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==江戸時代の噂==
{{保護検討}}
#この時代のサムライの主な死因は、飲みすぎだった。
{{Pathnav|バカ人物志/日本}}
#*腎虚でもある。SEXのやりすぎということだな。
[[江戸時代]]三百藩の殿様のおバカな伝説、マヌケな素行、常軌を逸した噂話、迷言珍言などを集積する項目。
#*背中には人生を背負っていた。
==親藩==
#**これわかるヤツは年寄りね
===松平忠輝===
#**「指先」ではなく「片手に」短筒なのである。当時の日本人の短筒は、欧州人がみて「ウタマロ!」と讃えるほどのものであった。
#[[徳川家康|家康]]の六男。兄の秀康同様、家康からは嫌われた。
#*飲みすぎの原因になった酒は「唇」の「火の酒」。どんな酒だろう?
#*赤ん坊の頃醜かったからという。家康はどうも、子供の美醜で扱いを変える癖があったらしい。
#**心に花束を持っていたこともだれか思いだしてあげてください。
#*肖像画では美化されている。
#*醤油や味噌が今より高かったため、塩や梅干しを混ぜて調味料としても盛んに利用された。
#[[伊達政宗]]の娘婿。
#**味噌は自家製が多かった。手前味噌は自家製味噌の意。
#*政宗の長女の五郎八姫と結婚する。
#飲み会で酔っ払って殺し合いになることが多かった。
#*一時期、政宗が忠輝を担いで幕府転覆を謀っているのではないかという噂が流れた。そのため秀忠にも警戒された。
#*発端のパターンは自分と他人の意見のすれ違い、もしくは「や~いバ~カ、ア~ホ」「ンだとこの野郎!!」
#*付け家老の大久保長安も、何やらあれこれ画策していた気配がある。
#宮本武蔵が「五輪の書」を残すが、後年仏国クーベルタンにパクられる。これに立腹した吉川英治、井上雄彦らが宮本武蔵の名誉回復を図る。
#結局、大阪夏の陣のあとに改易される。しかしそれから長い長い余生を送り、なんと92歳まで長生きした。
#越後屋と近江屋と伊勢屋が暗躍。
#*「信長の野望」でクリアしないように続けていると、最後まで生き残る武将となることが多い。
#*三河屋は御用聞きに精を出す。
#*半ば強引に生かされた。
#*もちろん取引先は代官。
#隆慶一郎の小説では超人的な武勇を備えたスーパーヒーローみたいになっているが、あんまり真に受けないように。
#*お饅頭は黄金色に輝く平たい金属製。
#伊賀[[忍者]]と甲賀忍者も暗躍。
#*組織を抜ける「抜け忍」は御法度とされ,非人出身の抜け忍が追っ手と死闘を繰り広げる.その脇で農民が一揆を起こしたり,武士や町民が暗躍したり.時折「カムイ~」と叫ぶ謎の大男出現.
#**ちなみに{{Pokemon-link|三|ヌケニン}}は効果が抜群の技以外は当たらない。
#まじめに政治をするよりも、世直し殺人をしている人のほうが後世に語り継がれている
#*数少ない例外は大岡越前守忠相とか。
#旅行が大流行(特に[[伊勢市|伊勢]])。人気紀行作家のガイドブックが飛ぶように売れた。
#*借金を踏み倒したり、無一文で伊勢参りに出発した者が一財産築くこともあったという。まさにジャパニーズドリーム。
#*弥次喜多珍道中が大ヒット。続編も次々と書かれる。
#**人気が出たおかげで、弥次喜多のコンビは海外まで行かされる羽目になる。
#**ヒッチハイクでユーラシア大陸を横断したらしい。
#*第四次旅行ブーム。文化人(飛鳥・[[唐]]国)→上皇・貴族(平安・熊野)→戦国大名(戦国時代・[[京都市|京都]])と来てやっと庶民にブームが行き渡る。
#*旅行用のポータブルちょうちんが小田原で発明される。
#*でも、一人旅の途中で、労働力として人口の少ない藩に拉致られることもあった(実話)。
#*旅行者の多いことを開国後に見た外国人が驚いたらしい。
#歌舞伎、握り寿司、天麩羅、浄瑠璃、俳句、落語はこの時代の最先端ムーブメント。
#*その集大成として、後の世に「空中元禰チョップ」が生まれる。
#*狂言は[[室町時代|室町]]
#300年間続いた。
#*約270年。
#浦島太郎が帰ってくる。
#主食は[[寿司|すし]]。
#*「トロ?そんな脂身生で食えるか!」だった。
#**赤身だけ食ってトロは捨てていたらしい。なんとももったいないことで。
#ファストフードは[[ソバ|そば]]。
#*さっとすすってさっと店を出る手っ取り早さが江戸っ子にバカウケ。空前のブームに。
#**ファストフードなそばは店に入らない。店先の縁台で食べる。そば屋の座敷はどっちかというと昼からOKの飲み屋
#**そして杉浦日向子さんが常連。
#*天麩羅や江戸前寿司も同様。
#**回転寿司は原点回帰だと思う。
#*うなぎ屋は注文してから出てくるのが遅いので、個室喫茶扱いだった模様。
#*支払いの時には、「いま、何時(なんどき)だい?」と聞くこと
#*うまくいけば1文節約できる。
#倹約をすれば何でもOKと信じ込み、やたら倹約令を出して農村を消耗させる
#帯をぐるぐる回して楽しむのが通の遊び方だった。
#*正しくは、若い美形の女の帯をぐるぐる回して楽しむのが高級官僚の遊び方だった。
#*「よいではないか、よいではないか」「あ~れ~」
#**『魚心あれば水心あり』という諺が一般に知られるようになったのはこの頃から。
#*普通の帯だとうまくいかないという噂もあるが・・・やったことないからわかんねぇや。
#なんでも「ええじゃないか」ですませようとする。
#江戸時代中期までの標準語は関西弁(正確には京都弁)だった。
#*初期の頃は江戸っ子も東国なまり関西弁を話していた。
#農業は田んぼしかない。
#*綿花や紅花、さらには葡萄なんかも密かに栽培されてた。
#*特産品植え付けを奨励して徴税するのは、諸藩の手軽な財政好転策であった。薩摩の砂糖と長州の蝋は、幕末の軍事行動を支える予算を捻出した。
#**財源がなければ酒と煙草に重税をかける冴えたやりかたのハシリである。鬼だ…
#長い顎髭の爺さん+金魚の糞2人+色気ばばあ+うっかりやさんの珍道中
#*金魚の糞2人=「助兵衛」と「沢庵」
#*馬鹿だなぁ。正しくは「飛車」と「角」なので受験生は間違えないように。テストに出るよ。
#毎週、正義を名乗る謎の人物達に悪人が殺されまくる。
#*将軍様直々に成敗をしまくっていたとの噂も。
#**サンバも歌います。
#***パラパラも踊ります。
#***燃えよドラゴンズだって歌います。
#**ラメ入りのド派手な着物で目立ちまくります。
#**エコーも効いてます。
#**でもその悪人たちの中に毎週おんなじ人物がいるのは秘密だ。
#隠居した元副将軍は越後のちりめん問屋を名乗った。
#*「越後のちりめん問屋」と名乗る爺さんが全国を旅して回っていた
#**でも、越後でそれを名乗るとやばいので、越後に来た場合のみ「丹後のちりめん問屋」と言う。
#*政治に関われるはずの老人が、旅先で目先の悪事を叩きまくる。
#*名前は「ニート拷問」または「ニート訪問」
#*現在は元ボディガードが5代目を襲名している。
#*実は江戸幕府には副将軍という役職はなかったのだが・・・触れちゃダメかね。
#天草四郎時貞が死んだり生き返ったりを繰り返す。
#*酒飲みの侍やアイヌの美少女姉妹、アメリカ人の忍者などがそれを討伐しに行った。
#**「大自然のぉ・・・(溜め)・・・お仕置きよっ!」
#*「トーキーオ!」(ネタ分かる人いる?)
#*幕府からも隻眼の剣士や有名忍者が派遣された。
#カブキロックスが「おエロ」でデビュー
#グレートカブキもデビュー
#*グレート義太夫もデビュー
#ナムコ、トロマ名義で「カブキマン」の撮影を開始
#当時世界最大の都市だったが申請を怠ったためギネスには採用されなかった
#元素リサイクルを導入し300年にわたって燐やカリウムなど資源の循環に努めた
#*このネタちょっと恐い…。
#*実際のところ、人件費が安くて肥料用ウ○コの回収業が十分にペイできたから
#**なお当時のヨーロッパの大都市では排泄物が道路に捨てられ大変臭かったらしい。
#「アイデア対決からくりコンテスト」開催(後のロボコン)
#松尾芭蕉・おくのほそみち
#*代表作:松島や ああ松島や 松島や
#*松島や 昔はトモ子 今菜々子
#**松島や 昔は菜々子 今尚美(オロセ)
#***五月雨を 集めて早し (曽良にひっぱたかれ)べにましこっ
#****一家(ひとつや)に 遊女もねたり…曽良「オイおっさん!ったくもう。イイトシして夜這いすんじゃねぃ!」
#*****道中記を出版。内容は「今日はどこそこのお寺で会をやった。疲れた」「今夜の宿は馬小屋のすぐそば。夜中にいななきやがってうるせぇうるせぇ」
#*一説によると芭蕉は公儀隠密だったらしい。
#18世紀終盤から19世紀初頭にかけて、日本でも将軍自ら喜び組を作っていた。
#*異議あり!ちゃんと「大奥」といいなさい!
#**ちなみに「奥さん」というのはここからきている。
#**でもなぜか女房のことを「室」といわない。
#*体位や相手が指定され、プレイに参加しない女中も同衾し見張っていたのでハーレムにはほど遠かった。
#この頃の学者達は五次方程式なんかをマスターしていた。
#*庶民も数学の教養があったようですな、神社へ算額奉納したりしている。とある算額の設問(十二歳ぐらいの出題者)に大学の数学の教授が「ちょっと私にもわかりません」と言わしめるものも有ったらしい。
#* 微分積分もそれなりに研究されていたらしい。
#**もっとも、西洋の数学が天文学・物理学・工学・統計学・経済学その他多方面に応用されて近代文化に長足の進歩を与えたのに対し、日本の江戸時代の数学は、単にやたらにひねくった問題の案出と解法に終始していて、社会の進歩に全く無関心だったと言えます。
#***全くということはない。和算の学者から本多利明、最上徳内、麻田剛立、高橋至時、伊能忠敬等々輩出している。
#**受験算数に苦しんだ諸君は和算家を恨みなさい。
#綱吉イチオシは意外にも「ビタワン」だった。
#*「ぺディグリー・チャム」じゃないの!?。
#47人のテロリストが吉良邸にて家人・使用人をことごとく虐殺するという「忠臣蔵殺人事件」発生。
#*で、それを題材にした演劇とかが後世で大人気に。
#*史実通りに忠実に再現するとえらく地味になるらしい。
#八人の里見さんが現れる。
#*本懐をとげるのに30年近くかかったので、忘れた人が大多数。
#戦で活躍した人々が突如お払い箱に。大失業時代到来。
#印刷技術が飛躍的に向上し、貸本業も商売として成功。
#*その技術革新の元は、エロ本をいかに綺麗に大量につくれるかというリビドー。いつの時代のメディアも、エロを制すものは世界を制す(VHSビデオとか)。
#**インターネットの普及にもエロの多大な尽力があった。
#***ということで「エロ幕府」も出来ました。
#**お上に認められた出版物より、無許可のアングラ出版(もちろんエロ)のほうが色数も絵柄も上等だったほど。
#***って言うか公認の出版物は色数その他が厳しく規制されていた。存在自体がご法度な春画などは規制もへったくれも'''そんなの関係ねぇ!'''ってこと。
#野菜中心蔵が開発される。
#佐藤信淵という人が「混同秘策」という本を書いた。馬乳酒ばかり飲んでるモンゴル人に日本酒を飲ませ懐柔し、力を合わせて中国に攻め込もうという素晴らしい内容だったらしい。
#*この政策(?)は、まわりまわって第二次大戦後の日本に対して実施された。飲み食いさせたのは肉と牛乳で、戦う相手は共産主義だったが。
#バブル景気&金権腐敗の時代と倹約不況&恐怖政治の時代が何度も繰り返された。
#大久保長安、徳川政権転覆のため暗躍。伊達政宗や松平忠輝、全国の切支丹らをも巻き込む大陰謀を企むが失敗。日本国民総キリスト教化が挫折する。
#*所詮は山師(金山奉行)のすることである。
#皺だらけのおじい様が死体をバラバラに。
#倹約好きの狸オヤジが天下を取ったせいで、倹約が日本の文化になってしまった。
#妻運の悪い狸オヤジが天下を取ったせいで、女の地位が窮屈になってしまった。
#*後家好みで相手がウマくてかつこちらを先に気持ちよくさせてくれることが最優先のドエロジジイである。
#助さんが出世するといつのまにかコーモンになれるという平等主義の時代であった。
#銭形平次にならってエドにB型平次が登場する。さらに山形平次までも。
#この時代の犯罪者は島流しでミエノ島やサイパン島果てはランゲルハンス島に流された。
#*インスリン製造の強制労働が待っていた。
#平賀源内がアスベストを開発し使用されるようになる。問題になったのは2005年頃から。
#*昔から有毒性は指摘されてたんだが、下級労働者はもともと短命なので放置されてた。人間50年~。
#小林よしのりによると一番平和な時代だったらしい。
#*でも本当は身分制度があるし飢饉も起きたし権利という言葉が無かった、はっきり行って革新性の無い怠惰な時代。
#*一揆はちょこちょこ起こったが大規模な市民革命は起こらなかった、この時代から日本人はお上の言いなりだった。
#*つっても、ヨーロッパと違って割と農民の言い分ってお上は聞いてたしな。その気になれば旗本株買って農民でも武士になれたし、案外流動性のある社会。
#*医者と道場主にはどの身分だろうがなれた。
#末期には「最近『聞こゆる』を『聞こえる』とか言ってる馬鹿が増えた。美しさの欠片も無い。」とか言ってたらしい。
#江戸時代は毒男だらけ。家を継いで結婚できるのは長男のみで、次男以下はもしもの時のためのストック。男子のいない他家に養子にでも出されない限り結婚できない。これは武士も農民も同じ。
#この時代はフリーターが多かった。でもそれでもちゃんと生活ができていた。
#*毎日働くのは公務員(武士)だけだったらしい。
#**それでも武士(特に将軍直属の旗本)は余ってしょうがなかったので、週休三日制にした。
#徳川綱吉が動物保護団体の会長に就任する。
#*天下の悪法と評価されるが、風紀と衛生面は向上したという。(試し切りで犬を殺す奴が多く、犬の糞どころか人糞も転がっていたので)
#蔦屋(ツタヤ)と言う本屋があった。今の[[TSUTAYA]]とは別。
#「改革」が3度行われたが、いずれも経済学を無視していたため失敗に終わる。
#*しかも後の「改革」になればなるほど恐怖政治となっていった。
#*訂正:享保の改革だけはちゃんと経済学に則った政策をしていて、経済の好転と幕府財政の立て直しを実現させた。
#**吉宗は倹約をしなければ物価が上がり財政も破綻すること、つまりインフレと財政赤字は理解していた。
#**しかし、幕府ばかりか庶民まで倹約を過度に徹底させると景気が悪化すること、すなわちデフレは知らなかった。
#**それどころか景気が悪化するとさらなる倹約と支出減を庶民に厳しく命じたりしていた。
#*経済学に当たる学問は江戸時代からあり、改革を行う当人たちも知識として知ってはいたようなのだが、実施はしなかったし、おそらく出来なかったと思う。
#**もしそうした政策、例えば当時よく行われた特産品の育成や専売を幕府がやってしまったら、他藩の同業者を圧迫することになり、社会公共の利益に反する。また、幕府の組織規模では経済に与える影響が大きすぎ、その物産の価格も下がってしまい苦労する割に利益は生まれない。
#**これを回避するには外国に売るしかないが、そうすれば伝統的な鎖国政策、ひいては幕藩体制自体の否定に繋がってしまう。
#近松門左衛門が庶民の間に心中を流行らし、人口減少。
#*著書の完全心中マニュアルは禁書になるが、アングラで流通し続けた影のベストセラー。
#平賀源内が売れないウナギ屋を流行らせるため、風呂屋に売ることを提案。
#*そしてウナギ入り水風呂を用意した風呂屋の店先に「本日丑の日」と張り紙をした。
#殺人事件は結構多い。だが、奉行所がサボリ、かつ下手に表ざたになれば連座があるので、犯人が判明していれば町名主の仲介で示談で済ませていた(実話)。
#*不倫妻を殺しても殺人罪にはならない(実話)
#自分の出世と政敵追い落としのために蘭学者達に馬鹿げた罪をでっちあげて大弾圧を加えたバカ(幕)臣がいる。
#*そのバカ臣は某遊び人を奉行から左遷させた。
#**そして数年後様々な不正や汚職がばれ、幽閉された。
#***その幽閉中に明治維新を迎えた。
#*弾圧された二人の有名な蘭学者は一人は故郷の実家でハラキリ。もう一人は牢名主になり、その後脱獄し、四国まで逃亡した。ほとぼりがさめて江戸に戻ったすぐに捕り手に撲殺された。
#*バカ臣の政敵はお台場や反射炉、西洋船を建造した。
#**そして彼は過労で死んだ。最後の言葉は「馬だーっ!」
#オランダ人のふりして日本に入国したスウェーデン人がいた。
#*その50年後同じように日本に入国し、出島の外で医学を教えたドイツ人がいた。
#**そのドイツ人は密告によって生徒もろとも弾圧され、国外追放された。
#***その後密告した奴は事件の張本人と批難され、役職をクビになった。
#*屋久島に上陸し、江戸で生涯を終えたイタリア人宣教師がいる。
#*珍しく江戸と長崎以外で2年間滞在したロシア人将校がいた。
#元禄の頃、ロシアの都ペテルブルクでロシア人に日本語を教えていた大阪の商人(番頭)がいた。
#*その商人はピョートル大帝に謁見した。
#**80年後伊勢の商人が女帝エカチェリーナ2世に謁見した。
#***その商人はカムチャツカで後にスエズ運河を作ったレセップスのおじさんに会ったことがある。
#*同じころ、フランスのルイ14世は醤油を絶賛していた。
#日本はナポレオン戦争のとばっちりを受けたことがある。
#*ナポレオンのロシア遠征のニュースをカムチャツカでしかもリアルタイムで聞いた松前の商人がいた。
#*ナポレオン戦争の頃オランダの国旗が翻っていたのは出島だけだった。
#**その時の商館長は20年間近く出島で暮らした。
#平賀源内が未来から来た悪のアンドロイドに連れ去られかけた。
#*しかし正義のアンドロイド2名によって助けられる。
#百地物知介が世界初のからくり巨大ロボを開発した。
#*一説によるとロボットではなく宇宙人らしい。


==幕末の噂==
===徳川頼宣===
#黒い船に乗ってペルーが来日。
#親藩、それも将軍を扶翼する御三家でありながら幕府転覆を目論んでいたらしい不逞者。
#*「ペリー」だろ。ペルーはフジモリだ。
#時代劇や小説とかだと大抵悪役。
#*え?フジモリってアメリカ人じゃないの?
#由井正雪の乱の黒幕だったという噂もある。
#**アメリカ人ではないらしい。ただ、詳しいことはわかんない。出生届をねつ造した疑惑もあるし。
#紀州和歌山藩祖で、南竜公と呼ばれた。南海道の竜。
#*当時の発音は“ペルリ”
#**オランダ語読み。当時の日本は、ヨーロッパの言葉と言えばオランダだったから。
#*「かぁいこくしてくださぁいよ~」と迫る。ついでにミキコにピアノレッスンもして帰る。
#*レッスンに使ったピアノはタケモトピアノで購入した中古品。
#*ピアノは当然静岡で造られたものである。
#*ペリーさんは日本の文化が思った以上に高かった事に驚いたらしい。
#*ヨットを所有していることを利用したナンパ、この時代に始まる。
#*まさか、当時の人、特に武家さんは日本が黒船の国の属国になるとは思っていなかっただろう。
#**その前に一回刃を交えてはいるが。
#*高級緑茶「上喜撰」発売。たった4杯飲んだだけで寝らんなくなる。
#*クジラ追っかけていてたまたま来日したらしい。大統領のサインが入った書状はどうせ読めないだろうと適当に記載。
#*当時の人々は脅威でなく興味を感じており、沿岸部には野次馬が押しかけて大変な盛況だったらしい。
#**日本のミーハーぶりはこの辺りから既に始まっていたということである。
#彦根のニートが紆余曲折を経て国政の最高責任者に。「僕はえらいんだ、言うこと聞かない奴はこうしてやる!」と大粛清の嵐。
#*しかしやっぱりニート。物事のやり方進め方知らんから、やることなすこと皆えげつなさ過ぎ。大雪の朝、出勤途中でアコーローシならぬミトローシに「てめぇこの野郎!ふざけた真似してんじゃねぇぞ!」と殺された。
#*山口県出身の塾経営者を処刑したのはある意味偉業。キ印なこの人が生きていたらトンでもない事態になった可能性大。
#「新撰組」と名乗るあやしい集団がリクルート活動していた。仕事は人殺し。
#*一度入会すると、脱会できないことは秘密であった。
#*脱走した者の、その後の姿を見た者はいない・・・。
#**斬った浪士の数より処分した隊員の数が多いのはナイショだ。
#*生き残った奴も一応数名いる。
#**その生き残った奴は、コンビニの店長。
#**近藤とかにちゃんと許可を取って、辞めたのもいる。理由は、隊内のホモにストーカーされたから(マジらしい)。
#**追い出された奴もいる。
#*合言葉は「悪・即・斬」
#**主なメンバーは、ストーカーゴリラ・末期的マヨラー・サディスティック星の王子・ミントン男。
#*荒木飛呂彦も組員だった。彼が吸血鬼になったのはこの頃だといわれている。
#*指定暴力団扱いを受けており暴対法と破防法が適用された。
#*このように現代にいたら真っ先に指定暴力団どころかマフィア扱いされて警察とドンパチをやるであろう組織だが、現代ではファンは絶えず、時には尊敬を集める…いや、私も「誠に生きる男道」とかはカッコイイと思うけどさ。
#幕府が滅亡したのは「さつまいも」と「長州力(小力かも)」のせいである。
#*坂本金八も忘れるな。
#*勝新もやろ?
#*江頭2:50は?(すまん江藤だった)
#*「おくりびと」でアカデミー賞を受賞した15代将軍がチキンだったから。
#*失脚したり復活したりした若大将(の先祖)を忘れるな。
#「ええじゃないか」がブームに。
#*流行語大賞にもノミネートされたとか、されなかったとか
#海援隊がデビュー
#*あ~んたがタイショッ♪
#KO大学創設。
#ジャパニース・スモウレスラーが世界に知れ渡る。
#国費留学の予定が騙されて奴隷にされたとか、その一人は初代総理。
#数十年前国外追放されていた[[wikipedia:ja:フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト|ドイツ人]]が帰ってきた。
#[[wikipedia:ja:イリオス|おとぎ話の国]]を発掘した男が来日したことがある。
#第16代合衆国大統領と会見した播州人がいた。
#頭巾で顔を隠した剣士が大活躍。
#現代から高校生や脳外科医がタイムスリップしてきたらしい。


==関連項目==
===徳川頼房===
*[[征夷大将軍/江戸時代|将軍の噂]]
#義直、頼宣と違い家光とは仲が良かった。何故かと言うと、他の二人と違って、家光の言うなりに動くパシリだったからである。
#夜な夜な家光と共に城を抜け出して江戸の街を徘徊。夜遊びに耽っていた。


{{日本史}}
===松平忠直===
[[category:日本史|えと]]
#結城秀康の息子。
[[Category:東京|えと]]
#親父が家康の長子(もっと上の信康は早死にしたので)だったのに跡を継げず、おかげで秀忠の家来みたいな扱いになったことに腹を立てて大荒れ。
[[Category:江戸時代|*]]
#大阪夏の陣では真田幸村を討ち取る大殊勲を立てたのに、そのわりに褒賞が少なく、またもや大荒れ。
#ついに隠居を命ぜられて豊後に流される。まだ28歳という若さだったんだが。
 
===保科正之===
#頼房同様、家光のパシリ。
#「何があっても会津藩は徳川宗家への忠勤に励むこと」と家訓を残した所為で会津藩は後年悲惨な事に。
#2代将軍[[征夷大将軍/江戸時代#徳川秀忠|徳川秀忠]]の庶子。恐妻家の秀忠が生涯2度だけした浮気の、たった1度の大当たり。
#*正之に対する幕臣のコメント。「2代様はよくぞ浮気をしてくださった!」
 
===徳川綱條===
#親父の水戸黄門と一緒に水戸藩の財政を悪化させた人。
#*厳密には実父ではなく養父。綱條は光圀の兄・松平頼重の子。
 
===徳川宗春===
#大浪費家で尾張家の財政を圧迫させた一方、風俗王国名古屋の基礎を築いた殿様として、[[栄_(名古屋市)|栄]]・錦一帯では崇拝されている。
#*今思うと市井にお金を流通させるいわば景気刺激策とも取れるが。
#八代将軍になる目もなくはなかったとか。それと関係あるのかどうか、紀州出身の吉宗とは仲が悪かったらしい。吉宗は緊縮財政・重農主義だし。
#奇抜なファッションでも有名だった。
#没後に幕府からお咎めが来る恐れがあったため関連史料がかなり処分されている。
#墓は名古屋大空襲で焼夷弾の直撃を受け少し焦げている。
 
===松平頼恭===
#平賀源内という天才を臣下に持っておきながら、それに気づかずあっさりのがしてしまったバカ殿。
#*長崎に留学させ、さらに江戸に送ったところ致仕されてしまった。ぶちきれた頼恭は、源内を終身仕官お構いにしてしまう。
#もっとも、学問はよくできたらしい。ひとかどの本草学者でもあり、殖産興業に務めた。大名としては一応名君の部類には入るようだ。
#*それだからかえって源内とうまく行かなかったという噂もある。
 
===松平定信===
#地方自治体でうまくやれたからと、国政に打って出て、極端な倹約を推進して景気をぶちこわしたバカ殿。
#*前任者の田沼意次が放漫財政すぎたので、ある程度の緊縮は仕方がなかったが、それにしても規制のやりすぎで、都市部は火が消えたようになってしまった。
#*当然下々からの評判は悪く、「白河の水の清きに住みかねて元の濁りの田沼恋しき」などと悪口を言われた。
#*その辺、紀州藩から出てって同じように長期不況を招いた徳川吉宗と共通する(定信も模範としていた)。こっちは貨幣改革やったからあんま非難されないが。
#政治姿勢が、左翼知識人っぽい。
#*やたらと自分の名声を気にし、部下に自分を美化した本をたくさん書かせて広める事で、自己のイメージアップに腐心した。
#**近年では定信を批判する意見も珍しくないが、それでも何となく清いイメージがあるのは、上記の川柳とともに、豊富な定信顕彰本の内容に歴史家たちも無意識のうちに影響されてしまうためだろう。
#*老中時代の政策の特色は、「幕府の権力強化」という一点に尽きる。幕府のトップとしてはある意味正しい姿勢だろうが、日本全体のことを考えるという視点に欠ける。
#**出版物の統制もその一環。このお陰で著作権がある程度保護され、[[作家伝/日本#滝沢馬琴|滝沢馬琴]]のような専業作家を生む契機にもなったが、定信は別に戯作者を保護するために法律を出したわけではない。
#*地方行政は成功したように言われるが、実際はあまり成果が上がらず、藩財政もあまり好転しなかった。
#**当時の記録類では、下級藩士や民衆は面従腹背で、定信の息子すら評判と実際は違うと愚痴をこぼすほど。
#**その一方で、自分のために豪華な大名庭園を4つも造っている。庶民も入園可能など先進的な面もあり、当時の大名は庭園に凝るのがステータスだったから仕方がない面もあるが、部下の俸禄は削っておいて自分の庭園を作るのはどうなんだろう・・・。
#*晩年まで改革に邁進するが結局あまり成功せず、最後には老中時代の人脈に物をいわせ、豊かな[[桑名市|桑名藩]]への替地を強引に実現させる。
#**自藩士たちは豊かで中央に近い温暖な土地に行けると大喜びだったが、変えられた方からすればたまったもんじゃない。
#**これで財政が好転すればまだ救いがあるが、運動資金を賄うために作った膨大な借金のせいで、明治まで苦しい財政が続いた。意味ねえ!
#**しかも京都に近くなり、あの定信の藩ということ幕府に目をつけられ、幕末には会津藩とともに京都の警備をするハメになる。
#**やった政策が無意味どころかマイナスになり、関係ない人々にも多大な迷惑をかける。政治家失格どころか人としてどうなのってレベル。
#*『寛政重修諸家譜』や『集古十種』を編纂させるなど、文化人としては一見まともなのも左翼臭い。
#**老中引退後、大田南畝など寛政の改革で迷惑を被った知識人たちと交流し、自分の絵巻物の詞書を書かせたりする。
#***私人と公人としての顔を使い分けたと言えるかもしれないが、単に無神経なのか、文化的に名声ある人々と交流することで自己の評判を高めようとしたのか、正直解釈に困る。
#幕府中枢入りのため田沼意次にワイロを贈ったことがある。
#12チャンネルの某時代劇では隠密同心を統率する立場で、いかにも善玉という昭和の設定であったが、平成も27年になるとこちらも再評価されたのか、逆に悪役に成り下がって最後は成敗されるという「物語のコンセプト」を完全破壊する結末となった。田沼の再評価を反映しての事なのだろうか。
 
==譜代==
===本多正純===
#家康・秀忠の謀臣として活躍したので、当然頭は良かったが、やりすぎて改易されるはめに。「秀才バカ」とはまさに彼のことであろう。
#親父の正信が口を酸っぱくして、「謀臣はただでさえ人に嫌われるんだから、大きな封地なんか絶対貰うんじゃないぞ」と教え諭していたのに、宇都宮藩で15万石も貰ってしまって、案の定ヒンシュクを買った。
#*「宇都宮釣り天井事件」は捏造だったようだが、その程度の罠を仕掛けられても仕方のない立場だということを理解していなかった。やはりバカである。
#話の枝葉末節にこだわって、要点に目が行っていない逸話が複数残っている。やっぱり秀才バカ。
#父の正信とともに、家康の側近として活躍した。
#*しかし、秀忠からは「必要以上に権力を振りかざして威張り散らしまくる鬱陶しい男」などと言われ、散々な扱いをされることに…。
 
===水野勝俊===
#武士の歴史の中で、この人にまさるバカは居ないであろうというほどのバカ。
#*福山城下が燃えてしまうと、町人に気を使って、彼らの負担が増えないように普請の速度を遅らせろと言ったり、鷹師が藩内の畑を荒らしたら百姓がソイツを処罰しろとか、度重なる飢饉の折には減税&貸付をやったりという名君ではある。
#**結果、財政難になるも今度は自分たちの服装を質素なものとしたりするなどしたが、そんなことするくらいなら沼名前神社の改修その他、領内の寺社への寄進をしないほうが……
#**こんな人物だけど、[[戦国武将/ま~わ行#水野勝成|パパ]]が破天荒すぎて有名なあまり、そのことを、人々に認知されていない辺りが、悲しすぎてバカバカしくなってくる。
#上記の通りのあまりの名君ぶりに感動して、勝俊が死んだ時、一緒に腹切って殉死したバカも居る。
#*しかしこのバカ主従が地元で取立ててよく扱われるわけではない辺りが、ますます持ってバカげている。
#**水野家が5代かそこらで途絶えたのがその原因だが、なんというか……
#島原の乱の折、[[九州の城#原城|原城]]内へ、一番乗りを果たしている。
#*父親は大阪の陣の折に大阪城へ一番乗りを果たしているが、親子揃ってあんたのやるべきことはそれではなかろうと言いたくなってくる。
#**おまけに父親の大坂城一番乗りは捏造宣伝。幕府認定公式一番乗りは越前松平軍。
#***それが悔しい余り、水野の家伝では大坂の陣の越前松平を捏造disりまくり。
#ホントは父親が嫌いだった(?)
#*父親が藩主の間は、自分は[[中国地方の城#福山城|城]]から10kmほど離れた[[鞆の浦|港町]]に滞在し続けたらしい。
#*藩主の座を禅譲してもらうと、今度は隠居したはずの父親が藩政に口出しするようになり、口喧嘩になることが度々あったとか。
 
===土井利勝===
#初めて大老になった人。
#「ヒゲは伸ばすより剃る方が紳士的」という考えを浸透させた。
#顔つきが似ている、徳川政権下で異常なほど重用され、栄達した、という二つの理由だけで家康の落胤扱いされた気の毒な人。
#*前述のヒゲ剃りも、あんまり家康に似てると言われたので、イメチェンしようとしたのがきっかけらしい。
#*家康の母の兄、水野信元の子なので、多少似ていてもおかしくはない。
#柔和で誠実なイメージがあるが、本多正純を追い落とした黒幕ではないかと言われていたり黒い噂も結構ある。人間誰しもが持つ二面性というやつである。
#家光は親父の頃からの「負の遺産」である利勝を疎み謀反の濡れ衣を着せ弟忠長と一緒に始末しようと画策したが、一枚上手の利勝には上手い事逃げられてしまった。
#*実は利勝は忠長の傅人で、利勝の妹が乳母をしていた。春日局が戦ったのは、本当は秀忠夫婦ではなく利勝兄妹だったらしい。
#現実に桃源郷を作ろうとして所領の古河で桃を沢山栽培した。
#「人は見た目が9割」をわかりやすい言葉で説明した。
#*いわく、「どれだけ優れた者でも、玄関先(第一印象)で終わっては意味がなかろう? 特に若者は心に留めよ」
 
===柳沢吉保===
#綱吉の寵臣。
#*一生を綱吉に捧げ尽くし、綱吉の好みを知り尽くして先手先手を打ったために、大のお気に入りになっていた。
#*ただし、綱吉を諫めたりすることはできず、綱吉が暴走すると一緒になって暴走していたイエスマン。本当の忠臣とは言えないかも。
#*あまりに厚遇されたため「実は綱吉の御落胤ではないか」という俗説もある。
#赤穂事件の裁きで、ワイロを貰って吉良上野介に有利な判決を出したというのは濡れ衣。吉保にそんな権限は無かった。
 
===松平忠充===
#伊勢長島藩主。なかなかの暴君だった。
#*体調不良を理由に隠居した父・康尚の後を継ぐが家督を継いでからわずか2年後、些細な事で家臣3人を追放する等、早くも暴君としての片鱗を見せ始める。
#上記の事件の15年後には重臣3人を切腹させるがそれだけでは飽き足らず、何の関係もない重臣の子供達まで死刑にするという無茶をやってのける。
#*ただ、重臣の遺族達が幕府に訴えた事で事件が発覚、数日後に改易される。
#**しかし忠充の生家である久松松平家の祖、松平康元は家康の異父弟。要するに忠充は将軍家の親族にあたるため、忠充の四男と五男が旗本として家の存続を許された。
 
===松平忠章===
#上記の松平忠充の長男。しかし後述の事情により家督は継いでいないため、厳密には「殿様」ではない。
#暴君だった父とは対照的に、かなり優秀な人物だったらしい。ただ、後述の事件のせいで、個人的には「ダメ親父に振り回された可哀相な息子」というイメージが強い。
#「寝ぼけて切腹」という前代未聞の事件を起こす。
#*ある日城内の一室でうたた寝をしていた所、寝ぼけて自分の刀で自分の腹を刺してしまう。父との関係悪化によってストレスが溜まっていたため、無意識の内にこのようなわけの分からない行動に出てしまったと推測される。
#**駆け付けた家臣達には「大丈夫だから!俺、正気だから!(意訳)」と伝えたらしい。
#*幸い傷は浅かったため大事には至らなかったが、この「寝ぼけて切腹事件」が引き金となり廃嫡。廃嫡されたという説と自ら廃嫡を申し出たという説がある。
 
===水野忠邦===
#いわゆる江戸の三大改革「天保の改革」を主導した老中。しかし、あまりの現実と乖離した政策で、庶民はおろか大名や旗本まで怨嗟を一手に受けた現実を直視できなかったよく言えば頑固者で残念な人…というよりは、江戸時代屈指の極悪大名といって過言でない。
#*奢侈を禁止したのはいいものの、大奥の強烈な反対に遭い、大奥だけは除外したという。つまり弱い者いぢめ大好き。サディストの気が垣間見える。
#水野が老中首座にまで立身できたのは、老害…もとい、大御所の徳川家斉が亡くなったお蔭。ただし、ご多分に漏れず賄賂を贈り続けたことで唐津藩から遠州・浜松藩主に立身が出来たという。
#*唐津藩主時代は、賄賂のために年貢の取り立てが厳しかったという話もあり、唐津の領民からはすこぶる評判は悪かったらしい。
#*唐津藩からは出世コースがないということで、実石25万石ほどの唐津藩を捨て浜松藩15万石への減封を行ってまでキャリア確保。諌死して止めようとした老中などガン無視という出世キチガイ。
#*案の定、封じられた浜松藩でも出世のための御用金取立て、倹約のために特産物であった野菜の栽培や藩の行事を禁止し、米の栽培と年貢の取り立てと領民をここでもいぢめまくった。やってることがリアルに時代劇の悪代官そのもので、浜松藩の暗黒の時代である。ここでの水野の振る舞いが後述の転封時の暴動に発展する。
#家斉死去後は、将軍徳川家慶の信を得て、天保の改革を推進した。その手先となったのは、遠山景元、矢部定謙、岡本正成、鳥居耀蔵、渋川敬直、後藤三右衛門らであった。このうち、鳥居・渋川・後藤を「水野の三バカ」…もとい「水野の三羽烏」と呼ばれ、水野の手先となって改革実現のために暗躍した。
#*つまりは、遠山の金さんも最初は悪の手先であった。
#*こいつらの中でも、鳥居耀蔵は「妖怪」(耀蔵の「耀」+位階の「甲斐守」の造語)と呼ばれるほど、江戸のゲシュタポとしての役目を果たし、水野同様に庶民に蛇蝎の如く嫌われた。渋川敬直と共に蛮社の獄を起こした張本人でもある。
#しかしながら因果応報。庶民を綱紀粛正(寄席の閉鎖や歌舞伎の弾圧など)、奢侈禁止でいぢめたこともともかく、人返し令・株仲間の解散・貨幣の乱造など現実を見られない悪政を行ったのに加え、禁断の上知令(大名・旗本領地の幕領化)を企て、大名や旗本まで総スカンを食い、挙句の果てには腹心の鳥居まで寝返られ、老中失脚。
#*まあ「悪政」というよりは、やり方が過激すぎて、出した政策の殆ど実績を上げることができなかった。
#*老中を失脚した際は、暴徒化した庶民に屋敷を襲撃された。そりゃ庶民の傷口に塩を塗るような綱紀粛正策じゃ… その一方で遠山は上手く庶民側に付いて行き過ぎた綱紀粛正策を牽制し、今日の「遠山の金さん」のイメージが出来た。勿論、水野と鳥居から一時冷や飯を食わされている。
#そんなボロカスのように捨てられた水野も再起のチャンスが到来。代わって老中首座になった土井利位が将軍の不興を買って更迭。代わって水野の再登板となったが、既に水野はやる気をなくしていて、いつも御用部屋でボーッとしていたといわれ、その後病気を理由に欠勤が相次ぐようになる。
#*その割には裏切りは絶対に許さない質で、自らを裏切った鳥居に対して報復をしているという。人間のクズの本領発揮。
#老中首座に復帰した水野であったが精彩を欠いた揚句、部下である鳥居や後藤の改革当時の悪業が暴露されて、減転封・強制隠居・謹慎の沙汰が下る。仲間の鳥居・渋川は蟄居、後藤は斬首。悪の枢軸はこれで崩壊した。水野自身は封じられた山形で58歳で死去。
#*転封で山形へ移る際、浜松の領民から借りた金を返さずに逃亡し、領民から一揆を起こされている。なんなんだこのオッサン。貧乏くじを引いたのが後任の元は浜松藩主だった井上氏(この時の藩主は井上正春)。28年ぶりの浜松復帰の初仕事は水野家と領民の仲裁に奔走することであった。
#*一方の鳥居は丸亀藩にお預けになり監禁生活となったが、何と明治維新を迎えることができ、東京に戻った明治6年に78歳で死去。悪役らしい最期ということではなかった。
 
===井伊直弼===
#幕末に大老に就任し、独断でいろいろ進めた揚げ句に暗殺された。
#*やったことが良かったとか悪かったとかいう以前に、独裁的であったのが殺された原因。
#**いろんな問題が急を要することばかりで、衆議に諮っていてはらちがあかないと腹をくくり、覚悟の上で独裁をおこなっていたようだが、日本人の独裁者嫌いぶりを甘く見ていた。
#**井伊直弼はローマ帝国の皇帝にたとえたら[[ローマ帝国の皇帝#ネロ|ネロ]]のような男だからな。
#*暗殺はされたんだけど、それを公式記録に書くと藩が取り潰しになるため、「桜田門外で発病し、後日病死したこと」に記録上はなってるそうな。
#**だが暗殺劇の一部始終を目撃されていたため江戸市民に「井伊様は首を落とされているのにどうやって見舞いの菓子を召し上がるのだろう」と揶揄された。
#個人的には温厚な教養人であり、やった政策も後から見れば別に悪くはなかった。そのためわりと早い時期から弁護者も現れたようだ。
#*そのおかげで、NHK大河ドラマでは輝ける最初の主人公に。
#*前項のくりかえしになるが、政策が正しかろうが、性格が良かろうが、とにかく独裁ということを嫌うのが日本人。
#茶道の世界においては、偉大な人。
#*自前の茶流を持っていることからもそれはうかがえる。
#慶喜曰く「頭はそう切れるわけじゃないけど決断力のある人」。とにかく物事を決められるやつを据えるしかないという末期幕政の焦りが見える。
#誰が言ったか「チャカポンくん」。(茶歌鼓でチャカポン)
 
==外様==
===前田利常===
#鼻毛を伸ばし放題にしていただらしない殿様。
#*家臣に鏡を渡されたが、「これは国を守るための鼻毛じゃぞ」と答えたという。わざとバカ殿の振る舞いをしていた節がある。
#**バカだと思ってもらって幕府から目を付けられないようにしてた、らしい。この当時は改易が多かったので、大名家の中でも最大の百万石は警戒されるもの。
#人前で男の勲章を晒した伝説あり。バカとしかいいようのない奇行。
#*実は明晰な人物で幕府に警戒されないための韜晦だったとか言われてるが、幕府の警戒の眼を逸らすために人前で○ンポを晒すという発想にいたる頭はバカ以外の何物でもない。
#江戸城敷地内(もちろん屋外)で堂々と大小便したらしい…。
#そうは言っても、そこそこの名君であったらしい。
#蛇責めという世にも恐ろしい処刑方法を実行したらしい。
 
===松倉勝家===
#親子(松倉重政)共々、島原の乱を原因を作ったバカ殿、というよりは常軌を逸した暴君。
#*元々、暴政の種をまいたのは親父の方で、島原城の新築、参勤交代の費用、ルソン遠征の準備と何かとつけて領民から年貢をふんだくり、年貢が払えない領民やキリスト教徒に対して苛烈な拷問を行うようになった。
#*ただ、前の領地(大和五條)では諸役を免除して商業の振興を図るなど善政を行っている(実際に「松倉祭」というのがあったという)。外様のコンプレックスもあり幕府によいしょばかりした結果、島原での悪政につながったという説もある。
#親父が急死(暗殺説もあり)して受け継いでからは、悪政をさらに加速させた。凶作や干ばつにもかかわらず、苛烈な年貢の取り立てや様々な税を新設して、年貢を納められない農民や、村の責任者である庄屋から妻や娘を人質に取って拷問にかけるという、ヤクザ顔負けの手段に出る。
#*人質の若い娘や子供に藁蓑を着せて火をつけ、もがきながら焼死させるという「蓑踊り」を発案させたり、また、ある村の庄屋の妊娠中の妻は人質として冷たい水牢に裸で入れ、6日間苦しんだ挙句水中で産んだ赤子と共に死亡させた。この所業自体、江戸時代でも屈指の悪逆非道の暴君と言える。
#遂に怒り狂った領民が蜂起して、島原の乱が発生。幕府はこのバカの尻拭いのため、何とかメンツにかけて一揆軍を殲滅させたが、当然このバカにも厳しいお仕置きが待っていた。
#所領没収は当然の事であったが、所業が問題視されたため、切腹ではなく'''斬首刑'''に処された。江戸時代の幕藩体制で大名が斬首されたのは後にも先にもこの一例のみという「不名誉刑」である。因果応報。
 
===小堀政一===
#ガーデニングが日課のような親爺。またの名を小堀遠州という。
#*それでボロ儲けしたうえ大名にのし上がったってのが腹立たしい。
#御茶や生花も趣味だったりする。おっさん、嫁入り修行でもしてんのか?
 
===加藤明成===
#袂を分かち出奔した家老(堀主水)に激昂し、「奴を成敗できるなら会津40万石返上しても構わない!」と豪語、お望み通り幕府から堀を引き渡され意趣返しとばかりぶっ殺した(いわゆる「会津騒動」)のはいいものの、自身の会津の所領は没収された。
#*ちなみにその家老の妻子を救ったのは、豊臣秀頼の娘の天秀尼。彼女が住持をしていた鎌倉東慶寺は、駆け込み寺として江戸期を通じ女性の救済機関になった。
#*改易後、倅のいる石見国(現在の島根県西部)に身を寄せた。
#お金、特に一分金がなぜか好きで、皮肉交じりに「加藤一分殿」と呼ばれた。
#*きっと、夜中に「一分金がいちま~い、にま~い」と数えて喜んでいたに違いない。
#*そんな性格に違わず、「家人の知行、民の年貢にも利息を掛けて取り、商人職人にも非道の運上を割付け取りける」(「古今武家盛衰記」より)程の銭ゲバぶり。小説でも「暗君」「偏執狂」などとケチョンケチョンにされる低評価が殆ど。
#某漫画では柳生十兵衛にイチモツを斬りおとされて悲惨なことに…
#実は父嘉明から受け継いだ築城の名手とも言われている。
 
===浅野長矩===
#後世の作家に物語のネタを提供してくれた偉大なバカ殿。
#頭に血が昇りやすい
#吉良上野介にイビられていたらしいが、被害妄想だったという説も
#女癖も悪かったらしい
#*大名には珍しく側室を置かず、正室ひとすじだったという説もあるぞ。
#本人は傍迷惑なバカ殿だったが、事後「仇討」して名誉を回復してくれた部下に恵まれたおかげでイメージはクリーン。
#梶川与惣兵衛とか多門伝八郎とか、一部の方々はこの人のおかげで歴史に名を残すことが出来た。
#[[西尾市#吉良の噂|吉良上野介の地元]]では大層嫌われてるのだろうと思いきや、それほどでもない。
#緊張すると息苦しくなる「痞(つかえ)」という症状を持っていたとか。「不安神経症」あるいは「パニック障害」を患っていたとみられる。精神科医に見てもらえば刃傷沙汰は起こさなかったかもしれない。
 
===上杉鷹山(治憲)===
#藩政改革成就のため二人の家老に腹を切らせ、他数名の家老を逼塞させて改革を断行したバカ殿。
#*結果的に成功したからよかったが、一歩間違えれば阿波徳島の蜂須賀重喜みたいになっていた。
#聖人君主として語られているが、奥さんが××だったとかそういう都合の悪い点はスルーされている。
#*というか、最後までおままごと遊びに付き合ったとかむしろ美談の扱いなのだが。
#藩政改革が円滑に進捗したのは養父の重定が後ろ盾になってくれたからである。つまり本当にえらいのは鷹山ではなく重定ということになる。
#実は上杉家と血縁はなく、九州の日向高鍋藩の秋月なんとかとかいう小大名の子。紆余曲折あって、上杉の養子となった。後に鷹山が藩政を立て直したことを耳にした高鍋藩の人達は地団駄踏んで悔しがったそうな。
#ジョン・F・ケネディが尊敬していた日本人として名前が挙がることもあるが真偽不明。
#*ちなみに何で海外で知られているかというと、新渡戸稲造の「武士道」の中に取り上げられているからである。質問の内容は「'''日本人で'''尊敬する人はいるか」という内容なので、日本人に関する基本資料として読んだ上で名前が出ても不思議はない。
 
===島津重豪===
#絶倫、浪費家、有能な家老や志士を大量粛清、これがバカ殿と言わずしてなんというのだろうか。
#*しかし、シーボルトには、開明的で英明な君主と評されている。
#行きすぎた蘭癖で、上記の通りの滅茶苦茶も確かにあったが、後々のためになった施策も多い。
 
===島津久光===
#憂さ晴らしのため一日中花火を打ち上げたというエピソードがある。
#因循姑息な保守家というのが一般的なイメージ
#司馬遼太郎からは完全にバカ殿扱いされている。
#時代劇や小説で西郷や大久保に上手い事出し抜かれて憤慨→部下に八つ当たり、というのはよくある光景。
#母親お由羅の方が飛天御剣流の使い手だったお陰で白兵戦の腕は卓抜していたようで、単なる「お山の大将」ではなかったようだ。
#国政に関して独特のビジョンを描いていたようだが西郷大久保ら藩士達からは鼻で笑われていた。
#*西郷には陰で「阿斗」と呼ばれていたとか。言うまでもなく三国志・蜀漢の後主劉禅の幼名で、「無能な二代目」の代名詞。
#[[wikipedia:ja:生麦事件|英国と薩摩の関係を大いに揺るがすこの事件]]はこの人が江戸から京都経由で鹿児島へ帰る途上で起きた。
#「殿」のカテゴリに入れられてはいるがこの人、一度も藩主にはなったことがない。江戸参府の際には「藩父」というわけのわからん肩書きで江戸城に押し掛けた。
#明治になっても側近に「で、わしはいつ将軍になれるのじゃ?」と聞いていたとか。
#意外にも、開明的な異母兄斉彬との仲は良好。あれほど頭の切れる斉彬が遠ざけなかったところを見ると、通常の藩政などに携わっていれば普通に名君だったのではないかと思われる。
#*斉彬を嫌っていたのはあくまでお由羅だった。
 
===毛利敬親===
#「無能な名君」という謎ジャンルに属する人。
#「そうせい」としかいわない。ちゃんと考えてるのかどうかよく分からない。
 
===山内容堂===
#お酒大好き
#*そのため、付いたあだ名が「鯨海酔侯」。
#酔えば勤皇、醒めれば佐幕と評された。つまり変節漢。
#武市半平太の一派、土佐勤皇党を弾圧した。
#歯槽膿漏で口臭がひどかったらしい。
#幕藩体制が動揺する中でもお抱え力士を増加させたほどの相撲好きだった。
#泥酔して御前会議に出た挙句「幼君を操ろうとしてるだろ」と失言。これが原因で徳川排除の方向に意見が流れたため、徳川中心の改革路線が潰れたのは大体こいつのせい。
 
===中川久清===
#中川清秀の孫で三代目岡城主。
#足が悪いのに登山好き
#*輿みたいなのに乗って、家臣に担がせて登山してたらしい。
#*特に久住連山の大船山が好みらしく、この山の中腹あたりに墓を建てて入ってる。
#*彼にアルペン大名とか言うあだ名をつけた歴史関係の本がある。<!--歴史読本だったと思うが自信がない。-->
 
[[Category:バカ人物志/日本|えとしないとの]]
[[Category:江戸時代|との]]

2019年2月25日 (月) 10:52時点における版

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江戸時代三百藩の殿様のおバカな伝説、マヌケな素行、常軌を逸した噂話、迷言珍言などを集積する項目。

親藩

松平忠輝

  1. 家康の六男。兄の秀康同様、家康からは嫌われた。
    • 赤ん坊の頃醜かったからという。家康はどうも、子供の美醜で扱いを変える癖があったらしい。
    • 肖像画では美化されている。
  2. 伊達政宗の娘婿。
    • 政宗の長女の五郎八姫と結婚する。
    • 一時期、政宗が忠輝を担いで幕府転覆を謀っているのではないかという噂が流れた。そのため秀忠にも警戒された。
    • 付け家老の大久保長安も、何やらあれこれ画策していた気配がある。
  3. 結局、大阪夏の陣のあとに改易される。しかしそれから長い長い余生を送り、なんと92歳まで長生きした。
    • 「信長の野望」でクリアしないように続けていると、最後まで生き残る武将となることが多い。
    • 半ば強引に生かされた。
  4. 隆慶一郎の小説では超人的な武勇を備えたスーパーヒーローみたいになっているが、あんまり真に受けないように。

徳川頼宣

  1. 親藩、それも将軍を扶翼する御三家でありながら幕府転覆を目論んでいたらしい不逞者。
  2. 時代劇や小説とかだと大抵悪役。
  3. 由井正雪の乱の黒幕だったという噂もある。
  4. 紀州和歌山藩祖で、南竜公と呼ばれた。南海道の竜。

徳川頼房

  1. 義直、頼宣と違い家光とは仲が良かった。何故かと言うと、他の二人と違って、家光の言うなりに動くパシリだったからである。
  2. 夜な夜な家光と共に城を抜け出して江戸の街を徘徊。夜遊びに耽っていた。

松平忠直

  1. 結城秀康の息子。
  2. 親父が家康の長子(もっと上の信康は早死にしたので)だったのに跡を継げず、おかげで秀忠の家来みたいな扱いになったことに腹を立てて大荒れ。
  3. 大阪夏の陣では真田幸村を討ち取る大殊勲を立てたのに、そのわりに褒賞が少なく、またもや大荒れ。
  4. ついに隠居を命ぜられて豊後に流される。まだ28歳という若さだったんだが。

保科正之

  1. 頼房同様、家光のパシリ。
  2. 「何があっても会津藩は徳川宗家への忠勤に励むこと」と家訓を残した所為で会津藩は後年悲惨な事に。
  3. 2代将軍徳川秀忠の庶子。恐妻家の秀忠が生涯2度だけした浮気の、たった1度の大当たり。
    • 正之に対する幕臣のコメント。「2代様はよくぞ浮気をしてくださった!」

徳川綱條

  1. 親父の水戸黄門と一緒に水戸藩の財政を悪化させた人。
    • 厳密には実父ではなく養父。綱條は光圀の兄・松平頼重の子。

徳川宗春

  1. 大浪費家で尾張家の財政を圧迫させた一方、風俗王国名古屋の基礎を築いた殿様として、・錦一帯では崇拝されている。
    • 今思うと市井にお金を流通させるいわば景気刺激策とも取れるが。
  2. 八代将軍になる目もなくはなかったとか。それと関係あるのかどうか、紀州出身の吉宗とは仲が悪かったらしい。吉宗は緊縮財政・重農主義だし。
  3. 奇抜なファッションでも有名だった。
  4. 没後に幕府からお咎めが来る恐れがあったため関連史料がかなり処分されている。
  5. 墓は名古屋大空襲で焼夷弾の直撃を受け少し焦げている。

松平頼恭

  1. 平賀源内という天才を臣下に持っておきながら、それに気づかずあっさりのがしてしまったバカ殿。
    • 長崎に留学させ、さらに江戸に送ったところ致仕されてしまった。ぶちきれた頼恭は、源内を終身仕官お構いにしてしまう。
  2. もっとも、学問はよくできたらしい。ひとかどの本草学者でもあり、殖産興業に務めた。大名としては一応名君の部類には入るようだ。
    • それだからかえって源内とうまく行かなかったという噂もある。

松平定信

  1. 地方自治体でうまくやれたからと、国政に打って出て、極端な倹約を推進して景気をぶちこわしたバカ殿。
    • 前任者の田沼意次が放漫財政すぎたので、ある程度の緊縮は仕方がなかったが、それにしても規制のやりすぎで、都市部は火が消えたようになってしまった。
    • 当然下々からの評判は悪く、「白河の水の清きに住みかねて元の濁りの田沼恋しき」などと悪口を言われた。
    • その辺、紀州藩から出てって同じように長期不況を招いた徳川吉宗と共通する(定信も模範としていた)。こっちは貨幣改革やったからあんま非難されないが。
  2. 政治姿勢が、左翼知識人っぽい。
    • やたらと自分の名声を気にし、部下に自分を美化した本をたくさん書かせて広める事で、自己のイメージアップに腐心した。
      • 近年では定信を批判する意見も珍しくないが、それでも何となく清いイメージがあるのは、上記の川柳とともに、豊富な定信顕彰本の内容に歴史家たちも無意識のうちに影響されてしまうためだろう。
    • 老中時代の政策の特色は、「幕府の権力強化」という一点に尽きる。幕府のトップとしてはある意味正しい姿勢だろうが、日本全体のことを考えるという視点に欠ける。
      • 出版物の統制もその一環。このお陰で著作権がある程度保護され、滝沢馬琴のような専業作家を生む契機にもなったが、定信は別に戯作者を保護するために法律を出したわけではない。
    • 地方行政は成功したように言われるが、実際はあまり成果が上がらず、藩財政もあまり好転しなかった。
      • 当時の記録類では、下級藩士や民衆は面従腹背で、定信の息子すら評判と実際は違うと愚痴をこぼすほど。
      • その一方で、自分のために豪華な大名庭園を4つも造っている。庶民も入園可能など先進的な面もあり、当時の大名は庭園に凝るのがステータスだったから仕方がない面もあるが、部下の俸禄は削っておいて自分の庭園を作るのはどうなんだろう・・・。
    • 晩年まで改革に邁進するが結局あまり成功せず、最後には老中時代の人脈に物をいわせ、豊かな桑名藩への替地を強引に実現させる。
      • 自藩士たちは豊かで中央に近い温暖な土地に行けると大喜びだったが、変えられた方からすればたまったもんじゃない。
      • これで財政が好転すればまだ救いがあるが、運動資金を賄うために作った膨大な借金のせいで、明治まで苦しい財政が続いた。意味ねえ!
      • しかも京都に近くなり、あの定信の藩ということ幕府に目をつけられ、幕末には会津藩とともに京都の警備をするハメになる。
      • やった政策が無意味どころかマイナスになり、関係ない人々にも多大な迷惑をかける。政治家失格どころか人としてどうなのってレベル。
    • 『寛政重修諸家譜』や『集古十種』を編纂させるなど、文化人としては一見まともなのも左翼臭い。
      • 老中引退後、大田南畝など寛政の改革で迷惑を被った知識人たちと交流し、自分の絵巻物の詞書を書かせたりする。
        • 私人と公人としての顔を使い分けたと言えるかもしれないが、単に無神経なのか、文化的に名声ある人々と交流することで自己の評判を高めようとしたのか、正直解釈に困る。
  3. 幕府中枢入りのため田沼意次にワイロを贈ったことがある。
  4. 12チャンネルの某時代劇では隠密同心を統率する立場で、いかにも善玉という昭和の設定であったが、平成も27年になるとこちらも再評価されたのか、逆に悪役に成り下がって最後は成敗されるという「物語のコンセプト」を完全破壊する結末となった。田沼の再評価を反映しての事なのだろうか。

譜代

本多正純

  1. 家康・秀忠の謀臣として活躍したので、当然頭は良かったが、やりすぎて改易されるはめに。「秀才バカ」とはまさに彼のことであろう。
  2. 親父の正信が口を酸っぱくして、「謀臣はただでさえ人に嫌われるんだから、大きな封地なんか絶対貰うんじゃないぞ」と教え諭していたのに、宇都宮藩で15万石も貰ってしまって、案の定ヒンシュクを買った。
    • 「宇都宮釣り天井事件」は捏造だったようだが、その程度の罠を仕掛けられても仕方のない立場だということを理解していなかった。やはりバカである。
  3. 話の枝葉末節にこだわって、要点に目が行っていない逸話が複数残っている。やっぱり秀才バカ。
  4. 父の正信とともに、家康の側近として活躍した。
    • しかし、秀忠からは「必要以上に権力を振りかざして威張り散らしまくる鬱陶しい男」などと言われ、散々な扱いをされることに…。

水野勝俊

  1. 武士の歴史の中で、この人にまさるバカは居ないであろうというほどのバカ。
    • 福山城下が燃えてしまうと、町人に気を使って、彼らの負担が増えないように普請の速度を遅らせろと言ったり、鷹師が藩内の畑を荒らしたら百姓がソイツを処罰しろとか、度重なる飢饉の折には減税&貸付をやったりという名君ではある。
      • 結果、財政難になるも今度は自分たちの服装を質素なものとしたりするなどしたが、そんなことするくらいなら沼名前神社の改修その他、領内の寺社への寄進をしないほうが……
      • こんな人物だけど、パパが破天荒すぎて有名なあまり、そのことを、人々に認知されていない辺りが、悲しすぎてバカバカしくなってくる。
  2. 上記の通りのあまりの名君ぶりに感動して、勝俊が死んだ時、一緒に腹切って殉死したバカも居る。
    • しかしこのバカ主従が地元で取立ててよく扱われるわけではない辺りが、ますます持ってバカげている。
      • 水野家が5代かそこらで途絶えたのがその原因だが、なんというか……
  3. 島原の乱の折、原城内へ、一番乗りを果たしている。
    • 父親は大阪の陣の折に大阪城へ一番乗りを果たしているが、親子揃ってあんたのやるべきことはそれではなかろうと言いたくなってくる。
      • おまけに父親の大坂城一番乗りは捏造宣伝。幕府認定公式一番乗りは越前松平軍。
        • それが悔しい余り、水野の家伝では大坂の陣の越前松平を捏造disりまくり。
  4. ホントは父親が嫌いだった(?)
    • 父親が藩主の間は、自分はから10kmほど離れた港町に滞在し続けたらしい。
    • 藩主の座を禅譲してもらうと、今度は隠居したはずの父親が藩政に口出しするようになり、口喧嘩になることが度々あったとか。

土井利勝

  1. 初めて大老になった人。
  2. 「ヒゲは伸ばすより剃る方が紳士的」という考えを浸透させた。
  3. 顔つきが似ている、徳川政権下で異常なほど重用され、栄達した、という二つの理由だけで家康の落胤扱いされた気の毒な人。
    • 前述のヒゲ剃りも、あんまり家康に似てると言われたので、イメチェンしようとしたのがきっかけらしい。
    • 家康の母の兄、水野信元の子なので、多少似ていてもおかしくはない。
  4. 柔和で誠実なイメージがあるが、本多正純を追い落とした黒幕ではないかと言われていたり黒い噂も結構ある。人間誰しもが持つ二面性というやつである。
  5. 家光は親父の頃からの「負の遺産」である利勝を疎み謀反の濡れ衣を着せ弟忠長と一緒に始末しようと画策したが、一枚上手の利勝には上手い事逃げられてしまった。
    • 実は利勝は忠長の傅人で、利勝の妹が乳母をしていた。春日局が戦ったのは、本当は秀忠夫婦ではなく利勝兄妹だったらしい。
  6. 現実に桃源郷を作ろうとして所領の古河で桃を沢山栽培した。
  7. 「人は見た目が9割」をわかりやすい言葉で説明した。
    • いわく、「どれだけ優れた者でも、玄関先(第一印象)で終わっては意味がなかろう? 特に若者は心に留めよ」

柳沢吉保

  1. 綱吉の寵臣。
    • 一生を綱吉に捧げ尽くし、綱吉の好みを知り尽くして先手先手を打ったために、大のお気に入りになっていた。
    • ただし、綱吉を諫めたりすることはできず、綱吉が暴走すると一緒になって暴走していたイエスマン。本当の忠臣とは言えないかも。
    • あまりに厚遇されたため「実は綱吉の御落胤ではないか」という俗説もある。
  2. 赤穂事件の裁きで、ワイロを貰って吉良上野介に有利な判決を出したというのは濡れ衣。吉保にそんな権限は無かった。

松平忠充

  1. 伊勢長島藩主。なかなかの暴君だった。
    • 体調不良を理由に隠居した父・康尚の後を継ぐが家督を継いでからわずか2年後、些細な事で家臣3人を追放する等、早くも暴君としての片鱗を見せ始める。
  2. 上記の事件の15年後には重臣3人を切腹させるがそれだけでは飽き足らず、何の関係もない重臣の子供達まで死刑にするという無茶をやってのける。
    • ただ、重臣の遺族達が幕府に訴えた事で事件が発覚、数日後に改易される。
      • しかし忠充の生家である久松松平家の祖、松平康元は家康の異父弟。要するに忠充は将軍家の親族にあたるため、忠充の四男と五男が旗本として家の存続を許された。

松平忠章

  1. 上記の松平忠充の長男。しかし後述の事情により家督は継いでいないため、厳密には「殿様」ではない。
  2. 暴君だった父とは対照的に、かなり優秀な人物だったらしい。ただ、後述の事件のせいで、個人的には「ダメ親父に振り回された可哀相な息子」というイメージが強い。
  3. 「寝ぼけて切腹」という前代未聞の事件を起こす。
    • ある日城内の一室でうたた寝をしていた所、寝ぼけて自分の刀で自分の腹を刺してしまう。父との関係悪化によってストレスが溜まっていたため、無意識の内にこのようなわけの分からない行動に出てしまったと推測される。
      • 駆け付けた家臣達には「大丈夫だから!俺、正気だから!(意訳)」と伝えたらしい。
    • 幸い傷は浅かったため大事には至らなかったが、この「寝ぼけて切腹事件」が引き金となり廃嫡。廃嫡されたという説と自ら廃嫡を申し出たという説がある。

水野忠邦

  1. いわゆる江戸の三大改革「天保の改革」を主導した老中。しかし、あまりの現実と乖離した政策で、庶民はおろか大名や旗本まで怨嗟を一手に受けた現実を直視できなかったよく言えば頑固者で残念な人…というよりは、江戸時代屈指の極悪大名といって過言でない。
    • 奢侈を禁止したのはいいものの、大奥の強烈な反対に遭い、大奥だけは除外したという。つまり弱い者いぢめ大好き。サディストの気が垣間見える。
  2. 水野が老中首座にまで立身できたのは、老害…もとい、大御所の徳川家斉が亡くなったお蔭。ただし、ご多分に漏れず賄賂を贈り続けたことで唐津藩から遠州・浜松藩主に立身が出来たという。
    • 唐津藩主時代は、賄賂のために年貢の取り立てが厳しかったという話もあり、唐津の領民からはすこぶる評判は悪かったらしい。
    • 唐津藩からは出世コースがないということで、実石25万石ほどの唐津藩を捨て浜松藩15万石への減封を行ってまでキャリア確保。諌死して止めようとした老中などガン無視という出世キチガイ。
    • 案の定、封じられた浜松藩でも出世のための御用金取立て、倹約のために特産物であった野菜の栽培や藩の行事を禁止し、米の栽培と年貢の取り立てと領民をここでもいぢめまくった。やってることがリアルに時代劇の悪代官そのもので、浜松藩の暗黒の時代である。ここでの水野の振る舞いが後述の転封時の暴動に発展する。
  3. 家斉死去後は、将軍徳川家慶の信を得て、天保の改革を推進した。その手先となったのは、遠山景元、矢部定謙、岡本正成、鳥居耀蔵、渋川敬直、後藤三右衛門らであった。このうち、鳥居・渋川・後藤を「水野の三バカ」…もとい「水野の三羽烏」と呼ばれ、水野の手先となって改革実現のために暗躍した。
    • つまりは、遠山の金さんも最初は悪の手先であった。
    • こいつらの中でも、鳥居耀蔵は「妖怪」(耀蔵の「耀」+位階の「甲斐守」の造語)と呼ばれるほど、江戸のゲシュタポとしての役目を果たし、水野同様に庶民に蛇蝎の如く嫌われた。渋川敬直と共に蛮社の獄を起こした張本人でもある。
  4. しかしながら因果応報。庶民を綱紀粛正(寄席の閉鎖や歌舞伎の弾圧など)、奢侈禁止でいぢめたこともともかく、人返し令・株仲間の解散・貨幣の乱造など現実を見られない悪政を行ったのに加え、禁断の上知令(大名・旗本領地の幕領化)を企て、大名や旗本まで総スカンを食い、挙句の果てには腹心の鳥居まで寝返られ、老中失脚。
    • まあ「悪政」というよりは、やり方が過激すぎて、出した政策の殆ど実績を上げることができなかった。
    • 老中を失脚した際は、暴徒化した庶民に屋敷を襲撃された。そりゃ庶民の傷口に塩を塗るような綱紀粛正策じゃ… その一方で遠山は上手く庶民側に付いて行き過ぎた綱紀粛正策を牽制し、今日の「遠山の金さん」のイメージが出来た。勿論、水野と鳥居から一時冷や飯を食わされている。
  5. そんなボロカスのように捨てられた水野も再起のチャンスが到来。代わって老中首座になった土井利位が将軍の不興を買って更迭。代わって水野の再登板となったが、既に水野はやる気をなくしていて、いつも御用部屋でボーッとしていたといわれ、その後病気を理由に欠勤が相次ぐようになる。
    • その割には裏切りは絶対に許さない質で、自らを裏切った鳥居に対して報復をしているという。人間のクズの本領発揮。
  6. 老中首座に復帰した水野であったが精彩を欠いた揚句、部下である鳥居や後藤の改革当時の悪業が暴露されて、減転封・強制隠居・謹慎の沙汰が下る。仲間の鳥居・渋川は蟄居、後藤は斬首。悪の枢軸はこれで崩壊した。水野自身は封じられた山形で58歳で死去。
    • 転封で山形へ移る際、浜松の領民から借りた金を返さずに逃亡し、領民から一揆を起こされている。なんなんだこのオッサン。貧乏くじを引いたのが後任の元は浜松藩主だった井上氏(この時の藩主は井上正春)。28年ぶりの浜松復帰の初仕事は水野家と領民の仲裁に奔走することであった。
    • 一方の鳥居は丸亀藩にお預けになり監禁生活となったが、何と明治維新を迎えることができ、東京に戻った明治6年に78歳で死去。悪役らしい最期ということではなかった。

井伊直弼

  1. 幕末に大老に就任し、独断でいろいろ進めた揚げ句に暗殺された。
    • やったことが良かったとか悪かったとかいう以前に、独裁的であったのが殺された原因。
      • いろんな問題が急を要することばかりで、衆議に諮っていてはらちがあかないと腹をくくり、覚悟の上で独裁をおこなっていたようだが、日本人の独裁者嫌いぶりを甘く見ていた。
      • 井伊直弼はローマ帝国の皇帝にたとえたらネロのような男だからな。
    • 暗殺はされたんだけど、それを公式記録に書くと藩が取り潰しになるため、「桜田門外で発病し、後日病死したこと」に記録上はなってるそうな。
      • だが暗殺劇の一部始終を目撃されていたため江戸市民に「井伊様は首を落とされているのにどうやって見舞いの菓子を召し上がるのだろう」と揶揄された。
  2. 個人的には温厚な教養人であり、やった政策も後から見れば別に悪くはなかった。そのためわりと早い時期から弁護者も現れたようだ。
    • そのおかげで、NHK大河ドラマでは輝ける最初の主人公に。
    • 前項のくりかえしになるが、政策が正しかろうが、性格が良かろうが、とにかく独裁ということを嫌うのが日本人。
  3. 茶道の世界においては、偉大な人。
    • 自前の茶流を持っていることからもそれはうかがえる。
  4. 慶喜曰く「頭はそう切れるわけじゃないけど決断力のある人」。とにかく物事を決められるやつを据えるしかないという末期幕政の焦りが見える。
  5. 誰が言ったか「チャカポンくん」。(茶歌鼓でチャカポン)

外様

前田利常

  1. 鼻毛を伸ばし放題にしていただらしない殿様。
    • 家臣に鏡を渡されたが、「これは国を守るための鼻毛じゃぞ」と答えたという。わざとバカ殿の振る舞いをしていた節がある。
      • バカだと思ってもらって幕府から目を付けられないようにしてた、らしい。この当時は改易が多かったので、大名家の中でも最大の百万石は警戒されるもの。
  2. 人前で男の勲章を晒した伝説あり。バカとしかいいようのない奇行。
    • 実は明晰な人物で幕府に警戒されないための韜晦だったとか言われてるが、幕府の警戒の眼を逸らすために人前で○ンポを晒すという発想にいたる頭はバカ以外の何物でもない。
  3. 江戸城敷地内(もちろん屋外)で堂々と大小便したらしい…。
  4. そうは言っても、そこそこの名君であったらしい。
  5. 蛇責めという世にも恐ろしい処刑方法を実行したらしい。

松倉勝家

  1. 親子(松倉重政)共々、島原の乱を原因を作ったバカ殿、というよりは常軌を逸した暴君。
    • 元々、暴政の種をまいたのは親父の方で、島原城の新築、参勤交代の費用、ルソン遠征の準備と何かとつけて領民から年貢をふんだくり、年貢が払えない領民やキリスト教徒に対して苛烈な拷問を行うようになった。
    • ただ、前の領地(大和五條)では諸役を免除して商業の振興を図るなど善政を行っている(実際に「松倉祭」というのがあったという)。外様のコンプレックスもあり幕府によいしょばかりした結果、島原での悪政につながったという説もある。
  2. 親父が急死(暗殺説もあり)して受け継いでからは、悪政をさらに加速させた。凶作や干ばつにもかかわらず、苛烈な年貢の取り立てや様々な税を新設して、年貢を納められない農民や、村の責任者である庄屋から妻や娘を人質に取って拷問にかけるという、ヤクザ顔負けの手段に出る。
    • 人質の若い娘や子供に藁蓑を着せて火をつけ、もがきながら焼死させるという「蓑踊り」を発案させたり、また、ある村の庄屋の妊娠中の妻は人質として冷たい水牢に裸で入れ、6日間苦しんだ挙句水中で産んだ赤子と共に死亡させた。この所業自体、江戸時代でも屈指の悪逆非道の暴君と言える。
  3. 遂に怒り狂った領民が蜂起して、島原の乱が発生。幕府はこのバカの尻拭いのため、何とかメンツにかけて一揆軍を殲滅させたが、当然このバカにも厳しいお仕置きが待っていた。
  4. 所領没収は当然の事であったが、所業が問題視されたため、切腹ではなく斬首刑に処された。江戸時代の幕藩体制で大名が斬首されたのは後にも先にもこの一例のみという「不名誉刑」である。因果応報。

小堀政一

  1. ガーデニングが日課のような親爺。またの名を小堀遠州という。
    • それでボロ儲けしたうえ大名にのし上がったってのが腹立たしい。
  2. 御茶や生花も趣味だったりする。おっさん、嫁入り修行でもしてんのか?

加藤明成

  1. 袂を分かち出奔した家老(堀主水)に激昂し、「奴を成敗できるなら会津40万石返上しても構わない!」と豪語、お望み通り幕府から堀を引き渡され意趣返しとばかりぶっ殺した(いわゆる「会津騒動」)のはいいものの、自身の会津の所領は没収された。
    • ちなみにその家老の妻子を救ったのは、豊臣秀頼の娘の天秀尼。彼女が住持をしていた鎌倉東慶寺は、駆け込み寺として江戸期を通じ女性の救済機関になった。
    • 改易後、倅のいる石見国(現在の島根県西部)に身を寄せた。
  2. お金、特に一分金がなぜか好きで、皮肉交じりに「加藤一分殿」と呼ばれた。
    • きっと、夜中に「一分金がいちま~い、にま~い」と数えて喜んでいたに違いない。
    • そんな性格に違わず、「家人の知行、民の年貢にも利息を掛けて取り、商人職人にも非道の運上を割付け取りける」(「古今武家盛衰記」より)程の銭ゲバぶり。小説でも「暗君」「偏執狂」などとケチョンケチョンにされる低評価が殆ど。
  3. 某漫画では柳生十兵衛にイチモツを斬りおとされて悲惨なことに…
  4. 実は父嘉明から受け継いだ築城の名手とも言われている。

浅野長矩

  1. 後世の作家に物語のネタを提供してくれた偉大なバカ殿。
  2. 頭に血が昇りやすい
  3. 吉良上野介にイビられていたらしいが、被害妄想だったという説も
  4. 女癖も悪かったらしい
    • 大名には珍しく側室を置かず、正室ひとすじだったという説もあるぞ。
  5. 本人は傍迷惑なバカ殿だったが、事後「仇討」して名誉を回復してくれた部下に恵まれたおかげでイメージはクリーン。
  6. 梶川与惣兵衛とか多門伝八郎とか、一部の方々はこの人のおかげで歴史に名を残すことが出来た。
  7. 吉良上野介の地元では大層嫌われてるのだろうと思いきや、それほどでもない。
  8. 緊張すると息苦しくなる「痞(つかえ)」という症状を持っていたとか。「不安神経症」あるいは「パニック障害」を患っていたとみられる。精神科医に見てもらえば刃傷沙汰は起こさなかったかもしれない。

上杉鷹山(治憲)

  1. 藩政改革成就のため二人の家老に腹を切らせ、他数名の家老を逼塞させて改革を断行したバカ殿。
    • 結果的に成功したからよかったが、一歩間違えれば阿波徳島の蜂須賀重喜みたいになっていた。
  2. 聖人君主として語られているが、奥さんが××だったとかそういう都合の悪い点はスルーされている。
    • というか、最後までおままごと遊びに付き合ったとかむしろ美談の扱いなのだが。
  3. 藩政改革が円滑に進捗したのは養父の重定が後ろ盾になってくれたからである。つまり本当にえらいのは鷹山ではなく重定ということになる。
  4. 実は上杉家と血縁はなく、九州の日向高鍋藩の秋月なんとかとかいう小大名の子。紆余曲折あって、上杉の養子となった。後に鷹山が藩政を立て直したことを耳にした高鍋藩の人達は地団駄踏んで悔しがったそうな。
  5. ジョン・F・ケネディが尊敬していた日本人として名前が挙がることもあるが真偽不明。
    • ちなみに何で海外で知られているかというと、新渡戸稲造の「武士道」の中に取り上げられているからである。質問の内容は「日本人で尊敬する人はいるか」という内容なので、日本人に関する基本資料として読んだ上で名前が出ても不思議はない。

島津重豪

  1. 絶倫、浪費家、有能な家老や志士を大量粛清、これがバカ殿と言わずしてなんというのだろうか。
    • しかし、シーボルトには、開明的で英明な君主と評されている。
  2. 行きすぎた蘭癖で、上記の通りの滅茶苦茶も確かにあったが、後々のためになった施策も多い。

島津久光

  1. 憂さ晴らしのため一日中花火を打ち上げたというエピソードがある。
  2. 因循姑息な保守家というのが一般的なイメージ
  3. 司馬遼太郎からは完全にバカ殿扱いされている。
  4. 時代劇や小説で西郷や大久保に上手い事出し抜かれて憤慨→部下に八つ当たり、というのはよくある光景。
  5. 母親お由羅の方が飛天御剣流の使い手だったお陰で白兵戦の腕は卓抜していたようで、単なる「お山の大将」ではなかったようだ。
  6. 国政に関して独特のビジョンを描いていたようだが西郷大久保ら藩士達からは鼻で笑われていた。
    • 西郷には陰で「阿斗」と呼ばれていたとか。言うまでもなく三国志・蜀漢の後主劉禅の幼名で、「無能な二代目」の代名詞。
  7. 英国と薩摩の関係を大いに揺るがすこの事件はこの人が江戸から京都経由で鹿児島へ帰る途上で起きた。
  8. 「殿」のカテゴリに入れられてはいるがこの人、一度も藩主にはなったことがない。江戸参府の際には「藩父」というわけのわからん肩書きで江戸城に押し掛けた。
  9. 明治になっても側近に「で、わしはいつ将軍になれるのじゃ?」と聞いていたとか。
  10. 意外にも、開明的な異母兄斉彬との仲は良好。あれほど頭の切れる斉彬が遠ざけなかったところを見ると、通常の藩政などに携わっていれば普通に名君だったのではないかと思われる。
    • 斉彬を嫌っていたのはあくまでお由羅だった。

毛利敬親

  1. 「無能な名君」という謎ジャンルに属する人。
  2. 「そうせい」としかいわない。ちゃんと考えてるのかどうかよく分からない。

山内容堂

  1. お酒大好き
    • そのため、付いたあだ名が「鯨海酔侯」。
  2. 酔えば勤皇、醒めれば佐幕と評された。つまり変節漢。
  3. 武市半平太の一派、土佐勤皇党を弾圧した。
  4. 歯槽膿漏で口臭がひどかったらしい。
  5. 幕藩体制が動揺する中でもお抱え力士を増加させたほどの相撲好きだった。
  6. 泥酔して御前会議に出た挙句「幼君を操ろうとしてるだろ」と失言。これが原因で徳川排除の方向に意見が流れたため、徳川中心の改革路線が潰れたのは大体こいつのせい。

中川久清

  1. 中川清秀の孫で三代目岡城主。
  2. 足が悪いのに登山好き
    • 輿みたいなのに乗って、家臣に担がせて登山してたらしい。
    • 特に久住連山の大船山が好みらしく、この山の中腹あたりに墓を建てて入ってる。
    • 彼にアルペン大名とか言うあだ名をつけた歴史関係の本がある。