カリーニングラード
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- カリーニングラードは一筆書きで有名な都市。
- 市内を分岐しながら流れる川に、複数の橋が架かっており、一つの橋を一度しか渡らず、すべての橋を一筆書きで廻ることが要求されるが実際はとんちを使わない限り、そういうことができないことになっている。
- だったら一筆書きの題材になどするな、と思うが、その程度の名物がない限り、スターリングラードとかレニングラードとかと混同されるのだからやむを得ない。
- 名物なら琥珀がある。それとカントなどの学者も名産品だったが今は…。
- まあそれが分かる前に言いだした話なので。ある時橋を一回ずつ巡る観光ルートが作れないかと考えた人間がいて、有名な数学者のオイラーに検討を依頼した。その結果、数学的に不可能であるという画期的な証明が得られたことでこれが非常に有名な話になったわけ。
- 一生懸命そのルートを探っていた住民は一筆書きは不可能という事実を知ってガックリした。
- これの漫画版に(スキー場で遭難する話だったかな?)その一筆書きの話があった。
- バルト三国の独立と周辺諸国のEU加盟で、浮いた島みたいな存在に。
- 持て余すくらいなら、ポーランドかドイツに割譲してもいい気がするが。
- どちらもロシア人が移住した土地を割譲されても困るんじゃないか。
- ソ連崩壊直後にポーランドにあげようとしたが頓挫した実績有り。
- 独立させてプロイセン共和国でもいいが。現在のドイツにプロイセン色はないし。
- 地元で囁かれるアネクドート(政治的諷刺の小咄)では「小リトアニア」としてリトアニアに編入されるというものまである。
- ドイツ人やポーランド人が来る前の原住民はリトアニア人に近縁だった訳だし…
- でもドイツ騎士団の征服を生き延びた先住民は新しいプロイセン人(バルトドイツ人)に血を残したから、現在のドイツ人にも僅かに受け継がれているんじゃないか。
- ドイツ人やポーランド人が来る前の原住民はリトアニア人に近縁だった訳だし…
- プロイセン時代はポーランド分割まで飛び地。ドイツ時代は西プロイセンがポーランドに分轄されてから飛び地。ロシア時代はリトアニアが独立してから飛び地。何処の国に支配されても飛び地になる不幸な地。
- 近年では位置のせいでロシアのミサイル基地にも使われている。
- クリミアであれだけ揉めているのに、ここが世界公認のロシア領なのは歴史的に見ておかしい。
- 持て余すくらいなら、ポーランドかドイツに割譲してもいい気がするが。
- 旧名ケーニヒスベルク。
- ロシア革命後にカリーニン将軍の名前を記念して改称。
- 革命後?
- 嘘つくんじゃねぇ。ケーニヒスベルクはもともと東プロイセン(ドイツ)領。第二次大戦後、ソ連が占領してそのまま自分のものにしてからカリーニングラードとなった。
- そもそも同志カリーニンは将軍じゃないどころか軍人ですらない。第四代全露中央執行委員会議長(1919〜38)・初代全連邦中央執行委員会議長(22〜38)・初代評議会社会主義共和国連邦最高評議会幹部会議長(38〜46)。ようは国家元首。
- もちろん当地を訪問したこともない。
- ちなみにボルガ川沿いに「カリーニン」という街があったがこちらはソ連崩壊後に元の名前の「トヴェリ」に改称されている。
- 旧名の意味はドイツ語で「王の山」。同じ意味のフランス語の地名がカナダのケベック州にある。
- 当初は「バルチースク」(バルト海の街)と改名される予定だった。
- ソ連崩壊の頃には旧名に戻すことも検討されていたという。
- ロシア革命後にカリーニン将軍の名前を記念して改称。
- ドイツの哲学者カントが一生の殆どを過ごした地。
- そのため、「カントグラード」に改名しようという声が現住ロシア人からもちらほら上がっている。
- 冷戦終結時に旧ソ連各地にいたドイツ系住民がドイツに「帰還」する前に一旦この地に集まってきていた。
- ポーランドに属したグダニスクが中世以来の景観を復元しているのに対し、こちらは無機質な軍都として戦前の面影全くなし。
- 復元された地区があるが非常に安っぽい。ポーランドの完成度とは対照的。ただし大聖堂だけは割と丁寧に復元されている。今後も計画があるらしいので少しだけ期待
- 大聖堂がソ連時代に取り壊されなかったのは大聖堂の壁のそばに墓があるカントがエンゲルスに高く評価されていたから。
- ドイツ時代にはケーニヒスベルク城という城があってWW2に大破したのだがソ連はその跡地に「ソビエトの家」というヨーロッパ1醜いと呼ばれる建物を作った。
- しかも地盤沈下やペレストロイカのせいで未完成のまま放棄された。
- 復元された地区があるが非常に安っぽい。ポーランドの完成度とは対照的。ただし大聖堂だけは割と丁寧に復元されている。今後も計画があるらしいので少しだけ期待
- 州としては市内の他、旧ドイツ領プロイセンの北半を含む。その中にはヨーロッパ史にも出てくる「ティルジットの和約」で有名な旧ティルジット市も含まれるが、こちらも旧ソ連臭ぷんぷんの「ソビエツク」と改称されたままである。
- なお戦後長い間ここがドイツ領だった時代の歴史はほぼ粛清されたも同然だった。
- そのせいで博物館の歴史展示が原始時代の次が大祖国戦争(第2次大戦)後という異常すぎる状態に。
- なお戦後長い間ここがドイツ領だった時代の歴史はほぼ粛清されたも同然だった。
- 世界地図を見るとどうしてももやもやする場所の一つ。
- EUに楔を打ち込んでいるようにも見える。
- ジブラルタルと並ぶ、現存する数少ない欧州内植民地。
- ロシアワールドカップはここでも開催される。
- ポーランドはここで試合したかっただろうなあ…近いから。
- 冷戦真っただ中には西側のプロパガンダ放送を妨害するための電波がここから出ていたらしい。
- 結構古くからロシアとも縁が深かった。
- ピョートル大帝はここを5回も訪問している。
- 夏にはロシア人のリゾート客でホテルがにぎわっていた時期もある。
- なおソ連帰属後には軍事機密保護のため一般人民は海岸に近寄れなかった。
- 第1次大戦後にはソ連のアンテナショップが設置された。
- ソ連領になってからドイツ人が追放されるまでの数年間はおおむね友好的に両民族が雑居できていた。
- この辺は終戦直後の南樺太とも似ている気がする。