もしあの鉄道路線が別の年に開業していたら

2021年6月25日 (金) 19:05時点におけるピポー快速たいら塚 (トーク | 投稿記録)による版 (→‎気仙沼線)
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二地域以上

東北本線

1870年代
  1. 東海道本線と同時に開業。でも、東海道本線と接触はしないかも。
    • 直接接続しようとすると東京市街地を地上で貫通する必要があるため起点は史実通り上野だったと思われる。
  2. やはり大宮はハブられる。
    • 高崎線開業時にやっぱり分岐駅として開業か?
    • 高崎線がない状態での建設なら中山道沿いのルートなど端から通らないはず。つまり日光街道沿いに敷かれる。
  3. 建設スピードは史実より遅い。
    • 当時金のなかった政府が自前で建設することになったと推定されるため。
    • 利根川の渡がなくなる時期は変わらない。
  4. 最初の部分開業は上野~大宮辺りか。
    • 大宮ではなく岩槻を通っていたかもしれない。
      • と…なると県庁所在地は予定通り岩槻になっていたかもしれない。

上越線

1900年代
  1. ルートは後閑駅付近から赤谷川沿いに進み三国峠で上越国境を越えるもの。
    • この場合水上温泉はあまり栄えなかった。
      • 代わりに猿ヶ京温泉が有名になっていた。
    • 苗場にプリンスホテルは建設されていない。
  2. 沼田から先は壮絶な難工事になっていた。
  3. 一部区間はラック式鉄道が採用され後に輸送のネックになる。
    • 碓氷峠と同時期に改良されていたかもしれない。
    • 後に清水トンネル経由の新線が開業するかも。
      • 新清水トンネルが複線構造になっていた。湯檜曽駅・土合駅は上り線ホームもトンネルの中にある。
  4. 上越新幹線のルートは史実とあまり変わらない。
  5. 川端康成『雪国』の書き出しが変わっている。
    • 明治時代の技術で清水トンネルのような「国境の長いトンネル」はまず無理。
  6. 「上越線」という名称ではなかった。

東海道本線

1840年代
  • この時代には各地で鉄道建設ラッシュでした。
  1. 日本の鉄道歴史が大きく変わっていたかもしれない。
    • というより定時法や新しい製鉄技術などの導入により日本史の流れ自体が激変している。
  2. 京駅(現・京都駅)~草津駅から建設されていた。
    • 上方では公家や寺社辺りが猛反対しそうなので江戸から建設されていた気がする。
      • 徳川幕府主導なら駿府-江戸-日光間が最優先だろう。その後尾張・水戸・紀伊へと支線を敷く構想を考えていたと思われる。
        • 江戸-駿府間が後の東海道本線に、江戸-日光間は後の東北本線と日光線になっていた。
      • 当時の物流や人の流れを考慮するとまず東海道(江戸-京都・大坂)に建設していたのでは。
  3. ついでに、中山道本線も開業。
    • 当時の技術ではついでに開業できるほど楽に建設できたとは思えない。
  4. 横浜駅ではなく神奈川駅と名乗っていたかもしれない。
  5. 東海道新幹線のルートもかなり違う。
  6. 日本の開国相手がオランダではなくイギリスになっているのが前提条件。
  7. 幕府?で鉄道導入を推進した人物が「超人的な先見の明の持ち主」として後世まで称えられる。
    • 当時アジアのどこにも鉄道はなく鉄道に乗ったことのある日本人も誰もいなかった。
    • 「日本の鉄道の父」と呼ばれている。
  8. 史実の中国(清)の鉄道草創期と同じように各方面から相当な反発を受ける。
    • 線路や停車場への破壊工作が発生していたかもしれない。
    • ここで言われている話が本当に存在したかもしれない。
  9. 東京駅はなく江戸駅が存在した。
    • 新橋や丸ノ内ではなく日本橋辺りにできていたかもしれない。
      • 町人地や大名屋敷が建て込んでいて建設不可かと。
        • ターミナル駅は史実の月島付近の新しい埋め立て地に建設していたと思われる。
  10. 荷物列車が運行されていたとすれば飛脚が大打撃を受けていた。
    • 江戸など市中の飛脚はむしろ栄えていたのでは。
  11. 「徳川慶喜は日本初の鉄道ファン」という誤解が史実以上に広がっていたかもしれない(実際には被写体の対象にしていただけ)。
    • そもそも別の人物が日本初の鉄道ファンと言われていた可能性の方が高そう。
1900年代
  1. =東西幹線が中山道ルートだった場合
  2. 静岡県などの有力者が出資した私鉄による建設。
    • 駅間距離が現実より短い。
    • 静岡〜清水間は現在の静岡鉄道静岡清水線を通る。
      • 当時の私鉄は国の代わりに鉄道の全国ネットワークを形成する役割を担っていたので史実通りのルートだったのでは。
  3. 私鉄時代は関西鉄道と仲が良かったかもしれない。
    • というか、史実の関西鉄道が「東海道鉄道」と名乗って、東海道に忠実な路線を敷いていたのかもしれない。
  4. 区間は横浜市-名古屋付近。
  5. 全通からあまり経たないうちに国営化される。

智頭急行智頭線

1960年代
因幡山形
いなばやまがた Inaba-Yamagata
やまさと
Yamasato
ちず
Chizu
  1. 佐用駅では姫新線と線路がつながっていた。
  2. 開業時から急行や特急が多く運転された。
  3. 何らかの形でキハ82が走ったかもしれない。
  4. 特急の所要時間は現実より長い。
    • そのため現在は高速バスに苦戦している。
    • それでも伊丹-鳥取の航空便は廃止されている。
    • JR化後は振り子式のキハ187系投入や一線スルー化などのテコ入れが実施されて、史実とほぼ同じレベルになる。但し、それにかかる費用は地元負担。
  5. 21世紀に入って因美線智頭以南の廃止が噂される。
  6. 「宮本武蔵」駅などできるわけがない。
    • 恋山形駅は「因幡山形」、大原駅は「美作大原」と名乗っていた。
1970年代
  1. 鉄道公団の手によって、建設されていたので、高速化に対応できる設計になっていた。
  2. キハ181系気動車による特急「はくと」とキハ58系気動車・キハ65形気動車による急行「とっとり」が運行されていた。
    • 特急「はくと」は米子までに運行されていた。
    • のちに、特急「はくと」はキハ189系気動車で運行されていた。
    • JR化後に130km/h化対応工事などのテコ入れが実施されて、史実と同じレベルになるが、工事費用は地元負担。
  3. 1972年or1975年に開業した際には、キハ181系気動車が史実よりも多く製造されていたかもしれない。
    • 1975年開業の場合で製造されたキハ181系は、エンジン出力を440PSに落として屋根上ラジエーターを廃止し、保守性や信頼性を高めた1000番台車として製造されていた。
  4. 1981年の神戸ポートアイランド博覧会と1990年の国際花と緑の博覧会が開催された際に、臨時列車が運行されていた。

赤穂線

1930年代
  1. 実質的に山陽本線の別線扱い。
    • かつては特急「富士」「櫻」「燕」なども通っていた。
    • むしろこっちが山陽本線になっていた。
      • よって現実の上郡回りのルートは上郡線になっていた。
        • 戦時中に金属供出によって単線化されていた。
  2. 山陽新幹線建設時にも赤穂経由が検討される。
  3. 赤穂鉄道・西大寺鉄道は太平洋戦争開戦前に廃止される。
  4. 史実の播州赤穂駅は「播磨赤穂」駅として開業していた。
  5. 場合によっては複線化していた。
    • 上記通り山陽本線の一部になっていたら当然。

野岩鉄道

1890年代
  1. 日本鉄道が日光線の延長で建設。
    • 史実の日中線も含め宇都宮〜米沢が「野岩羽線」となる。
  2. 現実よりトンネルが少ない。
  3. 上越線開通前は東京〜新潟の最短ルートとしても重宝された。
  4. 郡山市福島市が史実ほど発展していない。
  5. 下野電気鉄道は存在しなかった。

海峡線

1970年代
  1. 札幌オリンピック開催中は臨時列車が運行されていた。
  2. 大阪や東京と北海道各地を結ぶ列車が多数運行されていた。
  3. 津軽線、江差線は複線化されていた。
  4. おそらく在来線規格だった
    • 松前線が現在まで存続し、代わりに江差線木古内以西は史実より早く廃止。
  5. 北海道新幹線は凍結されたままか、札幌-(新)函館(北斗)間が先に開業。
  6. 青函連絡船では洞爺丸型が延命され津軽丸型は登場しなかった。
  7. のちになって新幹線専用トンネルを建設する計画が出る。
  8. 54年の洞爺丸の事故で建設が急がれたことになっている。このトンネル開通を想定して20系500代(極寒地仕様)が製造される。実際の500代は1000代,1000・2000代は2000・3000代となる。
    • 12系500代・14系500代も新造車として登場。極寒地仕様に改造した車両は左形式の区分代となる。781系も約10年早く登場。485系1500代は存在せず。781系が東北より北を走る特急に使用される。
1990年代後半
  1. 英仏海峡トンネルの注目度が高まっていた。
  2. 旅客列車は最初から特急のみだった。
    • 785系に青函トンネル対応の新区分番台が誕生する。
    • E751系も乗り入れに対応していた。
  3. スシ24は登場せず、九州ブルトレや「出雲」用のオシ24が転用されていた。

瀬戸大橋線

1960年代
  1. 特急「富士」、準急「砂丘」が四国に乗り入れていた。
    • 準急「鷲羽」も高松発着となっていた。
  2. 四国新幹線の用地が確保されていたかは微妙。
    • 「現行の瀬戸大橋が老朽化した段階で新幹線対応の新瀬戸大橋を造ろう」という運動があったかもしれない。
  3. 東京と高知、松山を結ぶ寝台特急が運行されていた。
    • ムーンライト松山、高知の先祖に当たる夜行普通列車も存在した。
    • 「土佐」「いよ」が上記寝台特急の列車名に。急行「土佐・いよ」は別の列車名に。
      • おそらく気動車急行の方は「うらと」「いしづち」を名乗っていたと思われる。
    • 当初は20系で登場し、1972年3月に「さくら」・「みずほ」とともに14系に置き換えられた。
  4. 121系は瀬戸大橋乗り入れ可能な規格で作られていた。
  5. 玉野市は岡山市に吸収されたか。
  6. 瀬戸中央自動車道は国道扱いか。
  7. 建設資金の調達方法が郵便貯金ではなく世界銀行の融資という形で行われていたかもしれない。
  8. 下津井電鉄が国鉄に買収された。
    • されない。江若鉄道同様廃線→一部の用地が流用される程度だと思う。
    • 少なくとも児島駅の位置は変わる。
  9. 四国の電化が早まった。
    • 最初に投入されたローカル車両は新車ではなくモハ70形・モハ80形が転用されて来た。
  10. そろそろ橋の老朽化が問題に挙がってくる頃だと思われる。
  11. 宇高連絡船の廃止時期が早まっていたのは言うまでもない。
    • 伊予丸型は建造されなかった。
  12. 茶屋町〜宇野はクモハ42あたりの単行運転になった。
  13. 環境問題が深刻化する前のことなので工事による瀬戸内海の生態系への打撃が史実以上に。
  14. 「紫雲丸事故」で建設が急がれた、とされる。宇野線岡山-茶屋町間は1970年代までに完全複線化。
  15. 岡山-高松間を結ぶ快速に、サロ110連結の岡山区113系が使用される。'90年頃に221系(岡山駅基準・下関方先頭車がクロ221、大型の前面窓・ハイデッキ仕様のグリーン車)が岡山区に配置され、113系サロ110連結編成を置き換えた。
1970年代前半
  1. 宇高連絡船の廃止が早まったのは言うまでも無く。
    • 宇野線茶屋町~宇野間の列車の多くは単行運転に。
    • 伊予丸型は建造されず、紫雲丸型を修繕しながら廃止まで使い続けていた。
  2. 「紫雲丸事故」を契機に建設開始された、と語られる。
    • 宇野線岡山~茶屋町間は瀬戸大橋線開通から間もない頃に完全複線化。
  3. 四国の電化が早まった。
    • 電化当初の四国ローカル運用に80系が使用され、国鉄末期に下記の121系に置き換え。
    • 121系は瀬戸大橋線乗り入れ可能な規格で製作された。
    • 予讃本線高松~松山間は瀬戸大橋開通と同時期に電化、'90年代に8000系に置き換わるまで181系が電化区間(瀬戸大橋線直通も含む)の特急に使用されていた。
      • 場合によってはキハ181系の製作数が史実より少なかった。
      • 電化区間の急行には山陽新幹線岡山開業で転用された153系が使用された。
  4. 四国新幹線の用地は確保されたかどうか。
  5. 「土佐」「いよ」が東京発高知・松山行きの寝台特急の列車名に。急行「土佐」「いよ」は別の名称になる。
    • おそらく「浦戸」「いしづち」になっていたと思われる。
  6. 瀬戸中央自動車道は国道扱いか。
  7. 岡山区にサロ111が転入し、岡山~高松間の快速(8・12両編成)に連結された。
    • 1990年頃に221系が岡山区に新製配置、上記113系グリーン車連結編成を置き換えた(岡山駅基準・下関方面の先頭車が大型の前面窓・ハイデッキ構造のグリーン車クロ221)。
  8. 下津井電鉄の鉄道事業撤退が早まった。
  9. 高徳本線、土讃本線(多度津~高知間)は電化されただろうか。

関門鉄道トンネル

1930年代
  1. 昭和恐慌における失業対策として、着工されていた。
  2. 史実通りに、単線で開業していた可能性が高い。
    • のちに、追加という形で、上り線トンネルが開業していた。
  3. 遅くても、1935年に下り線トンネルが開業し、1937年に上り線トンネルが開業していた。
1950年代
  1. 特急「かもめ」と特急「あさかぜ」の運行がずれ込んでいたかもしれない。
    • 開業と同時に運行が開始されていた。
  2. 最初から、複線で開業されていた。
  3. 1950年代後半の開通ならトンネルの西側は最初から交流電化になっていた。EF30形の登場も史実より早かった。

北海道

石北本線(上川-遠軽)

1980年代
  1. 石勝線のように高規格路線として建設された。
    • 一部区間は特急しか走っていないところも類似していた。
      • 上川-遠軽間かな
  2. 遠軽でのスイッチバックは何とかして回避していた。
  3. 池田-北見-網走は今も「網走本線」を名乗っている。
    • 名寄本線は「名寄-紋別-中湧別-佐呂間-網走」の区間。
    • 網走本線は北見-網走のおかげで現在も全線がJRに属している。
      • しかし、北見以南に廃止論議が勃発するのは史実通り。
    • 北見-遠軽-湧別は上川-遠軽間の開業まで「湧別線」というローカル線だった。
  4. 開業まで特急オホーツクは名寄本線経由だった。
  5. 「石北線」ではなく「石北線」だった可能性が高い。

石勝線

昭和10年代
  1. 建設理由に対ソ戦対策も含まれていた。
  2. 建設にあたり朝鮮人などの労働者が酷使された。
    • 後に複数の慰霊碑が建てられた。
    • トンネルに「幽霊が出る」などと噂されたり、韓国が謝罪と賠償を要求するなど何かと曰く付きの路線になっていた。
  3. 煤煙対策のため史実ほど長いトンネルはない。
    • その代わり一部区間に急カーブや急勾配などが生じていた。
    • JR化後に高速化改良されたと思われるが現実ほど高速運転できなかった。
  4. 開業時点で根室本線は「千歳-新得-釧路-根室」に変更された。
    • 滝川-富良野-新得には「芦別線」という別の線名が付けられた。
      • 夕張線(紅葉山~夕張)は特定地方交通線に指定され廃止されていた。
        • 紅葉山駅は廃止後、新夕張ではなく「夕張市」を名乗っていたかも。
        • 1980年代ならまだ大丈夫だと思うが、2010年代には史実同様廃止が議論されるようになっていた。
    • 国道38号も札幌~十勝清水~釧路のルートだった。
      • 北海道最長国道は国道38号だった。
      • 国道274号は滝川~帯広間の国道となっていた。
    • 登川駅からそのまま東へ延伸する形になっていた。
    • 南千歳駅は開業せず史実の南千歳駅の場所に南千歳信号場が千歳線空港支線開業と同時に設置された。
    • 準急→急行「夕張」の走行ルートは「札幌-千歳-紅葉山-夕張」だった。
      • 史実より(夕張~追分から)札幌まで短時間で行けるので1972年以降も存続する。
        • 夕鉄バス札幌急行線との競争や千歳市民・広島町民からの要望によりくるくる電車ポプラ号登場のタイミングで札幌~千歳間快速・以遠普通に格下げ。
        • 同時に大幅に本数増加するが千歳以遠の実質的な本数は変わらず。
        • 1997年3月改正までキハ56系を使用、以降運転区間短縮があったがキハ201系を使用。
        • 場合によっては千歳~追分間が札幌の通勤圏に入ったかも。
        • キハ40系・キハ54・キハ150も代走・送り込みで快速「夕張」を含む仕業に入った。
        • キハ201系は製作コストを減らすため途中から車体傾斜機能なしで増備・別区分番代となった。
  5. 開業当初は現実の信号場も全て駅だった。
    • しかし沿線の過疎化により廃駅が続出。
    • 仮乗降場扱いの駅も多い。
  6. 占冠駅は富内線との合流を想定した構造になっていた。
  7. 追分〜紅葉山(新夕張)間が単線化されず複線のままだった。

札幌市営地下鉄東西線(琴似-宮の沢)

1980年代
  1. 早くても、1985年頃に開業していた。もしくは、遅くても、1988年に開業していた。
    • 1990年頃に開業していた可能性もある。
  2. 6000形電車が史実よりも多く増備されていた。
  3. 1999年2月に東豊線の福住~清田間が開業していた。
    • その場合、7000形電車が史実よりも多く増備されていた。
    • 6両編成で運行されていた。
    • 栄町駅付近か清田駅付近か福住駅付近に車両基地ができていたかもしれない。
    • 札幌ドームが開業した2001年に開業していた可能性もあり得る。
  4. 8000形電車の登場は史実通り。
    • その代わりに、史実よりも遅れて投入されていたかもしれない。(2001年辺りに)

東札幌-新さっぽろ

1990年代
  1. 当初の予定通り千歳線旧線沿いに高架線を建設していた。
    • 南北線南平岸駅 - 真駒内駅間のようにシェルターで覆うかは微妙なところ。
  2. 建設費節約のためにホームは8両ぶんしかない。

東北

南部縦貫鉄道

大正時代
  1. 開業当初は「七戸鉄道」と名乗った。
    • 後に戦時統合で史実の南部鉄道や十和田観光電鉄とともに「南部交通」に統合され「南部交通七戸線」となる。
  2. 建設目的は普通に「東北線と七戸町の連絡」。
    • 農産物の輸送も行われた。
    • 後に沿線で産出される砂鉄の輸送も行われた(史実でも計画されていたが頓挫)。
  3. 多分電化はされていない。
  4. 七戸駅は町の中心近くに設置。

三陸鉄道

1960年代
  1. 建設開始は1933年の昭和三陸津波の後。
    • 太平洋戦争により一時工事がストップしていた。
  2. 当然ながら国鉄線として開業している。
  3. 一部区間は現実よりカーブなどが多い。
  4. 開通した頃は急行が走っていた。
    • 列車名は「さんりく」、運転区間は仙台-気仙沼-宮古-八戸。
  5. 連続テレビ小説『あまちゃん』のストーリーが史実とやや異なっている。

仙石線

1910年代
  1. 軌道法に準拠して建設された。
    • 仙台駅付近が併用軌道だった。
      • 後に高架化もしくは地下化される。
    • 戦時買収を免れていたかもしれない。
      • この場合宮城電鉄が戦時統合の核になっていた。
  2. 石巻-女川も自力で建設していた。
  3. 仙台市電との直通も検討される。
    • というより「宮城電鉄市内線」として建設された可能性もある。
  4. 国に買収されなかった場合塩釜線は現存している。
  5. 松島にそこそこ大きな遊園地ができていた。

気仙沼線

1939年
  1. 石巻線が石巻から女川経由で延長された形で開業。
    • 勿論「石巻線」の一部。
1980年代
  1. 隣県の三陸鉄道に刺激され第三セクターで開業。
  2. 旧国名の付いた駅は現実より少ない。
  3. 震災までは独自のサービスで人気を博していた。
    • 「フカヒレ列車」などというものが走っていた。
    • 大谷海岸駅は海の家と一体化されていた。
  4. 震災の被害により一時は廃止も検討された。
    • むしろ南リアス線と同じ時期に復旧していたのでは?
      • 大船渡~気仙沼間も鉄路で復旧していた(この場合宮城方の三セクになるのかやっぱ三陸鉄道になるのか…)
      • 史実通り事実上の廃止に追い込まれていたら、「岩手県は三陸鉄道を復旧させたのに宮城県は…」と言われていた。

仙台市営地下鉄東西線

2000年代

史実では2015年12月に開業。

  1. 遅くても、2008年12月に開業していた。
    • 場合によって、2009年頃にずれ込んでいたかもしれない。
  2. 東日本大震災が起きた時は被害を受けていた。
  3. 2001年に開業していたら同年の「新世紀・みやぎ国体」や翌年の「日韓ワールドカップ」に合わせたとされた。
  4. 2000系は開業時期次第で都営12-000・横浜市初期10000・神戸市5000形や大阪市80・福岡市3000系と類似する箇所が多かった。
  5. 仙台空港に乗り入れているかも。

仙台空港鉄道

1990年代
  1. 仙台空港新旅客ターミナルが全面完成した1997年(あるいは前年)に開業。
    • むしろ、仙台空港新旅客ターミナルの全面完成が史実よりも早まっていた。
  2. 開業当初の自社保有車両は701系1000番代の同型車である。ワンマン運転は2両編成の列車のみ。3両編成以上の列車は原則車掌乗務。
    • 417・455・457・719系の乗り入れも考慮された。
  3. 大株主に名鉄,そのグループの宮交が。
    • 仙台空港民営化を機に、東急へ名鉄グループ保有分の株がすべて譲渡(=名鉄グループ離脱、東急グループ加入)される。
    • 直通相手はJRではなく仙台市営地下鉄になっていたかもしれない。
  4. 国際ゆめ交流博覧会が開催された1997年春での開業を目標として建設された。
2001年
  1. 同年の「新世紀・みやぎ国体」,翌年の「FIFAワールドカップ」開催を機に開業。
  2. 2000年に開業した可能性が。
  3. 開業当初の自社保有車両は701系1500番代基本の都市型ワンマン運転対応車両である。JR側も同型車を導入する。
  4. 「宮城国体」「FIFA W杯」の際,宮城スタジアムへの利便性向上の為,臨時列車で仙台空港-利府間に直通臨時列車を多数運行した。

東海

伊豆急行

昭和10年代
  1. 建設の動機は伊豆半島の要塞化。
  2. 伊東線の延長として建設された。
    • 線名は「伊豆線」。
  3. 1950年代から優等列車が乗り入れるようになった。
  4. 史実の伊豆急下田駅は「伊豆下田駅」と名乗っている。
  5. 現実ほどトンネルは多くない。
  6. 当然国鉄線としての建設で、現在はJR東日本。

伊勢鉄道

1910年代
  1. 参宮鉄道時代から計画はあった。
    • だが着工は国有化後。
  2. 東京などと伊勢神宮の短絡が主目的。
  3. 開通したとたん参宮線の一部に。
    • 亀山~津は「亀山支線」として扱われる。
    • なお現在は紀勢本線の一部。
  4. 現在の近鉄鈴鹿線はこの路線の鈴鹿駅に乗り入れていた。
  5. 寝台特急「紀伊」もこのルートを通っていた。
    • 所要時間が短かすぎて始発・終着が不便な時間帯になってしまうのでそれはない。
      • 普通に紀伊勝浦か新宮で長時間停車していたんじゃないの?別にすぐに下りなきゃいけないとは書いてない訳だし。

近鉄鳥羽線

1930年代
  1. 「志摩電気鉄道山田線」として開業。
    • この場合志摩電気鉄道は参宮急行電鉄に買収されていた。
      • 標準軌への改軌が史実よりかなり早まっている。
      • 買収と同時に山田線に編入された可能性も。
  2. 計画時期によっては宇治山田駅は最初から通過可能の構造になっていた。
  3. 朝熊駅では朝熊山ケーブルカーと接続している。
    • ケーブルカーは戦後復活を果たしていた。
  4. 賢島方面の観光開発は更に進んでいる。
  5. 国鉄参宮線の伊勢市~鳥羽は1960~70年代に廃止されていたかも(史実でも赤字83線に選定されていた)。
  6. 線形は現実よりも悪かったかもしれない。
    • 確実に踏切が存在した。
  7. 遅くても難波線開業までに大阪線・名古屋線は全線複線化(宇治山田-鳥羽間の建設・鳥羽-賢島間の改軌費用が回るため)。青山峠区間は(工期短縮が優先)単線並列方式で複線化。そのため上下線の所要時間が異なる。難波線開業の翌年に発生した衝突事故はない。
    • 旧東青山駅を経由する線形の悪いルートになるため、アーバンライナーや伊勢志摩ライナーは振り子式車両で製造され、ひのとりは車体傾斜装置を取り付けて製造されていた。

愛知環状鉄道

1920年代
  1. 岡崎市街地や挙母町、瀬戸と東海道本線を結ぶための路線。
    • 貨物列車を名古屋市街地に入れないことも意識されている。
  2. 中岡崎駅が「岡崎駅」を名乗っていた。
    • 東海道本線の岡崎駅は「南岡崎」か「岡崎口」に改名された。
  3. 戦時中に空襲時の迂回路として城北線に相当する区間も建設される。
  4. 現在もJRの路線だったかもしれない。
    • 最初から多治見ではなく高蔵寺を目指していたのであれば路線名は「挙母線」になっていた。
    • 当初の予定通り貨物輸送も頻繁に行われていた。
  5. 名鉄挙母線は存在しなかった。
1940年代
  1. 名古屋の空襲に備えて勝川-稲沢も城北線として同時に建設。三河鉄道上挙母-大樹寺-岡崎駅前間は不要不急路線に指定され休止される。
  2. 「挙母線」が路線名になる。
  3. 多治見・高蔵寺ではなく神領が終点になる。
    • その為、中央(西)線の快速は高蔵寺ではなく神領に止まる。
    • 瀬戸~多治見間の建設計画も出るが着工されない。
      • 多分非電化。
  4. 1970年代に、全線にわたり複線化と電化が行われた。
    • 上の城北線も同時期に。
    • その為、名古屋を迂回するバイパスルートとして、挙母線と城北線の建設効果を十分発揮した。
    • 愛・地球博の観客輸送で活躍している。
  5. 現在は城北線も含めJRの路線に。

名鉄羽島線

1964年
  1. 「夢の超特急」との連絡線ということで開業時は大々的にPRされた。
    • 新岐阜からの直通特急が設定されていた。
  2. この路線の建設に関しても大野伴睦が絡んだ噂がささやかれる。
  3. 現在は結局現実と大きな差はない。
    • ただし新羽島駅の駅舎はもっと古い。
      • 地平ホームの1面2線になっていた。
  4. どのみち竹鼻線の江吉良以南は廃止される。
  5. 一部で国鉄による買収が噂されるも実現せず現在に至ると思われる。

名鉄豊田線

1930年代
  1. 三河鉄道の経営状態が良ければ着工できた。
  2. 八事以西が名古屋市電八事線になることはなかった。
    • 軌道廃止後に地下線で伏見か栄に乗り入れる。
      • あるいは神宮前に延伸され名古屋本線と接続していた。
  3. 踏切がある代わりに加算運賃が存在しない。
    • トンネルも現実より少なく、一部のルートが現実と異なっている。
  4. 地下鉄鶴舞線は存在しないか八事止まり。
  5. 特急が運転され名古屋〜豊田を30分以内で結んでいた。

名鉄豊川線

1920年代
  1. 飯田線国有化前なので豊川駅に乗り入れていたかもしれない。
  2. 名鉄小坂井支線はなかった。

名古屋市営地下鉄上飯田線

1980年代
  1. 新栄町駅まで開業していた。
    • 名古屋市営地下鉄桜通線の高岳駅が連絡できるように移転されていた。
    • 市役所経由で金山まで開業していた可能性もあり得る。
  2. 名古屋市交通局7000形電車は、3000形電車をベースに製造されていた。
  3. 名鉄小牧線は小牧~犬山間も複線化されていた。
1990年代
  1. 早くても、1991年頃に開業していた。
    • 新栄町駅まで開業していたかもしれない。
    • 名古屋市営地下鉄桜通線の高岳駅が連絡できるように移転されていた。
    • もしかしたら、丸田町の先である矢場町or金山or鶴舞orささしまライブまで延伸していた可能性もある。
  2. 7000形電車が史実よりも早く登場し、製造数も史実よりも多くなっていた。
  3. 間内駅付近に車庫ができていた。
  4. 桃花台新交通桃花台線が廃止されることはなかった。
  5. 運行本数が史実よりも多くなっていた。
  6. 2004年には東部線(ささしまライブ~高針橋)が開業していたかもしれない。
    • グローバルゲートを含むささしまライブ24地区の再開発事業が史実よりも進んでいた。
      • 中京テレビの移転も史実よりも早まっていた。
    • その際に、上飯田線は2003年頃に丸田町まで延伸していた。
  7. 名鉄300系電車は100系電車、200系電車と同じのタイプの車両に製造されていた。
    • 3300系電車(2代目)が投入されることはなかった。
2001年
  1. 間内駅付近に車庫ができていた。
  2. それ以外で、史実とあまり変わらなかった。

名古屋市営地下鉄桜通線

野並~徳重

1990年代
  1. 6両編成で運行されていたかもしれない。
  2. 緑区における宅地開発が史実よりも進んでいた。
  3. 2011年に徳重~豊明北間が開業していた可能性もあり得る。
    • もしくは、野並~徳重~豊明北間として開業し、車庫は当初の計画通りに豊明北駅付近に車庫ができていた。
2000年代
  • 史実では、2011年3月に開業しました。
  1. 2005年に開業した場合、開催されていた愛知万博に合わせての開業であった。
  2. 開業記念イベントが実際に行われていた。(史実では、東日本大震災の影響により、中止となった。)
  3. その後も、延伸計画が実施されていたかどうかは怪しい。
  4. 無論、6050形電車の登場が史実よりも早まっていた。

中村区役所~今池

1970年頃
  1. 国鉄(当時)名古屋駅付近は,地下街「エスカ」「ユニモール」と一体で建設された。車両の大きさは,東山線・名城線(・名港線)と同じ。
    • 市電中村線は2年程早く廃止される。
      • その為桜通線は稲葉地~今池間が最初の開通区間に。
    • 中村公園駅に,東山線との連絡線も同時に建設。
    • 稲葉地付近に車庫が建設される(大規模な検査は中村公園駅の連絡線経由で回送の上,東山線藤が丘工場で実施)。
  2. 現実より建設費が安く,市の財政状況が少し良くなる。現実より浅い場所を通る。

名鉄知多新線

1930年代
  1. 常滑か河和から延伸していた形で開業していた。
1970年代
  1. 沿線の宅地造成が史実よりも進んでいた。
    • 小野浦駅が開業していた可能性が高い。
  2. 名鉄による観光開発が史実よりも進んでいたかもしれない。
    • 南知多ビーチランドと内海フォレストパークの開園が史実よりも早まっていたかもしれない。
    • 8800系電車の登場が若干早まっていたかもしれない。

名古屋市営地下鉄名城線

新瑞橋-大曽根

1980年頃
  1. ナゴヤドームではなく瑞穂公園に大規模な車庫が建設される。'70年代後半に,2000形(3000形同様の,電機子チョッパ制御・スキンステンレス車両)が名城線に導入される。史実の2000形相当の車両は,2050形を名乗る。
    • 2000形は当初から冷房付き。2010年代後半にN2000形(N1000形ベースの名城・名港線用車両)に置き換わる。名城線の6連化は早まる。
  2. 総合リハビリセンター駅は当初の計画通りに清水ヶ岡駅と名乗っていた。

名古屋市営地下鉄鶴舞線

上小田井-庄内緑地公園

1985年頃
  1. 市交通局3000形・名鉄100系は、1990年頃までにすべて6両化される(従来編成に中間車両を挿入)。その代わり、名鉄100系4+4両編成は存在しない。
    • 市交通局3000形・名鉄100系の製造数が史実以上に。
  2. 史実より、1980年代後半の鶴舞線・名鉄犬山線・名鉄豊田線の混雑を緩和している。名鉄犬山線・豊田線の宅地化が、(バブル景気の頃)史実以上に進む。

伏見-八事

1970年代前半
  1. 開業当初の車両は300形を20m車・片側4扉・直流1500V架線集電方式に変更した車両。ただ、抵抗制御車両で、当初は非冷房で登場した。
  2. 八事~赤池間の延伸も早かった、名鉄豊田新線(当時)も同時期に開通している。

桃花台新交通

1980年
  1. 8月の入居開始までに開業。
  2. 1990年頃に高蔵寺まで延伸される。
  3. 桃花台ニュータウンと小牧市の人口が史実以上に多かった。
  4. 名鉄、日本車輌、三井物産(日車と物産はVONAを共同開発)が主要株主に。

名古屋市営地下鉄東山線

名古屋-栄町

1930年代
  1. =「名古屋地下鉄道」が実現していたらである。
  2. 当初の車両は木目調の内装だった。
    • 車体は流石に全鋼製車体。
  3. 建築限界の規格は史実より大きい。
    • ホームの長さも8両編成ぐらいまで対応していた。

遠州鉄道奥山線

1940年代前半
  1. 遠州電気鉄道(遠電)の三方原線として建設された。
    • 当初は非電化・1067mm軌間で省線との直通が考慮された。
      • 陸軍飛行学校への引き込み線が存在した。

甲信越・北陸

北越急行ほくほく線

1970年代
  1. 「南北戦争」と呼ばれる地元でのルート争いがなかったのが前提。
  2. 現実ほど高規格ではない。
    • 美佐島駅があそこまで堅牢な構造になる事は無かった。
    • ただ、貨物列車の走行に対応した構造になっていた。
  3. 駅名はそこまで奇抜ではない。
    • 増田駅(史実のくびき駅)の駅舎も。
    • 時期次第では武蔵野線に「武蔵新座」駅ができていた。
      • 酷い場合はそちらが「にいざ駅」になっていたかも…
  4. この路線の開業時から上越新幹線開業まで上野-金沢の「はくたか」が通っていた。
    • 新幹線開業後は越後湯沢-金沢だけ存続。
      • 北陸新幹線開業後はさすがに廃止か。
  5. 「電車でGO!」には登場しなかった。
  6. 特急「かがやき」は誕生せず。
    • いや、むしろ特急「きらめき」が「かがやき」と名乗っていた可能性がある。
      • 「きらめき」は現在、九州の特急列車だから被らなくて済んだだろう。
  7. 急行「よねやま」が柏崎発着に短縮されたかも。
    • むしろ、別途に上野~十日町~直江津間を結ぶ急行「魚沼」が1982年11月頃までに運行されていた。
  8. 2001年3月までに特急「雷鳥」が当路線に乗り入れて、越後湯沢までに運行されていたかもしれない。
  9. 急行「能登」と特急「北陸」が当路線を経由していたかもしれない。
  10. もし国鉄→JR東日本の運営だったら、北陸新幹線延伸開業までは、故宮脇俊三氏の著書「線路のない時刻表」で書かれていた空想ダイヤそのまんまのダイヤで運行されていた。史実とは違って最高速度はせいぜい110km/hで、高速化特別工事も実施されず。
1982年
  1. 上越新幹線の開業に控えての開業であった。
    • 1981年に開業した場合、上越新幹線の開業までに普通列車だけでの運行であった。
  2. 1982年11月15日のダイヤ改正で越後湯沢~金沢間の特急「はくたか」が新設された。
    • 特急「きらめき」や「かがやき」が新設されることはなかった。
    • 特急「はくたか」は全てJR西日本所属の車両による運行であった。特急「北越」も同様なことになっていたかもしれない。
    • 最高速度が130km/hになるように設計されていた。
    • 複線化されていたかもしれない。
    • 普通列車が115系電車が走行していた。
    • 1985年3月14日のダイヤ改正で信越本線経由の特急「白山」は廃止されていた。
  3. 貨物列車が走行できるように設計されていた。
    • 寝台特急「北陸」は1982年11月15日のダイヤ改正で当路線経由となり、寝台急行「能登」は上越線経由になっていた。
    • 関西~越後湯沢間のシュプール号が運行されていた。
  4. 路線名は「北越線」か「十日町線」になっていた。
  5. 北陸新幹線の延伸により、当路線の処遇を巡り、新潟県と対立していた。
    • 北陸新幹線の金沢延伸開業が史実よりも遅れていたかもしれない。
  6. 民営化後にJR西日本は関西発着の特急「サンダーバード」とともに特急「はくたか」の速達化とサービス向上に力を入れていた。

万葉線

1910年代
  1. 開業当初の社名は「高岡電気軌道」。
    • いずれにしろ戦時統合で地鉄→加越能→万葉線。
  2. 国鉄新湊線は一度も旅客営業を行うことがなかった。
    • 「貨物線なのに独立線名」とはならず、名実共に氷見線の貨物支線になっていた。
  3. 場合によっては戦時統合まで射水線と直通していなかった。
  4. 開業当初の車両が60年代くらいまで走っていた。
  5. 第三セクター化により開業当初に近い社名へ戻される。
  6. 伏木線以外にも廃止になった支線があった。

富山地方鉄道不二越・上滝線

1950年代
  1. この年代だと路線が比較的高規格のはずなので、こちらが立山駅行き特急のルートになっていた。
    • むしろ立山へ行くときに遠回りな五百石線(現立山線)の短絡線として建設されていた。

中国・四国

予土線

1980年代
  1. 第三セクター線での開業。
    • 江川崎-若井は国鉄線として運行されたことがない。
    • 会社名や路線名に「四万十」という語句が入る。
  2. 史実通り中村線も経営分離された場合、若井駅が貴重な「異なる会社の三セク線同士の分岐駅」として鉄道ファンに注目される。
    • 予土線を受け持っていた3セクが史実の土佐くろしお鉄道に発展すると考えたほうが自然だと思うが。
      • その場合、愛媛県も出資している関係で「予土くろしお鉄道」という社名になっていたかもしれない。
  3. 一部の駅に凝った装飾が施される。
    • 候補:土佐大正、土佐昭和、半家
  4. ディーゼルカーの新幹線は走らなかった。
    • 牟岐線や鳴門線辺りに走らせている気がしなくもない。
    • あるいはこの三セク会社が走らせる(JRグループだからこそあった発想のような気もするが)。

木次線

1970年代
  1. 全線が最初から国鉄線として建設された。
  2. そこまでカーブだらけではない。
    • 大東町には寄れていない。
  3. 島根・広島の県境は長大トンネルで突破。
    • 出雲坂根駅は存在しなかった。
  4. 三江線と同様に全線開業前に「赤字83線」に指定されていた。
  5. 急行ちどりはもう少し存続していた。
  6. 備後落合駅でのスイッチバックが必要でない線形だったかもしれない。
  7. 特定地方交通線指定→解除の経過はほぼ史実通り。

水島臨海鉄道

1910年代
  1. 主に連島・福田地区と倉敷市街地や駅を結ぶのが目的。
    • 倉敷駅を出てから市街地外周を経由するルートだった。
  2. 戦時体制に入るまではのどかなローカル線だった。
    • 戦争中に軍需工場への路線として大幅に輸送力が強化される。
    • その後は史実と大差ない雰囲気に落ち着く。
      • あまりの変貌ぶりのため社会科の教材などで取り上げられる。
  3. 当初の社名は「倉敷軽便鉄道」。
    • 軌間762mmで開業していたかもしれない。

アストラムライン

1980年代前半
  1. まずは本通-長楽寺が開業。
    • 市内中心部は工事が難航した場合「暫定開業」という形をとっている。
  2. 開業当時の報道ではほとんど「地下鉄」や「モノレール」と表現されている。
  3. 車両の塗装は白っぽい。
  4. 祇園新道やシャレオの建設も早まっているはず。
  5. バブル期には現実以上の延伸計画が持ち上がる。
    • しかし実際に開業した区間は少ない。
    • 1990年頃に西風新都が完成、長楽寺から広島修道大学の沼田キャンパス辺りまで延伸される。

呉市電

1920年代
  1. 史実でもあった広島瓦斯電軌(現在の広島電鉄)の軌道線計画が実現した形。
  2. 軌間は広島市内と同じ1435ミリ。
  3. 広島市-呉市の鉄道線建設が広電の悲願になった。
    • しかし開業することはなかった。
  4. 少なからぬ車両は広島のお古。
    • 原爆投下直後は逆に呉の車両が広島へ渡っていたかもしれない。
  5. 人口や並行路線(呉線)の存在を考慮すると現存の可能性は薄い。
    • 広電と接続できれば(JRがあの調子なので)それなりに残れた可能性もあったかもだが……

土佐くろしお鉄道

ごめん・なはり線

1970年代
  1. キハ40系気動車とキハ54形気動車とキハ58形気動車が当路線を走行していた。
  2. 奈半利~室戸間も着工するが、それでも開業に至らなかった。
  3. 特定地方交通線に指定され、1988年3月に中村線とともに土佐くろしお鉄道に移管していた。
1990年代
  1. 1996年頃or1997年頃に開業していた可能性が高い。
  2. 2002年7月に室戸まで開業していた。
    • その場合、高知~室戸を結ぶ特急「むろと」か快速「むろと」が運行されていた。
    • 奈半利以遠は工事の進捗状況からしてさすがに厳しかった気がする。
  3. 宿毛線の開業が史実よりも早まっていたかもしれない。

宿毛線

1970年代
  1. 窪川~中村~宿毛間が宿毛線になっていた。
    • 土讃線に編入されていたかもしれない。
  2. 特定地方交通線に指定され、1988年3月に土佐くろしお鉄道に移管していたのは史実通り。
    • その代わりに、路線名は、窪川~中村~宿毛間で宿毛線となっていた。
  3. 1997年10月には、ごめん・なはり線が開業していた。
    • ごめん・なはり線の開業が史実よりも遅れたのは宿毛線の建設に力を注いでいたため。
  4. 宿毛駅が史実とは異なった場所に設置されていた。
    • 宇和島方面へ延伸できる構造になっていた。

三江線

1980年代以降
  1. 第三セクター鉄道として開業していた。
  2. 観光鉄道として売り出していた。

九州

筑豊電気鉄道

1930年代
  1. 地元資本(主に炭鉱関係者)とどこかの鉄道会社の合弁。
  2. 黒崎駅へは自力で乗り入れ。
  3. 戦時統合で西鉄の路線になっていた。
    • 路線名は「西鉄筑豊線」。
  4. 開業当初の車両は「関東や関西の私鉄電車に匹敵する」無駄に高性能なもの。
  5. 飯塚辺りまでは何とか開業できていた。
    • それでも八木山峠は結局越えられず。
  6. 貨物輸送はさすがにやっていない。

沖縄都市モノレール

終戦直後
  1. 沖縄県の電車復活として開業されるが、アメリカ式の電車として開業していた。
    • 沖縄復帰後は国鉄(JR九州?)が一部の路線として生まれ変わるかもしれない。
    • むしろ地元資本による開業。
      • 当時のアメリカではインターアーバンが衰退期の真っただ中だった。
  2. 走る車両は一時期のソウルや釜山の市電ばりにアメリカのお古だらけだった。
    • 場合によっては一部車両が現在も保存されている。
  3. 少なくとも糸満やコザまでは線路が延びている。
    • コザ暴動で何両か列車が焼き討ちにあっていた。
  4. そもそもこの場合は730まで列車も右側通行になるんだろうか?
    • 現在では右側通行時代の車両が保存されている。
    • 併用軌道の区間がない限りわざわざ左側通行に変える必然性はなさそう。
      • 自動車が左側通行から右側通行に変更されたスウェーデンや韓国でもそれ以前にできた鉄道(路面電車を除く)は左側通行のまま。
    • そもそも730が出来たのは鉄道がなかったからということも言われますし。
    • 「日本国内で右側通行の貴重な鉄道路線」として注目される。
1970年代(返還直後)
  1. 沖縄返還として開業する。もちろんモノレールではなく電車式。
  2. 現実のルートではなさそう。那覇から名護を結ぶ路線になりそう。
  3. こっちの場合も6年間だけ列車が右側通行になる。
    • もしくは予め左側通行への変更準備が行われていた。
1990年代
  1. 首里城公園が開園した1992年か九州沖縄サミットに開催された2000年(前年の1999年)に開業していた。
  2. 2003年には、浦添前田駅までに延伸開業していた。
    • 2019年には、てだこ浦西駅までの延伸開業をしていた。
    • むしろ、2003年にてだこ浦西駅までに開業していた可能性もあった。
  3. 会社自体は82年創設なのでこうならなかったのがむしろ不思議。
  4. 現在までに4両編成化されている。
  5. 那覇新都心における再開発が史実よりも進んでいた。
2001年
  1. 21世紀最初の年に開業いていたこともあって、注目された。
  2. 2002年のFIFAワールドカップの開催を機にラッピング列車が運行されていた。
  3. 沖縄タイムスの移転など那覇新都心の開発事業が史実よりも進んでいた。
  4. 2003年頃に石嶺駅まで先行開業していた可能性もある。
    • てだこ浦西駅までの延伸開業は史実通り2019年に開業していた。
    • いや、当初の予定通り、2019年春に開業していた。
    • 2003年にてだこ浦西駅までに延伸していた可能性もある。

首里~てだこ浦西

2003年

2003年8月に最初から、那覇空港~首里~てだこ浦西間が開業していたら…

  1. 3両編成で運行されていた。
  2. 浦添市でも住宅団地の整備が史実よりも進んでいた。
    • セブンイレブンやドンキホーテなどの企業が史実よりも早く沖縄県に進出していた。
    • てだこ浦西駅周辺の開発も史実よりも早く進んでいた。
  3. 沖縄県において、パーク&ライドが流行していた。
  4. 首里で折り返す列車は通常ダイヤで設定されなかった。
2015年
  1. てだこ浦西駅周辺の開発が史実よりも進んでいた。
  2. 2019年の開業の時とあまり変わらなかった?
  3. 浦添市にとって、市制施行45周年という記念すべき年であったので、二重の喜びであった。
2019年春
  1. てだこ浦西駅周辺の開発が史実よりも進んでいた。
  2. 浦添市の市街化が史実よりも進んでいた。
  3. 当路線でのSuicaの利用開始も延伸開業を機に同時に行われていた。

大分交通別大線

1930年代
  1. 別大国道の整備と並行して建設される。
  2. 両端の駅にはターミナルビルのようなものが建設された。
    • 大分側にはトキハ本店が入居していたかもしれない。
  3. 大分市内の区間は戦後復興で専用軌道化される。
  4. もう少し「鉄道線」然とした車両が使われていた。
  5. 場合によっては一部区間が現存していたかもしれない。
    • それでも別府市内の併用軌道部分は廃止される。
  6. 時々身の丈に合わない壮大な延伸計画が持ち上がることもあった。

長崎本線

1840年代
  1. 最初はオランダ側が無許可で作ったものなので数年で撤去された。
    • 出島のオランダ人は商館長の江戸訪問時を除き島の外に出られなかったのでそれはない。
  2. 開通当初は長崎の住民に恐怖が充満した。
    • むしろ「恐怖半分興味半分」とでも表記したほうが正確な状態では。
  3. 最初はウシが引いていたが、しばらくして蒸気機関車の使用も開始された。
  4. いったい最初の開業区間はどこなのか…

鹿児島本線 (八代~川内~鹿児島)

1900年代
  1. 当然、九州自動車道の八代以南は西回りで建設された。
  2. 人吉~吉松間は建設すらされなかった。
    • 代わりに立野-延岡間が1930年頃に全通。
    • 現実より急勾配・急曲線が多く、トンネルの数が少ない。
  3. 宮崎方面へは水俣駅で分岐していた。
  4. 人吉は平成の大合併まで市制を敷けなかった。
  5. 現実以上に曲線が多かった。
    • 電化時に一部区間の線路が付け替えられる。

福岡市営地下鉄七隈線

1980年代
  1. 1000系電車と同じタイプの車両が登場していた。
  2. 天神~橋本間or博多~橋本間として、開業していた。
1990年代
  1. 遅くても、1999年頃までに開業していた。
  2. 3000系電車の登場は史実通り。
  3. 史実通りに天神南~橋本間として、開業していた場合、2005年に天神南~博多間が開業していた。
    • 博多駅前道路陥没事故は起きていたのであろうか?
    • 九州新幹線が全通した年である2011年に開業していた可能性もある。
      • その代わりに、東日本大震災の影響により、開業記念イベントは中止となっていた。
  4. キャナルシティ博多の利用客が史実よりも多くなっていた。
    • キャナルシティ博多イーストビルの開業も史実よりも早まっていたかもしれない。

海外

英仏海峡トンネル

1890年代

ドーバー海峡にトンネルを建設する構想は古くからあり、19世紀に最初の調査・掘削が行われています。

  1. オリエント急行はロンドン発着だった。
    • 後のTEEにも「ブリタニア」「ロンディニウム」などの愛称を持つロンドン発着の列車があった。
  2. 現実より断面が小さい。
  3. 大戦中にドイツ軍の攻撃対象にされた。
    • むしろイギリス上陸作戦の足掛かりとして無傷で確保せよとの指示が出ていた。
      • 作戦名も「アシカ作戦」ではなく「ダックスフント作戦」あたりになっていた。
  4. 欧州大陸と同じ規格で建設されたグレート・セントラル本線が真価を発揮できていた。
    • もちろんビーチング・アックスの魔の手にもかからず現役バリバリだった。
1980年代

1978年に掘削が再開されましたが、その後1986年まで工事中止になってしまいました。

  1. 当初は「世界最長の鉄道トンネル」を名乗った。
  2. TGVは北線が優先的に建設される。
  3. 日本にカートレインが登場する時期が早まっていた。
  4. Class 373はTGV Sud-Estをベースとした車両になっていた。
  5. 日本の青函トンネルが開業した年である1988年になっていた可能性もある。

瀋陽地下鉄(中国)

1940年代
  1. 要するに、この計画が実現。
  2. 北京ではなくこの地下鉄が「中国初の地下鉄」に。瀋陽市民の自慢ネタが増える。

ソウルメトロ(韓国)

1930年代
  1. 御堂筋線の一部区間のように昭和恐慌の失業者対策の一環で建設された。
  2. 日本時代に建設(開通)した路線は左側通行になる。

関連項目