「戦国武将/あ行」の版間の差分

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#**近年の発掘調査では、従来言われていたほど被害はなかったとされる。
#**近年の発掘調査では、従来言われていたほど被害はなかったとされる。
#**延暦寺はこの40年前の法華一揆で、京の町を焼き討ちし、応仁の乱以上とも言われるほどの被害を出している。自業自得の因果応報のような。
#**延暦寺はこの40年前の法華一揆で、京の町を焼き討ちし、応仁の乱以上とも言われるほどの被害を出している。自業自得の因果応報のような。
#***平安、鎌倉、室町と重武装し、朝廷幕府の政策が意に沿わなければ京に乱入して乱暴狼藉を働き、南北朝では重要な武装勢力として介入。無力で平和主義なお坊さんではないことは確か。
#*「影武者徳川家康」の中で'''怖いから惨たらしく殺した'''、みたいな表現があった。確かにそうかもしれない。
#*「影武者徳川家康」の中で'''怖いから惨たらしく殺した'''、みたいな表現があった。確かにそうかもしれない。
#桶狭間の戦い、長篠の戦い、本能寺の変など、歴史の教科書に載ってる出来事に多く関わっている。
#桶狭間の戦い、長篠の戦い、本能寺の変など、歴史の教科書に載ってる出来事に多く関わっている。

2011年9月18日 (日) 03:01時点における版

戦国武将

明石全登

  1. 宇喜多直家・秀家に仕えた武将。
  2. キリシタン武将としても知られる。
  3. 関ヶ原で宇喜多家が取り潰されてから浪人していたが、大坂の陣で豊臣方に属し、活躍する。
  4. 名前の読み方がわからん。
    • 「たけのり」「てるずみ」「あきのぶ」等々、ほとんど本によって違うと言って良いほど。
      • 「ぜんとう」も見たことがある。何をいいかげんな…と一瞬思ったが結局どれが正しいのか分からないので何もいえなくなった。
        • 日本の男性名は、読み方がわからない場合、音読みしておけば非礼にはならないという諒解があるから、案外「ぜんとう」がいちばん妥当とも言えますね。

明智光秀

  1. 本能寺の変の犯人。
    • 実行犯だが主犯は別にいる、との説を唱える人も後述の如く多い。
  2. 俗説だが、信長から禿げた頭を金柑みたいだと馬鹿にされるなどパワハラを受けていたらしい。
    • 俗説では信長が家康をもてなすために光秀に料理を用意させたが、鯛が腐っていてそれに切れた信長が暴力をふるい光秀が謀反をを決意する原因となったらしい。
      • 家康をもてなす際、豪華にしすぎて家康より位の高い相手(天皇など)をもてなすことを困難にしたから信長が怒ったという話も。
      • 別の俗説では、近江名産の鮒寿司を用意したら、鮒寿司を知らなかった信長が臭いに切れて(以下同文)。
    • おっかさんを死に追いやったのがハンコウの動機とも。
      • 叔母さんだったという説もアリ。
    • 実は信長自身は光秀を買っていて、他の家臣を叱責する時に「光秀を見習え」と書いていた。信長のツンデレが招いた悲劇と言える。
  3. 光秀は操り人形で別に黒幕が(徳川家康、足利義昭、朝廷など)いたという見解があるが、真相は未だ不明。
    • 近年では、信長と信忠を一挙に葬れる千載一遇のチャンスをつかもうとしたという解釈が有力。
      • しかし最初は信長しか狙っていなかった感じなので発作的に謀反を起こしたのではないかという見方もある。
    • 実際には光秀が重用されていたことや光秀らしからぬ計画の甘さが様々な憶測をよんでいる。
  4. 長らく逆臣として唾棄されてきたが最近では同情される傾向にある。
  5. 時は今 天が下しる五月哉と句で有名。
    • 一般に謀反の決意を表した句と言われているが別に深い意味は無かったんじゃないかとも言われている。
      • 考えてみりゃ何処で情報が漏れるかわかんないのにそんな事わざわざ公にしないよな。
      • 詠んだ時には気付かれず、後で周囲をハッと思わせるよう意図したとも言われる。
  6. 明智のみっちゃん
  7. 天海と同一人物説があるが年齢が・・・。
    • 息子と二人一役だったなら辻褄があうとか。
      • 二人で天海を演じたのは、息子じゃなくて娘婿の明智秀満ですね。
  8. お神籤で立て続けに「凶」を引いたある意味強運の持ち主、というデマがまかり通っている。
  9. この時代の武将では珍しくないが、出生地と思われる場所は多い。

浅井長政

  1. 昔は「あさい」と教わったが、いつの間にか「あざい」と呼ばれるようになっていた。
  2. 浅野長政とよく間違われる。
    • 戦国好きを自負するならここはおさえとかんと。「ハイ、ここ重要ですよ~、必ずテスト出ますよ~。」
  3. 嫁は織田信長の妹のお市。
    • 六角氏と縁続きだった前妻を追い出してお市と結婚したらしい。
      • 六角氏の重臣の娘。この重臣が浅井家に来たとき、長政に「嫁の父に挨拶せい」と横柄な態度をとったため、長政がキレて六角と縁切りする契機になった。
    • 前妻との間に嫡男が居たが、お市との間には女の子が3人生まれた。
      • 長女お茶々は秀吉の愛妾・淀殿になり、秀頼を産む。
      • 次女お初は京極高次の嫁になり、のち常高院と呼ばれる。
      • 三女お江は佐治ナニガシ、豊臣秀勝に嫁入りしたのち、徳川秀忠の正室となり家光や忠長などを産む。
      • つまり長政は、豊臣秀頼と徳川家光の外祖父ということになる。すげえ。
      • 「信×の×望・烈×伝」ではなぜか、真田十勇士のひとり根津甚八が、長政の息子「井織」と同一人物ということに。なんだそりゃ。
        • 一応そういう説も実際にある。
    • 政略結婚であったが仲睦まじい夫婦だったらしい。
  4. 容貌については、真っ向対立な二説がある。
    • 長身のイケメンで、嫁のお市の方と実にお似合いだったという説。
    • 短躯の胴長でご面相もぱっとせず、徳川家康とよく似ていたという説。
      • だから当初は信長にかわいがられたのではないかとも。
      • 確かに肖像画は似てるような・・・、少なくともイケメンには見えん。
    • とりあえず肖像画ではものすごいデブ。彼の血を引く豊臣秀頼が巨漢だったという説もうなずける。
      • ただしこの肖像画は死の17年後に描かれているので、どこまで似ているかは疑問が残る。
      • 太って描かれたのは、一種の理想化とも考えられる。今と違って、太れるというのは身分が高い人のステータス(肉体労働する庶民は太れない)で、中国皇帝の肖像画が軒並み小太りに描かれるのも同じ理由。
  5. 信長は東の家康と西の長政の二人の「義弟」を両翼にして天下制覇を成し遂げようとしていたらしいが、長政に裏切られて頓挫。
    • 「朝倉とことを構える時は、事前に長政に連絡する」という申し合わせを忘れて、いきなり朝倉攻めを始めた信長が悪いのだが。
    • 「長政は信長を裏切ることを躊躇したが、父の久政が朝倉との旧誼を言い立てたので逆らえなかった」というのが通説。だが、事前の協議をすっぽかされた長政自身が腹を立てたとも考えられる。
    • 長政に裏切られた事は信長にとって一種のトラウマになり、以降根本的に人間(家臣)を信じなくなった。
  6. 朝倉氏が亡びてもしばらく持ちこたえるが、ついに敗れる。
    • 朝倉義景、父久政と共に頭蓋骨に金粉を塗られて、信長の戦勝記念品となる。
      • ただしこの行為は死者への敬意を示すもの、というのが現在の定説。あと杯にした、というのは後世の創作。

朝倉義景

  1. 世間一般でのイメージは「凡庸・暗愚」
    • 朝倉家は信長に滅ぼされたイメージしかないが実は移り変わりの激しい戦国大名の中では古豪。つまりお坊ちゃんだった。
  2. 「体たらく」が口癖。浅井長政の足を引っ張る人。
    • 姉川の戦いでも長政は信長を押していたが、朝倉軍が徳川軍に崩されたために敗北。
  3. この人が積極的だったら福井はもっと栄えていた…んだろうか?
  4. 肖像画で見比べると浅井長政よりイケメンである。
  5. 一門からも見放された。
    • 既に信長に通じていた一門の景鏡(かげあきら)に、居館の一乗谷を追い出されて越前大野で殺された。
  6. 六角家からの養子だったなんて話もあるが確証はない。
  7. 足利義昭や明智光秀が訪れていたが有効に利用できなかった。せめて引き止めていれば信長に滅ぼされることは無かったかも知れない。
    • この人の動き次第で足利義昭は14代将軍になって、その後の歴史も変わってたかもしれないが、優柔不断な性格が災いしてしまった。

浅野長政

  1. 秀吉の側近。北政所の妹の亭主。
    • 言ってみれば秀吉にとってもっとも近い縁者のひとりなのに、最初は秀吉から頼まれてもなかなか家来になろうとしなかったらしい。
  2. 浅井長政とよく間違われる。
    • この時期、なぜか「長政」という名乗りの人が多い(如水の息子の黒田長政、シャム王に仕えた山田長政など)が、この人の場合は苗字も似ているのでややこしい。
    • かなり長いこと「長吉(ながよし)」という名乗りだったが、改名した。
      • もしかして「ちょうきちさん」「ちょうきっつぁん」と呼ばれることが多くて閉口したのかもしれない。信長と秀吉に一字ずつ貰ったみたいな豪華な名乗りだったのに。
  3. 武将としてはそれほど活躍していないが、事務方・周旋方の才能があったらしい。羽柴の家中をまとめるのに功があったようで、のちに五奉行筆頭となる。
    • もっとも、我が子の幸長と石田三成が仲が悪いのを周旋することはできなかった。けっこう心を痛めていたらしい。
  4. 秀吉の死後、前田利長と共に家康を暗殺しようとしたという噂が広まって、引退。
    • 三成の佐和山蟄居に続く長政の引退で、五奉行制度はほぼ壊滅したと言って良い。

芦名盛氏

  1. 黒川城(会津)が拠点。
    • 会津~福島中通りまで領地拡大。周辺の諸大名と同盟したり家督相続問題に関わったりで政治的にも勢力拡大。
  2. 禁酒令を2度、徳政令を6度も出した。
  3. 盛氏没後、わずか9年で芦名氏は伊達政宗に滅ぼされてしまう。
    • 有能な盛氏が当主だった頃が芦名氏の最盛期だった。
  4. 先祖は相模の三浦氏。相模国芦名をとって姓とした。

蘆名盛隆

  1. 顔グラで一躍知名度を上昇させたあの人の子。養子縁組で蘆名家に入り、当主となった。
  2. しかしかつて蘆名氏と対立関係にあった二階堂氏からの養子である盛隆に反撥する家臣も多かった。
  3. そして最期はNice boat.

有馬豊氏

  1. 子孫から大した働きもしてないのに、なぜ久留米21万石をもらえたのか不思議と言われた。

井伊直政

  1. 苗字はいいなのに全然いい人じゃない。
  2. とても峻厳な人物で、自分にも他人にも厳しく、部下を手打ちにする事も多かった。
    • そのため部下からは恐怖を抱かれ、あまり人望は篤くなかった。
    • ついたあだ名が「人斬り兵部」
  3. 家康の寵童上がり。寵童って何かって?下の毛が生えてくる頃には自ずと意味が分かってるはずだ。
  4. 今川家に仕えた名家の出自であり、実は相当のお坊ちゃまである。
    • でも父・直親が讒言された上に誅殺されたり、その父親の元婚約者だった直虎の養子になったりと経歴は複雑。
  5. 赤一色の具足を纏った軍隊を率いていたため「井伊の赤鬼」と畏怖された。
    • いわゆる「井伊の赤備え」ってヤツね。武田家滅亡後その家臣団を多く組み込んだ為なんて言われてるけど事の真偽は別としてやっぱり赤備えは飯富・山県兄弟こそ本家って気はするな。
  6. 関ヶ原で松平忠吉に抜け駆けを教唆するなど狡猾な一面もある。
    • そりゃあ天下分け目の大いくさで、娘婿忠吉の初陣で、後継者ライバルの秀忠が遅参となれば、なんとしても婿殿に手柄を立てさせたいと考えるのも無理はない。
  7. 鉄砲傷から破傷風に感染し、それが原因で死去した。
    • 同僚の本多忠勝が薄い鎧で無傷なのに、直政は厚手の鎧に鎖帷子まで付けていながら、なぜか戦のたびに負傷していた。
      • 将が負傷するのは、兵を差し置いて一騎駆けするとかのスタンドプレイをした時と、乱戦から抜けられなくなった時くらい。忠勝は冷静なのでそういうことをしなかったが、直政は熱くなるタイプだったということでしょうかね。
      • あと、敵が直接将を狙撃する場合があるが、こればかりは運としか。
      • 譜代と外様の意識の違いもあったのかも。同じ働きなら忠勝や康政の方が覚え目出度かったのかと。ましてや忠次なんかに比べたら…。死に物狂いってぇ感じがする。

池田恒興

  1. 池田輝政の父で、織田信長の乳母の実子。
  2. 小牧長久手の戦いで長男とともに討死した。
    • 未だに成仏していないのか、長久手辺りでは亡霊が出るとの噂もある。
  3. 信長からは、「あいつは少ない兵ながらも花隈城を時間をかけずに攻略した。」と絶賛された。
  4. 信長の死後、秀吉は柴田勝家に対抗するために大いに恒興を厚遇し、宿老並みの待遇にして清洲会議に出席させた。恒興は喜んで秀吉の協力者となった。
    • 本来はせいぜい連隊長クラスの地位と力量で、宿老と見なすには小粒だったのだが、秀吉はかつての宿老・荒木村重の領地をほぼ全部恒興にやってしまう大盤振る舞い。あっという間に箔をつけてしまった。

池田輝政

  1. 姫路城が世界遺産に登録されるほどの名所となったのはこの人のおかげ。
    • 姫路城に住み着いていた刑部姫(おさかべひめ)という妖怪と話をつけ、城の者を怖がらせないことと、1年に1度姫路城の城主は刑部姫と面会して、文句を聞いてあげることを約束した。刑部姫はオオクニヌシとも面識のある神様級の妖怪である。ちなみに面会時には、美女の姿で現れるようにとも注文をつけた。
  2. 家康の娘(元北条氏直の妻)を妻に迎えており、その恩恵が出世に好影響を及ぼした。福島正則からそのことで「股間の槍働きで出世した男」と揶揄された。
  3. 元吉田城主(今の豊橋城)であったこと、城下町整備に尽力したことも思い出してやってください…。吉田城主時代は照政(てるまさ)。

石田三成

  1. 時代によって評価が著しく変わる人物。
    • 江戸時代はずっと悪者扱いだったが、明治以降は次第に義に殉じた人物という評価が高くなっていった。
  2. 融通が利かなく、何事もきっちりしてないと気がすまない性分だったようだ。
  3. 実は武勲も結構立てている。
    • 朝鮮の役ではずっと朝鮮にいた。
  4. 真田昌幸とは義兄弟。
  5. 秀吉と出会ったときの「三杯の茶」の逸話が有名。
    • 「Oh、ミーの目に狂いがなければ、ユーはなかなか才があるね。」と言ったとか…、んなわけはない。
  6. 柿厳禁。
  7. 明智光秀とセットで、詰の甘い作戦のことを「三光作戦」と言われるようになった。
  8. 約400年後に猫化して復活。
  9. 大谷吉継の親友。ある茶会の席で吉継の体から膿が茶碗に落ちた。他の武将はその茶碗から茶を飲まずに回したり、飲んだ振りをしてあからさまに避けていたが、三成だけは音を立てて最後まで飲み干した。自分を差別せずに面目を保ってくれた三成に義継は深く感謝し信頼することになる。

今川氏真

  1. 日本人初のJリーガーといわれる。
  2. 日本人初のシンガーソングライターともいわれる。発表した歌は1700にも及ぶ。
    • そのために家を滅ぼした。でも本人は77歳まで長生きした。
  3. 塚原卜伝の弟子でもあり剣術にも優れている。つまり個人としてみれば、文・武・遊の三道に通じたすごい人。
    • 戦国大名の才能だけがなかったのが惜しまれる。

今川義元

  1. イメージは「麻呂キャラ」。
  2. ついでに「やられキャラ」扱いが多い。桶狭間の戦いは歴史の教科書にも載ってるので。
    • 決して無能じゃないんだが、やられシーンばっかりクローズアップされる。
    • 「信長の引き立てキャラ」でもある。
  3. 息子は静岡サッカー王国の祖。
  4. 後継者争いに勝って今川家の実権握ったはずなのに無視されてる…。
  5. 「海道一の弓取り」とまで言われてたのにねぇ・・・。
  6. 当人は優秀で今川家は戦国有数の強国だったのに運悪く信長の踏み台になってしまったことが運の尽き。後世ではデブの偽公家扱い。
    • 武田・北条と三国同盟を組むところなど、列強の一つと看做されていたのは明確。
  7. 実は半分公家の血を引いてる。(母が公家の姫)
    • でもその母親(寿桂尼)は「女戦国大名」と言われたほどの凄腕スーパーレディー。
      • 義元の大軍師・太原崇孚雪斎を抜擢したのは彼女。長子・氏輝死後の「花蔵の乱」が首尾良くおさまり、義元が無事家督を継げたのも、彼女が暗躍したおかげらしい。公家の姫君出身とは思えない思考力と行動力を持っていた。
  8. 信長の野望烈風伝のチュートリアル「今川の野望」はちょっと面白くちょっと物悲しかった。
  9. 小和田哲男氏などの尽力によって名誉挽回されつつある。
  10. 現在の名古屋人の直系の先祖である。

上杉景勝

  1. 謙信の甥(姉の子)。父・長尾政景の死後、謙信に引きとられ、実子のない謙信の後継者として育てられる。
    • 父は舟遊びをしている時に舟がひっくり返って溺死。
      • 謙信による暗殺説もある。謙信にとって政景は何かと偉そうに口を出すうっとうしい存在だったようだ。
  2. 順当に謙信の後を継げるかと思ったら、北条氏から養子に入った景虎がいきなり存在感を増し、危ういことに。
    • 謙信の元の名であった「景虎」を名乗ることが許されただけでも、そっちが後継者かと人々が見たのは無理もない。
    • 無口で気むずかしい景勝に較べ、景虎は明るく社交的で、しかもイケメンだったので、たちまち人気者に。後継者に景虎を押す家臣も増えた。
  3. 謙信の死後、上杉家は景勝派と景虎派に分裂して大抗争。世に言う御館の乱。
    • 謙信がせっかく織田信長を越前まで押し戻していたのに、この内乱に乗じられ、加賀・能登・越中をあっという間に取られてしまう。
      • たまたま信長が本能寺で死んでくれたから良かったようなものの、もう少し長生きしていたら越後もヤバかった。
    • 武田勝頼の援助を得て景虎に打ち勝つ。
      • 実はこれが勝頼の命取りになった。武田勝頼の項目を参照。
      • 勝頼がほどなく死んでくれたので、武田の下風に立つことも免れた。景勝って意外と強運。
    • 先手を打って春日山城を押さえたことが大きな勝因。ただ景勝側に戦の大義があったのかは疑問。
  4. 生涯一度しか笑顔を見せなかったと伝えられる。
    • 滅多にしゃべることもなかった。
    • しゃべったり笑ったりすると、謙信の後継者としてボロが出ると怖れていたからかもしれない。
    • しかしこのコワモテ方針はそれなりに効果があり、沈着冷静に見られて他の大名からも信頼され、家臣からも畏敬された。
      • 効果がありすぎることもあった。
        • 景勝と家臣達が船に乗っているとき、人数が多すぎたのか船が揺れる。→景勝のコワモテがひどくなる。→「殿がお怒りじゃ!」家臣たち争って水に飛び込む。
  5. 秀吉には大いに信頼された。
    • 小早川隆景の死後、五大老に列せられる。
    • 越後から会津に移封されたが、これは秀吉の意地悪ではなく、徳川家康の背後を押さえる役目だった前領主の蒲生氏郷が急死したための窮余の一策で、信頼されていたからこそのことだった。
  6. 関ヶ原の戦いのきっかけを作る。
    • 家老の直江兼続が、石田三成と示し合わせていたと言われるが、真偽のほどは微妙。
      • 三成と示し合わせていたにしても連携がなっていなかった。
    • いずれにしろお膳立ては兼続が調えたようで、景勝はそれに乗っかっていただけっぽい。
    • 討伐に来た家康が、三成の蜂起を知って、結城秀康を抑えに残して反転した際、追撃しようとする兼続を制止。
      • 「去ってゆく敵を追撃するのは謙信公の教えに反する」というようなことを言ったと伝えられるが、それなら最初から挑発しなければ良かったので、実は景勝は家康と戦いたくなかったのかもしれない。
        • 考えてみると、景勝自身の軍事的能力はあんまりよくわからなかったりする。
    • 家康が一方的に叛意ありと決め付けて討伐軍を起こしたのが真相。
      • 景勝としては移封の後で忙しいのに上洛してる暇なんてないというのが本音だろう。
  7. でも、大坂の陣では徳川方の有力軍として参戦。

上杉謙信

  1. 女性説がある。
    • 信憑性は極薄。
    • 生前に描かれた可能性もある最も古い肖像画だと、顎がガッシリした、いかにも戦国武将らしく描かれている。
  2. Gakuto
  3. 越後の竜
    • 越後の虎ともいう。
  4. 自分が毘沙門天の化身だと思い込んでたらしい。
    • 旗に書かれた文字は「毘」の一文字。
    • 飯綱信仰にも凝っていて、兜の前立てが残っている。
    • 三宝荒神を模った兜もある。戦国時代の変わり兜を代表する名品。
  5. 大酒のみ。肴をほとんど食べず飲むタイプだったらしい。
    • 酒の肴は塩。それで脳溢血を起こし、便所で倒れたらしい。酒席の相手は専ら直江兼続だったらしい。
    • 梅干も好きだった。どっちにしろ塩分採り過ぎ。
    • 辞世の句も酒。
  6. 軍事の天才だったのは間違いないのだが、天才すぎて作戦構想を家臣に説明することができず、「黙って俺についてこい」というスタイルを貫き通した。
    • とはいえ、戦えば勝つしカリスマもあるので、家臣も「しょうがねえなあ(苦笑)」とか言いながら最後までついていくことになる。
      • けっこう家臣に裏切りが多くて、いじけて出奔したこともある。
        • 自分の必要性を分からせるための計算だったとも言われる。
  7. 女性説というか、オカンの香りがする逸話が残っている。
    • 甥の景勝宛に「そっちは雪が深いから一度戻っておいで」「寒いからちゃんと身支度をして来るんですよ。途中まで迎えを出します」という手紙が。
    • 戦場で腹痛を起こして城に戻ったのに、城では人質の幼児をおぶってあやしていた。
  8. 後継者候補の養子を二人も取っておいてはっきり指名せずに急死。そのため家中を二分する戦が勃発し北条や武田も巻き込み関東甲信越のパワーバランスを大きく乱す。

宇喜多秀家

  1. 備前岡山の大名。関ヶ原では西軍で奮戦した。
  2. 親父の直家は松永久秀と双璧の梟雄で、暗殺と陰謀を繰り返して備前を乗っ取った男。
    • でも晩年弱気になり、羽柴秀吉に頼る。
    • 父が成り上がり者だけに、家中には態度のでかい重臣が多く、のちに秀家がえらく苦労する。
  3. 母・お福がすごい美人で、直家の死後秀吉に身を寄せる。おかげで秀家も秀吉に大変かわいがられた。
    • 「八郎(秀家)ほど可愛い者はない」とさえ言われ、秀吉の猶子となる。
  4. 朝鮮の役でも大活躍した。
  5. 五大老に選ばれたが、いかんせん若すぎて重みに欠け、家康に翻弄された観がある。
  6. 関ヶ原のあとで八丈島に流され、とても長生きした。
    • 83歳まで生きた。このときの将軍は4代家綱。
    • 福島正則(実際には正則の家臣)から酒をせびった。
      • 話を聞いた正則は落涙し以後江戸に向かう船に八丈島に立ち寄り秀家に酒を贈るように命じたとか。
  7. 実は仮面ライダーだったりする。
  8. 八丈島から泳いで大坂まで帰ってきたとかいうネタをどっかで聞いたことがある。
    • 泳い で参った!!!

氏家卜全

  1. これの作者…ではない。
    • 当然ト全(とぜん)ではない。

大久保忠教

  1. 徳川譜代の大久保氏の生まれ。通称彦左衛門。「天下のご意見番」と称される。
  2. 家康、秀忠、家光と三代にわたって将軍に仕えた。
  3. 戦国時代はもとより、江戸幕府成立後も武士としての生き方を貫いた。
    • その生き方に徳川氏と大久保氏の歴史と功績を交えた家訓書として『三河物語』を記した。
  4. 後世の講談等でヒーローとして祭り上げられたフシもある。

太田資正

  1. 犬使い。
  2. 生涯を北条氏との戦に捧げた人。
    • とにかく徹底的に反北条を貫いた。
      • しかし息子はさっさと北条の配下に。はらわた煮えくり返っただろうなぁ。
        • 2人いた息子のうちの兄のほう。弟のほうは父と行動を共にし、後に佐竹氏に仕えた。
  3. 「酷い目に太田道灌」はひいじいちゃん。

大谷吉継

  1. 石田三成の親友。実際の彼はハンセン病に罹患して顔面が崩れていたようだが、ゲームやドラマ、小説の挿絵などでは補正がかかって美形として描かれる事が多い。
    • または白い覆面で顔を隠した姿。
    • 罹っていた病気には諸説アリ。トンデモ路線な感もあるが、「毒を盛られた」という説もTVでやってたな…
  2. 病のため歩く事もままならず、戦場では御輿に跨って采配を振るった。
    • 鎧も着ることができないので、紙子(紙の服)に鎧の絵を描いて戦に望んだと言われている。
  3. 秀吉から100万の兵を指揮させてみたいと言われるほど信頼されていたらしい。
    • 家康からの評価も高く彼が西軍についた時は狼狽したらしい。
    • ぶっちゃけリップサービス。この人も過大評価されすぎ。
  4. 死後亡霊となって小早川秀秋を呪い殺したという噂が昔からある。眉唾物だが、秀秋が裏切者として唾棄されていることと、秀秋の死様が尋常ではなかったせいで本当に吉継の亡霊に祟り殺されたと信じている人も多い。
    • 伝承にいわく、大谷軍の死者は全て秀秋の軍をにらみつけながら死んでいった。
  5. 官位は刑部少輔。石田三成の治部少輔と同位階・同系列なので、やっぱり秀吉が同じくらい目をかけていたんだろう。
    • それもあるだろうが、吉継の主な職務が軍政で、三成と職責上も被る部分があるためだろう。

大友義鎮(宗麟)

  1. 豊後の大名。北九州6カ国の守護となって大友氏の最盛期を現出した。
  2. 若い頃は酒色にふけって奇行も多かったために、親父の義鑑に後継から外されそうになった。
    • その直前に「二階崩れの変」と呼ばれる謀反が発生して義鑑が殺害される。
    • 義鎮の関与が疑われるも、「私は父上の勧めで別府に湯治に行っていました。謀反などと、そんな不孝な真似を。クックックッ」と不問に。
  3. 家督を継いだ後も女遊びが過ぎたため、正室に呪い、もとい浮気の虫を鎮める調伏をかけられる。
    • 義鎮は嫁の恐ろしさに失踪。町外れの小屋の中で一人ガタガタ震えているところを発見される。
    • 正室は奈多八幡宮の大宮司の娘。そのため義鎮がキリスト教にかぶれると、信仰の相違で争うことになる。
  4. 晩年はキリスト教にかぶれるを通り越して完全に帰依し、寺社仏閣をぶっ壊したりした。
  5. ことほど左様にろくでもない逸話だらけの人物だが、外交には定評があり総合的に見れば有能の部類に入る。
    • 基本的には有能なのだが、極端な行動に走る、精神的に不安定な人物という印象。
  6. 室町幕府や朝廷に多額の寄進をして九州支配の大義名分(官位)を得たが、贈りすぎて大友家の財政がやばくなり家臣に怒られた。
  7. 臼杵の郷土料理、黄飯の生みの親。ポルトガルの宣教師から聞いた、パエリアを真似て作らせたのがはじまりだという。

織田長益(有楽斎)

  1. 誰しもが最初に見たとき何て読むのか悩む。
    • うらくさいと読みます。
      • 有楽町の名はこの人の江戸屋敷があった事から来てるがそれならうらくちょうって言えばいいのに。人名由来なんだから訛るなってんだ。
        • 日本の人名って、わりとアバウトなところがあるので……漢字が合ってれば読み方はどうでもいいとか、発音が合ってれば漢字はどうでもいいとか、案外そんなこともありますな。「ゆうらくさい」と呼んでいた人も少なからず居たのかも。
        • 実際に彼が有楽町に住んでいたかは怪しいらしい。そもそも江戸に屋敷があったかすらも怪しいらしい。
  2. ゲンゴロウ
  3. 茶人としてはメジャー。武将としては…。
    • 関ヶ原では活躍したぞ。

織田信長

  1. 戦国武将で人気No.1。
    • 嫌われ度でもトップクラス。
      • 歴史マニアやそうでない人のみならず、学者でも好き嫌いがはっきり分かれる。
        • 昔なんかの本で読んだがある高名な学者が「もし信長が生きていて世界に進出していたら?」という質問に「極めて短期間に世界征服してたに決まってるでしょ」と答え、さらに「この発言は公にしないで」と言ったらしい。なんかいろいろタブーがあるようだ。
        • 一乗谷遺跡や中世寺院史の研究者からは非常に嫌われている。まあ、当然か。
    • 明治政府がイメージアップに貢献したらしい。
  2. 魔王。
    • というか、「第六天魔王」と自ら署名した手紙を武田信玄に送っていた。
  3. 大虐殺をたくさん行った。
    • 家康もやっている。
    • なのに英雄扱い。ヒトラーと扱いがまるで逆。
      • 信長の場合は政・戦略上必要だからやっている(やり過ぎだけど)。ヒトラーは、政略以上に差別意識に基づいてやってる。
        • 同族との戦いで尾張統一後も「ワシの野望はこんなものではない!」と豪語したとか。
      • 確かにヒトラーとしては、政略的にはユダヤ人を味方につけたほうがどう考えても得だったはずだよなあ。
    • 比叡山焼き討ちの件は悪く言われすぎ。
      • 平安時代の僧兵や足利義教、細川政元も行っている。信長ばかりが悪く言われるのは、やはり有名なせいだろう。
        • 特に院政期の僧兵同士の争いは宗教戦争の面があったため、貴重な宝物でも容赦なくぶっ壊した。
        • 抗議行動の一環として、比叡山の僧兵自身が自分の寺に火を付けるのもよくあった。
        • よく「信長のせいで比叡山の史料が焼けてしまった」という研究者がいるけど、信長以前に多くは焼けてしまって、あまり残ってなかったんじゃないかと思う。
      • 近年の発掘調査では、従来言われていたほど被害はなかったとされる。
      • 延暦寺はこの40年前の法華一揆で、京の町を焼き討ちし、応仁の乱以上とも言われるほどの被害を出している。自業自得の因果応報のような。
        • 平安、鎌倉、室町と重武装し、朝廷幕府の政策が意に沿わなければ京に乱入して乱暴狼藉を働き、南北朝では重要な武装勢力として介入。無力で平和主義なお坊さんではないことは確か。
    • 「影武者徳川家康」の中で怖いから惨たらしく殺した、みたいな表現があった。確かにそうかもしれない。
  4. 桶狭間の戦い、長篠の戦い、本能寺の変など、歴史の教科書に載ってる出来事に多く関わっている。
    • 美濃攻略(稲葉山城攻防戦)後にもともとの「井ノ口」を現在の「岐阜」に変えた。
  5. 人間50年の舞いでも有名。
  6. 神や仏を信じなかった。
    • 実父の葬儀で焼香する際、「死んだ者を拝んで何になるか!」と抹香を投げつけた位だもの。
    • 実際は普通よりちょっと信仰心の薄い大名ってレベルだろ。
      • 公式には法華宗を名乗っていた。おそらく当時、京や堺の商人・文化人は日蓮宗が多く、彼らとの関係を重視していたからだろう。
      • 桶狭間の合戦の前には熱田神宮に参拝したらしい。
    • 家臣たちに自らを神だとして崇めさせたってぇのは家臣の忠誠心を試す為だったのかそれともマジだったのか。
      • 正確には安土城の前に巨石を置き、「ぼんさん(盆山?)」と称して拝ませた。自分を神扱いしたのではなく、「お前らが有り難がっている神仏なぞ、この石みたいなものに過ぎん」と言いたかったように思える。
        • でも年賀の挨拶に来た家臣に、自分に対してお賽銭を払わせていたらしいぞ。
      • フロイスらこの当時の西洋の宣教師たちには「無神論」自体が想像できなかったので、信長が自らを神とした、というような表現になってしまったのではあるまいか。
      • おそらく「天下布武」の考え方の帰結。「武」とは武力と解釈されることが多いが近年は「武家」と解釈するのが有力。中世までの他の権門「公家」「寺家」に頼らず、武家、ひいてはその代表たる信長が天下を収める。よって、信長は、それまでの寺社への信仰の代替物を用意しようとしたのだろう。
        • 頼朝のスローガンは「天下草創」。草深い関東から武士の天下を創ろうという意味だろうが、信長の天下布武は、頼朝の事業を受け継ぎ、それを完成しようという意欲が読み取れると思う。
  7. 安土城を一般公開し、ひとり百文の入場料を取った。
    • 展覧会のたぐいで定額入場料を取った世界最初のイベントらしい。
    • 玄関の受付には信長が自分で立って、来場者から入場料を集めていた。
  8. 月代を剃刀で剃ることを最初にはじめたと言われている。
  9. 自分の仕事を積極的に行う者には優しく、その逆を嫌った。以下一例。
    • 朝廷の運営費集めのため、駿河まで歩いて行こうとした公家の老人に代わって金を集め、自らも寄付した。
    • 部屋に果物の種を落としたままにしていた侍女を一刀両断。
  10. かつて義父が居城にしていた城の名前を稲葉山城から岐阜城に変えたらしい。
    • 岐阜の地名をつくった人物である。
  11. 三国志の曹操とキャラかぶってる。
  12. 木下藤吉郎秀吉(のち豊臣秀吉)の妻、ねねとは個人的に親しかった。安土に移った頃、ねねから「ウチのダンナが浮気して困ってます」という趣旨の手紙に対して返書を書いた。「あの野郎にあなたほどの女性を娶れるわけがないんだから、堂々としているべき。この手紙は秀吉に見せてやんなさい」と丁寧に激励する趣旨。
  13. 独創的なアイデアマン、みたいなイメージで語られることが多いが、相当誇張されている。
    • 比叡山焼き討ち:上記のように他の人もしてる。
    • 石仏(地蔵さんとか)を城の石垣等に利用:信長が信仰心がないから、とか言われるが別に珍しいことではない。
    • 楽市楽座:六角氏の方が先。
    • 長篠合戦の鉄砲三段撃ち:雑賀衆が先。しかも雑賀衆の方は撃ち手固定で能率が良かった。