戦国武将/さ行

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雑賀孫市

  1. 紀州の地侍集団「雑賀衆」の棟梁。
    • 「雑賀」は集団の名称で、本人の苗字は「鈴木」だったらしい。
    • 「孫市」というのは代々の名乗りで、何人も居たらしい。
      • 「孫一」という書き方もあって、同じ事だという説と別人だという説がある。
        • 雑賀孫七って人もいた。
      • 司馬遼太郎が『尻啖え孫市』で書いたのはその中の鈴木重秀の話。父の佐大夫も、弟(息子とも)の重朝も雑賀孫市を名乗っている。
      • 経歴にはいろんな孫市のものが混ざっていて、よくわからない。
  2. 雑賀衆は当時日本最強の鉄砲集団。
    • 石山本願寺に味方し、織田信長をさんざん悩ませた。
      • が、信長の長篠での鉄砲の使い方は、雑賀衆のやり方に学んだとも言われる。
        • 長篠合戦の前に、雑賀衆では三段撃ちの元ネタと思われる打ち方をしていた。籠城戦で 四人一組で鉄砲を撃つ。ただし三段撃ちとは異なり、雑賀衆では撃ち手は固定で鉄砲を順繰りに回して射撃準備した。こっちの方が鉄砲の名手が常に打つので効率良いはず。
  3. 某漫画では一人称が「俺」(わえ)で二人称が「お前」(おまん)である。昔の和歌山の方言なのか?
    • 「わえ」は知らないが、「おまん」は聞くことがある。(by泉州人)
  4. 司馬遼太郎のせいで女たらしキャラにされた(上記『尻啖え孫市』)。光栄のゲーム戦國無双でもそう。
  5. 織田信長と対立しているイメージが強いが、本願寺の降伏後は信長方についたりしている。
    • 雑賀衆の内部でも親・信長派と反信長派で対立していた。
      • 信長は本願寺をつぶさなかったし、浄土真宗も禁止しなかった。そのうえ給料を払ってくれるというなら信長につくのもいいか、という事なのだろう。
  6. 「ざいが」ではない。「さいか」である。
  7. 神奈川県のデパートチェーン「さいか屋」の経営者は雑賀の末裔である。

斎藤龍興

  1. 道三の孫で、美濃斎藤家の三代目。
  2. 一般的な評価としては半兵衛に呆れられ、美濃三人衆にも見限られ、家を滅ぼしたダメ当主。
  3. 落ち延びた後も三好三人衆や朝倉家に協力し、信長に対抗していた。

斎藤道三

  1. 乞食坊主が油屋の養子に入って、しまいに大名にまでなった、豊臣秀吉に次ぐ成り上がり野郎。
    • ただし最近は、油屋の養子から土岐家(もしくは長井家)の重臣になった父親と、土岐氏を追放して美濃一国を乗っ取った息子の、二代がかりの成り上がりだったという説が有力。
      • だとすると、一代での成り上がり距離では、毛利元就あたりのほうが大きいかも。
  2. マムシの異名を持つ。
    • 華々しい戦争ではなく、内部工作や暗殺などの手段を主に用いて成り上がったため。
  3. 織田信長の義父。
    • 娘を信長に嫁がせた。
      • 娘の名は「お濃」「濃姫」として知られるが、これは「美濃出身の姫」というだけの意味。
      • 「帰蝶」という名も知られるが、あんまりちゃんとした根拠はない。
      • けっこう長生きしたらしいのに、早々に殺してしまっている本も多い。信長の子も産まず、ほとんど事跡が無いからだろう。
        • 女児を産んだという説もある。
      • 信長に騙されて父・道三の重臣を讒言し殺した、という有名な話があるが、作り話らしい。
    • 信長と対面してその器量に驚き、「わしの子や孫は、奴の馬前にひれ伏すことになるだろう」と予言した。
      • 孫の龍興の代に、信長に亡ぼされたあとに作られた予言である可能性が高いが……
      • 当時の信長は、周囲の敵と戦うために、わざわざ道三から兵を借りなければならないくらい弱体だった。
        • なお道三最期の長良川の戦いの折、息子義龍の用兵っぷりを見て「あんなこと言わなきゃよかった」と後悔したとか。
  4. 楽市楽座の制度を、信長より先に導入していたという説もある。
  5. 息子に攻め殺された。
    • 本当の息子ではなく、追放した主君・土岐頼芸の子であったという説が有力。
      • 頼芸を追放した時、その愛妾を自分のものにしたが、すでに妊娠していたということらしい。
  6. 道三は出家後の法名。出家前の名前は利政。

斎藤利三

  1. 苗字は同じだが、斎藤道三とは別系譜だ。
    • 藤」と表記されることも。
  2. 生没年が信長と同じだ。
  3. 山崎の戦い後の仕打ちがメチャクチャだ。
  4. 「りさん」とかじゃなくて「としみつ」だ。

斎藤義龍

  1. 父・道三と弟たちを攻め殺して美濃を奪取。
    • 本当は道三の子ではなかったと言われる。道三の項目を参照。
  2. 軟弱な武将みたいに思われることが多いが、実はそんなことはない。
    • あの抜け目のない道三に少しも気づかれずにクーデターを謀り、しかも成功したわけなので、かなりの智将であったことは確か。
    • 信長は道三の死後、ちょくちょく美濃に攻め寄せたが、義龍が生きている間は、はっきり言って手も足も出ずに撃退され続けていた。
      • ちょっと誇張が入っている。義竜に代替わりした時点では、信長はまだ尾張統一もできていなかった。そして統一できかけた頃にちょうど義竜が死んだ。
    • 35歳という若さで病没してしまったのが痛恨のきわみ。
      • 長生きしていたら、竹中半兵衛あたりを片腕に天下盗りに乗り出したかも。
    • 道三も、長良川の合戦での義龍の指揮ぶりを見て、「あやつの才を見抜けなかったのは己の不覚」と言い残している。
  3. 身の丈六尺五寸、膝の厚み七寸という記録が残っている。相撲取りだね。
    • とすると早死にしたのは、高血圧から来る心臓病のせいだったかもしれませんな。
    • 体格の大きさ故に、馬に乗っていると馬の脚が六本に見えたとか。
      • 7本に見えることもあったらしい。
        • スレイプニルかよww

榊原康政

  1. 「それ秀吉めは野人の子~」に始まる檄文で秀吉をマジギレさせたことで有名。
    • 怒った秀吉は康政捕縛に十万石の懸賞金を懸けた。
    • 後に家康が関東に移封されたときの秀吉とのやり取り。
      • ヒデ「榊原にはどれほど与えるつもりかの?」ヤス「上州に7万石を」「ほう、余が10万石の賞金をかけた男を、7万とは安く見たのう」「わ、わかりました。10万石与えます」「てかヤスちゃん、もう少し家臣に禄やっても良くね?」
  2. 徳川四天王の中で一番地味。
    • だが、それがいい。
  3. 本多忠勝同様、本多正信とは仲が悪かったらしい。亡くなる間際、正信に対して「俺も肝が腐って死ぬ」と当て擦りのようなことを言っている。
    • でも「家中で争うのは徳川家のために良くない」と身を退いている。見事。

坂崎直盛

  1. 元 宇喜多家家臣。
    • というか、親類。
      • 秀家のいとこ。
  2. めちゃくちゃ、かわいそうな人。千姫に振り回された。
    • 最初の悲劇は大阪千姫を助けてタヌキの許しを得て許嫁になりかけたにもかかわらず、その時の火傷を千姫に嫌われた事に始まる。
    • しかし、それでもめげずに、千姫と京のボンボンとの縁談をまとめて婚約まで取り付けたのに、千姫が坂崎が嫌いなばかりに、それを破談にさせるべく本多忠刻に嫁ぐと急遽決める。
    • それでは、流石に武士の名が廃ると焦った&腹立てた坂崎は怒って、千姫拉致を画策するもバレてタヌキに化かされた挙句、食い殺された。
      • このとき坂崎の屋敷にだまし討ち――ではなく、説得の使者として赴いたのが幕府剣術指南役・柳生宗矩。
      • 柳生家の家紋である「柳生二蓋笠」は、この功績で坂崎家の家紋を譲り受けたものと言われている。
    • 公家との縁談は間違いないが、自身の許嫁うんぬんはガセらしい。
      • そうだったんだ。千姫と本多さんにまつわる小説読んだ時にも似た話が出てたからてっきりホントかと思った。他は結構好意的だったし、時代考証も結構綿密だったもんで。
  3. 宇喜多家時代も、秀家の妻・豪姫のわがままに振り回されて、反乱の末に出奔した。つくづく女運のない人だ。
    • 今に生まれてりゃ、間違いなく現実世界から逃げてネット社会に逃避してる気がする。そして、そこで何かで崇められる存在になるか、荒らして名を残すか。

佐久間信盛

  1. 信長に追放された事でやたらと有名だが、実際には必死で働くか高野山行きか選べと言われ、自分で後者を選んだ。
    • 本能寺の変の遠因になったとも。
  2. 信秀の代からの重臣としては林秀貞、柴田勝家などが信勝(信行)を押していた中で、信長を支持していた数少ない一人。
  3. 信長が本願寺とにらみ合っていたころは、サルや鬼を抑えて最高位の家臣だった。

佐竹義重

  1. 自分も鬼だが配下にも鬼がいた。
    • 「鬼真壁」こと真壁氏幹。2mの木杖「樫木棒」を得物とした武将で、霞流という棒術の流派も興している。
  2. ふかふかの暖かい上等な布団が大嫌い。
    • 「秋田は寒いだろう」って義宣が布団を贈ったけど、暑くて寝られないと結局1回しか使わなかった。
      • どこまで暑がりなのか、あるいは異常なまでに太ってたのか?
  3. 息子の佐竹義宣と肖像画を混同されることがある。
    • 本人の肖像は鎧姿ばっかし。
  4. 常陸の美人とハタハタを秋田に持ち去った。
  5. 武田信玄に対し、「うちの方が源氏の嫡流に近いんだぞ~」と手紙を送ったことがある。
  6. 上杉謙信からいい刀をもらったが、義宣がそれを削って脇差にしちゃってガッカリ。
  7. この人の肖像画、片足が描かれていない気がするんだが、なんで?
    • 足を組んでいるから。そしてその肖像画は兜の形から見るに恐らく息子の義宣。見分け方は「兜の前立てがもこもこかそうじゃないか。」
      • 情報ありがとう。「毛虫は後ろに進まないから」って前立てに毛虫を模したってやつですね。
  8. 北条兵を一気に7人ぶった斬ったり、騎馬武者を兜ごと両断したら馬の鞍に沿って八の字に割れたなどの武勇伝も持つ。

里見義堯

  1. 安房の大名だが、里見といえば八犬伝の方が有名だと思う。
  2. 水軍の将。里見水軍といえば関東では名うての強者軍団だったんだが。
  3. 従兄を殺して家督を奪ったり、里見家の記録を改ざんしたり、同盟者を戦場で見捨てて逃げたりと、かなり悪どいこともやっている。

真田信綱

  1. 真田幸隆の嫡男で真田昌幸の長兄。
  2. 父・幸隆同様武田二十四将として重宝されていた。
  3. 長篠の戦いで討死。息子の信光が幼少だったこともあり真田家の家督は昌幸が継ぐこと。
    • その後信光は徳川に仕官。越前真田家の祖となる。

真田信之

  1. 真田昌幸の嫡男で真田幸村の兄。と、まずこういう紹介をされるくらい影が薄い。
    • さらに父と弟が徳川に逆らい続けるわ、徳川についたのに幕府には睨まれるわ、藩の後継者争いで隠居から復帰させられるわ、苦労続きの生涯を送ることになる。
    • だが、真田家が徳川の幕藩体制に組み込まれて生き残ることができたのは、間違いなくこの人の功績。
      • いくら本多忠勝の娘婿とはいえ、父と弟があれだけ徳川に抵抗しておいて、譜代大名格を確保するのは並大抵の事では無かっただろう。
        • もともとの名前、信幸から信之に改名したのは関ヶ原の合戦時に東軍につく際「あんのバカヤロー!あいつらのせいで俺ぁえれぇ目に遭うじゃねぇか!もう幸の字は名乗らねぇよ!」と怒っていたからとも。
    • 最近はその苦労人キャラが、「殿といっしょ」や戦国ちょっといい話・悪い話などで広まって、知名度と評価が上がりつつある。
      • 実際のところはかなり穏やかな性格をしていたそうなので、寿命が示すように余りストレスを溜めない性格だったのだろう。
  2. 通称、戦国一胃痛の似合う男。
    • 本当に胃痛持ち。大坂の陣は胃痛(癪)で寝込んでいて参陣できず。
      • 胃痛になる諸事情を徳川家で知らん家中は無かったので「仕方なかろう」で終わったそうだが。
  3. 93歳の長命だったが、苦労がなければあと30年は寿命が伸びただろうというのが専らの評価。
    • なおあんまり長生きしたものだから死の間際の息子から「藩主の権限渡してもらえない」と知らされたときはブチギレたらしい。
  4. 家康拝領の短刀を藩の宝として秘蔵していた。長持に納めて常時見張りを立て、家老でも開けることを禁ずる念の入れよう。
    • 明治になって長持を開けてみると、関ヶ原前の石田三成をはじめ、徳川家を敵にしていた頃の危険な書状がゾロゾロと。
    • 父や弟と同じ反骨精神を、自分の生涯どころか徳川の世が終わるまで隠し通した。真田の男はやはり非凡だった。
  5. 譜代大名や老中に招かれて武辺話をせがまれたり、子供の具足親(戦のときの後見役)を頼まれたりと、ファンは多かった模様。
  6. 正室は徳川四天王・本多忠勝の娘。逸話の数々から「賢婦人かつ鬼嫁」がデフォ。
    • 忠勝が第一次上田城合戦の際に信之を気に入り、娘の婿に望んだと言う話もある。
      • 俗説では、忠勝は娘と複数の若い武将との見合いを設定。そこで娘はわざと無礼な振る舞いをするが、忠勝の娘なので皆黙って我慢している。信之だけが「なんだこのバカ女。こんなとんでもない女が忠勝殿の娘であるはずがない。」と叱りつけた。これで忠勝も娘(小松殿)も信之に惚れこんだ。
        • 本当は上田合戦にて対立した徳川と真田を和解させるため、秀吉の案で政略結婚が行われた。
    • 舅(昌幸)と義弟(信繁)が西軍側になると決めた後、夫の留守を守る沼田城に現れて「孫の顔がみたいから中に入れてくれ」と言うが臨戦態勢を敷いて拒否。その後で城外の寺に退いた舅の前には子供たちを連れこっそり現れて面会させ、食事と酒を振舞った。それまでは「徳川方の気に食わない嫁」と見ていた昌幸は、「武将の妻の立場と嫁としての心得をよく守っている。信之は良い嫁を貰った。」と感心した。
    • 小松殿を娶る前は伯父・真田信綱の娘清音院殿を正室としていた。
      • 嫡男・真田信吉の生母。小松殿を迎え入れた後も側室として置いている。
  7. 穏やかな性格だったと言われているが、松代への移封は流石にマジ切れらしく、上田の検地資料を焼き捨てたあげく上田城の植木やら灯篭やらを全て持ち去っている。
  8. 嫁が、とんでもなくおっかなかったらしい。
  9. 池波正太郎の大河小説にして、1985年にNHK新大型時代劇(準大河ドラマ)の第2作目として放送された名作『真田太平記』の主人公でもある。
  10. 責任感のあるとても有能な人物。弟の影に隠れがちだが、関ヶ原では判断を誤らず真田家を守り、長寿を全うした。また弟に負けずとても義理堅く、徳川への忠義を貫いた。真田家を守ったことは父 真田昌幸と共通している。真田といえば真田幸村のイメージがあるが、実はこっちが父 真田昌幸の意志を継ぐ真田の本家

真田昌幸

  1. 武田信玄の配下の信濃衆のひとり真田幸隆の三男。
    • 三男だったので武藤家に養子に入り、武藤喜兵衛を名乗っていたが、長篠の戦で兄二人が戦死してしまったので、真田の家を継ぐ。
  2. 卓越した情報収集能力と知謀で信玄・勝頼に重用されたが、いかんせん外様なので、武田家中での発言力はあまり強くなかった。
    • 敗亡必至になった勝頼を、昌幸の居城の沼田に引きとって再起をめざそうという案もあったようだが、勝頼は譜代の小山田信茂を頼り、結局裏切られて落命した。
      • 当時の常識でいえば譜代を頼るのが常道なので、後世の作り話の可能性が高い。
      • 沼田ではなく堅城・岩櫃城。ただし、その頃にはすでに北条氏とも臣従することを含めた接触をしていた模様。
    • ただし、外様の中では筆頭クラスの序列。
  3. 徳川家と2回戦い、2回とも勝利した。
    • いずれも少数の兵で圧倒的大軍の徳川を退けた。
      • 地勢を熟知して巧みに伏兵などを配したから。
        • はたして真っ向勝負の野戦で家康に勝てるだけの実力があったかどうかは微妙。
          • 動員能力が違いすぎるからねぇ…。互角の兵力だったらどうなのかってぇのはifの話でどうしようもないし。
            • いや、シミュレーション小説で、昌幸が大坂に入って全軍を指揮し、家康と対決するってパターンがよくあるのでwww
          • というか野戦真っ向勝負なら単にリソース比べなわけで、実力もへったくれもないじゃん。
    • 一種の「神話」となり、本人もそれを自覚していた。
      • 九度山配流中、東西手切れの際に徳川軍を叩きつぶす策を立てていたと言われるが、それも「ワシが大坂に入ったと聞けば、大坂が勝つと見る大名も多くなるだろう」という、「神話」を前提にした作戦だったようだ。
        • 子の幸村に、「この策はワシにならできるが、そなたは広く名を知られていないので無理だ」と言った。
        • 単に楽観的なだけともとれる。配流されてもあっさり許されるという甘い予想しており、そう思ってもいないと辛い流人生活に耐えられなかったとはいえ、自分のしたことが社会にどう受け止めらるかの自覚が弱い。
          • 社会じゃなくて徳川家にだろ。しょうがないじゃん実際それまではいろいろと利用価値が高かったんだから。「キーマンは私なんだよ!」byマスターキートンに出てくるロシア人工作員
      • 「神話」になったのは、後世の真田氏の編纂書(当然真田氏の功績を誇大に記している)や軍記物、浮世絵、ドラマの影響が強い。同時代からそこまで評価されてたかはかなり疑問。
        • やはり、息子の信之が10万石の「大」大名家(万が2桁の大名は実は余りいない)として存続したことが大きい。反対に家が滅んだため過小評価されがちな、三好氏最上氏等と比べるとよくわかると思う。
    • そんなこんなで徹底的な徳川嫌いと思われているが、実はそういうわけでもない。
      • 本当に嫌いなら、長男の信幸を本多忠勝の娘と結婚させたり、家康のもとに出仕させたりはしないだろう。
  4. 「表裏比興の者」と呼ばれた。
    • 「比興」は「卑怯」と同義だが、当時は武将に対しての褒め言葉だったとか。
      • 「比興」は「卑怯」と違うよ。字面どおり「どっちが興っているかを比べる」という意味で良いかと。
        • 前近代では音が同じなら漢字にはあまり拘らなかった。また、すぐ前の「表裏」は「裏表がある」という意味で、この言葉を秀吉は昌幸に対し頻繁に用いている。第一「どっちが興っているかを比べる」だと文意が通らない。ここはやはり卑怯者と解釈したほうが妥当だろう。
        • 自分の領地を守るために次々と主を変える昌幸を、全国制覇を目指し大名の組織化を目論んだ秀吉からすれば胡散臭い存在だったのだろう。しかし、その地元への強いこだわりが昌幸の魅力でもある。
    • 秀吉が言ったとも伝えられるが、具体的には石田三成の書簡にある言葉。
  5. 石田三成とは、嫁さん同士が姉妹。
  6. 天正10年(1582年)からの動き:武田家家臣 → 3月武田家滅亡 → 織田家臣従 → 6月本能寺の変で織田信長死亡 → (一瞬だけ)上杉家 → 北条家 → 徳川家。
    • 1年で5人の主君を変える表裏比興っぷり。ちなみに徳川家からまた上杉家、そして豊臣家と変遷は続く。
  7. 伊香保温泉の石段などを整備した。
  8. 実はとても義に厚い人物。全ては真田家を守るためと主君 武田信玄・勝頼のため。謀略に長けていて何度も主君を変えていると言われているが、それは元々の主君 武田家への忠義を貫き武田家が治めていた領地を取り戻すため、そして先祖代々続く真田家を守るため。真田家を滅ぼすことは先祖と武田家両方の恩に背くことになる。
  9. 若いころ武田信玄から「俺の目」と呼ばれるほど頭がキレた。

真田幸村

真田幸村像
  1. 実際に幸村と名乗ってた形跡はないらしい。資料上もっともよくでてくるのは信繁らしい。
    • でも真田家の文書にも幸村と書いてあるらしい。幸村の名前が定着しすぎて、子孫でさえつい乗せられてしまったとか。
      • 織田信勝(有名な名乗りは信行、信長の弟…ってみんな知ってるか)と同じパターンか。
        • 親父 (昌幸) 的には、武田信玄の頃の甲斐の副将と言われた武田信繁のように、兄信之を補佐してほしかったんだとか。
  2. 関ヶ原の合戦では父・昌幸と共に西軍(兄・信幸は東軍)につき、敗戦後浪人してた。が、大坂の陣では大坂方につき、多様な作戦で東軍(徳川軍)を苦しめた。夏の陣で家康本陣に攻め入って備えを手薄にさせたが、あと一歩のところで武運つたなく戦死。
  3. 歴史シミュレーション小説では、幸村が味方した側が必ず勝つことになっている。
    • 真田一族は、創作物で優遇されすぎ。
    • 負けるにしても華々しく散る。
  4. 高野山の麓、九度山に配流されてからは貧乏暮らし、親戚に「焼酎送ってくれ」と手紙で無心している。大阪の役がなければフツーのおっさんだったに違いない。
    • それどころか「白髪になった」「歯が抜けた」などと颯爽としたイメージをブチ壊す愚痴だらけの手紙も書いてる。
    • まあ、愚痴ばかりこぼしている貧相な中年男が、ひとたび甲冑を身にまとうと颯爽としたいくさ人に大変身、というのも、それはそれでカッコいいが。
  5. 配流されているころに作っていたのが「真田紐」とか(※噂の域を出ない情報)。これに似ていたのがサナダムシ
  6. 嫁は大谷吉継の娘。
    • 柴錬の著作によればブスだったらしい。
  7. ショー・コスギに相棒の猿飛佐助がネタにされてしまった。
  8. 猿飛を含め、真田十勇士は架空か誇張だが、かっこいいから問題なし。
    • 真田一族のイメージに合う。
  9. 大坂夏の陣前夜に、娘(阿梅ら)・息子(幼名・大八のち守信)を伊達家臣の陣へ送り込んだ。今の仙台真田氏は幸村の血統が受け継がれてる。
    • 伊達ぐらいの、大大名でかつ家康の信頼もあって、譜代ほど生真面目でない家に送ったという辺りは、父親に似てちゃっかりしているといえる。
    • 受け入れた伊達家臣は「鬼の小十郎」と称された片倉重長。阿梅を娶って守信を家臣とした(その後守信は伊達藩士に)。守信の息子・辰信から真田姓に復姓(守信は江戸幕府に睨まれるのを恐れて終生片倉姓を名乗った)。
  10. 一応大阪夏の陣で死去した
    • はずなのだが、秀頼の遺児を伴い薩摩へ逃れたとか、長州or肥後へ秀頼と逃亡したとか色々な言い伝えがあり、正確な享年は誰にも分からない。
    • 真田の抜け穴の跡というのが存在する。入り口から30mもいかないところで崩落しているらしいが、元々は大阪城内にまで通じていたらしく、これが逃亡ルートになったとか。
  11. 大阪城に真田丸という出城を築いて東軍を脅かしたが、秀頼の乳母の息子である大野治長には「城外に砦を造るなんて、あいつはいつ裏切るか分からん」と言われまくっていたらしい。
  12. ヒーロー。元々国民的ヒーローだったが大河ドラマ「真田丸」でそれが一躍広まることに。
  13. 大阪の陣までは特に目立つ活躍はない。悪い言い方をすれば、日本史上最大の一発屋といえる。

酒井忠次

  1. 徳川四天王の筆頭。
    • …のはずだがある意味もっとも影が薄い。
      • つか他の3人と比べて世代が前なので、彼らと一括りにするのはどうかと。大久保忠世とかならまだしも。
        • だから四天王とは別に忠次を外した「三傑」というのがある。実際三傑のほうが古くから使われている。
  2. 家康の長男・信康が死に追い込まれる直接の原因を作った男として、あまり評判は良くない。
    • 信康の嫁(織田信長の娘)からの訴えで、信康が武田に内通していると疑った信長は、忠次を呼びつけて12箇条の容疑について問いただしたが、忠次が釈明できたのは2箇条だけだった。信長もこれでは信康を罰するしかなかったわけで。
    • なぜ釈明できなかったかについては、いろいろな説がある。
      • 信康がホントに武田に通じていたから、という説。
      • 忠次が口べただったから、という説。
      • 信康と忠次がもともと反目していたから、という説もある。
        • 信康は信長流の中央集権に憧れていて、彼の代になったら信長を真似た政策を進めて、家臣たちの既得権が侵されるのではないかという不安があったとも言う。だから家臣筆頭の忠次としては、この機に若殿にはご退場願おうと考えたわけ。
    • 後年、忠次が家康に、自分の子の加増を訴えると、家康は冷たい眼をして「その方でも我が子が可愛いと思うのか」と一言。忠次は言葉もなかったらしい。
  3. 長篠の戦いの勝利の立役者。

志賀親次

  1. 島津義弘曰く「天正の楠木」。破竹の勢いで北上してくる島津軍を迎撃し、斜陽の大友家を支えた。
  2. この人が朝鮮出兵で主君大友義統に進言したことが大友家改易の切欠となったそうだが、真相は不明。
  3. キリシタンだったともいわれている。

柴田勝家

  1. 禿ネズミの双璧をなす武将。
  2. 「鬼柴田」の異名をとった。織田信長没後の後継者決定会議で一族の織田信雄を推すが、豊臣秀吉の推す三法師(信長の嫡男信忠の子、のちの織田秀信)が後継者に決まってしまい、秀吉と対立する。
    • 推したのは織田信孝。
    • 他の出席者(羽柴秀吉・丹羽長秀・池田恒興)が全員三法師を推した。信雄を推す人は居なかった(涙)。
      • もちろん秀吉の根回しのせいだが、嫡流重視という考え方が徐々に浸透しつつあった時代ということもあるかもしれない。
  3. 上記の織田家後継者決定会議(清洲会議)で秀吉に負けたのを恨んで賤ヶ岳の合戦起こすが、大敗北。居城の北ノ庄城へ何とか逃げ込んだが、秀吉軍にフル攻撃されて自刃。
  4. 籠城戦のときに、水が無くなったときに水瓶を割って背水の陣の意気を示したとか、米を流して馬を洗うフリをして、敵に水はまだあるように見せかけたとかいう逸話がある。でもこの逸話、他の人でも聞くんだよなぁ。
  5. 秀吉以外はあんまり言われないけど、この人め織田家の家臣たちのほとんどは身分が低い。
    • 「柴」が「斯波」に通じることから、この人は尾張守護斯波氏の分家だった説もある。つまり織田氏とは同格かそれ以上。
      • まずありえんな~
  6. 信長が若い頃は信行寄りだったが、結局は信長に寝返って信行を騙まし討ちにした。

新発田重家

  1. たまに柴田とごっちゃになる。
  2. 数々の武功を挙げて上杉景勝を支えたのに、恩賞が少なかったことに立腹して反乱を起こす。7年間にわたって戦い抜いたが、配下の討ち死にや寝返りで、遂に敗戦。切腹して果てた。
    • 反乱の序盤では地の利を活かした戦いを展開し、かつ織田、蘆名、伊達といった周辺の有力大名と連携して上杉景勝を窮地に追いやる事もあった。
  3. 天地人でまさかのスルー。一部のファンが憤激したとかしないとか。
  4. 上杉家が豊臣秀吉に臣従するきっかけを作った人物でもある。

島左近

  1. 筒井順慶の家臣だったが、順慶の死と共に浪人し、何が気に入ったか石田三成に仕える。
    • 三成は自分の知行の半分を左近に与えたという。そこまで買ってくれたことに感激したのかもしれない。
    • その後、三成の所領は増えたが、左近は最後まで加増を辞退し、最初の知行(2万石とも1万5千石とも)のままだったそうな。
      • 三成の所領は一番多い時でも約20万石。その1割は島左近の持ち分なんだから家臣ながらも多いと思ったのかも。
  2. 名前はよくわからない。
    • 長らく「勝猛」とされていたが、最近「清興」という名前で書かれることが多い。一文字も一致してないじゃん。
  3. 関ヶ原の戦いで奮戦し、戦死。
    • 生存説もないではない。
  4. 『信長の野望』の初期シリーズではわりと普通の、あまり特色のないパラメータ。隆慶一郎の『影武者徳川家康』が売れた途端に、戦闘力が異常に高くなった。
    • 後に『SAKON』というスピンオフ(?)漫画が作られた。
  5. 筒井家の時代は松倉右近とともに右近・左近と呼ばれる名家臣だったらしい。
    • 余談ながら松倉さんちの子孫は島原の乱の原因になった圧政で有名。
  6. 関ヶ原の合戦での猛攻は凄まじかったらしく、戦後に黒田家の兵たちがSPHDを発症した。
    • 左近の「かかれーー」の叫び声を夢に見てうなされた。

島津家久

  1. 島津貴久の四男。3人の兄とは異母兄弟の間柄にある。
  2. 島津のお家芸のひとつ「釣り野伏」のスペシャリスト。
  3. 伊勢神宮の参拝のために上洛したことがあり、京では馬上で居眠りする信長の姿を見たという。

島津忠恒

  1. 島津義弘の三男で、初代薩摩藩主。
  2. 江戸時代に入った後、徳川家康から一字拝領を受けて叔父と同じ島津家久と改名している。
  3. かなり性格に難のある人物で、特に正室である亀寿との不仲はすごいものがあったという。
    • 残っているエピソードを見る限り陰湿と言わざるを得ない。本当にあの鬼島津の息子?
  4. 大坂の陣における真田軍の評、「真田日本一の兵(さなだひのもといちのつわもの)」と手紙に書き残した人物でもある。が、島津軍は大坂の陣(冬の陣・夏の陣双方)に参加してなかった、というオチがつく。

島津豊久

  1. 島津義弘の弟・家久の子。
  2. 妖怪「首おいてけ」
  3. 関ヶ原での討ち死にくらいか。近年は某マンガのおかげで知名度UP。

島津義久

  1. 島津義弘の兄で、島津家十六代当主。
    • 豊臣に降伏した後、出家して龍伯と号した。
  2. 3人の優秀な弟がいた事もあってか、本人はあまり遠征せずに領内の統治をメインにしていた。
  3. 最初の正室である花舜夫人は父・貴久の妹。つまり叔母と結婚している
    • 島津ではないが、藤原道長のころなんぞよくある話。天皇と娘を結婚させ息子を産ませ、その息子が天皇になるとまた別の自分の娘と結婚させ・・・

島津義弘

  1. 知名度は高いが戦国大名といっていいのかどうかよくわからない人物。一応島津家十七代当主ということになってるがホントに家督を相続したかどうか良くわからないらしい。一方で戦国時代の島津家を代表する人物なのは間違いないのだが。
  2. 関ヶ原では孤立して大ピンチだったが、捨て奸でなんとか逃げ切った。
    • 島津豊久や長寿院盛淳が影武者となり、討ち死にしたことによる。捨てがまりは釣り野伏せとともに島津のお家芸と言える。どちらも鉄砲隊の有効活用とともに、部隊を見殺しで成り立つ戦術。。。
      • 命からがら薩摩まで逃げ帰ったが、帰るとすぐに家康に使者を送り「西軍についたことに文句があるなら薩摩まで来い。何なら一戦交えてもいい」と挑発したので本領安堵。この度胸、さすがは鎌倉時代以来薩摩を領するだけある。
  3. 島津家の傍系が島津製作所を興したのは有名。
    • 島津製作所の人は島津家の家系じゃなくて、参勤交代か何かの時に島津家を助けたから苗字と家紋を拝領したんですが。
    • ちなみに島津直系は島津興業を経営している。もちろん島津製作所とは関係ない。
  4. チェストー
  5. 朝鮮出兵時は向こうの国の人にも「鬼石曼子(鬼島津)」と言われ恐れられた。
    • これはちょっとあやしい。向こうだと「鬼」の意味も違うし。例:日本鬼子
  6. 関ヶ原の時、もっと兵力欲しかったのに兄貴(義久)は送ってくれなかった。
    • しょーがねーだろ、本国の内乱(庄内の乱)が終ったばかりで、ない袖は振れない状態だったんだから。
    • で、結局、
      • 兄「(外に聞こえるように大声で)ああ困ったなあ! 藩として兵は出せん! だが弟のところに勝手に行くなら、それは仕方ないなあ!」
      • 結果、500余の将兵が「勝手に」上方に向かい、義弘に合流することになる。
  7. 東軍につこうと伏見城の籠城に参加しようとしたのに城を預かってた鳥居元忠さんに断られ、西軍につくことに。
  8. 家康本隊が石垣城近辺に進軍してきたとき、夜襲を提案するが、石田三成さんに一蹴される。
    • なんかこの辺の成り行き、すごく不憫。
  9. 弟の名は家久。息子の名も家久。
  10. すごい愛妻家だった。
    • 妻宛に「きのう、君の姿を夢に見た」「どんなことでもいい。前と同じでも構わない。君からの便りが欲しい」などという恥ずかしい手紙が現存している。ちなみにこのとき五〇代。
  11. ネコ大好き。朝鮮にも連れて行った。
    • 瞳孔の大きさで時間が分かるから、だと。

陶晴賢

  1. 大内家の重臣だったが、謀反を起こして主家を乗っ取り、下克上の体現者として知られる一人。
    • 実は乗っ取ってはおらず、大友氏から一応名目上の主君を迎えている。
  2. 謀反人ではあるが、彼に同情する人は多数。
    • どうも大内義隆がふぬけになったうえに相良武任が気に入らないという共通の考えがあったらしい
  3. 元々は大内氏の一族。
  4. 元の名前は「隆房」だったが、次の主君として迎えた大友晴英(大内義長)から一字拝領して「晴賢」となった
    • 隆房の名は大内義隆から「隆」の字を貰っている。
  5. 「信長の野望・武将風雲録」に於いては、「実力モード」か「観戦モード」にしていると、義長に対しても反旗を翻して叩き潰す。

鈴木元信

  1. 政宗の家臣。主に政務を担当。
  2. いまいち出自がはっきりしない。元は京都の茶人だったと言われているがその割には財務能力などが優秀すぎるので雑賀衆の出身という説も。
  3. 伊達家臣団の中でも特に政宗に傾倒していて、政宗が天下を取ったときのために憲法まで用意していた。
    • 自分が死ぬ間際にさすがにもう無理と思ったのが焼き捨てさせたそうである。

仙石秀久

  1. ほとんど無名だったが、漫画『センゴク』のお陰で知名度が上がった。
    • 戦国好きは戦国好きで「せ、せんごくひでひさぁ~?な、なんでぇ~?」と驚いた。いやマジで。
      • 同じ出版社古田織部に比べたらマシだろう。
        • 奇しくも織部の長男と秀久の娘は夫婦だったりする。
  2. 長宗我部ファンからは蛇蝎の如く嫌われている。
    • 九州攻めの先鋒として四国勢が行ったが、その軍監としてつけられたのが秀久。
    • 長宗我部元親や十河存保など歴戦の四国勢は、島津軍の伏兵を見抜いて慎重論を唱えたが、功名にはやる秀久が突出。元親や存保はいやいやながら従わざるを得なかった。
    • おかげで戸次川の戦いで惨敗、十河存保、元親の長男の信親などが戦死してしまった。
    • さらに情けないことに、秀久はそのまま戦場放棄し、淡路島まで逃げ帰ってしまった。元親はなんとか敗兵をまとめて退却したが、愛する長男をアホな戦闘で失ったショックで、以後廃人のようになった。秀久が長宗我部ファンに嫌われるのも無理はない。
    • 「仙石(せんごく)は四国(しこく)を指して逃げにけり 三国(さんごく)一の臆病の者」と落首に書かれ、面目を失う。秀吉も激怒して秀久を改易してしまった。秀吉は長年の仕えていたためか温情をかけたと思える。正直切腹されてもしゃーなし。
    • 長宗我部氏は滅亡したのに、仙石家はちゃっかり幕末まで存続したのが、一番の無念なのではなかろうか。
      • ちなみに真田の後の信州小諸を領有した。
  3. 石川五右衛門を捕まえたらしい。
  4. 箱根"仙石原"の名前は仙石秀久が元になっているとも言われてる。
  5. 権兵衛だけど名無しではない。
  6. 北条攻めで全身に鈴を付けるという目立つ格好で出陣、武功をあげて秀吉参加に復帰。
  7. 兵庫県の出石がソバで有名になったのは、この人の子孫が信州小諸から転封になったため。

宗義智

  1. 対馬唯一の大名。明らかに日本人だったり羽柴に忠誠誓ったりしちゃってるのに、どっかの国の人はしらんぷり。
    • ただし、悲しいかな小国のため朝鮮にもいい顔していたはず。下にもあるように戦争回避や貿易再開のための対応を鑑みると「忠誠」と言い切るのはちょっとつらい。「力の強い方にしゃーなしに」の部分もなくはないはず。
  2. 秀吉の「朝鮮に攻め入り、果ては明をも攻め取ろう!」という思いつきのせいで、交易で付き合いのある朝鮮と交渉。うまくいかずに文禄の役・慶長の役発生。
    • 立場上、朝鮮にも日本にもいい顔をして事態の沈静化(秀吉の気が変わるか、ぶっちゃけ死ぬか)を待っていたが、事態が抜き差しならないところまで進んでしまったので、朝鮮に一撃くらわせて早期講和するしかない、と方針転換。だが結果は……。
  3. 文禄・慶長の役の後、貿易再開のためにはなりふりかまわず。講和条件の改ざんから、国書の偽造だってやっちゃうぞ!
    • 結局国交が正常化したのは、義智の死後、徳川の代になってから。

十河一存

  1. 三好元長の四男で、三好長慶、義賢、安宅冬康の弟。
  2. 「傷口に塩」を本当にやった男。
  3. 松永久秀に殺されたといわれるが、本当かどうか。
    • むしろ彼の進言を無視して事故に遭ったと考えたほうがいいかと。
    • まあ仲が悪かったというのは本当らしいが。
  4. 「いちぞん」と読みがちだが「かずまさ」と読む。
    • 「かずなが」と読む場合も。

関連項目

戦国武将
あ~お/か~こ/さ~そ/た~と/な~の/は~ほ/ま~わ