江戸時代
江戸時代の噂
- この時代のサムライの主な死因は、飲みすぎだった。
- 腎虚でもある。SEXのやりすぎということだな。
- 背中には人生を背負っていた。
- これわかるヤツは年寄りね
- 「指先」ではなく「片手に」短筒なのである。当時の日本人の短筒は、欧州人がみて「ウタマロ!」と讃えるほどのものであった。
- 飲みすぎの原因になった酒は「唇」の「火の酒」。どんな酒だろう?
- 醤油や味噌が今より高かったため、塩や梅干しを混ぜて調味料としても盛んに利用された。
- 家康、鯛の天ぷらの食い過ぎで食中毒にかかり死ぬ。
- 食中毒なんて健康オタクの家康らしからぬ死に方だ。実際は胃癌との説が濃厚らしい・・・。
- でも、実際に70過ぎまで生きたんだから、当時は大往生と言っても良いよな。
- 飲み会で酔っ払って殺し合いになることが多かった。
- 宮本武蔵が「五輪の書」を残すが、後年仏国クーベルタンにパクられる。これに立腹した吉川英治、井上雄彦らが宮本武蔵の名誉回復を図る。
- 越後屋と近江屋と伊勢屋が暗躍。
- 三河屋は御用聞きに精を出す。
- もちろん取引先は代官。
- お饅頭は黄金色に輝く平たい金属製。
- 伊賀忍者と甲賀忍者も暗躍。
- 組織を抜ける「抜け忍」は御法度とされ,非人出身の抜け忍が追っ手と死闘を繰り広げる.その脇で農民が一揆を起こしたり,武士や町民が暗躍したり.時折「カムイ~」と叫ぶ謎の大男出現.
- ちなみにヌケニンは効果が抜群の技以外は当たらない。
- 組織を抜ける「抜け忍」は御法度とされ,非人出身の抜け忍が追っ手と死闘を繰り広げる.その脇で農民が一揆を起こしたり,武士や町民が暗躍したり.時折「カムイ~」と叫ぶ謎の大男出現.
- まじめに政治をするよりも、世直し殺人をしている人のほうが後世に語り継がれている
- 数少ない例外は大岡越前守忠相とか。
- 旅行が大流行(特に伊勢)。人気紀行作家のガイドブックが飛ぶように売れた。
- 借金を踏み倒したり、無一文で伊勢参りに出発した者が一財産築くこともあったという。まさにジャパニーズドリーム。
- 弥次喜多珍道中が大ヒット。続編も次々と書かれる。
- 人気が出たおかげで、弥次喜多のコンビは海外まで行かされる羽目になる。
- 第四次旅行ブーム。文化人(飛鳥・唐国)→上皇・貴族(平安・熊野)→戦国大名(戦国時代・京都)と来てやっと庶民にブームが行き渡る。
- 旅行用のポータブルちょうちんが小田原で発明される。
- 歌舞伎、握り寿司、天麩羅、浄瑠璃、俳句、落語はこの時代の最先端ムーブメント。
- その集大成として、後の世に「空中元禰チョップ」が生まれる。
- 狂言は室町。
- 300年間続いた。
- 約270年。
- 浦島太郎が帰ってくる。
- 主食はすし。
- 「トロ?そんな脂身生で食えるか!」だった。
- ファストフードはそば。
- さっとすすってさっと店を出る手っ取り早さが江戸っ子にバカウケ。空前のブームに。
- ファストフードなそばは店に入らない。店先の縁台で食べる。そば屋の座敷はどっちかというと昼からOKの飲み屋
- そして杉浦日向子さんが常連。
- 天麩羅や江戸前寿司も同様。
- うなぎ屋は注文してから出てくるのが遅いので、個室喫茶扱いだった模様。
- 支払いの時には、「いま、何時(なんどき)だい?」と聞くこと
- さっとすすってさっと店を出る手っ取り早さが江戸っ子にバカウケ。空前のブームに。
- 倹約をすれば何でもOKと信じ込み、やたら倹約令を出して農村を消耗させる
- 帯をぐるぐる回して楽しむのが通の遊び方だった。
- 「よいではないか、よいではないか」「あ~れ~」
- なんでも「ええじゃないか」ですませようとする。
- 江戸時代中期までの標準語は関西弁(正確には京都弁)だった。
- 初期の頃は江戸っ子も東国なまり関西弁を話していた。
- 農業は田んぼしかない。
- 綿花や紅花、さらには葡萄なんかも密かに栽培されてた。
- 長い顎髭の爺さん+金魚の糞2人+色気ばばあ+うっかりやさんの珍道中
- 金魚の糞2人=「助兵衛」と「沢庵」
- 馬鹿だなぁ。正しくは「飛車」と「角」なので受験生は間違えないように。テストに出るよ。
- 毎週、正義を名乗る謎の人物達に悪人が殺されまくる。
- 将軍様直々に成敗をしまくっていたとの噂も。
- サンバも歌います。
- ラメ入りのド派手な着物で目立ちまくります。
- エコーも効いてます。
- 将軍様直々に成敗をしまくっていたとの噂も。
- 隠居した元副将軍は越後のちりめん問屋を名乗った。
- 「越後のちりめん問屋」と名乗る爺さんが全国を旅して回っていた
- ↑でも、越後でそれを名乗るとやばいので、越後に来た場合のみ「丹後のちりめん問屋」と言う。
- 政治に関われるはずの老人が、旅先で目先の悪事を叩きまくる。
- 名前は「ニート拷問」または「ニート訪問」
- 天草四郎時貞が死んだり生き返ったりを繰り返す。
- 酒飲みの侍やアイヌの美少女姉妹、アメリカ人の忍者などがそれを討伐しに行った。
- 「大自然のぉ・・・(溜め)・・・お仕置きよっ!」
- 「トーキーオ!」(ネタ分かる人いる?)
- 酒飲みの侍やアイヌの美少女姉妹、アメリカ人の忍者などがそれを討伐しに行った。
- カブキロックスが「おエロ」でデビュー
- グレートカブキもデビュー
- ナムコ、トロマ名義で「カブキマン」の撮影を開始
- 当時世界最大の都市だったが申請を怠ったためギネスには採用されなかった
- 元素リサイクルを導入し300年にわたって燐やカリウムなど資源の循環に努めた
- このネタちょっと恐い…。
- 「アイデア対決からくりコンテスト」開催(後のロボコン)
- 松尾芭蕉・おくのほそみち
- 代表作:松島や ああ松島や 松島や
- 松島や 昔はトモ子 今菜々子
- 松島や 昔は菜々子 今尚美(オロセ)
- 五月雨を 集めて早し (曽良にひっぱたかれ)べにましこっ
- 松島や 昔は菜々子 今尚美(オロセ)
- 18世紀終盤から19世紀初頭にかけて、日本でも将軍自ら喜び組を作っていた。
- 異議あり!ちゃんと「大奥」といいなさい!
- ちなみに「奥さん」というのはここからきている。
- でもなぜか女房のことを「室」といわない。
- 異議あり!ちゃんと「大奥」といいなさい!
- この頃の学者達は五次方程式なんかをマスターしていた。
- 庶民も数学の教養があったようですな、神社へ算額奉納したりしている。とある算額の設問(十二歳ぐらいの出題者)に大学の数学の教授が「ちょっと私にもわかりません」と言わしめるものも有ったらしい。
- 微分積分もそれなりに研究されていたらしい。
- 綱吉イチオシは意外にも「ビタワン」だった。
- ↑「ぺディグリー・チャム」じゃないの!?。
- 47人のテロリストが吉良邸にて家人・使用人をことごとく虐殺するという「忠臣蔵殺人事件」発生。
- 八人の里見さんが現れる。
- 本懐をとげるのに30年近くかかったので、忘れた人が大多数。
- 戦で活躍した人々が突如お払い箱に。大失業時代到来。
- 印刷技術が飛躍的に向上し、貸本業も商売として成功。
- その技術革新の元は、エロ本をいかに綺麗に大量につくれるかというリビドー。いつの時代のメディアも、エロを制すものは世界を制す(VHSビデオとか)。
- インターネットの普及にもエロの多大な尽力があった。
- ということで「エロ幕府」も出来ました。
- お上に認められた出版物より、無許可のアングラ出版(もちろんエロ)のほうが色数も絵柄も上等だったほど。
- って言うか公認の出版物は色数その他が厳しく規制されていた。存在自体がご法度な春画などは規制もへったくれもそんなの関係ねぇ!ってこと。
- インターネットの普及にもエロの多大な尽力があった。
- その技術革新の元は、エロ本をいかに綺麗に大量につくれるかというリビドー。いつの時代のメディアも、エロを制すものは世界を制す(VHSビデオとか)。
- 野菜中心蔵が開発される。
- 佐藤信淵という人が「混同秘策」という本を書いた。馬乳酒ばかり飲んでるモンゴル人に日本酒を飲ませ懐柔し、力を合わせて中国に攻め込もうという素晴らしい内容だったらしい。
- この政策(?)は、まわりまわって第二次大戦後の日本に対して実施された。飲み食いさせたのは肉と牛乳で、戦う相手は共産主義だったが。
- バブル景気&金権腐敗の時代と倹約不況&恐怖政治の時代が何度も繰り返された。
- 大久保長安、徳川政権転覆のため暗躍。伊達政宗や松平忠輝、全国の切支丹らをも巻き込む大陰謀を企むが失敗。日本国民総キリスト教化が挫折する。
- 皺だらけのおじい様が死体をバラバラに。
- 倹約好きの狸オヤジが天下を取ったせいで、倹約が日本の文化になってしまった。
- 妻運の悪い狸オヤジが天下を取ったせいで、女の地位が窮屈になってしまった。
- 後家好みで相手がウマくてかつこちらを先に気持ちよくさせてくれることが最優先のドエロジジイである。
- 助さんが出世するといつのまにかコーモンになれるという平等主義の時代であった。
- 銭形平次にならってエドにB型平次が登場する。さらに山形平次までも。
- この時代の犯罪者は島流しでミエノ島やサイパン島果てはランゲルハンス島に流された。
- インスリン製造の強制労働が待っていた。
- 平賀源内がアスベストを開発し使用されるようになる。問題になったのは2005年頃から。
- 昔から有毒性は指摘されてたんだが、下級労働者はもともと短命なので放置されてた。人間50年~。
- 小林よしのりによると一番平和な時代だったらしい。
- でも本当は身分制度があるし飢饉も起きたし権利という言葉が無かった、はっきり行って革新性の無い怠惰な時代。
- 一揆はちょこちょこ起こったが大規模な市民革命は起こらなかった、この時代から日本人はお上の言いなりだった。
- つっても、ヨーロッパと違って割と農民の言い分ってお上は聞いてたしな。その気になれば旗本株買って農民でも武士になれたし、案外流動性のある社会。
- 末期には「最近『聞こゆる』を『聞こえる』とか言ってる馬鹿が増えた。美しさの欠片も無い。」とか言ってたらしい。
- 江戸時代は毒男だらけ。家を継いで結婚できるのは長男のみで、次男以下はもしもの時のためのストック。男子のいない他家に養子にでも出されない限り結婚できない。これは武士も農民も同じ。
- この時代はフリーターが多かった。でもそれでもちゃんと生活ができていた。
- 毎日働くのは公務員(武士)だけだったらしい。
- それでも武士(特に将軍直属の旗本)は余ってしょうがなかったので、週休三日制にした。
- 毎日働くのは公務員(武士)だけだったらしい。
- 徳川綱吉が動物保護団体の会長に就任する。
- 蔦屋(ツタヤ)と言う本屋があった。今のTSUTAYAとは別。
- 「改革」が3度行われたが、いずれも経済学を無視していたため失敗に終わる。
- しかも後の「改革」になればなるほど恐怖政治となっていった。
- 訂正:享保の改革だけはちゃんと経済学に則った政策をしていて、経済の好転と幕府財政の立て直しを実現させた。
- 経済学に当たる学問は江戸時代からあり、改革を行う当人たちも知識として知ってはいたようなのだが、実施はしなかったし、おそらく出来なかったと思う。
- もしそうした政策、例えば当時よく行われた特産品の育成や専売を幕府がやってしまったら、他藩の同業者を圧迫することになり、社会公共の利益に反する。また、幕府の組織規模では経済に与える影響が大きすぎ、その物産の価格も下がってしまい苦労する割に利益は生まれない。
- これを回避するには外国に売るしかないが、そうすれば伝統的な鎖国政策、ひいては幕藩体制自体の否定に繋がってしまう。
幕末の噂
- 黒い船に乗ってペルーが来日。
- 「ペリー」だろ。ペルーはフジモリだ。
- え?フジモリってアメリカ人じゃないの?
- 当時の発音は“ペルリ”
- ↑はオランダ語読み。当時の日本は、ヨーロッパの言葉と言えばオランダだったから。
- 「かぁいこくしてくださぁいよ~」と迫る。ついでにミキコにピアノレッスンもして帰る。
- レッスンに使ったピアノはタケモトピアノで購入した中古品。
- ピアノは当然静岡で造られたものである。
- ペリーさんは日本の文化が思った以上に高かった事に驚いたらしい。
- ヨットを所有していることを利用したナンパ、この時代に始まる。
- 彦根のニートが紆余曲折を経て国政の最高責任者に。「僕はえらいんだ、言うこと聞かない奴はこうしてやる!」と大粛清の嵐。
- 「新撰組」と名乗るあやしい集団がリクルート活動していた。仕事は人殺し。
- 一度入会すると、脱会できないことは秘密であった。
- 脱走した者の、その後の姿を見た者はいない・・・。
- 生き残った奴も一応数名いる。
- その生き残った奴は、コンビニの店長。
- 近藤とかにちゃんと許可を取って、辞めたのもいる。理由は、隊内のホモにストーカーされたから(マジらしい)。
- 合言葉は「悪・即・斬」
- 主なメンバーは、ストーカーゴリラ・末期的マヨラー・サディスティック星の王子・ミントン男。
- 荒木飛呂彦も組員だった。彼が吸血鬼になったのはこの頃だといわれている。
- 幕府が滅亡したのは「さつまいも」と「長州力(小力かも)」のせいである。
- 坂本金八も忘れるな。
- 勝新もやろ?
- 江頭2:50は?(すまん江藤だった)
- 「ええじゃないか」がブームに。
- 流行語大賞にもノミネートされたとか、されなかったとか
- 海援隊がデビュー
- あ~んたがタイショッ♪
- KO大学創設。
- ジャパニース・スモウレスラーが世界に知れ渡る。
江戸幕府の将軍
- ところで、将軍は本当に「殿!殿ー!」と呼ばれていたのか?
- 「上様」では??
- 「殿」=「城主・領主」って意味らしい。だから大名から旗本まで、「殿」は全国にたくさんいた。
- 「副将軍」という官職が正式にあったと思う人は多い。
- 水戸のご老公とか。
- 伊達政宗もそう称してましたな。
- 実質的なその役目は大老(老中)だったが。
徳川家康
- 経営者たちにもっとも人気がある歴史人物。
- 腹黒いところはあんまり見習って欲しくないなあ。
- 徳川家が政権を世襲することを示すため、さっさと秀忠に譲位。
- しかし、それなら自分は陰に回って秀忠を立てればよいものを、いつまでも大御所として出しゃばり続ける。どういうつもりなんだか。
- これについては「豊臣家の問題を自分の代でなんとか片付けて、息子に楽させたい」と好意的な見方をする人もいるにはいる。でも大半の人はこの時点で腹黒い狸親父のイメージ確立。
- 大御所家康と同じように、信長は信忠に、秀吉は秀次に、その在世中に家督および公的な地位を譲りかつ実権は握り続けていたが、この点で腹黒さを誹謗されるのはなぜか家康のみ。
- しかし秀次を族滅した秀吉に比べると、自らの正妻と嫡子を殺し次男を冷遇し三男に家を継がせた家康の場合、その点ではあまり非難されていない。
- 信康と築山殿は信長の命令でしょうがないし秀康は気まぐれで手をつけてた奥女中との子だからなぁ。
- しかし秀次を族滅した秀吉に比べると、自らの正妻と嫡子を殺し次男を冷遇し三男に家を継がせた家康の場合、その点ではあまり非難されていない。
- 鯛の天ぷらに当たって死んだことになっているが、直接の死因は胃ガン説が有力。
- 実は,武田信玄との戦いで敗れ、アレを漏らしたことで有名。
- しかも、その直後の情けない顔をわざわざ絵師に描かせる物好き。
- 無類の健康オタクとして有名。
- 事実上の首都を秋葉原近くにおいた。
- 医師を信用せず、常に自分自身で調合した薬を服んでいた。
- おそらく医学的知識は当時の医師の誰よりも豊富だったが、その知識を人々のために役立てようという意識はこれっぽっちもなく、ひたすら自分の健康のみを冀(こいねが)った。
- 一応、孫のために薬を調合したりしている。
- 終生のライバルはサナダ虫だった。
- 俺の大名を斬首するなどひどいことするねぇ・・・・
徳川秀忠
- パパ家康の存在感の陰に隠れて、けっこうえげつないことをしている人。
- 大名家のお取り潰しは、秀忠の治世中がいちばん多い。
- パパの影に隠れて目立たずに後を継いだため、しがらみがなかったからと思われる。
- 福島正則が改易されるときのコメント、「先代なら言いたいこともあるが、当代ではどうしようもないわ」が象徴している。
- 恐妻家と言われているが、それも偽装っぽい。
- 隆慶一郎の小説では必ず悪役のボスになっている。
- 柳生宗矩を片腕にして陰謀の限りを尽くす。
- 正室の於江の方も悪役。
- 将軍にはなったが、源氏の長者にはなってない。
- 石高10万石にも満たない小大名の真田幸村に喧嘩を売ったがあっさりと負ける。それが原因で関ヶ原の戦いには間に合わなかった。(藁)
- しかも部下は徳川の主力部隊。そのせいで家康は論功行賞で外様大名に大盤振る舞いせざるをえなくなる。
- 彼が大名を潰しまくったのは、それを挽回するためかもしれない。
- 大名なのは幸村の親父の昌幸。念のため。
- しかも部下は徳川の主力部隊。そのせいで家康は論功行賞で外様大名に大盤振る舞いせざるをえなくなる。
徳川家光
- ホモだったので周囲を心配させた。
- おかげで大奥が出来たわけで。
- ようやく抱いた最初の女は尼さん。中性的な感じが、導入には良かったんでしょうね。
- 親父の秀忠が嫌いで、「徳川家2代目」を名乗り、秀忠の治世を無かったことにした。
- 源氏の長者としての2代目だったのは本当。
- この頃までは、全国の武士を支配する根拠は「征夷大将軍」ではなく「源氏の長者」の地位だったという説もある。源氏の長者にならなかった秀忠が、なんとなくみんなから軽く見られていたっぽいのもそのせいかも。
- 名君説と暗君説があるが、俺は名君説を支持したい。
- 「将軍家光忍び旅」(テレビ朝日)を見てなんとなくそう思いたくなったのは内緒。
- 夜な夜な変装して辻斬りにいそしんでいましたが・・・、名君?。
- 長七郎の伯父さん。
徳川家綱
- 大老・酒井忠清の言うなり。なんでも「そうせい」と許可したので「そうせい公」と渾名された。
- 幕末の毛利敬親も「そうせい侯」と呼ばれた。
- 毛利の方は、伊藤博文や井上馨などを輩出するなど、呆れるほど上手くいった。
- 幕末の毛利敬親も「そうせい侯」と呼ばれた。
徳川綱吉
- 犬公方。
- 犬を特に保護したのは自分が戌(いぬ)年だったからだが、犬以外の動物も保護していた。
- 世の中から殺伐とした気風を無くそうとの深慮遠謀のつもりだったらしい。
- それなのにお膝元の江戸城で、浅野内匠頭が刃傷沙汰を起こしてしまった。ブチ切れるのも無理はない。
- 金銀を改鋳。
- 実行した荻原重秀は、「通貨とはそれ自体の価値を持つものではなく、発行者の信用によって価値を獲得するものだ」という経済思想を世界で最初に考えついた天才。
- つまり、「実際の小判一枚にどれだけの分量の金が含まれていようと、それを幕府が一両と言えば一両になるんだ」という「信用貨幣」の考え方で、欧米でこの考え方が始まったのはずっと後のこと。
- 実際、綱吉の時代は江戸時代通しても有数の好景気に恵まれている。
- しかし、あまりに天才的すぎて誰も理解できず、奸物の汚名だけをこうむって失脚。
- 天才というのは、評価してくれる人が居てはじめて能力を発揮できるんですね。
- 日本が鎖国していて、外国との決算が限られていたからこそ気づけたと思う。もし、貿易が盛んだったら、外国でも通用する品位の安定した貨幣を作らざるを得なかっただろう。
- この政策によりマネーサプライが増加し、元禄景気が発生した。
- 世界でも最も早い金融政策であると言えるだろう。
- もし荻原重秀が書物を残していたら、アダム・スミスと並ぶ経済学の古典となっていたと思われる。
- 荻原重秀を追い落とした新井白石は、その書物の中で荻原重秀をdisりまくった。
- 経済論争が口汚いのは、この時代からの伝統である。
- 学問好きで、儒学を諸大名に講義したり、湯島聖堂を建てさせた。
- ただし、その学問の中には経済学は含まれない。上項の荻原重秀の経済理論はまったく理解できなかった。
- 経済学は、この時期西洋でもようやく研究され始めた頃。この時期の日本でそれを求めるのは無い物ねだりに等しい。
- そのおかげでようやく学問が社会に必要だと認知され始めた。それまで学者は社会の落伍者扱いだった。
- ただし、その学問の中には経済学は含まれない。上項の荻原重秀の経済理論はまったく理解できなかった。
- 「低身長症説」がある。
- 根拠は徳川氏の菩提寺である大樹寺に収められている歴代将軍の位牌はそれぞれの身長に合わせて作られている、という説があり、綱吉のそれは124cmしかなかったことである。
- もっとも、この位牌は、骨が残っている将軍と比較した結果、割といい加減に作られているらしい。
- 母親孝行息子か、ただのマザコンかは微妙。
- 母親の桂昌院は元八百屋の娘で名前をお玉。「玉の輿」の由来はこの人から。
徳川家宣
- 綱吉の甥。
- 法度類を変更しないようにと綱吉から遺言されたが、さっさと生類哀れみの令を廃止してしまった。国じゅうみんなが「GJ!」と思った。
- 近年の研究では、生類哀れみの令は未だに戦国の遺風で人命軽視が著しい社会を変える為に、ワザと極刑を科す事で生命尊重を植えつけようとしたという説が強い。まあ、この時期に解除したのは妥当な判断だと思うが。
- ちょいと先を読みすぎた法律だったしな。
- 近年の研究では、生類哀れみの令は未だに戦国の遺風で人命軽視が著しい社会を変える為に、ワザと極刑を科す事で生命尊重を植えつけようとしたという説が強い。まあ、この時期に解除したのは妥当な判断だと思うが。
- 新井白石を重用したが、白石が経済音痴だったので財政悪化。
- 田沼の水が恋しくなったのもこの頃でしたっけ?
- それは「寛政の改革」。徳川家斉の項を参照のこと。
- 通貨の金銀含有率を上げてマネーサプライを減らしたため、日本はデフレ不況に陥ってしまった。
- この政策は現在の日銀に受け継がれている。
- 田沼の水が恋しくなったのもこの頃でしたっけ?
- 増上寺の遺体調査によると美男子だったらしい。
徳川家継
- 新井白石のごり押しで、4歳で将軍になる。
- 親父の家宣は、息子が幼少なのを案じ、次の将軍に尾張徳川家の吉通を推薦したが、白石は儒教的スジ論から反対。
- 「それならせめて吉通殿に後見して貰ってはどうだ」という家宣の提案にも白石は反対。こっちは自分の権力低下を恐れたか?
- 8歳で病死。これにて秀忠の直系子孫は全滅。
- 新井白石、間部詮房などの権臣たちは、次の吉宗に忌避されて軒並み失脚。吉通を迎え入れていれば降格程度で済んだかもしれないのに……
徳川吉宗
- 暴れん坊将軍。
- 目安箱設置。
- 名君の証左とされるが、高級官僚と仲の悪い独裁者が直接民衆と結びつこうとするのは珍しくないことで、そんなに褒めた話ではない。
- 米公方。
- 徹底した農本主義者で、かなりの水準に達してきていた商品経済や金融経済をひたすら弾圧。
- それで不況も何回か起こった。一方で、貨幣改鋳によるマネーサプライとかもやって、物価安定に尽力した面もあるが。
- 享保の改革は、それでも寛政や天保より幾分かまし。まだ経済学を勉強しているから。
- 実は寛政の改革の松平定信は、懐徳堂などの先進的な学問も知ってはいる。殆ど政策に生かせてないけど。
- そもそも当時経済学という学問が、日本どころか世界でも殆ど存在していない。それなのに、経済の無知を理由で吉宗を責めるのは、「後出しじゃんけん」でしょう。
- 紀伊藩の四男なのに、兄達が次々と早死。22歳で紀伊藩主となる。その後第7代将軍・徳川家継がわずか8歳で亡くなり、見事将軍に。
- どっかの大学の数学者は、これを天文的確率と計算した。
- 系譜から行けば将軍職は尾張藩に回る可能性があったが、当主が三代連続不審死を遂げるなど藩内はゴタゴタしており、結局吉宗が将軍に選ばれた(これも天文的確率?)
- ブス専。大奥に不器量な娘だけ残したり、不器量で嫁の貰い手がなかった娘に一目惚れして側室にしたりしている。
- 美人は大奥以外でも仕事があるとした名将軍との説も
- パチスロでも大人気。
- 近年、業績に関して突っ込まれているが、やっぱり名君。
- 足高の制と、やはり彼の時代に許された御家人株の売買による農民や町人の登用によって、身分制の枠を超えた人事が可能になった。この制度がなかったら、勝海舟や川路聖謨といった幕末の人物が全く活躍出来なかっただろう。
- 高麗人参をはじめとする薬種国産化プロジェクトにより、博物学をはじめとした科学が発達しただけでなく、日本全体の公共的な利益や国民全体の福利厚生の発想を生んだ。「技術立国・日本」の元祖と言えるかもしれない。
徳川家重
- 言語不明瞭で、家重の言っていることがわかるのは側用人の大岡忠光だけだった。
- 病気がちで、あんまり表に出てこなかった。
- 本人がはたして人として暗愚であったかどうかは微妙。
- 大河ドラマ「八代将軍吉宗」で、中村梅雀が名演技を見せた役。
- 実は女だったかもしれないという噂あり。
徳川家治
- 頭は良かったがオネショの癖が抜けなかった。渾名は小便公方。
- それは9代将軍家重だろ
- 田沼意次を重用し、吉宗が弾圧した商品経済・金融経済を大いに奨励。
- 杉田玄白、平賀源内などオモシロ文化人が大活躍。
- 将棋にはまる。将棋についての本まで書いた。
徳川家斉
- オットセイ将軍。
- なんと28男27女をもうけた。その他にも御落胤が何人も……
- それらの子の片づき場所を確保するため、あちこちの大名家に無理を強いた。
- その結果、有力大名のほとんどに家斉の血筋が入ったが、皮肉なことに家斉の出身である一橋家は後に家斉の血筋が途絶えてしまった。
- 家斉の21女溶姫を押し付けられた加賀藩主前田斉泰は、彼女を迎えるために藩邸に赤い門をわざわざ建立した。これが後に移築されて東大名物の赤門となった。
- 精力絶倫で身体も頑健。在位中の病歴は風邪で数回寝込んだのみ。
- 文化文政時代到来。江戸期文化の爛熟期。
- 時代劇に出てくる風俗は大体この時代のもの。元禄時代のはずの水戸黄門や忠臣蔵モノでも同様。女性の髷の形からして違うんですが……
- 生きているうちに太政大臣になった武家出身の人物は、彼を含めてたった6人しかいない。
- あと5人は、平清盛・足利義満・豊臣秀吉・徳川家康・徳川秀忠。ちなみに織田信長には明治になってから太政大臣の官位が追贈された。
- 豊臣秀吉は武家ではなく公家として太政大臣になった。
- あと5人は、平清盛・足利義満・豊臣秀吉・徳川家康・徳川秀忠。ちなみに織田信長には明治になってから太政大臣の官位が追贈された。
- 幼少の頃、カニや鶏を殺して遊んでいたという嫌な逸話がある。
- 最初に松平定信が田沼路線を否定した構造改革を行うが、あまりに恐怖政治とデフレ不況がひどかったので7年で失脚。
徳川家慶
- 14男13女をもうけたがほとんど夭折、ただひとり育った家定とは不仲という、子供運の悪い人。
- 黒船来航の騒ぎの中死去。老中・阿部正弘などは「なんでこのクソ忙しい時に……」と舌打ちしたことであろう。
- 最初に水野忠邦が構造改革を行うが、あまりに恐怖政治がひどかったので3年で失脚。
徳川家定
- 早々とタネ無し認定され、在世中から後継者争いが始まっていた。
- 豆やイモを煮るのが得意だった。松平春嶽から「イモ公方」と呼ばれたとか呼ばれないとか。
- カステラ作りも得意だったと言われる。
- ガイキチ将軍といわれたとか。
- 新型銃を献上されたとき、その銃を構えて家臣を追いかけ回した。
- 一橋慶喜が大嫌いで登城すると聞いたとき一日中奇声を発していたとか。
- 篤姫の夫。
徳川家茂
- 井伊直弼のごり押しで就任。
- ところがその井伊直弼は恐怖政治を行った挙げ句、あっという間に暗殺されてしまう。
- 徳川将軍で唯一皇女(和宮)と結婚。仲が良かったのか悪かったのかよくわからない。
- 家茂が亡くなったとき、和宮が詠んだ歌は泣ける。
- みずから長州征伐に出向く途中、大坂城で病死。
- 責任感は強かったんだろうね。大坂城から逃亡した慶喜とはえらい違い。
- 甘いお菓子が大好きだった。
徳川慶喜
- 非常な切れ者だった説と、けっこうアンポンタンだった説が入り乱れている、最後の将軍。
- 目的のために手段を選ばない、かなり非情な人だったのは確からしい。
- 桂小五郎に家康の再来だと言わしめた男
- 変な行動が多すぎて、百年以上経った今でも「有能」か「無能」か、評価が極端に分かれる男。
- 大政奉還をおこなう。
- テンプレート:薩長の機先を制し、大義名分を失わせるためだった。自分は新政権の首班になる気満々。
- 窮した薩摩藩は、岩倉具視と図って倒幕の密勅を偽造。慶喜はあわてて逃げ出す。謀略戦は「より」手段を選ばなかった薩摩側の勝利。
- 将軍を辞めてからは、死ぬまで悠々自適な生活をしていた。
- 写真撮影を趣味にしたり、明治初期に当時珍しかった自転車に乗っていたりしていた。
- でも撮影技術はイマイチ。「俺の写真、投稿してもなかなか採用されないんだよ」と悩んでいたらしい。
- ただ最近はネームバリューと、この時代の写真そのものが希少であるため、評価が上がっている。
- ちなみに慶喜の写真を世に出したのは、曾孫でカメラマンの徳川慶朝氏。
- でも撮影技術はイマイチ。「俺の写真、投稿してもなかなか採用されないんだよ」と悩んでいたらしい。
- 手裏剣の達人で、毎日鍛錬を欠かさなかったとか。
- 投網は玄人はだし、日本刺繍もかなりの腕前。この芸達者さんめ。
- 特技は飯盒でご飯を炊くこと。つくづく趣味に生きる人だ。
- 写真撮影を趣味にしたり、明治初期に当時珍しかった自転車に乗っていたりしていた。
- 子供の頃は寝相が悪く、矯正するために枕の両脇にカミソリを立てて寝かされた。
- 長州は最初から敵だったので恨みはなかったが、薩摩は途中から倒幕に寝返ったので、死ぬまで恨んだ。
- 身長が意外と低く、150cmぐらいだったらしい。
- フランスマニア。
- 他の徳川の親戚には怨まれている。まあ当然か。
- 子供の頃、事情を知らなければいじめと思われそうな「豚一様」というあだ名で呼ばれていた。
- 「(薩摩名物の)豚肉がお好きな一橋様」という意味。
- 本寿院から蛇蝎の如く嫌われていた。
- 名前を聞くだけでも気分が悪くなるほどだった。
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