ページ「愛知/東尾張」と「戦国武将/ま~わ行」の間の差分

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==尾張地方の噂==
==ま==
#愛知県の噂で三河人が名古屋と差別化を図ろうとしているが、尾張人は名古屋に依存して生きていることを認識している。一方、名古屋人は三河も尾張もどうでもいい。
===前田慶次郎===
# '''織田信長で有名'''だが、尾張徳川家は意外と知名度が低い。
#天下無双の傾奇者
#*時代劇でたいてい悪役なので、都合が悪いことはシカト。
#あまり資料が残っていないため大抵の創作物は『花の慶治』の影響を受けている。
#とりあえず、名古屋城は名古屋にあるわけではない。
#*『慶治』じゃなくて『慶二』な。
#*随分ゆるいボケだな。
#**誰か突っ込んでよ。
#*せめてもっと突っ込めるネタフリをしてくれ
#**『慶次』だ。
#一部関西人の間では「愛知県、名古屋、尾張(終わり)」という[[吉本新喜劇]]の島木譲二のネタ(ギャグ)で有名。
#*『花の慶次』の影響を排除したらしい大河ドラマ『利家とまつ』の慶次郎はヘタレすぎてすこぶる評判が悪い。
#またしてもサルの存在は忘れ去られる。別にいいけどね。''俺が好きなのは''あくまでも''真田幸村だし。''
#*前田利家と同年代または最大でも10歳程度しか年が離れていないので、『花の慶次』で活躍していた時期は50~60歳と推定される。家康とも同年代。
#*いやお前の好みなんか激しくどうでもいいんですけど。
#『花の慶次』では利家と反目したように描かれているが、実際には利長と仲が悪かったとか。
#*サルヂエは中京テレビの制作だった・・・
#隆慶一郎氏の小説『一夢庵風流記』では、小田原攻めの後、秀吉の朝鮮半島出兵により、朝鮮半島で活躍する姿が描かれているが、『一夢庵風流記』の劇画版である『花の慶次』では、琉球に渡って活躍するというストーリーに改変されている。
#*京都大学のサル研究所も尾張にある・・・
#*いろいろ大人の配慮ってもんがあったんだろうなぁ。もともとの小説でさえ破天荒な話なのに漫画的にいろいろエスカレーションさせちゃってるし。
#お城でもっている。
#**集○社が余計な波風を怖れたとしか。
#*<サルでもっているかも・・・
#***そこまで配慮していた○英社も、のち「ヒカルの碁」で波風に巻き込まれてしまうのでした。
#*持たないと思う。
#史実ではコテコテの文化人 歌 古典 華 茶 その他ありとあらゆる文化に於いて一流であった
#*愛知県だと写真見ただけで誰にでもわかるのは、名古屋城とナナちゃん人形くらいしかない。
#*元々滝川の出である(即ち甲賀忍者)
#加藤姓と伊藤姓がやたらと多い
#**その文化的才能は隠密説も傾奇行為は相手の本音を調べる為だったとも考えられる
#*中学のときは1クラスに8人加藤姓
#有名になれたのも京都から米沢までの道中記があったからかな?
#*いちいち加藤○○と呼ぶのは面倒なので名前で呼ばれていた
#オイタの数々:水風呂、朱塗りの槍、大ふ(゛)へんもの、風呂に脇差し{{極小|竹光}}
#*ちなみに女優の「加藤あい」は清須市出身である。
#関連項目:[[根菜#大根|大根]]
#*「加藤晴彦」は名古屋&日本福祉大学出身である。
#名古屋市と合併したがっている自治体が多いがことごとく拒否されている。
#いわゆる始まりの地。


==名古屋市の噂==
===前田利家===
[[名古屋市]]
#[[]]
#いつもお腹をすかせている。
#いいかげん服を着ろ。
#妻のまつには頭が上がらない。
#*まつとは実はいとこ。
#加賀百万石の礎築いたのに…。
#徳川と豊臣の間に入って緩衝役を務めてたが、没後に関ヶ原の合戦が起こった。
#一人称は「僕」だった。
#趣味は金勘定。死の直前に一時意識を持ち直し、愛用のそろばんで自分の遺産を全部決済してから死んだ、という逸話がある。
#*合戦の時に兵が足りず、嫁さんに「日頃 大事にしてる金銀に槍をもたせりゃいいでしょうが」と嫌味を言われている。
#ホトトギスが鳴かないとそのまま逃がしてしまう欲のなさ。


==一宮市の噂==
===松永久秀===
→[[一宮市]]
#知名度の割には大河ドラマに主役として出たことはないが・・・まあしょうがないか。
#*第一話の冒頭、三好長慶の下で地味な事務方を勤める冴えない中年男がふと漏らしたとんでもない野望「天下をこの手に…」、巻き込まれ人生を狂わせる群像、魔王との出会い、そして衝撃の結末へ…。確かに大河向きではないがなんか面白そうだな。
#*井上靖が短編小説の主人公にはしている。いつでも利を求めて冷静だが、信長だけは心底嫌いだったために感情で動いてしまい、そのために亡びたということになっていた。
#*ドラマにするなら果心居士の登場も欠かせないかな。
#性のHow to 本を書いた。
#*要約すると、「大切なのは大きさじゃない、テクニックだ!」とのこと。
#**さらに、「自分(男)だけ気持ちよくなるな、相手も一緒に満足させろ」「泥酔していたり、女がその気になっていない時にはするな」とも書いている。布団の中では優しいタイプ?
#*なにしろ戦の途中でも陣幕の中で{{あきまへん}}
#*本人の作ではなく、医師・曲直瀬道三からもらったという説もある。
#あの信長相手に謀反(それも複数回)を起こしても許された。
#*信長は久秀のことをとても買っていたらしい。
#*家康相手に「この男は主家殺し・将軍殺し・大仏焼き討ちと、人には真似できない大悪事を三つも成した」と紹介した。嫌味なんだか本気で褒めたんだか判断に悩む。
#**嫌味というか「さすがの俺でもそこまではやれんぞ…」とあきれてたんじゃねぇかねぇ。信長は主家(尾張守護代織田氏)追い落としこそやっても将軍殺しはしてねぇし東大寺大仏殿焼き討ちまではしてねぇから。
#125才まで生きると公言していた。
#*普通は1年で死ぬ鈴虫を複数年飼って観察し、普段の生活しだいで長寿を保てると考えていたらしい。なら謀反すんなよ。
#*健康に気を遣ってたのはあると思う。信貴山での戦の時も、切腹するのを誤るのは名折れだとかとかいって、普段から中風除けにやってたという頭に灸据えるのをやってから、切腹したとかなんとか。
#日本で初めてクリスマスを理由に休戦を命じた、という珍エピソードがある。
#後世の創作物などではものすごい悪人面なことが多いが、実際はかなりの美男子だったようだ。
#平蜘蛛という釜に火薬を詰め込み、これで自爆して果てた。ゆえに人呼んで「戦国のボンバーマン」。
#*死んだ日は奇しくも自分が10年前に大仏殿焼き討ちやった日と同日。
#*弾正少弼の官位をあわせて「爆弾正」とも。
#お城にある「多聞櫓」はこの人が考案した、という説がある。


==瀬戸市の噂==
===丸目長恵===
#瀬戸物の由来、瀬戸焼。
#九州肥後相良家の家臣。
#*昔九州から焼き物の技術をパクった。
#タイ捨流剣術の開祖。
#瀬戸内海にあるわけではない。
#*タイがカタカナなのは、漢字で書くことによって字義を限定しないためだという。
#岡山県瀬戸内市とは関係ない。
#剣豪としては活躍したが、武将としてはかなりトホホ・・・な人。
#瀬戸朝香。
#*作戦立案してそのとおりに戦ったら惨敗。主君にめっさ怒られた。
#石川秀美もそう。
#剣術の他に、笛や和歌などの芸能にも堪能だった。
#白い巨…じゃなかった。デジタルタワー。
===愛知万博の噂===
→[[愛知万博]]


==犬山市の噂==
==み==
#個人の国宝の城
===水野勝成===
#*…だった。今は犬山市の所有。
#「鬼日向」の異名を持つ徳川譜代の猛将。
#昔、モンキーセンターのゴリラに糞を投げられた。
#*小牧・長久手の戦い、関ヶ原の戦い、大坂の役、島原の乱等では勇猛果敢ぶりを発揮して徳川に多大な戦果をもたらした。
#たまに岐阜県犬山市と間違われる。
#**その一方では命令無視して先陣を切る逸脱行為もあって、論功行賞では知行はほんの僅かの加増しかされなかった事も。
#*犬山駅始発→岐阜駅経由→京都行きの高速バスがある。
#*「日向守」は、[[明智光秀]]の名乗りだったので不吉とされていたが、勝成は笑い飛ばして自分から日向守を所望した。
#*私尾張人だけど子供の頃'''岐阜県'''だと思ってた。
#家康の従弟でもある。
#丸一が市のマーク。深い由来がありそうだが名古屋の丸八と並んで見た目は戦国大名。
#若い頃には父親の怒りを買って勘当され、中国・九州地方を放浪し、現地の大名に仕えていた事もある。
#住民は、リトルワールドがあることをとりあえず自慢の種にする。ただし敷地が岐阜県[[岐阜/中濃|可児市]]にもまたがっていることはあえて隠す。
#*勘当された理由は、「女郎屋の代金を実家にツケ、請求に来た勘定方にムカついてぶっ殺したから」というもの。短気すぎるだろ。
#*明治村は?
#大坂の役では剣豪宮本武蔵が客将として配下にいた。
#*リトルワールドと明治村は近隣の小中学校の遠足の定番。しかしその年代で行ってもあまり楽しいところではない。
#*武蔵との間には親交があった。
#お菓子の城があるらしい。
#*大坂の役というと、御年51にもかかわらず、部下より先に城内へ攻め入り、一番乗りを果たしている。
#*正体は地元の製菓会社の広報施設。宣伝と販売が目的なのに入場料がやたら高い。
#相当破天荒な生き方をしながらも、88歳まで長生きした。
#*あんなバブルの象徴のような存在が未だ営業を続けてることが、謎。
#*今日の元気な日本のおじいちゃんおばあちゃんも驚くレベル。
#こんな感じだが、未だに[[福山市|備後福山]]では、息子ほどではないにしても。まあまあの名君として見られている。
#*それを、息子に聞かれると「若ぇ頃、放浪しとってだもんで、下のもんの考えもよう分かろうもんだで」と答えたそうな。
#放浪歴があるからか、実は旅人にやさしい。
#*領内を旅する人間のために、至る所に[[道の駅]]を整備したらしい。隣の浅野領内の人間が、それを見てその政策をパクったほど評判も良かったとか。
#三代続いてかぶき者
#*息子はかぶいて候の水野成貞
#**孫はあの水野十郎左衛門
#*福山藩の跡を継いだ[[江戸時代バカ殿伝説#水野勝俊|水野勝俊]]も大概バカ殿。


==小牧市の噂==
===三好長慶===
→[[小牧市]]
#管領細川家の家臣から下克上で阿波・上方を治める大名にまで成り上がった。
#*優秀な弟たちにそれぞれ統治させて9カ国を支配。
#一時は室町幕府を傀儡とする政権を作り上げたが、彼の死後、すぐに崩壊。
#*松永久秀と三好三人衆が主導権を争って共倒れしてしまった。
#**それもこれも優秀な弟たちや嫡子義興が先に死んでしまったのが遠因。
#最期は病死とも謀殺ともいわれている。死去後、3年間秘められた。
#弟の義賢ともども一流文化人でもあった。文化人のことばかりあげつらう人に、「歌連歌ぬるきものぞと言うものの梓弓矢も取りたるもなし」の一首で反論。


==春日井市の噂==
===三好義賢===
#春日井製菓。
#通称「実休さん」
#*確かに春日井市にも春日井製菓の工場があるが、この社号は創業者の苗字をとったもの。本社は名古屋市西区。
#*は~い あわてない、あわてない。一休み 一休み。
#株式会社ゲオ
#武将としての器量もさることながら、茶の湯や歌の道にも精通した一流の文化人。
#基本的に朝鮮人の街。小さな地方都市の癖に朝鮮学校がある。
#合戦で戦死する直前、自らの死を予見するかのような歌を残している。
#戸田恵子の出身地
#上記の三好長慶の弟。[[岸和田市|大阪岸和田]]のヒーロー。
#海物語とかのパチンコ台の開発をしているダイコク電気がある。
#*え、そーなん?岸和田でも知名度ない気がする…
#日本初のコンビニがある。
#*[http://www.city.kishiwada.osaka.jp/soshiki/3/miyoshi-jikkyu.html ソース]
#*1971年7月にココストア1号店が愛知県春日井市に藤山台店オープン。
#大将クラスでは本邦初の鉄砲による戦死者。おめでとう。
#王子製紙春日井工場があり、丁度ティッシュ箱のような巨大な長方形をしているため、一時期ネピアティッシュの外装にしたことがある。
#*別にめでたくはないだろう。
#「春日井」市だが、春日井地区に市役所以外の求心力はない。勝川、高蔵寺等は気ままに別地区である。
#*「堺鑑」には、流れ矢が胸板にあたってその拍子に落馬して死んだとあるが・・・。
#*なんじゃこりゃぁ!


==稲沢市の噂==
===三好元長===
#ユニーグループの本拠地
#三好長慶や三好義賢、安宅冬康などのお父ちゃん。
#ソニーの液晶テレビ工場がある。
#畠山高政と合戦して敗れたとき、顕本寺で切腹するが、その様がものすごかったらしい。
#JRの快速に飛ばされる不運の地。県内でこんな市は清須市とここだけ。下り「ながら」は止まるけどね。
#*自ら臓物を引きずり出し、それを天井に投げつけたとか。
#*だけど、名鉄特急は止まる。
#享年32歳。何とも早い。
#実は「稲葉」と「小沢」を合成した地名であることは案外知られていない。
#JR稲沢駅周辺は駅舎改築で随分小奇麗になったが、それと同時に恐ろしい勢いでコンビニを含む商店がつぶれていった。今では路線バスも通らなくなってしまった。大丈夫なのか?
#旧平和町に東洋一?でかいボウリング場があった。240レーン設置。現在は閉鎖され、廃墟とアスベストで有名なボウリング場。


==江南市の噂==
====
#眼前に広がるは広大な畑と点在する名古屋企業の物流倉庫。
===毛利隆元===
#*県内有数の中高一貫進学校があるが、駅から田畑が多い方へ延々と歩いていった先にあるため、入学者をいきなり不安にさせる。
#元就の長男。謹厳実直、朴訥な人柄だった。
#**20世紀中くらいまでは、学校周辺1kmにコンビニがなかった。
#*ほとんど自己主張しなかったそうだ。が、大内義隆が陶隆房に討たれた報を聞いた時は、「今こそ陶と戦うべき!」と強く主張。
#「アトランチスの謎」や「いっき」で御馴染みの、サン電子の本社がある。
#*残された手紙を見ると、自己評価が低い、自分を卑下するような性格だったようだ。
#*今はパチンコ台とか携帯電話の機器政策で食ってる模様。(ゲームも多少は作ってる)
#*だが、「信長の野望・武将風雲録」では悪巧みの塊みたいな顔をしている。
#**しかも、41歳で死んだとは思えない老けっぷりだ。
#大河ドラマでは暗殺されたことになっている。赤川殿…
#幼少期、人質として大内義隆の下で育つ。その為義隆や陶隆房(晴賢)と男色関係にあったのではないか、と言われたりしている。
#嫁さんは大内家重鎮内藤興盛の娘。大河ドラマでは慎ましく奥ゆかしい女性として描かれていた。
#隆元が(ひっそりと)死去した後、毛利家の兵や物資の調達が急激に滞った。
#*兵を出す国人衆や商人が口を揃えて言うことは、「隆元様が生きていたなら何とかするんですけどねえ」
#*目立たないが、その存在がプラチナカード並みの信用を得ていた隆元さん。なくして分かるそのありがたみ。
#*父・元就も「隆元が生きていた頃は心強かった…」と慨嘆。
#**内政・財務能力に長けてた逸話の一つに…(例として領内の治水工事)始める前に、今で言う見積書を書かせ、実際にかかった費用との差額を出させている。それで残金が出ると「バカモノ!普通は『実際は見積もりよりいくら多くかかってしまいました』と報告するものだ!そして赤字を埋めるものだ!余りが出るという事はどこかで手抜きをしておるに相違ない!やり直して来い!」と怒ったそうだ。
#***それって隆景の逸話じゃなかったっけ?


==岩倉市の噂==
===毛利輝元===
#日本で11番目に小さい都市。人口は愛知ワースト3位。でも人口密度は愛知2位。
#凡庸、無能と扱き下ろされているが、防長二国に押し込まれた後払底の財政を何とか持ち直した功績はもう少し評価してやっても良いんじゃないだろうか…。
#戦後間もなくまでは名鉄電車の駅ではもっとも重要な駅だった。(一宮、小牧までレールが延びていた、現在も快速特急も停車。)
#*だいたい爺さんがすごすぎるんだよ…。プレッシャー半端ないって。
#*駅と駅前だけでできている、といっても過言ではない。
#**その爺さんにぶん殴られたという記述が本人の回想録に残っているらしい。
#「環境保全都市宣言」を掲げているが、きれいな町かというと普通レベル。
#領土を減らされた後は人事の大量刷新を行い、熊谷元直、吉見広長など反抗的な態度を取る家臣を粛清した。
#鯉のまち。
#*そこからあぶれた浪人の中には東北で功績を収めた者も
#大坂の陣の時豊臣方に密に援軍を送っていた。
#息子の秀就は淫蕩、享楽に耽っていた駄目息子で、その躾に輝元は大変苦悩したようだ。
#法名は宗瑞。
#この人が太田川の三角州の一番広い島に[[広島]]城を建てた。
#*「広島」の名は毛利氏の先祖の大江広元になぞらえてつけられたらしい。
#元就の遺訓や小早川隆景の助言に逆らって天下を争ったことで批判されているが、批判されるべきは「中途半端に争った」ことだろう。毛利が本気で戦うつもりがあれば、関ヶ原の結末はまったく違ったものになったはず。
#*毛利の本軍4万が関ヶ原に参戦していれば、いや「毛利本軍がこちらへ向かっている」という情報が届いているだけでも、小早川秀秋は裏切れなかったと思われる。
#**…IFの話はいいよ…。そんなこと言ったら秀忠がまっすぐ関が原に向かってたらとか景勝が関東に攻め込んでたらとか佐竹がはっきり態度を決めてたらとか維新が伏見城に入城してたらとか際限なくなる。
#***いや、これは十分ありえた事だぞ。
#***だいたいifがない歴史語りはつまらないでしょ…。
#家臣の妻に横恋慕して奪い取った。その女性との間に産まれたのが嫡男の秀就。
#*そこはさすがに爺さんの血を引いていたか。


==北名古屋市の噂==
===毛利秀就===
#西春町と師勝町の合併で誕生した。
#戦国時代が殆ど終わる頃の武将だ。
#以前、ゲテモノラーメンを出していた店があった。
#出生は豊臣秀頼よりも遅い。
#「汚(きたな)古屋市」などといってはいけない
#「[[信長の野望ファン|信長の野望]]」では登場がほぼドンケツで、しかも「武将風雲録」に於いては一番最後までしぶとく生き残る。
#合併前は名鉄の西春駅のホームに西春町と師勝町の境界があった。
#*何と1670年代(史実では将軍が既に徳川家綱)まで生きる。
#西春駅から名古屋空港(小牧)へは連絡バスがでている。
#とは言っても、史実では[[戦国武将/あ行#宇喜多秀家|宇喜多秀家]]や[[戦国武将/さ行#真田信之|真田信之]]より先に死亡。
#西春駅の停車駅扱いが格下げに・・。特急は止まらなくなってしまった。
#相当やる気の無い人物だったそうだ。
#よく[[名古屋市/北区|名古屋市北区]]と間違えられる。
#*よそ者はね。
#西庁舎には幽霊がいる。


==清須市の噂==
===毛利元就===
#横井さんが多い。
#本人よりも三本の矢が有名。
#*旧新川町では、早川さん、小川さんが多い。
#*[[サンフレッチェ広島]]のチーム名の由来でもある。
#[[名古屋]]市内の駅に挟まれた下小田井駅は、冷遇されている。<br>栄生駅(高架)─東枇杷島駅(高架)─下小田井駅(爆爆爆)─中小田井駅(高架)─上小田井駅(高架)
#[[広島東洋カープ]]設立前の広島のヒーロー。
#*西枇杷島駅も、30分に1本の各駅停車しか止まらない。乗り遅れると、たくさんの通過列車を見送ることになる。
#結構愚痴っぽい性格だったようだ。
#清洲町・西枇杷島町・新川町が合併してできたが、それと同時に「清洲」の「洲」が「須」に変わってしまった。「清洲」は織田信長の居城として由緒ある名前だったんだがな~…。
#息子は3人。それぞれ吉川家(きっかわけと読む)・小早川家(水軍の将)の養子に出し、長男に毛利本家を継がせて広い領土を安泰させた。
#*清州の「清」と須ヶ口(旧新川町)の「須」を組み合わせたといわれているが、それはガセ。須ヶ口は「清須の入り口」という意味の地名だからである。
#*正室との間には、な。側室との間には穂井田元清や毛利(小早川)秀包なんかもいて子だくさん。ちなみに長子隆元と(おそらく)末子の秀包との年齢差は40歳以上。秀包が生まれた時にはすでに隆元は鬼籍に。その時元就は御歳70。孫に当たる輝元がすでに元服・家督相続済み。'''すげぇよ元就…'''
#*歴史書で見ると「清須」と書く場合が多い。織田信長がいたころは「清須」だった。
#彼にとっては四男元清以下の子息達は「虫けらの如き」存在だったらしい。
#*「清洲」は徳川家が天下を取った時に、尾張の守護を清須城から名古屋城へ移転したころから使われ始め、[[明治時代|明治]]頃に定着した。
#*四男以下は側妾の子なので、正妻の子であった元春や隆景を立て、なおかつ自分の死後四男以下の子を敵視せず保護してくれるように頼むため、こんな表現になった。
#鳥山明さんの出身地(旧清洲町)で、今も在住。
#**いや、単純に幼かったから。そしてダメなようなら「どういう風にしても構わない。」とまで言われている。
#*旧清洲町出身にはあまりそう見えないのだが、初期の単行本ではけっこう自分の田舎者ぶりをネタにしていたものだった。
#先祖は源頼朝の側近として有名な大江広元。
#*「Doctor SLUMP」の「ペンギン村」のモデルは隣の「春●村(現在・◎日町)」らしい。「大都会島」のモデルは「名古屋市」らしい。
#正妻が亡くなるまでは側室を持たなかったらしい。
#*鳥山家は3種類の一戸建てで成り立っている
#ライスケーキ中毒だったらしい。
#*奥様も漫画家
#勢力を拡大したはいいが、その後はどうもパッとしない。
#*自宅から名古屋空港までの直通道路を作る構想も練られていたが、実現しなかった。
#現在はアンガールズを引き連れて[http://www.rcc-tv.jp/motonari/ 広島県各地を訪問している]。
#旧西枇杷島町は、名古屋市に編入合併を申し込んだが、名古屋市に断られた。
#知名度や領地の大きさの割にあまり積極的に研究されない。おそらくは信長との関わりが薄いからだろう。信玄とかと比べてみればわかる。
#*旧西枇杷島町には合併の枠組みがあった為。
#*このためいまだに厳島の戦いが元就の策略だと思われていたりする。実際はそんなもの無かった。
#春日町が住民投票の結果、合併の意向を示している。
#*一応、反信長同盟の一員だが、高齢だった為か直接的には信長と対決せず。
#故・堀江しのぶの出身地。(旧西枇杷島町出身)
#加藤あいの出身地(旧新川町)である。写真集に「新川中学校」が写っている


==尾張旭市の噂==
===最上義光===
#若杉さんが多い。
#意外といい人だったらしい。
#名古屋市への合併案が浮上中。
#後半生は可哀想だ。
#*「名古屋市旭区」!?
#[[サケ・マス類#鮭|鮭]]が大好物だった。
#瀬戸と名古屋にはさまれて存在が薄い。
#*各種歴史サイトには「鮭様」とか[[山形/庄内|庄内]]に攻め入ったのは「肥沃な土地が欲しい!」のは表向きで実は鮭が食いたかったからとか書かれてる。
#青木さやかの出身地
#*その鮭好きのDNAは、義光の末子義忠を経由して水戸藩の水戸光圀に受け継がれることになる(山形藩の改易後、義忠が水戸藩の家老兼光圀の教育係になった)。なんという歴史の妙。
#*関ヶ原後に召抱えた北楯大学宛に「鮭ありがとう、おいしかったよ」と書いた手紙が何通も残ってるとか。
#某週刊誌で'''善光'''と表記されてたが山形県民は不買運動を起こしてもいいのではなかろうか。
#*読み方も「よしあき」だか「よしみつ」だか混乱するしなあ……。
#**妹の義姫(伊達政宗の母)宛の手紙に、「よしあき」と平仮名で署名してあったので判明したとか。
#*伊達政宗にとっては伯父。でも、伊達領を虎視眈々と狙う。
#娘は豊臣秀次に嫁いでいたという理由だけでラリった太閤に処刑され、すれ違いから愛息を殺してしまい、死後10年も経たぬ内に藩は取り潰しの憂き目に会ったり、色々と気の毒な人。
#*孫の義俊(よしとし)が家政紊乱を理由に、今でいう秋田へ転封食らったからなぁ。祖父としては「何て使えねぇ奴だ!」と嘆いただろう。
#*娘の駒姫は15歳。実際は京に到着してすぐ秀次は切腹。床はもちろん会話すらしていなかった模様。義光夫妻は必死で助命嘆願したが、刑場に助命の使者が到着する直前に首を打たれてしまった。亡骸の引き取りも拒否されてしまい、義光は悲嘆にくれ駒姫の母は2週間後に死んでしまった(自殺)。以降、義光は豊臣家に強い憎しみを抱く事になる。
#'09年大河ドラマで長谷堂城の戦いが出てくるってぇんで地元の方々が「独眼竜政宗」の時みたいに悪役にしないでくれって訴えたってぇ話があったが…、ここまであのドラマ見た感じだとそれほど重要な役として出て来ない気がするなぁ…。
#名将知将奸雄豪傑…。武将を表現する言葉はいろいろあるけど'''驍将'''って言葉はこの人以外で見たこと無い。
#[[山形市]]では虎将として記されてました。
#子孫は医者を目指すチンピラの引きこもりだ。
#2つ年下の妹・義姫にまつわる数々のエピソードから、シスコンとも言われる。


==日進市の噂==
===森長可===
#マスプロ電工の本社がある。昔は広告に「名古屋市外・日進浅田」という住所で載せていた
#富田長繁とともに、戦国最大のDQNとして知られる人物。
#名古屋市営地下鉄で1つだけの名古屋市外の駅が日進にある。
#親父は信長の侍大将・森可成で、森蘭丸や忠政は弟。
<!--#噂では、[[2ちゃんねる]]の幹部の一人にして、いわゆる”プロ固定”の一員でもある「金土日」なるHNの人物の出身地らしい。-->
#富田ほど卑劣ではないが、とにかく殺して殺して殺しまくる人生だった。それゆえについたあだ名が「'''鬼武蔵'''」。
#人口がかなり増えている。8万人突破も時間の問題。
#*武田攻めで信忠の先陣を務めたときには、全身にびっしりと返り血を浴びており、思わず信忠が「大ケガをしたのか」と心配したほどだった。
#ステーキのあさくまの本店がある。近くに和食のあさくまもある
#*だがそれゆえに先鋒としては非常に優秀であり、信長からは愛された。
#**それも甘すぎるほどに。
#*初陣からして一揆勢に単身乗り込み、リアル戦国無双である。
#「百段」という名馬を駆り「人間無骨」という名槍を手にして戦った。
#「ヒャッハー!」という声が一番似合うかと。
#小牧・長久手の合戦で鉄砲で眉間を撃ち抜かれて戦死。「厄介な奴が死んでくれた」と、'''敵も味方も'''安堵したという。
#*秀吉に至っては、「あやつが戦死したのはわしが天下を取る瑞祥。これで三年は長袴(戦がない)じゃ」と大喜び。そこまで言わんでも。


==豊明市の噂==
===森蘭丸===
#桶狭間がある
#正式の信長の秘書だが、何故か{{あきまへん}}な噂しか耳にしない。
#中京競馬場がある
#本能寺の変で織田信長と同じく死んだが、あまり知られていない。
#地下鉄を伸ばす計画がある。
#一般的には大河ドラマや創作物の影響で「信長の側近を務めた、中性的な顔立ちの美少年」というイメージがある。実際には父や兄同様ガタイの良い武将だったという。
#前後という地名がある。
#*実際に三大美少年に入っていないことから察するべし。
#本名不明。「長定」「長康」「成利」など諸説あり。
#*まだ元服前だったんじゃないか?との説もあり。
#**でも弟の坊丸(長隆)や力丸(長氏)にも元服後の名前があるから、その説は苦しいんじゃないか?
#[[名探偵コナンファン|蘭姉ちゃん]]は彼の生まれ変わり。
#*本来はモーリス・ルブランのもじりなのだが、偶然こっちにも名前が似ていたか。
#信長が見た夢の暗示や光秀の食が進まぬ様子から、事前に謀反の意図を察知して信長に忠告していた。
#*それを聞いた信長は「お前は心配性な奴じゃのう」と一笑に付すが、結果はご存知の通り。
#"鬼武蔵"こと武蔵守長可は長兄で、後年[[津山市|津山]]を領することになる忠政は末弟。
#*蘭丸と忠政の間にも坊丸、力丸という弟たちがいたりするが、本能寺で最期を共にする。
#*長可は次兄で、その上に可隆という兄がいたのだが、初陣で戦死している。
#「信長の野望」では、本能寺のイベントを起こさずに放っておくと、結構なおっさんになるまで生きる。


==愛西市の噂==
==や行==
# 子供の身長ぐらいの看板に「海抜0メートル地帯です」と書いてある
===矢沢頼綱===
#かなりの市町村を合併した。佐屋町、佐織町etc・・・。
#[[戦国武将/さ行#真田昌幸|真田昌幸]]の叔父で真田家の宿老。全国レベルでは無名だが、沼田城主として北条から[[群馬/北毛#沼田市の噂|沼田]]を守り抜いた戦の達人。
#津島市を取り囲むような地理になった。
#*昌幸にも、「叔父御のやることはわしのやること。叔父御でだめならわしがやっても同じよ」と全幅の信頼を置かれていた。
#市街地、市の中心地がどこかわからない・・・Orz
#*子孫は真田藩の家老を代々務める。現在も子孫が[[長野市#松代の噂|松代]]にいるとか。
#沼田では北条より常に劣勢なのに負け知らず。戦い方も野戦、篭城、城攻めなんでもござれ。
#「掲げると松明のように輝いて姿が見えなくなる」というマジックアイテムな槍を持っていた。


==津島市の噂==
===山中幸盛===
#字が違うから、長崎の[[長崎/対馬|対馬]]とはまた別と思う者もいそうだが、この地名は対馬から神社('''津島'''神社)が遷ってきた事にちなんだ名前らしい。
#通称は鹿介。尼子家が誇るドM。
#*歴史好き(×マニア)の人たちも幸盛というと「?」となるが、鹿介というと「あ~」となるくらい本名が知れ渡っていない。
#鹿『'''ノ'''』介なのか鹿『''''''』介なのか、それとものの字がないのかで意見が分かれる。
#*「の」の字は講談の誤表記だったような。
#「我に七難八苦を与えたまえ」昔は知名度が高かったようだが、今の若い人はあまり知らない。
#*上の願掛けや若いころの武勲の願掛けなどを三日月にお願いしてみたり、兜の前立てが三日月だったりと、三日月がかなり気に入っているご様子。
#真田十勇士ならぬ尼子十勇士の筆頭。
#子孫は、鴻池財閥になるらしい。


==弥富市の噂==
===山内一豊===
#金魚の町
#[[女子伝/戦国#山内千代|奥さん]]のヘソクリで馬を買って出世した大名として有名。
#JTB時刻表の市の代表駅は、JR弥富駅ではなく近鉄弥富駅である。
#*時期が合わないので俗説かもしれないが、本質的である。
#*近鉄弥富駅には「乗り換え名鉄線」と書いてある。名鉄はJR弥富駅を間借りしており、数百メートル離れている・・・JRへのライバル意識むき出し・・・
#人柄だけで大名まで登りつめた。
#旧十四山村は「干拓時に14の葦山があった」という事からついた地名だとする説が有力になっている。もしそうだとしたら、なんとまぁ安直な…。
#関ヶ原の合戦時は東軍か西軍か去就を決める小山評定の時に、同僚の堀尾忠氏が前日言った「俺、東海道筋にある俺の居城をそっくりそのまま徳川殿に提供するよ!」というアイデアをパクって家康を感動させる。
#*出世のきっかけは奥さんのヘソクリと他人のアイデアの盗用。これで大河の主人公になれました。
#上で奥さんと他人のおかげと言われるが、自分のアイデアも結構多い。ただし大河では総て奥さんの功績にされてしまった。
#*少なくともどこぞの蛍大名Kさんとは一緒にできない。
#上士と下士の差別をつくってしまった。
#*それを徹底させるため、旧長宗我部氏の家臣を相撲大会に招き、捕縛して磔に。人の良い男が、冷酷な一面を持つ近代大名に脱皮してのけた。
#**むろん下士からの恨みは相当なもの。警戒のため、外出するときは六人の影武者を伴ったという。
#**奥さんにもすごく怒られた。
#***ついでに明治維新で活躍した土佐藩出身者の大半が下士出身なのは、このときや以後の差別による積年の恨みからあっさりと土佐藩や幕藩体制を見限ったから。
#担当していた石垣作りが期限遅れになったとき、友人(の大名)達が人手や資材を出してくれた。最初は怒っていた秀吉も、「お前に千石加増する。それで借りた分は返しておけ」と言っただけだった。人に好かれる性格だったのは間違いない。


==愛知郡の噂==
===結城秀康===
#愛知郡という郡名があまり知られていない。確かに長久手町は全国的に有名になったが、どこの郡にあるかを県外人に聞いたら答えられないだろう。で、正解を知ってびっくりするだろう。
#徳川家康の次男だが、なかなか認知されず、認知された後もなぜか嫌われ続けた。
===長久手町===
#*当時は「畜生腹」と呼ばれ忌み嫌われた双子で生まれたため、家柄を重んじる家康が遠ざけたという説がある。
#[[愛知万博]]の会場として少しだけ有名になった。
#*実際のところでは「母親の身分が低かったから」という考察がされている。弟の秀忠が徳川後継になったのも母親の身分の差によるらしい。
#「長久手市」にするつもりは無いらしい。
#豊臣秀吉に人質に出されるが、秀吉は大変厚遇。偏諱を与えて猶子にした。
#小牧・長久手の戦いの古戦場。
#*このため、どっちかというと家康より秀吉に親近感を持っていた模様。
#編入合併を名古屋市に申し出たが、名古屋市に断られた。
#*石田三成などとも親しかった。
===東郷町===
#**後年、三成が七将に追われて家康のもとへ逃げ込んだ時、彼を佐和山まで護衛して行ったのが秀康。道中話がはずんで名残が尽きず、最後はわざわざ床几を据えさせて語り合ったらしい。
#いわゆる「管理教育」の発祥の地。
#***このときの礼として三成が秀康に贈った刀が、現在国立博物館にある「石田正宗」
#*「東の千葉、西の愛知」などといわれるが、[[松戸市]]との明確な違いがある。保護者の考え方が、あちらでは「うちの子を松戸の中学校に通わせたくない。」であるが、こちらでは「ぜひとも東郷の高校に通わせたい。」(子どもは嫌がるが)である。
#青年になると、英傑の片鱗を覗かせ始める。
#*周辺住民にしても、「自分はT○G○高校(一部伏せ字)の生徒じゃないから」「社会人だから」と安心してはいけない。生徒の誰かのそっくりさんが、校則に合わない格好をして平日の昼間に学校周辺をぶらついていたら、巡回中の先生に呼び止められて問答無用の人違い体罰を受けるかもしれない。
#*秀吉が秀康の器量を怖れて小大名の結城家の跡継ぎに押し込んだという説もあるが、勘繰り過ぎかも。結城家は石高は多くないが伝統ある名家だし。
#こういった恥ずかしい歴史を抱えているためか、周辺の市町村はここと合併したがらない。
#*久しぶりに会った家康が秀康の器量を怖れたというのはありそう。どう見ても秀忠より器が大きいので。
<!--#噂では、日進市出身といわれ、[[2ちゃんねる]]の幹部の一人にして、いわゆる”プロ固定”の一員でもある「金土日」なるHNの人物は、父親の都合により東郷高校を中退したらしい。-->
#**この頃から、家康は妙に秀康の機嫌をとるようになる。
#*主人公キャラ、もとい英傑の証である専用武器まで所持。
#**養父結城晴朝から譲られた、天下三名槍のひとつ「御手杵」。全長210cm、槍身の長さ138cmという代物。
#見るからに何事か偉業を為しそうだったが、周囲がよってたかってなだめすかして、秀康に才能を発揮する場を与えなかった。本人が気づいていたかどうかはともかく、ある意味ではむなしすぎる人生を歩んだまま早死にする。
#*強いて言えばとにかく[[ベタな不幸キャラの法則|不幸]]
#*関ヶ原の時も上杉と佐竹への抑えで関東在留、活躍の場はなかった。
#**中途半端な身分を与えられての隠遁生活がよほど暇だったのか、剣術から鉄砲の扱いまで様々な兵法に精通していた。しかしその才能を披露することはなかったのは前述のとおり。
#今でこそ地味な[[福井]]が徳川家の親藩だったのは彼のおかげ。
#「ギギ」という魚に似てたからって幼名は「於義丸」。オヤジである家康にはこの風貌を嫌われたとか。
#梅毒にかかり鼻がもげる。つけ鼻をしていたらしい。
#*梅毒になるようのもさることながら、つけ鼻とかで見た目を誤魔化そうとするところがやっぱりオヤジである家康に嫌われる。
#キレやすい性格だったらしく、まだ秀吉の人質だった少年期に乗馬の稽古中、馬で並走されたことに憤慨しその場で秀吉の家臣を斬り殺した話が有名。しかし秀吉は秀康の蛮行を「武士としてあっぱれ」と褒めちぎり、お咎めなしに終わった。
#*関所でトラブルを起こした秀康が「俺は将軍(秀忠)の兄だぞ!ふざけんな!」と怒り狂っていたところ、江戸の秀忠から「殺されたくなかったら通してやれ」という伝言が届き事なきを得る。ちなみにその際に秀康が怒った理由は、'''鉄砲を持ったまま関所を通ろうとして顔パスが効かなかった'''ためである。


==丹羽郡の噂==
==ら行==
===扶桑町===
===龍造寺隆信===
#桑畑が多く、「桑によって扶養される町」という意味でついた地名らしい。単純だ。
#[[佐賀|肥前]]の[[熊]]。通称'''クマー'''。
#中心駅は扶桑駅よりも柏森駅の方が正解。
#*最期はものの見事に釣られてしまった。
#*扶桑駅は[[名古屋鉄道|名鉄]]の急行は通過するが、柏森駅は停車する。
#かなり残虐な性格だったらしい。
#*ただし特急は柏森も止まらない。
#*子供の頃、祖父と父を主家に殺され、曽祖父に助けられて隣国に落ち延びた。このときの経験から人を信じない冷酷な性格になったらしい。
#**ちなみに曽祖父の龍造寺家兼は、後に挙兵して子と孫の仇を討ち、隆信を当主として龍造寺家を再興する。御年93歳で。
#**柳河の蒲池氏に娘を嫁にやっていたが、どうしても柳河城が欲しくなり、義父の立場を利用して佐賀に呼び寄せてなぶり殺しにした。この一連の謀略で古くからの家臣が離反してしまい、大友や島津に寝返られる伏線となる。また娘は自分をダシに夫を殺された事を恨み続けて病死。
#*宣教師の記録だと「鷹揚」と、真逆の人物評なのが面白い。ちなみに隆信はキリスト教の布教を認めなかったので、ひいきされている可能性はほぼない。
#ぶくぶく太っていたらしく、最期は戦場で包囲されても逃げることも反撃もできずにあっさりと討ち取られた。
#*単に深田にはまって身動きが取れなくなっただけという説もある。
#*家臣に嫌われていて、敵に囲まれそうになったときに見捨てられたあげく、死んでからもひどい扱いをされたらしい。
#配下に龍造寺四天王と呼ばれる'''五人の'''勇将がいた。


==西春日井郡の噂==
===六角義賢(承禎)===
===豊山町===
#南近江を勢力圏をしていた大名。
#イチローの出身地。イチローの日本での住居もある。
#*初期の信長の野望では伊賀の戦国大名になっていたが、実際は近江南部。
#*敷地はそんなにデカくないが、建坪はデカい。因みに旧国際線ビルが見えた。
#信長にケチョンケチョンにのされたとか、部下の蒲生氏よりも勢力が弱かったとかでダメ大名扱いされがちだが、後に信長が大々的に導入した楽市を初めて設定したなど、決して無能ではない。
#空港施設内のどこよりも飛行機が良く見える公園がある。
#近江源氏佐々木氏の一族で、名門中の名門。
===春日町===
#*実際はその分家筋だという研究もあるらしいが、さて・・・。
#「かすが」じゃなくて「はるひ」。
#最近まで村だった。


==海部郡の噂==
==わ行==
#愛西市ができるまで日本で最も人口の多い郡だった。
===渡辺守綱===
===飛島村===
#徳川家康の部下で、徳川十六神将に数えられる。
#飛島村の地名は日本一長い。(愛知県海部郡飛島村大字飛島新田字竹之郷ヨタレ南ノ割)
#通称は半蔵。そのため功績の一部を服部半蔵正成とごっちゃにされることがある。
#「とびしまむら」なのに、「あすかむら」と読んでしまいそうになる。
#H2ロケットの組み立て工場も飛島村。
#中学二年生が毎年海外研修に行ったりして「日本一税収の多い村」との噂もあるが、真相は不明。ちなみに住民は特に豊かでもない。
#奈良県と間違える。


[[Category:愛知|おわり]]
===和田惟政===
#元幕臣の織田家武将。
#*その前は六角氏の配下だったとかなんとか。
#甲賀郡出身のため、元は忍者だったとか言われることも。
 
==関連項目==
{{行別|戦国武将}}
 
[[Category:戦国武将|]]

2016年9月2日 (金) 23:21時点における版

前田慶次郎

  1. 天下無双の傾奇者
  2. あまり資料が残っていないため大抵の創作物は『花の慶治』の影響を受けている。
    • 『慶治』じゃなくて『慶二』な。
      • 誰か突っ込んでよ。
      • 『慶次』だ。
    • 『花の慶次』の影響を排除したらしい大河ドラマ『利家とまつ』の慶次郎はヘタレすぎてすこぶる評判が悪い。
    • 前田利家と同年代または最大でも10歳程度しか年が離れていないので、『花の慶次』で活躍していた時期は50~60歳と推定される。家康とも同年代。
  3. 『花の慶次』では利家と反目したように描かれているが、実際には利長と仲が悪かったとか。
  4. 隆慶一郎氏の小説『一夢庵風流記』では、小田原攻めの後、秀吉の朝鮮半島出兵により、朝鮮半島で活躍する姿が描かれているが、『一夢庵風流記』の劇画版である『花の慶次』では、琉球に渡って活躍するというストーリーに改変されている。
    • いろいろ大人の配慮ってもんがあったんだろうなぁ。もともとの小説でさえ破天荒な話なのに漫画的にいろいろエスカレーションさせちゃってるし。
      • 集○社が余計な波風を怖れたとしか。
        • そこまで配慮していた○英社も、のち「ヒカルの碁」で波風に巻き込まれてしまうのでした。
  5. 史実ではコテコテの文化人 歌 古典 華 茶 その他ありとあらゆる文化に於いて一流であった
    • 元々滝川の出である(即ち甲賀忍者)
      • その文化的才能は隠密説も傾奇行為は相手の本音を調べる為だったとも考えられる
  6. 有名になれたのも京都から米沢までの道中記があったからかな?
  7. オイタの数々:水風呂、朱塗りの槍、大ふ(゛)へんもの、風呂に脇差し竹光
  8. 関連項目:大根

前田利家

  1. いつもお腹をすかせている。
  2. いいかげん服を着ろ。
  3. 妻のまつには頭が上がらない。
    • まつとは実はいとこ。
  4. 加賀百万石の礎築いたのに…。
  5. 徳川と豊臣の間に入って緩衝役を務めてたが、没後に関ヶ原の合戦が起こった。
  6. 一人称は「僕」だった。
  7. 趣味は金勘定。死の直前に一時意識を持ち直し、愛用のそろばんで自分の遺産を全部決済してから死んだ、という逸話がある。
    • 合戦の時に兵が足りず、嫁さんに「日頃 大事にしてる金銀に槍をもたせりゃいいでしょうが」と嫌味を言われている。
  8. ホトトギスが鳴かないとそのまま逃がしてしまう欲のなさ。

松永久秀

  1. 知名度の割には大河ドラマに主役として出たことはないが・・・まあしょうがないか。
    • 第一話の冒頭、三好長慶の下で地味な事務方を勤める冴えない中年男がふと漏らしたとんでもない野望「天下をこの手に…」、巻き込まれ人生を狂わせる群像、魔王との出会い、そして衝撃の結末へ…。確かに大河向きではないがなんか面白そうだな。
    • 井上靖が短編小説の主人公にはしている。いつでも利を求めて冷静だが、信長だけは心底嫌いだったために感情で動いてしまい、そのために亡びたということになっていた。
    • ドラマにするなら果心居士の登場も欠かせないかな。
  2. 性のHow to 本を書いた。
    • 要約すると、「大切なのは大きさじゃない、テクニックだ!」とのこと。
      • さらに、「自分(男)だけ気持ちよくなるな、相手も一緒に満足させろ」「泥酔していたり、女がその気になっていない時にはするな」とも書いている。布団の中では優しいタイプ?
    • なにしろ戦の途中でも陣幕の中で×××××
    • 本人の作ではなく、医師・曲直瀬道三からもらったという説もある。
  3. あの信長相手に謀反(それも複数回)を起こしても許された。
    • 信長は久秀のことをとても買っていたらしい。
    • 家康相手に「この男は主家殺し・将軍殺し・大仏焼き討ちと、人には真似できない大悪事を三つも成した」と紹介した。嫌味なんだか本気で褒めたんだか判断に悩む。
      • 嫌味というか「さすがの俺でもそこまではやれんぞ…」とあきれてたんじゃねぇかねぇ。信長は主家(尾張守護代織田氏)追い落としこそやっても将軍殺しはしてねぇし東大寺大仏殿焼き討ちまではしてねぇから。
  4. 125才まで生きると公言していた。
    • 普通は1年で死ぬ鈴虫を複数年飼って観察し、普段の生活しだいで長寿を保てると考えていたらしい。なら謀反すんなよ。
    • 健康に気を遣ってたのはあると思う。信貴山での戦の時も、切腹するのを誤るのは名折れだとかとかいって、普段から中風除けにやってたという頭に灸据えるのをやってから、切腹したとかなんとか。
  5. 日本で初めてクリスマスを理由に休戦を命じた、という珍エピソードがある。
  6. 後世の創作物などではものすごい悪人面なことが多いが、実際はかなりの美男子だったようだ。
  7. 平蜘蛛という釜に火薬を詰め込み、これで自爆して果てた。ゆえに人呼んで「戦国のボンバーマン」。
    • 死んだ日は奇しくも自分が10年前に大仏殿焼き討ちやった日と同日。
    • 弾正少弼の官位をあわせて「爆弾正」とも。
  8. お城にある「多聞櫓」はこの人が考案した、という説がある。

丸目長恵

  1. 九州肥後相良家の家臣。
  2. タイ捨流剣術の開祖。
    • タイがカタカナなのは、漢字で書くことによって字義を限定しないためだという。
  3. 剣豪としては活躍したが、武将としてはかなりトホホ・・・な人。
    • 作戦立案してそのとおりに戦ったら惨敗。主君にめっさ怒られた。
  4. 剣術の他に、笛や和歌などの芸能にも堪能だった。

水野勝成

  1. 「鬼日向」の異名を持つ徳川譜代の猛将。
    • 小牧・長久手の戦い、関ヶ原の戦い、大坂の役、島原の乱等では勇猛果敢ぶりを発揮して徳川に多大な戦果をもたらした。
      • その一方では命令無視して先陣を切る逸脱行為もあって、論功行賞では知行はほんの僅かの加増しかされなかった事も。
    • 「日向守」は、明智光秀の名乗りだったので不吉とされていたが、勝成は笑い飛ばして自分から日向守を所望した。
  2. 家康の従弟でもある。
  3. 若い頃には父親の怒りを買って勘当され、中国・九州地方を放浪し、現地の大名に仕えていた事もある。
    • 勘当された理由は、「女郎屋の代金を実家にツケ、請求に来た勘定方にムカついてぶっ殺したから」というもの。短気すぎるだろ。
  4. 大坂の役では剣豪宮本武蔵が客将として配下にいた。
    • 武蔵との間には親交があった。
    • 大坂の役というと、御年51にもかかわらず、部下より先に城内へ攻め入り、一番乗りを果たしている。
  5. 相当破天荒な生き方をしながらも、88歳まで長生きした。
    • 今日の元気な日本のおじいちゃんおばあちゃんも驚くレベル。
  6. こんな感じだが、未だに備後福山では、息子ほどではないにしても。まあまあの名君として見られている。
    • それを、息子に聞かれると「若ぇ頃、放浪しとってだもんで、下のもんの考えもよう分かろうもんだで」と答えたそうな。
  7. 放浪歴があるからか、実は旅人にやさしい。
    • 領内を旅する人間のために、至る所に道の駅を整備したらしい。隣の浅野領内の人間が、それを見てその政策をパクったほど評判も良かったとか。
  8. 三代続いてかぶき者
    • 息子はかぶいて候の水野成貞
      • 孫はあの水野十郎左衛門
    • 福山藩の跡を継いだ水野勝俊も大概バカ殿。

三好長慶

  1. 管領細川家の家臣から下克上で阿波・上方を治める大名にまで成り上がった。
    • 優秀な弟たちにそれぞれ統治させて9カ国を支配。
  2. 一時は室町幕府を傀儡とする政権を作り上げたが、彼の死後、すぐに崩壊。
    • 松永久秀と三好三人衆が主導権を争って共倒れしてしまった。
      • それもこれも優秀な弟たちや嫡子義興が先に死んでしまったのが遠因。
  3. 最期は病死とも謀殺ともいわれている。死去後、3年間秘められた。
  4. 弟の義賢ともども一流文化人でもあった。文化人のことばかりあげつらう人に、「歌連歌ぬるきものぞと言うものの梓弓矢も取りたるもなし」の一首で反論。

三好義賢

  1. 通称「実休さん」
    • は~い あわてない、あわてない。一休み 一休み。
  2. 武将としての器量もさることながら、茶の湯や歌の道にも精通した一流の文化人。
  3. 合戦で戦死する直前、自らの死を予見するかのような歌を残している。
  4. 上記の三好長慶の弟。大阪岸和田のヒーロー。
    • え、そーなん?岸和田でも知名度ない気がする…
    • ソース
  5. 大将クラスでは本邦初の鉄砲による戦死者。おめでとう。
    • 別にめでたくはないだろう。
    • 「堺鑑」には、流れ矢が胸板にあたってその拍子に落馬して死んだとあるが・・・。
    • なんじゃこりゃぁ!

三好元長

  1. 三好長慶や三好義賢、安宅冬康などのお父ちゃん。
  2. 畠山高政と合戦して敗れたとき、顕本寺で切腹するが、その様がものすごかったらしい。
    • 自ら臓物を引きずり出し、それを天井に投げつけたとか。
  3. 享年32歳。何とも早い。

毛利隆元

  1. 元就の長男。謹厳実直、朴訥な人柄だった。
    • ほとんど自己主張しなかったそうだ。が、大内義隆が陶隆房に討たれた報を聞いた時は、「今こそ陶と戦うべき!」と強く主張。
    • 残された手紙を見ると、自己評価が低い、自分を卑下するような性格だったようだ。
    • だが、「信長の野望・武将風雲録」では悪巧みの塊みたいな顔をしている。
      • しかも、41歳で死んだとは思えない老けっぷりだ。
  2. 大河ドラマでは暗殺されたことになっている。赤川殿…
  3. 幼少期、人質として大内義隆の下で育つ。その為義隆や陶隆房(晴賢)と男色関係にあったのではないか、と言われたりしている。
  4. 嫁さんは大内家重鎮内藤興盛の娘。大河ドラマでは慎ましく奥ゆかしい女性として描かれていた。
  5. 隆元が(ひっそりと)死去した後、毛利家の兵や物資の調達が急激に滞った。
    • 兵を出す国人衆や商人が口を揃えて言うことは、「隆元様が生きていたなら何とかするんですけどねえ」
    • 目立たないが、その存在がプラチナカード並みの信用を得ていた隆元さん。なくして分かるそのありがたみ。
    • 父・元就も「隆元が生きていた頃は心強かった…」と慨嘆。
      • 内政・財務能力に長けてた逸話の一つに…(例として領内の治水工事)始める前に、今で言う見積書を書かせ、実際にかかった費用との差額を出させている。それで残金が出ると「バカモノ!普通は『実際は見積もりよりいくら多くかかってしまいました』と報告するものだ!そして赤字を埋めるものだ!余りが出るという事はどこかで手抜きをしておるに相違ない!やり直して来い!」と怒ったそうだ。
        • それって隆景の逸話じゃなかったっけ?

毛利輝元

  1. 凡庸、無能と扱き下ろされているが、防長二国に押し込まれた後払底の財政を何とか持ち直した功績はもう少し評価してやっても良いんじゃないだろうか…。
    • だいたい爺さんがすごすぎるんだよ…。プレッシャー半端ないって。
      • その爺さんにぶん殴られたという記述が本人の回想録に残っているらしい。
  2. 領土を減らされた後は人事の大量刷新を行い、熊谷元直、吉見広長など反抗的な態度を取る家臣を粛清した。
    • そこからあぶれた浪人の中には東北で功績を収めた者も
  3. 大坂の陣の時豊臣方に密に援軍を送っていた。
  4. 息子の秀就は淫蕩、享楽に耽っていた駄目息子で、その躾に輝元は大変苦悩したようだ。
  5. 法名は宗瑞。
  6. この人が太田川の三角州の一番広い島に広島城を建てた。
    • 「広島」の名は毛利氏の先祖の大江広元になぞらえてつけられたらしい。
  7. 元就の遺訓や小早川隆景の助言に逆らって天下を争ったことで批判されているが、批判されるべきは「中途半端に争った」ことだろう。毛利が本気で戦うつもりがあれば、関ヶ原の結末はまったく違ったものになったはず。
    • 毛利の本軍4万が関ヶ原に参戦していれば、いや「毛利本軍がこちらへ向かっている」という情報が届いているだけでも、小早川秀秋は裏切れなかったと思われる。
      • …IFの話はいいよ…。そんなこと言ったら秀忠がまっすぐ関が原に向かってたらとか景勝が関東に攻め込んでたらとか佐竹がはっきり態度を決めてたらとか維新が伏見城に入城してたらとか際限なくなる。
        • いや、これは十分ありえた事だぞ。
        • だいたいifがない歴史語りはつまらないでしょ…。
  8. 家臣の妻に横恋慕して奪い取った。その女性との間に産まれたのが嫡男の秀就。
    • そこはさすがに爺さんの血を引いていたか。

毛利秀就

  1. 戦国時代が殆ど終わる頃の武将だ。
  2. 出生は豊臣秀頼よりも遅い。
  3. 信長の野望」では登場がほぼドンケツで、しかも「武将風雲録」に於いては一番最後までしぶとく生き残る。
    • 何と1670年代(史実では将軍が既に徳川家綱)まで生きる。
  4. とは言っても、史実では宇喜多秀家真田信之より先に死亡。
  5. 相当やる気の無い人物だったそうだ。

毛利元就

  1. 本人よりも三本の矢が有名。
  2. 広島東洋カープ設立前の広島のヒーロー。
  3. 結構愚痴っぽい性格だったようだ。
  4. 息子は3人。それぞれ吉川家(きっかわけと読む)・小早川家(水軍の将)の養子に出し、長男に毛利本家を継がせて広い領土を安泰させた。
    • 正室との間には、な。側室との間には穂井田元清や毛利(小早川)秀包なんかもいて子だくさん。ちなみに長子隆元と(おそらく)末子の秀包との年齢差は40歳以上。秀包が生まれた時にはすでに隆元は鬼籍に。その時元就は御歳70。孫に当たる輝元がすでに元服・家督相続済み。すげぇよ元就…
  5. 彼にとっては四男元清以下の子息達は「虫けらの如き」存在だったらしい。
    • 四男以下は側妾の子なので、正妻の子であった元春や隆景を立て、なおかつ自分の死後四男以下の子を敵視せず保護してくれるように頼むため、こんな表現になった。
      • いや、単純に幼かったから。そしてダメなようなら「どういう風にしても構わない。」とまで言われている。
  6. 先祖は源頼朝の側近として有名な大江広元。
  7. 正妻が亡くなるまでは側室を持たなかったらしい。
  8. ライスケーキ中毒だったらしい。
  9. 勢力を拡大したはいいが、その後はどうもパッとしない。
  10. 現在はアンガールズを引き連れて広島県各地を訪問している
  11. 知名度や領地の大きさの割にあまり積極的に研究されない。おそらくは信長との関わりが薄いからだろう。信玄とかと比べてみればわかる。
    • このためいまだに厳島の戦いが元就の策略だと思われていたりする。実際はそんなもの無かった。
    • 一応、反信長同盟の一員だが、高齢だった為か直接的には信長と対決せず。

最上義光

  1. 意外といい人だったらしい。
  2. 後半生は可哀想だ。
  3. が大好物だった。
    • 各種歴史サイトには「鮭様」とか庄内に攻め入ったのは「肥沃な土地が欲しい!」のは表向きで実は鮭が食いたかったからとか書かれてる。
    • その鮭好きのDNAは、義光の末子義忠を経由して水戸藩の水戸光圀に受け継がれることになる(山形藩の改易後、義忠が水戸藩の家老兼光圀の教育係になった)。なんという歴史の妙。
    • 関ヶ原後に召抱えた北楯大学宛に「鮭ありがとう、おいしかったよ」と書いた手紙が何通も残ってるとか。
  4. 某週刊誌で善光と表記されてたが山形県民は不買運動を起こしてもいいのではなかろうか。
    • 読み方も「よしあき」だか「よしみつ」だか混乱するしなあ……。
      • 妹の義姫(伊達政宗の母)宛の手紙に、「よしあき」と平仮名で署名してあったので判明したとか。
    • 伊達政宗にとっては伯父。でも、伊達領を虎視眈々と狙う。
  5. 娘は豊臣秀次に嫁いでいたという理由だけでラリった太閤に処刑され、すれ違いから愛息を殺してしまい、死後10年も経たぬ内に藩は取り潰しの憂き目に会ったり、色々と気の毒な人。
    • 孫の義俊(よしとし)が家政紊乱を理由に、今でいう秋田へ転封食らったからなぁ。祖父としては「何て使えねぇ奴だ!」と嘆いただろう。
    • 娘の駒姫は15歳。実際は京に到着してすぐ秀次は切腹。床はもちろん会話すらしていなかった模様。義光夫妻は必死で助命嘆願したが、刑場に助命の使者が到着する直前に首を打たれてしまった。亡骸の引き取りも拒否されてしまい、義光は悲嘆にくれ駒姫の母は2週間後に死んでしまった(自殺)。以降、義光は豊臣家に強い憎しみを抱く事になる。
  6. '09年大河ドラマで長谷堂城の戦いが出てくるってぇんで地元の方々が「独眼竜政宗」の時みたいに悪役にしないでくれって訴えたってぇ話があったが…、ここまであのドラマ見た感じだとそれほど重要な役として出て来ない気がするなぁ…。
  7. 名将知将奸雄豪傑…。武将を表現する言葉はいろいろあるけど驍将って言葉はこの人以外で見たこと無い。
  8. 山形市では虎将として記されてました。
  9. 子孫は医者を目指すチンピラの引きこもりだ。
  10. 2つ年下の妹・義姫にまつわる数々のエピソードから、シスコンとも言われる。

森長可

  1. 富田長繁とともに、戦国最大のDQNとして知られる人物。
  2. 親父は信長の侍大将・森可成で、森蘭丸や忠政は弟。
  3. 富田ほど卑劣ではないが、とにかく殺して殺して殺しまくる人生だった。それゆえについたあだ名が「鬼武蔵」。
    • 武田攻めで信忠の先陣を務めたときには、全身にびっしりと返り血を浴びており、思わず信忠が「大ケガをしたのか」と心配したほどだった。
    • だがそれゆえに先鋒としては非常に優秀であり、信長からは愛された。
      • それも甘すぎるほどに。
    • 初陣からして一揆勢に単身乗り込み、リアル戦国無双である。
  4. 「百段」という名馬を駆り「人間無骨」という名槍を手にして戦った。
  5. 「ヒャッハー!」という声が一番似合うかと。
  6. 小牧・長久手の合戦で鉄砲で眉間を撃ち抜かれて戦死。「厄介な奴が死んでくれた」と、敵も味方も安堵したという。
    • 秀吉に至っては、「あやつが戦死したのはわしが天下を取る瑞祥。これで三年は長袴(戦がない)じゃ」と大喜び。そこまで言わんでも。

森蘭丸

  1. 正式の信長の秘書だが、何故か×××××な噂しか耳にしない。
  2. 本能寺の変で織田信長と同じく死んだが、あまり知られていない。
  3. 一般的には大河ドラマや創作物の影響で「信長の側近を務めた、中性的な顔立ちの美少年」というイメージがある。実際には父や兄同様ガタイの良い武将だったという。
    • 実際に三大美少年に入っていないことから察するべし。
  4. 本名不明。「長定」「長康」「成利」など諸説あり。
    • まだ元服前だったんじゃないか?との説もあり。
      • でも弟の坊丸(長隆)や力丸(長氏)にも元服後の名前があるから、その説は苦しいんじゃないか?
  5. 蘭姉ちゃんは彼の生まれ変わり。
    • 本来はモーリス・ルブランのもじりなのだが、偶然こっちにも名前が似ていたか。
  6. 信長が見た夢の暗示や光秀の食が進まぬ様子から、事前に謀反の意図を察知して信長に忠告していた。
    • それを聞いた信長は「お前は心配性な奴じゃのう」と一笑に付すが、結果はご存知の通り。
  7. "鬼武蔵"こと武蔵守長可は長兄で、後年津山を領することになる忠政は末弟。
    • 蘭丸と忠政の間にも坊丸、力丸という弟たちがいたりするが、本能寺で最期を共にする。
    • 長可は次兄で、その上に可隆という兄がいたのだが、初陣で戦死している。
  8. 「信長の野望」では、本能寺のイベントを起こさずに放っておくと、結構なおっさんになるまで生きる。

や行

矢沢頼綱

  1. 真田昌幸の叔父で真田家の宿老。全国レベルでは無名だが、沼田城主として北条から沼田を守り抜いた戦の達人。
    • 昌幸にも、「叔父御のやることはわしのやること。叔父御でだめならわしがやっても同じよ」と全幅の信頼を置かれていた。
    • 子孫は真田藩の家老を代々務める。現在も子孫が松代にいるとか。
  2. 沼田では北条より常に劣勢なのに負け知らず。戦い方も野戦、篭城、城攻めなんでもござれ。
  3. 「掲げると松明のように輝いて姿が見えなくなる」というマジックアイテムな槍を持っていた。

山中幸盛

  1. 通称は鹿介。尼子家が誇るドM。
    • 歴史好き(×マニア)の人たちも幸盛というと「?」となるが、鹿介というと「あ~」となるくらい本名が知れ渡っていない。
  2. 鹿『』介なのか鹿『』介なのか、それとものの字がないのかで意見が分かれる。
    • 「の」の字は講談の誤表記だったような。
  3. 「我に七難八苦を与えたまえ」昔は知名度が高かったようだが、今の若い人はあまり知らない。
    • 上の願掛けや若いころの武勲の願掛けなどを三日月にお願いしてみたり、兜の前立てが三日月だったりと、三日月がかなり気に入っているご様子。
  4. 真田十勇士ならぬ尼子十勇士の筆頭。
  5. 子孫は、鴻池財閥になるらしい。

山内一豊

  1. 奥さんのヘソクリで馬を買って出世した大名として有名。
    • 時期が合わないので俗説かもしれないが、本質的である。
  2. 人柄だけで大名まで登りつめた。
  3. 関ヶ原の合戦時は東軍か西軍か去就を決める小山評定の時に、同僚の堀尾忠氏が前日言った「俺、東海道筋にある俺の居城をそっくりそのまま徳川殿に提供するよ!」というアイデアをパクって家康を感動させる。
    • 出世のきっかけは奥さんのヘソクリと他人のアイデアの盗用。これで大河の主人公になれました。
  4. 上で奥さんと他人のおかげと言われるが、自分のアイデアも結構多い。ただし大河では総て奥さんの功績にされてしまった。
    • 少なくともどこぞの蛍大名Kさんとは一緒にできない。
  5. 上士と下士の差別をつくってしまった。
    • それを徹底させるため、旧長宗我部氏の家臣を相撲大会に招き、捕縛して磔に。人の良い男が、冷酷な一面を持つ近代大名に脱皮してのけた。
      • むろん下士からの恨みは相当なもの。警戒のため、外出するときは六人の影武者を伴ったという。
      • 奥さんにもすごく怒られた。
        • ついでに明治維新で活躍した土佐藩出身者の大半が下士出身なのは、このときや以後の差別による積年の恨みからあっさりと土佐藩や幕藩体制を見限ったから。
  6. 担当していた石垣作りが期限遅れになったとき、友人(の大名)達が人手や資材を出してくれた。最初は怒っていた秀吉も、「お前に千石加増する。それで借りた分は返しておけ」と言っただけだった。人に好かれる性格だったのは間違いない。

結城秀康

  1. 徳川家康の次男だが、なかなか認知されず、認知された後もなぜか嫌われ続けた。
    • 当時は「畜生腹」と呼ばれ忌み嫌われた双子で生まれたため、家柄を重んじる家康が遠ざけたという説がある。
    • 実際のところでは「母親の身分が低かったから」という考察がされている。弟の秀忠が徳川後継になったのも母親の身分の差によるらしい。
  2. 豊臣秀吉に人質に出されるが、秀吉は大変厚遇。偏諱を与えて猶子にした。
    • このため、どっちかというと家康より秀吉に親近感を持っていた模様。
    • 石田三成などとも親しかった。
      • 後年、三成が七将に追われて家康のもとへ逃げ込んだ時、彼を佐和山まで護衛して行ったのが秀康。道中話がはずんで名残が尽きず、最後はわざわざ床几を据えさせて語り合ったらしい。
        • このときの礼として三成が秀康に贈った刀が、現在国立博物館にある「石田正宗」
  3. 青年になると、英傑の片鱗を覗かせ始める。
    • 秀吉が秀康の器量を怖れて小大名の結城家の跡継ぎに押し込んだという説もあるが、勘繰り過ぎかも。結城家は石高は多くないが伝統ある名家だし。
    • 久しぶりに会った家康が秀康の器量を怖れたというのはありそう。どう見ても秀忠より器が大きいので。
      • この頃から、家康は妙に秀康の機嫌をとるようになる。
    • 主人公キャラ、もとい英傑の証である専用武器まで所持。
      • 養父結城晴朝から譲られた、天下三名槍のひとつ「御手杵」。全長210cm、槍身の長さ138cmという代物。
  4. 見るからに何事か偉業を為しそうだったが、周囲がよってたかってなだめすかして、秀康に才能を発揮する場を与えなかった。本人が気づいていたかどうかはともかく、ある意味ではむなしすぎる人生を歩んだまま早死にする。
    • 強いて言えばとにかく不幸
    • 関ヶ原の時も上杉と佐竹への抑えで関東在留、活躍の場はなかった。
      • 中途半端な身分を与えられての隠遁生活がよほど暇だったのか、剣術から鉄砲の扱いまで様々な兵法に精通していた。しかしその才能を披露することはなかったのは前述のとおり。
  5. 今でこそ地味な福井が徳川家の親藩だったのは彼のおかげ。
  6. 「ギギ」という魚に似てたからって幼名は「於義丸」。オヤジである家康にはこの風貌を嫌われたとか。
  7. 梅毒にかかり鼻がもげる。つけ鼻をしていたらしい。
    • 梅毒になるようのもさることながら、つけ鼻とかで見た目を誤魔化そうとするところがやっぱりオヤジである家康に嫌われる。
  8. キレやすい性格だったらしく、まだ秀吉の人質だった少年期に乗馬の稽古中、馬で並走されたことに憤慨しその場で秀吉の家臣を斬り殺した話が有名。しかし秀吉は秀康の蛮行を「武士としてあっぱれ」と褒めちぎり、お咎めなしに終わった。
    • 関所でトラブルを起こした秀康が「俺は将軍(秀忠)の兄だぞ!ふざけんな!」と怒り狂っていたところ、江戸の秀忠から「殺されたくなかったら通してやれ」という伝言が届き事なきを得る。ちなみにその際に秀康が怒った理由は、鉄砲を持ったまま関所を通ろうとして顔パスが効かなかったためである。

ら行

龍造寺隆信

  1. 肥前。通称クマー
    • 最期はものの見事に釣られてしまった。
  2. かなり残虐な性格だったらしい。
    • 子供の頃、祖父と父を主家に殺され、曽祖父に助けられて隣国に落ち延びた。このときの経験から人を信じない冷酷な性格になったらしい。
      • ちなみに曽祖父の龍造寺家兼は、後に挙兵して子と孫の仇を討ち、隆信を当主として龍造寺家を再興する。御年93歳で。
      • 柳河の蒲池氏に娘を嫁にやっていたが、どうしても柳河城が欲しくなり、義父の立場を利用して佐賀に呼び寄せてなぶり殺しにした。この一連の謀略で古くからの家臣が離反してしまい、大友や島津に寝返られる伏線となる。また娘は自分をダシに夫を殺された事を恨み続けて病死。
    • 宣教師の記録だと「鷹揚」と、真逆の人物評なのが面白い。ちなみに隆信はキリスト教の布教を認めなかったので、ひいきされている可能性はほぼない。
  3. ぶくぶく太っていたらしく、最期は戦場で包囲されても逃げることも反撃もできずにあっさりと討ち取られた。
    • 単に深田にはまって身動きが取れなくなっただけという説もある。
    • 家臣に嫌われていて、敵に囲まれそうになったときに見捨てられたあげく、死んでからもひどい扱いをされたらしい。
  4. 配下に龍造寺四天王と呼ばれる五人の勇将がいた。

六角義賢(承禎)

  1. 南近江を勢力圏をしていた大名。
    • 初期の信長の野望では伊賀の戦国大名になっていたが、実際は近江南部。
  2. 信長にケチョンケチョンにのされたとか、部下の蒲生氏よりも勢力が弱かったとかでダメ大名扱いされがちだが、後に信長が大々的に導入した楽市を初めて設定したなど、決して無能ではない。
  3. 近江源氏佐々木氏の一族で、名門中の名門。
    • 実際はその分家筋だという研究もあるらしいが、さて・・・。

わ行

渡辺守綱

  1. 徳川家康の部下で、徳川十六神将に数えられる。
  2. 通称は半蔵。そのため功績の一部を服部半蔵正成とごっちゃにされることがある。

和田惟政

  1. 元幕臣の織田家武将。
    • その前は六角氏の配下だったとかなんとか。
  2. 甲賀郡出身のため、元は忍者だったとか言われることも。

関連項目

戦国武将
あ~お/か~こ/さ~そ/た~と/な~の/は~ほ/ま~わ