマスコミが反戦を訴えだしたのは太平洋戦争での空襲による被害経験があってのことなので反戦に傾くことはなかったはず。
- 空襲などによる資料散逸が原因で戦前の民放に関する研究はあまり進んでいない。
- 人気番組であっても内容がほとんど謎になってしまったものもある。
- 関係者へのインタビューが貴重な情報源になっていた。
- エンタツ・アチャコや玉松一郎・ミスワカナといった当時の人気芸能人がCMに起用されていた。
- 当時のCMソングで現在まで歌い継がれるものもあったかもしれない。
- 旧制中学の生徒と高等女学校の生徒が、ラジオでの当初を通じて交際していた。また、当時の青少年の本音を話す番組もあった。これらが、当時の受験生に好まれた。
- 当時の価値観を考慮するとそのような番組が放送されたら出演者がまともに生きていけなくなるような気がする。
- 「全国こども電話相談室」「こども音楽コンクール」なども、当時から放送されていた。
- 電話の普及率を考えると前者は難しいのでは。
- 「昭和東北大飢饉」の際、JRNを通じて募金等のチャリティキャンペーンが実施された。しかし、その当該地の局=RAB・IBC・TBCは経営難には陥らず、通常と大差ない娯楽番組を放送していた。
- 「ソテツ地獄」の際も同様。同じく、当該地の局=RBCは経営難には陥らず、通常と大差ない娯楽番組を放送していた。
- 内務省が何かと口を挟む機会が異常に多かった。
- どこの局にも検閲官が常駐。
- 不祥事を起こした局が「○日間の停波」を命じられるのも日常茶飯事。
- それが有力な局の場合は他局も巻き添えを食らう。
- 「のらくろ」「冒険ダン吉」「新戦艦高千穂」など当時の人気漫画や小説が次々とラジオドラマ化された。
- 国内放送のBCLもそれなりに広まるが日米開戦とともに取り締まり対象に。
- 受信確認証の発行も全て中止された。
- NHK紅白歌合戦は戦前から民放への対抗策の一つとして実施され放送されていた。
- コールサイン割当原則が史実通りだった場合、朝鮮の民放はJB◯R・JB◯F、台湾の民放はJF◯R・JF◯Fのコールサインが割り当てられていた。
- 財閥系の放送局がいくらか存在する(特に地方部は当地の有力企業が大株主に)。