もしあの人が健在だったら/政治家

ナビゲーションに移動 検索に移動

首相

大平正芳

  1. 初の衆参同日選挙で当時の主流派・反主流派が協力できず、自民党は両院で大敗していた。
    • 大平氏は責任を取ってその時点で辞任している。
    • ひょっとしたら社会党中心の非自民連立内閣が誕生していた。
      • しかし共産党は連立には参加しない。
        • 議席数次第では共産党と社会党左派(社会主義協会)が手を結び、政局の火種になるかも。その場合社会党は分裂の可能性もあろう。
      • おそらく飛鳥田一雄首相になっていたはず。
    • 自民党政権が続いていても、後の鈴木、中曽根内閣は厳しい政権運営を強いられていたかもしれない。
      • 中曽根内閣はともかく、鈴木善幸内閣は誕生しなかった。恐らく宮澤喜一首相が史実より11年早く誕生した。
    • そもそも自民党が2つに分裂し、政界再編が史実よりずっと早く起こっていた。
      • だが主流派はともかく、反主流派が1枚岩になるのはイデオロギー上難しかった。
        • 福田派と中川グループは真正保守(タカ派)なのに対し三木派はリベラル(ハト派)なので。
          • 右派政権が誕生するか左派政権が誕生するかは三木新党にかかっていたかもしれない。
      • その場合バブル景気は起こらなかったかもしれない
  2. 1988年以降も生きていた場合、瀬戸大橋の開通を心から喜んでいた。
    • もちろん開通式にも呼ばれていた。

小渕恵三

  1. 森喜朗が総理大臣になることはなかった。
    • 娘の小渕優子が衆議院議員に立候補することもなかった。
  2. 小泉内閣の発足は2~3年ほど遅れていた。
    • よって、2007年現在も小泉政権が続いている。
    • 小泉内閣誕生後も経世会は小渕を中心にして求心力を維持したので、抵抗勢力がより手強くなっていた。
      • 上とは矛盾するが、郵政民営化法案が否決されるどころか提出さえ行えず、早期に退陣している可能性も。
        • その場合、造反組が離党して国民新党新党日本が結成されることはなくなる。
        • 逆に小泉氏が自民党を離党して新党を旗揚げしているかも。
        • 2007年7月の参議院選挙で、自民党があれ程大敗しなかった。
      • むしろ2006年9月の「郵政解散」が無く、現状の衆議院の自民党の議席が今ほど無かった。
  3. 2000円札の登場を見届けていた。
    • もちろん沖縄サミットにも出席していた。
      • ↑そうなれば、2008年7月に行われる北海道洞爺湖サミットのアドバイザーになっていた。
      • または、日本国内で行われたサミットを唯一経験した首相として(洞爺湖)サミット担当大臣に就任していたかも。
      • 沖縄県民からたくさん祝福された。
  4. 2008年9月に行われる自民党総裁選挙で誰を支持したか?
  5. 小渕氏は亡くなったために「いい人」扱いされているが、存命なら「凡人」扱いのまま。
    • その後の総理が森だったので比較として良く見られている面もあるので、その後が小渕より人気のある人物だった場合、なおのこと「どうでもよい人」扱い。
  6. 2008年以降、DAIGOと一緒にバラエティに出演してたりしてWISH!
  7. 格差・貧困問題は社会問題になるほど大きくはならなかった。
    • 派遣村が作られることはなかった。

国会議員

浅沼稲次郎

  1. 自民党と社民党の二党政治になっていた。
  2. 岸信介と対立していた。
  3. 総理大臣に就任していたかも。
    • 社会党内の改革を進め、江田三郎を持ち上げていたかも
  4. 日本人初のピュリッツアー賞受賞者は、沢田教一だった。(史実では、この時の様子を撮影した、長尾靖[毎日新聞社カメラマン]が第一号である。)
  5. 「子供に刃物を持たせない運動」はなかった。
    • 流石に「キレる17歳」が社会問題になる頃にはその運動は活発化していたのではなかろうか。
関連項目

安倍晋太郎

  1. リクルート事件のほとぼりが冷めた頃、総理大臣に就任している。
    • あるいは河野洋平の後を受けて自民党総裁にのみ就任。村山内閣をバックアップしている。
    • 1993年の第40回衆院選(嘘つき解散)にて宮澤喜一に代わり自民党総裁に。公明党と連立を組み史実より7年早く自公連立政権が誕生し、第79代内閣総理大臣に就任する。
      • 自公連立は安倍(岸)家が公明党の支持母体である創価学会と親密であったため実現した。
      • 浜田幸一(ハマコー)が悲願の初入閣を果たしている。
        • 安倍は生前、浜田に「俺が総理大臣にならない限り、お前は一生大臣にはなれない。」と冗談交じりに話していた。
        • しかし、案の上浜田は失言等数々の問題を起こし早々に辞任。
  2. 2007年現在の次男坊の姿を見て、情けなく感じているかもしれない。
    • 個人的にはまだ総理になってないような気がする。次男が総裁選に出馬したのは「チャンスをものに出来なかった父の姿を間近で見ていたから」らしいので。
    • 辞任に伴い「もういい!俺がなる!息子のケツは俺が拭く!」と言いだす。
    • 彼が健在だった場合、次男坊はすでに亡くなっているような気がします。
      • それは●したってこと?
  3. 2012年12月末に発足した、第2次安倍内閣をどう思ったか?

沢たまき

  1. 現在も国会議員だった場合、公明党の党首になってたかも。
    • いまごろ(2009年6月)は、次期衆議院選のことで躍起になっていただろう。
  2. ひょっとしたら、国会議員を引退して女優に復帰してたかも。
    • その場合、連続テレビ小説『つばさ』で玉木千代役を演じていた(史実では吉行和子)。

中川一郎

  1. 長男・昭一の政界転向はなかった。
    • 仮にあったとしても、一郎氏の政界引退後。
  2. 悲願の首相の座を手にしていた(政界の惑星で終わっていた可能性も否定できないが)。

中川昭一

  1. もし中川昭一が2009年の総選挙で当選していたらである。
  2. 今津寛の衆議院議員復帰はなかった。
  3. 郁子夫人が自民党衆議院北海道11選挙区支部の支部長に就任することはなかった。

松岡利勝

  1. とりあえず、農水大臣の職は退いていた。
    • 後任は史実通り、赤城徳彦。
  2. 安倍内閣はもう少し長持ちしてたかも。
  3. 2009年の衆院選では出馬していなかったか、出馬しても落選していたと思われる。

知事・市町村長・地方議員

伊藤一長

選挙期間中に暴漢から銃撃され四選を断たれてしまった伊藤一長長崎市長。伊藤市長がもし銃撃されていなかったら……

  1. もちろん長崎市長四選していた。
  2. 次期衆院選に出馬していた。
    • あるいは2010年の長崎県知事選挙に立候補していた。
      • 仮に知事となっていた場合、宮崎県の東国原英夫知事と対立してたかも。
      • 大仁田よりはマシだろ。
  3. 実史通り撃たれても生存していたら更に平和を訴えている
  4. 助かって無事当選した所で、しばらく執務は困難だったと思われる。
    • ↑のコメントに同感。最悪の場合、任期満了を待たずに市長辞任→出直し市長選という展開になっていたかも。
      • 辞任のタイミングによっては、第45回衆議院総選挙or2010年長崎県知事選とのダブル選挙になっていただろう。

松本清

マツモトキヨシの創業者としてだけではなく、すぐやる課などのアイディアを駆使した名物市長として松戸を一躍発展させましたが、二期目半ばにして病気のため夭逝なされました。 もし病死することがなかったとしたらどうなっていたでしょうか?

  1. 市長を二期務めた後自民党より国政に進出。晩年は総理の座にも座っていた。
  2. もしくは千葉県知事になり、名物知事として有名になっていた。
    • 知事としての初仕事は「全市町村役場は<すぐやる課>設置せよ」。