もしあのプロ野球選手にアクシデントがなかったら/さ~わ行
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2017年5月6日 (土) 17:27時点における>Parappa1992による版
当ページではケガや病気について扱います。
あ行
赤星憲広
- 2007年、広島戦でダイビングキャッチを試みた際に首を強打しなかったら
- 2011年現在も現役を続けている。
- 城島・藤井・新井などと1976年度生まれの同級生集団を形成していた。
- マートンを獲得することもなかったか?
- 左から鉢、赤星そしてマートンと言う布陣が組めたかも。
- 現役の限り、盗塁数だけ車椅子を寄贈している。
- 2008年以降の阪神の成績も史実よりは良かった。
- リーグ優勝を果たしていた可能性もある。
- 2000本安打を達成するまで活躍を続ければ、間違いなく「通算本塁打最少での記録達成者」になっていた。おそらく通算で一桁本塁打のままでの達成だっただろう。
- 2009年にも同じアクシデントに見舞われなかっただろう。
伊藤智仁
- ひじ痛とルーズショルダーに悩まされなかったら
- 1990年代ヤクルトはさらなる黄金時代になっていた。優勝回数がいっそう増えていたか、V逸年でもBクラス転落はしなかった。
- その分阪神の成績は目も当てられない状態になっていた。
- あのお化けスライダーはルーズショルダーが生んだ産物だからただの速球派Pと終っていたと思う。
- その分阪神の成績は目も当てられない状態になっていた。
- 21世紀を迎えた頃にメジャーに移籍し活躍。
井上真二
- ブレークした1989年、夏場に阪神キーオから頭部死球を受けなかったら
- 規定打席到達の年度が数度はあったろう。
- 主軸を打つのは無理でも、末次くらいの存在にはなった可能性も。
- 20本塁打以上放っていた。
- 主軸を打つのは無理でも、末次くらいの存在にはなった可能性も。
- 90年代前半の巨人の外野陣が悲惨なことにはなっていなかった。
今中慎二
- 左肩の故障がなかったら
- 中日は一時、野口・山本昌・岩瀬とともにスーパー左腕王国を形成。
- 1999年の優勝貢献を置き土産にメジャー移籍し、日米通算200勝を達成。
- 中日に残留していれば、2006年の優勝ぐらいまで貢献し、最近までプレーしていた。その間にもう1-2度中日の優勝が増えていた可能性もあり、いずれかの年で10.8の借りを返していたかも。
- 著書の題名は『悔いは、ありません』になっていた。
- 門真市を代表する有名人となっていた。(今中は門真市出身)
落合博満
- 高校にまじめに通っていたら
- 入部早々四番に定着(史実通り)。秋田県のレベルを考えると甲子園に最低1回は出て独特の打法が注目を浴びる。
- 高卒後に、ドラフト指名されるが、OBに打法をけなされて自身をなくす。
- 1996年に野口の死球で手首を骨折しなかったら
- もう少し長く現役を続けていた。
- 1996年の日本シリーズも巨人が勝っていた。
- 全球団からホームランを達成していた(史実ではロッテからはホームランを打つことが出来なかった)。
- 落合監督就任時に野口が干されることはなく、FAで巨人へ行くこともなかった。
- 小田は中日に移籍せず、「やりましたー」という名言もなかった。
- 2004-5年の成績を見ればわかるが干されたのではなく力が落ちて使われなくなっただけ。史実と変わらなかった可能性も高い。
越智大祐
- 黄色靭帯骨化症になっていなかったら
- 西村がストッパーに転向することはなかった。
か行
掛布雅之
- もし1986年に斉藤学投手から死球を受けなかったら
- 1986年、優勝は無理でも優勝争いぐらいはできていた。翌87年も阪神の成績はあんな悲惨なものにはならなかった。
- どこかで同様のアクシデントに見舞われた可能性もあるが、それがなければ2000本安打・450本塁打ぐらいまで達成していたか。
- 阪神の暗黒時代の到来ももう少し遅れていた。結局は訪れたのは間違いないと思われるが…。
- 翌年に飲酒運転で検挙されることはなかったかもしれない。
- そのため阪神フロントとの軋轢は生まれず、引退後は監督に就任していた。
- もう少し長く現役を続けているので、上手くいけば1992年にチームを優勝させて優勝を置き土産に引退していたかも。
門田博光
- 1979年のキャンプで右足のアキレス腱を断裂しなかったら
- アキレス腱断裂からの復帰後「走らずに済む方法」としてホームランを追求することもなかったので、故障前と同様の中距離の巧打者として大成。本塁打王ではなく首位打者のタイトルを何度も獲っていた。
- 打点王の受賞回数も史実より増えた。
- 少なくとも背番号44は付けていない。
- オリックスブレーブス時代の石嶺和彦は指名打者に専念していた。
- 1989年にブーマー・ウェルズとのハイタッチで右腕を脱臼していなかったら
- (当時、門田が在籍していた)オリックスが1989年度のリーグ優勝を近鉄にさらわれることはなかった。
- 門田の戦線離脱が、近鉄の巻き返しにつながったため。
- そうなれば後にブルーウェーブに改名することもなかっただろう。
- 門田がホークスに復帰することもなく、現役引退までオリックスでプレーしていただろう。
金本知憲
- 2010年に右肩を傷めなかったら
- 連続試合フルイニング出場、連続試合出場をそれぞれもっと続けられた。
- 2010年に阪神が優勝し、11年以降ももう少しまともな成績を残せた。
- 大和の外野へのコンバートはなかった。
- 福留孝介の獲得もなかった。あるいは福留の入団後に追われるように出番を減らしていた。
- 引退直前にコーチ兼任→引退翌年に監督就任していたかも。
岸川勝也
- 1991年8月9日の対近鉄戦でジム・トレーバーの打球にダイビングキャッチを試みた際に左膝半月板を損傷していなかったら
- 自己新ペースで30本塁打以上放っていた。
- 通算本塁打も200本以上放っていた。
- 1994年はリーグ優勝していたかもしれない。
- 6月に吉田修司との交換トレードで読売ジャイアンツへ移籍することはなかった。
- 佐藤真一、広永益隆が巨人へ移籍していたかも。
- いずれにしても根本陸夫を監督を勇退している。
- 6月に吉田修司との交換トレードで読売ジャイアンツへ移籍することはなかった。
- 移籍して来た秋山と4番の争いをしていた。
- ケビン・ライマーが入団することはなかった。
- もしくはブライアン・トラックスラーが入団せず、一塁手へコンバートされていた。
- 小久保裕紀のブレイクが遅れていた。
清原和博
- もし1989年にバット投げ事件を起こさなかったら
- 連続試合出場記録が途切れることはなかった。
- この年も西武が優勝しV10を成し遂げていた。
- 平沼定晴の知名度は上がらなかった。
桑田真澄
- もし1995年のダイビングキャッチ事故がなかったら
- まず通算200勝は達成して名球界入りしていた。
- 1996年はメークドラマではなく巨人の独走優勝。日本シリーズに勝てたかどうかはわからないが…。
- 1995年もヤクルト、広島と僅差の戦いになっていた可能性も。
- メジャーリーグ入りも史実より早く実現できていた。
- メジャー行けなかったのは借金のせいだから、巨人で活躍している(=見放されない)限り無理だったのでは?
- むしろケガなく活躍し続けていたら、史実よりも返済は早まったのではなかろうか。年俸もいい具合に上がり続けただろうし。
- メジャー行けなかったのは借金のせいだから、巨人で活躍している(=見放されない)限り無理だったのでは?
小久保裕紀
- もし2003年のオープン戦で大怪我をしなかったら
- もちろんあの「小久保事件」は起きなかった。
- もちろんホークスの4番は小久保のまま。
- 松中信彦の出番は少なかった。
- 某球団へ移籍しないので、松田宣浩のブレイクも遅れていたかも。
- 吉武真太郎が巨人に移籍することは無かった。
- 2003年の強力打線が無かったことにされ、同年の日本一も無かった。
- あるいは史実どおり日本一になっていて、彼がいる分打線が尚更えげつなかったかも。
- 川崎宗則のブレイクも1年遅れていた。
- 2000本安打は2011年の内に達成できた。
- フリオ・ズレータが入団することはなかった。
さ~な行
斉藤和巳
- 肩の痛みに苦しめられなかったら
- あと数年は現役だった。
- 現在(2017年)まで現役かは微妙なところ。
- メジャーに挑戦していたかもしれない。
- 現在(2017年)まで現役かは微妙なところ。
- 200勝を達成できていたかもしれない。
- そうでなくても、2000年代での最多勝にはなっていた。
- 某所で「プロブロガー」と揶揄されることもなかった。
- リハビリ担当コーチになることもなかった。
城島健司
- 2010年、腰を傷めなかったら
- 現役引退後は恩師のいるホークスへ指導者として出戻りしていた。
- 釣りタレントとしての顔はもっぱらオフ限定であった。
- 藤井彰人がFAで阪神入りする事はなく、「男前」の愛称も定着する事はなかった。
- 翌2011年以降も現実以上に活躍していて、阪神の成績ももう少しまともだった。
- 2012年に一塁へのコンバートもなかった。
- 引退の時期によっては、狩野恵輔の復活や梅野隆太郎と原口文仁の台頭・ブレイクが遅れていたかも。
- 梅野と原口が城島の影響を受け、現実以上に「打てる捕手」として活躍するかも。特に原口は城島と自主トレをしていたので尚更。
杉内俊哉
- 2004年6月1日の対ロッテ戦に2回7失点で降板直後、悔しさのあまりベンチを素手で殴打して両手の小指付け根を骨折がなかったら
- 以降、シーズンを棒に振ることはなかった。
- この年、リーグ優勝を果たしプレーオフも日本シリーズ進出していた。
- そして日本一2連覇。
- メジャーリーグに移籍していた。
- 巨人移籍はなかった。
- 2012年5月30日の楽天戦でのノーヒットノーラン達成はなかった。
- 巨人移籍はなかった。
田淵幸一
- 1970年、広島外木場義郎から左こめかみに死球を受け昏倒がなかったら
- この年、阪神が優勝していた。
- 捕手一筋として活躍。
- 「耳当て」付きヘルメットの使用が定着化の存在はなかった。
- 1983年、近鉄柳田からの死球による長期欠場がなかったら
- バースの前にホームラン日本新記録挑戦が話題になった。
- それまで55本超のホームランペース。
- 多少ペースは落ちるにせよ、50本以上は現実的だった。
西岡剛
- 2014年の巨人との開幕シリーズで福留孝介との交錯がなかったら
- 上本博紀が「1番セカンド」でスタメン定着しなかった。
- 同年の阪神はCS以前にレギュラーシーズンでも優勝出来ていたかもしれない。
- 下手すりゃ日本一になれていて、「守備妨害で試合終了」もなかった。
は行
濱中治
- 2003年に右肩を傷めなかったら
- 同年のオールスター戦のファン投票選出を辞退することはなかった。
- 阪神は日本一になれていた。
- 開幕当初一塁を守っていた桧山進次郎が外野に戻ることはなかった。
- 三塁もずっとアリアスだったかアリアスと片岡篤史の併用だった。
- 翌年に背番号を変更することもなかった。
- オリックスへの移籍もなさそう。
原辰徳
- 1986年9月の広島戦での津田恒美投手のストレートをファウルした時の左手首の骨折がなかったら
- 1986年はシーズン最後まで活躍し、巨人はリーグ優勝していたかもしれない(史実は広島)。
- プロ通算で450号あるいは500号本塁打を達成していた。
- この時の負傷により原氏は「自分の思うようなバッティングが出来なくなった」と自ら語るほど左手首の後遺症に悩まされた。
- 成績上は翌年、翌々年と続けて3割30本塁打を達成しており、むしろキャリアハイを迎えていたことを考えると、そこまで大きく変わったか微妙。
- この時の負傷により原氏は「自分の思うようなバッティングが出来なくなった」と自ら語るほど左手首の後遺症に悩まされた。
- 前世紀末まで主力として活躍していた。
- 「チャンスに弱い4番」と揶揄される事なく(とはいえ実際には勝負強かったようだが)、「ONの後継者」と評されていた可能性も。
- 80年代後期に発売された野球ゲームにて原氏のパラメーターが強打者とは言い難かったような扱いをされていたような感じがするが(当時のチームメイトであったクロマティや吉村よりも低かったような)、強打者にふさわしいパラメーターになっていたかもしれない。
- 1989年に外野へコンバートされることはなかった。
彦野利勝
- 1991年6月18日のナゴヤ球場での横浜大洋戦で盛田幸妃からサヨナラ本塁打を放ち一塁ベースで右膝の靭帯が断裂がなかったら
- 1991年はシーズン最後まで活躍し、中日はリーグ優勝していたかもしれない。
- 1988年から4年連続でゴールデングラブ賞を受賞していた。
- シーズン途中、オリックスから南牟礼豊蔵が移籍することはなかった。
- 1988年から4年連続でゴールデングラブ賞を受賞していた。
- 1994年もリーグ優勝を果たしていた。
- 本塁打も2桁を放っていた。
- 晩年に背番号57に戻すことはなかった。
- アロンゾ・パウエルが来日することはなかった。
- 音重鎮も中日へ復帰することはなかった。
平野恵一
- 2006年のロッテ戦でファウルフライの捕球の際の大怪我がなかったら
- 阪神へのトレードはなかった。
- 平野ではなく後藤が阪神に行っていたかも。
- FAで巨人に行っていた。
セシル・フィルダー
- 1989年、指を骨折しなかったら
- 翌年も阪神で活躍していた。
- 89年は本塁打王を獲得していた。
- 92年まで在籍していたら92年に阪神が優勝していた。
- 阪神暗黒期の成績は少しはマシになっていた。
- 90年にパリッシュが阪神に移籍してこなかった。
古田敦也
- 1994年の4月14日に前田智徳のファウルチップを受けての右手人差し指骨折がなかったら
- ヤクルトは4連覇を果たしていた。
- 巨人、中日の10.8自体は存在しなかった。
- グラッデンと中西親志の乱闘騒ぎも起こることはなかった。
- 西村龍次は近鉄へ放出されることも無かっただろう。
- 中西親志はこの年で現役を引退していた。
- 西村龍次は近鉄へ放出されることも無かっただろう。
- 2000本安打は2004年の内に達成できた。
ま~わ行
前田智徳
- 1995年にアキレス腱を断裂しなかったら
- 少なくとも慢性的な足の故障に悩まされることも無く、1996年以降もフル出場したシーズンは更にあった(史実では故障以降、2005年のみ)。
- 松中よりも先に三冠王を獲っていたか、トリプルスリーを達成していた可能性も。
- 2000本安打どころか、3000本安打も狙える位置にいたかも。
- 松井秀喜、福留孝介の最大のライバルとして君臨していた。
- 代打、またはDHに専念するのはもう少し遅くなっていた。
- 広島も優勝までとは行かなくても数回はAクラスに入ったシーズンが増えていたはず。
- FA宣言でメジャーリーグに移籍していたかも。
松井秀喜
- 2006年にスライディングキャッチの際に左手首を骨折していなかったら
- 当然、それ以降も連続出場記録は継続されていたはず。
- カル・リプケンの記録はさすがに抜けないまでも、衣笠の記録は越えていたかもしれない。
- その後も変わらず活躍していたと仮定した場合、2009年にヤンキースを退団することも無かった。
- もしかしたらイチローと共にプレーすることもあったかもしれない。
- 現役生活そのものも、うまくいけば2012年以降も続いたかもしれない(史実では2012年にレイズ退団後、オフに引退)。
簑田浩二
- 1985年に頭部に死球を受けなかったら
- その後巨人にトレードされることもなかった。
森慎二
- 2006年のオープン戦で右肩を脱臼しなかったら
- MLBで活躍できていた場合、ここの通りになっていた。
- MLBで活躍できなかった場合でも、日本球界に復帰して2012年頃までは現役を続けられていた。
- 2010年までに古巣西武に復帰していた場合、2010年の西武は土壇場で優勝を逃すことはなかったかもしれない。
- 古巣西武でもあまり期待通りに活躍できなかった場合、間違いなく「俺達」メンバーの一員になっていた。
盛田幸妃
- 髄膜腫になっていなかったら
- もっと長生きしていた。
- 三澤興一が移籍することはなかった。
- 香田勲男の引退が早まっていた。
- 地元、北海道ということもあり北海道日本ハムファイターズへ移籍していた。
吉村禎章
- 栄村との衝突事故がなかったら
- プロ通算200号本塁打を達成していた。
- 事故前の吉村の実力を考えれば200号どころではない。90年代を通して巨人の中軸打者として活躍し、350本塁打ぐらいは打っていたと思う。巨人の優勝回数も増えていたか。
- 1992年の阪神はAクラス入りできなかった。よって阪神は1987年から2002年までの16年間連続でBクラスに甘んじていた。
- 1992年のヤクルトのリーグ優勝時の甲子園での阪神ファンからの「帰れ」コールもなかった。
- 1992年の阪神はAクラス入りできなかった。よって阪神は1987年から2002年までの16年間連続でBクラスに甘んじていた。
- 90年代末の巨人の外野は「吉村・松井・高橋」と左の強打者が揃っていた。
- それくらいまで、現役続けられたら二岡の背番号は「7」以外の空き番号だった。
- 清水のレギュラー獲得は遅れていた。あるいはくすぶり続けたまま他球団にトレードされ開花していた
- 巨人不動の3番打者となっていた。
- 松井入団までの「不動の生え抜き4番」になっていた。
- 中日に移籍した落合の最大のライバルになっていた可能性も。
- 広沢がヤクルトからFAで移籍してくることはなかったかも。
- その場合広沢の阪神移籍もなく、ヤクルトで選手生命を終えていた。
- あるいはヤクルトを自由契約になった後野村監督の誘いで阪神へ移籍していた。
- その場合広沢の阪神移籍もなく、ヤクルトで選手生命を終えていた。
- 栄村忠広は
- 代走、守備要員として巨人で数年過ごしたろう。
- その後、守備走塁コーチもしくはトレーニングコーチくらいにはなれたかも。
- やくみつるの漫画で、頭に角が生えた形で「悪魔」か「バイ菌」として悪意に満ちた描き方をされることはなかった。
- 巨人に何らかの形で残っていた可能性あり。
- 少なくとも審判の栄村孝康と勘違いされることはなかった。