王侯伝/春秋戦国

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春秋戦国の王侯

斉の桓公

  1. 春秋五覇の第一号。
    • 春秋五覇が誰と誰を指すのか、各種の説があって一定していないが、斉の桓公と晋の文公だけはどの説でも必ず含まれている。
      • 同じ覇者でもこの人は配下をうまく使って覇者となったという感じで、晋の文公とは対極のような存在である気がする。
  2. 若い頃は小白という名で、兄の襄公を怖れて国外逃亡していた。
    • 襄公は妹萌えで、魯の桓公に嫁いだ妹の文姜と相思相愛。ついには魯の桓公を謀殺して文姜とちちくりあう。そんなこんなで斉の風紀は乱れまくり。
    • しかも襄公は粗暴な男で、親類や重臣にケチをつけては殺したり追放したり。小白も身の危険を感じて逃げ出した。
    • やがて襄公がイトコの無知に暗殺され、その無知も重臣たちに暗殺される。小白にも希望が出てきた。
    • 同じく国外逃亡していたもうひとりの兄・糾に競り勝って斉君に即位。
      • この時、糾に従っていた重臣・管仲に殺されかかる。
  3. 逃亡中ずっと支えてくれた重臣・鮑叔の意見を容れ、にっくき管仲を宰相として登用。これが思わぬ拾い物で、管仲の政策で斉は一躍大国の仲間入りをし、他の諸国に影響力を及ぼす覇者となる。
  4. 本人の性格はけっこう享楽的でチャランボランだったらしい。
    • しかし、ひとたび人を信じればとことん信じ抜くという美点があり、ほとんどそれだけで覇者に昇りつめた観がある。
    • 管仲に政務を任せきりにし、臣下が何を言ってきても「仲父(管仲の尊称)に聞け!」としか言わなかったので、側近の道化役が
      「国君とは気楽なものですねえ。なんでも『仲父に聞け!』で済むなら、あっしにも務まりそうです」とからかった。桓公は
      「何を言う。ワシは若い頃苦労したんだから、いま楽をして何が悪い」と言い返したそうな。
  5. 死後は悲惨なことになった。
    • 管仲も鮑叔もすでに亡く、最後は佞臣ばかり残った。
    • その連中が桓公の遺児たちをそれぞれに担いで内乱状態になってしまい、桓公の棺は埋葬もされずに放置。棺からウジ虫が大量発生する惨状となった。

晋の文公

  1. 春秋五覇の第二号。
    • 春秋五覇が誰と誰を指すのか、各種の説があって一定していないが、斉の桓公と晋の文公だけはどの説でも必ず含まれている。
      • 同じ覇者でもこの人は自分の力で覇者となり得たという感じで、斉の桓公とは対極のような存在である気がする。
  2. 若い頃は重耳という名で、父の献公を怖れて国外逃亡していた。
    • 太子である兄・申生、弟の夷吾と共に、献公の後妻・驪姫に疎まれて遠ざけられていた。やがて申生は自害。
    • 驪姫の子が国君になったが、重臣たちに攻め滅ぼされる。
    • 重耳と夷吾のもとに、次の国君に迎えようとする使者が来るが、重耳はなぜか辞退。宿老・狐偃の意見に従ったらしい。一方夷吾はあっさり承知し、晋の恵公となる。
  3. 少数の臣下と共に中国じゅうを放浪する。
    • 恵公が兄の重耳を警戒し、刺客を送ったので、重耳は隠れ里から出奔し、あちこちの国をさすらう。通過した国は10を下らない。
      • その時冷遇された国(衛や曹)には、あとできっちり落とし前をつけさせたというが、「あの文公が戦争を仕掛けるくらいだから、きっと以前よほど冷遇したに違いない」ってんで後からこじつけられた話かもしれない。
    • 斉に行き、桓公に厚遇され、重耳も斉に骨を埋める気になったようだが、臣下たちが無理矢理連れ出してしまう。
    • 重耳がさすらっているうちに、恵公とその子の懐公が評判を落としまくっており、晋に帰国した重耳はかなりあっさりと国君として迎え入れられる。
  4. 即位して文公となった時、すでに60代半ばで、在位も短かったが、春秋時代最高の名君とされる。
    • 在位が短かったからこそ人気が高かったような気もする。長期政権ならボロが出ていたに違いない。
  5. 肋骨の部分が一枚板のように見えるという珍しい体型をしていたという。要はかなりのマッチョだったということみたい。
    • 上記、曹で受けた「冷遇」とは、それを見たかった共公に入浴してるところを覗かれたということだとか。

秦の穆公

  1. 春秋五覇のひとり……に数える人も居る。
  2. 嫁は晋の文公の姉。かなりの姉さん女房だが、稀に見る賢夫人だったらしい。
  3. 賢臣・百里奚を見出して秦を躍進させる。賢夫人と賢臣に囲まれて、幸福な治世を過ごした。
  4. 夫人の縁で、最初晋の恵公(文公の弟)に肩入れ。
    • しかし恵公も、その子懐公も、恩を仇で返すような真似ばかりした。
      • 晋が飢饉で援助を求めてきた時、穆公は大量の食糧を恵公に贈った。翌年今度は秦が飢饉になり、晋に援助を求めると、恵公は断ったばかりか、恥知らずにも弱みにつけ込んで軍勢を差し向けてきた。
        • 兵糧はほとんど無かったが、秦の兵たちは恵公の外道ぶりに怒りまくり、火事場のクソ力で晋軍を撃退。
      • 恵公の嫡子は人質として穆公のもとに居たが、やがて恵公が没すると、ひとことの断りも無く晋へ逃げ帰って勝手に即位、懐公となる。
    • さすがの穆公も切れ、一転して文公の帰国を援助。文公即位後の内乱も収めた。
    • 斉の桓公や晋の文公のような、大規模な諸国会盟を開催したわけではないので、覇者とは呼べないかもしれないが、いわば「覇者を作った人」。また、後年秦が天下統一を果たす礎を築いた君主でもある。

宋の襄公

  1. 春秋五覇のひとり……に数える人も居る。
    • 実際には、覇者にもう少しでなれそうだった人、と言うべきか。
  2. 斉の桓公の太子をかくまって即位を助けたり、晋の文公を厚遇して帰国を助けたりしたので、なんとなく覇者のような気がしてしまったらしい。
    • 斉の桓公を真似て、諸国会盟を主宰してみたが、集まったのはほとんど小国ばかり。
    • それどころか、調子に乗って何度も会盟をやっているうちに、楚の成王がやってきて、主宰者の席からひきずり下ろされてしまう。
  3. 泓水の戦いで楚に惨敗、「宋襄の仁」という言葉を後に残す。
    • 楚軍が圧倒的に大軍だったので、重臣たちは奇襲を薦めたが、覇者気取りだった襄公は拒否。堂々と正面からぶつかって、当然のごとく惨敗。本人も重傷を負い、やがてそのために死ぬ。
    • 「宋襄の仁」は「身の程知らずにカッコつけて敵に情けをかける」意味となる。

楚の成王

  1. 春秋五覇のひとり……に数える人も居る。
  2. なかなか剛毅な王様で、周囲を侵略しまくる。
  3. 晋の文公が即位前に訪ねてきた時、大いに厚遇。
    • 「さて、この礼に、あなたは何をワシにくれるのかな」と文公に質問。即位したら少し領土を割譲しろという含み。
    • 文公は考えたのち、「そうですな、将来干戈を交えることがあれば、三舎を避けましょう」と答えた。成王はこの答えが気に入ったらしい。
    • 後年、実際に晋と楚が戦った際、文公は約束を守って、前線から三舎(軍勢の三日分の行程)退却した。
  4. 息子に反逆されて死ぬ。
    • 「死ぬ前に、熊の掌を食べさせてくれないか」と頼んだが、拒否された。
      • 熊の掌は煮込むのにやたら時間がかかるため、成王はそれを時間稼ぎにして反撃の糸口をつかもうとしたらしい。
      • 息子(穆王)のほうもそれと察して拒否したらしいが、「父親のいまわの頼みも拒絶した親不孝者」として後世に悪名を残した。

楚の荘王

  1. 春秋五覇のひとり……に数える人も居る。
    • ただし、数えていない人のほうが少数派で、ほぼレギュラーと言って良い。
    • とにかく長い歴史を持つ楚の国君の中で最高の名君とされている。
  2. 「鳴かず飛ばず」の元祖。
    • 即位して三年間、放蕩の限りを尽くして、臣下の反応を観察。
    • 三年経って、たまりかねた重臣のひとりが、なぞなぞを出す。「ここに三年間、ひと声も鳴かず、一度も飛ばない大きな鳥がおります。この鳥なあんだ?」
    • 荘王の答えは「その鳥は、一旦鳴けば人々を驚かし、一旦飛べば天に届くぞ」
    • 荘王はその日から大変身し、佞臣を一気に粛正し、賢臣を抜擢したとか。

呉の夫差

  1. 春秋五覇のひとり……に数える人も居る。
  2. 父・闔閭が越王の勾践に殺され、復讐に燃える。
    • タキギの上に寝て、その痛苦で怨念をかき立てた。
    • 部屋の外に家臣を立たせ、出入りのたびに「夫差よ、汝の父を勾践が殺したことを忘れたか」と言わせ、怨念をかき立てた。
    • 実は、そんなことでもしないと恨みをすぐ忘れるあっさりした性格だったから、とも言われる。
  3. 雌伏数年、先制攻撃をかけてきた越をみごと討って勾践を捕らえる。
    • 宰相の伍子胥は勾践を殺すよう進言したが、夫差は聞かずに勾践の命を助ける。
      • やっぱり、あっさりした性格だったからかも。
      • 父王に仕えた伍子胥がそろそろうざったくなってきていて、彼の言うことには反撥したいお年頃だったとも考えられるが。
  4. 勾践が恭順なので、越への警戒を解き、あとはもっぱら中原に覇を唱えることばかり考えた。
    • 伍子胥に、越への警戒を解かぬよう諫言されたが、もう決定的にうざくなっていて、難癖をつけて伍子胥を自殺させてしまう。
    • 闔閭と伍子胥に亡国寸前に追い込まれた楚の国が、まだ復興途上であったこともあり、夫差の覇業は案外うまく行き、諸国会盟を主宰することができた。だが、その席上、国内での謀反の報が届き、あたふたと帰国することに。
  5. 復活した勾践に撃破され、自殺。呉も亡びてしまった。
    • 勾践は以前夫差にかけられた温情を思い出し、命だけは助けようとしたが、夫差は断り、「伍子胥に会わせる顔がねーよ」と言って、顔に白布をかけさせてから自殺した。

越の勾践

  1. 春秋五覇のひとり……に数える人も居る。
  2. 呉王・闔閭を斃すものの、その子・夫差に反撃されてボロ負け、命ばかりは助けられる。地名をとって「会稽の恥」という。
  3. 軍師・范蠡の進言により、徹底した土下座外交をおこなって夫差の警戒心を解きつつ、復讐戦を企む。
    • 「会稽の恥」を忘れないように、手許ににが~い胆(熊の胆?)を持ってしじゅうなめていた。夫差の「タキギに寝た」故事と合わせて「臥薪嘗胆」という成語になった。
  4. 雌伏10年、中原での覇業に熱中していた夫差の隙を突いて呉を亡ぼす。
  5. 雌伏の時期を支えた軍師・范蠡と大夫・文種を消そうとする。
    • 情けない時期を知り尽くしている二人を生かしておけなかったらしい。けっこう尻の穴の小さな男である。
    • 范蠡は勾践の意図を見抜いていち早く遁走。文種は逃げ遅れ、自殺を命じられる。
  6. 名剣のコレクター。
    • 勾践のコレクションの1本が、20世紀になって見つかる。サビひとつなかったらしい。

趙の武霊王

  1. 無礼な王だったわけではない。
    • 諡号の「武」は文字通り武威を誇った意味だが、「霊」のほうは「ちょっとイカれてたんじゃね?」というような意味。まあ褒貶相半ばするというところ。
  2. 「胡服騎射」を導入。
    • 「胡」(北方の騎馬民族)に倣って、軍服はジャケットとズボンにし、馬に直接乗って弓を射よう、という兵制改革。
      • それまでは、和服と似たような衣服をつけ、馬には直接乗らずに戦車を牽かせてそれに乗るのがデフォだった。
      • 当時は「服装=文化」みたいな考え方だったので、猛反対が巻き起こる。
        • 「史記」にはやたら詳しく、反対派に反論する武霊王の演説が載っている。司馬遷の価値観からしても大問題だったらしい。
    • 当然ながら万事が機能的になり、馬の速力を活かした機動力も獲得。趙は一躍軍事大国へと躍り出る。
  3. 一代の英傑にしては、餓死という悲惨な死に方をする。
    • しかも息子の恵文王の軍勢に取り巻かれた挙げ句の話。
    • 恵文王は胡服騎射もやめてしまう。趙の覇権は短期間で終わった。

楚の懐王(その1)

  1. 秦に手玉にとられ続けたバカな王様。
  2. 斉と同盟を結んでいたが、秦の謀略に乗せられて破棄。
    • この時秦の使者だったのが有名な縦横家の張儀。600里四方の土地を割譲するので、斉と断交するように求めた。懐王は土地に目がくらんで即座に承諾。
    • 土地を受け取りに行くと、張儀が渡したのは6里四方の地図。抗議すると「おや、お聞き間違いになったのでしょう。私ごときが600里四方もの土地を独断でお渡しできるわけがないではありませんか」
    • 激怒した懐王は張儀を捕らえるが、買収された家臣に丸め込まれ、釈放してしまう。
  3. 怒って秦に攻め入るが、あっさり返り討ち。
    • 同盟を破棄された斉からはもちろん一兵の援軍も無く、楚はたちまち窮地に。
    • 講和のためいやいやながら秦に出向くが、そこで抑留されてしまう。
    • 脱出を図るが簡単に連れ戻され、ついに抑留されたまま客死。何やってんだか。