もし鎌倉・南北朝・室町時代が○○だったら
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鎌倉時代
北条時政の子供が○○だったら
- 義時が暗殺されていたら
時政の次男で2代執権の義時は3代将軍・源実朝の右大臣拝賀式で太刀持ちを務める予定でしたが辞退し、直後に実朝は暗殺されました。もし実朝とともに暗殺されていたら?
- 実朝暗殺の黒幕と疑われることはなかった。
- その分三浦義村への風当たりが強くなる。
- 阿野時元や禅暁が殺害されず、4代目以降も源氏の将軍が続いた。
承久の乱で上皇方が勝っていたら
- 北条氏は逆臣として現代まで不名誉な扱いを受ける。
- 後北条氏は北条姓を名乗らず、伊勢姓のまま。
- 「北条政子=日本版呂后」というイメージがさらに強くなっていた。
- 北条氏が排除された鎌倉幕府は存続はしても関東武士の地方政権扱い。朝廷による武士掌握が進むとすると、その後全国規模の武家政権の樹立がありえたかどうかは微妙。
鎌倉幕府が法華宗を国教にしていたら
鎌倉時代後期、日蓮宗の創始者・日蓮は(彼が唯一の正法と信じている)法華宗を日本における唯一の宗派として、(彼にとっては邪教である)浄土宗や禅宗などを日本から排除すれば国家も国民も安泰となるとして、自説の採用を幕府に強く要求しました。当然この主張は受け入れられなかったわけですが、もし鎌倉幕府が日蓮の言う通りにしていたとしたら?
- 鎌倉の大仏は破壊されていた。
- 比叡山延暦寺や高野山金剛峯寺も取り潰されていた。
- 法華宗に衣替えしてしぶとく生き残っていた可能性もある。
- 高野山が取り潰されていた場合南海高野線は存在せず現実の高野線沿線は現在に至るまで鉄道が通らないことから発展しなかった。
- 泉北ニュータウンへは大阪市高速電気軌道御堂筋線が延伸。
- 比叡山延暦寺や高野山金剛峯寺も取り潰されていた。
- 浄土宗や禅宗が消滅するわけだから、本願寺も永平寺も当然存在しない。
- 日蓮が奈良時代の道鏡のような存在になっていた。
- 禅宗派の武士が反幕府勢力となり、鎌倉幕府の崩壊が大きく早まった。
- その間に元軍が攻めてくれば、間違いなく日本征服を成功できただろう。
- 当然某学会などあるまい。
- 某学会やK正会は日蓮宗から分裂した異端派(カトリックと東方正教会みたいなもの)として登場していた。
- 神道を奉じている朝廷(皇室)はどうなっていたのやら。
- 神道も排撃対象となっていたとしたら、伊勢神宮も破壊されていた可能性も。
- この場合近鉄は存在せず、現実の近鉄奈良線は大阪電気軌道のままだった。
- 三重県が全国有数の地味な県となっていた。
- 相撲が国技にならなかった。
- 神道も排撃対象となっていたとしたら、伊勢神宮も破壊されていた可能性も。
- 現在より創価学会の弾圧が大きい。
- しかし現実より過激化。すでにクーデター(未遂)を起こしていたかも。
- もしかしたらその他の宗教が過激化していたかも。
元軍が日本征服に成功していたら
- モンゴルの影響で肉食が広まる。
- 日蓮が高笑い。しかし法華経信者それほど増えず。
- とすると公明党はないか。
- 日本にイスラム教が根付く
- いや、仏教だろ。ただしチベット仏教。
- これといってモンゴルは特定の宗教を押し付けたりはしてないので案外そのままかも。但し日本のイスラム教徒や仏教徒は史実より多い。
- いや、仏教だろ。ただしチベット仏教。
- 鎌倉幕府はモンゴルに逆らったため取りつぶされる。
- 幕府軍の残党が東北か北海道あたりに逃げて抵抗を続ける。
- そこまで行かなくとも、案外吉野の山奥とかでも抵抗してたりするかも。いずれにしても、あちこちに逃げることになるだろう。
- 大宰府はモンゴルによる日本占領の拠点とされ、モンゴル人が常駐する。
- 幕府軍の残党が東北か北海道あたりに逃げて抵抗を続ける。
- 朝廷は存続するが、高麗のようにモンゴル貴族との融合が進む。
- やがて元は日本から撤退し、モンゴル化していた朝廷はその時点で武士勢力に滅ぼされる。
- むしろ朝廷は取り潰されヤポン・ハン国は設置される。しかし朝廷の復興を求めて武士たちが暗躍する…
- モンゴル人を追い出した武士勢力は新たに「日本王国」を建国。明と朝貢貿易を行って繁栄する。
- 現在まで「○○は実は殺されてなく、海を渡って足利尊氏になった」とまことしやかに囁かれる。
- どっちにしても今の歴史にさほど影響なし。日蓮を除き。
- いや、その後の日本の文化や日本人の気質は少なからず現在とは違うものになってたかもしれない。
- モンゴル軍が撤収する際に残した兵器が日本側により調査され、鉄砲の伝来より早く日本史の合戦で火薬が使用されるようになる。
- マルコ・ポーロが日本に到達してたかもしれない。
- いや、その後の日本の文化や日本人の気質は少なからず現在とは違うものになってたかもしれない。
- 税は安くなり、世界経済に直結して、日本はますます繁栄しただろう。あ、でも皇族や公家、有力武士層は皆殺しね。商人・職人優遇の社会になっていた。
- モンゴル帝国の要職につく日本人が現れていただろう。
- 文永の役で征服されていたら、南人(旧南宋人)よりは上位だったからその可能性はあるね。弘安の役だと南人より下位の最下層になってしまうので、さてどうなることやら……
- 日本人の西アジア移民やヨーロッパ移民が行われていたかもしれない。
- 神風が吹かなかったってことだから、二次大戦の時の特攻は無かった。
- ニューヨークの同時多発テロも起きなかったかも。
- ハルゼーの第3艦隊も被害を受けなかった。
- 名前が変わっただけで行われていた。
- 現在の相撲はモンゴル相撲になっていた。
- 朝青龍のサッカーが問題になることはなかった。
- もしかすると現代もモンゴル(中国)管轄内かも...
- 清の時代には清が中国から見た異民族王朝あることから清の故郷である満州やモンゴルや東トルキスタンやチベットと同様に朝鮮と一緒に清の領土になっていた。
- 中華民国時代は史実のモンゴルやチベットと同様に名目上は中華民国領であるが、実質的に朝鮮と一緒に独立状況になっていた。
- 非常に広範囲の文物が日本に流入。日本人の国際感覚はかなり鍛えられたはず。
- 日本史では「蒙古朝時代」か「元朝時代」として扱われている。
- もしかしたら紅巾の乱後、元の亡命政権が日本に来た可能性も。
- 中華民国は日本に逃げ込む。
元寇の後に日本が逆に朝鮮や中国に攻め込んでいたら
- 成功していたら
- 勝算が無かったわけではない。ちょうど元は南宋征服に忙しく、中央アジアでは反乱が起こっていた。うまく元の圧制に苦しむ高麗の内情を突ければ……
- とはいえ、やっぱりその後の半島の歴史は「もし豊臣秀吉が朝鮮に勝っていたら」のようになっていたのかもしれない。
- 半島は待望の「恩賞」が手に入った御家人達の手で細かく統治される。「両班」とは在朝御家人のための言葉になったのかもしれない。
- 日本が南北朝や戦国の内乱に突入した段階で朝鮮半島は再独立を果たすが、統治システムは日本の幕府のシステムがそのまま使われるので、朝鮮半島にも封建制度が定着する。
- 済州島や鬱陵島が日本領になっていた可能性も
- この場合現在の竹島は実史の鬱陵島、竹島の名称は松島のまま
- 済州島や鬱陵島が日本領になっていた可能性も
- 失敗していたら
- 軍事力が多少減る以外は大勢に影響は無かったかもしれない。
- しかしこの戦いでもし幕府が大打撃を受けた場合、逆に攻め込んできた元軍によって日本が征服されたと思う。
- せいぜい日本軍を朝鮮半島から撃退して終わりじゃないかと。
- でもこの次点で幕府が大打撃(御家人の大多数が死亡等)をうけけいたら鎌倉幕府は実史よりも早く崩壊していた可能性がある
南北朝時代
建武の新政が成功していたら
- 天皇を君主とする中央集権国家になっていた。
- 後醍醐天皇が隠岐に島流しされることはなかった。
- この時点で武家政治が終了していた。
- 明朝建国後直ちに明の朝貢国になっていた。
- 名実と共に日本国王が天皇になっていた。
- 戦国時代を経験しないため明清交代の衝撃が史実より大きかった。
- 日本にも小中華思想が存在していた。
- 奈良・平安時代が第一次王朝時代、建武の新政以降が第二次王朝時代と呼ばれるようになる。
- 現在の皇族は後醍醐天皇の子孫になっている。
南北朝時代が続いていたら
- 元号の計算が面倒くさいことになる。
- 主に北朝側の元号が使われ、南朝も独自の元号があるが使われていないということになりそう。
- 但し宮内庁ではどちらも正式扱いになる。
- 第2次世界大戦中は熊沢天皇が日本を統べている.
- 天皇の権威を動揺させるためにGHQが南朝こそ正当だと主張し始める。
- やがて冷戦を迎えて、北はソビエト、南はアメリカ寄りになる。
- いや、何も日本の国土が分断されていたわけではないから……
- 周辺各国はどちらを合法政府にするか迷う。
- とりあえず明国は九州で優勢な勢力と交易。史実でも南朝の懐良親王を「日本国王」として扱っているし。
- 室町時代をとばして戦国時代突入。乱世の中であっさり天皇制が廃止されてしまう。
- 織田信長が天皇制を廃止して皇帝に即位する。
- いや、名称は「天皇」のままだと思われ。
- これ以降、皇族は前の王朝が京都朝と言うのに対して織田朝または大阪朝と呼ばれるようになる。
- 織田信長が天皇制を廃止して皇帝に即位する。
- 中国は琉球・九州を領土にし戦争に介入。ロシアは北海道を領土にし戦争に介入。
- 戦国末期の関が原的な決戦が南朝・北朝を担いだ両勢力の激突になっていた。いずれにせよ戦国時代を経た時点で統一されていたと思う。
- 足利氏は源氏長者を輩出できなかった。
- 南北朝正閏論の論争がさらに過熱していた。
- どちらか(足利氏との関係を考えると北朝かな)が史実の幕府に近いポジションになっていた。
南朝が勝っていたら
- 朝廷が再び実権を握っていた。
- 後醍醐天皇が生きてた場合、中国式の中央集権国家になる。
- 天皇主権にしようとする天皇家と、摂関政治の復活を目指す北畠等の公家とのあいだで虚々実々の駆け引きが。
- 新田義貞が天皇家、楠木正成が公家勢力に付き、内紛が始まる。
- これが言えるのは南朝の勢力がまだ充実していた南北朝時代のごく初期だけ。それ以後であれば「南朝を担いだ武家勢力が勝つ」にすぎず、時代の流れはそれほど史実と変わらなかったかも。
- 足利尊氏は処刑された。
- 丹後に逃れたやも…
- 全国各地に「足利の落人」の伝承が残る。
- 朱子学の導入が300年近く早まる。
- 九州の征西大将軍が明国と貿易を続ける
- それどころか中央の朝廷とはほぼ独立状態で明治維新まで動いている。
- 後亀山天皇の後も南朝の系譜が続く。
- 「熊沢天皇」など絶対に出てこない。
- 逆に「北朝の子孫」と称する自称天皇が登場した可能性がある。
- 「熊沢天皇」など絶対に出てこない。
- 一休さんは僧侶にならなかった。
- どころか、天皇になっていたかも。
- 『梅松論』は室町幕府を正当化しているということで禁書に指定された。
- 「南北朝時代」ではなく「吉野時代」と呼ばれていた。
- 南朝の後醍醐天皇の皇子が武闘派が多かったことを考えると後醍醐源氏と呼ばれる新興武家ができていたのかも。
- 皇室が武家に近い家風になっていたのかもしれない。
足利尊氏が戦死していたら
- 新田幕府成立
新田義貞が武士の為を考えていたら尊氏の死後に反乱を起こす可能性があった(義貞が南朝についたのは尊氏の考えに反対していた為)
- 敗戦後、後醍醐天皇はどっか遠い所に流罪
- 井沢元彦の「歴史if物語」では佐渡が有力って言ってた
- 新田義貞の性格から幕府は鎌倉のまま
- この時代は後に「新田時代」または「第2次鎌倉時代」と呼ばれるようになる
- 徳川幕府成立後は鎌倉が日光東照宮に次ぐ聖地となる
- 武田氏、佐竹氏、結城氏、宇都宮氏、小山氏といった関東の有力武家の抵抗やサボタージュに悩まされて、早期に瓦解する。
- 史実の足利氏も相当苦労して、結局完全に被官化は出来ないまま戦国時代に突入している。政治力が欠ける義貞に安定政権を築けるとは思えない。
- 義貞個人の政治力の無さは、良い助言者が居れば補える。尊氏だって最初から政治力があったわけではない。足利が亡びれば新田、という感覚は当時あったはずなので、義貞のもとに人材は集まっただろう。
- また、足利に較べて内部の抗争が少ないのも新田の強み。足利幕府のもとでやたらと強大な守護大名が多かったのは、内部抗争(直義vs.師直、尊氏vs.直義、義詮vs.直冬など)の際にそれぞれが味方を募るために大盤振る舞いしたことも一因である。天下をとった場合、その統制力はむしろ新田のほうが上になったと思う。
- 史実の足利氏も相当苦労して、結局完全に被官化は出来ないまま戦国時代に突入している。政治力が欠ける義貞に安定政権を築けるとは思えない。
- 新田幕府が強大になっていたら戦国時代の到来が遅れた可能性もある・・・
- その場合、年数が遅れていた事によっては信長の出番は無く、毛利か伊達が天下をとっていた可能性も
- 大内や尼子が史実ほど大きくならないので、毛利の大躍進もあまり望めない。
- もし上記のように鎌倉に新田幕府が置かれていれば、東北の蠢動に対しては対処しやすいので、伊達の躍進もまずあり得ない。
- 新田一門の山名、里見、世良田などが強大化した。
- 松平氏はおそらく三河の一豪族のまま(得川義季の子孫が落ち延びない限り。もっとも、戦国後期に成長した場合を除く。)
- 首都は史実より早く関東に移っていた。
- もしかすると新田幕府が存在し続けたまま明治維新を迎えたりするんだろうか?
- その場合、年数が遅れていた事によっては信長の出番は無く、毛利か伊達が天下をとっていた可能性も
- 楠木幕府成立
理由は↑と同じ、しかも新田に比べて若干尊氏寄りだったので可能性はある
- 天皇は流刑。
- 鎌倉時代の宮將軍のように、自分の息のかかった皇子を将軍に据えて、自分は執権のような形で実験を握る。
- 楠木氏では血統が怪しすぎて、自身が将軍になっても、従う者はほとんどいないため。
- 二度の献策を却下されても後醍醐天皇を見限らず、敗北の見えていた湊川の戦いに天皇の命に従って出陣したほどの「本物の忠臣」正成がそんなことをしただろうか…。せいぜい後醍醐天皇治下で実権を掌握するにとどまったような。
- 鎌倉時代の宮將軍のように、自分の息のかかった皇子を将軍に据えて、自分は執権のような形で実験を握る。
- 幕府は大阪、堺辺りが有力
- 楠木が天皇からもらった場所が現大阪府地域だったためと、京に近い
- 三好三人衆や本願寺一向衆が出てこないので、織田信長はあっさり領土を広げることになる。
- 寺社勢力がとてつもなく強くなる。ほとんど祭政(しかも神道ではなく仏教)一致体制になるだろう。
- 楠木、名和、児島など、実はいずれも文観に連なる人脈で、文観はいわば南朝の大スポンサーだった。当然、楠木幕府が成立すれば、文観に代表される真言系の寺院が大きな発言力を持つことになる。
- 文観は異端とされた立川流の僧だったので、天下を取ったら逆に他宗派に対してとんでもない弾圧を始めるかも。
- いずれ神道の元締めとしての天皇と衝突し、世の中は再び動乱へ。
- 楠木、名和、児島など、実はいずれも文観に連なる人脈で、文観はいわば南朝の大スポンサーだった。当然、楠木幕府が成立すれば、文観に代表される真言系の寺院が大きな発言力を持つことになる。
- 護良親王が政権掌握
厳密には南北朝の成立以前だが、しきりに画策していた尊氏抹殺計画が成功していたらこの可能性も。
- 父・後醍醐天皇から皇位を奪うか、あるいは征夷大将軍のまま実権を掌握したかはともかく、彼なら武士たちも束ねて公武の頂点に立った政権を築いたかもしれない。朝廷が事実上幕府化する。
- 朝廷が武力政権化するとなると、やがて訪れる戦国時代に「武力で打倒する対象」として認知されるかもしれない。その場合朝廷の歴史は史実とは大幅に変わるはず。
- それでも足利幕府成立
- 尊氏が戦死しても、弟の直義が生き残っていればこうなる可能性は決して小さくない。
- ぶっちゃけ、政治力に長けた直義が將軍の方が、幕府は安定したと思う。
- 確かに政治力には長けていたが、政治の運営者、実行者としては(良くも悪くも)柔軟性に欠け、薄情かつ怜悧に過ぎる傾向があったので、史実で6代将軍の足利義教が行ったような恐怖政治に陥っていた可能性がある。この人は政治家としては基本的に補佐役を必要としないタイプの人間だっただけに余計危険性は高い。
- しかも直義には軍事的能力があんまり無かった。幕僚に勇将智将が居ればそれでも良いのだが、軍事に長けていた高師直とも仲が悪かったんだからどうしようもない。早い時点で手詰まりになり、幕府成立まで至ったかどうか……
- ぶっちゃけ、政治力に長けた直義が將軍の方が、幕府は安定したと思う。
- 2代将軍は直冬となる。
- 義詮と立場が入れ替わるか……尊氏が直義に暗殺されたとでもいうのでない限り、それは無いかな。
室町時代
足利義満の皇位簒奪が成功していたら
足利義満は南北朝の合一を達成した一方で天皇家の皇位簒奪を計画した将軍です。
正しくは息子の義嗣を天皇に即位させ義満は上皇として権威を奮おうとしました。
義満は明から「日本国王」に任命され対外的には義満が元首と認知される等、計画を進めますが義満は51歳で病死します。(毒殺説あり)
仮に足利義満が皇位簒奪に成功していたらどうなっていたでしょうか?
- 後小松天皇は寺に放り込まれて出家させられるか、退位後に暗殺されていた。
- 義満は子供の義嗣と共に我が世の春を謳歌する
- 義満の死後、義嗣の兄である義持は弟に家臣にならなければならない理由に不満を持ち天皇家の残党と結託して義嗣を追放・処刑していた
- ただし義持・義嗣兄弟の争いが長引いた場合、室町幕府は実史よりも早く衰退し、戦国時代の到来が早まっていた
- 南朝の残党も介入していた。
- 信長は本気で天皇に即位しようとした
- 本能寺の変は天皇家が起こしていたかも・・・
- むしろ天皇家を躊躇なく潰していた。
- 史実では天皇に頼って戦を決着させたことも多い(勅)が、この際は天皇家を潰した後、「第六天魔王」として君臨。
- そもそも「義満の皇位簒奪成功」が前提である以上、「天皇家」というのは「足利家」のはずなんだが。
- 要するに「神武朝(継体朝?)→足利朝→織田朝」という、普通の王朝交代として、他国同様に淡々と歴史が進むだけ。
- その後もしも史実同様に本能寺の変が起きていれば、明智が足利朝を復辟させるか、あるいは史実同様に猿が勝利した後、織田朝のラストエンペラー三法師からの禅譲を演出して豊臣(羽柴?)朝を創始していたろう。
- その後はやはり徳川朝になるのか?
- いや、家康の性格からして、秀頼(すなわち豊臣朝の大宗)を傀儡化して、結局史実通りに将軍宣下を受けて幕府を開くという、つまらない展開の方が自然だろう。
- 戦前には足利義満は平将門を超える世紀の大悪人になっていた
- 「廃仏毀釈」の際に金閣寺は一度破壊された。戦後、大阪万博を前に再建された。
- 「金閣」だけでなく「鹿苑寺」自体が廃寺になっていると思われるので再建は不可能だっただろう。
- 室町幕府(というか室町朝廷?)が日本を平定し、戦国時代は訪れず。明の冊封を受け続ける。
- この場合明清交代の影響が想像を絶するものになっていた。
- 日本にも小中華思想が存在していた。
- 少なくとも「足利家の当主が天皇から「征夷大将軍」に任命される」という構造は終わっていた。
- 史実では「万世一系」とされていた皇統に断絶が生じていた。
- 近代における国民意識の生成や中央集権的な国家機構の整備などに大きな影響を与えていた。
- 後年になって皇統が復活した場合、足利朝廷は前漢と後漢の狭間に存在した王莽の新王朝のような扱いになって可能性もあり
- 足利義満は元をたどれば天皇家の系図(清和天皇→源氏→足利家)なので皇統は断絶しないと思う。結局足利家も歴代天皇として扱われるかも。
- おそらくそうなった場合、万世一系は「神武天皇(正確には継体天皇)の末裔であれば誰でも良い」と言う風な風潮になり、事あるたびにどこの馬の骨かも分からないような者が天皇を僭称する歴史になっていたかも。
- 多分武烈以前と継体以降も別の王朝である(ヨーロッパの遠戚が新王朝を建てるような)と言う認識も強かった。
- 多分そこまで威信が強くなく、明治維新かGHQの時点で解体させられたかも。
- おそらくそうなった場合、万世一系は「神武天皇(正確には継体天皇)の末裔であれば誰でも良い」と言う風な風潮になり、事あるたびにどこの馬の骨かも分からないような者が天皇を僭称する歴史になっていたかも。
- 足利義満は元をたどれば天皇家の系図(清和天皇→源氏→足利家)なので皇統は断絶しないと思う。結局足利家も歴代天皇として扱われるかも。
- 「皇位簒奪説」一時非常に流行した学説だが、そもそも義満は皇位簒奪しようとはしてない(ネタ殺し)。
- 征夷大将軍、太政大臣、准后、日本国王などといった称号を一身に集め、更に金閣寺や相国寺大塔などその権威を視覚化するモニュメンタルな建築物を立てることで、実質的にそれらを超える権力の構築を目指した。
赤松満祐が足利義教暗殺に失敗していたら
足利義視が将軍になっていたら
室町幕府の第9代将軍は足利義視に決まっていましたが、足利義尚の出生により後継問題でもめ、結局足利義尚が第9代将軍に就任しましたが、もし足利義視が第9代将軍になっていたら?
- 足利義尚が誕生していなかったら
- 応仁の乱が発生せず、戦国時代もなかった。
- その後の日本史は大きく変わっていた。
- 下克上も起こらない訳だから北条早雲は幕府のもとでせっせか働き続けていた。
- となると「下克上」と呼ばれた2010年のロッテは、どういう呼び方になっていたのだろうか…?
- 発生はしていたと思う。ただ、将軍家の継嗣争いがないので、そこまで大規模にはならないだけ。
- 最終的に足利義視に決まっていたら
- 室町幕府滅亡の時期がずれていた可能性も?
- 日野富子の使嗾により、山名宗全らが義尚を担いで叛旗を翻す。ただし、この場合は将軍に逆らうわけで大義が少し弱くなるため、やや劣勢となる。
- 10代将軍はどっちにしろ義視の息子の義稙なので、その後の展開はあんまり変わらないかも。
- いや、変わるだろう。義稙に子供ができなかったのは、最初の追放時に毒殺されかかったせいもあるという。すんなり将軍になっておればそうなるわけもないので、子沢山になっていた可能性も否定できない。
- 日野富子が死んで件の義視になっていたら、政権は安定していたかも知れないが、そうでなかったら、史実とあまり変わらない。
応仁の乱が起きなかったら
- 室町幕府は史実の明治維新の頃まで存続していた。
- 明との朝貢関係も長く続き清に変わっても続いていた。
- 黒船来航によりペリーによって清との朝貢関係が解消され独立国になっていた。
- 明から清への交代の日本での衝撃が史実より高かった。
- 朝鮮のようにホンタイジによって朝貢先を明から清に変えられていたかも。
- 日本でも明や清の元号が使われていた。
- 日本にも小中華思想が存在していた。
- 戦国時代は無く、平和な時代が黒船来航まで続いた。
- 京都の幕府と関東公方で、日本を二分した合戦が発生して、なぜか南朝の後胤が関東方について・・・などややこしいことになってた。
- 関東の戦乱が史実通りとすれば、さほど変わらない。
- 京都が政治だけで食べ続けていけたため、産業が発達しなかった。
- 職人の出る幕がなく、西陣織や京焼は失われていた。
- 近現代、特に江戸幕末次第では、任天堂や京都アニメーションなども同じ運命に。
- 史実では失われた多くの歴史的資料が現存していた。
種子島に鉄砲が伝来していなかったら
日本の鉄砲伝来は漂流した明の漁船に同乗していたポルトガル人が鉄砲を伝えたと言う物ですが、仮に鉄砲がこのとき伝来しなかったらどうなるかを考えます。
- オランダとの貿易が始まる頃(1600年)になってやっと伝来される。
- 関ヶ原合戦や大阪の陣で東軍が新兵器として鉄砲を投入していた。
- 武田氏は継続していたかもしれない。
- 第2次川中島の戦いで武田氏は鉄砲を使えないから、微妙に歴史が変わっていたかも。
- 種子島以外に伝来すると、根来寺を経て雑賀衆への伝来もなく、雑賀孫市は無名の地侍。小説やゲームの主人公にならない。
- 堺も同様に根来寺経由の鉄砲伝来がなく、おとなしい貿易都市になる。
- 根来・雑賀の鉄砲集団がいなくなり、本願寺はもっと早期に織田に対して降伏。
- スペイン宣教師が日本を軍事的脅威と見なさず、どしどし本国から宣教師(スパイ)、続いて商人を送り込む。
- 各国大名が次々とキリスト教へ改宗。
- 気づけば日本はフィリピンや中南米諸国同様スペインの植民地に。
- よって今日の日本の経済的・文化的繁栄はなかった。
- 気づけば日本はフィリピンや中南米諸国同様スペインの植民地に。
- 植民地化をあきらめたのは当時の日本の人口の多さ、社会の成熟度の高さ、キレた時の凶暴さにある。よって対外的には史実通り。
- とはいうが、全国的に統一されてもいなければ対立を煽られ、植民地化されていた可能性が高い。西葡では無理かもしれないが英仏あたりにされていた可能性は高い。
- 各国大名が次々とキリスト教へ改宗。
- 朝鮮出兵では史実ほど勝利できず、もっと早期に撤退していた。
- 鉄砲がないと山城をなかなか落とせないのでどの武将が出てきても統一が進まない。
- 何世代かにかけての統一事業ということになるか。
- 統一自体が途中で止まって地域国家成立。維新で連邦制に。
- 種子島以降どこかで伝来すれば統一ということになりそうだが。
別の地域に伝来していたら
- いずれにしても、鉄砲の名前は「種子島」ではなくなる。
- 鉄砲の形が種子島に似ていると言う偶然もない。
- 尾張
- 多分織田信秀が最初に使い、信秀の代に尾張を統一していた。
- 斯波氏も何気に使い、斯波氏の滅亡が遅れる。
- ほんのしばし余命が伸びるだけと思う。
- 斯波氏も何気に使い、斯波氏の滅亡が遅れる。
- 桶狭間の戦いで使っていたかも。
- 肥前島原
- おそらく有馬氏が最初に使う。
- 有馬晴純はもっと有名だった。
- もっと早い段階で南肥前・天草を平定していた。
- しかし息子の義貞が・・・
- 結局、義貞の代で龍造寺家に潰される。
- 屋久島
- 種子島氏が史実通り。
- 但し、丁度伝来の前後に、大隅の禰寝氏が屋久島を占領していた。禰寝氏に伝来し、種子島の軍を撃退すれば・・・
- しかし、禰寝氏には多分そのようなことができる力はない。恐らく奪還した種子島氏がうまく使いこなすが、これはあまり注目されず、後に発見され「元祖鉄砲の町」として注目されるのがオチだろう。
- 琉球(奄美含む)
- 割りと変わらない。
- ただし、琉球王国から鉄砲が薩摩に流入されなかった場合、琉球征伐は史実よりも苦戦していた。
- 多分薩摩の商人が取引で手に入れる。一向宗への輸入がなくなるだけで、他はあまり変わらない。
- どっかの商人が手に入れ、それを一向宗に売れば・・・
- 小笠原諸島
- 定着せずすぐによそに移動して、忘れ去られた第一伝来地になってそう。
- 伊豆諸島
- 関東公方もしくは、堀越公方の切り札になっていた。
別の時代に伝来していたら
- 1500年代前半(~34年頃)
- 天下統一も少し早かった?
- 大内氏や大友氏が史実よりもっと強大だった。
- 島津の強力化も少し早かった。
- いや、他の支族も競って鉄砲を量産・改良。その結果、島津が史実以上に強くなる。
- 1549年(ザビエルがキリスト教と同じく)
- 多分どこかの勢力を傀儡化する為に持ち込んでくる。
- 大航海時代、ヨーロッパがアフリカの商人に武器を奴隷と交換する取引があった。多分太平洋での三角貿易があった。
- 時代背景的にはさほど変わらない。
- 大内義隆あたりなら喜んで使っている。
- 少なくとも、厳島の合戦で陶晴賢が用いてた。
- 防州陶村の特産は陶器でなく鉄砲。