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==鎌倉時代の噂==
{{Pathnav|もしあの鉄道路線のルートが○○だったら|[[もしあの鉄道路線のルートが○○だったら/JR|JR]]}}
#ハムができる。
#ツレヅレグサが刊行。
#*ブログ書籍化ブームの始まり。
#「ヘーケ物語〜諸行無常の響き〜」で琵琶法師が大ブレイクし、全国弾き語りツアー開催。
#*あまりの人気っぷりにストリートでコピーをするものが続出。
#ジンギスカンの孫のフビライハンが日本に攻撃をしかける。
#*朝鮮も調子に乗ってモンゴルの尻馬に乗る。(マジモノ)
#**つーか、朝鮮海軍が属国としてモンゴル力士を運んだけど揚陸艇がないのでDデイ敢行できずにカミカゼアタックにやられたんじゃなかったっけ。(うるうる覚え)
#*ジンギスカンはヨシツネらしい。
#**トンデモ学説。ジンギスカン(仁義好かん)の生没年も系図もハッキリしているし、第一、義経とジンギスカン(仁義好かん)では騎馬戦術に決定的な差異がある。マーだかモーだかいう雑誌しか唱えない珍説。
#***種本は末松謙澄(スエマツケンチョウ・後の逓信大臣、内務大臣)が1879年に英国人を装いつつ匿名で書いた論文。それを1885年に内田弥八が「義経再興記」と題し訳述・出版。さらに後の1924年、小谷部全一郎が「成吉思汗ハ源義経也」という題で発表し、大ベストセラーとなる。
#***メーじゃなかったっけ?
#****「ワー」だよ
#****いや「クー」だよ。
#*****「メーワク」な話だ(苦笑)
#**とりあえずジンギスカンは料理の名前だって言っておくよ。(本当はチンギス・ハーン)
#***歌手グループのジンギスカンもいた。
#****そのグループの歌「ジンギスカン」も有名。
#***モンゴルの皇帝ことハーンは現代での呼び方で、当時はカンだったらしい。
#*フビライハンの好物エビフライ。
#*日本攻撃の結果、征服はできなかったものの鎌倉幕府を弱体化させ、日本を混乱に陥れることに成功。
#*全てはヨシツネの怨念が鎌倉への恨みを果たすべくモンゴル人を操った為らしい・・・
#ヨシツネが大陸に渡りヤブサメを伝える。
#*ヨシツネは平安時代やぞ。
#**鎌倉時代の始まりは1185年という説もあります。もしくは1183年という説もあります。ヨシツネの没年は1189年なので、その説に従えばぎりぎり鎌倉時代に間に合います。まあ、もっとも活躍した時期の大半は平安末期でしたけど、ここはあまり固く考えずに。
#「鎌」と「倉」が大流行する。
#「いざ鎌倉」が当時の流行語大賞に。武士の間で一大ムーブメントを巻き起こした。
#*終わりごろは「いざなまくら」。
#**更に末期には「いざキャバクラ」。
#***北海道、大阪と高知だけじゃね?
#頼家の実子を名乗る謎の人物公暁が現れる。将軍職就任を狙っているという噂が流れる。
#北条泰時、反対派に説得され式目原案の条文から執権公選制を削除。
#功績のあった歌人100名に送られる小倉賞が実施された。審査員代表は冷泉流家元・藤原定家氏。作品集はベストセラーとなるも、定家氏独自の世界観による授賞に一部の読者からは「どこがいいのか分からない」との声も。
#*ひょっとして、JR小倉駅の周りを100人で1周した話のことかな?
#**それは「おぐら」ではなく「こくら」。
#***京都の[[京都の駅/山城#JR小倉駅の噂|「JR小倉」駅]]の事では。
#百人もいるのに首が一つしかない物の怪(もののけ)が、マッドサイエンティストのテイカ・フジワラによって作られる。フランケンシュタインの元祖?
#ゴダイゴがデビュー。正中の変・元弘の乱・メンバーの大麻使用などにより島流しにされる。その後、正成、尊氏、義貞らとともに活動再開。代表作「モンキー・マジック」「ポートピア」「ガンダーラ」
#*メンバーには狐っぽい宣教師もいたから、キリスト教がすでに伝来していたものと思われる。
#盆栽を燃やすパフォーマンスが注目を集める。
#*なお創始者の佐野源左衛門はその斬新さを称えられ領地を得る。
#西岸良平「鎌倉ものがたり」連載開始。
#仏教系の新興宗教多数勃興。
#*「ナムアミダブツ」「ナムミョーホーレンゲキョー」など。特に後者の総帥「ニチレン」はよく幕府に逮捕された。
#*「イッペン」率いるストリートダンサー集団「ジシュー」が注目をあびた。爺(じじい)衆ではない。爺臭でもない。自習?
#*「リンザイ」「ソートー」という座禅集団も。
#鎌倉の大仏完成。
#*ついでに奈良の大仏も再建された。
#*政治は雪の中に掘った穴の中で行われた。また、大仏には雪で作った大仏殿があったが、氷河期が終わった現代では仏像のみが現存している。
#ヨシツネのいとこのナベツネが壇ノ浦の戦いから命からがら逃げてきて武蔵の国で言売売新聞のオーナーになる。
#地球は温暖化していなかったので人々は雪で作った家で暮らしていた。
#お釈迦様(釈尊)が法華経などで予言されたとおりに、久遠元初の御本仏・日蓮大聖人様が御出現あそばされた。
#*平安時代から鎌倉時代にかけてが、末法時代の始まりの時期である。
#北条氏が鎌倉幕府を買収。
#壇ノ浦を追われた平家の一族は黄泉(きいずみと読む)の国に移住。これがいわゆる民族大移動である。
#*その数があまりにも多かったので黄泉の国が混乱し、黄泉の領主閻魔犬王が部下の兵隊を引き連れて鎌倉に侵攻。でもそのときに手違いがおきて大変なことになる。
#8代執権北条時宗は空中元彌チョップを駆使して元寇を撃退した。
#エネルギーは「源氏力発電」…(デーブ・スペクターさんの説)
#鎌クーラー時代。
#鳩サブレーが作られる。
#日蓮が大予言をする。
#*皇紀2660年、天カラ恐怖ノ大魔王ガ降ッテ來ルデアロウ。


==鎌倉幕府の将軍==
== 川口・流山経由 ==
===源頼朝===
常磐線は当初東北本線の川口で分岐した後に流山を経由して東進し、柏に向かうよう計画されました。しかし隅田川沿岸に発着する舟運と貨物積み替えの便を図るため田端起点で南千住・松戸を通るルートに変更されました。
#弟二人、従弟とその息子など、身内を沢山殺して天下をとった人。
{{駅名標/東日本|name=川口|ruby=かわぐち|back=赤羽|next=鳩ヶ谷|back2=Akabane|roma=Kawaguchi|next2=Hatogaya|color=#0000ff}}
#*ちょっとでも油断をすると、他の者を担がれて追い落とされてしまいかねないという状況だったので、やむを得ざるところもある。
では当初の計画通り川口起点・流山経由となってたら?
#*そうは言っても、義経はともかく範頼まで殺したのはなあ……
#宇都宮線の川口停車がとっくに実現していた。
#**義経に比べれば小粒とはいえ、平家討伐の勲功2番手の功労者で、十分頼朝に取って代わるだけのポテンシャルを持っていたからしょうがない。
#*かわりに赤羽がハブられ、現在でも北区の中心は王子。
#***義経が官位をもらっている時に範頼は頼朝の真意を理解して断っているから、ある意味義経以上に危険な存在と思っていたのかも。
#*赤羽線も川口線として川口発着。
#****範頼の子供たちは助命されてるのが、せめてもの救い。
#**品川支線の方が開業が先だからこれはどうだろう・・・
#****それ、官位もらってももらわなくても警戒されるってことじゃねぇか…
#*分岐駅の先の主要駅まで乗り入れるパターンで、運行上は赤羽分岐じゃない?
#*源氏は内ゲバが常態だからしょうがない。まともに枕の上で死ねた人は殆どいないし。
#JR化後直後に池袋発着が設定開始され、21世紀には常磐新宿ラインが登場。
#**武士としては正しい姿と言える。
#流山はもっと発展していた。
#***内ゲバの戦死とか、暗殺じゃあなぁ・・・。
#*流山鉄道は建設されなかった。
#*結局、人に蹴落とされることはなかったが、馬に落とされた…
#*鉄道忌避伝説は流山ではなく松戸にある。
#*娘の婚約者の扱いでやらかして、首を取った当事者に責任押し付けた件だけは擁護不能。この時の頼朝は家族思いの父親でもなければ冷徹な政治家でもない。ただの情けないおっさんである。
#**松戸に電車を通すために新京成線の建設が民間の手によって現実より早く行われた。(実際は鉄道連隊の演習路線が払い下げられたもの)
#関東育ちの奥さんは一夫一婦制を主張。多妻多夫が常識の京都で育った頼朝はその概念も理解できず、夫婦の価値観の相違が深刻なものに。
#***その新京成線も現実の常磐線ルートに沿って柏まで伸びていた。
#死亡前後の記事が、どういうわけか公式記録「東鑑」からすっぽり抜け落ちている。大騒ぎで誰も記録をつけていなかったのか、何か外聞をはばかるヤバいことがあって抹消されたのか……
#****京成線の支線(柏線)として北千住から走っていた。
#*不名誉な死に方だったんで名将の恥を残してはいかんと家康が削除したとも。
#***川口経由はあまりにも遠回りすぎるから、結局は国鉄の手で短絡線(まさに史実の常磐線)ができていた気がする。
#*馬で川を渡ってたら、落馬して死んだとか(その時のケガが元になって帰路で没とも)。まあ公式記録が無いので、あくまで一説ではあるが。
#**月曜から夜ふかしで頻繁に「流山vs柏」が取り上げられていた。
#**相模川の下流が馬入川と呼ばれるのは、この話を元にしてるとか。
#筑波高速度電気鉄道は日暮里・北千住・松戸経由で計画された。
#***晩年の頼朝は朝廷に接近しようとしたので暗殺された、とも。後に武士の要望を代表する北条家が政権を握る。
#*[[つくばエクスプレス]]も松戸を通っていた。
#死因で一番メジャーな説は壇ノ浦の戦いで戦死した後、「ぷれいや」なる異次元の者からの布施により復活した平家の亡霊、平景清(悪七兵衛景清)により草薙の剣で切り殺されたというものである。
#**常磐線が遠回りなので史実以上に乗客転移が多かった。
#*わらってよりとも。
#*京成本線が北千住を経由していた可能性がある。
#後年、天下人になったHIDEYOSHIが頼朝の墓を訪れ、その際親近感を持つ旨の発言をしている(頼朝は捕囚から、秀吉は足軽からテンパ人になったから)。
#**史実では常磐線があったところに伊勢崎線が乗り入れてきたので、常磐線がなければ北千住が交通の要衝になっていることはなさそう。伊勢崎線は草加付近の常磐線の駅を一旦ターミナルにしてそこから都心に伸ばそうとするが、それ以南のルートが全く想像できない。
#武家の棟梁でありながら、戦はド下手。なんと言う矛盾…。
#武蔵野線のルートが少々変更されてたかもしれない。
#*別に珍しいことじゃない。ライバル勢力の平宗盛もそんな感じだし。
#鳩ヶ谷辺りを通過すると思われるのでもしかしたら千代田線ではなく南北線が直通してたかも。
#*トップとしては戦より政治がうまい方が大事、って義経を見てると思う。
#*千代田線は東武伊勢崎線かTXと直通してた。
#弟がやたら美化されているせいで創作では悪役にされがちのかわいそうな人。
#*[[鳩ヶ谷|鳩ヶ谷市]]は戦前のうちに市制施行していた。
#後年は義父の時政までがビビるほどの厳しさだったらしい。
#**もちろん川口市と合併することもなかった。
#[[もし武州鉄道が廃止されなかったら|武州鉄道]]は鳩ヶ谷が起点になっていた。
#尾久は常磐線のみの駅だったかもしれない。
#客車時代の特急「はつかり」は赤羽線を利用して方向転換していた。
#上野-川口間の列車線が線路別複々線になっていた(東北本線・高崎線列車が使用する複線と常磐線列車が使用する複線に分かれる)。
#三河島事故が発生せず、常磐無線アンテナも開発されなかった。
#chakuwiki内で[[埼玉vs千葉]]、[[千葉vs茨城]]に加え、「埼玉vs茨城」という項目も出来ていた。


===源頼家===
== 田端起点のままだったら ==
#妻の実家である比企氏を引き立て、北條氏を排除しようとしたため、修禅寺に押し込められて殺された。
現在常磐線の起点は日暮里ですが、当初は田端が起点でした。もし日暮里-三河島間が建設されず旅客列車が田端経由のままだったら?
#*……と言われているが、実際は逆。頼家の傅人(めのと)であった比企氏が、北條氏に取って代わろうとして頼家を担いだが、北條氏に逆襲されて亡ぼされた。頼家は比企氏の象徴として消されたのでした。
{{駅名標/東日本|name=田端|ruby=たばた|back=池袋|next=三河島|back2=Ikebukuro|roma=Tabata|next2=Mikawashima|color=#0000ff}}
#**嫁姑の争いを仲裁できず、姑の一族に嫁と嫁との間の子供を殺され、最終的には自分も消された。
#早い段階で山手貨物線直通の池袋発着が実現していた。
#*独裁的だったとも言われるけど、17歳で家督を継いで、22歳で死んでるわけですからねえ……どの程度の独裁ができたことやら。
#*後に[[#川口・流山経由|この場合]]と同じく常磐新宿ラインが運行される。
#**とある二つの寺が領地争いをしその裁定を頼家に求めたところ、「そんなの知るか」と言って、両寺の中間に線を引いて「これで満足しろ」といって追い払ったとかw
#*「常磐伊豆」は新宿経由になる。
#東北新幹線建設時に山手貨物線に通じる渡り線が撤去されることはなかった。
#結局は後に上野-南千住間を直線状に結ぶ新線が開業した可能性がある。
#*実際に同区間を直線状に高架で通す計画はあった。
#*逆に日比谷線が史実の常磐線ルートを通っていた。
#*新線は快速線の線路になり、三河島は緩行線の駅になる。
#京成本線も田端が起点だったかもしれない。
#東北本線列車の日暮里停車は早い時期に廃止された。


===源実朝===
== 大宮経由 ==
#頼家の弟。
#湘南新宿ラインはもちろん開業。
#*実朝の傅人は北條氏だったので、比企氏との権勢争いに勝った北條氏により将軍位につけられたわけ。
#*運行系統が現実よりカオスになっている。
#同族争いがいやになって外国へ逃げ出そうと大船を造るが、失敗。
#総武鉄道が国有化していたかも。
#*原因は大きすぎて進水できなかったから。
#野田市駅にも無理やり作っていたかもしれない。もちろん史実の場所とは違う。
#やっぱり同族に殺された。
#さすがに筑波山を北回りはしていない。土浦-つくば-坂東市-春日部-大宮。
#*下手人は頼家の息子の公暁。親父を殺させたのは実朝だと誰かに吹き込まれたらしい。
#*つくばに既に常磐線が通っているのでつくばエクスプレスは建設されない。
#*その「誰か」は北條義時だろうと思われていたが、最近では三浦義村説が有力。公暁の傅人は三浦氏だったので、公暁を担いで北條氏を追い落とそうとしたと思われる。
#*しかし公暁が北條義時を殺りそこねたので、三浦義村は口封じに公暁を殺害。かくて源氏嫡流の血は絶えた。
#*本人は半ばそうなることを予想していた。
#詩人としてはかなりのものだった。
#*百人一首にも採用されている。
#*甲斐善光寺にある、かなり写実的な実朝の木像を見ると、如何にもクラスに一人はいそうな、地味でややオタク臭い少年ぽい顔をしている。
#*自選の和歌集がある。
#政治家としても実は有能。
#*頼家の御家人の合議制だったが、彼は死ぬまで政務を執っている。朝廷よりの政治をしたと言われるが幕府自体が危うくなるような要求は、拒否している。ただ、彼の朝廷と幕府の平和共存の道を探るという政治理念は、次第に自らの力を自覚し更に勢力を伸ばそうとする鎌倉武士団とぶつかることになってしまった。


===藤原頼経===
== 龍ヶ崎市中心部経由 ==
#頼朝の妹のひまご。
#関鉄竜ヶ崎線はなかった。
#最初のうち北條氏の傀儡だったが、反対勢力に担がれそうになったので京都に追い返される。
#天王台〜土浦間の経路がやや東寄りになった。
#この人以降の将軍は影が薄い気がする。執権の方が重要な存在になるし。
#*内房線の佐貫町駅が佐貫駅を名乗っていた。
#征夷大将軍は源氏しかなれない、と言っている人たちはこの人から守邦親王までの摂関将軍、皇族将軍を失念している可能性が高い。
#*取手駅は現東京藝術大学取手キャンパス辺りに設置。
#*まあ、一応この人にも源氏の血は流れてますけどね。
#**現実の取手駅は常総線の中間駅となり、駅名は「本取手」か「中取手」に。
#*貴族から将軍に「下る」のは良いけど、武家から将軍に「上る」には源氏じゃないとダメってことだろう。まあ実際は関係ないんだろうけど。平氏系の信長とかいるし。
#*車窓から牛久沼が見えない代わりに牛久大仏が大きく見える。
#幼名は[[神#ミトラ(ミスラとも)|三寅]]。
#*阿見町にも駅ができていた。
#仙台藩関係者の介入が噂される。


===藤原頼嗣===
== 石岡-水戸間が水戸街道沿いに建設されていたら ==
#頼経の息子。
常磐線の石岡-水戸間は、水戸線の友部駅に接続する形で敷設されましたが、もし同区間が水戸街道沿いに敷設されていたら?
#8歳で将軍位に就くが、17歳の時に謀反に連坐したとして京都に追い返される。
#友部-水戸間は今でも水戸線。
#*当然未だに単線のまま。
#友部や内原が現実ほど発展しなかった。
#*友部駅の開業自体も遅れていた。
#*内原操車場やイオンモール水戸内原はなかった。
#水戸電気鉄道は存在しなかった。
#上野-水戸間は「スーパーひたち」で1時間以内の距離になっている。
#偕楽園へのアクセスがやや不便になっていた。
#*当時の千波湖の面積を考えると、おそらく現在の県道50号線に相当するルートを辿り水戸線と合流していた可能性が高い。よって偕楽園駅は史実通り存在し水戸線の正式な終点にもなる。


===宗尊親王===
{{DEFAULTSORT:しようはんせん}}
#後嵯峨天皇の皇子。母親の身分が低く、あまり出世しそうになかったので、鎌倉将軍にという話が来た時ホイホイと引き受けた。
[[カテゴリ:もしあの鉄道路線のルートが○○だったら]]
#将軍になってもすることがないので、歌会ばかり開いていた。
[[カテゴリ:歴史のif検討委員会 国鉄・JR史]]
#*しかしだんだん、不満分子の集まる会になってしまった。
[[カテゴリ:常磐線|もしあのはしよをとおつていたら]]
#*危機感を持った北條氏により、京都に追い返される……ってまたかよ!
 
===源惟康===
#宗尊親王の息子。3歳で将軍位に就く。
#*将軍位に就くと共に臣籍降下し、「源」姓を受ける。
#別に謀反にも関わらず、不満分子を集めたりもしなかったが、京都に追い返される。もう何がなんだか。
#*追い返されてから親王宣下を受け、「惟康親王」となる。
 
===久明親王===
#後深草天皇の皇子。何もエピソードを残さず、京都に追い返される。
#調べても本当に何もない。冗談抜きで何もない。キング・オブ・何もない
#*持明院統から将軍が選ばれた事で持明院統=武家寄り⇒北朝という布石になったはずだし、もし将軍が大覚寺統やそれ以外から選ばれていたらということを考えると、歴史的に影響のある将軍就任(もちろん本人は何もしていないが)と思われるが。
 
===守邦親王===
#久明親王の息子。8歳で将軍位に就く。
#もちろん何も実権は無かったが、鎌倉が新田義貞の攻撃で陥落すると律儀に出家し、間もなく死去。一応幕府のトップとしてのけじめをつけた形。
 
==鎌倉幕府の執権==
#教科書からもわかるとおり、全体的に優秀な人が多かった。
#*ただし代が変わる毎に小粒になっていく感が否めない。
#*30代で亡くなった人が多い。自刃した高時、戦死した守時を含めると半分は40以下で亡くなっている。
 
===北條時政===
#娘が流人と駆け落ちしたばかりに天下の執権に成り上がった幸運な人。
#*学者の間でも優秀だったとする人と、実はあまり大した事してないと突っ込む人がいたりと差が激しい。
#*策士なのは間違いないだろうが、最期は策士策に溺れすぎな感じがする。
#年取ってからめとった若い後妻との間に生まれた娘の婿を将軍にしようとして、息子(義時)や娘(政子)からひんしゅくを買い、無理矢理隠居させられた。
 
===北條義時===
#北條家の支配を確立した人。父・時政生前も、実際に動いたのは義時だったようだ。
#*そのせいで腹黒な陰謀家なイメージが付きまとう。
#*『吾妻鏡』には案外名前が出てこない。たまに一覧で名前が出てても後世の挿入の疑いが強く、実際には何をやってたかよくわからない。
#*義時自身も陰謀を練る事あっただろうが、アクの強い父と姉に挟まれて、彼らに振り回されているうちに、いつの間にか幕府のトップに踊りでてしまっただけのような気もする。
#実朝が暗殺された時、同行することになっていたが、気分が悪いと言って人に代わって貰い、危ういところで一緒に殺されるのを免れた。
#*本当に気分が悪かったのか、何か察していたのかは微妙なところ。
#得宗と号した。この後、北條氏の中でも義時の家系を「得宗家」と呼んだ。
#姫の前という美貌の女房に恋をして悶々としたことがある。お前は男子中学生か!
#*この時義時29歳、息子の泰時は9歳。いい年して何やってるんだか・・・。
#**姫の前は気位が高い女性で、義時は全く相手にされなかったらしい。
#*頼朝の命令でなんとか結婚。良かったね、と言いたいところだが、権力を使って恋を成就してもらうのはどうなんだろう、男として。
#*残念ながら、その後の比企能員の変の関係(姫の前の実家が比企)で別れざるを得なかったらしい。
#承久の乱がらみとはいえ、皇族や公家でもないのに圧力をかけて当時の天皇を皇位から引きずり下ろした上に元天皇を厳罰に処し、承久の乱で京方へ与した公家を処刑した確かな記録のある唯一の一般人。
 
===北條泰時===
#御成敗式目を発布。
#*書いてあることはわりと普通。その当時の常識を成文化しただけだったようだが、大事なことかもしれない。日本国憲法もかくありたい。
#**都の貴族と違って東国武士は教養がないので、そういう連中に分かるような法律を作った。
#*本人は、ただ道理と先例に基づいて決めた、と言っている。そのシンプルさと妥当さがこの法令の価値を高めたと言える。
#**ただし近年の研究では、「幕府の都合に合わせた」道理や先例を選んで成文化したとする説が有力。
#承久の乱では総大将として出陣、見事勝利を収める。
#その後、父・義時、伯母・政子、有力な補佐役・大江広元など、助言してくれそうな人々が相次いで死んでしまい、けっこうびびったと思われる。
#*義時の弟・義房を補佐役に任命し、なんとか事無きを得る。
#**義房じゃなくて時房だね。そしてこの時房から連署の役職がスタート。
#後世の評判がとても良い。承久の乱で天皇と戦ったのに天皇よりの人達からも評価される。
#*敵方についた上皇達をほぼ全員流罪にした結果。
#*それと後鳥羽院が反面教師扱いなので。北畠親房ですら「徳がないとこうなるぞ」という見本で挙げているぐらい。
#幕府の場所を2回も引っ越した。
#*頼朝が開いたのは大蔵幕府(現在の雪ノ下3丁目、清泉小学校付近)
#*1回目の引越先は宇津宮辻子幕府(現在の宇都宮稲荷神社の北、妙隆寺付近)
#*2回目の引越先(増改築という説もあり)は若宮大路幕府(宇津宮辻子幕府の北から鶴岡八幡宮の南まで)
 
===北條経時===
#泰時の孫。
#18歳の若さで執権になったので、北條一族の内部でもゴタゴタし、外部はそれに輪を掛けて動揺し、心労のあまり4年で死亡。
#どんな事をやったのか、パッと思いつかない。
 
===北條時頼===
#経時の弟。
#執権引退後に、諸国漫遊したという噂が流れる。水戸黄門の大先輩。
#*その途上、「鉢の木」の話が登場。
#熱心な禅宗信者で鎌倉に道元を呼ぶ一方で、法華経を強く唱えていた日蓮を猛烈批判したらしい。
 
===北條(極楽寺)長時===
#経時・時頼兄弟の父の従弟。
#時頼が息子の時宗に執権職を譲るまでの中継ぎとして指名される。
#*実権は時頼が握っていた。この頃から「得宗家」の専制が始まる。
 
===北條政村===
#長時の伯父、経時・時頼兄弟の大叔父。
#執権に就任した時にはすでに時頼が死んだ後だったので、自分の時代が来たと思って舞い上がっていたが、おりしも蒙古からの国書が届き、高齢だけにどうしてよいかわからず、執権職を投げ出してしまった。
#*でも執権就任前に就いていたナンバー2である連署にちゃっかり返り咲いている
 
===北條時宗===
#元寇を迎えて真っ向勝負。
#*その為後世の人気も高いが、最近は偉かったのは側近の安達泰盛らで、時宗はそんなに重要な役割をしてないとする説もある。
#*逆に、元寇を口実に独裁権を確立、得宗専制を実現したという見方もある。
#ほとんど元寇対策だけに追われ、弘安の役の3年後に34歳の若さで病没。
#*それが寿命を縮めたんだとおもう。
#異母兄の時輔を内紛で攻め殺している。もっとも生きて逃げ延びたという説もある。
#*でも時輔が大陸に渡って[[元#世祖クビライ|クビライ・ハーン]]に仕えた後、赤マフラーを巻いて帰国したという話はあくまで大河ドラマだけの話ですからね。真に受けないように。
#最初の元寇を撃退した後、元寇の拠点である[[高麗]]を逆に攻める計画を立てていた。
#*結局、半島に関わることを断念したのは好判断だったような……
#**のちに元が衰退してきた時期ではあるが、高麗は自力で元を追い払っているので、結果的には良かった。
 
===北條貞時===
#父・時宗の死により12歳で執権となる。
#しばらくは、側近・平頼綱の言いなり。10年近く経ってようやく頼綱を誅殺して実権を取り戻した。
#29歳で従弟の師時に執権職を譲るが、その後も実権を握り続けた。
 
===北條師時===
#貞時に執権職を譲られたが、ずっと貞時に実権を握られ、奪回する前に死んでしまった影の薄い人。
 
===北條(大仏)宗宣===
#義時の弟のひまご。
#執権のそのまた執事とも言うべき「内管領」長崎高綱に実権を握られ、自分ではなんにもできないのに失望して、執権職を放り出して出家。間もなく死亡。
 
===北條煕時===
#政村のひまご。
#やっぱり長崎高綱のせいでなんにもできなかった。
#*執権になる前は、嘉元の乱で叛乱を起こした北條宗方らを亡ぼすなど、なかなか活躍していたのだが……
 
===北條(極楽寺)基時===
#長崎高綱とその子・高資が勝手し放題。
#*いやけがさしたらしく、1年ほどで辞任、出家。
#*それでも鎌倉陥落時には高時と一緒に自害してけじめをつけた。
 
===北條高時===
#「最後の執権」と勘違いする人が多いが誤り。「最後の得宗家当主」である。
#田楽好きで、天狗にたぶらかされる。
#暗愚な執権という評価が大体固まっているが、本当はどうだったのかよくわからない。
#*長崎父子に好き勝手やらせていたという点だけでも、名君とは言えまい。ただし、人としてバカだったかどうかは不明。
#**ただし、長崎高資は当時調整型の政治家が多い幕閣の中で、積極的に政策を展開しようとした点を評価しようとする動きもある。
#*ともあれ、鎌倉陥落後の自害の作法は見事なものだったらしい。
#*馬鹿ではないが、病弱で無気力な厭世家、というのが一番合ってる気がする。
#*二条河原の落書に「犬田楽は関東の滅ぶところ」と書かれたぐらいだから、当時すでにダメな行状として知れ渡っていたのは間違いない。病弱かつ長崎に実権取られてそれぐらいしかやることがなかったとしても。
#歴史オタ、大河ドラマオタは、北條高時というと反射的に片岡鶴太郎の顔を思い浮かべる。
 
===北條(金沢)貞顕===
#高時が出家してしまったあと、侃々諤々の末、とりあえずの中継ぎとして執権に就任。
#しかし反対派も多く、暗殺計画も耳に入ったりして針のムシロのようだったので、早々に引退、出家。
#*在任期間十日という、日本史上でもまれに見るレベルのお飾り内閣。それで事が済んでしまう辺り、この頃の執権職って・・・と思ってしまう。
 
===北條(赤橋)守時===
#最後の執権。足利尊氏の義兄でもある。
#そのため、尊氏が後醍醐天皇側に寝返って六波羅探題を亡ぼすと立場が悪くなり、謹慎させられる。
#汚名返上のため、鎌倉に襲来した新田義貞軍と力戦し、戦死。
#日テレでやってた「まんが日本史」では存在がスルーされてる。
#甥の足利義詮が鎌倉を脱出できたのは守時の手引という見方もあり、愚直な武将のイメージが強い。
 
==関連項目==
*[[もし鎌倉・南北朝・室町時代が○○だったら#鎌倉時代|もし鎌倉時代が○○だったら]]
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2021年10月26日 (火) 17:27時点における版

川口・流山経由

常磐線は当初東北本線の川口で分岐した後に流山を経由して東進し、柏に向かうよう計画されました。しかし隅田川沿岸に発着する舟運と貨物積み替えの便を図るため田端起点で南千住・松戸を通るルートに変更されました。

川口
かわぐち
赤羽   鳩ヶ谷
Akabane Kawaguchi Hatogaya

では当初の計画通り川口起点・流山経由となってたら?

  1. 宇都宮線の川口停車がとっくに実現していた。
    • かわりに赤羽がハブられ、現在でも北区の中心は王子。
    • 赤羽線も川口線として川口発着。
      • 品川支線の方が開業が先だからこれはどうだろう・・・
    • 分岐駅の先の主要駅まで乗り入れるパターンで、運行上は赤羽分岐じゃない?
  2. JR化後直後に池袋発着が設定開始され、21世紀には常磐新宿ラインが登場。
  3. 流山はもっと発展していた。
    • 流山鉄道は建設されなかった。
    • 鉄道忌避伝説は流山ではなく松戸にある。
      • 松戸に電車を通すために新京成線の建設が民間の手によって現実より早く行われた。(実際は鉄道連隊の演習路線が払い下げられたもの)
        • その新京成線も現実の常磐線ルートに沿って柏まで伸びていた。
          • 京成線の支線(柏線)として北千住から走っていた。
        • 川口経由はあまりにも遠回りすぎるから、結局は国鉄の手で短絡線(まさに史実の常磐線)ができていた気がする。
      • 月曜から夜ふかしで頻繁に「流山vs柏」が取り上げられていた。
  4. 筑波高速度電気鉄道は日暮里・北千住・松戸経由で計画された。
    • つくばエクスプレスも松戸を通っていた。
      • 常磐線が遠回りなので史実以上に乗客転移が多かった。
    • 京成本線が北千住を経由していた可能性がある。
      • 史実では常磐線があったところに伊勢崎線が乗り入れてきたので、常磐線がなければ北千住が交通の要衝になっていることはなさそう。伊勢崎線は草加付近の常磐線の駅を一旦ターミナルにしてそこから都心に伸ばそうとするが、それ以南のルートが全く想像できない。
  5. 武蔵野線のルートが少々変更されてたかもしれない。
  6. 鳩ヶ谷辺りを通過すると思われるのでもしかしたら千代田線ではなく南北線が直通してたかも。
    • 千代田線は東武伊勢崎線かTXと直通してた。
    • 鳩ヶ谷市は戦前のうちに市制施行していた。
      • もちろん川口市と合併することもなかった。
  7. 武州鉄道は鳩ヶ谷が起点になっていた。
  8. 尾久は常磐線のみの駅だったかもしれない。
  9. 客車時代の特急「はつかり」は赤羽線を利用して方向転換していた。
  10. 上野-川口間の列車線が線路別複々線になっていた(東北本線・高崎線列車が使用する複線と常磐線列車が使用する複線に分かれる)。
  11. 三河島事故が発生せず、常磐無線アンテナも開発されなかった。
  12. chakuwiki内で埼玉vs千葉千葉vs茨城に加え、「埼玉vs茨城」という項目も出来ていた。

田端起点のままだったら

現在常磐線の起点は日暮里ですが、当初は田端が起点でした。もし日暮里-三河島間が建設されず旅客列車が田端経由のままだったら?

田端
たばた
池袋   三河島
Ikebukuro Tabata Mikawashima
  1. 早い段階で山手貨物線直通の池袋発着が実現していた。
    • 後にこの場合と同じく常磐新宿ラインが運行される。
    • 「常磐伊豆」は新宿経由になる。
  2. 東北新幹線建設時に山手貨物線に通じる渡り線が撤去されることはなかった。
  3. 結局は後に上野-南千住間を直線状に結ぶ新線が開業した可能性がある。
    • 実際に同区間を直線状に高架で通す計画はあった。
    • 逆に日比谷線が史実の常磐線ルートを通っていた。
    • 新線は快速線の線路になり、三河島は緩行線の駅になる。
  4. 京成本線も田端が起点だったかもしれない。
  5. 東北本線列車の日暮里停車は早い時期に廃止された。

大宮経由

  1. 湘南新宿ラインはもちろん開業。
    • 運行系統が現実よりカオスになっている。
  2. 総武鉄道が国有化していたかも。
  3. 野田市駅にも無理やり作っていたかもしれない。もちろん史実の場所とは違う。
  4. さすがに筑波山を北回りはしていない。土浦-つくば-坂東市-春日部-大宮。
    • つくばに既に常磐線が通っているのでつくばエクスプレスは建設されない。

龍ヶ崎市中心部経由

  1. 関鉄竜ヶ崎線はなかった。
  2. 天王台〜土浦間の経路がやや東寄りになった。
    • 内房線の佐貫町駅が佐貫駅を名乗っていた。
    • 取手駅は現東京藝術大学取手キャンパス辺りに設置。
      • 現実の取手駅は常総線の中間駅となり、駅名は「本取手」か「中取手」に。
    • 車窓から牛久沼が見えない代わりに牛久大仏が大きく見える。
    • 阿見町にも駅ができていた。
  3. 仙台藩関係者の介入が噂される。

石岡-水戸間が水戸街道沿いに建設されていたら

常磐線の石岡-水戸間は、水戸線の友部駅に接続する形で敷設されましたが、もし同区間が水戸街道沿いに敷設されていたら?

  1. 友部-水戸間は今でも水戸線。
    • 当然未だに単線のまま。
  2. 友部や内原が現実ほど発展しなかった。
    • 友部駅の開業自体も遅れていた。
    • 内原操車場やイオンモール水戸内原はなかった。
  3. 水戸電気鉄道は存在しなかった。
  4. 上野-水戸間は「スーパーひたち」で1時間以内の距離になっている。
  5. 偕楽園へのアクセスがやや不便になっていた。
    • 当時の千波湖の面積を考えると、おそらく現在の県道50号線に相当するルートを辿り水戸線と合流していた可能性が高い。よって偕楽園駅は史実通り存在し水戸線の正式な終点にもなる。