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#徳川と豊臣の間に入って緩衝役を務めてたが、没後に関ヶ原の合戦が起こった。 | #徳川と豊臣の間に入って緩衝役を務めてたが、没後に関ヶ原の合戦が起こった。 |
2021年5月7日 (金) 14:15時点における版
ま
前田慶次郎
- 天下無双の傾奇者
- あまり資料が残っていないため大抵の創作物は『花の慶治』の影響を受けている。
- 『慶治』じゃなくて『慶二』な。
- 誰か突っ込んでよ。
- 『慶次』だ。
- 『花の慶次』の影響を排除したらしい大河ドラマ『利家とまつ』の慶次郎はヘタレすぎてすこぶる評判が悪い。
- 前田利家と同年代または最大でも10歳程度しか年が離れていないので、『花の慶次』で活躍していた時期は50~60歳と推定される。家康とも同年代。
- 『慶治』じゃなくて『慶二』な。
- 『花の慶次』では利家と反目したように描かれているが、実際には利長と仲が悪かったとか。
- 隆慶一郎氏の小説『一夢庵風流記』では、小田原攻めの後、秀吉の朝鮮半島出兵により、朝鮮半島で活躍する姿が描かれているが、『一夢庵風流記』の劇画版である『花の慶次』では、琉球に渡って活躍するというストーリーに改変されている。
- いろいろ大人の配慮ってもんがあったんだろうなぁ。もともとの小説でさえ破天荒な話なのに漫画的にいろいろエスカレーションさせちゃってるし。
- 集○社が余計な波風を怖れたとしか。
- そこまで配慮していた○英社も、のち「ヒカルの碁」で波風に巻き込まれてしまうのでした。
- 集○社が余計な波風を怖れたとしか。
- いろいろ大人の配慮ってもんがあったんだろうなぁ。もともとの小説でさえ破天荒な話なのに漫画的にいろいろエスカレーションさせちゃってるし。
- 史実ではコテコテの文化人 歌 古典 華 茶 その他ありとあらゆる文化に於いて一流であった
- 元々滝川の出である(即ち甲賀忍者)
- その文化的才能は隠密説も傾奇行為は相手の本音を調べる為だったとも考えられる
- 「尻」の字がある地名の場所に居るからって「屁」をテーマにした和歌を詠むとかw
- 元々滝川の出である(即ち甲賀忍者)
- 有名になれたのも京都から米沢までの道中記があったからかな?
- オイタの数々:水風呂、朱塗りの槍、大ふ(゛)へんもの、風呂に脇差し竹光
- 関連項目:大根
- 前田利家の影武者だったが、戦場で自ら影武者と名乗って大ヒンシュクを買ったんだとか。
前田利家
- 犬
- いつもお腹をすかせている。
- いいかげん服を着ろ。
- 妻のまつには頭が上がらない。
- まつとは実はいとこ。
- 結婚当時まつ11歳、当時としても早い結婚。利家は○○コンと言われてもさすがに仕方がない。
- 加賀百万石の礎築いたのに…。
- 徳川と豊臣の間に入って緩衝役を務めてたが、没後に関ヶ原の合戦が起こった。
- 一人称は「僕」だった。
- 趣味は金勘定。死の直前に一時意識を持ち直し、愛用のそろばんで自分の遺産を全部決済してから死んだ、という逸話がある。
- 合戦の時に兵が足りず、嫁さんに「日頃 大事にしてる金銀に槍をもたせりゃいいでしょうが」と嫌味を言われている。
- ホトトギスが鳴かないとそのまま逃がしてしまう欲のなさ。
松倉重政
- 島原の乱の原因。
- 五条にいた頃は名君だった。
- 築城名人。
- 出自ははっきりしないが、越中新川郡松倉を領していた椎名氏の一族だったという説も。
松永久秀
- 知名度の割には大河ドラマに主役として出たことはないが・・・まあしょうがないか。
- 第一話の冒頭、三好長慶の下で地味な事務方を勤める冴えない中年男がふと漏らしたとんでもない野望「天下をこの手に…」、巻き込まれ人生を狂わせる群像、魔王との出会い、そして衝撃の結末へ…。確かに大河向きではないがなんか面白そうだな。
- 井上靖が短編小説の主人公にはしている。いつでも利を求めて冷静だが、信長だけは心底嫌いだったために感情で動いてしまい、そのために亡びたということになっていた。
- ドラマにするなら果心居士の登場も欠かせないかな。
- 性のHow to 本を書いた。
- 要約すると、「大切なのは大きさじゃない、テクニックだ!」とのこと。
- さらに、「自分(男)だけ気持ちよくなるな、相手も一緒に満足させろ」「泥酔していたり、女がその気になっていない時にはするな」とも書いている。布団の中では優しいタイプ?
- 相手の選びかたから、ヤる場所や時間帯など、かなりアドバイスが細かい。
- なにしろ戦の途中でも陣幕の中で×××××
- 本人の作ではなく、医師・曲直瀬道三からもらったという説もある。
- 要約すると、「大切なのは大きさじゃない、テクニックだ!」とのこと。
- あの信長相手に謀反(それも複数回)を起こしても許された。
- 信長は久秀のことをとても買っていたらしい。
- 家康相手に「この男は主家殺し・将軍殺し・大仏焼き討ちと、人には真似できない大悪事を三つも成した」と紹介した。嫌味なんだか本気で褒めたんだか判断に悩む。
- 嫌味というか「さすがの俺でもそこまではやれんぞ…」とあきれてたんじゃねぇかねぇ。信長は主家(尾張守護代織田氏)追い落としこそやっても将軍殺しはしてねぇし東大寺大仏殿焼き討ちまではしてねぇから。
- 125才まで生きると公言していた。
- 普通は1年で死ぬ鈴虫を複数年飼って観察し、普段の生活しだいで長寿を保てると考えていたらしい。なら謀反すんなよ。
- 健康に気を遣ってたのはあると思う。信貴山での戦の時も、切腹するのを誤るのは名折れだとかとかいって、普段から中風除けにやってたという頭に灸据えるのをやってから、切腹したとかなんとか。
- 日本で初めてクリスマスを理由に休戦を命じた、という珍エピソードがある。
- 後世の創作物などではものすごい悪人面なことが多いが、実際はかなりの美男子だったようだ。
- 平蜘蛛という釜に火薬を詰め込み、これで自爆して果てた。ゆえに人呼んで「戦国のボンバーマン」。
- 死んだ日は奇しくも自分が10年前に大仏殿焼き討ちやった日と同日。
- 弾正少弼の官位をあわせて「爆弾正」とも。
- 当然、日本史上初の「死因が爆死である証拠が残っている人」。
- お城にある「多聞櫓」はこの人が考案した、という説がある。
松本氏輔
- 蘆名家臣で蘆名四天王と呼ばれた重臣のひとり。通称は図書助。
- 「としょのすけ」じゃなくて「ずしょのすけ」。
- 「信長の野望 武将風雲録」にて「松本図書助」名義で登場したことがあるのだが、なぜかネタにされたことがある。
丸目長恵
- 九州肥後相良家の家臣。
- タイ捨流剣術の開祖。
- タイがカタカナなのは、漢字で書くことによって字義を限定しないためだという。
- 剣豪としては活躍したが、武将としてはかなりトホホ・・・な人。
- 作戦立案してそのとおりに戦ったら惨敗。主君にめっさ怒られた。
- 剣術の他に、笛や和歌などの芸能にも堪能だった。
み
水野勝成
- 「鬼日向」の異名を持つ徳川譜代の猛将。
- 小牧・長久手の戦い、関ヶ原の戦い、大坂の役、島原の乱等では勇猛果敢ぶりを発揮して徳川に多大な戦果をもたらした。
- その一方では命令無視して先陣を切る逸脱行為もあって、論功行賞では知行はほんの僅かの加増しかされなかった事も。
- 「日向守」は、明智光秀の名乗りだったので不吉とされていたが、勝成は笑い飛ばして自分から日向守を所望した。
- 小牧・長久手の戦い、関ヶ原の戦い、大坂の役、島原の乱等では勇猛果敢ぶりを発揮して徳川に多大な戦果をもたらした。
- 家康の従弟でもある。
- 若い頃には父親の怒りを買って勘当され、中国・九州地方を放浪し、現地の大名に仕えていた事もある。
- 勘当された理由は、「女郎屋の代金を実家にツケ、請求に来た勘定方にムカついてぶっ殺したから」というもの。短気すぎるだろ。
- 大坂の役では剣豪宮本武蔵が客将として配下にいた。
- 武蔵との間には親交があった。
- 大坂の役というと、御年51にもかかわらず、部下より先に城内へ攻め入り、一番乗りを果たしている。
- 相当破天荒な生き方をしながらも、88歳まで長生きした。
- 今日の元気な日本のおじいちゃんおばあちゃんも驚くレベル。
- こんな感じだが、未だに備後福山では、息子ほどではないにしても。まあまあの名君として見られている。
- それを、息子に聞かれると「若ぇ頃、放浪しとってだもんで、下のもんの考えもよう分かろうもんだで」と答えたそうな。
- 放浪歴があるからか、実は旅人にやさしい。
- 領内を旅する人間のために、至る所に道の駅を整備したらしい。隣の浅野領内の人間が、それを見てその政策をパクったほど評判も良かったとか。
- 三代続いてかぶき者
- 息子はかぶいて候の水野成貞
- 孫はあの水野十郎左衛門
- 福山藩の跡を継いだ水野勝俊も大概バカ殿。
- 息子はかぶいて候の水野成貞
三好長慶
- 管領細川家の家臣から下克上で阿波・上方を治める大名にまで成り上がった。
- 優秀な弟たちにそれぞれ統治させて9カ国を支配。
- 一時は室町幕府を傀儡とする政権を作り上げたが、彼の死後、すぐに崩壊。
- 松永久秀と三好三人衆が主導権を争って共倒れしてしまった。
- それもこれも優秀な弟たちや嫡子義興が先に死んでしまったのが遠因。
- 松永久秀と三好三人衆が主導権を争って共倒れしてしまった。
- 最期は病死とも謀殺ともいわれている。死去後、3年間秘められた。
- 弟の義賢ともども一流文化人でもあった。文化人のことばかりあげつらう人に、「歌連歌ぬるきものぞと言うものの梓弓矢も取りたるもなし」の一首で反論。
- 晩年は現代で言ううつ病だったという説がある。
三好義賢
- 通称「実休さん」
- は~い あわてない、あわてない。一休み 一休み。
- 武将としての器量もさることながら、茶の湯や歌の道にも精通した一流の文化人。
- 合戦で戦死する直前、自らの死を予見するかのような歌を残している。
- 上記の三好長慶の弟。大阪岸和田のヒーロー。
- え、そーなん?岸和田でも知名度ない気がする…
- ソース
- 大将クラスでは本邦初の鉄砲による戦死者。おめでとう。
- 別にめでたくはないだろう。
- 「堺鑑」には、流れ矢が胸板にあたってその拍子に落馬して死んだとあるが・・・。
- なんじゃこりゃぁ!
三好元長
- 三好長慶や三好義賢、安宅冬康などのお父ちゃん。
- 畠山高政と合戦して敗れたとき、顕本寺で切腹するが、その様がものすごかったらしい。
- 自ら臓物を引きずり出し、それを天井に投げつけたとか。
- 享年32歳。何とも早い。
も
毛利隆元
- 元就の長男。謹厳実直、朴訥な人柄だった。
- ほとんど自己主張しなかったそうだ。が、大内義隆が陶隆房に討たれた報を聞いた時は、「今こそ陶と戦うべき!」と強く主張。
- 残された手紙を見ると、自己評価が低い、自分を卑下するような性格だったようだ。
- だが、「信長の野望・武将風雲録」では悪巧みの塊みたいな顔をしている。
- しかも、41歳で死んだとは思えない老けっぷりだ。
- 大河ドラマでは暗殺されたことになっている。赤川殿…
- 幼少期、人質として大内義隆の下で育つ。その為義隆や陶隆房(晴賢)と男色関係にあったのではないか、と言われたりしている。
- 大内義隆に大層気に入られ、最高レベルの教育を受けることになる。
- 元就「人質のつもりで嫡男を差し出したらMBA資格を取って帰ってきたでござる」
- 嫁さんは大内家重鎮内藤興盛の娘。大河ドラマでは慎ましく奥ゆかしい女性として描かれていた。
- 隆元が(ひっそりと)死去した後、毛利家の兵や物資の調達が急激に滞った。
- 兵を出す国人衆や商人が口を揃えて言うことは、「隆元様が生きていたなら何とかするんですけどねえ」
- 目立たないが、その存在がプラチナカード並みの信用を得ていた隆元さん。なくして分かるそのありがたみ。
- 父・元就も「隆元が生きていた頃は心強かった…」と慨嘆。
- 内政・財務能力に長けてた逸話の一つに…(例として領内の治水工事)始める前に、今で言う見積書を書かせ、実際にかかった費用との差額を出させている。それで残金が出ると「バカモノ!普通は『実際は見積もりよりいくら多くかかってしまいました』と報告するものだ!そして赤字を埋めるものだ!余りが出るという事はどこかで手抜きをしておるに相違ない!やり直して来い!」と怒ったそうだ。
- それって隆景の逸話じゃなかったっけ?
- 内政・財務能力に長けてた逸話の一つに…(例として領内の治水工事)始める前に、今で言う見積書を書かせ、実際にかかった費用との差額を出させている。それで残金が出ると「バカモノ!普通は『実際は見積もりよりいくら多くかかってしまいました』と報告するものだ!そして赤字を埋めるものだ!余りが出るという事はどこかで手抜きをしておるに相違ない!やり直して来い!」と怒ったそうだ。
毛利輝元
- 凡庸、無能と扱き下ろされているが、防長二国に押し込まれた後払底の財政を何とか持ち直した功績はもう少し評価してやっても良いんじゃないだろうか…。
- だいたい爺さんがすごすぎるんだよ…。プレッシャー半端ないって。
- その爺さんにぶん殴られたという記述が本人の回想録に残っているらしい。
- だいたい爺さんがすごすぎるんだよ…。プレッシャー半端ないって。
- 領土を減らされた後は人事の大量刷新を行い、熊谷元直、吉見広長など反抗的な態度を取る家臣を粛清した。
- そこからあぶれた浪人の中には東北で功績を収めた者も
- 大坂の陣の時豊臣方に密に援軍を送っていた。
- 息子の秀就は淫蕩、享楽に耽っていた駄目息子で、その躾に輝元は大変苦悩したようだ。
- 法名は宗瑞。
- この人が太田川の三角州の一番広い島に広島城を建てた。
- 「広島」の名は毛利氏の先祖の大江広元になぞらえてつけられたらしい。
- 元就の遺訓や小早川隆景の助言に逆らって天下を争ったことで批判されているが、批判されるべきは「中途半端に争った」ことだろう。毛利が本気で戦うつもりがあれば、関ヶ原の結末はまったく違ったものになったはず。
- 毛利の本軍4万が関ヶ原に参戦していれば、いや「毛利本軍がこちらへ向かっている」という情報が届いているだけでも、小早川秀秋は裏切れなかったと思われる。
- …IFの話はいいよ…。そんなこと言ったら秀忠がまっすぐ関が原に向かってたらとか景勝が関東に攻め込んでたらとか佐竹がはっきり態度を決めてたらとか維新が伏見城に入城してたらとか際限なくなる。
- いや、これは十分ありえた事だぞ。
- だいたいifがない歴史語りはつまらないでしょ…。
- …IFの話はいいよ…。そんなこと言ったら秀忠がまっすぐ関が原に向かってたらとか景勝が関東に攻め込んでたらとか佐竹がはっきり態度を決めてたらとか維新が伏見城に入城してたらとか際限なくなる。
- 東西どちらに付くにせよ、一門の統一ができてなくて一人で勝手に動いたというのがすでにダメダメ。お前そんなんで天下なんか取れるわけないだろ・・・。
- 毛利の本軍4万が関ヶ原に参戦していれば、いや「毛利本軍がこちらへ向かっている」という情報が届いているだけでも、小早川秀秋は裏切れなかったと思われる。
- 家臣の妻に横恋慕して奪い取った。その女性との間に産まれたのが嫡男の秀就。
- そこはさすがに爺さんの血を引いていたか。
- なお育児にも失敗。秀就は幕閣間にもその名を轟かす金持ちのボンボンとなり、「あいつは生まれつき馬鹿だからしゃーない」と適当に流されるような惨状。
毛利秀就
- 戦国時代が殆ど終わる頃の武将だ。
- 出生は豊臣秀頼よりも遅い。
- 「信長の野望」では登場がほぼドンケツで、しかも「武将風雲録」に於いては一番最後までしぶとく生き残る。
- 何と1670年代(史実では将軍が既に徳川家綱)まで生きる。
- とは言っても、史実では宇喜多秀家や真田信之より先に死亡。
- 相当やる気の無い人物だったそうだ。
- 仕事中に欠伸は当たり前だったそうだ。
- 幕閣からの扱いもひどく、バカなことをしでかしても「あいつは生まれつきバカだからしゃーない」。バカだから毛利は改易されずに済んだという説まで言われる始末。
毛利元就
- 本人よりも三本の矢が有名。
- サンフレッチェ広島のチーム名の由来でもある。
- 広島東洋カープ設立前の広島のヒーロー。
- 結構愚痴っぽい性格だったようだ。
- 息子は3人。それぞれ吉川家(きっかわけと読む)・小早川家(水軍の将)の養子に出し、長男に毛利本家を継がせて広い領土を安泰させた。
- 彼にとっては四男元清以下の子息達は「虫けらの如き」存在だったらしい。
- 先祖は源頼朝の側近として有名な大江広元。
- 元就以前は地方の一国人領主。系譜自体はわりとしっかりしていて、ご先祖様が太平記にちょろっとでてきたりもしている。
- 正妻が亡くなるまでは側室を持たなかったらしい。
- ライスケーキ中毒だったらしい。
- 勢力を拡大したはいいが、その後はどうもパッとしない。
- 現在はアンガールズを引き連れて広島県各地を訪問している。
- 知名度や領地の大きさの割にあまり積極的に研究されない。おそらくは信長との関わりが薄いからだろう。信玄とかと比べてみればわかる。
- このためいまだに厳島の戦いが元就の策略だと思われていたりする。実際はそんなもの無かった。
- 一応、反信長同盟の一員だが、高齢だった為か直接的には信長と対決せず。
- いや、元就にとっても信長は厄介者だった。尼子勝久や山中鹿之介といった尼子氏の残党が信長と手を組んでたから…。
- 息子の元春の初陣の早さに対して、元就自身の初陣は遅め。
最上義光
- 意外といい人だったらしい。
- 後半生は可哀想だ。
- 鮭が大好物だった。
- 各種歴史サイトには「鮭様」とか庄内に攻め入ったのは「肥沃な土地が欲しい!」のは表向きで実は鮭が食いたかったからとか書かれてる。
- その鮭好きのDNAは、義光の末子義忠を経由して水戸藩の水戸光圀に受け継がれることになる(山形藩の改易後、義忠が水戸藩の家老兼光圀の教育係になった)。なんという歴史の妙。
- 関ヶ原後に召抱えた北楯大学宛に「鮭ありがとう、おいしかったよ」と書いた手紙が何通も残ってるとか。
- 某週刊誌で善光と表記されてたが山形県民は不買運動を起こしてもいいのではなかろうか。
- 読み方も「よしあき」だか「よしみつ」だか混乱するしなあ……。
- 妹の義姫(伊達政宗の母)宛の手紙に、「よしあき」と平仮名で署名してあったので判明したとか。
- 伊達政宗にとっては伯父。でも、伊達領を虎視眈々と狙う。
- 父・義守との親子争いを輝宗に止めてもらったはずが…。
- 読み方も「よしあき」だか「よしみつ」だか混乱するしなあ……。
- 娘は豊臣秀次に嫁いでいたという理由だけでラリった太閤に処刑され、すれ違いから愛息を殺してしまい、死後10年も経たぬ内に藩は取り潰しの憂き目に会ったり、色々と気の毒な人。
- 孫の義俊(よしとし)が家政紊乱を理由に、今でいう秋田へ転封食らったからなぁ。祖父としては「何て使えねぇ奴だ!」と嘆いただろう。
- 娘の駒姫は15歳。実際は京に到着してすぐ秀次は切腹。床はもちろん会話すらしていなかった模様。義光夫妻は必死で助命嘆願したが、刑場に助命の使者が到着する直前に首を打たれてしまった。亡骸の引き取りも拒否されてしまい、義光は悲嘆にくれ駒姫の母は2週間後に死んでしまった(自殺)。以降、義光は豊臣家に強い憎しみを抱く事になる。
- 題名忘れたがどっかの推理小説(not歴史モノ)で「最上家お取り潰しはこの人の数々の所業が招いた自業自得」みたいな事が書かれてたが、それはあまりに酷な話である。
- '09年大河ドラマで長谷堂城の戦いが出てくるってぇんで地元の方々が「独眼竜政宗」の時みたいに悪役にしないでくれって訴えたってぇ話があったが…、ここまであのドラマ見た感じだとそれほど重要な役として出て来ない気がするなぁ…。
- 名将知将奸雄豪傑…。武将を表現する言葉はいろいろあるけど驍将って言葉はこの人以外で見たこと無い。
- 山形市では虎将として記されてました。
- 子孫は医者を目指すチンピラの引きこもりだ。
- 2つ年下の妹・義姫にまつわる数々のエピソードから、シスコンとも言われる。
茂庭綱元
- 政宗家臣。片倉景綱、伊達成実と並び伊達三傑に数えられるが他2人に比べるとちょっと地味。
- 父は人取橋の合戦で獅子奮迅の活躍で政宗を逃がした鬼庭左月斎。
- このように元の苗字は鬼庭だが豊臣秀吉から「鬼が庭にいるのは縁起が悪い」という理由で、姓を茂庭に改めさせた。
- 代々長寿の家系で自身は92歳まで生きた。
- その為、父について「73歳で若死にした」と語ったとか。
- 一時出奔したことがある。というか伊達三傑は成実も出奔。小十郎も出奔未遂経験があるのか…
森長可
- 富田長繁とともに、戦国最大のDQNとして知られる人物。
- 親父は信長の侍大将・森可成で、森蘭丸や忠政は弟。
- 富田ほど卑劣ではないが、とにかく殺して殺して殺しまくる人生だった。それゆえについたあだ名が「鬼武蔵」。
- 武田攻めで信忠の先陣を務めたときには、全身にびっしりと返り血を浴びており、思わず信忠が「大ケガをしたのか」と心配したほどだった。
- だがそれゆえに先鋒としては非常に優秀であり、信長からは愛された。
- それも甘すぎるほどに。
- 初陣からして一揆勢に単身乗り込み、リアル戦国無双である。
- 「百段」という名馬を駆り「人間無骨」という名槍を手にして戦った。
- 「ヒャッハー!」という声が一番似合うかと。
- 小牧・長久手の合戦で鉄砲で眉間を撃ち抜かれて戦死。「厄介な奴が死んでくれた」と、敵も味方も安堵したという。
- 秀吉に至っては、「あやつが戦死したのはわしが天下を取る瑞祥。これで三年は長袴(戦がない)じゃ」と大喜び。そこまで言わんでも。
森蘭丸
- 正式の信長の秘書だが、何故か×××××な噂しか耳にしない。
- 本能寺の変で織田信長と同じく死んだが、あまり知られていない。
- 一般的には大河ドラマや創作物の影響で「信長の側近を務めた、中性的な顔立ちの美少年」というイメージがある。実際には父や兄同様ガタイの良い武将だったという。
- 実際に三大美少年に入っていないことから察するべし。
- 本名不明。「長定」「長康」「成利」など諸説あり。
- まだ元服前だったんじゃないか?との説もあり。
- でも弟の坊丸(長隆)や力丸(長氏)にも元服後の名前があるから、その説は苦しいんじゃないか?
- まだ元服前だったんじゃないか?との説もあり。
- 蘭姉ちゃんは彼の生まれ変わり。
- 本来はモーリス・ルブランのもじりなのだが、偶然こっちにも名前が似ていたか。
- 信長が見た夢の暗示や光秀の食が進まぬ様子から、事前に謀反の意図を察知して信長に忠告していた。
- それを聞いた信長は「お前は心配性な奴じゃのう」と一笑に付すが、結果はご存知の通り。
- "鬼武蔵"こと武蔵守長可は長兄で、後年津山を領することになる忠政は末弟。
- 蘭丸と忠政の間にも坊丸、力丸という弟たちがいたりするが、本能寺で最期を共にする。
- 長可は次兄で、その上に可隆という兄がいたのだが、初陣で戦死している。
- 「信長の野望」では、本能寺のイベントを起こさずに放っておくと、結構なおっさんになるまで生きる。
や行
矢沢頼綱
- 真田昌幸の叔父で真田家の宿老。全国レベルでは無名だが、沼田城主として北条から沼田を守り抜いた戦の達人。
- 昌幸にも、「叔父御のやることはわしのやること。叔父御でだめならわしがやっても同じよ」と全幅の信頼を置かれていた。
- 子孫は真田藩の家老を代々務める。現在も子孫が松代にいるとか。
- 沼田では北条より常に劣勢なのに負け知らず。戦い方も野戦、篭城、城攻めなんでもござれ。
- 「掲げると松明のように輝いて姿が見えなくなる」というマジックアイテムな槍を持っていた。
山中幸盛
- 通称は鹿介。尼子家が誇るドM。
- 歴史好き(×マニア)の人たちも幸盛というと「?」となるが、鹿介というと「あ~」となるくらい本名が知れ渡っていない。
- 鹿『ノ』介なのか鹿『之』介なのか、それとものの字がないのかで意見が分かれる。
- 「の」の字は講談の誤表記だったような。
- 「鹿介」と署名した自筆文書が現存しているよ。
- 「我に七難八苦を与えたまえ」昔は知名度が高かったようだが、今の若い人はあまり知らない。
- 上の願掛けや若いころの武勲の願掛けなどを三日月にお願いしてみたり、兜の前立てが三日月だったりと、三日月がかなり気に入っているご様子。
- 真田十勇士ならぬ尼子十勇士の筆頭。
- 子孫は、鴻池財閥になるらしい。
- 通称の方が浸透している。
山内一豊
- 奥さんのヘソクリで馬を買って出世した大名として有名。
- 時期が合わないので俗説かもしれないが、本質的である。
- 人柄だけで大名まで登りつめた。
- 関ヶ原の合戦時は東軍か西軍か去就を決める小山評定の時に、同僚の堀尾忠氏が前日言った「俺、東海道筋にある俺の居城をそっくりそのまま徳川殿に提供するよ!」というアイデアをパクって家康を感動させる。
- 出世のきっかけは奥さんのヘソクリと他人のアイデアの盗用。これで大河の主人公になれました。
- 上で奥さんと他人のおかげと言われるが、自分のアイデアも結構多い。ただし大河では総て奥さんの功績にされてしまった。
- 少なくともどこぞの蛍大名Kさんとは一緒にできない。
- 上士と下士の差別をつくってしまった。
- それを徹底させるため、旧長宗我部氏の家臣を相撲大会に招き、捕縛して磔に。人の良い男が、冷酷な一面を持つ近代大名に脱皮してのけた。
- むろん下士からの恨みは相当なもの。警戒のため、外出するときは六人の影武者を伴ったという。
- 奥さんにもすごく怒られた。
- ついでに明治維新で活躍した土佐藩出身者の大半が下士出身なのは、このときや以後の差別による積年の恨みからあっさりと土佐藩や幕藩体制を見限ったから。
- まあ時代の流れである兵農分離に反対して「俺ら武士だし!」といいつつ半分野武士みたいな連中の群れなのである程度力技も必要だったのだが。一応上士に上がれるルートもあって、徹底して差別的だったわけではないのが一豊らしい。
- それを徹底させるため、旧長宗我部氏の家臣を相撲大会に招き、捕縛して磔に。人の良い男が、冷酷な一面を持つ近代大名に脱皮してのけた。
- 担当していた石垣作りが期限遅れになったとき、友人(の大名)達が人手や資材を出してくれた。最初は怒っていた秀吉も、「お前に千石加増する。それで借りた分は返しておけ」と言っただけだった。人に好かれる性格だったのは間違いない。
- ちなみに一番の手柄は何だったかというと、関が原前夜に「いやー、ここはみんな東軍で決まりっしょ」と意見統一して回ったこと。いるよね、こういう一見大した事なさそうに見えて調整がうまい政治家。
- 「鰹のたたき」の起源に関わっているという説あり。
- 食中毒予防のため生食禁止令を出したが、表面だけ焼いて「刺身じゃないよ」とすっとぼけられたそうな……
結城秀康
- 徳川家康の次男だが、なかなか認知されず、認知された後もなぜか嫌われ続けた。
- 当時は「畜生腹」と呼ばれ忌み嫌われた双子で生まれたため、家柄を重んじる家康が遠ざけたという説がある。
- 実際のところでは「母親の身分が低かったから」という考察がされている。弟の秀忠が徳川後継になったのも母親の身分の差によるらしい。
- 豊臣秀吉に人質に出されるが、秀吉は大変厚遇。偏諱を与えて猶子にした。
- このため、どっちかというと家康より秀吉に親近感を持っていた模様。
- 石田三成などとも親しかった。
- 後年、三成が七将に追われて家康のもとへ逃げ込んだ時、彼を佐和山まで護衛して行ったのが秀康。道中話がはずんで名残が尽きず、最後はわざわざ床几を据えさせて語り合ったらしい。
- このときの礼として三成が秀康に贈った刀が、現在国立博物館にある「石田正宗」
- 後年、三成が七将に追われて家康のもとへ逃げ込んだ時、彼を佐和山まで護衛して行ったのが秀康。道中話がはずんで名残が尽きず、最後はわざわざ床几を据えさせて語り合ったらしい。
- 青年になると、英傑の片鱗を覗かせ始める。
- 秀吉が秀康の器量を怖れて小大名の結城家の跡継ぎに押し込んだという説もあるが、勘繰り過ぎかも。結城家は石高は多くないが伝統ある名家だし。
- 久しぶりに会った家康が秀康の器量を怖れたというのはありそう。どう見ても秀忠より器が大きいので。
- この頃から、家康は妙に秀康の機嫌をとるようになる。
- 主人公キャラ、もとい英傑の証である専用武器まで所持。
- 養父結城晴朝から譲られた、天下三名槍のひとつ「御手杵」。全長210cm、槍身の長さ138cmという代物。
- 見るからに何事か偉業を為しそうだったが、周囲がよってたかってなだめすかして、秀康に才能を発揮する場を与えなかった。本人が気づいていたかどうかはともかく、ある意味ではむなしすぎる人生を歩んだまま早死にする。
- 強いて言えばとにかく不幸。
- 関ヶ原の時も上杉と佐竹への抑えで関東在留、活躍の場はなかった。
- 中途半端な身分を与えられての隠遁生活がよほど暇だったのか、剣術から鉄砲の扱いまで様々な兵法に精通していた。しかしその才能を披露することはなかったのは前述のとおり。
- 今でこそ地味な福井が徳川家の親藩だったのは彼のおかげ。
- 「ギギ」という魚に似てたからって幼名は「於義丸」。オヤジである家康にはこの風貌を嫌われたとか。
- 梅毒にかかり鼻がもげる。つけ鼻をしていたらしい。
- 梅毒になるようのもさることながら、つけ鼻とかで見た目を誤魔化そうとするところがやっぱりオヤジである家康に嫌われる。
- キレやすい性格だったらしく、まだ秀吉の人質だった少年期に乗馬の稽古中、馬で並走されたことに憤慨しその場で秀吉の家臣を斬り殺した話が有名。しかし秀吉は秀康の蛮行を「武士としてあっぱれ」と褒めちぎり、お咎めなしに終わった。
- 関所でトラブルを起こした秀康が「俺は将軍(秀忠)の兄だぞ!ふざけんな!」と怒り狂っていたところ、江戸の秀忠から「殺されたくなかったら通してやれ」という伝言が届き事なきを得る。ちなみにその際に秀康が怒った理由は、鉄砲を持ったまま関所を通ろうとして顔パスが効かなかったためである。
ら行
龍造寺隆信
- 肥前の熊。通称クマー。
- 最期はものの見事に釣られてしまった。
- かなり残虐な性格だったらしい。
- 子供の頃、祖父と父を主家に殺され、曽祖父に助けられて隣国に落ち延びた。このときの経験から人を信じない冷酷な性格になったらしい。
- ちなみに曽祖父の龍造寺家兼は、後に挙兵して子と孫の仇を討ち、隆信を当主として龍造寺家を再興する。御年93歳で。
- 柳河の蒲池氏に娘を嫁にやっていたが、どうしても柳河城が欲しくなり、義父の立場を利用して佐賀に呼び寄せてなぶり殺しにした。この一連の謀略で古くからの家臣が離反してしまい、大友や島津に寝返られる伏線となる。また娘は自分をダシに夫を殺された事を恨み続けて病死。
- 宣教師の記録だと「鷹揚」と、真逆の人物評なのが面白い。ちなみに隆信はキリスト教の布教を認めなかったので、ひいきされている可能性はほぼない。
- 子供の頃、祖父と父を主家に殺され、曽祖父に助けられて隣国に落ち延びた。このときの経験から人を信じない冷酷な性格になったらしい。
- ぶくぶく太っていたらしく、最期は戦場で包囲されても逃げることも反撃もできずにあっさりと討ち取られた。
- 単に深田にはまって身動きが取れなくなっただけという説もある。
- 家臣に嫌われていて、敵に囲まれそうになったときに見捨てられたあげく、死んでからもひどい扱いをされたらしい。
- 配下に龍造寺四天王と呼ばれる五人の勇将がいた。
六角義賢(承禎)
- 南近江を勢力圏をしていた大名。
- 初期の信長の野望では伊賀の戦国大名になっていたが、実際は近江南部。
- 初期の信長の野望の設定が変すぎ。安土城と同じ自治体の観音寺城が伊賀の城って?
- 基本一国一大名というゲームシステム上表現できんのだ。近江は浅井長政がおり、一方伊賀は大名がいないので事実上の影響力があった六角の領土ってことでつじつまを合わせてる。
- 初期の信長の野望の設定が変すぎ。安土城と同じ自治体の観音寺城が伊賀の城って?
- 初期の信長の野望では伊賀の戦国大名になっていたが、実際は近江南部。
- 信長にケチョンケチョンにのされたとか、部下の蒲生氏よりも勢力が弱かったとかでダメ大名扱いされがちだが、後に信長が大々的に導入した楽市を初めて設定したなど、決して無能ではない。
- 1598年まで生き延びた。
- 近江源氏佐々木氏の一族で、名門中の名門。
- 実際はその分家筋だという研究もあるらしいが、さて・・・。
わ行
渡辺守綱
- 徳川家康の部下で、徳川十六神将に数えられる。
- 通称は半蔵。そのため功績の一部を服部半蔵正成とごっちゃにされることがある。
- この人は「槍の半蔵」、服部正成は「鬼の半蔵」
和田惟政
- 元幕臣の織田家武将。
- その前は六角氏の配下だったとかなんとか。
- 甲賀郡出身のため、元は忍者だったとか言われることも。
関連項目
戦国武将 |
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