「もしあの人が健在だったら/大相撲」の版間の差分
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#*琉王は2005年に停年を迎え、この時に大受が部屋を継ぐ。 | #*琉王は2005年に停年を迎え、この時に大受が部屋を継ぐ。 | ||
#*琉王が構想していたトンガ人力士のみの部屋もできていた。 | |||
===双葉山定次=== | ===双葉山定次=== |
2014年11月8日 (土) 11:55時点における版
- 新たに追加される場合は50音順でお願いします。
- 死去時に年寄を襲名していた場合でも、現役時代の四股名でお願いします。
あ行
青葉山弘年
- 2000年に師匠清の盛の定年に伴い、木瀬部屋を継承する。
- 肥後ノ海は別の年寄名で部屋を興す。
朝潮太郎(三代目)
- 還暦土俵入りを行えた。
- 小錦の初優勝を誰よりも喜んだ。
- 1994年に定年まで勤めた場合、後継者に弟子の朝潮を指名。高砂部屋と若松部屋の合併が史実より早く行われた。
- 富士錦は尾上親方として高砂部屋付きの年寄のまま定年を迎える。
- 朝青龍は最初から高砂部屋所属。
- サッカー騒動時に闘牙の出場停止が引き合いに出される。
- 水戸泉の婚約破棄問題があまり大きく騒がれない。
- 大関朝潮の引退会見に同席し、断髪式で止め鋏を入れる。
- 南海龍の行く末は…案じていない。
- 古参理事として睨みを利かせて弟子の小錦の横綱昇進に影響を与えた。
- 小錦の横綱昇進の伝達式に同席した。
大ノ海久光
- 輪島が年寄株を借金の担保にすることはなかった。
- それが原因で花籠部屋の消滅や、大ノ海の娘とも離婚することもなかった。
- その後大ノ海の妻も自殺することはなかった。
- 後に花籠を襲名した花乃湖が引退相撲直後に突然廃業することはなかった。
- 花ノ国も若者頭でなく年寄として相撲協会に残れた。
- 花籠部屋を再興させた太寿山は最初山梨県に部屋を開いて、その後東京都に移転したが、歴史上山梨県に相撲部屋が存在したことはなかった。
- 輪島の引退相撲に出席し、断髪式で止め鋏を入れる。
沖ツ海福雄
- フグで逝かなければ、双葉山単独時代はなかった。
- 双葉山の69連勝は、もちろんあり得ない。
- 大関には間違いなく昇進。1936~38年辺りに横綱昇進。
- 史実で"弱い横綱"として有名な武藏山、男女ノ川は横綱に昇進していない。
- 1945年11月場所で引退(双葉山、笠置山らと同時)。その後、若藤部屋を無事継ぎ、角界を代表する大部屋に成長させている。
- ところで「もしあの人が健在だったら」の対象は「昭和20年以降に亡くなった人物」ですよね?
- 沖ツ海は昭和8年(1933)没。
か行
北出清五郎(NHK相撲アナウンサー)
- 現在の相撲アナウンサーはもっと充実していた。
- 力士の心をつかむのが巧いので、朝青龍が本音で話せる数少ない人になっていたかも知れない。
木村正直 (4代)
- 2013年九州場所で第40代式守伊之助を襲名した。
久島海啓太
- 鳴戸部屋は田子ノ浦ではなく別の名跡になった。
- 2012年夏場所の栃煌山は優勝決定戦に出られなかったかもしれない。
蔵間龍也
- 大相撲解説者やタレント活動などを継続。
- 舞の海の仕事もいくつも奪っていた。
- デーモン小暮閣下と優勝力士予想を続けていた。
- そしてやっぱり何度も負けていた。
- その後も大相撲の裏話を何度も本にする。
- 朝青龍や白鵬を何度も取り上げている。
- 白血病から生還を果たしていた場合、やはり骨髄バンク登録を呼びかけている。
- 今頃、日本テレビ「スポーツうるぐす」の大相撲解説をやっていたかも。
- いや、TBS系「ブロードキャスター」の相撲解説を担当していたかも。
- 2007~2008年の角界の一連の不祥事に対していち早く相撲協会の責任を追及し、北の湖理事長に辞任を勧告していた。
- されど、北の膿、ではなかった、北の湖は、現役時代、蔵間と10数回対戦して無敗であった。北の湖は、蔵間の追及を一笑に付した可能性も大。
- 相撲協会に残っていた場合、2002年8月に師(元大関豊山)を継いで時津風親方となっていたかも。
- 確かに、元大関豊山の弟子で関脇以上に昇進したのは蔵間だけだった!!
- あの忌まわしいリンチ殺人事件も起きなかった。
- 白血病が相撲協会を離れる一因だったとも言われているから、発病がなければ確実に時津風を継承していた。
- 双津竜は部屋付きのまま停年。時津海は2010年頃まで現役を続け、蔵間停年の2017年九州場所後に時津風を継承。
- あるいは史実で双津竜の後継を断った蒼樹山が継いだ可能性も。滋賀県出身つながりで。
- 双津竜は部屋付きのまま停年。時津海は2010年頃まで現役を続け、蔵間停年の2017年九州場所後に時津風を継承。
- 確かに、元大関豊山の弟子で関脇以上に昇進したのは蔵間だけだった!!
- 朝青龍が心を許していた。
剣晃敏志
- 貴乃花、若乃花、曙の横綱昇進が若干遅れていた。
- 若乃花の横綱昇進が遅れていた可能性、もしくは大関止まりだった可能性はあったかもしれない。ただ曙と貴乃花は剣晃の幕内在位中には既に横綱に昇進していたからあまり関係なかったかも。ただ優勝回数は少し変わっていた可能性もあると思うが。
- 場合によっては貴ノ浪2度目の優勝もなかった。
- 安芸乃島と共に「角界のヒール」として一時代を築いていた。
- 若貴にもちょくちょく勝ってたし、十分一時代を築いてたと思うが。
- 引退後は無事に高田川部屋を継いでいたことでしょう。
- 奇しくも、貴乃花と「仲違い」になった、元関脇・安芸乃島が高田川部屋に移籍して部屋を継いだ。また、一部では、「剣晃関と安芸乃島関って、何となく顔の雰囲気が似ている。」とも言われていた。
- 目元のあたりが似てたと思う。最近審判席に座ってる安芸乃島を見て一瞬剣晃かと思って驚いた。
- ちなみに身長は剣晃の方が安芸乃島より高かった(剣晃191cm、安芸乃島176cm)けど、体重は大体同じ位だった。
- 近くの大阪府寝屋川市出身・豪栄道関(2009年5月場所新関脇、大阪府からの関脇は剣晃関の師匠・元・前の山=のち大関=以来となった)よりも早く関脇に昇進していたと考えられる(後述の龍興山関と競って。因みに剣晃関は守口市、龍興山関は堺市出身)。
- また、豪栄道関は特に京阪電鉄沿線出身の先輩・剣晃関を「兄貴」と呼んでいたであろう。
高鐵山孝之進
- 八百長問題を弟子の板井とともに告発し続けた。
- 2011年の八百長騒動では各種メディアに引っ張りだこ。
- 「八百長力士」と名指しした北の富士が1998年の理事選に出馬できなくなり、相撲協会を退職したのをどう見たであろうか。
小坂秀二(相撲評論家)
- 朝青龍の品格面を非難し、横綱として認めようとしない。
- 引き技が目立ち、全体に稽古不足の大相撲に警鐘を鳴らしていたろう。
琴櫻傑將
- 琴欧洲・琴光喜に続き琴奨菊の大関昇進伝達式にも立ち会っていた。
- 琴欧洲の引退会見にも同席。さらには断髪式で鋏を入れる。
- 琴光喜が野球賭博で解雇された際には怒り悲しんだであろう。
- 琴光喜が野球賭博に手を出すこと自体なかったかもしれない。
- ”師匠の適切な指導がなかった”ことが事件の発生理由として小さくなかったと思われるので。
- 琴光喜が野球賭博に手を出すこと自体なかったかもしれない。
琴錦登
- 琴櫻は白玉部屋を興していた。
- 琴風も独立時に移籍し元の兄弟弟子と対戦することになるため、出世スピードが若干遅くなる。
- 1987年3月の停年により佐渡ヶ嶽部屋を長谷川に譲る。
さ行
佐賀ノ花勝巳
- 押尾川事件はなかった。
- 天龍のプロレス転向もなかった。
- 押尾川部屋も創設されない。
- 金剛は80年代初頭まで現役だっただろう。
式守伊三郎(2代)
- 1990年初場所後に停年を迎えるため結局立行司にはなれない。
- 「式守伊三郎」が空き名跡にならなかった。
- 特急「いさぶろう」の由来と勘違いされる。
- 同じ会社に四股名から名付けられた特急が走っているので尚更。
- 式守勘太夫(7代)は幕内格のまま定年を迎える。
たな行
大翔鳳昌巳
- 「立浪親方」の座を巡り、現親方(元小結・旭豊)との間で、激しい争奪戦を演じた可能性がある。
- 旭豊は分家の大島部屋出身、大翔鳳は本家の立浪部屋出身の元小結。
- 本家出身の、元横綱・双羽黒(北尾光司) が「立浪部屋のマネージャー」に就任することはなかったはず。
- 立浪部屋が立浪・伊勢ヶ濱一門から離脱することもなかった。
- あと2年くらいは現役を続けていた。
大鵬幸喜
- 国民栄誉賞はまだ受賞していない。
- 長嶋茂雄が受賞したときに白鵬が大鵬にも授与しろと発言して波紋を呼ぶ。
- そもそも長嶋(と松井)の受賞自体あったかどうか微妙。
- 大鵬への授与が生前に行われなかったことへの批判をある程度受けての授与だったと報道されていた記憶がある。
隆の里俊英
- 稀勢の里の大関昇進を誰よりも喜んでいたに違いない。
- ただし出稽古の回数は少ない。
- 稀勢の里の昇進伝達式に同席した。
- 鳴戸部屋が田子ノ浦部屋に変更し、東京都墨田区に移転することもなかった。
- 隆の鶴は部屋付きの西岩親方のままだった。
貴ノ花利彰
- 兄である初代若乃花の葬儀委員長を務めていた。
- 現役時代最大のライバルだった高見山(初代東関親方)の相撲協会定年の際、労いのメッセージを送っていた。
- がんの発症もなかった場合、息子2人の仲裁に全力を注いでいたかもしれない。
- 次男・貴乃花に部屋を譲ることは無かったかも。
- この場合、貴乃花部屋は二子山部屋から独立して創られていた。
- 貴ノ浪や五剣山らは引退まで二子山部屋のままだった。
- 貴闘力の解雇騒動になんらかのコメントをしていただろう。
- 貴ノ浪の断髪式で止め鋏を担当していた。
玉の海正洋
- 輪島や北の湖の横綱昇進はかなり後にずれ込んでいた。
- 栃東、高見山の優勝はなかった。
- 北の湖は一代年寄ではなく、「小野川部屋」として独立していた。
- 北の湖の21歳1ヶ月での最年少横綱昇進はなくなる。
- 訂正、21歳2ヶ月でした。
- 男児が誕生し、後に若貴や曙のライバルとなっていた。
- 女児だったらプロボウラーになっている。
- 玉ノ洋の「玉乃島」襲名はなかった。
- 「中日・玉の海・エビフライ」が流行語になった。
- 1980年頃まで現役で、その後は片男波親方として協会の重要なポストに収まっている。
- 現役時代の実績によっては「玉の海親方」になっていたかもしれない。
- 2002年2月に日本相撲協会理事長に就任していたかも。
- 北の富士勝昭の現役引退がもう少し先だった。実際、玉の海亡き後、北の富士の成績は悪化している。
- 琴櫻や2代目若乃花(間垣親方)、三重ノ海(武蔵川親方、元理事長)の横綱昇進は無理だったにちがいない。いずれにしても、大相撲史はがらりと変わっていたであろう。
- 玉の海は1971年に満27歳没。史実では2代目若乃花は1978年、三重ノ海は1979年に横綱昇進を考えると少なくともこの2人は十分可能性あるでしょ?
- 大相撲ダイジェストで解説者をやってたかも。
- 76年、史実より2年遅れて横綱昇進の北の湖と入れ替わるように引退か?
- 自らが在日韓国人だということは未だに公表していない。
- 少なくとも生涯の幕内優勝は15回以上記録していた。
- その代わり輪島の優勝回数(史実では14回)は多くても10回程度に終わっていた。
- 1972年には複数回優勝していた。
- 史実ではこの年は年6場所とも優勝者の顔ぶれが異なった。
- 玉ノ富士と玉輝山が玉の海の太刀持ちと露払いを務める。
千代の山雅信
- 弟子の千代の富士と孫弟子の北勝海は別門だったかも。
- 史実の八角部屋が井筒部屋、史実の井筒部屋が君ヶ濱部屋になっていた。
- 鶴嶺山・逆鉾・寺尾が「君ヶ濱三兄弟」と呼ばれていた。
- あの伝説の猛稽古もなかった。
- 北勝海は大関・横綱への昇進を果たせず、四股名も「保志」のままだった。
- 同部屋横綱による優勝決定戦は未だに実現していない。
- 史実の八角部屋が井筒部屋、史実の井筒部屋が君ヶ濱部屋になっていた。
- 1986年に還暦を迎えた時、記念の土俵入りは、太刀持ち北の富士、露払い千代の富士の愛弟子の組合わせで行われた。
- 1991年に定年まで務めた場合、九重部屋は千代の富士が継承する。千代の富士の引退は史実通り1991年夏場所だが、師匠の定年までは年寄「千代の富士」になるだろう。
鶴ヶ嶺道芳
- 1977年の停年に井筒部屋の後継者に鶴ヶ嶺の君ヶ濱を指名する。
- 史実で起きた井筒部屋のお家騒動(後継者に陸奥の星甲に決まり、鶴ヶ嶺は独立して君ヶ濱部屋を興した)は起きなかった。
- 北の富士は別の年寄名で引退後に九重部屋から独立する。
- 「君ヶ濱」は大峩が襲名する。
- 持病の糖尿病の悪化でいずれ廃業せざるを得なくなるが。
寺尾節子(鶴ヶ嶺昭男夫人)
- 三男は高校卒業後に入門した。
- 四股名が違っていたかも。少なくとも下の名は「節男」にならない。
- 錣山部屋の呼出しも別の名前に。
- 四股名が違っていたかも。少なくとも下の名は「節男」にならない。
- 夫と息子達が揉めることもなかった。
- 霧島の大関昇進伝達式に同席した。
- 部屋を継いだ次男逆鉾の弟子になった、モンゴル出身鶴竜(現横綱)を見て驚いたであろう。
栃木山守也
- 1961年の停年制導入まで春日野親方として協会に在籍。
- 栃錦の引退会見に同席し、止め鋏も入れた。
- もちろん栃錦の二枚鑑札もない。
- 引退から栃木山停年までの数ヶ月間は年寄「栃錦」を名乗る。
- 直弟子の関取第一号は栃東ではなく栃富士。
栃錦清隆
- 1990年2月の定年後は予定通り相撲博物館の館長に就任した。
- 関脇栃東の息子の大関栃東を可愛がった。
- 場合によっては「栃錦」を名乗ることを許すかも。
- 玉ノ井部屋は分家独立しないか、大関の引退後に創設される。
- 栃赤城の現役期間が長くなる。
- 舛田山の断髪式で止め鋏を入れた。
栃光正之
- 金城は引退まで本名で通した。
- 立合いの正常化に尽力する。
- 「待った」への制裁金導入が早まった可能性もある。
は行
二瀬山勝語
- トンガ人力士の何人かは関取まで上がり、活躍していた。
- 琉王も廃業することはなく、相撲界に残った。
- 琉王が朝日山部屋を継ぎ、若二瀬は北陣部屋を創設したかもしれない。
- 琉王は2005年に停年を迎え、この時に大受が部屋を継ぐ。
- 琉王が構想していたトンガ人力士のみの部屋もできていた。
双葉山定次
- 停年(1977年2月)まで理事長職にある。
- その場合、旧武蔵川理事長は実現しない。
- 国技館は未だに蔵前のままだったかも。
- 北の湖は1985年まで現役を続けていなかった。また引退後も理事長にはなっていなかった。
- 蔵前駅に都営地下鉄浅草線のエアポート快特が停車している。
- 国技館は未だに蔵前のままだったかも。
- 停年後は相撲博物館館長就任。
- その場合、旧武蔵川理事長は実現しない。
- 無気力相撲一掃に全力を傾けていた。
- 八百長皆無の現役時代、説明無用の実績で発言力、説得力が抜群。
- 朝青龍、白鵬が頭が上がらない。
- 双羽黒も双葉山の話なら真剣に聞くだろうから、改心しあのようなことはなかった。
- 双津(ry
- 外国人力士がそもそも多くいただろうか。あまり外国人力士受け入れに積極的ではなかった話も聞くし。
- 双羽黒も双葉山の話なら真剣に聞くだろうから、改心しあのようなことはなかった。
- 爾光尊事件は無かったことにされていた。
- 逆に笑い話にしていたかもしれない。
- 国民栄誉賞が制定された1977年以降も生きていたら、受賞していたかもしれない。
- 大鵬連勝ストップ時に自身の取り直し経験(勇み足で連勝が止まりかけた一番)を語る。
北天佑勝彦
- 白露山は二十山部屋のままだったので、大麻事件で北の湖が理事長を辞任することはなかった。
- 白露山が大麻事件で解雇されることもなかったかもしれない。
- 増位山の停年に伴い、二十山部屋を吸収合併させて三保ヶ関部屋を継承、よって三保ヶ関部屋が閉鎖されることはなかった。
- 武双山の審判部異動はなかったか、史実より遅れた。
まやらわ行
前田山英五郎
- 愛弟子の高見山の初優勝を誰よりも喜んだ。
- ハワイでの凱旋パレードにもちろん参加した。
- 前の山の無気力相撲に激しく怒った。
- 東富士の葬儀に出席し、弔辞を読んだ。
増位山大志郎
- 北の湖は実父の葬儀に出席できた。
本松哲浩(間垣部屋幕下力士)
- 間垣部屋の関取第一号になった。
- 本松の活躍によって部屋の力士も刺激され関取も増えただろう。
- 間垣部屋の衰退はなかった。
- 若ノ城や五城楼ももっと活躍できた。
- 場合によっては間垣部屋を継いだかもしれない。
龍興山一人
- 少なくとも三役に昇進していた。
- 大関・更には横綱に昇進していた可能性も有り。
- 少なくとも1回は幕内優勝を果たしていた。
- 曙・貴乃花・若乃花の壁になっていた。
- 泉州山の角界入りは無かった。
- 小城ノ花はもっと活躍していた。
- これについては、龍興山と小城ノ花は同い年で同部屋で仲も良かったからと補足。
- 久島海が平幕止まりなどということはなかった。
- 出羽海部屋がそこまで衰退することはなかった。
- 鷲羽山の停年に伴い、出羽海部屋を継いでいた。
若乃花幹士(初代)
- 2011年の八百長騒動に激怒していた。
- 梅ヶ谷の横綱最高齢記録を更新していた。