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→[[バカ人物志/中国]] | |||
*「皇帝」と称さなかった君主。[[春秋]][[戦国 (中国)|戦国]]時代の国君も含みます。 | |||
*正史に認められていない自称皇帝もこのページで扱います。 | |||
# | ==古代の王侯== | ||
# | ===禹王=== | ||
# | #夏王朝を築いた。 | ||
#黄河の治水にはじめて成功。 | |||
#*自分で歩き回って測量や工事をおこない、大変な苦労をした。 | |||
#*そのため、後世ではやや軽侮されるところも。 | |||
#**「えらい人は、自分でからだを動かして働いたりしない」というのが中国人の考え方なので。堯や舜に較べると一段下という感じ。 | |||
#王位を重臣の「益」に譲ろうとした。 | |||
#*当時の王様は、気苦労が多いばかりで、あんまり実入りのない役職だったらしい。だから子供に継がせようとは思わなかったのだろう。 | |||
#*しかし人々は「益」では納得せず、禹の息子の「啓」を押し立てて王様にしてしまった。 | |||
===桀王=== | |||
#夏王朝最後の王様。 | |||
#頭は良く、腕力もすごく強かったらしい。 | |||
#美女「妺嬉」に溺れる。 | |||
#*この美女、絹を裂く音(裂帛の響き)が大好きという変な趣味があった。 | |||
#[[殷]]の最後の王・紂王といろんな意味でキャラがかぶり過ぎ。たぶん紂王より後で作られたキャラと思われる。 | |||
===湯王=== | |||
#夏の桀王を倒し、[[殷]]王朝を築いた。 | |||
#桀王に呼びつけられて「夏台」というところに幽閉されたが、奇蹟の復活。 | |||
#[[周]]の文王といろんな意味でキャラがかぶっている。 | |||
#人々が3年越しの干魃に苦しんでいるのを見て自分の不徳を恥じ、我が身を生け贄にして雨を呼ぼうとした。 | |||
#*薪の山に伏して火をつけさせた。湯王の衣服に火が燃え移る寸前に雨が降り始めたそうな。 | |||
#*伝説とはいえ、民のために我が身を犠牲にしようとした殊勝な帝王は中国史上彼ひとりだけ。天子や君主の徳ということを、歴史を通じてやかましく言い続けたにしては寂しい限りである。 | |||
===武丁=== | |||
#[[殷]]の22代目の王様。 | |||
#殷王朝の中興の祖と呼ばれる。かなり衰えていた殷王朝の力を盛り返し、版図を拡げた。 | |||
#*「高宗」という、なかなか良い宗廟名を贈られた。 | |||
#文字を作ったのもこの王様の命令によるものだと言われる。 | |||
#*甲骨文字史料が、武丁以前のものは発見されていないため。もちろん、今後発見される可能性はある。 | |||
#奥さんも軍勢を率いて征戦に赴いたらしい。 | |||
#*「婦好」という人。「婦」は殷では最高の爵位で、特別な王后にだけ与えられた。 | |||
===紂王=== | |||
#[[殷]]王朝最後の王様。「受」王というのが正しいらしい。 | |||
#頭は良く、腕力もすごく強かったらしい。 | |||
#美女「妲己」に溺れる。 | |||
#酒池肉林、炮烙の刑、沙宮の動物園の造営など、独創的なイベントを数々考案している。 | |||
#長らく暴君の代名詞みたいな存在だったが、最近になって少し見直されている。 | |||
#*甲骨文の解読などにより、今までと違った人物像が見えてきたため。 | |||
#*実は信心深く、なおかつ果断に政治改革を試みた王様だったとか。 | |||
#*殷の故地とも言える東方で叛乱が相次ぎ、それを鎮圧しようと兵を向けている隙に、西から進出した[[周]]に足下をすくわれたというのが真相らしい。 | |||
#**現政権が前政権の悪い話を捏造するというのは(特に中国では)よくある事なので、この人が暴君という話もそうなのかもしれない。 | |||
===文王=== | |||
#[[周]]が[[殷]]を倒すお膳立てをしたが、実は王位にはついていない。 | |||
#*生前の呼び名は「西伯昌」。文王というのは息子の武王からの追号。 | |||
#紂王に呼びつけられて「羑里」というところに幽閉されたが、奇蹟の復活。 | |||
#*幽閉中、暇にあかせて易学の研究をしていたらしい。 | |||
#太公望を見出し、軍師として重用する。 | |||
#天下の諸侯のうち3分の2が帰服したので、いよいよ殷を倒そうと乗り出しかけたところで自分も死んでしまう。 | |||
===武王=== | |||
#文王の次男。 | |||
#*兄の伯邑考が紂王に殺され、スープにされてしまったので、急遽文王の後継者になった。 | |||
#太公望の策を用いて、牧野で殷軍を撃破、[[殷]]を亡ぼす。 | |||
#気苦労が多かったのか、天下を取って間もなく没。 | |||
===幽王=== | |||
#[[周]]の12代目の王様。 | |||
#美女「褒姒」に溺れる。 | |||
#*この美女、間違いの狼煙で集まってきた諸侯の軍勢がきょとんとしているところを見た時だけ笑うという変な趣味があった。 | |||
#*幽王は彼女を笑わせようと、何度もフェイクの狼煙を上げ、諸侯の軍勢に無駄足を踏ませた。 | |||
#*おかげで、本当に敵が迫った時、いくら狼煙を上げても軍勢が集まらず、ほうほうの態で逃げ出す。 | |||
#*イソップの狼少年そのまんまのエピソード。 | |||
#正室「申后」の産んだ王子「宜臼」を太子にしていたのに、褒姒の子に取り替えようとしたので、申后の父「申公」が激怒し、異民族「犬戎」を引き入れて幽王を攻撃。 | |||
#*前項の通り軍勢が集まらず、幽王は逃げ出したが、やがて捕まって殺される。 | |||
#*申公は宜臼を立てて「平王」とし、外祖父として権勢を振るおうとしたが、犬戎が思ったより獰猛で、首都・鎬京を荒らし尽くしたので、平王ともども逃げ出さなければならなくなった。 | |||
#*かくして「西周」は滅亡。以後は首都を東に遷して「東周」となる。 | |||
==春秋戦国の王侯== | |||
===斉の桓公=== | |||
#春秋五覇の第一号。 | |||
#*春秋五覇が誰と誰を指すのか、各種の説があって一定していないが、斉の桓公と晋の文公だけはどの説でも必ず含まれている。 | |||
#**同じ覇者でもこの人は配下をうまく使って覇者となったという感じで、晋の文公とは対極のような存在である気がする。 | |||
#若い頃は小白という名で、兄の襄公を怖れて国外逃亡していた。 | |||
#*襄公は'''妹萌え'''で、魯の桓公に嫁いだ妹の文姜と相思相愛。ついには魯の桓公を謀殺して文姜とちちくりあう。そんなこんなで斉の風紀は乱れまくり。 | |||
#*しかも襄公は粗暴な男で、親類や重臣にケチをつけては殺したり追放したり。小白も身の危険を感じて逃げ出した。 | |||
#*やがて襄公がイトコの無知に暗殺され、その無知も重臣たちに暗殺される。小白にも希望が出てきた。 | |||
#*同じく国外逃亡していたもうひとりの兄・糾に競り勝って斉君に即位。 | |||
#**この時、糾に従っていた重臣・管仲に殺されかかる。 | |||
#逃亡中ずっと支えてくれた重臣・鮑叔の意見を容れ、にっくき管仲を宰相として登用。これが思わぬ拾い物で、管仲の政策で斉は一躍大国の仲間入りをし、他の諸国に影響力を及ぼす覇者となる。 | |||
#本人の性格はけっこう享楽的でチャランボランだったらしい。 | |||
#*しかし、ひとたび人を信じればとことん信じ抜くという美点があり、ほとんどそれだけで覇者に昇りつめた観がある。 | |||
#*管仲に政務を任せきりにし、臣下が何を言ってきても「仲父(管仲の尊称)に聞け!」としか言わなかったので、側近の道化役が<BR>「国君とは気楽なものですねえ。なんでも『仲父に聞け!』で済むなら、あっしにも務まりそうです」とからかった。桓公は<BR>「何を言う。ワシは若い頃苦労したんだから、いま楽をして何が悪い」と言い返したそうな。 | |||
#死後は悲惨なことになった。 | |||
#*管仲も鮑叔もすでに亡く、最後は佞臣ばかり残った。 | |||
#*その連中が桓公の遺児たちをそれぞれに担いで内乱状態になってしまい、桓公の棺は埋葬もされずに放置。棺からウジ虫が大量発生する惨状となった。 | |||
===晋の文公=== | |||
#春秋五覇の第二号。 | |||
#*春秋五覇が誰と誰を指すのか、各種の説があって一定していないが、斉の桓公と晋の文公だけはどの説でも必ず含まれている。 | |||
#**同じ覇者でもこの人は自分の力で覇者となり得たという感じで、斉の桓公とは対極のような存在である気がする。 | |||
#若い頃は重耳という名で、父の献公を怖れて国外逃亡していた。 | |||
#*太子である兄・申生、弟の夷吾と共に、献公の後妻・驪姫に疎まれて遠ざけられていた。やがて申生は自害。 | |||
#*驪姫の子が国君になったが、重臣たちに攻め滅ぼされる。 | |||
#*重耳と夷吾のもとに、次の国君に迎えようとする使者が来るが、重耳はなぜか辞退。宿老・狐偃の意見に従ったらしい。一方夷吾はあっさり承知し、晋の恵公となる。 | |||
#少数の臣下と共に中国じゅうを放浪する。 | |||
#*恵公が兄の重耳を警戒し、刺客を送ったので、重耳は隠れ里から出奔し、あちこちの国をさすらう。通過した国は10を下らない。 | |||
#**その時冷遇された国(衛や曹)には、あとできっちり落とし前をつけさせたというが、「あの文公が戦争を仕掛けるくらいだから、きっと以前よほど冷遇したに違いない」ってんで後からこじつけられた話かもしれない。 | |||
#*斉に行き、桓公に厚遇され、重耳も斉に骨を埋める気になったようだが、臣下たちが無理矢理連れ出してしまう。 | |||
#*重耳がさすらっているうちに、恵公とその子の懐公が評判を落としまくっており、晋に帰国した重耳はかなりあっさりと国君として迎え入れられる。 | |||
#即位して文公となった時、すでに60代半ばで、在位も短かったが、春秋時代最高の名君とされる。 | |||
#*在位が短かったから'''こそ'''人気が高かったような気もする。長期政権ならボロが出ていたに違いない。 | |||
===秦の穆公=== | |||
#春秋五覇のひとり……に数える人も居る。 | |||
#嫁は晋の文公の姉。かなりの姉さん女房だが、稀に見る賢夫人だったらしい。 | |||
#賢臣・百里奚を見出して秦を躍進させる。賢夫人と賢臣に囲まれて、幸福な治世を過ごした。 | |||
#夫人の縁で、最初晋の恵公(文公の弟)に肩入れ。 | |||
#*しかし恵公も、その子懐公も、恩を仇で返すような真似ばかりした。 | |||
#**晋が飢饉で援助を求めてきた時、穆公は大量の食糧を恵公に贈った。翌年今度は秦が飢饉になり、晋に援助を求めると、恵公は断ったばかりか、恥知らずにも弱みにつけ込んで軍勢を差し向けてきた。 | |||
#***兵糧はほとんど無かったが、秦の兵たちは恵公の外道ぶりに怒りまくり、火事場のクソ力で晋軍を撃退。 | |||
#**恵公の嫡子は人質として穆公のもとに居たが、やがて恵公が没すると、ひとことの断りも無く晋へ逃げ帰って勝手に即位、懐公となる。 | |||
#*さすがの穆公も切れ、一転して文公の帰国を援助。文公即位後の内乱も収めた。 | |||
#*斉の桓公や晋の文公のような、大規模な諸国会盟を開催したわけではないので、覇者とは呼べないかもしれないが、いわば「覇者を作った人」。また、後年秦が天下統一を果たす礎を築いた君主でもある。 | |||
===宋の襄公=== | |||
#春秋五覇のひとり……に数える人も居る。 | |||
#*実際には、覇者にもう少しでなれそうだった人、と言うべきか。 | |||
#斉の桓公の太子をかくまって即位を助けたり、晋の文公を厚遇して帰国を助けたりしたので、なんとなく覇者のような気がしてしまったらしい。 | |||
#*斉の桓公を真似て、諸国会盟を主宰してみたが、集まったのはほとんど小国ばかり。 | |||
#*それどころか、調子に乗って何度も会盟をやっているうちに、楚の成王がやってきて、主宰者の席からひきずり下ろされてしまう。 | |||
#泓水の戦いで楚に惨敗、「宋襄の仁」という言葉を後に残す。 | |||
#*楚軍が圧倒的に大軍だったので、重臣たちは奇襲を薦めたが、覇者気取りだった襄公は拒否。堂々と正面からぶつかって、当然のごとく惨敗。本人も重傷を負い、やがてそのために死ぬ。 | |||
#*「宋襄の仁」は「身の程知らずにカッコつけて敵に情けをかける」意味となる。 | |||
===楚の成王=== | |||
#春秋五覇のひとり……に数える人も居る。 | |||
#なかなか剛毅な王様で、周囲を侵略しまくる。 | |||
#晋の文公が即位前に訪ねてきた時、大いに厚遇。 | |||
#*「さて、この礼に、あなたは何をワシにくれるのかな」と文公に質問。即位したら少し領土を割譲しろという含み。 | |||
#*文公は考えたのち、「そうですな、将来干戈を交えることがあれば、三舎を避けましょう」と答えた。成王はこの答えが気に入ったらしい。 | |||
#*後年、実際に晋と楚が戦った際、文公は約束を守って、前線から三舎(軍勢の三日分の行程)退却した。 | |||
#息子に反逆されて死ぬ。 | |||
#*「死ぬ前に、熊の掌を食べさせてくれないか」と頼んだが、拒否された。 | |||
#**熊の掌は煮込むのにやたら時間がかかるため、成王はそれを時間稼ぎにして反撃の糸口をつかもうとしたらしい。 | |||
#**息子(穆王)のほうもそれと察して拒否したらしいが、「父親のいまわの頼みも拒絶した親不孝者」として後世に悪名を残した。 | |||
===楚の荘王=== | |||
#春秋五覇のひとり……に数える人も居る。 | |||
#*ただし、数えていない人のほうが少数派で、ほぼレギュラーと言って良い。 | |||
#*とにかく長い歴史を持つ楚の国君の中で最高の名君とされている。 | |||
#「鳴かず飛ばず」の元祖。 | |||
#*即位して三年間、放蕩の限りを尽くして、臣下の反応を観察。 | |||
#*三年経って、たまりかねた重臣のひとりが、なぞなぞを出す。「ここに三年間、ひと声も鳴かず、一度も飛ばない大きな鳥がおります。この鳥なあんだ?」 | |||
#*荘王の答えは「その鳥は、一旦鳴けば人々を驚かし、一旦飛べば天に届くぞ」 | |||
#*荘王はその日から大変身し、佞臣を一気に粛正し、賢臣を抜擢したとか。 | |||
===呉の夫差=== | |||
#春秋五覇のひとり……に数える人も居る。 | |||
#父・闔閭が越王の勾践に殺され、復讐に燃える。 | |||
#*タキギの上に寝て、その痛苦で怨念をかき立てた。 | |||
#*部屋の外に家臣を立たせ、出入りのたびに「夫差よ、汝の父を勾践が殺したことを忘れたか」と言わせ、怨念をかき立てた。 | |||
#*実は、そんなことでもしないと恨みをすぐ忘れるあっさりした性格だったから、とも言われる。 | |||
#雌伏数年、先制攻撃をかけてきた越をみごと討って勾践を捕らえる。 | |||
#*宰相の伍子胥は勾践を殺すよう進言したが、夫差は聞かずに勾践の命を助ける。 | |||
#**やっぱり、あっさりした性格だったからかも。 | |||
#**父王に仕えた伍子胥がそろそろうざったくなってきていて、彼の言うことには反撥したいお年頃だったとも考えられるが。 | |||
#勾践が恭順なので、越への警戒を解き、あとはもっぱら中原に覇を唱えることばかり考えた。 | |||
#*伍子胥に、越への警戒を解かぬよう諫言されたが、もう決定的にうざくなっていて、難癖をつけて伍子胥を自殺させてしまう。 | |||
#*闔閭と伍子胥に亡国寸前に追い込まれた楚の国が、まだ復興途上であったこともあり、夫差の覇業は案外うまく行き、諸国会盟を主宰することができた。だが、その席上、国内での謀反の報が届き、あたふたと帰国することに。 | |||
#復活した勾践に撃破され、自殺。呉も亡びてしまった。 | |||
#*勾践は以前夫差にかけられた温情を思い出し、命だけは助けようとしたが、夫差は断り、「伍子胥に会わせる顔がねーよ」と言って、顔に白布をかけさせてから自殺した。 | |||
===越の勾践=== | |||
#春秋五覇のひとり……に数える人も居る。 | |||
#呉王・闔閭を斃すものの、その子・夫差に反撃されてボロ負け、命ばかりは助けられる。地名をとって「会稽の恥」という。 | |||
#軍師・范蠡の進言により、徹底した土下座外交をおこなって夫差の警戒心を解きつつ、復讐戦を企む。 | |||
#*「会稽の恥」を忘れないように、手許ににが~い胆(熊の胆?)を持ってしじゅうなめていた。夫差の「タキギに寝た」故事と合わせて「臥薪嘗胆」という成語になった。 | |||
#雌伏10年、中原での覇業に熱中していた夫差の隙を突いて呉を亡ぼす。 | |||
#雌伏の時期を支えた軍師・范蠡と大夫・文種を消そうとする。 | |||
#*情けない時期を知り尽くしている二人を生かしておけなかったらしい。けっこう尻の穴の小さな男である。 | |||
#*范蠡は勾践の意図を見抜いていち早く遁走。文種は逃げ遅れ、自殺を命じられる。 | |||
#名剣のコレクター。 | |||
#*勾践のコレクションの1本が、20世紀になって見つかる。サビひとつなかったらしい。 | |||
===趙の武霊王=== | |||
#無礼な王だったわけではない。 | |||
#*諡号の「武」は文字通り武威を誇った意味だが、「霊」のほうは「ちょっとイカれてたんじゃね?」というような意味。まあ褒貶相半ばするというところ。 | |||
#「胡服騎射」を導入。 | |||
#*「胡」(北方の騎馬民族)に倣って、軍服はジャケットとズボンにし、馬に直接乗って弓を射よう、という兵制改革。 | |||
#**それまでは、和服と似たような衣服をつけ、馬には直接乗らずに戦車を牽かせてそれに乗るのがデフォだった。 | |||
#**当時は「服装=文化」みたいな考え方だったので、猛反対が巻き起こる。 | |||
#***「史記」にはやたら詳しく、反対派に反論する武霊王の演説が載っている。司馬遷の価値観からしても大問題だったらしい。 | |||
#*当然ながら万事が機能的になり、馬の速力を活かした機動力も獲得。趙は一躍軍事大国へと躍り出る。 | |||
#一代の英傑にしては、餓死という悲惨な死に方をする。 | |||
#*しかも息子の恵文王の軍勢に取り巻かれた挙げ句の話。 | |||
#*恵文王は胡服騎射もやめてしまう。趙の覇権は短期間で終わった。 | |||
===楚の懐王(その1)=== | |||
#秦に手玉にとられ続けたバカな王様。 | |||
#斉と同盟を結んでいたが、秦の謀略に乗せられて破棄。 | |||
#*この時秦の使者だったのが有名な縦横家の張儀。600里四方の土地を割譲するので、斉と断交するように求めた。懐王は土地に目がくらんで即座に承諾。 | |||
#*土地を受け取りに行くと、張儀が渡したのは6里四方の地図。抗議すると「おや、お聞き間違いになったのでしょう。私ごときが600里四方もの土地を独断でお渡しできるわけがないではありませんか」 | |||
#*激怒した懐王は張儀を捕らえるが、買収された家臣に丸め込まれ、釈放してしまう。 | |||
#怒って秦に攻め入るが、あっさり返り討ち。 | |||
#*同盟を破棄された斉からはもちろん一兵の援軍も無く、楚はたちまち窮地に。 | |||
#*講和のためいやいやながら秦に出向くが、そこで抑留されてしまう。 | |||
#*脱出を図るが簡単に連れ戻され、ついに抑留されたまま客死。何やってんだか。 | |||
==その後の王侯== | |||
===陳勝=== | |||
#[[秦]]帝国に初めて叛旗をひるがえした男。 | |||
#*ちなみに反乱の動機は、「徴用に行く途中に雨が降って、期日に間に合わなかったから」(当時の法律では「期日に間に合わないと死刑」となっていた) | |||
#元は日雇い人夫だが、けっこう偉そうなことを言っていた。 | |||
#*農作業の手を休め、仲間に「おい、偉くなってもお互い忘れんようにしようぜ」と言った。仲間はみんな笑ったが、陳勝は平気な顔で、<BR>「燕雀いずくんぞ鴻鵠の志を知らんや!」とうそぶいたそうな。 | |||
#**現代語訳:「おめーらみたいなクズ野郎共に俺様みたいなBIGな男の考えが分かるかよ!」 DQNだ。 | |||
#*叛乱を決意した時、仲間たちに向かって<BR>「王侯将相、なんぞ種あらんや!」と焚きつけたそうな。 | |||
#**現代語訳:「はん!偉い奴がなんだってんだ?俺がその『偉い奴』になりゃ文句ねぇだろ!」 やっぱりDQNだ。 | |||
#挙兵して間もなくけっこうな大都市の「陳」を落としたのでここを本拠にし、「張楚」という国号を建てて「陳王」を名乗る。 | |||
#*項梁・項羽や劉邦たちも、まずは陳勝に合流しようとしたらしい。各地の叛乱軍の希望の星っぽかった。 | |||
#*千葉さんが千葉市を落として「新江戸」を号して「千葉王」を名乗るようなもん? | |||
#**千葉市を落としたから千葉さんになった、という説もある。あるいは、千葉に住んでたから千葉さんと呼ばれた、という説もある。根っからの庶民なので、姓なんかよくわからんのである。 | |||
#半年で没落。 | |||
#*昔の仲間を大事にしなかったり、無茶な作戦を決行したりしたためだが、一番の原因は兵糧の欠乏。 | |||
===楚の懐王(その2)=== | |||
#楚の懐王(その1)の孫。 | |||
#*「子供の子供」という意味の「孫」なのか、「子孫」という意味なのか微妙。 | |||
#*そのため、推定年齢は人によってバラバラ。 | |||
#**項梁に擁立された時、20そこそこの若者だったという説と、けっこう年配の人物だったという説がある。 | |||
#楚が亡びた後、人に雇われて羊飼いをしていたが、[[秦]]帝国に叛旗をひるがえした項梁によって楚王に擁立される。 | |||
#*懐王(その1)が秦になぶられ続けたことが、楚人にとっては痛恨の記憶で、秦への敵愾心をあおるために同じ「懐王」の王号を与えられた。 | |||
#いかにもな傀儡だが、項梁が戦死すると多少自主性を見せる。 | |||
#*「最初に関中を落とした者を関中王とする」と宣言。これにより楚漢戦争のきっかけが生まれる。 | |||
#楚軍を掌握し、関中に入った項羽により、「義帝」の名を贈られる。 | |||
#*もちろん有名無実。南方の僻地を所領として与えられただけ。 | |||
#*しかも、泣く泣くその僻地へ向かう途中、黥布に殺される。何やってんだか。 | |||
===項羽=== | |||
#楚の名将・項燕の孫。叔父・項梁と共に[[秦]]帝国に叛旗をひるがえす。 | |||
#叔父の戦死後、懐王によって宰相の宋義の下につけられるが、宋義を斬って全軍を掌握。 | |||
#秦の将軍・章邯を破り、関中へ突入。秦を滅亡させる。 | |||
#*関中へは先に劉邦が入っていたが、これを圧倒。 | |||
#*勝手に論功行賞。もう懐王のことなど念頭に無かったらしい。 | |||
#*自分は「西楚王」になった。わりと遠慮した観がある。 | |||
#**が、人々は西楚王とは呼ばず、「項王」と呼んだ。 | |||
#とにかく戦闘に強かった。 | |||
#*劉邦は何度戦っても負けてばかりいた。 | |||
#*そればかりでなく、各地で叛乱が起きると、どんな相手でも確実に叩きつぶした。 | |||
#**とはいえ、敵の軍勢を粉砕しても、敵将を取り逃がすことが多かった。このためいつまで経っても叛乱が絶えなかった。 | |||
#百戦百勝していたのに、補給に無神経だったのが災いして兵を飢えさせ、最後は見放される。 | |||
#*その結果、小城に押し込められ、包囲軍からは故郷の楚の歌が。「四面楚歌」の語源。 | |||
#*「百戦百勝するは善の善なるものにあらず」という孫子の言葉を立証してしまった人と言える。 | |||
===劉濞=== | |||
#[[漢|前漢]]初期の呉王。高祖の甥、恵帝・文帝のイトコにあたる。 | |||
#文帝時代、長安に訪れた際、息子を皇太子(のちの景帝)に殺され、皇室に対して恨みを持つ。 | |||
#*双六のルールのことで言い争った挙げ句、双六盤で殴り殺されたらしい。どっちもどっちとしか。 | |||
#にっくき景帝が即位し、しかも封土削減を申し渡されてぶち切れ、仲間を募って挙兵。いわゆる呉楚七国の乱を引き起こす。 | |||
#*当初はけっこう強勢で、長安も危ないと言われた。 | |||
#*周亜夫将軍の丹念な攻略が無ければ、本当に長安を覆していたかも。 | |||
#**洛陽で勢力を持っていた侠客・劇孟が呉王軍に通じていないとわかって、周亜夫は胸を撫で下ろしたと言う。当時の893の力は正規軍もあなどれないものだったらしい。 | |||
#*結局仲間に裏切られて、名も無き刺客に暗殺される。以後、皇帝の下の「王」は実質の伴わない名誉称号みたいなものになってゆく。 | |||
===更始帝=== | |||
#字面と響きが似ているが、始皇帝ではない。 | |||
#本名は劉玄で、[[漢]]の皇族。 | |||
#[[新]]に対する叛乱軍のひとつ、緑林軍に担ぎ上げられて皇帝を称する。 | |||
#*そして実際、王莽を倒して新を亡ぼしてしまう。本来なら次の王朝の創始者となるところだった。 | |||
#*しかし長安を取ってからいきなり気がゆるんで贅沢し放題。それだけならともかく、急に猜疑心にかられて功臣を粛正しはじめたので、謀反を起こされて長安を追い出される。 | |||
#*別の叛乱軍である赤眉軍に頭を下げてかくまってもらったが、結局お荷物になって殺されてしまう。 | |||
#*天下は更始帝の部将であった劉秀の手に。劉秀は[[後漢]]の光武帝となる。 | |||
===曹操=== | |||
#言わずと知れた三国志の英傑。 | |||
#事実上魏王朝の創始者だが、自分は帝位に就かず、魏公から魏王になったことで満足した。 | |||
#*ただし、[[漢]]では元来、劉姓でない者が王になることを禁じていたので、これだけでもかなりヒンシュクを買った。 | |||
#**劉姓以外で王になったのは、初期を除けば、簒奪して[[新]]を開いた王莽だけだったので、曹操も簒奪の野心アリアリとみんなに思われた。 | |||
#父親が宦官・曹嵩の養子となったので、曹操も「宦官の孫」とバカにされたが、もちろん本当の孫ではない。 | |||
#文化人としても一流。 | |||
#*多くの詩を残している。漢詩がメロディーを離れて、独立して「読まれる」ものになったのは、曹操とその取り巻きたちの作品から始まるとされている。 | |||
#*兵法書「孫子」を校訂した。現代に伝わる「孫子」はすべて曹操版を元にしている。 | |||
#**実は孫子に仮託して曹操自身の見解が数多く述べられている可能性もある。 | |||
#三国志演義で悪のラスボス扱いされ、ずっと不人気だったが、近年になって見直されている。 | |||
#*[[南北朝 (中国)|南北朝]]時代にはすでに悪役として定着していたらしい。演義が悪役に仕立て上げたのではなく、あくまでそれまでの通俗評価に従ったまでのこと。 | |||
#*近代に入って最初に積極的な評価を下したのは魯迅。講演速記が残っている。 | |||
#**もっとも、庶民レベルでは元から人気があったっぽい。民からすれば、帝位を簒奪しようが儒家に何をしようが、優れた人物や良い統治者は好き、ということらしい。 | |||
#ラスボスだけに強敵でなければ面白くないので、良くも悪くもものすごい大人物としての印象が確立しているが、案外と小心な律儀者だったという説もある。 | |||
#*「蒼天航路」で描かれていた曹操像も、ラスボス視の裏返しに過ぎない気がするんだよね。「魔王側から見たRPG」みたいな。 | |||
#*よく考えると、赤壁戦後ついに長江を渡ることはできなかったわけだし、魏王にとどまったのもワルになりきれない優柔不断さが感じられたりする。 | |||
===司馬懿=== | |||
#晋の宣帝。 | |||
#*本人は帝位に就いていないが、孫が晋を建国し帝位に就いたので、この称号がついた。 | |||
#三国志で、諸葛亮のライバルとして有名。 | |||
#*それゆえに、後期最大の敵として書かれている。それゆえにネタも豊富。 | |||
#**「あわてるな、これは孔明の罠だ」と言いながら慌てる素振りが、よくネタにされている。 | |||
#*「死せる孔明(諸葛亮)、生ける仲達(司馬懿)を走らす」という故事が有名。 | |||
#**本人の生前から言われていたらしい。本人は平然として「いや、生きているヤツのことはわかるが、死んだヤツが何を考えているかはわからんからな~」と答えたとか。 | |||
#首が非常に柔軟で、真後ろを向くことができたらしい。まるでフクロウ。 | |||
#*子孫が後に簒奪したことを考えると、梟雄という言葉がよく似合う。いろんな意味で。 | |||
#軍師的なイメージがあるが、実は武官である。 | |||
#*しかし、最初は文官からのスタートだった。 | |||
#じっと我慢の子であった。 | |||
#彼の長男の司馬師、次男の司馬昭を経て、孫の司馬炎の時に魏を簒奪して晋を立てたので、「4代にわたって簒奪を狙っていた腹黒い男」と解されているが、司馬懿本人にそこまでの野望があったかどうかは微妙。 | |||
#*行動を見る限り、むしろ異常なまでに保身の感覚が鋭敏な男だったように思える。ヤバいと見るとすぐに身を引いて害をのがれる機敏さがあり、その辺が後から見ると腹黒さに見えたのではなかろうか。 | |||
===李自成=== | |||
#[[明]]王朝にとどめを刺し、「順」という国号を立てて皇帝となったが、[[清]]にボロ負けして三日天下で終わった男。 | |||
#もとは駅夫だった。 | |||
#*いまで言えばJPとJRを合わせたような組織の従業員。 | |||
#*崇禎帝の仕分け作業で失業し、同じ失業者仲間を糾合して革命を起こす。 | |||
#**運輸業者なので、 | |||
#**#荷物を盗賊から護るため武装している。 | |||
#**#同じく、荷物を運んだり護ったりするため集団になっている。 | |||
#**#広域にわたる同業者のネットワークができている。 | |||
#***というわけで、そのまま暴動を起こしやすい状況になっていた。 | |||
#中国では「闖王(ちんおう)」と言ったほうが通じやすい。 | |||
#*皇帝になる前、盗賊の首領だった頃のあだ名。 | |||
#17世紀という近世の人物なのに、いろいろ伝説が多く、実像がつかみにくい。 | |||
#*李巌という名軍師が居たことになっているが、どうも架空の人物らしい。 | |||
#*「滎陽大会」という、盗賊首領たちの一大サミットを主宰したことになっているが、こんなイベントは無かったらしい。 | |||
#*現代中国の作家・姚雪垠が、集大成したような大河小説を書いたが、中共政府におもねって完全無欠の英雄としたため、かえってわけがわからなくなっている。 | |||
#国境を護っていた呉三桂将軍を味方に引き入れようとしたが、その前に北京にいた呉三桂の愛妾・陳円円を取り上げてしまっていたので拒否され、しかも清軍を引き入れられてあっという間に壊滅。 | |||
#*逃げに逃げ、最後は家来も四散して、自ら食べ物を見つけてこようとしたところ、土地の自警団に叩き殺されるというみじめな死をとげた。 | |||
===洪秀全=== | |||
#[[清]]後期に広東・広西を中心に「太平天国」という独立政権を建てた男。 | |||
#キリスト教のパンフレットを読んだことがあり、突如啓示を受けて自分が「エホバの次男」かつ「イエスの弟」であることを悟り、新興宗教を起こす。 | |||
#*いかにもうさんくさいが、当時の無学な庶民に圧倒的な支持を受け、たちまち数十万の信徒を獲得して南京を占領、清朝転覆を図るに至る。 | |||
#**要するに麻原彰晃みたいなヤツだったような気がする。 | |||
#*「皇帝」ではなく「天王」を名乗ったあたりが、ちょっとキリスト教風ではある。 | |||
#布教の便宜のため、幹部の楊秀清にエホバが憑依して託宣を下すという設定にしたが、これが仇となり、のちに洪秀全と楊秀清の間が険悪になる。 | |||
#*楊秀清がエホバの憑依を笠に着て好き勝手始め、洪秀全をないがしろにしたので、他の幹部に指令を下し誅殺。 | |||
#*しかしこの頃を境に、内ゲバが頻発して太平天国はガタガタに。 | |||
#太平天国を退治するために派遣された曾国藩は、正規兵が役に立たないので、湘軍という私兵団を作り上げる。これが曾国藩の死後李鴻章に引き継がれて北洋軍となり、さらに袁世凱・蒋介石と引き継がれて民国軍の母体となる。 | |||
#最後は病死というか餓死というか。 | |||
#*南京城内の食糧が底をつき、「もう食べるものがありません!」と部下に報告された洪秀全、「甜露(雑草)を食べるのだ」<BR>部下「そんなもの食べられません」<BR>洪秀全「なにぃ、それは信仰が足りないからだ。見てろ、ワシが食べてみせるから」<BR>その後彼は雑草だけを食べ続けて死んだという。 | |||
#洪秀全の死後まもなく南京は陥落。この時攻撃側によってものすごい虐殺暴行略奪がおこなわれた。 | |||
#*中国人のいわゆる'''南京大虐殺'''はこの時のイメージが元になっているらしい。 | |||
===袁世凱=== | |||
#本当の「ラストエンペラー」は愛新覚羅溥儀ではなく、この男。 | |||
#*中華民国大総統の座を孫文から奪ったあと、御用学者に「中国には共和制は適さず、帝政が適している」という論文を出させ、皇帝に即位した。 | |||
#*が、諸外国から認められず、内部からの突き上げも激しくなって、数ヶ月で退位。間もなく死亡。 | |||
#*後世の歴史家からも、皇帝と認められる可能性は薄い。まあ李自成クラスの自称皇帝扱いだろう。 | |||
#日清戦争の時には[[李氏朝鮮|朝鮮]]王室の黒幕として権謀をふるった。日本側もかなりこの男に振り回された観がある。 | |||
#中国人が今でも日本を罵る時に挙げる「対華21ヶ条要求」はこの男の演出らしい。 | |||
#*実は「要求」の大部分が、それまでの既得権益の確認に過ぎず、新たな要求はせいぜい4ヶ条くらいだったとか。それを袁世凱は「日本は(第一次)大戦で列強の眼が届かないのをいいことに、21もの無理難題を突きつけてきやがった」と諸外国に訴えて同情を引こうとした。 | |||
#*結局諸外国はどこも反応せず、彼の意図は不発に終わったが、国内向けには効果抜群。極悪非道な日本人の像が定着した。 | |||
#*今に至るまで中国人の日本非難の口実となっているのだから、ある意味袁世凱の大いなる遺産であったと言えなくもない。 | |||
#**日本人の中にも、真に受けて反省やら謝罪やらしたがるヤカラが少なからず居るので要注意。歴史の教科書にもたいてい「戦前の日本のゴーマンさの好例」として出てくるのではないかな。 | |||
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[[Category:バカ人物志|*ちゆうこくおうこう]] |
2012年10月4日 (木) 10:39時点における版
古代の王侯
禹王
- 夏王朝を築いた。
- 黄河の治水にはじめて成功。
- 自分で歩き回って測量や工事をおこない、大変な苦労をした。
- そのため、後世ではやや軽侮されるところも。
- 「えらい人は、自分でからだを動かして働いたりしない」というのが中国人の考え方なので。堯や舜に較べると一段下という感じ。
- 王位を重臣の「益」に譲ろうとした。
- 当時の王様は、気苦労が多いばかりで、あんまり実入りのない役職だったらしい。だから子供に継がせようとは思わなかったのだろう。
- しかし人々は「益」では納得せず、禹の息子の「啓」を押し立てて王様にしてしまった。
桀王
- 夏王朝最後の王様。
- 頭は良く、腕力もすごく強かったらしい。
- 美女「妺嬉」に溺れる。
- この美女、絹を裂く音(裂帛の響き)が大好きという変な趣味があった。
- 殷の最後の王・紂王といろんな意味でキャラがかぶり過ぎ。たぶん紂王より後で作られたキャラと思われる。
湯王
- 夏の桀王を倒し、殷王朝を築いた。
- 桀王に呼びつけられて「夏台」というところに幽閉されたが、奇蹟の復活。
- 周の文王といろんな意味でキャラがかぶっている。
- 人々が3年越しの干魃に苦しんでいるのを見て自分の不徳を恥じ、我が身を生け贄にして雨を呼ぼうとした。
- 薪の山に伏して火をつけさせた。湯王の衣服に火が燃え移る寸前に雨が降り始めたそうな。
- 伝説とはいえ、民のために我が身を犠牲にしようとした殊勝な帝王は中国史上彼ひとりだけ。天子や君主の徳ということを、歴史を通じてやかましく言い続けたにしては寂しい限りである。
武丁
- 殷の22代目の王様。
- 殷王朝の中興の祖と呼ばれる。かなり衰えていた殷王朝の力を盛り返し、版図を拡げた。
- 「高宗」という、なかなか良い宗廟名を贈られた。
- 文字を作ったのもこの王様の命令によるものだと言われる。
- 甲骨文字史料が、武丁以前のものは発見されていないため。もちろん、今後発見される可能性はある。
- 奥さんも軍勢を率いて征戦に赴いたらしい。
- 「婦好」という人。「婦」は殷では最高の爵位で、特別な王后にだけ与えられた。
紂王
- 殷王朝最後の王様。「受」王というのが正しいらしい。
- 頭は良く、腕力もすごく強かったらしい。
- 美女「妲己」に溺れる。
- 酒池肉林、炮烙の刑、沙宮の動物園の造営など、独創的なイベントを数々考案している。
- 長らく暴君の代名詞みたいな存在だったが、最近になって少し見直されている。
- 甲骨文の解読などにより、今までと違った人物像が見えてきたため。
- 実は信心深く、なおかつ果断に政治改革を試みた王様だったとか。
- 殷の故地とも言える東方で叛乱が相次ぎ、それを鎮圧しようと兵を向けている隙に、西から進出した周に足下をすくわれたというのが真相らしい。
- 現政権が前政権の悪い話を捏造するというのは(特に中国では)よくある事なので、この人が暴君という話もそうなのかもしれない。
文王
- 周が殷を倒すお膳立てをしたが、実は王位にはついていない。
- 生前の呼び名は「西伯昌」。文王というのは息子の武王からの追号。
- 紂王に呼びつけられて「羑里」というところに幽閉されたが、奇蹟の復活。
- 幽閉中、暇にあかせて易学の研究をしていたらしい。
- 太公望を見出し、軍師として重用する。
- 天下の諸侯のうち3分の2が帰服したので、いよいよ殷を倒そうと乗り出しかけたところで自分も死んでしまう。
武王
- 文王の次男。
- 兄の伯邑考が紂王に殺され、スープにされてしまったので、急遽文王の後継者になった。
- 太公望の策を用いて、牧野で殷軍を撃破、殷を亡ぼす。
- 気苦労が多かったのか、天下を取って間もなく没。
幽王
- 周の12代目の王様。
- 美女「褒姒」に溺れる。
- この美女、間違いの狼煙で集まってきた諸侯の軍勢がきょとんとしているところを見た時だけ笑うという変な趣味があった。
- 幽王は彼女を笑わせようと、何度もフェイクの狼煙を上げ、諸侯の軍勢に無駄足を踏ませた。
- おかげで、本当に敵が迫った時、いくら狼煙を上げても軍勢が集まらず、ほうほうの態で逃げ出す。
- イソップの狼少年そのまんまのエピソード。
- 正室「申后」の産んだ王子「宜臼」を太子にしていたのに、褒姒の子に取り替えようとしたので、申后の父「申公」が激怒し、異民族「犬戎」を引き入れて幽王を攻撃。
- 前項の通り軍勢が集まらず、幽王は逃げ出したが、やがて捕まって殺される。
- 申公は宜臼を立てて「平王」とし、外祖父として権勢を振るおうとしたが、犬戎が思ったより獰猛で、首都・鎬京を荒らし尽くしたので、平王ともども逃げ出さなければならなくなった。
- かくして「西周」は滅亡。以後は首都を東に遷して「東周」となる。
春秋戦国の王侯
斉の桓公
- 春秋五覇の第一号。
- 春秋五覇が誰と誰を指すのか、各種の説があって一定していないが、斉の桓公と晋の文公だけはどの説でも必ず含まれている。
- 同じ覇者でもこの人は配下をうまく使って覇者となったという感じで、晋の文公とは対極のような存在である気がする。
- 春秋五覇が誰と誰を指すのか、各種の説があって一定していないが、斉の桓公と晋の文公だけはどの説でも必ず含まれている。
- 若い頃は小白という名で、兄の襄公を怖れて国外逃亡していた。
- 襄公は妹萌えで、魯の桓公に嫁いだ妹の文姜と相思相愛。ついには魯の桓公を謀殺して文姜とちちくりあう。そんなこんなで斉の風紀は乱れまくり。
- しかも襄公は粗暴な男で、親類や重臣にケチをつけては殺したり追放したり。小白も身の危険を感じて逃げ出した。
- やがて襄公がイトコの無知に暗殺され、その無知も重臣たちに暗殺される。小白にも希望が出てきた。
- 同じく国外逃亡していたもうひとりの兄・糾に競り勝って斉君に即位。
- この時、糾に従っていた重臣・管仲に殺されかかる。
- 逃亡中ずっと支えてくれた重臣・鮑叔の意見を容れ、にっくき管仲を宰相として登用。これが思わぬ拾い物で、管仲の政策で斉は一躍大国の仲間入りをし、他の諸国に影響力を及ぼす覇者となる。
- 本人の性格はけっこう享楽的でチャランボランだったらしい。
- しかし、ひとたび人を信じればとことん信じ抜くという美点があり、ほとんどそれだけで覇者に昇りつめた観がある。
- 管仲に政務を任せきりにし、臣下が何を言ってきても「仲父(管仲の尊称)に聞け!」としか言わなかったので、側近の道化役が
「国君とは気楽なものですねえ。なんでも『仲父に聞け!』で済むなら、あっしにも務まりそうです」とからかった。桓公は
「何を言う。ワシは若い頃苦労したんだから、いま楽をして何が悪い」と言い返したそうな。
- 死後は悲惨なことになった。
- 管仲も鮑叔もすでに亡く、最後は佞臣ばかり残った。
- その連中が桓公の遺児たちをそれぞれに担いで内乱状態になってしまい、桓公の棺は埋葬もされずに放置。棺からウジ虫が大量発生する惨状となった。
晋の文公
- 春秋五覇の第二号。
- 春秋五覇が誰と誰を指すのか、各種の説があって一定していないが、斉の桓公と晋の文公だけはどの説でも必ず含まれている。
- 同じ覇者でもこの人は自分の力で覇者となり得たという感じで、斉の桓公とは対極のような存在である気がする。
- 春秋五覇が誰と誰を指すのか、各種の説があって一定していないが、斉の桓公と晋の文公だけはどの説でも必ず含まれている。
- 若い頃は重耳という名で、父の献公を怖れて国外逃亡していた。
- 太子である兄・申生、弟の夷吾と共に、献公の後妻・驪姫に疎まれて遠ざけられていた。やがて申生は自害。
- 驪姫の子が国君になったが、重臣たちに攻め滅ぼされる。
- 重耳と夷吾のもとに、次の国君に迎えようとする使者が来るが、重耳はなぜか辞退。宿老・狐偃の意見に従ったらしい。一方夷吾はあっさり承知し、晋の恵公となる。
- 少数の臣下と共に中国じゅうを放浪する。
- 恵公が兄の重耳を警戒し、刺客を送ったので、重耳は隠れ里から出奔し、あちこちの国をさすらう。通過した国は10を下らない。
- その時冷遇された国(衛や曹)には、あとできっちり落とし前をつけさせたというが、「あの文公が戦争を仕掛けるくらいだから、きっと以前よほど冷遇したに違いない」ってんで後からこじつけられた話かもしれない。
- 斉に行き、桓公に厚遇され、重耳も斉に骨を埋める気になったようだが、臣下たちが無理矢理連れ出してしまう。
- 重耳がさすらっているうちに、恵公とその子の懐公が評判を落としまくっており、晋に帰国した重耳はかなりあっさりと国君として迎え入れられる。
- 恵公が兄の重耳を警戒し、刺客を送ったので、重耳は隠れ里から出奔し、あちこちの国をさすらう。通過した国は10を下らない。
- 即位して文公となった時、すでに60代半ばで、在位も短かったが、春秋時代最高の名君とされる。
- 在位が短かったからこそ人気が高かったような気もする。長期政権ならボロが出ていたに違いない。
秦の穆公
- 春秋五覇のひとり……に数える人も居る。
- 嫁は晋の文公の姉。かなりの姉さん女房だが、稀に見る賢夫人だったらしい。
- 賢臣・百里奚を見出して秦を躍進させる。賢夫人と賢臣に囲まれて、幸福な治世を過ごした。
- 夫人の縁で、最初晋の恵公(文公の弟)に肩入れ。
- しかし恵公も、その子懐公も、恩を仇で返すような真似ばかりした。
- 晋が飢饉で援助を求めてきた時、穆公は大量の食糧を恵公に贈った。翌年今度は秦が飢饉になり、晋に援助を求めると、恵公は断ったばかりか、恥知らずにも弱みにつけ込んで軍勢を差し向けてきた。
- 兵糧はほとんど無かったが、秦の兵たちは恵公の外道ぶりに怒りまくり、火事場のクソ力で晋軍を撃退。
- 恵公の嫡子は人質として穆公のもとに居たが、やがて恵公が没すると、ひとことの断りも無く晋へ逃げ帰って勝手に即位、懐公となる。
- 晋が飢饉で援助を求めてきた時、穆公は大量の食糧を恵公に贈った。翌年今度は秦が飢饉になり、晋に援助を求めると、恵公は断ったばかりか、恥知らずにも弱みにつけ込んで軍勢を差し向けてきた。
- さすがの穆公も切れ、一転して文公の帰国を援助。文公即位後の内乱も収めた。
- 斉の桓公や晋の文公のような、大規模な諸国会盟を開催したわけではないので、覇者とは呼べないかもしれないが、いわば「覇者を作った人」。また、後年秦が天下統一を果たす礎を築いた君主でもある。
- しかし恵公も、その子懐公も、恩を仇で返すような真似ばかりした。
宋の襄公
- 春秋五覇のひとり……に数える人も居る。
- 実際には、覇者にもう少しでなれそうだった人、と言うべきか。
- 斉の桓公の太子をかくまって即位を助けたり、晋の文公を厚遇して帰国を助けたりしたので、なんとなく覇者のような気がしてしまったらしい。
- 斉の桓公を真似て、諸国会盟を主宰してみたが、集まったのはほとんど小国ばかり。
- それどころか、調子に乗って何度も会盟をやっているうちに、楚の成王がやってきて、主宰者の席からひきずり下ろされてしまう。
- 泓水の戦いで楚に惨敗、「宋襄の仁」という言葉を後に残す。
- 楚軍が圧倒的に大軍だったので、重臣たちは奇襲を薦めたが、覇者気取りだった襄公は拒否。堂々と正面からぶつかって、当然のごとく惨敗。本人も重傷を負い、やがてそのために死ぬ。
- 「宋襄の仁」は「身の程知らずにカッコつけて敵に情けをかける」意味となる。
楚の成王
- 春秋五覇のひとり……に数える人も居る。
- なかなか剛毅な王様で、周囲を侵略しまくる。
- 晋の文公が即位前に訪ねてきた時、大いに厚遇。
- 「さて、この礼に、あなたは何をワシにくれるのかな」と文公に質問。即位したら少し領土を割譲しろという含み。
- 文公は考えたのち、「そうですな、将来干戈を交えることがあれば、三舎を避けましょう」と答えた。成王はこの答えが気に入ったらしい。
- 後年、実際に晋と楚が戦った際、文公は約束を守って、前線から三舎(軍勢の三日分の行程)退却した。
- 息子に反逆されて死ぬ。
- 「死ぬ前に、熊の掌を食べさせてくれないか」と頼んだが、拒否された。
- 熊の掌は煮込むのにやたら時間がかかるため、成王はそれを時間稼ぎにして反撃の糸口をつかもうとしたらしい。
- 息子(穆王)のほうもそれと察して拒否したらしいが、「父親のいまわの頼みも拒絶した親不孝者」として後世に悪名を残した。
- 「死ぬ前に、熊の掌を食べさせてくれないか」と頼んだが、拒否された。
楚の荘王
- 春秋五覇のひとり……に数える人も居る。
- ただし、数えていない人のほうが少数派で、ほぼレギュラーと言って良い。
- とにかく長い歴史を持つ楚の国君の中で最高の名君とされている。
- 「鳴かず飛ばず」の元祖。
- 即位して三年間、放蕩の限りを尽くして、臣下の反応を観察。
- 三年経って、たまりかねた重臣のひとりが、なぞなぞを出す。「ここに三年間、ひと声も鳴かず、一度も飛ばない大きな鳥がおります。この鳥なあんだ?」
- 荘王の答えは「その鳥は、一旦鳴けば人々を驚かし、一旦飛べば天に届くぞ」
- 荘王はその日から大変身し、佞臣を一気に粛正し、賢臣を抜擢したとか。
呉の夫差
- 春秋五覇のひとり……に数える人も居る。
- 父・闔閭が越王の勾践に殺され、復讐に燃える。
- タキギの上に寝て、その痛苦で怨念をかき立てた。
- 部屋の外に家臣を立たせ、出入りのたびに「夫差よ、汝の父を勾践が殺したことを忘れたか」と言わせ、怨念をかき立てた。
- 実は、そんなことでもしないと恨みをすぐ忘れるあっさりした性格だったから、とも言われる。
- 雌伏数年、先制攻撃をかけてきた越をみごと討って勾践を捕らえる。
- 宰相の伍子胥は勾践を殺すよう進言したが、夫差は聞かずに勾践の命を助ける。
- やっぱり、あっさりした性格だったからかも。
- 父王に仕えた伍子胥がそろそろうざったくなってきていて、彼の言うことには反撥したいお年頃だったとも考えられるが。
- 宰相の伍子胥は勾践を殺すよう進言したが、夫差は聞かずに勾践の命を助ける。
- 勾践が恭順なので、越への警戒を解き、あとはもっぱら中原に覇を唱えることばかり考えた。
- 伍子胥に、越への警戒を解かぬよう諫言されたが、もう決定的にうざくなっていて、難癖をつけて伍子胥を自殺させてしまう。
- 闔閭と伍子胥に亡国寸前に追い込まれた楚の国が、まだ復興途上であったこともあり、夫差の覇業は案外うまく行き、諸国会盟を主宰することができた。だが、その席上、国内での謀反の報が届き、あたふたと帰国することに。
- 復活した勾践に撃破され、自殺。呉も亡びてしまった。
- 勾践は以前夫差にかけられた温情を思い出し、命だけは助けようとしたが、夫差は断り、「伍子胥に会わせる顔がねーよ」と言って、顔に白布をかけさせてから自殺した。
越の勾践
- 春秋五覇のひとり……に数える人も居る。
- 呉王・闔閭を斃すものの、その子・夫差に反撃されてボロ負け、命ばかりは助けられる。地名をとって「会稽の恥」という。
- 軍師・范蠡の進言により、徹底した土下座外交をおこなって夫差の警戒心を解きつつ、復讐戦を企む。
- 「会稽の恥」を忘れないように、手許ににが~い胆(熊の胆?)を持ってしじゅうなめていた。夫差の「タキギに寝た」故事と合わせて「臥薪嘗胆」という成語になった。
- 雌伏10年、中原での覇業に熱中していた夫差の隙を突いて呉を亡ぼす。
- 雌伏の時期を支えた軍師・范蠡と大夫・文種を消そうとする。
- 情けない時期を知り尽くしている二人を生かしておけなかったらしい。けっこう尻の穴の小さな男である。
- 范蠡は勾践の意図を見抜いていち早く遁走。文種は逃げ遅れ、自殺を命じられる。
- 名剣のコレクター。
- 勾践のコレクションの1本が、20世紀になって見つかる。サビひとつなかったらしい。
趙の武霊王
- 無礼な王だったわけではない。
- 諡号の「武」は文字通り武威を誇った意味だが、「霊」のほうは「ちょっとイカれてたんじゃね?」というような意味。まあ褒貶相半ばするというところ。
- 「胡服騎射」を導入。
- 「胡」(北方の騎馬民族)に倣って、軍服はジャケットとズボンにし、馬に直接乗って弓を射よう、という兵制改革。
- それまでは、和服と似たような衣服をつけ、馬には直接乗らずに戦車を牽かせてそれに乗るのがデフォだった。
- 当時は「服装=文化」みたいな考え方だったので、猛反対が巻き起こる。
- 「史記」にはやたら詳しく、反対派に反論する武霊王の演説が載っている。司馬遷の価値観からしても大問題だったらしい。
- 当然ながら万事が機能的になり、馬の速力を活かした機動力も獲得。趙は一躍軍事大国へと躍り出る。
- 「胡」(北方の騎馬民族)に倣って、軍服はジャケットとズボンにし、馬に直接乗って弓を射よう、という兵制改革。
- 一代の英傑にしては、餓死という悲惨な死に方をする。
- しかも息子の恵文王の軍勢に取り巻かれた挙げ句の話。
- 恵文王は胡服騎射もやめてしまう。趙の覇権は短期間で終わった。
楚の懐王(その1)
- 秦に手玉にとられ続けたバカな王様。
- 斉と同盟を結んでいたが、秦の謀略に乗せられて破棄。
- この時秦の使者だったのが有名な縦横家の張儀。600里四方の土地を割譲するので、斉と断交するように求めた。懐王は土地に目がくらんで即座に承諾。
- 土地を受け取りに行くと、張儀が渡したのは6里四方の地図。抗議すると「おや、お聞き間違いになったのでしょう。私ごときが600里四方もの土地を独断でお渡しできるわけがないではありませんか」
- 激怒した懐王は張儀を捕らえるが、買収された家臣に丸め込まれ、釈放してしまう。
- 怒って秦に攻め入るが、あっさり返り討ち。
- 同盟を破棄された斉からはもちろん一兵の援軍も無く、楚はたちまち窮地に。
- 講和のためいやいやながら秦に出向くが、そこで抑留されてしまう。
- 脱出を図るが簡単に連れ戻され、ついに抑留されたまま客死。何やってんだか。
その後の王侯
陳勝
- 秦帝国に初めて叛旗をひるがえした男。
- ちなみに反乱の動機は、「徴用に行く途中に雨が降って、期日に間に合わなかったから」(当時の法律では「期日に間に合わないと死刑」となっていた)
- 元は日雇い人夫だが、けっこう偉そうなことを言っていた。
- 農作業の手を休め、仲間に「おい、偉くなってもお互い忘れんようにしようぜ」と言った。仲間はみんな笑ったが、陳勝は平気な顔で、
「燕雀いずくんぞ鴻鵠の志を知らんや!」とうそぶいたそうな。- 現代語訳:「おめーらみたいなクズ野郎共に俺様みたいなBIGな男の考えが分かるかよ!」 DQNだ。
- 叛乱を決意した時、仲間たちに向かって
「王侯将相、なんぞ種あらんや!」と焚きつけたそうな。- 現代語訳:「はん!偉い奴がなんだってんだ?俺がその『偉い奴』になりゃ文句ねぇだろ!」 やっぱりDQNだ。
- 農作業の手を休め、仲間に「おい、偉くなってもお互い忘れんようにしようぜ」と言った。仲間はみんな笑ったが、陳勝は平気な顔で、
- 挙兵して間もなくけっこうな大都市の「陳」を落としたのでここを本拠にし、「張楚」という国号を建てて「陳王」を名乗る。
- 項梁・項羽や劉邦たちも、まずは陳勝に合流しようとしたらしい。各地の叛乱軍の希望の星っぽかった。
- 千葉さんが千葉市を落として「新江戸」を号して「千葉王」を名乗るようなもん?
- 千葉市を落としたから千葉さんになった、という説もある。あるいは、千葉に住んでたから千葉さんと呼ばれた、という説もある。根っからの庶民なので、姓なんかよくわからんのである。
- 半年で没落。
- 昔の仲間を大事にしなかったり、無茶な作戦を決行したりしたためだが、一番の原因は兵糧の欠乏。
楚の懐王(その2)
- 楚の懐王(その1)の孫。
- 「子供の子供」という意味の「孫」なのか、「子孫」という意味なのか微妙。
- そのため、推定年齢は人によってバラバラ。
- 項梁に擁立された時、20そこそこの若者だったという説と、けっこう年配の人物だったという説がある。
- 楚が亡びた後、人に雇われて羊飼いをしていたが、秦帝国に叛旗をひるがえした項梁によって楚王に擁立される。
- 懐王(その1)が秦になぶられ続けたことが、楚人にとっては痛恨の記憶で、秦への敵愾心をあおるために同じ「懐王」の王号を与えられた。
- いかにもな傀儡だが、項梁が戦死すると多少自主性を見せる。
- 「最初に関中を落とした者を関中王とする」と宣言。これにより楚漢戦争のきっかけが生まれる。
- 楚軍を掌握し、関中に入った項羽により、「義帝」の名を贈られる。
- もちろん有名無実。南方の僻地を所領として与えられただけ。
- しかも、泣く泣くその僻地へ向かう途中、黥布に殺される。何やってんだか。
項羽
- 楚の名将・項燕の孫。叔父・項梁と共に秦帝国に叛旗をひるがえす。
- 叔父の戦死後、懐王によって宰相の宋義の下につけられるが、宋義を斬って全軍を掌握。
- 秦の将軍・章邯を破り、関中へ突入。秦を滅亡させる。
- 関中へは先に劉邦が入っていたが、これを圧倒。
- 勝手に論功行賞。もう懐王のことなど念頭に無かったらしい。
- 自分は「西楚王」になった。わりと遠慮した観がある。
- が、人々は西楚王とは呼ばず、「項王」と呼んだ。
- とにかく戦闘に強かった。
- 劉邦は何度戦っても負けてばかりいた。
- そればかりでなく、各地で叛乱が起きると、どんな相手でも確実に叩きつぶした。
- とはいえ、敵の軍勢を粉砕しても、敵将を取り逃がすことが多かった。このためいつまで経っても叛乱が絶えなかった。
- 百戦百勝していたのに、補給に無神経だったのが災いして兵を飢えさせ、最後は見放される。
- その結果、小城に押し込められ、包囲軍からは故郷の楚の歌が。「四面楚歌」の語源。
- 「百戦百勝するは善の善なるものにあらず」という孫子の言葉を立証してしまった人と言える。
劉濞
- 前漢初期の呉王。高祖の甥、恵帝・文帝のイトコにあたる。
- 文帝時代、長安に訪れた際、息子を皇太子(のちの景帝)に殺され、皇室に対して恨みを持つ。
- 双六のルールのことで言い争った挙げ句、双六盤で殴り殺されたらしい。どっちもどっちとしか。
- にっくき景帝が即位し、しかも封土削減を申し渡されてぶち切れ、仲間を募って挙兵。いわゆる呉楚七国の乱を引き起こす。
- 当初はけっこう強勢で、長安も危ないと言われた。
- 周亜夫将軍の丹念な攻略が無ければ、本当に長安を覆していたかも。
- 洛陽で勢力を持っていた侠客・劇孟が呉王軍に通じていないとわかって、周亜夫は胸を撫で下ろしたと言う。当時の893の力は正規軍もあなどれないものだったらしい。
- 結局仲間に裏切られて、名も無き刺客に暗殺される。以後、皇帝の下の「王」は実質の伴わない名誉称号みたいなものになってゆく。
更始帝
- 字面と響きが似ているが、始皇帝ではない。
- 本名は劉玄で、漢の皇族。
- 新に対する叛乱軍のひとつ、緑林軍に担ぎ上げられて皇帝を称する。
- そして実際、王莽を倒して新を亡ぼしてしまう。本来なら次の王朝の創始者となるところだった。
- しかし長安を取ってからいきなり気がゆるんで贅沢し放題。それだけならともかく、急に猜疑心にかられて功臣を粛正しはじめたので、謀反を起こされて長安を追い出される。
- 別の叛乱軍である赤眉軍に頭を下げてかくまってもらったが、結局お荷物になって殺されてしまう。
- 天下は更始帝の部将であった劉秀の手に。劉秀は後漢の光武帝となる。
曹操
- 言わずと知れた三国志の英傑。
- 事実上魏王朝の創始者だが、自分は帝位に就かず、魏公から魏王になったことで満足した。
- 父親が宦官・曹嵩の養子となったので、曹操も「宦官の孫」とバカにされたが、もちろん本当の孫ではない。
- 文化人としても一流。
- 多くの詩を残している。漢詩がメロディーを離れて、独立して「読まれる」ものになったのは、曹操とその取り巻きたちの作品から始まるとされている。
- 兵法書「孫子」を校訂した。現代に伝わる「孫子」はすべて曹操版を元にしている。
- 実は孫子に仮託して曹操自身の見解が数多く述べられている可能性もある。
- 三国志演義で悪のラスボス扱いされ、ずっと不人気だったが、近年になって見直されている。
- 南北朝時代にはすでに悪役として定着していたらしい。演義が悪役に仕立て上げたのではなく、あくまでそれまでの通俗評価に従ったまでのこと。
- 近代に入って最初に積極的な評価を下したのは魯迅。講演速記が残っている。
- もっとも、庶民レベルでは元から人気があったっぽい。民からすれば、帝位を簒奪しようが儒家に何をしようが、優れた人物や良い統治者は好き、ということらしい。
- ラスボスだけに強敵でなければ面白くないので、良くも悪くもものすごい大人物としての印象が確立しているが、案外と小心な律儀者だったという説もある。
- 「蒼天航路」で描かれていた曹操像も、ラスボス視の裏返しに過ぎない気がするんだよね。「魔王側から見たRPG」みたいな。
- よく考えると、赤壁戦後ついに長江を渡ることはできなかったわけだし、魏王にとどまったのもワルになりきれない優柔不断さが感じられたりする。
司馬懿
- 晋の宣帝。
- 本人は帝位に就いていないが、孫が晋を建国し帝位に就いたので、この称号がついた。
- 三国志で、諸葛亮のライバルとして有名。
- それゆえに、後期最大の敵として書かれている。それゆえにネタも豊富。
- 「あわてるな、これは孔明の罠だ」と言いながら慌てる素振りが、よくネタにされている。
- 「死せる孔明(諸葛亮)、生ける仲達(司馬懿)を走らす」という故事が有名。
- 本人の生前から言われていたらしい。本人は平然として「いや、生きているヤツのことはわかるが、死んだヤツが何を考えているかはわからんからな~」と答えたとか。
- それゆえに、後期最大の敵として書かれている。それゆえにネタも豊富。
- 首が非常に柔軟で、真後ろを向くことができたらしい。まるでフクロウ。
- 子孫が後に簒奪したことを考えると、梟雄という言葉がよく似合う。いろんな意味で。
- 軍師的なイメージがあるが、実は武官である。
- しかし、最初は文官からのスタートだった。
- じっと我慢の子であった。
- 彼の長男の司馬師、次男の司馬昭を経て、孫の司馬炎の時に魏を簒奪して晋を立てたので、「4代にわたって簒奪を狙っていた腹黒い男」と解されているが、司馬懿本人にそこまでの野望があったかどうかは微妙。
- 行動を見る限り、むしろ異常なまでに保身の感覚が鋭敏な男だったように思える。ヤバいと見るとすぐに身を引いて害をのがれる機敏さがあり、その辺が後から見ると腹黒さに見えたのではなかろうか。
李自成
- 明王朝にとどめを刺し、「順」という国号を立てて皇帝となったが、清にボロ負けして三日天下で終わった男。
- もとは駅夫だった。
- いまで言えばJPとJRを合わせたような組織の従業員。
- 崇禎帝の仕分け作業で失業し、同じ失業者仲間を糾合して革命を起こす。
- 運輸業者なので、
- 荷物を盗賊から護るため武装している。
- 同じく、荷物を運んだり護ったりするため集団になっている。
- 広域にわたる同業者のネットワークができている。
- というわけで、そのまま暴動を起こしやすい状況になっていた。
- 運輸業者なので、
- 中国では「闖王(ちんおう)」と言ったほうが通じやすい。
- 皇帝になる前、盗賊の首領だった頃のあだ名。
- 17世紀という近世の人物なのに、いろいろ伝説が多く、実像がつかみにくい。
- 李巌という名軍師が居たことになっているが、どうも架空の人物らしい。
- 「滎陽大会」という、盗賊首領たちの一大サミットを主宰したことになっているが、こんなイベントは無かったらしい。
- 現代中国の作家・姚雪垠が、集大成したような大河小説を書いたが、中共政府におもねって完全無欠の英雄としたため、かえってわけがわからなくなっている。
- 国境を護っていた呉三桂将軍を味方に引き入れようとしたが、その前に北京にいた呉三桂の愛妾・陳円円を取り上げてしまっていたので拒否され、しかも清軍を引き入れられてあっという間に壊滅。
- 逃げに逃げ、最後は家来も四散して、自ら食べ物を見つけてこようとしたところ、土地の自警団に叩き殺されるというみじめな死をとげた。
洪秀全
- 清後期に広東・広西を中心に「太平天国」という独立政権を建てた男。
- キリスト教のパンフレットを読んだことがあり、突如啓示を受けて自分が「エホバの次男」かつ「イエスの弟」であることを悟り、新興宗教を起こす。
- いかにもうさんくさいが、当時の無学な庶民に圧倒的な支持を受け、たちまち数十万の信徒を獲得して南京を占領、清朝転覆を図るに至る。
- 要するに麻原彰晃みたいなヤツだったような気がする。
- 「皇帝」ではなく「天王」を名乗ったあたりが、ちょっとキリスト教風ではある。
- いかにもうさんくさいが、当時の無学な庶民に圧倒的な支持を受け、たちまち数十万の信徒を獲得して南京を占領、清朝転覆を図るに至る。
- 布教の便宜のため、幹部の楊秀清にエホバが憑依して託宣を下すという設定にしたが、これが仇となり、のちに洪秀全と楊秀清の間が険悪になる。
- 楊秀清がエホバの憑依を笠に着て好き勝手始め、洪秀全をないがしろにしたので、他の幹部に指令を下し誅殺。
- しかしこの頃を境に、内ゲバが頻発して太平天国はガタガタに。
- 太平天国を退治するために派遣された曾国藩は、正規兵が役に立たないので、湘軍という私兵団を作り上げる。これが曾国藩の死後李鴻章に引き継がれて北洋軍となり、さらに袁世凱・蒋介石と引き継がれて民国軍の母体となる。
- 最後は病死というか餓死というか。
- 南京城内の食糧が底をつき、「もう食べるものがありません!」と部下に報告された洪秀全、「甜露(雑草)を食べるのだ」
部下「そんなもの食べられません」
洪秀全「なにぃ、それは信仰が足りないからだ。見てろ、ワシが食べてみせるから」
その後彼は雑草だけを食べ続けて死んだという。
- 南京城内の食糧が底をつき、「もう食べるものがありません!」と部下に報告された洪秀全、「甜露(雑草)を食べるのだ」
- 洪秀全の死後まもなく南京は陥落。この時攻撃側によってものすごい虐殺暴行略奪がおこなわれた。
- 中国人のいわゆる南京大虐殺はこの時のイメージが元になっているらしい。
袁世凱
- 本当の「ラストエンペラー」は愛新覚羅溥儀ではなく、この男。
- 中華民国大総統の座を孫文から奪ったあと、御用学者に「中国には共和制は適さず、帝政が適している」という論文を出させ、皇帝に即位した。
- が、諸外国から認められず、内部からの突き上げも激しくなって、数ヶ月で退位。間もなく死亡。
- 後世の歴史家からも、皇帝と認められる可能性は薄い。まあ李自成クラスの自称皇帝扱いだろう。
- 日清戦争の時には朝鮮王室の黒幕として権謀をふるった。日本側もかなりこの男に振り回された観がある。
- 中国人が今でも日本を罵る時に挙げる「対華21ヶ条要求」はこの男の演出らしい。
- 実は「要求」の大部分が、それまでの既得権益の確認に過ぎず、新たな要求はせいぜい4ヶ条くらいだったとか。それを袁世凱は「日本は(第一次)大戦で列強の眼が届かないのをいいことに、21もの無理難題を突きつけてきやがった」と諸外国に訴えて同情を引こうとした。
- 結局諸外国はどこも反応せず、彼の意図は不発に終わったが、国内向けには効果抜群。極悪非道な日本人の像が定着した。
- 今に至るまで中国人の日本非難の口実となっているのだから、ある意味袁世凱の大いなる遺産であったと言えなくもない。
- 日本人の中にも、真に受けて反省やら謝罪やらしたがるヤカラが少なからず居るので要注意。歴史の教科書にもたいてい「戦前の日本のゴーマンさの好例」として出てくるのではないかな。