もし国鉄の分割民営化が○○年早かったら
戦後すぐにGHQの指令で民営化していたら
全般
- 長距離寝台特急などは、戦前の話になっていた。
- 貨物も追随していたかもしれない。
- ただ戦後しばらくは航空機の利用が一般的ではなかったので、長距離輸送にはフェリーが現実以上に活躍した。
- 当時の商船の実態や国民の認識を考慮するとそれはない。
- 商船は大戦の影響で壊滅状態だった上、旅客輸送の主体はフェリーではなく純客船だった。
- 都市圏輸送主体になって都市間輸送は二の次になっていた。
- 手持ちの車両などを踏まえるとそうなるのは早くても昭和30年代に入ってからか。
- 分割は鉄道局単位で行われた。
- 後に一部の区分見直しなどがあったかもしれない。
- ローカル線は史実ほど多く建設されていない。
- 新幹線は半官半民の新会社で建設・運行された。
- 戦前の日本電気鉄道計画が日の目を見ていた。
- 中曽根政権時代もしくは小泉政権時代に完全民営化された。
- 国有化されていない私鉄との経営統合や買収なども発生していた。
- 現在では各会社の経営姿勢により鉄道の状況は地方ごとに大きく異なっている。
- 専売事業・電信電話事業もほぼ同時に特殊会社になっていた。
- 史実では専売公社・電電公社に移行。
- 近鉄の関東進出が成功していたかもしれない。
昭和30年代に民営化していたら
昭和30年代、民間シンクタンクの産業計画会議が国鉄分割民営化を提言していました。
- 新幹線は開業していなかったか、全額自己負担で建設していた。
- 並行在来線の経営分離も昔から行われていた。
- フル規格での開業は弾丸列車計画を受け継いだ東海道・山陽のみ。それ以外の路線にはスーパー特急方式(急勾配や急曲線のある区間を部分的に新線化する)が推進されていた。
- 史実の埼京線やTXが優等列車街道と化す。
- 大半のローカル線は開業していなかった。
- 開業していたとしても割増運賃が適用され、さらに沿線市町村に赤字分を補填するという事になっていたかもしれない。
- BRTが普及していたかも。
- 開業していたとしても割増運賃が適用され、さらに沿線市町村に赤字分を補填するという事になっていたかもしれない。
- 蒸気機関車列車も史実より早く消滅していたかも。
- 101系は関東地区のみで製造されていた。
- 関西地区では103系が製造されていた。
- いや、関西地区は高速仕様の105系(実際に計画はあった。現実の105系とは異なる)となっていた。
- 関西地区に投入された105系は車内の蛍光灯がカバー付き、空気バネ台車など当時の関西私鉄車両と同レベルの車両となっていた。
- いや、関西地区は高速仕様の105系(実際に計画はあった。現実の105系とは異なる)となっていた。
- 関西地区では103系が製造されていた。
- 関西地区の場合新快速電車が史実より早く登場していたため関西の私鉄のシェアをある程度奪っていた。
- 対抗して阪神なんば線は昭和40年代に開業していた。
- 阪神梅田~山陽姫路間の直通特急も神戸高速鉄道開業時に登場していた。場合によっては阪急も姫路に直通していたかも。
- モータリゼーションが到来する前なので各社の経営状態もよかったかもしれない。
- 首都圏の通勤五方面作戦が史実より進んでいない。
- 複々線化は沿線自治体が負担しない限り進まないという状態になっていたかも。
- 中央線の複々線は未だに中野止まりなので杉並3駅は問題になっていない。
- 天王台・東船橋・幕張本郷の各駅に至っては開業すらしなかった。
- 中央線の複々線は未だに中野止まりなので杉並3駅は問題になっていない。
- 東京への一極集中も史実ほどには進んでいなかった。
- 関西や中京地区では新快速が早期に登場していたことから、ある程度こちらに機能が分散していた。
- 首都圏の交通網がパンク状態になったため、地方分権が推進されるようになっていた。
- 首都圏の近郊形電車(中距離電車)のロングシート化は昭和40年代には始まっていた。
- 複々線化は沿線自治体が負担しない限り進まないという状態になっていたかも。
- 労組のストライキは起こらなかったため、鉄道の輸送シェアは現在でも5割を上回っている。
- スト権ストや順法闘争が行われていないため上尾事件はなかった。
- でも結局スト権ストの規模で分割民営化反対ストが行われていたかも。
- 民間企業になれば合法的にストができるので、民営化後も状況によっては史実以上に激しくストが起きていたかも。
- 遵法闘争をする必要もなかった。
- 昭和30年代から40年代にかけての私鉄総連がかなり過激だったのを考えれば、昭和50年代前半までは激しいストは起きていたはず。
- スト権ストや順法闘争が行われていないため上尾事件はなかった。
- 福知山線や勝田線は全線複線電化されていた。
- JR東西線も1970年代には開業している。
- 片町線も。京田辺市は昭和のうちに市制施行していた。
- 仁堀航路の本数も増加していた。
- 九州ブルートレインはかなり豪華な編成になっていた。
- ブルートレインブームは史実より凄まじいものに。
- B寝台主体のビジネス向けの列車は電車化されてスピードアップされ、東京-博多間は12時間になっていた。
- 寝台料金も現実よりも安く抑えられていた。その結果夜行バスは現実ほど発達していない。
- 運賃は値上げされていてもある程度抑えられ、初乗りも120円ぐらいだったかもしれない。
- 等級制廃止(1等・2等→グリーン車・普通車に変更)も民営化に併せて行われていた。
- 国鉄スワローズの身売りが早まっていた。
- 身売りしていない場合、本拠地は神宮球場ではなかったかもしれない。
- これを機に国鉄以外の国家機関の民営化も早まっていたかもしれない。
- 日本専売公社や日本電信電話公社、郵政事業も昭和40年代に民営化されていた。
- 日本放送協会も民営化していたかもしてない。
- 日本道路公団も1970年代に民営化されていた。
- 営団地下鉄も同時期に民営化されている。さらに大阪市・名古屋市など各地の公営交通も民営化されていた可能性もある。
- 営団地下鉄は民営化にあたって都営地下鉄と経営一元化していたかも。
- 日本専売公社や日本電信電話公社、郵政事業も昭和40年代に民営化されていた。
10年早かったら
新幹線
- 0系は1970年代後半に製造が終了していた。
- そして遅くとも20世紀中には引退していた。
- 2000番台は存在しない。
- それ以後は100系に移行し、1990年頃まで製造が継続される。
- 現実より多くの車両が導入された。
- 220km/h運転開始も1982年11月には行われていた。
- 300系「のぞみ」の登場は史実と同じ。
- 東北・上越新幹線は民営化後に開業した。
- 最高速度は開業時から240km/h。
- 200系の先頭車は全て100系タイプの顔だった。
- ちなみに東海道新幹線を管理しているのはJR西日本。
- JR東海は存在しない。
- もし存在してあっても強引な新幹線誘導は行ってない。
- 名阪間直通の新快速や静岡地区の快速も運転されていたかも。
- ただ広島地区のことを思うと後者は消えていた可能性もあり。
- 名阪間直通の新快速や静岡地区の快速も運転されていたかも。
- 山形新幹線は1980年代後半に開業した。
- 九州新幹線や東北新幹線の盛岡以北は20世紀中に全通していた。
- 2011年現在、北海道新幹線が開通している。
- 北陸新幹線も。
- これら整備新幹線の開業に合わせた並行在来線の3セク移管は行われなかったかもしれない。その場合新幹線開業後も「サンダーバード」「しらさぎ」は富山発着で残されている。
- 近鉄の名阪ノンストップ特急は東海道新幹線に負けて廃止されていた可能性が高い。
- 乙特急に早々と統合されていた。が、後に津・大和八木のみ停車の形で速達型が再設定された。
- 東京-大阪間の空路でも羽田-伊丹線は、東海道新幹線に敗れて廃止されていた可能性も大いにありうる。神戸空港は建設さえ行われなかった可能性が強い。
- 大阪-福岡はもっと早く廃止され、今では東京-岡山や名古屋-福岡でさえも存廃が議論されるようになっていた。
- 東京−三沢、東京−青森も東北新幹線に負けて廃止に追い込まれたかも。
- 大阪-福岡はもっと早く廃止され、今では東京-岡山や名古屋-福岡でさえも存廃が議論されるようになっていた。
- 三島駅の開業から間髪入れずに掛川駅、三河安城駅などが開設された。
- 中には「ひかり」の停車する駅もあったかもしれない。
在来線
- 廃止路線は比較的少数ですんだであろう。
- 三島会社の経営も現実よりは安定しているだろう。
- JR九州も2010年までに株式を上場させていた。
- ただし平成以降の廃線数は現実以上に多くなる。
- 路線単位でなく、ほんとに区間単位で輸送実績が計算されて廃止・転換が行われた。
- 江差線が残って松前線が廃止になったり、上砂川支線が歌志内線より数年遅く廃止になるというようなことはなかった。
- 勝田線や尼崎港線、高砂線、鍛冶屋線などは生き残れただろうし、伊勢線や中村線が第三セクターになるなんてこともなかった。
- 逆に加古川線の野村(現西脇市)~谷川の方が廃止されていたかも。
- りんかい線もJR東日本の路線だった可能性あり。
- 大崎 - 新木場 - 蘇我が「京葉線」だった。房総特急は多くが新宿や渋谷にも発着していた。
- 池袋折り返しも設定される。
- 鉄道公団のローカル新線の建設凍結も早かったかもしれない。
- 白糠線、可部線、三江線は開業したか非常に疑問。
- 気仙沼線もどうだろうか。三陸鉄道所有になっていた可能性も……
- 逆に中村線、岡多線、瀬戸線、伊勢線などはJRに継承されていた可能性あり。
- 現実より多くの車両が導入された。
- 581・583系が近郊型に改造されることはなかった。
- 205系はJR東日本の新車となっていた。
- 201系も。(なぜなら1979年登場だから。)
- 加えて203系も。(こちらは1982年登場だから。)
- 207系900番台は存在しなかった。試験で作られたとしても別の形式を名乗っていた。
- 201系も。(なぜなら1979年登場だから。)
- 運賃は今よりずっと安かったろう。
- 史実での分割民営化10年前の昭和52年は、怒濤の値上げ連発が始まってはいたものの、まださほど進んでいない。
- 1978年10月にはJR東日本に651系が早くも登場し、まずは上野-仙台の特急「ひばり」に投入される。
- 1978年10月改正での特急のスピードダウンもなく、東北新幹線開業まで上野-仙台は3時間58分で運転していた。
- ただし、史実の651系よりデザインが古く見える。
- 境界駅超えても、料金が加算されずにすんでた。
- 旧型客車は早いうちに無くなってるかも。
- 103系・113系・115系は1970年代後半に製造終了していた。
- キハ40系も。
- 青春18きっぷは発売されなかった。
- その代わり「西日本・四国・九州パス」とかがあったかもしれない。
- 現実とは異なり特急・急行券をプラスすると特急・急行にも乗車できるタイプになっていたかも。あるいは普通・快速列車のみ乗車できるタイプと2種類設定されていた。
- 781系はJR北海道の新車となっていた。
- 東京機関区以外の寝台特急牽引機でヘッドマークが廃止されることはなかった。
- ただし分割民営化の弊害が現れ、寝台特急の淘汰は現実より早かった。
- 「北斗星」とかも生まれなかったかもしれない。
- 夜行高速バスは寝台特急廃止の代替という意味合いが強かった。そのため現実よりもJRバスの比率が高まっている。
- 逆に1社内完結の夜行列車は新幹線並行区間を除き多くが残存。
- キハ56系とオハネフ12形を併結した急行が北海道を走る。
- 「ながさき」は「ムーンライトながさき」か「ドリームかもめ」になったかも。
- ただし分割民営化の弊害が現れ、寝台特急の淘汰は現実より早かった。
- ヤード廃止も早まり、別府鉄道や南部縦貫鉄道は現実より早く消えていたかもしれない。
- 591系が現在も保管されている。
- 首都圏色は全国に広まらなかった。
- 185系は製造されず、153系の置き換え用には251系(史実のものとは異なる)が登場していたが、車内設備や性能は117系準拠ではなく他の特急車同様のもの(但し扉幅は1m)となっていた。
JR西日本・アーバンネットワーク
- 新快速の強化は1980年代にすでに行われていた。
- その結果、117系は混雑に耐えられなくなり1980年代中盤に地方線区に転用されていた。
- 221系は130km/h運転対応になっていた。
- 120km/h運転は1978年10月の117系化と同時に行われていた。因みに新快速117系化は現実より2年早い。
- 117系を3扉に無理矢理改造したりもした。
- 勿論、車両が足りない分は115系で補った。
- 花博の時はモハ70系まで動員した。
- 福知山線の全線電化は桜井線や和歌山線よりも先に行われていた。
- 能勢電鉄の川西国鉄前駅は廃止されなかった。
- 片町線も1980年代前半の内に全線電化されていた。
- 関西私鉄各社は1980年代には利用客が減少に転じていた。
- 近鉄10100系の後継車は2階建て30000系ではなく高速仕様の21000系になっていたかもしれない。
- 国鉄→JRの運賃が史実より安くなっていたので、近鉄の名阪ノンストップ特急はさらに利用客が減少し、1970年代末期には廃止されていた。
- 京阪・阪急・阪神などの特急停車駅の増加は1980年代後半には行われていた。
- その結果、京阪8000系は3扉クロスシート車として登場し、TVも設置されなかった。
- 南海本線の泉佐野以南での急行との統合による特急停車駅増加も1985年の10000系「サザン」登場と同時に行われていた。
- 阪神梅田~山陽姫路間の直通特急も1980年代後半に実現。阪神8000系と山陽5000系は当初から直通特急の運用に対応できるよう設計されていた。
- 阪神8000系はセミクロスシートになっていたかも。
- 阪急・阪神・近鉄・南海は1980年代前半に相次いで球団を手放していたかもしれない。
- 阪神は球団を手放すとかえって大変なことになりそうな気が…。
- 阪堺電気軌道・和歌山電鐵・養老鉄道・伊賀鉄道の分社が早まった。
- 東西線が早期に建設されていた。
- 東西線と直通する片町線も1970年代後半に全線の電化と複線化が行われ、学研都市も史実より早く開発が進んでいた。
- 一方でモハ80系・モハ70系・モハ72系などツリ掛け式国鉄車も多く残った。
- 広島支社管内の電車は山陽本線筋の一握りを除いて、今でも全てツリ掛け式。
- 阪和線にはクハ86・サハ85とモハ70で混成した編成をブルーライナーに塗装したエゲツない新快速が出没。
- 鍛冶屋線や高砂線、飾磨港線、尼崎港線などが残り、アーバンネットワークに組み込まれていた。
- 電化も早まったかされていた可能性大。
その他
- 1976年11月の国鉄運賃・料金大幅値上げは行われなかった可能性が強いので(仮に値上げがあっても小幅に留まっていた)、鉄道から航空への転移は進まず、国内線の航空路線は史実ほど発展しなかった。
- 全日空はB747を導入しなかった。日本航空もB747を就航させたのは羽田-千歳・福岡・那覇便と、伊丹-千歳・那覇便のみ。
- JRの運賃水準が低いままなので、鉄道から高速バスへの転移もあまり進まなかった。
- 一般庶民にとって飛行機は贅沢な乗り物という認識しかない。せいぜい新婚旅行で乗るぐらいという程度に留まっている。
- むしろ料金の引き下げが早まった可能性あり。今日の「早割」「特割」、更にLCCが早く登場した。
- JRマークのついた仁堀連絡船が見られた。
- 廃止される前に、両岸の発着港を変更していた可能性もある。
- 松山と呉をむすんでいたかも。
- 廃止される前に、両岸の発着港を変更していた可能性もある。
- 本四架橋の神戸~鳴門ルートは鉄道併設になっていたかもしれない。
- 東武日光線の快速の区間快速化は1991年の特急車の置き換えと同時に行われていた。
- 1720系の後継は史実とは異なってスペーシアではなく、りょうもう系統と共用の汎用特急車になっていた。
- 東武の有料急行の特急格上げと「急行」の一般列車の種別への変更も1991年には行われていた。
- 快速用6050系も史実とは異なり3扉セミクロスで登場していた。
- 小田急のロマンスカーも新宿-小田原無停車の列車は1987年の10000系登場時に廃止されていた。
- 10000系は史実とは異なってハイデッカー仕様・連接構造ではなく、現実のEXEのような通常形の汎用特急車となっていた。
- 京急600形の後継である2000形は3扉車端ロング・扉間固定ボックスシートで登場した。2100形は製造されず、2000形の後継は新1000形(車端ボックス)の増備で賄われた。
- 京急における日中時間帯の快特・特急の統合も1980年代後半~1990年代前半には行われていた。
- 名鉄の特急における特別席と一般席の併結は1982年に行われていた。また「高速」という種別は設定されなかった。
- 西鉄8000系は史実と異なって先頭貫通式の3扉車端ロングで登場した。8000系登場と同時に日中の急行廃止、特急の停車駅増加も行われていた。
5年早かったら
全般
- 原因はガスタービン車かもしれない。
- どっちみちバス事業は分社した。
新幹線
- 東北・上越新幹線は民営化と同時に開業した。
- 0系は民営化と同時に製造が終了した。
- 100系は全車民営化後に落成された。
- 「こだま」の減車はなかったかも。
在来線
- 103系、113系、115系は民営化と同時に製造が終了した。
- 205系、211系は全車民営化後に落成された。
- 203系も。
- キハ185系はJR四国の新車であった。
- 全車民営化後に落成された。
- もちろん緑帯を巻いた経験はない。
- 東北・高崎線中距離電車の新宿乗り入れは昭和のうちに開始された。
- 常磐線の万博中央駅はそのまま常設化していた。
- クハネ581はエキスポライナーに使用されなかった。
- 415系500番台が九州に転属することはなかった。
- EF70の直流化改造が実現したかも。
- EF58 60号機が解体されずに済んだ。
- 現在はリニア・鉄道館に保存されている。
- EF66は全車JR貨物に継承され、ブルトレ牽引を担当しなかった。
- 奈良・和歌山地区の105系は新車だった。
- 713系が量産化されていた。
その他
- 関西私鉄の利用客減少は昭和のうちに起こっていた。
- 利用客のJRへの移行が史実より早かったため。
- 国内線の航空旅客の減少は1985年の日航ジャンボ機墜落事故以降ずっと続いていた。
- 墜落事故後航空旅客が減少し、それに追い討ちをかける形でJRがのぞみを走らせ、空からJRへの移行が史実以上に急速に進んだ。
- 日本国内のステンレス車両は現在も全て東急車輛製。
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