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#ベニスとペニスを間違いやすい。
==三国時代の噂(一般)==
#*間違えねーよ(w
#おかまの孫と南の方に住んでた田舎者と半浮浪者が戦ったり馴れ合ったりしてた時代
#**[[ソウル]]にはベニスという喫茶店があるが、[[韓国語]]では語頭の濁音は清音/半濁音に変化するので(ry
#*チ●コ切られた人の孫と、南部の田舎もの兄弟、やりたい放題のチーマー3人組(大酒のみのニートか?)がロングヒットゲームの原作を書いた。おかげで地元の人はいい迷惑。
#洪水世界一。[[オランダ]]よりもすごい。地球温暖化で水没する可能性が高い。京都議定書に無関心な[[アメリカ]]を訴えてやれよ!
#*戦争狂の小男と呉一家の大親分とチンパンジーが巻き起こした長編スペクタクルがウリ。
#*不定期的にアクアアルタが起こるからね。温暖化でアクアアルタの水位上昇が危惧されてる。
#**呉一家は当初、「おやっさん(孫堅)をやった黄祖のガキのタマ取ったるんじゃ!」で団結していた。
#*俺が行ったときも満潮で水没してた。
#**その後、「二代目の志をムダにしちゃあいかんけえのう」と一致団結。曹魏と対立時には「クサレ孟徳のタマァ取ったれえ!」と大団結した。
#*どちらが先に完全に水没するかを、[[アメリカ|米国]]の[[ニューオーリンズ]]と競い合っている。
#黄巾党が衆議院で単独過半数を獲得。
#車代わりに船。
#劉代表は孔明党と連立を組む用意があると発表。関副代表・張幹事長はこれを了承。
#*道は細く迷路のよう。大小無数の運河には湾曲した橋がかかっている。よって車なんかとても通れない。鉄道も本土から街の入り口までしかきてない。船と徒歩だけが移動手段。
# 広島県[[呉市]]の面積が最も広かった時代。
#*警察もパトカーならぬパトボート。
#*読み方は「ひろしまけんくれし」ではなく「かんとんけんごいち」である(嘘
#**他に救急船、消防船など…。
# 国王のソンケンさんの息子もソンケンだったため混乱がおきる。
#*よって運河にはちゃんと交通標識と交通法規がある。一方通行、進入禁止、左側通行など。
#*国王はケンパパって言えば通じる
#**[[日本]]の運河だって水上交通法規があるんだが、何か?
#**桃兄者の文官の一人もソンケンだったりする。
#**いや?特に。
# 戦場で矢に当たったために大目玉を喰らった人が。
#温暖化は無くとも地盤沈下でどの道沈む
# 一人で中原を統一できそうな人が何人もいた。
#建物の出口が運河に面していて即船に乗れるようになっているのが珍しくない。
#*[[川崎市/中原区|川崎市中原区]]ではない。
#建物の屋上にアルターナというテラスをもっているところがある。規制が厳しく誰でも作れるわけではないのでステータスになっている。航空写真を撮影したらアルターナで美女が全裸で日光浴しているのが写ったとか。
#何度も遠征したのにほとんど勝てず、国力を疲弊させまくって亡国への道を敷いたはずの宰相閣下が、死後歴史上最高の軍師となり極東の島国で祭り上げられた。
#物資を本土から輸送しなければいけないので物価が高い。
#*宰相じゃなくて丞相ですね。
#ベネチアの地図を買ったら耐水仕様だった。
#**自称な。正統王朝でもない単なる地方政権の大臣なんだから、丞相を名乗るなんざおこがましいにも程がある。
#ホテルのキーは水に落としても浮くようになっている。
#*しかも彼は実際はただの口うるさい小役人である。
#ヴェネチアにもサッカー場がある。しかし、落書きだらけで不気味。人気は全くない。
#*とりあえず「今孔明」ってあだ名は、実情を知っている以上、付けられた人に対して失礼だと思う。
#ヴェネツィア人の多くは、ケチであり、見栄っ張りが多い。他人のために使うお金は「勿体無い」が、自分のステイタスを象徴させる物(車、家、服装、社交)には糸目をつけない。ブランドは偽モノでも見栄の為。
#**「今公明」は?
#観光収益で賄っている町。観光客はいいカモである。ゴンドリエーレは言葉が通じなく、金払いの良い[[アメリカ人]]からぼることが多い。運河に囲まれたヴェネツィアではバスの代わりに船が運航しているが、観光客からは乗船料5ユーロを徴収するのに反し、地元住民(住民票を有する外国人含)は1ユーロ。
#*とまあいろいろ言われるが、この時期トップクラスの政治家・将軍。蜀と魏の国力差を忘れてはいけない。
#*某火星と違ってゴンドリエーレは男の職業。
#孫子の本当の著者は曹操らしい。
#**だけど最近裁判に勝って初の女性ゴンドリエーレが誕生しました
#*書いたのは孟徳新書と言う孫子の注本らしいです。
#2003年の映画「ミニミニ大作戦」のロケ地になったが、あまりに派手すぎて今後一切映画の撮影が禁止になった。
#**張松に馬鹿にされて破り捨てられている。
#かつては[[地中海]]の覇権を握っていた。[[ギリシャ]]のパルテノン神殿を壊したのもここの軍隊。
#**本当は魏武註孫子という。いろいろあった孫子を纏めて註訳したもの。魏武とは曹操(武帝)のこと。でも曹操は文帝になりたかったらしい。
#*第4回十字軍が[[東ローマ帝国]]を攻め滅ぼした時、黒幕だったのがヴェネツィア。
#曹操に名前を変えられた軍師がいる
#*[[イタリア]]の一部とは思えないほど冷徹で外交上手、現実主義だった国。
#*程立(テイリツ)→程昱(テイイク) ちなみに彼は『十面埋伏の計』(伏兵戦術)を使って、袁紹に致命傷を負わせている。
#**各国に大使館を置いた最初の国。これら大使館と自国の商人たちの連係プレイで、当代一の情報網を作り上げた。今じゃ中世史の研究に一役も二役も買ってます。
#*他にも、母親からのものにみせかけた偽手紙で敵国の有力な人材を引き抜いたりしている。その母親は「偽手紙で騙されるような子に育てた覚えは無い」と言って悲しんで自殺。
#*いや、主犯は火薬を詰め込んだトルコ軍の方だろ。
#**それは徐庶。
#*周囲の諸都市が、'''白でも黒になる異端審問'''やら、'''血を血で洗う政治的内紛'''やら、'''致死率2/3のペスト'''やらで、ドンチャン騒ぎをしているのを尻目に、一人だけ<big>'''巡礼者相手の観光ガイドで儲けてた国。'''</big>これホントに中世の国なのか?
#***「策を仕掛けた側」は程昱で合ってるよ。
#*この国が勝てなかったのは、オスマントルコとナポレオンだけ。いやマジで。
#* 軍糧が乏しかった時、死んだ兵士の肉を加工してこっそり加えていたという噂も持っていた。
#**マルタ島騎士団もたまには思い出してやってください><
#*何かと黒い計略が得意な人。 
#*行政文書や統計記録もしっかり残っている。レパントの海戦の参加人数や死傷者など、スペインやトルコの記録は百人単位なのにヴェネツィアだけは端数までほぼ完璧に記録されている。こういう文書管理の徹底ぶりなども、実に古代ローマ的。
#赤壁の戦いの勝敗は「チンカラホイ」でひっくり返った。
#「同じ橋を2度使わずに全ての島を回れるか」というゲームが古くからあるが、誰も成功したことがないらしい。
#*諸葛孔明がなんでもできる魔術師として光臨。
#*そもそも、どこまでが一つの島なのかよく分からない。
#諸葛孔明の奥さん・黄氏が常識破りのオーパーツ的科学兵器を量産したマッドサイエンティストとしてノーベル賞を受賞した。
#水没後は[[火星]]に移住する予定。
#連環の計、という計略が2種類ある。片方は美女を使って男の仲を裂くもの。もう片方は船を鎖でつながせて一気に燃やすもの。同じ名前なのに全く違ってややこしい。
#*[[ARIA(AQUA)ファン|A**A]]かい。
#某国の県令(知事とも)が、たびたび「三○人」と発言するも、魏、呉、蜀のうちどこの国かはっきりせいとそのたびに突っ込まれる。
#*火星に行ってもやっぱり水没する。
#*ここではいわゆる[[特定アジア|この地域]]を挿していると思われる。似たような言葉に「三国一の~(花嫁とか)」というほめ言葉があるが、これは三国志とは関係なく(仏教が信仰されている地域である)インド、中国、日本の事。転じて「全世界」という意味である。
#**アクアアルタは健在。
#庶民にとっては「惨酷」時代。
#*あらあら。うふふ。
#*いきなり人口が10分の1に激減。中国史において最も過酷な時代だったでしょう。
#**うふふ禁止! あらあらも禁止!
#**劉備みたいな流浪の民が増え、人口が把握できなくなっただけ。これを逆手にとって諸葛亮が劉備に「まだ兵隊にできる連中がいます」という献策をしたことがある。
#*ちなみに「火星」を「かせい」とでっかい読んだらだめです。
#***陳羣ら当時の中国高官の証言あり。今は葬乱のあとで、各地白骨、人煙絶ゆ、一州の人口、昔の一郡に若かず・・・など。また時の各皇帝も、移住政策に熱心。曹丕は狭い範囲を石碑で規定して、その間に辺境の中国人を強制的に住まわせたとか、人口減少の為。数字通りではないにしても、ある程度の人口減少はあったと思われる。
#*バカじゃないネタ禁止!
#史上最強のゴキブリが生息していた時代。このゴキブリの被害に悩まされた家庭は多い。曹さんや劉さんの家も散々な目にあった
#*恥ずかしいセリフ禁止!!
#*一番ひどい目にあったのは董卓さんだろ。
#**ええーっ
#三日三晩燃え続けるロウソクが発明された。
#**さらに「ヒボシ」と読んだらその人はニコチ○ン星人の王である可能性があります。
#*そのロウソクに泣いてすがる人もいた。
#*すわっ!
#現代人もビックリな先生達や仙人達が多数登場。
#超豪華列車「ベニス・シンプロン・オリエント急行」は、[[ロンドン]]-フォークストン-ブーローニュ-[[パリ]]-インスブルック-[[ミラノ]]-ヴェネツィア間を結んでいる。ヴェネツィアでは、サンマルコ駅にて発着する。
#*麻酔を駆使するスーパードクターKがいた。
#*「クッキングパパ」14巻に出てきたアレか。
#*人を勝手にしばき、口癖は「よいぞ、よいぞ」という酔狂な先生がいた。
#**直近では「王様の仕立て屋」とか。
#*星を見て未来が分かる細○○子のような先生もいた。
#*サンタルチア駅だろ?
#*仙人は物凄い能力を持っているが取り扱いを間違い機嫌を損ねるとジワジワと死に追いやるような天罰を下す。
#なぜかこの町のトイレの便器は便座がないことが多い。
#凄いのは人間だけじゃない。
#*イタリア全般そう。
#*一日に千里を走る馬がいた。
#ラティオスとラティアスが住み着いてる。
#**その馬と一緒に並んで走る人もいた
#ベニスなのかベネチアなのかヴェネツィアなのかはっきりしてほしい。
#*ベネツィア、ヴェネチアとも。
#**ヴェニス、ベネティア、ヴェネティアもあるらしい。
#*「ベネチア」で慣れていたので、名波がセリエA移籍した時「ヴェネツィア」表記を見て気持ちが悪かった。
#*フランスの "パリ" ってよォ… 英語では "パリス" って言うんだが、みんなはフランス語どおり "パリ" って発音して呼ぶ。でも "ヴェネツィア" はみんな "ベニス" って英語で呼ぶんだよォ~~~ "ベニスの商人" とか "ベニスに死す" とかよォーー!なんで "ヴェネツィアに死す" ってタイトルじゃあねえーんだよォオオォオオオーーッ!それって納得いくかァ~~~~おい? {{Long article L}}
#**原作書いたのがイギリス人とかドイツ人だからだろ。
<!--#***ちなみにこの文章の元ネタはジョジョ5部だと思う、たぶん。-->
#**つか、むしろこの点は誇ってもいいところだろ。
#***地中海貿易を担った一大強国として千年も独立国の体裁を毅然と保ち、時代の移り変わりを機敏に悟るやいなや華麗に欧州一の観光立国への転身を図る。
#****その観光史だけを取ってみても中世のエルサレム巡礼の経由地として始まり、欧州でも極め付きの歴史を誇る。
#****甘美で退廃的な雰囲気は多くの富裕階級を魅了し、文人たちもこぞって小説の舞台として登場させた。
#***他国語の名称で呼ばれるのは、ヴェネチアが古くからその存在を全ヨーロッパに知らしめた国際都市であった、その何よりもの証なのです。イタリア中部で陣取り合戦を繰り返してた小都市群とはスケールが違うのですよ。スケールが。・・・・・・という風に見てあげてもいいんじゃないかと。
#商人。
#*ただし、「ベニスの商人」の登場人物は、ヴェネツィア人から見れば商人失格。
#中世ヨーロッパで最も冷静だった国。
#*魔女狩りが全くなかったのは立派。
#*近代以前にも、概ね言論の自由が保障されていた。
#*亡命者も概ね受け入れている。
#[[ヨーロッパ]]中の[[鳩]]が集まってくるらしい。鳩の餌売りで生計を立てている人も。
#*逆に市のお役人さんは'''フン害で憤慨'''しているらしい。
#*鳩が縄張り争いを繰り広げる「ヴェネツィア」というボードゲームもあるらしい。


[[Category:イタリアの都市|うえねちあ]]
==魏の皇帝==
#実質的建設者は曹操(曹丕に武帝と追謚された)とは皆さんご承知と思うが、独立した項目が無いのが涙をそそる。
#*まあ、厳密に言えば後漢時代の人ですからねぇ。
#*第二の光武帝になろうとして、政策、言論を真似た。挙兵前の評価が光武帝が「ヘタレ」だったのに対し「乱世の奸雄」という神童ぶりだったのに、結局は地方政権の王止まり。肉親殺そうが、腹蹴ろうが、造反しなければ許す度量まで真似しきれなかったのが原因か。
 
===文帝(曹丕)===
#実は三国の初代皇帝の中でいちばん年下。
#*実質上の創始者である父・曹操が帝位に就こうとしなかった。
#しょっぱなから弟(曹植)との後継者争いに見舞われたため、同族をまったく信用しなくなった。
#*皇族はほとんど軟禁状態で外出もままならなかったらしい。あまりの息苦しさに、皇族の籍を離れたいと希望する者が相次いだが、文帝は許さなかった。
#*そのため、後年司馬一族が専横をきわめた時も、皇族は誰一人立ち上がろうとしなかった。立ち上がる義理も感じていなかったし、立ち上がる力も全然なかったのである。
#*ただし、末の弟だけは父親代わりになって親身に接した。もっとも、その弟の母親が、後継者争いで曹丕を支持したからであるが。
#家臣との宴席に自分の奥さんを呼んで物議を醸した。
#*何が問題なのかわかりづらいと思いますが、この時代、妻を他人に見せるということはまずあり得ず、今の感覚で言えば飲み会で奥さんにストリップさせるようなものでした。
#*このように、秩序の頂点である皇帝の座に居ながら、けっこうアウトローな人だった。
#「文章は経国の大業、不朽の盛事」は名言だと思う。
#*実はこの名言、武では父(曹操)に劣り、文で弟(曹植)に敵わなかった負け惜しみ、であることは余り知られていない。
#教科書の三国時代で名前が出てくるのはこの人だけ。
#*高校世界史程度ならそうだね。政治史なら陳群、芸術史・書道史なら鐘会の父鐘ヨウ、文学史なら曹操・曹植・建安七子がはずせない。
#部下に対して色々とサディスティックで陰湿ないじめを行っており、後世でも批判されている。ただし信用した奴はとことん信用するという、二面性のある人間だった。
#*あぁ孟達とか黄権とかだね。
#おはじきのプロ。
#兵法などはそれなりに勉強していただろうが、戦にめちゃくちゃ弱い。
 
===明帝(曹叡)===
#文帝の崩御に乗じて攻めてきた呉の軍勢を自ら撃退。
#*同じく攻めてきた蜀の軍勢のほうは司馬仲達が撃退。
#最初の頃は颯爽としていたのだが、一通りの危機が去ると、やたら巨大建築を始めて財政を悪化させた。
#卑弥呼にプレゼントをした。
#*倭の使者は、たぶん公孫淵を破った司馬仲達が洛陽に連れ帰ったと思われる。その時明帝は死病の床にあり、間もなく亡くなったので、たぶん卑弥呼へのプレゼントは明帝の知ったことではなかったろう。
#晩年はやや暗愚だったが、全体的にみるとそれなりの才を備えた名君。コーエーの三国志シリーズなどでは、基本的に曹丕より能力は上である。
#*というかほとんどの作品で三国の皇帝でもトップレベルな能力値だったりする。
#*でも知名度的には曹叡<<<<曹丕。
 
===斉王(曹芳)===
#明帝に子がなかったので一族の中から養子に。実際にはどんな関係だったのか誰も知らない。
#司馬師(仲達の息子)に廃位され、斉王に格下げされる。
#*三国志演義ではクーデターを企てたことになっているが、史実ではないようだ。
 
===高貴郷侯(曹髦)===
#司馬昭の誅殺を試みたが、逆襲されて斬殺される。
#*誅殺を持ちかけても誰も引き受けてくれず、仕方なく自分で刃をふるった結果、悲惨なことになった。
#*死後、帝号も王号も貰えなかった。
 
===元帝(曹奐)===
#自分の立場をよくわきまえており、おとなしく司馬昭の位を上げ、おとなしく司馬炎に禅譲した。
#*司馬昭に禅譲するはずだったが、その直前に司馬昭が病死してしまったので、息子の司馬炎に禅譲した。
#禅譲後は陳留王に封じられ、厚遇されて司馬炎(晋の武帝)よりも長生きした。
#*晋が同族争いで乱れまくった「八王の乱」のさなかに死んでいる。愚かしい同族の殺し合いを見て、多少溜飲を下げただろうか。
 
==呉の皇帝==
===大帝(孫権)===
#果断で颯爽とした人物ではあったが、酒乱。
#*自分でも酒乱ぶりに愛想を尽かし、「俺が酒に酔っている時の命令には従わなくてもよろしい」と家臣一同に宣言。
#**しかし、酒の席で自分を不快にさせた家臣への報復は忘れなかった。僻地へ飛ばすとか、宰相に絶対しなかったとか。
#有能な家臣に恵まれたが、なぜかお気に入りの家臣ほど早死にだった。周瑜も魯粛も呂蒙も40歳前後で死んでいる。張昭のようなうるさ型ばかり長生きだった。
#*上司(孫権)に気を使いすぎてストレスがたまったんだよきっと。陸遜は60近くまで生きたけど最後は憤死('''≒ポックリ''')だし。嫌な上司を持つと辛いのはいつの時代でも同じ。
#本人もかなり長生きしたが、晩年は老害をまきちらし周囲を迷惑させた。
#呉の人口が少ないのを憂慮。夷州・亶州という東方の島が人口が多いと聞き、配下の武将を人狩りに派遣した。
#*夷州にはたどり着けたが亶州は遠すぎて行けなかったという。
#*夷州は台湾ではないかと言われている。亶州は日本説、沖縄説、フィリピン説などいろいろ。
#*連れて行った兵士や水夫が途中で死んだ数より、夷州で狩ってきた人間のほうがずっと少なかった。つまり、かえって人口を減らす結果となった。
#**派遣された衛温・諸葛直の両将軍は責任をとらされて処刑された。どう考えても悪いのは命令した大帝のほうなのだが。
#兄(策)いわく「俺より戦は下手だけど、みんなをまとめて国を固める力はあるよ」。
#*その通り、一応生きている間は呉の領土が減ることは一度もなかった。
#*そして参加した戦で勝利したこともほとんどなかった。
#戦に弱過ぎるのに、兄や父と同じく何かと前線に出たがる。血は抗えない。
#*しかし腕っ節の強い父や、戦の天才の兄と違って、いつも窮地に陥る。
#**特に合肥では張遼とニアミスしていた。
#*一応フォローすると、短足だけど馬術、騎射は得意だったようだ。
#その字から、孫権「厨房」とさんざネタにされる。
 
===会稽王(孫亮)===
#孫権が当初皇太子に立てていた孫登が早く死んだので、代わりに孫和が立てられたが、孫権はその弟・孫覇を溺愛したので、お家騒動が起こりかけた。結局孫和も孫覇も後継者にするわけにゆかなくなり、末弟の孫亮が継ぐことになった。
#いわば妥協の産物だけに軽く見られ、諸葛恪・孫峻・孫綝と、次々に権臣の傀儡となるばかりだった。
#たまりかねて孫綝を除こうとしたが、逆に廃位されてしまい、会稽王に格下げされた。
 
===景帝(孫休)===
#孫亮の異母兄。
#*孫綝によって擁立されたが、油断したところを見計らって一気にクーデターを起こし、孫綝を誅殺。
#蜀が亡ぼされたのに気落ちしてか、在位6年で若死に。
#「他の人と名前が被ってはいけない」と言う理由で子供の名前用に漢字を新しく作ったりもした。
 
===末帝(孫皓)===
#孫権の2人目の皇太子・孫和の息子。
#*そのため、即位後は孫和の名誉回復に躍起になった。でも本人の行いがこれじゃあねえ・・・どこまで回復できたやら。
#即位するや否や、なぜか景帝の妻子を皆殺しにする。
#無意味に武昌に遷都し、翌年また建康に戻ったりして、財政を傾けた。
#夏の桀王・商の紂王まがいの暴君ということになっているが、その辺は多少割り引いて考えたほうが良い。
#いずれにしろ人心はすっかり離れ、晋軍が攻めてきた時には誰も抵抗しようとしなかったという。
#晋からは帰命侯に封じられ、4年後に病死。
#司馬炎と王済が孫皓の前で碁を打っている時、「どうして人の顔の皮を剥いだのか?」と司馬炎が尋ねたので、王済が碁盤の下で足を投げ出して座っているのを見て、すかさず「主君に無礼を働く者があれば剥ぐのです」と答え、恥じ入った王済が足を引っ込めたという話が残っている。
 
==蜀の皇帝==
===昭烈帝(劉備)===
#「曹丕に弑された献帝の後を継いで帝位に就いた」という建前だったので、蜀では献帝がまだ生きていることはアンタッチャブルになってしまった。
#義兄弟の関羽が呉にやられ、もうひとりの義兄弟の張飛も部下に暗殺されて犯人が呉に逃亡したため、呉に対して無謀な戦を仕掛ける。
#*この時、正面から反対したのは趙雲だけ。諸葛孔明は「法正が生きていれば止めてくれたろうに……」と愚痴を言うのみだった。
#*結局、この大事な戦に、趙雲と孔明は留守番を命じられた。この二人、実は後世思われているほど劉備に重用されていなかったようだ(その前の討蜀戦の時も最初は留守番だったし)。
#**重用されていなかったかどうかはともかく・・・留守役というのは、主と主戦力のいない国を治めねばならず、前線で糧秣が足らなくなれば整え、兵が足らなくなれば援軍を送り・・・能力と忠誠心がなければ出来ない役割である。
#**孔明は軍師というより政治家であり、趙雲は三國志演義で五虎将とされている武将達の中では末席であるし、名声が誇張されていることは否定しないが、劉璋時代の家臣と劉備が連れてきた家臣との間に溝があり、不安定であった蜀の留守役を任された者達である。
#**ま、昔のコーエー三国志なら、使えない武将を残していくけどなw(これが言いたかっただけ)
#劉備推薦の人物(魏延など)は良く働くが諸葛亮につぶされ、諸葛亮推薦の人物(馬謖など)は失敗をしでかす。諸葛亮よりよっぽど人を見る目がある。
#*自分の才能を誇るか、それとも低く見るかの差だったような。謙虚であることは人を見る目を澄ませますな。
#誰もが知る通り、農民の出から皇帝へと大サクセスストーリーを描いた人物。
#*もちろん、漢の高祖である劉邦も同じ。二人は人間的にも共通点が結構ある。
#「演義」では聖人君主だが、「正史」ではヤクザの頭目。
#*よく誤解されやすいが、史実の劉備は決して傍若無人だったわけではない。人間を惹きつける魅力は天性のものがあったようである。
#**というか、慕われる人間じゃないとヤクザの親分なんかできません。
#人に慕われる才能は凄かったが、それ以上に人を見る才能も凄かった。
#*彼が推薦する人物はみなよく働き、私欲的な謀反もほとんどしていない。
#**逆に孔明が目をかけた人物は、ここぞというところで失敗をしたり、人間的に腐ったところがある奴が多数。
#戦争は弱かったとも、強かったとも言われる。
#*少なくとも、あれだけ負け続けて流浪しても生き残っているあたり、「生き残る才能」はあったと見るべきだろう。
#最後の最後に今まで負け続けた曹操に勝ち、漢建国を象徴する都市である漢中を奪取したというのが歴史の妙である。
#*というか、この瞬間こそが劉備&蜀の最盛期であった。
#*ただ蜀の成都は、光武帝の時代に天下分け目の最終決戦が行われ、二十八将の仲間殺されてキレた呉漢が血の海に変えた都市。その後も反漢王朝を掲げる反乱が起きてた地で、漢王朝再興を唱えるのは皮肉以上の何者でもない。
#耳が異様に大きく、手が非常に長かった。
#演義では漢王朝復興を目指す理想家のように書かれているが、実際は極めて現実家だったようだ。
 
===後主(劉禅)===
#劉禅の幼名「阿斗」が、暗愚な二代目の代名詞になるくらい昔から嘲笑されてきた人物。
#*現代中国語の辞書がアルファベット順なので、阿斗は読みがA Douだから、大概1ページ目に載っている。意味は「ばかもの」とか。
#しかし、そんな彼が40年間も蜀を平和に保ち得たことには、みんな目をつぶっている。
#*その治世は、宰相役によってほぼ10年ずつ、諸葛孔明時代、蒋琬時代、費禕時代、最後期と分けられるが、蜀がおかしくなったのは費禕が死んで、それまでおとなしくさせられていた姜維がやたらと軍事行動を始めてからの最後の10年だけ。
#*ちなみに最後期の宰相が誰だったのかよくわからない。孔明の息子の諸葛瞻ではないかという研究者も居る。彼が[[成都]]陥落前に絶望的な抵抗を試みるのは、姜維を抑えきれなかった責任を感じてのことではなかったか……ということらしい。
#魏軍に攻め込まれると、成都が戦場になる前に降伏し、無駄な犠牲を避けた。
#*魏から送られた安楽公の称号は、その決断を称える意味もあったと思われる。
#**ちなみに「安楽」は地名にあり、幽州漁陽郡の県のひとつ。つまり、親父の故郷の近く。
#***与える封邑の名前に人物の評価を込めるということは中国ではよくおこなわれていたので、やはり偶然の称号ではなかったと思います。
#*しかし、その配慮も姜維の無謀なクーデター計画で水泡に帰しました。
#暗愚というよりは、他人に影響されやすい人だったというのが後世の歴史家の評価。
#*そうは言っても、何かと批判者や中傷者も多かったに違いない孔明・蒋琬・費禕に、本人が死ぬまでずっと変わらない信頼を寄せていたわけなので、動かされやすい人だったとばかりも言えなさそう。輔佐者に人を得さえすれば、名君とは言えなくとも暗愚と罵られるほどのことにはならなかったのではあるまいか。
#**生まれた時代が悪かったとしか。乱世を乗りきれる器ではなかった。平和な時代なら「ちょっと微妙なお殿様」で済んだかも
#成都の武侯祠にはかつては彼を祀る像があったが、何度も壊されて今は無い。
#彼の子孫は4世紀の戦乱で絶滅。ただ、一人だけ生き残ったのが蜀地方にかろうじて逃亡した。
#*実は彼の子孫ではなく、彼の弟の子孫。
#「反三国志」では徐盛の部下によって暗殺されてしまう。当時の創作作家も嫌っていたようだ。
#弟の劉永は大嫌いだが、別の弟の劉理が大好き。劉理の子孫が夭折し続けて、その血統が絶えてしまったことを猛烈に悲しんで、後宮にこもりがちになっている。その頃から、黄皓が台頭し・・・。
 
== 関連項目 ==
*[[三国志ファン]](サブカルチャーのファンの噂はこちら)
*[[コーエーテクモゲームス]]
{{中国史}}
[[category:中国史|さんごく]]
[[category:三国志|*]]

2012年7月21日 (土) 15:43時点における版

三国時代の噂(一般)

  1. おかまの孫と南の方に住んでた田舎者と半浮浪者が戦ったり馴れ合ったりしてた時代
    • チ●コ切られた人の孫と、南部の田舎もの兄弟、やりたい放題のチーマー3人組(大酒のみのニートか?)がロングヒットゲームの原作を書いた。おかげで地元の人はいい迷惑。
    • 戦争狂の小男と呉一家の大親分とチンパンジーが巻き起こした長編スペクタクルがウリ。
      • 呉一家は当初、「おやっさん(孫堅)をやった黄祖のガキのタマ取ったるんじゃ!」で団結していた。
      • その後、「二代目の志をムダにしちゃあいかんけえのう」と一致団結。曹魏と対立時には「クサレ孟徳のタマァ取ったれえ!」と大団結した。
  2. 黄巾党が衆議院で単独過半数を獲得。
  3. 劉代表は孔明党と連立を組む用意があると発表。関副代表・張幹事長はこれを了承。
  4. 広島県呉市の面積が最も広かった時代。
    • 読み方は「ひろしまけんくれし」ではなく「かんとんけんごいち」である(嘘
  5. 国王のソンケンさんの息子もソンケンだったため混乱がおきる。
    • 国王はケンパパって言えば通じる
      • 桃兄者の文官の一人もソンケンだったりする。
  6. 戦場で矢に当たったために大目玉を喰らった人が。
  7. 一人で中原を統一できそうな人が何人もいた。
  8. 何度も遠征したのにほとんど勝てず、国力を疲弊させまくって亡国への道を敷いたはずの宰相閣下が、死後歴史上最高の軍師となり極東の島国で祭り上げられた。
    • 宰相じゃなくて丞相ですね。
      • 自称な。正統王朝でもない単なる地方政権の大臣なんだから、丞相を名乗るなんざおこがましいにも程がある。
    • しかも彼は実際はただの口うるさい小役人である。
    • とりあえず「今孔明」ってあだ名は、実情を知っている以上、付けられた人に対して失礼だと思う。
      • 「今公明」は?
    • とまあいろいろ言われるが、この時期トップクラスの政治家・将軍。蜀と魏の国力差を忘れてはいけない。
  9. 孫子の本当の著者は曹操らしい。
    • 書いたのは孟徳新書と言う孫子の注本らしいです。
      • 張松に馬鹿にされて破り捨てられている。
      • 本当は魏武註孫子という。いろいろあった孫子を纏めて註訳したもの。魏武とは曹操(武帝)のこと。でも曹操は文帝になりたかったらしい。
  10. 曹操に名前を変えられた軍師がいる
    • 程立(テイリツ)→程昱(テイイク) ちなみに彼は『十面埋伏の計』(伏兵戦術)を使って、袁紹に致命傷を負わせている。
    • 他にも、母親からのものにみせかけた偽手紙で敵国の有力な人材を引き抜いたりしている。その母親は「偽手紙で騙されるような子に育てた覚えは無い」と言って悲しんで自殺。
      • それは徐庶。
        • 「策を仕掛けた側」は程昱で合ってるよ。
    • 軍糧が乏しかった時、死んだ兵士の肉を加工してこっそり加えていたという噂も持っていた。
    • 何かと黒い計略が得意な人。 
  11. 赤壁の戦いの勝敗は「チンカラホイ」でひっくり返った。
    • 諸葛孔明がなんでもできる魔術師として光臨。
  12. 諸葛孔明の奥さん・黄氏が常識破りのオーパーツ的科学兵器を量産したマッドサイエンティストとしてノーベル賞を受賞した。
  13. 連環の計、という計略が2種類ある。片方は美女を使って男の仲を裂くもの。もう片方は船を鎖でつながせて一気に燃やすもの。同じ名前なのに全く違ってややこしい。
  14. 某国の県令(知事とも)が、たびたび「三○人」と発言するも、魏、呉、蜀のうちどこの国かはっきりせいとそのたびに突っ込まれる。
    • ここではいわゆるこの地域を挿していると思われる。似たような言葉に「三国一の~(花嫁とか)」というほめ言葉があるが、これは三国志とは関係なく(仏教が信仰されている地域である)インド、中国、日本の事。転じて「全世界」という意味である。
  15. 庶民にとっては「惨酷」時代。
    • いきなり人口が10分の1に激減。中国史において最も過酷な時代だったでしょう。
      • 劉備みたいな流浪の民が増え、人口が把握できなくなっただけ。これを逆手にとって諸葛亮が劉備に「まだ兵隊にできる連中がいます」という献策をしたことがある。
        • 陳羣ら当時の中国高官の証言あり。今は葬乱のあとで、各地白骨、人煙絶ゆ、一州の人口、昔の一郡に若かず・・・など。また時の各皇帝も、移住政策に熱心。曹丕は狭い範囲を石碑で規定して、その間に辺境の中国人を強制的に住まわせたとか、人口減少の為。数字通りではないにしても、ある程度の人口減少はあったと思われる。
  16. 史上最強のゴキブリが生息していた時代。このゴキブリの被害に悩まされた家庭は多い。曹さんや劉さんの家も散々な目にあった
    • 一番ひどい目にあったのは董卓さんだろ。
  17. 三日三晩燃え続けるロウソクが発明された。
    • そのロウソクに泣いてすがる人もいた。
  18. 現代人もビックリな先生達や仙人達が多数登場。
    • 麻酔を駆使するスーパードクターKがいた。
    • 人を勝手にしばき、口癖は「よいぞ、よいぞ」という酔狂な先生がいた。
    • 星を見て未来が分かる細○○子のような先生もいた。
    • 仙人は物凄い能力を持っているが取り扱いを間違い機嫌を損ねるとジワジワと死に追いやるような天罰を下す。
  19. 凄いのは人間だけじゃない。
    • 一日に千里を走る馬がいた。
      • その馬と一緒に並んで走る人もいた

魏の皇帝

  1. 実質的建設者は曹操(曹丕に武帝と追謚された)とは皆さんご承知と思うが、独立した項目が無いのが涙をそそる。
    • まあ、厳密に言えば後漢時代の人ですからねぇ。
    • 第二の光武帝になろうとして、政策、言論を真似た。挙兵前の評価が光武帝が「ヘタレ」だったのに対し「乱世の奸雄」という神童ぶりだったのに、結局は地方政権の王止まり。肉親殺そうが、腹蹴ろうが、造反しなければ許す度量まで真似しきれなかったのが原因か。

文帝(曹丕)

  1. 実は三国の初代皇帝の中でいちばん年下。
    • 実質上の創始者である父・曹操が帝位に就こうとしなかった。
  2. しょっぱなから弟(曹植)との後継者争いに見舞われたため、同族をまったく信用しなくなった。
    • 皇族はほとんど軟禁状態で外出もままならなかったらしい。あまりの息苦しさに、皇族の籍を離れたいと希望する者が相次いだが、文帝は許さなかった。
    • そのため、後年司馬一族が専横をきわめた時も、皇族は誰一人立ち上がろうとしなかった。立ち上がる義理も感じていなかったし、立ち上がる力も全然なかったのである。
    • ただし、末の弟だけは父親代わりになって親身に接した。もっとも、その弟の母親が、後継者争いで曹丕を支持したからであるが。
  3. 家臣との宴席に自分の奥さんを呼んで物議を醸した。
    • 何が問題なのかわかりづらいと思いますが、この時代、妻を他人に見せるということはまずあり得ず、今の感覚で言えば飲み会で奥さんにストリップさせるようなものでした。
    • このように、秩序の頂点である皇帝の座に居ながら、けっこうアウトローな人だった。
  4. 「文章は経国の大業、不朽の盛事」は名言だと思う。
    • 実はこの名言、武では父(曹操)に劣り、文で弟(曹植)に敵わなかった負け惜しみ、であることは余り知られていない。
  5. 教科書の三国時代で名前が出てくるのはこの人だけ。
    • 高校世界史程度ならそうだね。政治史なら陳群、芸術史・書道史なら鐘会の父鐘ヨウ、文学史なら曹操・曹植・建安七子がはずせない。
  6. 部下に対して色々とサディスティックで陰湿ないじめを行っており、後世でも批判されている。ただし信用した奴はとことん信用するという、二面性のある人間だった。
    • あぁ孟達とか黄権とかだね。
  7. おはじきのプロ。
  8. 兵法などはそれなりに勉強していただろうが、戦にめちゃくちゃ弱い。

明帝(曹叡)

  1. 文帝の崩御に乗じて攻めてきた呉の軍勢を自ら撃退。
    • 同じく攻めてきた蜀の軍勢のほうは司馬仲達が撃退。
  2. 最初の頃は颯爽としていたのだが、一通りの危機が去ると、やたら巨大建築を始めて財政を悪化させた。
  3. 卑弥呼にプレゼントをした。
    • 倭の使者は、たぶん公孫淵を破った司馬仲達が洛陽に連れ帰ったと思われる。その時明帝は死病の床にあり、間もなく亡くなったので、たぶん卑弥呼へのプレゼントは明帝の知ったことではなかったろう。
  4. 晩年はやや暗愚だったが、全体的にみるとそれなりの才を備えた名君。コーエーの三国志シリーズなどでは、基本的に曹丕より能力は上である。
    • というかほとんどの作品で三国の皇帝でもトップレベルな能力値だったりする。
    • でも知名度的には曹叡<<<<曹丕。

斉王(曹芳)

  1. 明帝に子がなかったので一族の中から養子に。実際にはどんな関係だったのか誰も知らない。
  2. 司馬師(仲達の息子)に廃位され、斉王に格下げされる。
    • 三国志演義ではクーデターを企てたことになっているが、史実ではないようだ。

高貴郷侯(曹髦)

  1. 司馬昭の誅殺を試みたが、逆襲されて斬殺される。
    • 誅殺を持ちかけても誰も引き受けてくれず、仕方なく自分で刃をふるった結果、悲惨なことになった。
    • 死後、帝号も王号も貰えなかった。

元帝(曹奐)

  1. 自分の立場をよくわきまえており、おとなしく司馬昭の位を上げ、おとなしく司馬炎に禅譲した。
    • 司馬昭に禅譲するはずだったが、その直前に司馬昭が病死してしまったので、息子の司馬炎に禅譲した。
  2. 禅譲後は陳留王に封じられ、厚遇されて司馬炎(晋の武帝)よりも長生きした。
    • 晋が同族争いで乱れまくった「八王の乱」のさなかに死んでいる。愚かしい同族の殺し合いを見て、多少溜飲を下げただろうか。

呉の皇帝

大帝(孫権)

  1. 果断で颯爽とした人物ではあったが、酒乱。
    • 自分でも酒乱ぶりに愛想を尽かし、「俺が酒に酔っている時の命令には従わなくてもよろしい」と家臣一同に宣言。
      • しかし、酒の席で自分を不快にさせた家臣への報復は忘れなかった。僻地へ飛ばすとか、宰相に絶対しなかったとか。
  2. 有能な家臣に恵まれたが、なぜかお気に入りの家臣ほど早死にだった。周瑜も魯粛も呂蒙も40歳前後で死んでいる。張昭のようなうるさ型ばかり長生きだった。
    • 上司(孫権)に気を使いすぎてストレスがたまったんだよきっと。陸遜は60近くまで生きたけど最後は憤死(≒ポックリ)だし。嫌な上司を持つと辛いのはいつの時代でも同じ。
  3. 本人もかなり長生きしたが、晩年は老害をまきちらし周囲を迷惑させた。
  4. 呉の人口が少ないのを憂慮。夷州・亶州という東方の島が人口が多いと聞き、配下の武将を人狩りに派遣した。
    • 夷州にはたどり着けたが亶州は遠すぎて行けなかったという。
    • 夷州は台湾ではないかと言われている。亶州は日本説、沖縄説、フィリピン説などいろいろ。
    • 連れて行った兵士や水夫が途中で死んだ数より、夷州で狩ってきた人間のほうがずっと少なかった。つまり、かえって人口を減らす結果となった。
      • 派遣された衛温・諸葛直の両将軍は責任をとらされて処刑された。どう考えても悪いのは命令した大帝のほうなのだが。
  5. 兄(策)いわく「俺より戦は下手だけど、みんなをまとめて国を固める力はあるよ」。
    • その通り、一応生きている間は呉の領土が減ることは一度もなかった。
    • そして参加した戦で勝利したこともほとんどなかった。
  6. 戦に弱過ぎるのに、兄や父と同じく何かと前線に出たがる。血は抗えない。
    • しかし腕っ節の強い父や、戦の天才の兄と違って、いつも窮地に陥る。
      • 特に合肥では張遼とニアミスしていた。
    • 一応フォローすると、短足だけど馬術、騎射は得意だったようだ。
  7. その字から、孫権「厨房」とさんざネタにされる。

会稽王(孫亮)

  1. 孫権が当初皇太子に立てていた孫登が早く死んだので、代わりに孫和が立てられたが、孫権はその弟・孫覇を溺愛したので、お家騒動が起こりかけた。結局孫和も孫覇も後継者にするわけにゆかなくなり、末弟の孫亮が継ぐことになった。
  2. いわば妥協の産物だけに軽く見られ、諸葛恪・孫峻・孫綝と、次々に権臣の傀儡となるばかりだった。
  3. たまりかねて孫綝を除こうとしたが、逆に廃位されてしまい、会稽王に格下げされた。

景帝(孫休)

  1. 孫亮の異母兄。
    • 孫綝によって擁立されたが、油断したところを見計らって一気にクーデターを起こし、孫綝を誅殺。
  2. 蜀が亡ぼされたのに気落ちしてか、在位6年で若死に。
  3. 「他の人と名前が被ってはいけない」と言う理由で子供の名前用に漢字を新しく作ったりもした。

末帝(孫皓)

  1. 孫権の2人目の皇太子・孫和の息子。
    • そのため、即位後は孫和の名誉回復に躍起になった。でも本人の行いがこれじゃあねえ・・・どこまで回復できたやら。
  2. 即位するや否や、なぜか景帝の妻子を皆殺しにする。
  3. 無意味に武昌に遷都し、翌年また建康に戻ったりして、財政を傾けた。
  4. 夏の桀王・商の紂王まがいの暴君ということになっているが、その辺は多少割り引いて考えたほうが良い。
  5. いずれにしろ人心はすっかり離れ、晋軍が攻めてきた時には誰も抵抗しようとしなかったという。
  6. 晋からは帰命侯に封じられ、4年後に病死。
  7. 司馬炎と王済が孫皓の前で碁を打っている時、「どうして人の顔の皮を剥いだのか?」と司馬炎が尋ねたので、王済が碁盤の下で足を投げ出して座っているのを見て、すかさず「主君に無礼を働く者があれば剥ぐのです」と答え、恥じ入った王済が足を引っ込めたという話が残っている。

蜀の皇帝

昭烈帝(劉備)

  1. 「曹丕に弑された献帝の後を継いで帝位に就いた」という建前だったので、蜀では献帝がまだ生きていることはアンタッチャブルになってしまった。
  2. 義兄弟の関羽が呉にやられ、もうひとりの義兄弟の張飛も部下に暗殺されて犯人が呉に逃亡したため、呉に対して無謀な戦を仕掛ける。
    • この時、正面から反対したのは趙雲だけ。諸葛孔明は「法正が生きていれば止めてくれたろうに……」と愚痴を言うのみだった。
    • 結局、この大事な戦に、趙雲と孔明は留守番を命じられた。この二人、実は後世思われているほど劉備に重用されていなかったようだ(その前の討蜀戦の時も最初は留守番だったし)。
      • 重用されていなかったかどうかはともかく・・・留守役というのは、主と主戦力のいない国を治めねばならず、前線で糧秣が足らなくなれば整え、兵が足らなくなれば援軍を送り・・・能力と忠誠心がなければ出来ない役割である。
      • 孔明は軍師というより政治家であり、趙雲は三國志演義で五虎将とされている武将達の中では末席であるし、名声が誇張されていることは否定しないが、劉璋時代の家臣と劉備が連れてきた家臣との間に溝があり、不安定であった蜀の留守役を任された者達である。
      • ま、昔のコーエー三国志なら、使えない武将を残していくけどなw(これが言いたかっただけ)
  3. 劉備推薦の人物(魏延など)は良く働くが諸葛亮につぶされ、諸葛亮推薦の人物(馬謖など)は失敗をしでかす。諸葛亮よりよっぽど人を見る目がある。
    • 自分の才能を誇るか、それとも低く見るかの差だったような。謙虚であることは人を見る目を澄ませますな。
  4. 誰もが知る通り、農民の出から皇帝へと大サクセスストーリーを描いた人物。
    • もちろん、漢の高祖である劉邦も同じ。二人は人間的にも共通点が結構ある。
  5. 「演義」では聖人君主だが、「正史」ではヤクザの頭目。
    • よく誤解されやすいが、史実の劉備は決して傍若無人だったわけではない。人間を惹きつける魅力は天性のものがあったようである。
      • というか、慕われる人間じゃないとヤクザの親分なんかできません。
  6. 人に慕われる才能は凄かったが、それ以上に人を見る才能も凄かった。
    • 彼が推薦する人物はみなよく働き、私欲的な謀反もほとんどしていない。
      • 逆に孔明が目をかけた人物は、ここぞというところで失敗をしたり、人間的に腐ったところがある奴が多数。
  7. 戦争は弱かったとも、強かったとも言われる。
    • 少なくとも、あれだけ負け続けて流浪しても生き残っているあたり、「生き残る才能」はあったと見るべきだろう。
  8. 最後の最後に今まで負け続けた曹操に勝ち、漢建国を象徴する都市である漢中を奪取したというのが歴史の妙である。
    • というか、この瞬間こそが劉備&蜀の最盛期であった。
    • ただ蜀の成都は、光武帝の時代に天下分け目の最終決戦が行われ、二十八将の仲間殺されてキレた呉漢が血の海に変えた都市。その後も反漢王朝を掲げる反乱が起きてた地で、漢王朝再興を唱えるのは皮肉以上の何者でもない。
  9. 耳が異様に大きく、手が非常に長かった。
  10. 演義では漢王朝復興を目指す理想家のように書かれているが、実際は極めて現実家だったようだ。

後主(劉禅)

  1. 劉禅の幼名「阿斗」が、暗愚な二代目の代名詞になるくらい昔から嘲笑されてきた人物。
    • 現代中国語の辞書がアルファベット順なので、阿斗は読みがA Douだから、大概1ページ目に載っている。意味は「ばかもの」とか。
  2. しかし、そんな彼が40年間も蜀を平和に保ち得たことには、みんな目をつぶっている。
    • その治世は、宰相役によってほぼ10年ずつ、諸葛孔明時代、蒋琬時代、費禕時代、最後期と分けられるが、蜀がおかしくなったのは費禕が死んで、それまでおとなしくさせられていた姜維がやたらと軍事行動を始めてからの最後の10年だけ。
    • ちなみに最後期の宰相が誰だったのかよくわからない。孔明の息子の諸葛瞻ではないかという研究者も居る。彼が成都陥落前に絶望的な抵抗を試みるのは、姜維を抑えきれなかった責任を感じてのことではなかったか……ということらしい。
  3. 魏軍に攻め込まれると、成都が戦場になる前に降伏し、無駄な犠牲を避けた。
    • 魏から送られた安楽公の称号は、その決断を称える意味もあったと思われる。
      • ちなみに「安楽」は地名にあり、幽州漁陽郡の県のひとつ。つまり、親父の故郷の近く。
        • 与える封邑の名前に人物の評価を込めるということは中国ではよくおこなわれていたので、やはり偶然の称号ではなかったと思います。
    • しかし、その配慮も姜維の無謀なクーデター計画で水泡に帰しました。
  4. 暗愚というよりは、他人に影響されやすい人だったというのが後世の歴史家の評価。
    • そうは言っても、何かと批判者や中傷者も多かったに違いない孔明・蒋琬・費禕に、本人が死ぬまでずっと変わらない信頼を寄せていたわけなので、動かされやすい人だったとばかりも言えなさそう。輔佐者に人を得さえすれば、名君とは言えなくとも暗愚と罵られるほどのことにはならなかったのではあるまいか。
      • 生まれた時代が悪かったとしか。乱世を乗りきれる器ではなかった。平和な時代なら「ちょっと微妙なお殿様」で済んだかも
  5. 成都の武侯祠にはかつては彼を祀る像があったが、何度も壊されて今は無い。
  6. 彼の子孫は4世紀の戦乱で絶滅。ただ、一人だけ生き残ったのが蜀地方にかろうじて逃亡した。
    • 実は彼の子孫ではなく、彼の弟の子孫。
  7. 「反三国志」では徐盛の部下によって暗殺されてしまう。当時の創作作家も嫌っていたようだ。
  8. 弟の劉永は大嫌いだが、別の弟の劉理が大好き。劉理の子孫が夭折し続けて、その血統が絶えてしまったことを猛烈に悲しんで、後宮にこもりがちになっている。その頃から、黄皓が台頭し・・・。

関連項目

中国史
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