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<!--{{耳寄りな噂}}-->
==は==
==暗黒の17年間の噂==
===畠山義慶===
#1992年に優勝を逃したのは「八木の幻のホームラン」のせいだと今でも主張する。
#「よしよし」と読む…、ワケあるか!こう書いて「よしのり」だ。
#*その元凶は{{極小|ラッキーゾーンの撤去}}だったりして。
#元服もせぬうちに君主になった…、というかさせられた。しかも傀儡君主として…。
#*「あれが入ってたら、優勝してたかも…」
#1574年にいきなり急死。病死か家臣に暗殺されたか?
#「中継ぎ課」「神のお告げ」「F1セブン」など、この時代の阪神を語る上でネタに欠かさない。
#川藤がコーチを2年間やっていたことを知っている。
#*守備走塁コーチって・・・。
#オマリーと関川と野田が移籍先で大活躍。
#*しかし、関川・久慈の代わりに獲得した矢野・大豊もチームに貢献。
#**矢野輝弘は暗黒時代から抜け出すのにも貢献した。
#**矢野が出て行って久慈が代わりに入った中日が突如優勝し、久慈がまた阪神に戻ったら突然阪神が優勝した。どっかの本では「不幸な矢野と幸運な久慈」と揶揄されていた。
#**矢野が移籍してきた当初、活躍できなかった時ファンに「関川返せ、久慈返せ!」と野次られたらしい。
#**トレードされた当初は矢野はあまり期待されていなかったため、関川や久慈が出たことを恨めしく思ったものだが、最終的には矢野が一番活躍した。
#FAで獲った石嶺と山沖・・・。
#*松永も入れようや。
#**奴はトレードできてFAで出て行った。典型的な失敗トレード。
#「猛虎!破竹の2連勝!」と[[兵庫のメディア#デイリースポーツ|デイリースポーツ]]に書かれる。
#*阪神が3連勝しただけでも奇跡と言われていた。
#**キャンプの50m走のタイムが1面になった事もあるぞ。
#*デイリーはこの時期の阪神に慣れたのか、阪神の戦果を大本営発表みたいに報道できるようになった。それは今も変わらず。
#「3連戦のうち1つくらいは勝つだろう」と思って3試合のチケットを取ったら、3試合とも完封負け。
#デイリースポーツの一面に「坪井4の2、行けるぞ新人王!」とでっかく書かれ、その下に小さく「チームは5連敗」と書かれていたことは内緒だ。
#*一応、特別表彰はして貰えた。川上憲伸・高橋由伸・小林幹英と争ったから(新人王は川上)
#*彼に限らずルーキーは活躍していた。
#**でも、いつの間にか忘れられていく。
#19時からの野球中継が始まったとき、既に先発投手は降板。
#*紳助が「阪神戦は18時から放送せえへんと先発投手が誰だかわからへん」と言ってたなあ。
#4番の打率が2割5分・・・。 
#*3番だけど、バースは86年に.389も打った(シーズン日本最高打率)。
#*一方で新庄と桧山が巨人の清原と年間三振数を競っていた時代も……
#そういえば、たけし軍団にも負けたなあ。
#*その翌日、日光猿軍団と試合させようや!とか冗談を言った思い出がある。これで本当に試合やって負けた日には・・・。
#*ちなみにその翌年に阪神は2位になった
#*弁護すると、本来とは違うポジションを守ってた・・・というのもある。野手がピッチャーやったりとか。'''←弁護になってるかどうか微妙だけど。'''
#開幕戦は捨てゲーム、もしくは相手チームに対するボーナスステージ。
#*とある年の開幕戦、1回の表先頭バッターがヒットを放ち、「今年は行ける!」と思ったが、その後一人のランナーも出せずにボロ負け。
#*開幕戦の最多失点は17点(2001年ごろ)。でも巨人相手じゃ無理ないな…。
#一時阪神の選手はオールスターのファン投票で'''新庄だけ'''でチームの9割超の投票を獲得していた
#*そして2001年のオールスター投票では阪神の選手に'''1票も入らなかった'''
#*「1票も」はサスガにない。1人もファン投票で選ばれなかったって事でしょ?
#チームの弱さは初期の[[東北楽天ゴールデンイーグルス|楽天]]と良い勝負
#松井在籍時の[[読売ジャイアンツ|巨人]]に'''「30点」'''取られて敗北した
#「巨人vs'''阪神'''」の伝統の一戦が「巨人vs'''[[中日ドラゴンズ|中日]]'''」にとって変わる噂が絶えなかった
#弱体化し過ぎて阪神身売りの噂が絶えなかった
#*「今日も安全~」[[佐川急便|○○○○]]が政界スキャンダルを起こす前、200億円で買収話を持ちかけたことがあるらしい。
#*よく言われてたのは[[サントリー|この会社]]だったような気がするけど。でも自前でOB雇っちゃった(?)からなァ。
#**吉本案もあったはず。
#***その吉本はオリックスと仲がいいみたい。
#甲子園優勝校にも負けるのではないかとも毎年のように噂された。
#*PLより弱いのはお約束だったもんなぁ
#[[村上ファンド|村○ファンド]]によって一過性の暗黒時代がもたらされた事もある。
#*天罰下り済み。
#周りはみんな半袖の時から始まるストーブリーグ
#*それも'''着出した頃'''。
#*「鯉のぼりを下ろす頃には…」
#[[東京スポーツ|東スポ]]が「阪神1位!!」と見出しを書いたが「評論家によるセリーグ最下位予想」のことだった。
#早ければ梅雨明けと同時に、来年のことを考え始めるが、4番とエースピッチャーには、'''まだ見ぬ新外国人'''を指名する。
#「甲子園球場をPL学園の本拠地にするよ」とマンガに書かれていた。
#ピッチャーが好投している時に限って、打てない打線
#*でも、打線が爆発すると'''投手陣が大炎上'''。
#'''「明日も勝~つ!」'''は、当然禁句だ。
#*日ハム時代も見事に発動。'''何故か所属チームではなく、阪神に。'''
#桑田佳祐に「今年の阪神は8位」と言われた事がある。当然、反論も出来ず・・・。
#*ちなみにこの御仁はアンチ巨人。巨人が負けた日のラジオでは「松田(巨人ファンのドラマー)ざま見ろ」とよく言う。
#カラオケで六甲おろしを歌うと、映像に出てくるのは85年のV戦士
#*その映像を見て、85年を懐かしく思う。
#藪の一発病、今岡のやる気のない走塁、桧山のセカンドゴロ量産は、暗黒時代後期を語る上で欠かせない。
#1992年の成績は2位ではなく'''準優勝である'''
#*この年のセ・リーグは首位から最下位までのゲーム差がわずか9という大激戦(というよりダンゴレース)だった。だから成績的には大したことは無いのだが、それでも'''準優勝である'''
#**常勝の中日が最下位。阪神と中日の立場が逆転した年だった。
#*[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルト]]優勝の際は甲子園で胴上げを見る羽目に。場内は帰れコールだったらしい。
#**ちなみに98年の横浜、02年の巨人(試合は相手のサヨナラ暴投で勝ったが)の際はそんなことなかった。
#***ヤクルトのときは優勝争いしてて、その年は色々とお互いあったからな。
#再建請負人のノムさんですら再建失敗。おまけに嫁の不祥事まで。
#*ただ赤星や井川らが育ったのは事実。もちろん、2003年の優勝は移籍組が活躍したからというのもあるが。
#**赤星や井川らが育った事については、今最近の強めの阪神の基礎や土台を築き上げたとしてノムさんの功績は大きいかも。
#最下位が指定席。
#*最下位ではなく、'''「6位入賞」'''である。
#巨人を3タテしただけで、その3タテした試合のビデオが売られたらしい。
#*2リーグ分裂~99年までの甲子園で巨人を3タテした全カードの映像集だった。ここで訂正。
#*こういうのを見て憂さを晴らしていたのだろうか・・・。
#暗黒末期の頃、阪神タイガースの人生ゲームが売られたらしい。
#*'''私、持ってます。'''
#サンテレビの夏休みちびっ子解説者にまで、ダメ出しを受ける
#山田勝彦の打率=山田の身長。
#'''「4番ファースト藪」'''ってありましたよね???
#*2000年ごろの、遠山と葛西のワンポイントスイッチに似てる…。
#99年前半戦の快進撃には、野村監督の人形が作られたらしい。
#*その年は首位に短期間だったもののなったことがあった。
#*そのときに飛び込んだファンがいる。
#*1999年ということもあって、ノストラダムスに絡めて「ノス虎ダムス」なんて本も刊行された。恐怖の大王はノムさんとサッチーだったとか。
#何となく暗黒時代の阪神って今のベガルタと共通点ありそうな気がする
#何年だったか忘れたけど、村山が長嶋から疑惑のHR打たれた展覧試合と同じ日に、岡田がガリクソンから逆転満塁HRを打って、大騒ぎになったことがある。
#*平成元年のことだった。展覧試合の30年後だった。
#13ゲーム差をひっくり返される大失態。暗黒臭がしてきたorz。
#*「若手育成に失敗」、「贔屓で起用した選手が小さくまとまった」育成面でも暗黒臭がする。
#**この辺、2006年ごろのアンチ巨人による巨人批判と共通していないか?
#*かといって、ここで岡田が辞任すると吉田辞任後の阪神と同レベルになりそうな……
#2008年、阪神ファンが巨人のホームランになる打球を妨害したが、実は暗黒時代には新庄の打球を妨害して2ベースにしてしまった。
#現在はみんな座っているけど、暗黒期はガラガラのアルプススタンドで立って応援。
#*もしくは席で横になって野球鑑賞。
#*それでも[[プロ野球/旧本拠地#川崎球場の噂|流し素麺や麻雀]]をしていないだけマシだと思う。
#エイプリルフールで「阪神優勝!」と会見したら、その年'''最下位になった'''らしい。
#*1998年のこと。87年から2001年まで15年中10年が最下位と言う惨状だったから、吉田監督も関係者もみなやけくそだった。
#**同年放送された「[[メタルヒーローシリーズファン#テツワン探偵ロボタック|テツワン探偵ロボタック]]」のある回で、敵キャラが虎ファンで「今年は優勝だタイガース!バッティング対決」というものをやっていた。
#***さらに、その回に出て来た暗号が85年のスタメンの背番号。
#***その2年前に放送されていた「[[スーパー戦隊シリーズ#20代目・激走戦隊カーレンジャー|激走戦隊カーレンジャー]]」のある回でも、虎ファンのメンバーが阪神のハッピを着て「今年こそ頼むで」と神社に願掛けに行っていた。
#*このエイプリルフールの優勝会見は同年の寅年にちなんだものだったらしい。
#1995年に[[サンテレビ|サンテレビジョン]]が阪神球団60周年を記念し、「今年の阪神はいつ'''60勝'''するか」と視聴者クイズをしたら、130試合中'''46勝'''しか出来なかった。
#*そして「出来ない」と書いた視聴者が実際にいて、正解となったらしい・・・
#*途中から、「ホームラン60発はいつか」に変更してクイズをまた出したとか。
#*2008年にサンテレビは「優勝時の岡田監督の胴上げ回数」を視聴者クイズとして流し、この伝説の続きを作った。いい意味じゃないだろうが・・・
#*この年は[[阪神・淡路大震災]]があり、同じ関西球団のオリックスがリーグ優勝して[[神戸市]]民を勇気付けたのに対して、[[西宮市]]に本拠を置く阪神は前年の戦績を大きく下回って4位から6位に転落、明暗がはっきり分かれることになった(それでも人気までは逆転しなかった)。
#**「オリックスは震災に見舞われたファンに元気を与えてくれたが、'''阪神はファンを失望させた'''」と某ラジオ局のDJが言っていた。その同じ局で別のDJが「オリックスはみんなの夢をかなえてくれたが、'''阪神は現実の厳しさを教えてくれた'''」と言っていた。
#もしサッカーのようなシステムだったら'''8部リーグ'''辺りまで降格していたかも知れない。
#阪神だけ1軍を他球団の2軍にし、2軍は3軍として草野球専門球団にしたらどうか…って話を飲み屋で当時はしていたと、暗黒時代を懐かしむファンから聞いたことがある。
#*上にもあったが91年にたけし軍団に2軍が負けたので、プロ野球界の面子を保つためにはこれもしょうがない・・・って。じゃあ翌92年の戦績は何なんだ?
#*因みに[[千葉ロッテマリーンズ|98年に18連敗した球団]]も阪神と試合した翌年の92年、同じようにたけし軍団と戦って負けたんだが。
#*また、ノムさんが社会人野球のシダックスの監督になった時に、阪神2軍と試合してシダックスが勝った。
#*しかし一方で、2軍は1軍が最下位常連だった時期に優勝や日本一を経験したりしている。それもノムさんが1軍監督だった頃(1999年と2001年)。そのときの2軍監督は岡田。
#**阪神の珍プレー特番でもよく取り上げられた。
#**「阪神二軍'''日本一'''、野村阪神'''首位一日'''」と締めくくった1999年。
#2009年3月、暗黒時代になった原因と言われた[[ケンタッキーフライドチキン|カーネル人形]]が24年ぶりに発見される。
#*呪いが解けるのか、それとも眠りを妨げられたカーネル人形の呪いが増大するのか・・・。
#*2003年と2005年に優勝している以上、呪いのことは「日本一出来ない理由」として今後は語られるのかと思っていたが……既に海に流されていてもおかしくないと思っていたので、発見は正直驚き。
#*その後、オープン戦では阪神災難続き・・・。
#**ファラオの呪いのように掘り起こしたのがやっぱりマズかったか?
#**対巨人戦でも2008年から引きずって11連敗・・・
#***やっとストップ、しかし前監督7敗は自分のせいなのに全部現監督のせいみたいに言っていた・・・。
#**OBの無責任な現体制批判も暗黒復活の兆しかなぁ。
#**遂に暗黒末期の監督相手に借金記録を久々に二桁とさせられた……これで'''最下位チームとはまだゲーム差あり'''ってのが信じられない。
#**今年(2009年)はカーネル人形発見に加え[[阪神なんば線]]の開業で奈良方面からの観戦も便利になったことなど明るい話題もあっただけに成績低迷は残念だ。
#オープン戦とペナント戦は全く別物だった。
#*オープンで無駄に力を使っていた。
#**それでペナントで力が出なかったかも。
#監督は常に口笛を吹いていた。
#*あのノムさんも吹くようになった。
#定位置につくことが確定すると、とたんに強くなった。
#*シーズン終わりがけに連続安打とか……
#すべての出発点は掛布とバースの不遇引退・解雇だった。
#*この1988年には球団社長の自殺まで・・・チームもフロントも空中分解した。
#他球団(特に巨人)にとって当時の阪神は、一番戦いやすいチームだったかも。
#*「楽勝」と思いながら余裕こいた奴も多かったかも。
#*現在の銀行球団と同レベルに見られていたのだろうか。
#阪神電車の株主総会、財務や経営のことはほとんど議題にならず、タイガースの事が主な議題となる。
#近鉄ファンにバカにされる。
#*[[大阪近鉄バファローズ|近鉄]]もタイガースと同じで、強い時と弱い時の差が激しかったと思う。
#*[[オリックス・バファローズ|オリックス]]ファンからもバカにされてたはず。


===畠山義総===
===ダメ外人列伝===
#いわゆる「偽信玄」だ。
#バース2世が何人来たのだろう・・・
#*可能性があったのは、マーク・ジョンソンくらい。
#**グリーンウェルの3億円!!
#***地震でホンマ苦しいときの金を巻き上げて、あれでアメリカ嫌いになったわ。
#シーズン途中に入ってくる外国人は、'''決して救世主ではない'''
#*強くなっている最近でも、マシな途中入団の人は少ない。
#駄目外国人ばかりの中活躍してくれたキーオは希望の光だった。
#*フィルダーも忘れないで。一年しかいなかったけど。
#*オマリーもマシな方だった。首位打者になったりしたのにヤクルトに行ってしまったのが今でも不思議。
#長かった暗黒時代だけど、心底嫌われてる選手がダレル・メイだけ1人ってのは意外かもしんない。次点は松永浩美だけど、彼の存在は余程の野球ヲタ以外には忘れ去られてる。
#*メイに関しては、「TO HIM」問題があったからだろうけど・・・。
#*阪急ファンにとっては今でも「3割20本30盗塁が期待できる最強のスイッチヒッター」なんだが。
#*上にもあるがグリーンウェルを忘れてはいけない。
#**忘れますた。
#**忘れさせて下さい。
#「マクドナルド」は、[[マクドナルド|ファーストフード店]]のことではない。
#*彼のユニフォームには「MacDONALD」と書かれてたような・・・aも要るのか?
#'''打ってクレイグ、頑張りマース'''
#*マースは名前が似ているだけでバースの再来にされてしまった。
#*懐かしの「誇大広告(=CMに偽りあり)」コンビ。
#阪神が自前で獲得した外国人選手が大活躍した記録は、90年代からほぼ途絶えている(暗黒脱出した今なお同じ。まともなのは2005年のスペンサーくらい)。
#*その点は今の巨人と共通していたり。
#*肝心なところでジェフ・ウィリアムスを忘れていた。


===蜂須賀正勝===
==暗黒時代のファンたち==
#通称は蜂須賀小六。[[豊臣秀吉]]の家臣。
#阪神が弱かった頃にガラガラの[[阪神甲子園球場|甲子園]]で応援していた人こそ、[[真のファン|本当の]][[阪神タイガースファン|阪神ファン]]。そしてそういう人は決まって、現状に嫌気が差して球場に来ていない。
#もともとは尾張と美濃の境目あたりに蟠踞していた地侍集団「川並衆」の頭領。
#*あの頃は、負け試合を観に行った事のスラングに「'''芝生鑑賞をして来た'''」というモノがあった。
#*盗賊だったというのは中傷。でも盗賊なんか一切しなかったというのも美化し過ぎ。
#**うちの学校では「小/中連体の下見に行ってきた」というのが流行った@西宮
#**子孫がこのネタで明治天皇にからかわれている。
#**「[[高校野球ファン|高校野球]]の下見に行って来た」ってのも聞いた(大阪→尼崎在)。
#***明治天皇の煙草かなんかをついくすねたのがばれて「血は争えんな」と言われたんだっけか。
#*暗黒から応援していて、今は鼻高々な人ももちろんいる。
#***でも蜂須賀家は11代将軍徳川家斉の子を養子にしているので、明治の子孫と小六の血はつながっていない。なので結局は明治天皇の勘違い。
#**ただし関西以外で。名古屋地区や関東地区だと鼻高々。
#*要するに通常は水運などに従事し、時には傭兵となり、時には盗賊働きをするような集団だった。
#*この頃の自由な阪神のほうが好きだった人も少なくない…はず。
#**鎌倉時代末期~南北朝時代に活躍した「悪党」みたいなもんだな。
#また、ヤクザだが選手応援歌作曲センス最高の中虎連合応援団がいなくなり、健全だが応援歌作曲センス皆無のダサ黄色ジャージ応援団が跋扈していることに憂いている。
#秀吉は最初、織田家と川並衆のつなぎ役だったと思われる。信長が美濃を制圧した頃から正式に秀吉の下についたのだろう。
#*個人的な話で申し訳ないが、シーツの応援歌のファンファーレ'''だけ'''は評価してる。それでもアリアスの「メシアフロムUSA」には負けてるけど・・・。
#小六自身には、そんなに目立った武功は無く、むしろ事務方の役割が多かったようだ。
#「や~ってくれたね~、タイガース~♪家庭円満、タイガース~♪」
#*いかつい荒武者というイメージは修正すべきかも。小さな運送会社の社長(自分も作業服を着て積みおろしなどやり、夜は帳簿とにらめっこして唸っているような)をイメージすれば近い気がする。
#*「ランランランラン黒い星 ランランランランまた増えた」
#**秀吉の側近として、事務方で動く事もあれば、黒田官兵衛の指示の元に鳥取城下の兵糧を買い占める隊の隊長として現場で活躍したりと秀吉の陰になった人。
#**負けソングの方が聞く機会が多かったことは秘密だ。
#矢矧川の橋の上で、寝ていた藤吉郎少年を蹴飛ばしそうになったのが、後の天下人との出会いだった……というのは後世の創作。
#*このコーナーで「85年の優勝がきっかけで阪神ファンになったら…、大乃国(康:第62代横綱)が横綱になったのでファンになったら…。そして僕の仇名は疫病神に決まりました」という視聴者のハガキが紹介されたことがある。
#*そもそも当時の矢矧川に橋はかかっていない。夢も希望もあったもんじゃないな。
#*「負ける気せんね」と「ハイハイ敗」って言うのか。曲は聴いたことあるが、曲名があるとは知らなかった。
#大河ドラマでは格闘家が演じることが多い。
#*「'''なんぎやなぁ'''」は1987年の流行語。しかし本当の難儀はここから16年も続いた。
#*だから「いかつい荒武者のイメージ」は修正すべきだとwww
#**1987年、「一昨年の優勝が嘘みたい…」という台詞も流行った。この台詞の通りだった。
#**「おんな太閤記」の前田吟はいいキャスティングだったと思う。
#苦しい時は、あの85年の栄光の映像を見て耐えてきた。
#***前田吟自身が気のいいおっさんキャラだから。
#10点のリードでも逆転されるんじゃないかとハラハラしながら観戦。
#*ドサまわりのような役割が多かったらしいので、頼りになりそうな恰幅がいい人が演じるのは、まあいいんじゃないかと。
#*でもいつだったか、1回に満塁ホームラン2本打った時はやり過ぎだと思った。
#娘の糸姫は黒田長政の正室。
#そう言えば昔、徳光が'''「阪神が優勝する事はハレー彗星が来るのと同じ位の珍事」'''って言ってたけど
#*しかし長政が徳川家康の養女を新たに娶ったため離縁。以後黒田家とは127年に渡り遺恨を残すこととなった。
#*空き巣に入られた家主が一番嘆いたのが「頼むから優勝記念のライターだけは返してくれ。もう二度と手に入らんのやから」・・・
#**それでも自身の孫にあたる蜂須賀至鎮(よししげ)もやはり家康の養女を娶っているのでおあいこと取れなくもないのだが。
#**わかるぞ~~、わかるぞ~~
#*1985年のこと。この発言の2年後だったか、暗黒突入は。
#負けることを前提に試合を見に行く。ゆえに万が一勝ってしまったら、球場の外でも馬鹿騒ぎ。
#大量得点をあげて勝つと、自分の身に良からぬことが降りかかるのではと、不安になる。
#いつかバースが'''選手として'''帰ってくることを、本気で願っていた。
#*「ああ、ここにバースがおったらなぁー」と呟いた人もいたはず。
#ファンの合言葉は''あと100連勝すれば逆転優勝できるから。''
#*シーズン前に先発投手の勝利数を予想して合計すると、余裕で100勝を越える。しかしその内容は「藪18勝、川尻15勝、湯舟15勝、中込13勝、山崎10勝」のような到底不可能な設定。
#シーズン中は、3日に1回はファンを辞めようと思っていた。
#*それでも関西の[[オリックス・バファローズ|他]][[大阪近鉄バファローズ|球団]]ファンに転じることができず、ずるずるとファンを続けていた。
#**それらの球団が好調&優勝したとき、にわかでそっちのファンに転じるものもいた。
#***その中には、単に優勝セールや騒ぎ事狙いの人も結構いそうだが。
#***★縦縞のハッピを着た人が、グリーンスタジアムや藤井寺に来てた。
#**その他球団のファンに乗り換えようと思っても、やっぱり阪神に未練があり乗り換えきれなかった。
#圧倒的な負け試合の中トラッキーのパフォーマンスが唯一の楽しみだった・・・
#この頃からファンをやってる人は、2007年オールスター明けの驀進劇~嘘のような連敗を見て'''心のどこかでホッとしたハズ。'''
#*「9連勝したら10連敗する」なんて事が多々あったモノだ。暗黒時代は。
#*2008年の戦績(13ゲーム差からのV逸)を見ても、この時代からの阪神ファンの中には「当然だろう」「むしろ安心した」と思う人が少なからずいるらしい。
#当時からのファンは、「自分が観戦したから負けた」とか、「自分がファンだから最下位」とかいう考えが染み付いてしまっているので、強い今でもチームに申し訳なくて観戦できない。
#*そのためどれだけ他球団とゲーム差が離れようと、リバウンドを恐れる阪神ファンは今なおいる。
#*怪我をしたり物をなくした日は、試合に運が向いてくると思って観戦に行った人もいるらしい。もちろん、更に憂鬱になることの方が多かったらしいが・・・
#*これと関係あってか強くなっている最近でも、負けかけていると「見てたら負ける…」と思い、テレビのチャンネルを変えたくなる。
#**甲子園などの球場で見ているときも、ピンチになると目をそらしたくなる。
#3連戦で「斉藤・桑田・槙原」をぶつけてくる読売は、血も涙もないと思っていた。
#*槙原だけは嫌な思い出ばかりでもないけどね。
#*槙原は伝説のバックスクリーン3連発や新庄の敬遠球サヨナラのイメージが強すぎる。
#*だが、槙原が出てきたら勝てる気が全くしなかったのも事実。
#*槙原の阪神戦成績は38勝10敗と、阪神戦がもっとも得意だった。2つの負け試合が有名すぎるために意外な印象がするが。
#*兵庫出身の村田が阪神戦にやたらに強かった。
#1回の攻撃、1番和田豊の応援歌を歌い始めた時が、試合で一番楽しい時だった。
#*「おとこーならいーのちかけーてーぼーるーにーくーらーいつーけー♪」
#**「ゆけよーゆけよーわだゆたーかーおまえーのーでんばんだぜー♪」
#*その次が「'''こーのーいちだにかーけろー♪'''」だった事がある。暗黒史に残る謎の「スタメン2番・桧山」・・・(しかも開幕3連戦でやった)
#**2番は「レツゴーレツゴーてるーよし」がデフォじゃないのか!?
#***中日に行ってまた阪神に戻った久慈か・・・。沖原に応援歌を譲ってもらえずヒッティングマーチ2番だったな・・・。
#負け試合を見せられ、「二度と見に来るか!ボケ!」と捨て台詞を残し、次の日も同じ席で観戦
#*阪神ファンの悲しき習性。今の[[横浜ベイスターズ|横浜]]ファンより熟成されていただろうか。
#子どもの時、「何で阪神は勝てないの?」と親父に聞いたら'''「阪神だからに決まっとるやろ!」'''と言われ、それ以上何も言えなかった。
#*僕も昔、「何で阪神と巨人はこんなに強さの差が激しいの?」とオカンに聞いたら「阪神と巨人は、小6と小1の喧嘩みたいなもんやから、しゃーないやん」と言われて納得せざるを得なかった。
#ぶっちぎりで指定席への道を突っ走ってた時、七夕の短冊に「'''阪神が優勝しますように'''」と書かれているのを見て、思わず泣きそうになった
#*優勝は無しでも良いから3位にはなってくれって言っていた人がいたぞ
#*ゴメン、'''絵馬に書いたわ。'''
#5位のことを「'''セリーグの5本の指に入った'''」と言う。
#15年前の虎の涙が、今、美味い!
#*2008年現在で唯一の現役、檜山がそんなに貢献しているかどうかは微妙なところである。
#**「焼酎」の話よ。
#*2003年に[[阪神百貨店]]の優勝セールで日本酒買ったけど、2年後に飲む事になるとは思わなかった。
#新聞の順位表は下から見てしまう。
#イチローの打率よりも、勝率が低くなったらどうしようと戦々恐々。
#俺が小学生の頃、ポケモンで阪神はコガネライコウズだよなと言ったらライコウ好きの俺の友達がきつい一言(以下↓)
#*「'''ハア!あんなチームライコウが可哀そうだよ!、阪神はゴ○○○ズで十分だよ!'''」と言っていた
#*ちなみに「ゴ○○○ズ」はポケモンですら無いし・・・
#「せめてゲームの中だけは・・・」とファミスタやパワプロに現実逃避を試みるも、ちっとも現実逃避になっていなかった。
#「最下位を脱出した」だけで、道頓堀川へ戎橋から飛び込む人がいた。
#当然のことではあるが、最近以上に大阪の巨人ファンが少なくなかった。阪神ファンとしては、地元にも関わらず、(色んな意味で)肩身の狭い思いをせざるを得なかった。
#*友達や先輩に好きな球団を聞いたところ、大阪にも関わらず「巨人」と答える人が多く、がっかりした。
#**続けて「何で巨人なん?」と聞くと「阪神ショボいやん」と答えていた。確かに無理なかったな。
#*こういう人たちに限って、星野監督時代ににわかで阪神に乗り換えてきた…。
#**“仲間”が増えたのは少しうれしいが、素直に喜べなかった。
#**素直に喜べなかったというよりも腹が立った。
#**「よく巨人を捨てれたな」とも思った。
#ペナント中、試合が無い日'''だけ'''ほっとすることが出来た。
#*試合に勝てた日も心穏やかになることは出来なかった(後遺症が怖かった)。
#*ペナント中の試合が無い日だけでなく、ペナント終了後の“本当の”ストーブリーグに入った時もほっとできる。
#**ある意味、気分転換のしやすい時だった。
#序盤だけ好調ということが多かったため、優勝した2003年も実はずっと'''阪神半疑'''(半信半疑)だった。
#*6月、7月、8月と月が変わる度に、「そろそろダメだろう」と思っていた。この年も死のロードは大きく負け越したからなお更。
#*そしてそれが現実になってしまったのが2008年……暗黒時代からのファンだからまだ耐えられたが、やはり悲しい。
#*当時の阪神に慣れてるだけに、2、3位で優勝を逃した時「昔(つまり当時)を思えば、恵まれている」と思う。
#*この当時のことがあるだけに、快進撃を続けていても、いつ没落するか心配でチームの快進撃を素直に喜びづらかった。
#甲子園球場には'''失策'''という名前のコントを見に行っていた。
#*巨人をはじめとする他の球団選手にどれだけ笑われ、さらにどれだけTVのネタにされただろう・・・
#*ゴロが失策で本塁打になってしまったことまで・・・
#*凡フライでもちゃんとキャッチできるかどうか常に不安な状態で試合を見ていた。
#余りに球団が不甲斐無かったため、ファンが抗議で応援するのをやめてしまった時期がある。
#*「鳴り物中断」と週刊誌にも書かれた。
#'''試合で一番盛り上がるのが、途中経過で読売が負けているのを知った時。'''
#*他力本願しかできなかった。


===服部正成===
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#いわゆる服部半蔵。
{{阪神タイガース}}
#忍者衆を束ねる存在であったが、自身は忍者ではなかった。
#*親の代から三河に出て家康に仕えていたので、正成は伊賀では生活していない。普通の武士である。
#*しかし「神君伊賀越え」の際は、人脈を活かして安全に伊賀地域を通過させ、家康の信任を得る。
#何でこれで「はっとり」と読むんだろう?
#*上代に紡績や被服をつかさどる部署として「はたおりべ(機織り部)」が置かれ、これに「服部」という字を宛てていた。そのうち「べ」が落ち、「はたおり」がなまって「はっとり」となった。
#「神君伊賀越え」の際に先導者として活躍したらしい。一応自分の古巣だし。
#サッカーでFWのポジションが得意だったらしい。忍者ハットトリックんだけに。
#実在の伊賀流忍者。[[徳川家康]]の側近。
#講談や小説では徳川忍群の頭領として活躍。
#*真田十勇士の宿敵ともなっているが、これは時期からして正成ではなく、半蔵の名を継いだ息子の正就だろう。親父と違ってかなり頼りない人だったらしい。
#(一応)忍者の名前が城の門にまでつけられているのは彼だけ。
#*いやそれはきっと[[象]]が江戸城にやってきたときに体が半分しか入らなかったから(嘘)
#「武勇に優れ『鬼の半蔵』とか『槍の半蔵』とも呼ばれた」という説明書きを時々見るが、それは本当は渡辺半蔵の事である。
#*「家康の長男・信康が切腹するときの介錯役だったが、信康を不憫に思い斬れなかった」という話もあるがやっぱり渡辺半蔵の話である。
#**服部半蔵はさすが忍者だけあって人の異称や逸話まで盗めるらしい。っつーか渡辺半蔵かわいそう(涙)。
#松尾芭蕉になったという説もある。しかし時代考証が滅茶苦茶すぎではないのか。


==ひ==
[[Category:阪神タイガース|あんこくしたい]]
===日根野弘就===
[[Category:耳寄りな噂|はんしんたいかあすあんこくしたい]]
#裏目を引き続ける人。
##美濃・斉藤家で家老を務める。が、斉藤家が織田信長に負けて滅亡。
##東へながれて落ち目の駿河・今川家に仕える。が、武田・徳川に挟撃され今川家も没落(程なく今川家滅亡)。
##近江・浅井氏に仕える。が、同僚を殺傷し出奔(程なく浅井家も滅亡)。
##伊勢長島の一向一揆に加わる。一向一揆も壊滅。
##結局織田信長に仕える。…そのうち信長が本能寺の変で散る。
##その後、豊臣秀吉に仕えるが勘気をこうむったりで 浪人→復帰 × 3。
##そして関ヶ原の合戦で息子達は東軍について勝ち馬に乗れた。よかったよかった、と思いきや、2年後に実は西軍・石田三成に通じていたことがバレる。息子達に迷惑かかる前に切腹。
#*何度も敵対されてるのに、信長は良く雇ったもんだ。
#切腹の様がまたすごい。腹から臓物を引っ張り出し、庭木にかける。そこで、ふと石田方とやりとりしていた書類の処分を思い出す。書類を紐で厳重に縛り、たき火にくべる(※腹は切った状態です)。で、一晩普通に過ごす。「まだしねないなぁ」。翌晩、やっと苦しみだし、やっと自分で首を斬って果てる。
#* おい、誰か介錯してやれよ。ってか 庭木にかけたはらわたはそのままだったんだろうか?
#*なお、日本で始めて切腹した人は介錯がなくて三日三晩苦しんだとか言う話もあるので、あり得ん話ではない、、のか?
#*但しこの話が本当にあったのかは定かではない。
#鎧兜にこだわり、日根野頭形兜という形式を作った人。そっちでもちょっとは有名。
#息子は諏訪高島城を造る。が、城の展示ではその後地元に復帰できた諏訪氏についての記述ばかりで城を造ったよそ者・日根野氏には触れられていない。
 
==ふ==
===福島正則===
#「賤ヶ岳の七本槍」の一人。
#*実際は九本槍。しかし二人が戦死した為七本槍と喧伝される。
#加藤清正と仲良し。「オイ市松」「何だ虎之助」と互いを呼ぶ間柄。
#気の荒い大名扱いされやすいが、なかなかの人情家でもある。
#*関ヶ原の合戦で敗れ、八丈島に流された宇喜多秀家に酒贈る(実際は正則の飲む酒を運ぶ船が嵐を避ける為八丈島に避難した際に秀家に酒求められ、贈ったのがきっかけ)とか、少年時代に暑さで死にかけたところを救ってくれた尼僧には米を毎年贈る等、結構義理堅い。
#**尾張から安芸に移るとき、代わって尾張に入る大名に尼僧の世話を頼み込んでいったという。
#広島城修築を将軍家に無許可で行ったのが仇になり、信州へ追い出された。
#*追い出された先の信州では結構善政敷いたとか。田の等級別に年貢定めた「福島の棹受帳」や松川堤防を千両の予算で改修したという「大夫の千両堤」が残っているという。
#清正とは反対に、仕事は家臣に丸投げだった。
#*だがそのおかげで政務にも軍務にも人材がそろっており、これも加藤家とは反対に、改易後の再就職は引く手数多だったとか。
#*江戸から改易伝える役人が来る時「主人直命書無くして城地明け渡しならざる」と家臣団が一致団結。直命書が届くや全員正装で整然と城地を明け渡した。
#短気で凶暴おまけに酒乱という、三国志の張飛を思わせる人物。
#*少年時代に些細ことから人を殺してしまったが、「人を殺すのがこんなに簡単なら、俺は出世できるに違いない!」と考えたのが武士になる第一歩。
#*酔っ払って家臣に切腹を命じてしまい、酔いが醒めてから家臣の死を知って号泣した。
#*名槍「日本号」を母里太兵衛に持ってかれたのも、酒席における失敗談の一つ。
#*酒さえ飲まなければ・・・名将といえるのだが。酒さえ・・・
#**酒の入っていないときの逸話にはいい話が多い。
#実は朝鮮出兵にはほとんど参加してない。
#*ちょうど中間地点にある「[[京畿道]]」を統治。補給路の確保と義兵の駆逐に全力を注いでいたと思われる。苦労の割に手柄の少ないポジション。
#名うての恐妻家。
#*側妾がいることを知った正妻に薙刀で斬りつけられ、裸足で外に飛び出した。
#*後に「戦で敵に後ろを見せたことは一度もないが、あのときは思わず逃げ出してしまった。まこと、女の嫉妬は恐ろしい……」と、笑いもせずに語ったという。
 
===古田重然===
#ゲヒ殿。
#*「へうげもの」ファンに付けられた織部の渾名。
#*織部の菩提寺は、同じく最近人気が高まっている曾我蕭白の墓もある。
#**そのせいで、参拝客増加に伴いゴミも増えて、お寺の方が迷惑しているらしい。これから訪ねようと思っている方はご注意を。
#茶道の大家で、「古田織部」の名で有名。
#*茶碗は高値で取引される。
#**歴史的意義を考えると、茶碗のような茶道具よりも、懐石で使う食器の方が重要。
#***中世まで漆器やかわらけ(素焼きの粗末な土器)、貴族なら中国からの青磁や白磁といったレパートリーしかなかったが、志野焼や織部焼以降一気に食器の種類が増える。
#****室町時代と江戸初期に描かれた全く同じ題材の絵巻物を比べると、後者は人物や建物の描写は全く室町時代のものと同一でありながら、膳上の食器の種類だけが明らかに増えている。
#***食器に拘った北大路魯山人も織部焼のやきものをいくつも作っている。歴史的経緯を考えれば当然か。
#*ちなみに茶道の本を読んでも、殆ど載ってない。特に[[バカ人物志/日本#千利休|千家]]関係者が書いた本には。
#**史料が少ないからしょうがないのだが、いくら何でも少なすぎ。
#**古本屋や図書館を駈けずり回っても、古田織部の本はなかなかない。「へうげもの」の資料集めは本当に大変だと思う。
#大坂の陣で、現職の大名としてはただひとり豊臣方についたらしい。
#*旗幟を鮮明にしたわけではないので「らしい」という言い方にとどまる。
#*配下の木村某が豊臣家と通じて京都に放火したりした。暗黙の了解は与えていたようだ。
#**仮に事実だとしても、部下が勝手にやったことで織部は知らなかった、と桑田忠親先生は推論してた。
#*秀頼の遺児・国松をかくまったという噂もある。
#*そんなこんなで京都所司代の板倉勝重に逮捕され、切腹を命じられるが、ひとことも抗弁しなかった。その理由はいろいろ想像できる。
#*はっきり言って謀反は濡れ衣だと思う。
#**山崎の合戦や関ヶ原でもきっちり勝ち馬に乗ってのたのに、ここへ来てしかも前より遙かに先を読みやすい大阪の陣の勝敗を読み誤るなんてありえん。
#***耄碌してた?大阪冬の陣で茶杓に手頃な竹を手に入れようとして、敵に狙撃されて軽傷を負うくらい元気ですよ?。
#****茶杓「玉霰」はこの時に作ったと言われている。
#**秀吉に恩があったという人もいるが、織部が本格的に活躍するのは秀吉死後、しかも秀吉は織部が敬慕した利休の仇に当たる。身を賭してまで豊臣家に尽くす動機は薄い。
#**楠木誠一郎はその著書では濡れ衣を否定し、徳川への謀反を企てたことは確実だと断言した。もっとも楠木氏が書いた「日本史おもしろ推理―謎の殺人事件を追え」や「謎の迷宮入り事件を解け―歴史おもしろ推理」での数々の推論は飛躍しすぎてる点もあるので注意が必要。
#*織部の死も利休の死の理由と同じように、茶の湯のもつ革新的な思想、特に「茶の湯では人間皆平等」と「道理にかなっていれば何をしてもよい」というのが幕府に危険視されたと思う。
#**「安定」を最大のコンセプトにする幕府にとって、一向一揆を引き起こした平等思想は危険思想に他ならない。
#***江戸時代以降も、茶の湯における平等は建前として残り、茶道は武士や町人が身分に分け隔て無く接する場として機能するけれども、もはや桃山時代のような激しい緊張感を伴った創作の場では無くなってしまう・・・。
#**近世の法観念を表す言葉に、法は道理に勝るという「非理法権天」という言葉がある。法律を作って世を治めようとする幕府からすれば、道理に適ってさえすれば、大切な器物をぶっ壊すことも厭わない織部は、危険人物にしか見えないだろう。
#***織部の死の直後に武家諸法度が出されているのは、なかなか象徴的だと思う。
#織部とは「オリーブ」の意味という説もある。
 
==ほ==
===北条氏照===
#炎の蜃気楼のおかげで北条四兄弟では一番人気がある。
 
===北条氏直===
#北条氏政の嫡男。後北条家5代目当主。
#*母は武田信玄の娘、つまり信玄の孫でもある。あの頃の婚姻同盟すげえよ。
#後北条5代と言って、「早雲、氏綱、氏康、氏政・・・あれ、4代じゃね?」とか言われちゃう感じに影が薄い。
#*一応家督を継いでから10年くらいは当主やってる。まだ若かったから父親と二人三脚だが。
#小田原開城の際に切腹しようとしたが、降伏を伝えに来た時の神妙さに感心した秀吉に助命され、叔父の氏規と共に高野山に流される。
#*後に赦免され、大名に返り咲きさせてもらう筈だったが、早々に病没。
#**享年30歳。これにて後北条氏の宗家は断絶。
#嫁は徳川家康の娘、督姫。
#*小田原開城の際の助命は、これも大きな理由。
 
===北条氏規===
#北条氏康の息子。氏政の弟。
#幼い頃、今川義元のところで人質として暮らしてた。
#*どっかの狸親父と同じ境遇。そう、まさかの「徳川家康の幼馴染」。
#*桶狭間で今川義元が死んだ後、家康は三河に帰ったが、氏規は小田原に帰った。
#*豊臣の窓口となった家康と再会し、上洛して豊臣政権の強大さを知ることになる。
#とっとと豊臣に恭順して家名を存続すべきと主張。秀吉に会いに何度も上洛。
#*徳川家康も、小田原征伐の際には彼を助けようとしてくれた。
#*結局小田原は開城するが、家康の計らいで助命され、高野山に流される。
#**しかも割とすぐカムバック。小田原からは遥かに遠い狭山(埼玉じゃなくて今の大阪狭山市)に城をもらい、そこで生きながらえた。ちなみに没年は関ヶ原合戦の年、1600年。
#家康は彼の息子に彼と氏直の遺領を譲り、初代狭山藩主の大名にした。おかげさまで後北条氏の血筋は幕末まで存続。
#朝廷から官位をもらっていなかったので、(官位で席順が決まる)秀吉との謁見のとき下座に座らされて大恥をかいた。
 
===北条氏政===
#父親の後を継いで着実に所領を拡大して北条家最大版図を実現させ関東甲信越に強大な勢力を築いただけあってかなりの実力者であるが、関白秀吉による小田原征伐の結果降伏して家を潰してしまったがために過小評価されてしまっている。
#*汁掛け飯や麦飯の話、そして小田原評定のマイナスイメージがついてしまった。
#*もっとも小田原征伐の頃は家督を嫡男の氏直に譲っていたのだが。
#*最後の最後でコケてしまったために無能呼ばわりされてしまった例の一つともいえる。
#*「北条記」という史書での扱いもひどく、歴代当主で唯一「君」付けされていない。
#**従来、秀吉の小田原征伐は補給を重視し、余裕で勝利したと言われてきたが、最近になってこれがかなり見直されてきている。豊臣方で参加した武将の日記やイエズス会宣教師の記録からは、豊臣方の補給は十分とは言い難く、士気が低下し離脱者がぽつぽつ出ていた実態がうかがえるためである。
#*父親の氏康、関白秀吉、そして下記の後北条氏の後釜として関東にやって来た徳川家康の三人の引き立て役にさせられている感すらある。
#武田勝頼同様、織田家の脅威よりも、関東の覇権や勢力均衡を優先してしまったのが敗因と言える。例えば敗残の勝頼を援助して甲斐へ押し戻していれば、その後の展開はだいぶ違ったかもしれない。
#*関東の覇権を重視するのは、後北条氏のアイデンティティであり存在意義だったため、状況が一変したからといって簡単には路線変更できなかった。
#**早雲の代に京都の室町幕府を見限って関東で旗揚げし、姓を捨ててまで(早雲の時はまだ伊勢氏だけど)関東に土着しようとしたのに、今更関西の政権なんぞに従えるか!という気持ちが強すぎた。
#**信長・秀吉の政権と後北条氏は、どちらも「室町幕府の超克」という同じコンセプトを持っていたために共存できなかった。他の大名権力は自己の領国を支配することまでしか考えてなかったため、自分の支配が認められさえすれば妥協することも出来たのだろう。
#***結局室町幕府の後継者は、信長・秀吉のアイディアと後北条氏の領国を引き継いだ徳川家康になるのは、ある意味歴史の必然だろう。
#**大雑把に言えば、前者は中央集権国家、後者は地方分権国家を目指していた。
#*これはむしろ勝頼に責任がある。御館の乱で景勝方に味方してしまって氏政を敵に回してしまったから。
#**しかしある時は敵、ある時は味方。武田、上杉、北条は、敵対と和睦の状況がコロッコロ変わる。タイミングが悪かったというか運が悪かったと言うか。
#***ちなみに景虎は氏政の弟。勝頼の嫁は氏政の妹。
#後北条家は関東において、配下の官僚化と組織化、言いかえれば現代でイメージする「大名」の育成に、豊臣政権より先に成功していた。
#*豊臣政権と折り合いをつけられたら、半独立国としてやっていけたかもしれない。
#**現実にそれができたのは伊達。豊臣は西日本は完全に掌握したが、東日本は北条と伊達がくっついたら日本が真っ二つに割れると考え、北条を滅ぼして伊達を恭順させるという目論見は、規定路線だったと思われ。
#***小田原征伐の原因も、何もそこまで徹底的にやらんでもという些細なきっかけだったし。
#***残念ながら、伊達を滅ぼして北条を生かす方の道はない。日本地図見ればそりゃあなぁ。
#小田原の開城と共に切腹。
#*5代目当主の息子は助命されたが、これにて後北条氏の小田原支配は終了。
#**そして後北条氏の後釜として関東に来たのが、誰であろう徳川家康である。
 
===北条氏康===
#地元の神奈川でさえも地味。早雲からの後北条家と言えば少しは有名?
#*箱根観光で小田原城や早雲山とか知ってる人になら・・・
#**個人的には氏康をどう評価しているかで本当の戦国好きかどうかがわかる気が。最近流行り(苦笑)の「歴女」とやらに聞いてみたいものだが。
#**居城の小田原城は、「戦国のイゼルローン要塞」。
#***正攻法の城攻めには完全無敗。武田信玄も上杉謙信も小田原まで攻めて来たことがあるけど、どっちも撃退。豊臣の包囲網への開城が一回のみで、それは後北条氏の滅亡を意味した。
#[[鎌倉時代#鎌倉幕府の執権|鎌倉執権]]とは直接関係ない。
#*相模の平定のために、鎌倉執権の跡目っぽい名前が欲しかったんだと。改姓は父親(氏綱)の代からだけど。
#*おかげで昔から関東を治めてきた他の大名は、いつまでも後北条氏をよそ者扱いし、ずっと「おめーらなんか北条じゃねえ。伊勢だろ伊勢バーカ」と呼んでた。
#[[上杉謙信]]の宿敵の一人だが、謙信が上杉氏の名跡を継いだきっかけを作った人というのはあまり知られていない。
#*関東管領上杉憲政(山内上杉)に連戦連勝。ついに関東から追い出した。これを恨んだ上杉が長尾景虎に、打倒北条の宿願と苗字と関東管領職を譲った。
#**ちなみにその上杉憲政だが、氏康の息子と一緒に御館の乱で死んどる。すごい因縁もあったもんだ。
#息子が飯に汁をかけて食べる様を見て「これで北条家も終わりだ」と嘆いた。
#*ご当人は卵をかけて食べるのが好きとかいう話があれば面白かったのに。
#**確か、汁を何回にも分けてかけていたからではなかったかな。「飯にかける適量も一発でわからんのか」というわけで。
#***まあ、この話自体が作り話だけどね。
#元々領民に優しかったといわれる北条家の税制を改革して、領内に善政を敷いた。
#*実は若い頃はうつけと呼ばれ、有能な父親に対するバカ息子呼ばわりだった。それなんて第六天魔王?
#**それでも河越夜戦で名を上げ、政務もバリバリこなし、戦国大名にありがちな家族間の不和などとも無縁で、着実に実績を積み続けた。
#晩年は脳溢血で会話も食事も満足にできなかったらしい。早めに氏政に家督を譲っといてよかった。
#*だが後北条家は家督の継承順位を非常に厳格に適用していたので、どこかの上杉みたいなことにはならなかったと思われる。長男は早世したが、次男の氏政がしっかり後を継いだ。
#*氏康が没したことが伝わると、城下の領民が老若男女ことごとく嘆き悲しんだという。ここまで慕われた戦国大名も珍しい。
#正室は今川義元の姉。
#*つまり氏康と義元は義理の兄弟。今川とは何度も戦争やってるが、夫婦仲はずっと良好だったらしい。
#**一度だけ家臣の妹に手を出して怒られたことがあったっけかな。
#*嫁さんは10人くらい子供生んでくれた。
#**そろそろ子供が産めなくなる歳になるまで、氏康は側室を持たなかった。側室を持つように勧めたのは嫁。
#当主なのに戦場では先陣切り込みまくり。追撃までやる。
#*おかげで顔も含めて傷だらけだったが、背中には傷がなかったと言う。それなんてネプチューンマン?
#早雲から数えて3代目。後北条氏の全盛期を築く。
 
===北条早雲===
#恐らく日本史で始めて電撃戦(と思われる作戦)を行ったが、登場時期が時期だけに、かなり影が薄い。
#没した時80代だったらしい。
#*今川義忠の側室になっていた妹の縁で駿河興国寺の地頭になったのが44歳。
#*義忠の子・氏親に駿河守護を継がせるべく、駿府館に居坐っていた今川(小鹿)範満を打倒したのが55歳。
#*伊豆に侵攻して堀越御所を亡ぼしたのが59歳。
#*小田原の大森藤頼を追放して西相模を占拠したのが63歳。
#*上杉朝興率いる関東管領軍を玉縄で撃破したのが80歳。
#*三浦道寸を亡ぼして相模全土を掌握したのが85歳。その2年後に死去。
#*とてつもない遅咲きだ……
#**遅咲き過ぎて不自然に思えるせいか、「本当はもっとずっと若かったんじゃないのか」という説が近年になって出てきている。
#**しかし、彼の三男の北条幻庵もえらく長生き(享年97)だったし、長生きの家系ではあったような気がする。
#*実際は24歳ほど若かったらしい(干支は同じ)。
#**上に書いた記事をほとんど無意味にするコメントだ……ww
#**12歳説もある。どっちにしろ干支は同じだが。
#北条姓になったのは息子の氏綱からで早雲自身は死ぬまで伊勢姓だった。
#*前半生は謎が多いが、後半生の振る舞いからして、伊勢流の礼式に通暁していたのは確実。一部の研究者が主張するような「根っからの素浪人」ではあるまい。
#*伊豆を支配した時に、治所を北条(鎌倉北条家の発祥の地)に置いたため、まわりから「北条殿」と呼ばれるようになり、だんだんそれが苗字みたいになった。
#「戦国時代を拓いた男」でもある。
#*領民と直接結びつき、一元的に統治した。それまでの守護・地頭体制とは全く異なる政治を導入し、「戦国大名」のさきがけとなった。
#今川さんのところに行く前に平姓を名乗っていたのは秘密。
#*伊勢氏なので必然的に平姓。秘密でもなんでもない。
#**名前の「早雲」は出家後の法名で、出家前は伊勢新九郎長氏だったんだっけ?
#*鎌倉北条家も平氏なんだけどね
#盗人に「俺は物を盗んだだけだがお前は国を盗んだじゃないか」と言われ、度胸がある奴だと感心して無罪放免にしたらしい。
 
===北条綱成===
#北条氏綱の娘婿。氏康とは義兄弟にあたる。
#*氏康がまだうつけと呼ばれていた頃、家臣の間では義理の弟である綱成の方が後継者に相応しいみたいな声もあった。しかし氏綱はそんな風評を全部押さえつけ、嫡男の氏康を当主にした。
#**もっとも、綱成の方にその気はなかったらしい。そのあたりは武田晴信、信繁兄弟みたいな感じ。
#口癖は「勝った、勝った!」
#*勝った勝ったと言いながら敵陣を駆け巡ると、敵兵は大いに混乱したという。
#**そりゃあ無線も電話もない時代なら、「あれ? 俺ら知らないだけで本陣負けちゃったの?」とか思うもの。
#北条戦隊のキレンジャー。
#*北条の黄備え。朽葉色の旗指物に八幡って書いてたから地黄八幡。
#北条軍一の猛将、地黄八幡の名は近隣諸国に大いに轟いた。どこに行っても「げえっ<s>関羽</s>綱成!」状態。
#*武田信玄がどっかの城を攻め落としたとき、北条軍撤退後に残された旗があった。朽葉色だったので武田兵は「綱成が旗を置いて逃げた。ざまぁw」と言って笑ったが、武田信玄は「綱成が旗置いて逃げるわけねーだろ。悪いのは綱成じゃなくて兵」と言って兵を叱った。
#**ちなみにこの時の旗、「お前も武勇をあやかれ」と言って真田幸隆の子供にあげたんだが、実は現存しとる。
#河越夜戦で河越城を守っていたのは彼。
#*3千vs8万の兵力じゃ普通は降伏するか自棄になって特攻するが、氏康の援軍が来るまで半年もよく耐えた。
#息子は氏康の娘を嫁にもらった。いとこ同士の婚姻だが、別に特筆すべきことでもないか。
 
===北条長綱===
#北条早雲の三男。戒名は「幻庵」。
#97まで生きたという超長生きじいさん。早雲~氏直の五代全員に仕えている。
#碁が得意だった。
#*小田原城内の連中と戦って敵なしだったため、ある日「俺より強いヤツに会いに行く」と言って城を出て行った。
#**そんで城下に行ったら一人のおっさんが対戦相手に名乗り出たのだが、そのおっさん普通のおっさんなもんで、氏康の叔父でもある幻庵にビビりまくり。
#**最初は緊張で思うように打てなかったが、何戦か対局してる内に緊張もほぐれて調子が出て、いい勝負を繰り広げるようになった。そしたら幻庵の妙手に「うわこの小僧(石のこと)どこから出やがった!」と思わず口走った。
#**はたと我に返って「うわぁぁぁオレは箱根様になんてことをくぁwせdrftgyふじこlp」と錯乱。幻庵はなだめるのに必死だった。
#**ちなみに幻庵、この時のことは「楽しかった」とな。
 
===細川忠興===
#父細川幽斎同様歌道、茶道などに造詣が深く、兜作りにも堪能な教養人だが、気性がかなり荒い。そして[[ベタなヤンデレキャラの法則|ヤンデレ]]。
#息子二人との間に亀裂を生じ、二人とも放逐している(次男は大坂夏の陣で西軍に与して切腹させられた)。
#妻は洗礼名の細川ガラシャで有名な明智光秀の娘玉子。
#*逸話を見ると夫婦仲が良かったのか悪かったのか不明。だが妙に血なまぐさい。
#**ヘマをした下人をガラシヤの目前で忠興が手討ちにした。血しぶきがガラシヤの着物にも飛んだがガラシヤは平然、血のついた着物を着続けた。
#**あきれた忠興が「お前は血の冷たいこと蛇のようだな」と言えばガラシヤ返して曰く、「あなたは鬼です。鬼の女房には、蛇がふさわしゅうございましょう?」 怖い、怖いよ。
#コレクションした名刀に自ら銘を付けているが、その内容が……。
#*歌仙兼定:手討ちにした(戦で斬った、ではない)人数が三十六に達したので、三十六歌仙になぞらえて命名。
#*晴思剣:思いが晴れてすっきりしたことから命名。晴れた理由は、「積年の恨みがあった茶坊主をぶっ殺したから」
#80歳になってから、やっと親父の言ったことを理解した。
#長生きだった。
#本人が筆まめ、かつ家が現代まで残っているため、多くの手紙が現存しており、当時の様子を知る資料となっている。
#*「あの大名がこんなことをしたんだよ。あいつらしいよなあ」とか、「この間の鮎は焼きかたが駄目だったぞ」なんて話題も多い。現代のメール感覚やね。
#*手紙に何度か登場するのが[[伊達政宗]](晩年)のヤンチャぶり。「あいつキツネがついてんじゃねーのか?」とは忠興さんの評。
#**「お前が言うな」とは言ってはいけない。
#信長大好き。兵法家も大好き。
#越中ふんどしの名は忠興さんの官名「越中守」からついたとか。
 
===細川藤孝===
#法名は「幽斎」。
#戦国一の教養人として名高く、数多の武将や公家、町人が教えを乞いに来た。
#実は武芸も達者で、とある武将の腕をひねり上げたら、その腕がひどく腫れ上がり、湯治を行う羽目になった。
#*他にも、門の閂(太い材木)を素手でへし折ったとか、暴れ牛の角をつかんで投げ飛ばしたといった逸話がある。外見はマッチョだったかもしれない。
#息子の忠興に歌道を教えるとき、「お前程度がいくら失敗したところで、私の名声が揺らぐことはないから、安心して学べ。」と言った。その後、忠興は歌人としても大成した。
#敵に城を囲まれた時、天皇が詔勅を出して彼の命乞いをした。
#*古今伝授の伝承者が当時は彼だけだったため。まさに「芸は身を助ける」だ。
#*「敵に城を~」の戦いは関ヶ原の戦い。こもってた丹後田辺城(舞鶴城のこと)開城指令の勅書が届いた時「天下に開城数々あれど詔勅によって開城したるはわれのみぞ!」と叫んだとか。
#**この時の攻め手(西軍)は5000の兵力ながら士気上がらず。守る田辺城は250。攻め手の士気上がらないのも道理、攻め手の大将が藤孝の弟子だからだ。
#室町幕府滅亡後、しばらく長岡姓を名乗っていた。
#*関ヶ原の合戦後細川姓に戻した。
#足利12代将軍・義晴のご落胤らしい。
#*義輝や義昭とは兄弟ということになる。その気になれば将軍位継承を主張できたかも。
#**それをする気配もない平衡感覚が細川家を織田・豊臣・徳川時代通じて絶妙のポジションで存続させ得た理由なんだろう。平成になってついに天下も取ったしな。
#**実にコロコロ寝返っている。松永久秀とかよりよほど信用できない。
#伏見城の柿の木に登って柿を盗っていたところを[[豊臣秀吉|太閤]]に見つかったが、とっさに一句ひねって笑って許してもらったという。これも「芸は身を助ける」
#*その時詠んだとされるのが「君が代は 千代に八千代に さざれ石の巌となりて 苔のむすまめ」だとか。
#信長の野望・戦国群雄伝の顔グラはトラウマになるレベル。こえーよ。
 
===本願寺顕如===
#浄土真宗(一向宗)本願寺第十一世。本拠地は石山本願寺。
#この時代の宗教組織は大名とほぼイコール。中でも本願寺は、資金力、動員兵力、他国への影響力など、日本最大級の大名と言って過言ではない。顕如はその最盛期を築いた。
#*本願寺は寺院ながら、石山本願寺城といわれるほど堅固だった。
#三人の天下人に大きな影響を与えている。
#*信長は根絶しようとして果たせず。信長の天下統一を10年遅らせたといわれる。
#*秀吉は石山の本拠地に自分が座ることで無力化する。
#*家康は教団の内部対立を利用して教団を分割し、宗教の政治への関与を排除することに成功した。
#浄土真宗らしく妻帯し、息子に教団を継がせている。嫁は武田信玄の嫁の妹。
#*夫婦で詠み交わしたラブラブな歌が残されている。
#*でも息子達は兄弟ゲンカをして、教団は二分されて東西に分かれてしまいましたとさ。(まあ上記のように家康が仕組んだことだけどね)
 
===本庄繁長===
#一筋縄ではいかない北越後の豪傑。武田信玄に買収されて謀反を起こしたり、主君景勝の支援なしに自力で庄内の領有権を巡って最上義光と死闘を繰り広げたり
#関ヶ原の合戦後には徳川との和睦にも尽力。過去には裏切りもした人物だが、トータルで計れば上杉家への貢献度は頗るつきに高い。
 
===本多重次===
#徳川家臣。通称は作左衛門。
#面倒くさい奴等として知られる三河武士の中でも、特に面倒な人物だったという。
#*主君の家康に対する物言いもズケズケしていたらしい。
#**家康の主君・秀吉をたびたび怒らせて蟄居処分食らってたらしい。しかし下の一筆啓上の内には妻子に配慮あり、「荒っぽい男だが、心正しく民を用いるに配慮あり、訴訟をよく聞いて事を明らかにした」(by新井白石)という一面もあった。
#「一筆申す火の用心 お仙痩せさすな馬肥やせ」という短い手紙を妻へ出した逸話がある。
#*[[坂井市#丸岡町の噂|「一筆啓上賞」]]の由来である。
 
===本多忠勝===
#家康に過ぎたるもの。通称は平八郎。弥八郎こと同姓の本多正信とは仲が悪かったようだ。
#*こっちは武力で、向こうは知略で攻めるタイプだったため。
#数多の合戦に従軍しながら、生涯一度も戦傷を負わなかったと言われているが…流石にこれは誇張なのではないだろうか。
#*馬場信春も同じだな。
#*将であればそんなにやたらに戦傷を負うものではない気もする。
#**将が負傷するのは、功名にかられて一騎駆けしたり、乱戦にもつれこんで抜けられなくなったりする場合がほとんどなので、信春や忠勝はそういうことをしない冷静な武将だったということではなかろうか。
#**あとは弓矢や鉄砲で直接狙撃される場合があるが、こればかりは運でしょうな。
#***体じゅう傷だらけだったといわれ[[#北条氏康|北条氏康]]の例もあるから一概には言えない気がするなぁ。
#*スパスパの実を食べていたという異説がある。体が鉄と同じ硬さだったため、傷がつかなかったらしい。槍に触れただけでトンボが切れたのは、実は能力を使っていたようだ。
#*それならば鎧はゴツかったんだろうと考えてしまうがむしろ薄くて軽かったらしい。つまり防御力が高かったのではなく回避力が高かった。逆に同僚で傷だらけだった井伊直政の鎧は分厚く重かったらしい。
#**HPが低かった(↓参照)事と併せて、通称メタルスライム。
#*晩年、自分の持ち物に小刀で名前を彫っていたら、手元が狂って指を切ってしまった。
#**「ついに傷がついたか。俺も年貢の納め時だな」と納得した数日後に死んだと言われているので、本人的には生涯無傷はマジだったんだろう。
#愛用する槍は蜻蛉切。穂先に止まったトンボが真っ二つになったとか。
 
===本多正信===
#家康からは「友」と呼ばれたが、同僚からはすごい嫌われていた。
#*家康の膝元で一向一揆があった時、一揆方に走ってしばらく帰ってこなかったせいかもしれない。「あやつは一度殿を裏切った男だ」と見られていた。
#**三河一向一揆では他にも多くの譜代の家臣が一揆側に荷担している。復帰後の謀将としての活躍の暗色が嫌われたのだろう。
#**一揆鎮圧後はすぐに帰参せず、松永久秀に属したり本願寺に身を寄せたとも言われている。おそらくそこでなにかを見たのかもしれない。
#*そうでなくとも、石田三成が福島正則あたりから毛嫌いされたように、能吏型の人間は武断型からは嫌われるものです。
#*過去のことなどを利用してあえて「嫌われもの」になっていたのかもしれない。組織にはこういう人物も必要なのです。
#意外にも徳川家の外の人々からの評判は高かったようだ。
#*松永久秀「徳川家の武士は武勇一辺倒の者が多いが、この者だけは違う。まさに非常の人物だ。」
#存命中は加増を断り、小身のまま過ごした。
#*本人は無欲というか、仕事をしたかったら大封など受けるものではないぞ、と息子にも言い聞かせていたのだが・・・。
#謀臣だが、意外に人情話も多い。
#三国志に登場する諸葛亮の兄・諸葛キンと共通点が多い。
#*諌言のとき、直言せずにやや遠まわしな言い方をするところとか、長男は小賢しいタイプである(しかも政争に敗れて失脚する)とか、子の一人が他家に仕えて子孫を残すところとか。他にも探せばまだあるかもしれない。
#**後を継いだ子供が有能だけど、失脚してしまうところもそうだね。
 
==関連項目==
{{行別|戦国武将}}
 
[[category:戦国武将|]]

2009年7月6日 (月) 19:45時点における版

暗黒の17年間の噂

  1. 1992年に優勝を逃したのは「八木の幻のホームラン」のせいだと今でも主張する。
    • その元凶はラッキーゾーンの撤去だったりして。
    • 「あれが入ってたら、優勝してたかも…」
  2. 「中継ぎ課」「神のお告げ」「F1セブン」など、この時代の阪神を語る上でネタに欠かさない。
  3. 川藤がコーチを2年間やっていたことを知っている。
    • 守備走塁コーチって・・・。
  4. オマリーと関川と野田が移籍先で大活躍。
    • しかし、関川・久慈の代わりに獲得した矢野・大豊もチームに貢献。
      • 矢野輝弘は暗黒時代から抜け出すのにも貢献した。
      • 矢野が出て行って久慈が代わりに入った中日が突如優勝し、久慈がまた阪神に戻ったら突然阪神が優勝した。どっかの本では「不幸な矢野と幸運な久慈」と揶揄されていた。
      • 矢野が移籍してきた当初、活躍できなかった時ファンに「関川返せ、久慈返せ!」と野次られたらしい。
      • トレードされた当初は矢野はあまり期待されていなかったため、関川や久慈が出たことを恨めしく思ったものだが、最終的には矢野が一番活躍した。
  5. FAで獲った石嶺と山沖・・・。
    • 松永も入れようや。
      • 奴はトレードできてFAで出て行った。典型的な失敗トレード。
  6. 「猛虎!破竹の2連勝!」とデイリースポーツに書かれる。
    • 阪神が3連勝しただけでも奇跡と言われていた。
      • キャンプの50m走のタイムが1面になった事もあるぞ。
    • デイリーはこの時期の阪神に慣れたのか、阪神の戦果を大本営発表みたいに報道できるようになった。それは今も変わらず。
  7. 「3連戦のうち1つくらいは勝つだろう」と思って3試合のチケットを取ったら、3試合とも完封負け。
  8. デイリースポーツの一面に「坪井4の2、行けるぞ新人王!」とでっかく書かれ、その下に小さく「チームは5連敗」と書かれていたことは内緒だ。
    • 一応、特別表彰はして貰えた。川上憲伸・高橋由伸・小林幹英と争ったから(新人王は川上)
    • 彼に限らずルーキーは活躍していた。
      • でも、いつの間にか忘れられていく。
  9. 19時からの野球中継が始まったとき、既に先発投手は降板。
    • 紳助が「阪神戦は18時から放送せえへんと先発投手が誰だかわからへん」と言ってたなあ。
  10. 4番の打率が2割5分・・・。
    • 3番だけど、バースは86年に.389も打った(シーズン日本最高打率)。
    • 一方で新庄と桧山が巨人の清原と年間三振数を競っていた時代も……
  11. そういえば、たけし軍団にも負けたなあ。
    • その翌日、日光猿軍団と試合させようや!とか冗談を言った思い出がある。これで本当に試合やって負けた日には・・・。
    • ちなみにその翌年に阪神は2位になった
    • 弁護すると、本来とは違うポジションを守ってた・・・というのもある。野手がピッチャーやったりとか。←弁護になってるかどうか微妙だけど。
  12. 開幕戦は捨てゲーム、もしくは相手チームに対するボーナスステージ。
    • とある年の開幕戦、1回の表先頭バッターがヒットを放ち、「今年は行ける!」と思ったが、その後一人のランナーも出せずにボロ負け。
    • 開幕戦の最多失点は17点(2001年ごろ)。でも巨人相手じゃ無理ないな…。
  13. 一時阪神の選手はオールスターのファン投票で新庄だけでチームの9割超の投票を獲得していた
    • そして2001年のオールスター投票では阪神の選手に1票も入らなかった
    • 「1票も」はサスガにない。1人もファン投票で選ばれなかったって事でしょ?
  14. チームの弱さは初期の楽天と良い勝負
  15. 松井在籍時の巨人「30点」取られて敗北した
  16. 「巨人vs阪神」の伝統の一戦が「巨人vs中日」にとって変わる噂が絶えなかった
  17. 弱体化し過ぎて阪神身売りの噂が絶えなかった
    • 「今日も安全~」○○○○が政界スキャンダルを起こす前、200億円で買収話を持ちかけたことがあるらしい。
    • よく言われてたのはこの会社だったような気がするけど。でも自前でOB雇っちゃった(?)からなァ。
      • 吉本案もあったはず。
        • その吉本はオリックスと仲がいいみたい。
  18. 甲子園優勝校にも負けるのではないかとも毎年のように噂された。
    • PLより弱いのはお約束だったもんなぁ
  19. 村○ファンドによって一過性の暗黒時代がもたらされた事もある。
    • 天罰下り済み。
  20. 周りはみんな半袖の時から始まるストーブリーグ
    • それも着出した頃
    • 「鯉のぼりを下ろす頃には…」
  21. 東スポが「阪神1位!!」と見出しを書いたが「評論家によるセリーグ最下位予想」のことだった。
  22. 早ければ梅雨明けと同時に、来年のことを考え始めるが、4番とエースピッチャーには、まだ見ぬ新外国人を指名する。
  23. 「甲子園球場をPL学園の本拠地にするよ」とマンガに書かれていた。
  24. ピッチャーが好投している時に限って、打てない打線
    • でも、打線が爆発すると投手陣が大炎上
  25. 「明日も勝~つ!」は、当然禁句だ。
    • 日ハム時代も見事に発動。何故か所属チームではなく、阪神に。
  26. 桑田佳祐に「今年の阪神は8位」と言われた事がある。当然、反論も出来ず・・・。
    • ちなみにこの御仁はアンチ巨人。巨人が負けた日のラジオでは「松田(巨人ファンのドラマー)ざま見ろ」とよく言う。
  27. カラオケで六甲おろしを歌うと、映像に出てくるのは85年のV戦士
    • その映像を見て、85年を懐かしく思う。
  28. 藪の一発病、今岡のやる気のない走塁、桧山のセカンドゴロ量産は、暗黒時代後期を語る上で欠かせない。
  29. 1992年の成績は2位ではなく準優勝である
    • この年のセ・リーグは首位から最下位までのゲーム差がわずか9という大激戦(というよりダンゴレース)だった。だから成績的には大したことは無いのだが、それでも準優勝である
      • 常勝の中日が最下位。阪神と中日の立場が逆転した年だった。
    • ヤクルト優勝の際は甲子園で胴上げを見る羽目に。場内は帰れコールだったらしい。
      • ちなみに98年の横浜、02年の巨人(試合は相手のサヨナラ暴投で勝ったが)の際はそんなことなかった。
        • ヤクルトのときは優勝争いしてて、その年は色々とお互いあったからな。
  30. 再建請負人のノムさんですら再建失敗。おまけに嫁の不祥事まで。
    • ただ赤星や井川らが育ったのは事実。もちろん、2003年の優勝は移籍組が活躍したからというのもあるが。
      • 赤星や井川らが育った事については、今最近の強めの阪神の基礎や土台を築き上げたとしてノムさんの功績は大きいかも。
  31. 最下位が指定席。
    • 最下位ではなく、「6位入賞」である。
  32. 巨人を3タテしただけで、その3タテした試合のビデオが売られたらしい。
    • 2リーグ分裂~99年までの甲子園で巨人を3タテした全カードの映像集だった。ここで訂正。
    • こういうのを見て憂さを晴らしていたのだろうか・・・。
  33. 暗黒末期の頃、阪神タイガースの人生ゲームが売られたらしい。
    • 私、持ってます。
  34. サンテレビの夏休みちびっ子解説者にまで、ダメ出しを受ける
  35. 山田勝彦の打率=山田の身長。
  36. 「4番ファースト藪」ってありましたよね???
    • 2000年ごろの、遠山と葛西のワンポイントスイッチに似てる…。
  37. 99年前半戦の快進撃には、野村監督の人形が作られたらしい。
    • その年は首位に短期間だったもののなったことがあった。
    • そのときに飛び込んだファンがいる。
    • 1999年ということもあって、ノストラダムスに絡めて「ノス虎ダムス」なんて本も刊行された。恐怖の大王はノムさんとサッチーだったとか。
  38. 何となく暗黒時代の阪神って今のベガルタと共通点ありそうな気がする
  39. 何年だったか忘れたけど、村山が長嶋から疑惑のHR打たれた展覧試合と同じ日に、岡田がガリクソンから逆転満塁HRを打って、大騒ぎになったことがある。
    • 平成元年のことだった。展覧試合の30年後だった。
  40. 13ゲーム差をひっくり返される大失態。暗黒臭がしてきたorz。
    • 「若手育成に失敗」、「贔屓で起用した選手が小さくまとまった」育成面でも暗黒臭がする。
      • この辺、2006年ごろのアンチ巨人による巨人批判と共通していないか?
    • かといって、ここで岡田が辞任すると吉田辞任後の阪神と同レベルになりそうな……
  41. 2008年、阪神ファンが巨人のホームランになる打球を妨害したが、実は暗黒時代には新庄の打球を妨害して2ベースにしてしまった。
  42. 現在はみんな座っているけど、暗黒期はガラガラのアルプススタンドで立って応援。
    • もしくは席で横になって野球鑑賞。
    • それでも流し素麺や麻雀をしていないだけマシだと思う。
  43. エイプリルフールで「阪神優勝!」と会見したら、その年最下位になったらしい。
    • 1998年のこと。87年から2001年まで15年中10年が最下位と言う惨状だったから、吉田監督も関係者もみなやけくそだった。
      • 同年放送された「テツワン探偵ロボタック」のある回で、敵キャラが虎ファンで「今年は優勝だタイガース!バッティング対決」というものをやっていた。
        • さらに、その回に出て来た暗号が85年のスタメンの背番号。
        • その2年前に放送されていた「激走戦隊カーレンジャー」のある回でも、虎ファンのメンバーが阪神のハッピを着て「今年こそ頼むで」と神社に願掛けに行っていた。
    • このエイプリルフールの優勝会見は同年の寅年にちなんだものだったらしい。
  44. 1995年にサンテレビジョンが阪神球団60周年を記念し、「今年の阪神はいつ60勝するか」と視聴者クイズをしたら、130試合中46勝しか出来なかった。
    • そして「出来ない」と書いた視聴者が実際にいて、正解となったらしい・・・
    • 途中から、「ホームラン60発はいつか」に変更してクイズをまた出したとか。
    • 2008年にサンテレビは「優勝時の岡田監督の胴上げ回数」を視聴者クイズとして流し、この伝説の続きを作った。いい意味じゃないだろうが・・・
    • この年は阪神・淡路大震災があり、同じ関西球団のオリックスがリーグ優勝して神戸市民を勇気付けたのに対して、西宮市に本拠を置く阪神は前年の戦績を大きく下回って4位から6位に転落、明暗がはっきり分かれることになった(それでも人気までは逆転しなかった)。
      • 「オリックスは震災に見舞われたファンに元気を与えてくれたが、阪神はファンを失望させた」と某ラジオ局のDJが言っていた。その同じ局で別のDJが「オリックスはみんなの夢をかなえてくれたが、阪神は現実の厳しさを教えてくれた」と言っていた。
  45. もしサッカーのようなシステムだったら8部リーグ辺りまで降格していたかも知れない。
  46. 阪神だけ1軍を他球団の2軍にし、2軍は3軍として草野球専門球団にしたらどうか…って話を飲み屋で当時はしていたと、暗黒時代を懐かしむファンから聞いたことがある。
    • 上にもあったが91年にたけし軍団に2軍が負けたので、プロ野球界の面子を保つためにはこれもしょうがない・・・って。じゃあ翌92年の戦績は何なんだ?
    • 因みに98年に18連敗した球団も阪神と試合した翌年の92年、同じようにたけし軍団と戦って負けたんだが。
    • また、ノムさんが社会人野球のシダックスの監督になった時に、阪神2軍と試合してシダックスが勝った。
    • しかし一方で、2軍は1軍が最下位常連だった時期に優勝や日本一を経験したりしている。それもノムさんが1軍監督だった頃(1999年と2001年)。そのときの2軍監督は岡田。
      • 阪神の珍プレー特番でもよく取り上げられた。
      • 「阪神二軍日本一、野村阪神首位一日」と締めくくった1999年。
  47. 2009年3月、暗黒時代になった原因と言われたカーネル人形が24年ぶりに発見される。
    • 呪いが解けるのか、それとも眠りを妨げられたカーネル人形の呪いが増大するのか・・・。
    • 2003年と2005年に優勝している以上、呪いのことは「日本一出来ない理由」として今後は語られるのかと思っていたが……既に海に流されていてもおかしくないと思っていたので、発見は正直驚き。
    • その後、オープン戦では阪神災難続き・・・。
      • ファラオの呪いのように掘り起こしたのがやっぱりマズかったか?
      • 対巨人戦でも2008年から引きずって11連敗・・・
        • やっとストップ、しかし前監督7敗は自分のせいなのに全部現監督のせいみたいに言っていた・・・。
      • OBの無責任な現体制批判も暗黒復活の兆しかなぁ。
      • 遂に暗黒末期の監督相手に借金記録を久々に二桁とさせられた……これで最下位チームとはまだゲーム差ありってのが信じられない。
      • 今年(2009年)はカーネル人形発見に加え阪神なんば線の開業で奈良方面からの観戦も便利になったことなど明るい話題もあっただけに成績低迷は残念だ。
  48. オープン戦とペナント戦は全く別物だった。
    • オープンで無駄に力を使っていた。
      • それでペナントで力が出なかったかも。
  49. 監督は常に口笛を吹いていた。
    • あのノムさんも吹くようになった。
  50. 定位置につくことが確定すると、とたんに強くなった。
    • シーズン終わりがけに連続安打とか……
  51. すべての出発点は掛布とバースの不遇引退・解雇だった。
    • この1988年には球団社長の自殺まで・・・チームもフロントも空中分解した。
  52. 他球団(特に巨人)にとって当時の阪神は、一番戦いやすいチームだったかも。
    • 「楽勝」と思いながら余裕こいた奴も多かったかも。
    • 現在の銀行球団と同レベルに見られていたのだろうか。
  53. 阪神電車の株主総会、財務や経営のことはほとんど議題にならず、タイガースの事が主な議題となる。
  54. 近鉄ファンにバカにされる。
    • 近鉄もタイガースと同じで、強い時と弱い時の差が激しかったと思う。
    • オリックスファンからもバカにされてたはず。

ダメ外人列伝

  1. バース2世が何人来たのだろう・・・
    • 可能性があったのは、マーク・ジョンソンくらい。
      • グリーンウェルの3億円!!
        • 地震でホンマ苦しいときの金を巻き上げて、あれでアメリカ嫌いになったわ。
  2. シーズン途中に入ってくる外国人は、決して救世主ではない
    • 強くなっている最近でも、マシな途中入団の人は少ない。
  3. 駄目外国人ばかりの中活躍してくれたキーオは希望の光だった。
    • フィルダーも忘れないで。一年しかいなかったけど。
    • オマリーもマシな方だった。首位打者になったりしたのにヤクルトに行ってしまったのが今でも不思議。
  4. 長かった暗黒時代だけど、心底嫌われてる選手がダレル・メイだけ1人ってのは意外かもしんない。次点は松永浩美だけど、彼の存在は余程の野球ヲタ以外には忘れ去られてる。
    • メイに関しては、「TO HIM」問題があったからだろうけど・・・。
    • 阪急ファンにとっては今でも「3割20本30盗塁が期待できる最強のスイッチヒッター」なんだが。
    • 上にもあるがグリーンウェルを忘れてはいけない。
      • 忘れますた。
      • 忘れさせて下さい。
  5. 「マクドナルド」は、ファーストフード店のことではない。
    • 彼のユニフォームには「MacDONALD」と書かれてたような・・・aも要るのか?
  6. 打ってクレイグ、頑張りマース
    • マースは名前が似ているだけでバースの再来にされてしまった。
    • 懐かしの「誇大広告(=CMに偽りあり)」コンビ。
  7. 阪神が自前で獲得した外国人選手が大活躍した記録は、90年代からほぼ途絶えている(暗黒脱出した今なお同じ。まともなのは2005年のスペンサーくらい)。
    • その点は今の巨人と共通していたり。
    • 肝心なところでジェフ・ウィリアムスを忘れていた。

暗黒時代のファンたち

  1. 阪神が弱かった頃にガラガラの甲子園で応援していた人こそ、本当の阪神ファン。そしてそういう人は決まって、現状に嫌気が差して球場に来ていない。
    • あの頃は、負け試合を観に行った事のスラングに「芝生鑑賞をして来た」というモノがあった。
      • うちの学校では「小/中連体の下見に行ってきた」というのが流行った@西宮
      • 高校野球の下見に行って来た」ってのも聞いた(大阪→尼崎在)。
    • 暗黒から応援していて、今は鼻高々な人ももちろんいる。
      • ただし関西以外で。名古屋地区や関東地区だと鼻高々。
    • この頃の自由な阪神のほうが好きだった人も少なくない…はず。
  2. また、ヤクザだが選手応援歌作曲センス最高の中虎連合応援団がいなくなり、健全だが応援歌作曲センス皆無のダサ黄色ジャージ応援団が跋扈していることに憂いている。
    • 個人的な話で申し訳ないが、シーツの応援歌のファンファーレだけは評価してる。それでもアリアスの「メシアフロムUSA」には負けてるけど・・・。
  3. 「や~ってくれたね~、タイガース~♪家庭円満、タイガース~♪」
    • 「ランランランラン黒い星 ランランランランまた増えた」
      • 負けソングの方が聞く機会が多かったことは秘密だ。
    • このコーナーで「85年の優勝がきっかけで阪神ファンになったら…、大乃国(康:第62代横綱)が横綱になったのでファンになったら…。そして僕の仇名は疫病神に決まりました」という視聴者のハガキが紹介されたことがある。
    • 「負ける気せんね」と「ハイハイ敗」って言うのか。曲は聴いたことあるが、曲名があるとは知らなかった。
    • なんぎやなぁ」は1987年の流行語。しかし本当の難儀はここから16年も続いた。
      • 1987年、「一昨年の優勝が嘘みたい…」という台詞も流行った。この台詞の通りだった。
  4. 苦しい時は、あの85年の栄光の映像を見て耐えてきた。
  5. 10点のリードでも逆転されるんじゃないかとハラハラしながら観戦。
    • でもいつだったか、1回に満塁ホームラン2本打った時はやり過ぎだと思った。
  6. そう言えば昔、徳光が「阪神が優勝する事はハレー彗星が来るのと同じ位の珍事」って言ってたけど
    • 空き巣に入られた家主が一番嘆いたのが「頼むから優勝記念のライターだけは返してくれ。もう二度と手に入らんのやから」・・・
      • わかるぞ~~、わかるぞ~~
    • 1985年のこと。この発言の2年後だったか、暗黒突入は。
  7. 負けることを前提に試合を見に行く。ゆえに万が一勝ってしまったら、球場の外でも馬鹿騒ぎ。
  8. 大量得点をあげて勝つと、自分の身に良からぬことが降りかかるのではと、不安になる。
  9. いつかバースが選手として帰ってくることを、本気で願っていた。
    • 「ああ、ここにバースがおったらなぁー」と呟いた人もいたはず。
  10. ファンの合言葉はあと100連勝すれば逆転優勝できるから。
    • シーズン前に先発投手の勝利数を予想して合計すると、余裕で100勝を越える。しかしその内容は「藪18勝、川尻15勝、湯舟15勝、中込13勝、山崎10勝」のような到底不可能な設定。
  11. シーズン中は、3日に1回はファンを辞めようと思っていた。
    • それでも関西の球団ファンに転じることができず、ずるずるとファンを続けていた。
      • それらの球団が好調&優勝したとき、にわかでそっちのファンに転じるものもいた。
        • その中には、単に優勝セールや騒ぎ事狙いの人も結構いそうだが。
        • ★縦縞のハッピを着た人が、グリーンスタジアムや藤井寺に来てた。
      • その他球団のファンに乗り換えようと思っても、やっぱり阪神に未練があり乗り換えきれなかった。
  12. 圧倒的な負け試合の中トラッキーのパフォーマンスが唯一の楽しみだった・・・
  13. この頃からファンをやってる人は、2007年オールスター明けの驀進劇~嘘のような連敗を見て心のどこかでホッとしたハズ。
    • 「9連勝したら10連敗する」なんて事が多々あったモノだ。暗黒時代は。
    • 2008年の戦績(13ゲーム差からのV逸)を見ても、この時代からの阪神ファンの中には「当然だろう」「むしろ安心した」と思う人が少なからずいるらしい。
  14. 当時からのファンは、「自分が観戦したから負けた」とか、「自分がファンだから最下位」とかいう考えが染み付いてしまっているので、強い今でもチームに申し訳なくて観戦できない。
    • そのためどれだけ他球団とゲーム差が離れようと、リバウンドを恐れる阪神ファンは今なおいる。
    • 怪我をしたり物をなくした日は、試合に運が向いてくると思って観戦に行った人もいるらしい。もちろん、更に憂鬱になることの方が多かったらしいが・・・
    • これと関係あってか強くなっている最近でも、負けかけていると「見てたら負ける…」と思い、テレビのチャンネルを変えたくなる。
      • 甲子園などの球場で見ているときも、ピンチになると目をそらしたくなる。
  15. 3連戦で「斉藤・桑田・槙原」をぶつけてくる読売は、血も涙もないと思っていた。
    • 槙原だけは嫌な思い出ばかりでもないけどね。
    • 槙原は伝説のバックスクリーン3連発や新庄の敬遠球サヨナラのイメージが強すぎる。
    • だが、槙原が出てきたら勝てる気が全くしなかったのも事実。
    • 槙原の阪神戦成績は38勝10敗と、阪神戦がもっとも得意だった。2つの負け試合が有名すぎるために意外な印象がするが。
    • 兵庫出身の村田が阪神戦にやたらに強かった。
  16. 1回の攻撃、1番和田豊の応援歌を歌い始めた時が、試合で一番楽しい時だった。
    • 「おとこーならいーのちかけーてーぼーるーにーくーらーいつーけー♪」
      • 「ゆけよーゆけよーわだゆたーかーおまえーのーでんばんだぜー♪」
    • その次が「こーのーいちだにかーけろー♪」だった事がある。暗黒史に残る謎の「スタメン2番・桧山」・・・(しかも開幕3連戦でやった)
      • 2番は「レツゴーレツゴーてるーよし」がデフォじゃないのか!?
        • 中日に行ってまた阪神に戻った久慈か・・・。沖原に応援歌を譲ってもらえずヒッティングマーチ2番だったな・・・。
  17. 負け試合を見せられ、「二度と見に来るか!ボケ!」と捨て台詞を残し、次の日も同じ席で観戦
    • 阪神ファンの悲しき習性。今の横浜ファンより熟成されていただろうか。
  18. 子どもの時、「何で阪神は勝てないの?」と親父に聞いたら「阪神だからに決まっとるやろ!」と言われ、それ以上何も言えなかった。
    • 僕も昔、「何で阪神と巨人はこんなに強さの差が激しいの?」とオカンに聞いたら「阪神と巨人は、小6と小1の喧嘩みたいなもんやから、しゃーないやん」と言われて納得せざるを得なかった。
  19. ぶっちぎりで指定席への道を突っ走ってた時、七夕の短冊に「阪神が優勝しますように」と書かれているのを見て、思わず泣きそうになった
    • 優勝は無しでも良いから3位にはなってくれって言っていた人がいたぞ
    • ゴメン、絵馬に書いたわ。
  20. 5位のことを「セリーグの5本の指に入った」と言う。
  21. 15年前の虎の涙が、今、美味い!
    • 2008年現在で唯一の現役、檜山がそんなに貢献しているかどうかは微妙なところである。
      • 「焼酎」の話よ。
    • 2003年に阪神百貨店の優勝セールで日本酒買ったけど、2年後に飲む事になるとは思わなかった。
  22. 新聞の順位表は下から見てしまう。
  23. イチローの打率よりも、勝率が低くなったらどうしようと戦々恐々。
  24. 俺が小学生の頃、ポケモンで阪神はコガネライコウズだよなと言ったらライコウ好きの俺の友達がきつい一言(以下↓)
    • ハア!あんなチームライコウが可哀そうだよ!、阪神はゴ○○○ズで十分だよ!」と言っていた
    • ちなみに「ゴ○○○ズ」はポケモンですら無いし・・・
  25. 「せめてゲームの中だけは・・・」とファミスタやパワプロに現実逃避を試みるも、ちっとも現実逃避になっていなかった。
  26. 「最下位を脱出した」だけで、道頓堀川へ戎橋から飛び込む人がいた。
  27. 当然のことではあるが、最近以上に大阪の巨人ファンが少なくなかった。阪神ファンとしては、地元にも関わらず、(色んな意味で)肩身の狭い思いをせざるを得なかった。
    • 友達や先輩に好きな球団を聞いたところ、大阪にも関わらず「巨人」と答える人が多く、がっかりした。
      • 続けて「何で巨人なん?」と聞くと「阪神ショボいやん」と答えていた。確かに無理なかったな。
    • こういう人たちに限って、星野監督時代ににわかで阪神に乗り換えてきた…。
      • “仲間”が増えたのは少しうれしいが、素直に喜べなかった。
      • 素直に喜べなかったというよりも腹が立った。
      • 「よく巨人を捨てれたな」とも思った。
  28. ペナント中、試合が無い日だけほっとすることが出来た。
    • 試合に勝てた日も心穏やかになることは出来なかった(後遺症が怖かった)。
    • ペナント中の試合が無い日だけでなく、ペナント終了後の“本当の”ストーブリーグに入った時もほっとできる。
      • ある意味、気分転換のしやすい時だった。
  29. 序盤だけ好調ということが多かったため、優勝した2003年も実はずっと阪神半疑(半信半疑)だった。
    • 6月、7月、8月と月が変わる度に、「そろそろダメだろう」と思っていた。この年も死のロードは大きく負け越したからなお更。
    • そしてそれが現実になってしまったのが2008年……暗黒時代からのファンだからまだ耐えられたが、やはり悲しい。
    • 当時の阪神に慣れてるだけに、2、3位で優勝を逃した時「昔(つまり当時)を思えば、恵まれている」と思う。
    • この当時のことがあるだけに、快進撃を続けていても、いつ没落するか心配でチームの快進撃を素直に喜びづらかった。
  30. 甲子園球場には失策という名前のコントを見に行っていた。
    • 巨人をはじめとする他の球団選手にどれだけ笑われ、さらにどれだけTVのネタにされただろう・・・
    • ゴロが失策で本塁打になってしまったことまで・・・
    • 凡フライでもちゃんとキャッチできるかどうか常に不安な状態で試合を見ていた。
  31. 余りに球団が不甲斐無かったため、ファンが抗議で応援するのをやめてしまった時期がある。
    • 「鳴り物中断」と週刊誌にも書かれた。
  32. 試合で一番盛り上がるのが、途中経過で読売が負けているのを知った時。
    • 他力本願しかできなかった。

阪神タイガース
項目別:親会社 | ダメ外人 | アンチ阪神 | 暗黒時代
本拠地:甲子園球場/大阪ドーム/甲子園駅
ファンの噂:阪神ファン暗黒時代 | 選手別 | ファン?
○○に言いたい:球団に言いたい | ファンに言いたい
勝手国:阪神タイガース共和国
研究:死のロードを解消する方法 | 用語:33-4
もしも借箱(プロ野球編) | 歴史のif検討委員会(野球)
偽モノの特徴:偽球団 | 偽選手/偽星野/偽新庄 | 偽ファン | 偽甲子園