もし豊臣秀吉が幕府を開いていたら

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豊臣秀吉が○○だったら

幕府を開いていたら

豊臣秀吉は幕府を開くつもりでしたが、農民出身であることを理由に天皇が征夷大将軍(幕府を開くために必要な位)を与えなかったため、幕府を開けませんでした。もし天皇から征夷大将軍をもらっていて、豊臣秀吉が幕府を開いていたら…

  1. 関白になることはなかった。
  2. 朝鮮進出もなかった。
  3. 幕府はおそらく大阪に置いていた。
    • 名称は「大阪幕府」?
      • 普通に「豊臣幕府」じゃないの?
      • 「大幕府」と「豊臣幕府」が半々の割合で用いられると思われ。
  4. 2代目将軍は豊臣秀頼。
    • 無論、徳川家康は一生部下のまま。
      • それでも家康が豊臣幕府(仮称)の重要ポストについていたのは間違いないと思われるため、鎌倉時代の北条氏のように執権職的な地位で豊臣将軍を傀儡化し、幕府の実権を握っていた可能性はあったかも。
  5. 大阪が明治に入り首都になっていた。
    • 地理的不都合もないので、歴史的連続を重視して京都が首都のままとも。
      • 政治の中心が京都、経済の中心が大阪というふうに役割分担ができていた。特別区制は京都、大阪の双方で実施。
  6. 奈良の大仏は「鎌倉の大仏」の立ち位置に。
  7. 吉本興業がジャニーズ事務所を買収し、子会社化して実質「ジャニーズ事業部」としていた。
    • 当然関ジャニは吉本新喜劇のメンバー。
    • 現実と違い、所属タレントの顔写真がWEBで公表され、全ての出演番組のHPに普通に掲載されている。
    • 勿論あの人は失脚し、芸能界を追放される。
  8. 日本人の味覚が早くから薄味志向が浸透し、日本は先進国の中で一番塩の消費量が少ない国となっていた。
  9. 橋下徹氏は内閣総理大臣になっていた。
  10. 東大阪市は「東洋のマンチェスター」と呼ばれる世界有数の工業都市となり、京阪地域は「東洋のシリコンバレー」と呼ばれる世界屈指の一大半導体生産地となる。
  11. たこやきやお好み焼が早くから世界中に知れ渡るようになる。
  12. 「水戸黄門」が無くなる。
  13. 当然篤姫は豊臣家へ嫁ぐ。
  14. 納豆はローカルな食べ物になる。
    • 『秘密のケンミンSHOW』で「江戸ケンミンは大豆を腐らせて食べる」として紹介される。
      • 茨城県民だと思う。
  15. アキバ系ではなく日本橋系オタクが幅を利かせ、「電車男」の舞台が大阪日本橋でんでんタウンになる。
    • 大阪らしく「電車兄ちゃん」といったタイトルとなる。
  16. 徳川家の分家が松平姓を名乗ったように、豊臣家の分家は羽柴姓を名乗っていた。
  17. 大阪弁が標準語になっていた。
    • 逆に江戸の方言は北関東や東北地方と似たものになっていた。
  18. ぼんち揚げは国民的和菓子に。
  19. 九州新幹線は国鉄時代のうちに開業、逆に東北新幹線は民営化後に開業していた。
    • 北陸新幹線は現実と異なり京都~富山間で開業し、長野新幹線は建設すらされなかった。
      • 従って信越本線の横軽間は今も健在。
      • ゆくゆくは日本海側を北上して札幌まで延伸される。
      • 「今大御所」が首相になっていれば1980年代に新潟までは開業しているだろう。
  20. 1998年の冬季五輪は長野ではなく金沢で開催されていた。
  21. 本四架橋は神戸~鳴門ルートが最初に開通していた。もちろん鉄道併設で。
  22. ディズニーランドは大阪湾岸にできていた。

ねねとの間に子が生まれていたら

男子だったら
  1. 名前は「豊臣秀勝」となっていただろう。
    • 実史の豊臣秀勝(秀吉の甥で秀次の弟)は別の名前を名乗ってた
    • 鶴松・秀頼(何れも実史では秀吉と淀殿との間の息子)も考えられた。
  2. 秀吉が死ぬ頃には十分大人になっているため、豊臣家2代目を継ぎ、徳川家康と対立する。
    • 加藤清正、福島正則などが決して家康になびかないので、家康の勢力は現実よりもだいぶ削がれていることになるでしょう。
    • 年齢的に、結城秀康、真田幸村、伊達政宗などと大阪城中で意気投合していると思われる。戦国シミュレーションの主役級勢揃いですな。
      • 直江兼継や前田慶次も仲間でしょうね。
        • 兼継はいいけど、慶次郎はどっちかというとオヤジに近い年代だからなあ……。
          • つまり秀次党がそのまま移行する感じか。「秀頼が生まれずに秀次が神妙に精進していたら」と同じ結果かな。いや、実子というのは大きいか。
    • ネネが20歳(計算し易くネネは1550年生まれの説にしておく)で秀勝(仮名)を生んだとすると1570年生まれで秀吉死亡時の1598年は逆算して28歳か、問題無さそう
      • この場合年齢的に「小牧・長久手」または「紀州征伐」が初陣になる
        • 長久手に主将として出陣して、徳川家康に撃砕されるわけです。したがって、家督継承後にも家康に頭が上がらない。でも家康も乗っ取りの野望は表に出せないが。家光・政宗みたいな関係になるかな。
          • 実子だったら長久手の別働隊を率いさせる必要もなかったかも。別働隊は池田恒興が主将となり、より小規模な軍勢となるため、徳川方に捕捉されず、案外後方撹乱が成功してしまっていたりして。
    • 淀殿とも対立する。
      • 世継ぎを産んでいない淀殿には、大した権勢もなかったでしょう。
        • 秀吉はお市の血を引く茶々に執着していたから結局、秀頼も誕生してたのでは?
          • 秀頼が生まれていたとしても、この場合世継ぎではないので問題なし。
            • いや、旧織田派がこちらを擁立して、秀吉派と血みどろの争いが。
            • 争いごとにならないように秀吉か兄の秀勝が秀頼を当主に浅井氏再興を認めてたかも?
  3. 家康に勝った場合は、その勢いで第三次朝鮮征伐を開始。
    • 唐入りの直接の契機は秀吉が実子(淀殿とのあいだの第一子なので、ここで想定されている世継ぎとは別人になります)を亡くした悲しみを吹き飛ばすためとも言われるので、そもそも朝鮮には攻め込まなかったかも。
      • と言うよりも秀吉のアジア征服計画じたい、信長の頃からプランがあったって説があって、ドッチ道朝鮮を攻撃した可能性も・・・
    • それでももし朝鮮に攻め込んだとすると、おそらくこの世継ぎが総司令官になっていたと思われるので、加藤清正と小西行長の不毛な対立も表面化せず、文禄の役の段階で半島制圧完了。
  4. 家族ぐるみで付き合いの深かった前田家の人が正室になるかも。
    • 麻阿とか?
  5. 秀吉の「中国大返し」の大義名分は、実は「養子に貰っていた信長の四男(於次丸)による親の仇討ちを助けること」だった。当時「主君の仇討ち」という感覚は日本人にはほとんどなかったようで、秀吉が「主君の仇討ち」を呼号してもあんまり賛同者は得られなかっただろう。彼が短時間に大軍勢を集められたのは「親の仇討ち」を大々的に宣伝したためらしい。
    ねねとの間に世継ぎが生まれていると、信長の子を養子にしてはいないだろうから、はたして中国大返しが成功したかどうか……。
    • 秀吉のことだから、信長の子から適当な人物を見つけて担ぎ出したとは思うけど。
  6. 秀頼&淀殿も当然抹殺。
    • ねねが保護と題して何所かに幽閉すると思う。
  7. 父親似か母親似かで容姿、性格、能力等が大分変わってくる。
    • いつ生まれたかによってもだいぶ状況が変わってくる。
      • 茶々と同い年の場合は生々しい事に(親子で取り合い?)
        • だから世継ぎには前田家の人が……
        • 結果、秀頼は秀勝の息子という見もふたも無い噂が出てきたりして
    • 容姿は母親似だといいな…
  8. 誰か小説書きません??
    • 清水義範が書いてたぞ。「金鯱の夢」っていうタイトル。ちなみにこの作品での世継ぎの名は「秀正」で、本能寺の変の翌年生まれ。
  9. 秀頼は淀城20万石の主となる。
    • 秀頼が父親似の人懐っこい性格なら、兄を慕ってうまくやれそう。
    • 淀君似(および淀君の教育)で気位が高い性格なら、秀吉が生きている間に抹殺。
  10. 世継ぎの幼少時代のエピソード。
    • 虎之助市松で、「若に武芸を教えるのはワシじゃ!」と喧嘩になる。
    • 佐吉は読み書きを教える役にちゃっかり納まる。
    • 小六おじさんは川遊び(木曽川を下って時には海まで)に連れ出して、後でねねに怒られる。だが、後に世継ぎが海外に目を向けるきっかけになる。
    • 前田家に出かけた際、前田慶治に遭遇し強烈な印象を受ける。
      • 信長に会った時の印象の方が強いでしょう。
    • でも一番かわいがったのはやっぱり秀吉である。
  11. 世継ぎが有名になった場合、戦国無双にねねが参戦できなくなる。
  12. 秀吉の息子の秀勝(仮名)が足利氏の養子になって大阪幕府を成立させた可能性もある
    • (補足として秀吉は足利の養子になって幕府を開こうとしたが断られた)
女子だったら
  1. 萌え。
    • 清正、正則、三成が「兄上様」と呼ばれて妹萌えに。
  2. 仮に父親似だった場合、恐ろしいことに……
    • 誰にも、もらわれないかも
      • 強引に前田利家や徳川家康あたりの子供に嫁がせていたと思う。
      • 醜い容貌を隠すために仮面を好んで付ける。
        • 創作作品ではサルのお面を付けるようになる。
    • ただし父の才能も引き継いだため秀吉の天下取りに多大な貢献をはたす。
    • つーか秀吉のコピーそのものかも。
  3. 名前は秀吉の旧名から取って「藤姫」になったかもしんない。
  4. 彼女の子供が豊臣家を継ぐかもしれない。
    • 淀君との醜い争いが…
  5. 天皇家と政略結婚させられている

豊臣秀次の一族が処刑されなかったら

豊臣秀次は秀吉の後をついで関白になりましたが、実子・秀頼の誕生により秀吉に疎んぜられ処刑されました、もし処刑されなかったら

  1. 仙千代丸が豊臣家3代目として関白を継いでいる。
  2. 関が原の戦いは起こらなかった、あるいは遅れていた。
  3. 山内一豊は史実よりもかなり出世していた。
  4. 聚楽第は今でも残っている、その代わり二条城がない。
  5. 東北の雄は伊達政宗より最上義光になっていた。
    • 娘を秀次の側室に差し出していた関係で、秀吉亡き後は大いに優遇される。
  6. 秀次は豊臣政権の基礎を作った名君として名を残している。
  7. 秀頼との間で権力闘争が起きる。
    1. 家康が秀頼を担いで挙兵
    2. 伊達政宗征伐に大軍を出兵していた秀次が、各大名に「徳川家康が、秀吉公の実子・秀頼の後見人になったようだ。そなたらも、秀吉公の恩恵を受けておろう。秀頼を守りたければ、大坂に戻るが良い。私は止めないから」と伝える。
    3. 各大名、「秀吉公の後継者は、関白秀次様です。豊家の内紛を起こす、徳川内府許すまじ!」と一致団結
    4. 関ヶ原で、東軍・秀次と西軍・家康の天下分かれ目の戦いに。
      • で、家康が勝ったら?
      • 史実のように綺麗には終わらず、泥沼の戦いが数十年続く。後に言う「慶長の乱」である。
  8. 五大老による大大名の合議制は存在せず、よって徳川家康が豊臣家の権力争いに介入することも無い。

豊臣秀勝が存命だったら

豊臣秀吉の実子といえば、秀頼しか残りませんでしたが、実は初期の側室「南殿」とのあいだに「秀勝」という子が生まれています。
残念ながら幼くして死んでしまいましたが、秀吉はこの子を大変かわいがっていたようで、その後貰った養子にも秀勝の名を与えています。
ところがこの名前の縁起が良くなかったのか、秀勝の名を貰った養子も次々と夭折します。
もしそれらの「秀勝」が生きていたら、歴史はどう変わったでしょうか。

初代の秀勝(石松丸)が存命だったら

  1. 初期の側室・南殿が産んだ子。
    • ねねは最初のうちだいぶ荒れて、信長に訴えて諭されたりしているが(有名なハゲネズミ書簡はこの時のもの)、その後貴重な世継ぎとしてかわいがるようになった模様。
  2. 1570年の生まれ。
    • 実史では6歳で死んでいるが、生きていれば本能寺の変の時は12歳、秀吉が死んだ時には28歳。
  3. 誰も文句のつけようのない正真正銘の嫡子なので、すんなりと後継者になる。
    • 秀次などは一門衆として重んじられることになる。
  4. おそらく歴史の流れは、上記の「ねねとの間に……」の場合と同じように進むことになるだろう。
  5. 宇喜多秀家、結城秀康などが秀吉の猶子となることはない。
    • ただし、早い時期から秀勝の側近として育てられたかも。

二代目秀勝(於次丸)が存命だったら

  1. 織田信長の四男で、秀吉に乞われて養子になっていた。
    • 明智光秀を討つ時の大義名分の源泉になった。秀吉は「秀勝による実父の仇討ち」を標榜して味方を募った。
  2. 1568年の生まれ。
    • 実史では18歳で死んでいる。生きていれば秀吉が死んだ時に30歳。
  3. 秀吉の後継者になれたかどうかは微妙。秀吉が織田遺臣同士の争いを制してしまうと、もうあまり利用価値が無かったので。
    • 本人の器量のほどが実際にはどのくらいだったのか推測するすべがない。暗愚では後継者になれなかったろうが、有能すぎたとしてもかえって遠ざけられた可能性がある。
    • 一応後継者に据えられたとしても、秀頼が生まれていたら、実史の秀次と似たような立場になってしまうかもしれない。
      • ただしその場合、血縁が無いだけに、秀次とは違ってすぐに政権を返上していたと思われる。
    • 後継者にはなれなくとも、織田信雄追放後の美濃・尾張は彼に与えられ、一門衆に準じる扱いになっていたはず。五大老にも宇喜多秀家の代わりに入っていたかも。

三代目秀勝(小吉)が存命だったら

  1. 秀次の弟。
    • 朝鮮の役でなかなか活躍したが、前線で病没。
  2. 秀吉の後継者候補になっていた可能性は低いが、生きていれば堂々たる戦歴を誇る一門衆のひとりとして重きをなし、秀頼を支えただろう。
    • 関ヶ原の戦いでは、西軍の形式的な中核(31歳なので、実質的な総大将としてはやや力不足と思われる)として担がれることになったかもしれない。そうなると福島正則なども表立って東軍にはつきにくかったかも。
      • 逆に家康に取り込まれる可能性も。心情的には武断派大名たちに近いものがあったろうから。
        • 小早川秀秋よりも秀吉との縁は深い。しかし実兄を秀吉に無惨に亡ぼされたトラウマもある。両方から誘いがかかれば、相当に苦慮したと思われる。あげくに豊臣本家同様中立を標榜することになったかもしれない。
  3. お江の方が徳川秀忠と結婚することは無い。
    • 保科正之の扱いが違っていたかも。というか秀忠の跡は正之が継いでたりして。

豊臣家が存続できていたら

豊臣家は大阪の役の際、浪人の追放や大阪城を出て大和郡山に国替えするか、江戸に上るか、淀殿を人質として差し出すことを条件を突き出しましたが、豊臣家が断固拒否したために大阪の役で滅ぼされてしまいました。
もし条件をすべて呑んで、せめて織田氏や足利氏のように、小藩ながらも生きながらえてたらどうなっただろうか?

  1. 淀殿の評価はガラリと変わっていた。
  2. さらに小藩に飛ばされる(九州の小さな藩とかに)
    • こことか。
      • この場合、島原の乱ときに乱の首謀者と決め付けられて結局攻め滅ぼされていた可能性もある。
        • 本当に首謀者になっていた可能性もあるが。
    • 江戸から近い房総や常陸じゃないかな?
    • 喜連川藩みたいに「十万石格(実際の石高は一万石未満)」の扱いになっていた。
  3. 江戸時代は財政難に陥る。
    • 参勤交代の費用やら、手伝普請とかで。
      • 宝暦治水も薩摩藩の代わりにやらされていた。
  4. 御家騒動も起きている。
  5. 豊臣ではなく、「木下」か「羽柴」を名乗っている。
    • 羽柴姓を名乗って選挙に出ている三上氏は羽柴姓を名乗れなくなる。
    • この作品の某登場人物も違う名前だっただろうな…
  6. 明治維新の時の藩主が「俺はいつ関白になれるのだ」と発言。
  7. 明治維新の後、公爵の位を受ける。
    • 貴族院議員の議長も歴任したかもしれない。
  8. 織田信成のように子孫が何かのスポーツで活躍。
  9. 堂上公家として存続していたかも。