「バカ人物志」の版間の差分
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===公家=== | ===公家=== | ||
====藤原道長==== | |||
#『御堂関白記』という歌集があるから、関白だったと思われているが、実は関白にはなってない。 | |||
#独裁者でもない。 | |||
#*むしろ根回しの天才。あの手この手で人をたらしこみ、自分の思い通りになるよう誘導して行くのがうまかった。 | |||
#五男だったのに兄4人が立て続けに病死したおかげでトップに躍り出た幸運な人。 | |||
#「栄花物語」という一代記が書かれた。 | |||
====藤原通憲(信西)==== | |||
#「保元の乱」で後白河天皇側の総参謀長を務めた秀才。 | |||
#そのすさまじい洞察力で、平氏や源氏などの武家が今後おそるべき存在になることを見通していたらしい。 | |||
#*保元の乱の後始末で、崇徳上皇側についた源為義の処刑を子の義朝に、同じく平忠正の処刑を甥の清盛に命じた。 | |||
#**平氏・源氏の中に内部抗争のタネを仕込んでおいたのだという噂も。 | |||
#平安時代を通してほぼ廃止されていた死刑を復活。 | |||
#*その峻厳さは、むしろ民衆から支持されたそうな。 | |||
#確乎とした理念に基づいて政治をおこなったようだが、それゆえにだんだん独裁的になってゆき、同族の藤原信頼に追い落とされる。 | |||
#*この反独裁クーデターが「平治の乱」。 | |||
====北畠親房==== | ====北畠親房==== | ||
#新田さんでも勝てなかった尊氏に勝利。鎌倉から追い払う。 | #新田さんでも勝てなかった尊氏に勝利。鎌倉から追い払う。 | ||
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#名前は「ことつぐ」ではなく「ときつぐ」。 | #名前は「ことつぐ」ではなく「ときつぐ」。 | ||
#貧乏だった当時の朝廷のために諸大名から金を集めた。 | #貧乏だった当時の朝廷のために諸大名から金を集めた。 | ||
====菊亭晴季==== | |||
#秀吉のサポーター。 | |||
#*足利義昭の養子になろうとして断られ、落ち込んでいた秀吉のもとへ、関白就任の話を持ってくる。 | |||
#*「豊臣」姓の創設の時にも晴季が動いたらしい。 | |||
#秀次が関白になると、先走って秀次に近づく。 | |||
#*娘を嫁がせてしまう。おかげで秀次失脚に伴って晴季も失脚。 | |||
===武将=== | ===武将=== |
2009年8月6日 (木) 01:05時点における版
歴史上の人物の噂・バカな逸話を集める。
ここでは「歴史上の人物」は大正時代以前に活躍した人物とします。
独立項目/日本史
独立項目/中国史
- 秦の皇帝
- 前漢の皇帝
- 後漢の皇帝
- 魏の皇帝
- 呉の皇帝
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- 西晋の皇帝
- 東晋の皇帝
- 西晋の皇帝
- 南朝の皇帝
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- 五代の皇帝
- 北宋の皇帝
- 南宋の皇帝
- 遼の皇帝
- 金の皇帝
- 元の皇帝
- 明の皇帝
- 清の皇帝
独立項目/世界史
日本史
皇室
神武天皇
- 輝ける初代天皇。
- 実在は疑わしい? いいんだよそんなことは。
- ま、複数の人物が何十年かかけておこなったことを、ひとりの英雄に仮託したと見るのが妥当なところでしょうけどね。
- このあたりの天皇は在位年数とか寿命が超人的。
数合わせ?
- 日向から河内をへて大和に入ろうとしたが、長髄彦さんに負けたので南下し、熊野を経て桜井へ。
- なんでそこまで大迂回して大和盆地に行きたかったんやろ。あきらめて別の土地に行けば良さそうなものを。
- この人が出発した港の日向国美々津が後に日本海軍発祥の地とされた。
崇神天皇
- 一応実在が確認できる最初の天皇らしい。
- 和風諡号には、ハツクニシラスという神武天皇と共通する言葉が入っているので、同一人物説もある。
景行天皇
- ヤマトタケルをこき使った薄情な天皇というイメージが強いが、実は自分も相当忙しく各地を飛び回っていたらしい。
- 「景行天皇行幸の地」というのは日本各地にやたらと沢山ある。
- まあ、実際には景行天皇から遣わされた使者もしくは軍勢が行っただけではないかとも考えられるが。
- 「景行天皇行幸の地」というのは日本各地にやたらと沢山ある。
ヤマトタケル
- 日本の上代を代表するスーパーヒーロー。景行天皇の皇子。
- 実在は疑わしい? いいんだよそんなことは。
- 上代に活躍した「皇子将軍」たちの事跡を、ひとりの英雄に仮託したと見るのが妥当らしい。
- とにかく、この人が居たおかげで、日本には数少ない「英雄叙事詩」を持つことができた。これがあるのと無いのとでは、民族としての誇りがだいぶ違ってくる。
- パニくって叔母さんに泣きついたり、ダメだってわかっててメンス中の女と交わったり、英雄としてはけっこう失点が多いのも、人間的で親しめる。
- ただし「古事記」の記述によります。「日本書紀」ではもうちょっと綺麗事になってます。
神功皇后
- 日本の上代を代表するスーパーヒロイン。仲哀天皇の奥さん。
- 実在は疑わしい? だからいいんだってそんなことは。
- 夫の遺志を継ぎ、戎装に身を固めて三軍を叱咤し三韓征伐。萌えます。
- 実際には「崇神王朝」と「応神王朝」の交代があり、その政権交代を自然に見せるべく創作された人物だ……という説が有力なようです。
- 王朝交代が事実だったとしても、その時に大きな役割を果たした女性が居たということは考えられますね。
- 実は卑弥呼のことじゃないかという説もあったりする。
- 実は日本の紙幣に最初に印刷された人物。
- エドゥアルド・キヨソネというイタリア人がキャラデザインを担当したので、古代日本人のコスプレをしている白人女性みたいな感じになってしまった。
仁徳天皇
- 民(たみ)のかまど。
- で、大山古墳は、誰のお墓なのよ。
武烈天皇
- 「古事記」ではなぜかスルーされ、記述がほとんど無い。「日本書紀」では殷の紂王ばりの暴君扱いされている。
- 紂王の他、夏の桀王、呉の孫晧、隋の煬帝など、「前王朝の最後の王様」というのはボロクソに書かれるのが常。継体天皇から王朝が交代したのではないかという説の根拠のひとつになっている。
- 女官を裸にして馬の交尾を見せ、アソコが濡れた者を殺し、濡れなかった者を奴隷にしたとか意味不明な「暴虐」も。
- 「古事記」がスルーしていること自体、「日本書紀」の記述の信憑性を高めているような気がするのだが……
継体天皇
- 武烈天皇が嗣子無くして崩御し天皇家断絶の危機に応神天皇の血をひくものとして越の国から天皇に祭り上げられる。
- そもそも天皇家の血をひいていなかったのではという説があるが血縁があったとしても前代とはかなり離れているので実質新王朝。
- そんなことで「天皇家は万世一系」とか言うと引き合いに出される人。あ、そういう議論はChakuwikiではなしでよろしく。
- なかなか大和地方に入れず、周辺であちこち遷都している。根強い反対派も居たらしい。
- そもそも天皇家の血をひいていなかったのではという説があるが血縁があったとしても前代とはかなり離れているので実質新王朝。
- ここから天皇家の系譜がはっきりし始める。
- 少なくとも現在の皇室が継体天皇の血を引いているのはほぼ確実。
- 歴代天皇で唯一の地方出身者(越の国)
崇峻天皇
- 蘇我氏によって射殺された(←歴史の教科書に書いてある)天皇。天皇が臣下に殺されるなんて前代未聞。後にも先にも崇峻天皇のみ。
推古天皇
- 東洋初の女帝。武則天よりかなり早い。
- かなり美人だったらしい。
- 夫の敏達天皇が崩御した後、喪に服していると、異母兄弟の穴穂部皇子にレイプされそうになった。推古天皇がこの時すでに30過ぎ(今のオバサーとは全然違います)だったことを考えると、相当な色香があったとしか。
- 穴穂部がレイプしようとしたのは、政治的な理由が大きかったと見られているが、彼女を味方につけようとするだけなら他の方法もあったはず。
- 夫の敏達天皇が崩御した後、喪に服していると、異母兄弟の穴穂部皇子にレイプされそうになった。推古天皇がこの時すでに30過ぎ(今のオバサーとは全然違います)だったことを考えると、相当な色香があったとしか。
- 聖徳太子の傀儡だの蘇我馬子の傀儡だのいろいろ言われてきたが、実は相当にしたたかな政治力を持っていたらしい。
- 即位前から、キングメーカーみたいな暗躍をしていた形跡がある。用明天皇、崇峻天皇などは彼女の掌の上で転がされていた雰囲気。
- 聖徳太子を皇太子として立てていたが、推古天皇が元気で長生きしているうちに、聖徳太子が先に没してしまう。
- 推古天皇の享年は76歳。当時としては驚くべき長命。
- この生命力の旺盛さだけ見ても、芯の強い堂々たる政治家であったことが伺われる。
聖徳太子
- 用明天皇の皇子。推古天皇の甥に当たる。
- 推古天皇の皇太子に立てられたが、オバハンが丈夫で長生き過ぎたため、皇位に就くことなく先に死んでしまう。
- 馬小屋の前で生まれたので厩戸皇子と名付けられた。
- 宇宙人と交信してた説、超能力者だった説、両性具有者だった説など、いろんなトンデモ説が囁かれている人。
- それだけ時代を突き抜けた先進性を持っていたということでしょうかね。
- 同時にしゃべる10人の話を全部聞き分けたというのは、確かに尋常ではない。
- 隋の煬帝にケンカを売る。
- 「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。つつがなきや云々」という手紙を送った。
- 「天に二日無く、地に二王無し」という中国の建前からすると、ほとんど宣戦布告書ととられても仕方ない書き方だったりする。
- 幸い、煬帝は外国の使節にはいやに鷹揚な態度をとりたがる皇帝だったので、さほどのお咎めは無し。
- しかしやはり面白くはなかったようで、
「蛮夷というヤツは手紙の書き方も知らんようだ。もうこんな無礼な手紙は取り次がんでよろしい」と言った。 - 「煬帝は激怒した」と、日本人の著書にはよく書かれているが、史書には別に激怒したという記述は無い。「悦バズ」とあるだけ。
- しかしやはり面白くはなかったようで、
- 中国でもその直前に五胡十六国時代やら南北朝時代やらがあって、あちこちに皇帝や天子を名乗る連中が居たので、後の時代よりはその辺がゆるかったかも。
- 是非はともかく、今の政治家にもそのくらいの気概は持って貰いたいものだ。
- 「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。つつがなきや云々」という手紙を送った。
- 高額紙幣の常連。
- 今はなりを潜めているが、将来5万円札とかできたら復活するかも。
- 十七条憲法の発布、冠位十二階の制定など聖徳太子の業績は多いが、後世にとっていちばんの功は、神と仏を同時に拝むのを可能にしてくれたことだと思う。
- おかげで、その後の日本には、深刻な宗教戦争がただの一度も起きず、どんな外来宗教が入ってきてもたちまち骨抜きにできるようになった。
天智天皇
- 中大兄皇子の名前のほうが有名かも。
- 蘇我蝦夷・入鹿父子を誅殺し、蘇我氏に奪われていた実権を皇室に奪還した。
- ただし蘇我氏をすっかり亡ぼしたというわけではない。ここ要注意。
- 蘇我倉山田石川麻呂という、蝦夷・入鹿とは別系統の蘇我の有力者と結んで本家を倒しただけ。
- もっとも、この倉山田石川麻呂も、のちに難癖をつけて攻め殺されている。
- 政治の表舞台からは消えたが、蘇我氏の繁栄はもう少し続きます。
- 例えば、蘇我氏の血を引いている女性しか「皇后」になれない、という暗黙の規則は、のちに光明皇后(藤原氏出身)に破られるまでは確固たるものだった。
- 蘇我倉山田石川麻呂という、蝦夷・入鹿とは別系統の蘇我の有力者と結んで本家を倒しただけ。
- ただし蘇我氏をすっかり亡ぼしたというわけではない。ここ要注意。
- 大化の改新を始める。
- 「大化」は日本史上はじめての元号。
- なかなか天皇になろうとしなかった。
- 蝦夷・入鹿を倒した時点で、母・皇極天皇は退位し、中大兄皇子に譲位するという話があったが、実際に即位したのは皇極天皇の弟の軽皇子(孝徳天皇)。
- その後孝徳天皇と中大兄の意見が食い違うようになり、中大兄は皇族や文武百官を引き連れて出て行き、孝徳天皇は難波京に置き去りにされ、憤死。
- 今度こそ中大兄が即位するかと思ったら、母の皇極上皇が重祚して斉明天皇となる。ちなみに天皇の重祚はこれが本邦初。
- 斉明天皇が崩御した後も、7年くらい即位せずに皇太子のまま統治を続ける。だからこの7年間、日本に天皇は不在。
- 天皇になると、儀式などで忙しく、皇太子のままで実権をふるっていたほうが何かと自由でやりやすかったらしい。地位よりも権力を欲した人だったと思われる。
- 最近の新説・大化の改新は軽皇子(孝徳天皇)黒幕説だと、英傑成分が軽皇子ないし大海人皇子に持って行かれ、彼ら野心家たちに振り回された可愛そうな人という解釈になる。
- 白村江の戦いの後、古代山城を作りまくったり、大津なんて浮いた場所に都を移して引きこもった事を考えると、こうした解釈も一理あると思う。
弘文天皇
- 天智天皇の長男・大友皇子。
- 即位したのかどうかわからず、諡号も無かったが、明治になってから「弘文」とおくりなされた。
- 大津の宮で父・天智天皇の政治改革を継承していたが、意見を異にする叔父・大海人皇子(天武天皇)に攻め殺される。世に言う壬申の乱。
- 弘文天皇が大海人を殺そうとしたので逆襲されたと言われていたが、怪しい。
- 弘文側はほとんど戦争準備をした形跡がなく、大海人の一方的な不意打ちだった可能性が高い。
- 弘文天皇が大海人を殺そうとしたので逆襲されたと言われていたが、怪しい。
天武天皇
- 天智天皇の弟。
- 実は天智天皇より年上だったという噂もある。
- 甥の大友皇子(弘文天皇)を攻め殺して即位。
- 「古事記」「日本書紀」の編纂を命じたらしい。
- どちらも天武天皇の生前には完成しなかった。
- 「天皇」という称号を使い始めたのはこの人からだったという噂もある。
持統天皇
- 天智天皇の娘で、天武天皇の奥さん。
- 父や弟を敢然と見捨て、夫に従った。
- ……とされているが、なんだか天武天皇のほうが彼女にひっぱられていたように思えるのは私だけだろうか?
- 父や弟を敢然と見捨て、夫に従った。
- 日本の8人の女帝の中でも、いちばん有能だった。
- 「女帝というのは皇位の中継ぎ役で、実力者の傀儡に過ぎなかった」と言い切っているセンセイがたでも、持統天皇だけは力量を認めていることが多い。
- 皇太子だった一粒種の息子・草壁皇子が若死にしてしまったので、自分が即位。
- 草壁の遺児・軽皇子(文武天皇)はまだ幼少で、即位できない。他の妃が産んだ男子は即位させたくない。仕方なくみずから乗り出す。
- 当初から自分の意思で即位した女帝は持統天皇だけかも。
- こうした変則的な状況を正当化するために、記紀が捏造したのが神功皇后という説がある。ちょうど編集時期が被るし。
元明天皇
- 天武天皇・持統天皇の息子だった草壁皇子の奥さん。
- でもご本人は天智天皇の娘、つまり持統天皇の妹。ややこしいぞ。
- 息子の文武天皇が若死にし、その遺児・首皇子(聖武天皇)はまだ幼少なので、自分が即位。
- 実は首皇子に皇位を廻したくなかったから、という真逆な説もある。
- 首皇子の母親は藤原氏出身(藤原不比等の娘・宮子)。持統天皇や元明天皇は蘇我氏系なので、藤原氏系に皇位を渡したくなかった。
- そこで、状況の変化を待つべく元明天皇が即位したというわけ。
- 実は首皇子に皇位を廻したくなかったから、という真逆な説もある。
元正天皇
- 元明天皇の娘。
- 弟・文武天皇の子である首皇子(聖武天皇)がそろそろ成年に達しそうなのに、母・元明天皇はそれを待たずに娘に譲位した。首皇子に皇位を廻したくなかった説の根拠。
- 絶世の美女だったらしい。
- 長屋王は義弟。
- 蘇我氏系の最後のふんばりで、藤原氏の攻勢に抵抗し続けたが、呪詛をおこなったという罪状で攻め殺される。
聖武天皇
- 勇ましい諡号だが、本人はややノイローゼ気味の線の細い人だったらしい。
- 正倉院宝物の聖武天皇筆の書跡は、線が細く女性的な字なのがそれを裏付けていると思う。
- 悪疫の流行や九州での謀反などのプレッシャーに耐えかね、奈良を逃げ出してあちこちに遷都。
- 実際には遷都と言っても、いちいち首都を造営したわけではない。宮殿を造っただけだが、それでも結構な物入りで、ひんしゅくを買う。
- 大仏を創建。
- 実は仏教に公然と帰依した天皇はこの人が最初。
- その意味ではキリスト教を国教化したローマのコンスタンティヌス帝に相当する。
- 勝手に出家して娘(孝謙天皇)に譲位し、周囲をあわてさせたらしい。
- 実は仏教に公然と帰依した天皇はこの人が最初。
- 奥さんは光明皇后。
- 初の藤原氏出身の皇后。以後、藤原氏の繁栄が約束される。
- 雄渾な筆跡で書いた「楽毅論」が正倉院に収められている。聖武天皇と反対で、男性的で勇ましい人だったのだろう。
孝謙天皇(称徳天皇)
- 聖武天皇と光明皇后の娘。
- 日本史上、天皇になった女性は8人居るが、皇太子になった女性は後にも先にもこの人だけ。
- もと聖武天皇の皇太子だった弟の基王が早死に。もうひとりの皇子である安積親王は藤原氏の血を引いていないので忌避される。で、空前絶後の「皇太女」誕生となった。
- 愛子さまが二人目になるか? 現時点では微妙なところ。
- 実はけっこう有能な人だった。
- 遠縁の淳仁天皇に一旦譲位するが、言うことを聞かないので激怒、策謀をめぐらせて皇位を取り戻してしまう。
- 日本史上二人目の重祚。自分の意思で皇位を奪回したのはこの人だけ。
- 淳仁天皇と組んでいた権臣・恵美押勝(藤原仲麻呂)が乱を起こすが、あっさりと鎮圧する。
- 実権者のクーデターをこれほど鮮やかに鎮圧した天皇も他にはほとんど居ない。
- 日本で初めて荘園を整理しようとしたのは、もっと評価されていいと思う。
- 遠縁の淳仁天皇に一旦譲位するが、言うことを聞かないので激怒、策謀をめぐらせて皇位を取り戻してしまう。
- 僧・弓削道鏡を寵愛。
- 巨根の怪僧みたいに思われているが、実際にはマジメな学僧だったらしい。孝謙天皇の病気の治癒祈祷に招かれたところから、信頼され政治顧問のような存在になった。
- 称徳天皇は道鏡に皇位を譲ろうとしたが、これはさすがに無理だった。
- 和気清麻呂が宇佐八幡宮に神託を聞きに行って「不可」だったというが、神託を受けるまでもなくほとんどの人は反対だったろう。
- しかしこの騒動に懲りたのか、女帝は称徳天皇を最後にぷっつりと途絶え、次は江戸時代の明正天皇まで出てこなくなる。
桓武天皇
- 平安京を建設。
- その前に長岡京も建設しているが、怨霊騒ぎがあって中断。
- 奈良の仏教勢力がうざ過ぎたから遷都したかったらしく、平安京には奈良仏教の寺院はほとんど建てさせなかった。
- その代わり、最澄を寵愛して、当時の新仏教である天台宗や密教を保護。
- 母・高野新笠は百済人の血を引いていたらしい。
- 今上陛下がこの件に言及された途端、「日王の祖先が韓国人であったことを日王自身が認めたニダ! マンシェー!」と某国で大騒ぎ。もうアホかと。
- 桓武天皇が生まれた時点で、百済が亡びてからすでに70年以上経過している。百済人の血などどれだけ薄まっていたか。しかも百済は韓国とは関係ねーだろ!
- 今上陛下がこの件に言及された途端、「日王の祖先が韓国人であったことを日王自身が認めたニダ! マンシェー!」と某国で大騒ぎ。もうアホかと。
四条天皇
- 2才で天皇に。
- 12才のとき、廊下で女官を転ばせようと細工をしたら自分がこけて頭打ってそのまま崩御。
後醍醐天皇
- 髭が濃いイメージが強い。
- キャラも髭に負けず劣らず濃すぎ。
- 皇室の血が入ってるのか?と思えるほど(戦前なら○○罪ですかね)、この人の性格は突然変異。
- おそらく母親から。後醍醐の母は息子を天皇にするため、なんと夫の父であり大覚寺統主であった亀山天皇の后になった。
- 天皇の号は諡なので退位してから名付けられのだがこの人は醍醐天皇に憧れているということで自分で在位中から後醍醐を名乗った。
- この時期の天皇は生前自ら選んでおくのが通例。特に後醍醐だけが特別ではない。
- 「後醍醐」の号を選んだのは、父の後宇多天皇の次というのを強調するため(元になった醍醐天皇の前は宇多天皇)。討幕派の後醍醐と親幕派の後宇多は、先述の母親のこともあって仲が悪かったが、だからこそ、自分は廷臣たちに人気の高かった後宇多の息子だとアピールし、彼らの支持を得る必要があったと思う。
- この時期の天皇は生前自ら選んでおくのが通例。特に後醍醐だけが特別ではない。
- 普通の百科事典にも「個性が強い」と書かれていたりする。
- 「七転び八起き」とはこの人のためにあるような言葉。
- 倒幕計画が一度失敗に終わってもめげずに再び立ち上がったり、隠岐に流された後監視の目をかいくぐって脱出したり、足利軍に京都を落とされた後に失踪して吉野に行ったり…ととにかく執念深い。
- 足利尊氏が天竜寺を建てたのはこの人の怨念を恐れたかららしい。
- 実際にその傑物(良くも悪くも)ぶりを目の当たりにしたから、余計怨念が怖かったんだろう。
- 実は部下や配下武将を平気で使い捨てにしてる(倒幕計画を日野一族の責任にしたり、義貞に無断で尊氏と講和したり)結構ひどい上司なのだが、それでもついて行ってる奴がいるのはやはりカリスマ性があったからだろうか。
- たぶん、直接会うとたちまちとりこになってしまうような魅力があったのだろう。
- その証拠に、たぶん直接には会っていない赤松円心は簡単に離れている。楠木正成や名和長年らは、後醍醐天皇のお目見えを得てしまったために最後まで裏切れなかったと思われる。
- 当時の常識から考えて、楠木正成などが天皇にお目見えするなど、本来あり得ない栄誉だから感激してしまったんだろう。反面、軽率・慣例無視とも言え、これをカリスマと言っていいか微妙のような・・・。
- その証拠に、たぶん直接には会っていない赤松円心は簡単に離れている。楠木正成や名和長年らは、後醍醐天皇のお目見えを得てしまったために最後まで裏切れなかったと思われる。
- たぶん、直接会うとたちまちとりこになってしまうような魅力があったのだろう。
- 日本全国の領地の分配(論功行賞とか)を自分一人で管理しようとしていたらしい。そりゃ無理だよ。
- 天皇専制を目指していたとされるが、中級実務官人層に総スカンを食らっていたため、自分で全部やらなければいけなかったという方が実際に近いだろう。
- 「後の三房」を見出し機会を与えたのは、後宇多天皇。しかも、後醍醐は彼らに諫められる一方。
- 天皇専制を目指していたとされるが、中級実務官人層に総スカンを食らっていたため、自分で全部やらなければいけなかったという方が実際に近いだろう。
- ♪ガンダ~ラ ガンダ~ラ
公家
藤原道長
- 『御堂関白記』という歌集があるから、関白だったと思われているが、実は関白にはなってない。
- 独裁者でもない。
- むしろ根回しの天才。あの手この手で人をたらしこみ、自分の思い通りになるよう誘導して行くのがうまかった。
- 五男だったのに兄4人が立て続けに病死したおかげでトップに躍り出た幸運な人。
- 「栄花物語」という一代記が書かれた。
藤原通憲(信西)
- 「保元の乱」で後白河天皇側の総参謀長を務めた秀才。
- そのすさまじい洞察力で、平氏や源氏などの武家が今後おそるべき存在になることを見通していたらしい。
- 保元の乱の後始末で、崇徳上皇側についた源為義の処刑を子の義朝に、同じく平忠正の処刑を甥の清盛に命じた。
- 平氏・源氏の中に内部抗争のタネを仕込んでおいたのだという噂も。
- 保元の乱の後始末で、崇徳上皇側についた源為義の処刑を子の義朝に、同じく平忠正の処刑を甥の清盛に命じた。
- 平安時代を通してほぼ廃止されていた死刑を復活。
- その峻厳さは、むしろ民衆から支持されたそうな。
- 確乎とした理念に基づいて政治をおこなったようだが、それゆえにだんだん独裁的になってゆき、同族の藤原信頼に追い落とされる。
- この反独裁クーデターが「平治の乱」。
北畠親房
- 新田さんでも勝てなかった尊氏に勝利。鎌倉から追い払う。
- 天皇親政を目指していた後醍醐天皇に対し、彼は公家政治を目指していたとか。同床異夢。
- お手紙大好き。内容は「お前ら武士は南朝に味方して当然だろうが」。
- でもそのお手紙が日本の後世の歴史学に大きな影響を与えることになるとは、本人も思いもよらなかっただろう。
山科言継
- 戦国時代の公家。「信長の野望」にも出てくるので、この時代の公家の中では少しは有名か?
- この人の日記『言継卿記』は戦国時代の重要史料。
- 名前は「ことつぐ」ではなく「ときつぐ」。
- 貧乏だった当時の朝廷のために諸大名から金を集めた。
菊亭晴季
- 秀吉のサポーター。
- 足利義昭の養子になろうとして断られ、落ち込んでいた秀吉のもとへ、関白就任の話を持ってくる。
- 「豊臣」姓の創設の時にも晴季が動いたらしい。
- 秀次が関白になると、先走って秀次に近づく。
- 娘を嫁がせてしまう。おかげで秀次失脚に伴って晴季も失脚。
武将
戦国時代の武将については戦国武将をご覧下さい。
小野好古
- 藤原純友の乱を平定した老将。
- 妹子ちゃんの子孫。
- 小野小町のいとこだかはとこだか。
- 元祖・好古なのに知名度は秋山好古にボロ負け。
源護
- 「みなもとのまもる」と読むらしい。無理だw
- 平将門に喧嘩売ってフルボッコにされる。
源頼義
- 前九年の役を平定する。
- 実は、関東地方のフロンティアがだいぶ少なくなってきたので、東北地方に目をつけた頼義が、難癖をつけて有力者の安倍氏を圧迫したのが前九年の役の発端。
- 頼義が執拗に朝廷に働きかけ、陸奥守とか鎮守府将軍とかの官位を貰っているので、彼の野望は大体見当がつく。
- 当初、安倍貞任と藤原経清の連合軍の前に手も足も出ず敗退を重ねる。
- 特に黄海(きのみ)の合戦では惨敗。
- 出羽の清原氏に三拝九拝し、側面攻撃をかけて貰ってようやく安倍氏を亡ぼす。
- 正直言って、勝つには勝ったが、かなりみっともない勝ち方。
- そのため子孫たちは、頼義ではなく子の義家を称揚した。
- 実は、関東地方のフロンティアがだいぶ少なくなってきたので、東北地方に目をつけた頼義が、難癖をつけて有力者の安倍氏を圧迫したのが前九年の役の発端。
源義家
- 頼義の息子。八幡太郎。武家源氏の象徴みたいな人。
- 後三年の役を平定すべく出陣したが、清原(藤原)清衡には翻弄され、朝廷からは私戦として恩賞を貰えず、あんまりいいところ無し。
- 仕方なく自分の所領の中から配下に恩賞を分け与えたところ、「これは頼もしい大将だ」と思いがけず人気沸騰。源氏興隆の礎を築く。
- 雁の飛び方の乱れから伏兵を見抜いたとして、その眼力を賞賛される。
- 大江匡房から教わった兵法。でもこれって、野戦の将として、人に教わらなければわからないようなことか?
山本義経
- 源義経とであったことがある。ちなみに彼も源氏なので、彼が源義経と名乗っていたりすることもある。
楠木正成
- 領地を持った武士ではなかったので「悪党」扱いされる。河内地方の運送業のおっちゃん。
- 「七生滅敵」の言葉と南朝方の忠臣だったことから戦時中のヒーロー。
- 皇居外苑に銅像がある。外国の方も写真撮ってたりするが、↑のことは、、、忘れておいてください。
- 明治になってから正一位を追贈された。
- 籠城戦では熱湯かけたりウンコかけたり。
新田義貞
- 後醍醐天皇麾下の総大将だったのに、戦前は楠木正成の人気に隠れ、戦後は足利尊氏復権のあおりを食って二流武将扱いされ続けている不遇な人。
- よく調べれば、すごく頑張ってるんだけどねえ……
- 足利氏とはもともと同族だが仲が悪かった。
- 源義家の次男・義国が両家の先祖。
- 義国の長男・義重が新田氏を興し、次男・義康が足利氏を興した。
- が、義重は先に家を出たため、なんとなく義国家の家督を辞退したような形になってしまい、以後足利氏が嫡流のような印象ができた。
- しかも足利氏は、頼朝や北條氏に機敏に接近して高位を得ていたが、新田氏は代々剛直かつ融通の利かない当主が続き、義貞誕生時にはすっかり落ちぶれていた。
- 鎌倉を落とし、幕府を覆した殊勲者。
- 幕府のかなりの兵力が上方に行っていたため、鎌倉がやや手薄になっていたという事情はあったものの、難攻不落の要塞都市を落とすのは容易でなかったはず。
- 六波羅探題を落とした足利尊氏より功績はどう考えても上。
- 刀を海に投げ入れると潮が引き海側から攻めたという逸話がある。これは伝説にすぎないといわれていたが、最近事実だということが判明。
- 京都に呼び出されてからは、あまり勝ち戦が無い。
- 常に公家が同格もしくは上位者として同行し、作戦に口を出すばかりか勝手な動きばかりしていたので、そのフォローのために戦機を失い続けた観がある。
- 箱根の合戦や比叡山の合戦では特にその印象が強い。
- 足利軍が京都に攻め寄せた時は、朝廷を丸ごと避難させたのち、鮮やかに勝利し、尊氏を九州まで追い落とす。やっぱり口出しするヤツさえ居なければ、充分にできる子。
- 尊氏が九州から復活して攻めてきた際も、同じ手で戦おうとしたが、「一年の内に二度も動坐するなどとんでもない」という理由で却下される。仕方なく水際で叩こうと湊川に出陣したが、楠木正成を失う敗戦となる。
- 関東に帰って精兵を募ってくることを申し出たが、却下される。
- 公家側の言い分は「帝のお墨付きがあるのだから、兵など日本中どこからでも集められるはずではないか」というもの。
- 義貞が一旦関東に帰ったら、そこで自立して戻ってこないのではないかという警戒心もあったようだ。
- 常に公家が同格もしくは上位者として同行し、作戦に口を出すばかりか勝手な動きばかりしていたので、そのフォローのために戦機を失い続けた観がある。
- 後醍醐天皇から勾当内侍という美女を賜ったそうな。
- この美女にうつつを抜かして戦機を失った愚将だと思われがちだが、詳細に日付を見てゆくと、女のために軍事行動をおろそかにしたと考えられる時期は全然存在しない。「太平記」の記述で悪いイメージが作られてしまった例。
- 最後の死に方はちょっと間抜けっぽい。これもまた愚将のイメージのもとになっている。
- 越前の灯明寺畷で、自ら偵察行動に出ていたところ斯波高経の軍勢と遭遇してしまい、戦死。
- 大将みずから偵察行動をしなければならない理由は全然無かったので、無駄死にと言われても仕方がないかも。
- 自称、新田流の黄門様により、討死にしたと伝わる地域から立派な兜が発見され、その地を新田義貞討死の地とし地名は新田塚と名付けられた。
- 越前の灯明寺畷で、自ら偵察行動に出ていたところ斯波高経の軍勢と遭遇してしまい、戦死。
足利持氏
- ダメ上司の典型のような人物。
- 気性の激しさは宿敵義教と同じだが、政略・軍略に関しては足元にも及ばないヘタレだった。
- 鶴岡八幡宮に奉納した血染めの感状の話とか…そこまであからさまにしなくても。
上杉憲実
- 中間管理職の悲哀をそのまま表したような人物。
- 凄腕だがワンマン経営の独裁社長と、そいつと犬猿の仲で、出世欲だけ一流の支店長の狭間で悩まされ続けた。
- 「お前は俺より社長の言う事を聞くんだな!」「そういうつもりはございません!」
- その他、義絶した息子が元上司の息子に殺されたり、後半生はこれでもかというほどに不幸続き。流浪の末最後は山口で一生を終えたそうな。
- 凄腕だがワンマン経営の独裁社長と、そいつと犬猿の仲で、出世欲だけ一流の支店長の狭間で悩まされ続けた。
学者
平賀源内
- 本業は本草学者だが、発明はするわ、ユーモア小説や浄瑠璃台本は書くわ、油絵は描くわ、陶芸はするわ、イベント屋はするわ、鉱山開発はするわ、しかもそのどれもが結構な水準に達していたスーパーマルチ人間。一名「日本のレオナルド・ダ・ヴィンチ」。
- ただ、どれも一流半歩手前な感がある。どれか一つに専念していたら、超一流になれたのに・・・。
- 四国・高松藩の貧乏藩士の子として生まれる。
- いろいろ発明。
- エレキテル(起電機)を発明。当時なんの役に立ったのかは微妙。
- 10代将軍徳川家治のオネショの治療に使われたという話も。効果あるのか?
- 発明と言うより、オランダ製の機械を修理しただけという説もある。
- 火浣布を発明。アスベストのことだが、これを繊維状にして織ったのがオリジナル。
- 竹とんぼを発明。史上初のプロペラらしい。
- エレキテル(起電機)を発明。当時なんの役に立ったのかは微妙。
- 作家としても一流。
- 浄瑠璃で今でも有名なのは「神霊矢口渡」。他にも沢山書いている。
- ユーモア小説「風流志道軒傳」は「ガリバー旅行記」の翻案らしい。
- 「放屁論」という爆笑エッセイもある。
- もちろん、学者としてちゃんとした論文も書いている。「物類品隲」など。
- 画家としては一流かどうか微妙だが、とにかく西洋画の技法は完全に身につけていた。
- 「西洋婦人図」などが有名。
- 秋田の洋画家・小田野直武は源内から西洋画を習った。
- 浮世絵の進歩にも一役買っているらしい。たぶん絵の具の改良を試みたと思われる。
- 「平賀焼」「水無焼」などの陶芸品も作っている。
- 最近は「源内焼」と呼ばれることが多い。デザインを一言で言えば「文人趣味を取り入れた黄瀬戸・織部焼」かな。
- どちらも華南三彩を元ネタにしているため、色合いが似ている。
- 最近は「源内焼」と呼ばれることが多い。デザインを一言で言えば「文人趣味を取り入れた黄瀬戸・織部焼」かな。
- イベント企画力も凄腕。
- 三井をスポンサーにして博覧会を開催。
- 海外からの輸入品を国産品でまかない、外貨の流出を防ごうという意図があったという。
- 「土用の丑の日にウナギを食べる」というのは源内のキャッチコピーで普及した習俗。
- 「夏場の暑い時には、ウナギみたいな脂っこいものが全然売れないんです。源内先生なんとかなりませんか」とウナギ屋に泣きつかれて考案したらしい。
- 三井をスポンサーにして博覧会を開催。
- 鉱山開発のほうはあまりうまく行かなかったが、秋田藩に招かれて阿仁鉱山の再生に力を尽くしている。
- 田沼意次をスポンサーに、北海道あたりでもっと大がかりな鉱山開発をもくろんでいたという話も。
- 最後は殺人罪で逮捕され、獄中で死ぬ。
- 誰を殺したのか、なぜ殺したのかもはっきりしていない。殺す気はなかったのに間違えて殺したとも、誤解がもとで殺したとも、乱心して殺したとも言われる。
- 杉田玄白が墓碑銘を書いた。「ああ非常の人、非常のことを好み、行いこれ非常、何ぞ非常に死するや」
- 出張なんでも鑑定団でおなじみ
南方熊楠
- 粘菌の研究で有名。
- 民俗学の研究でも有名。
- 寺社林の保護の観点から神社の合祀に反対した。日本における環境保護の先駆けみたいな人。
- いつでもどこでも反吐をはけたらしい。反芻動物。
- で、その反吐に繁殖した菌を観察していたらしい。
- 大ボラふき、大風呂敷を広げる人。
- 曰く、外国語はその言語で書かれた本と日本語で書かれた本を一冊読み比べれば習得できる、らしい。
- オヤジの遺産の相続で実弟と大げんか。弟にすればこっちは真面目に商売しているのに、仕事もせんと意味のわからん好き勝手ばっかしてる兄貴に金はやれんかったんかな。
商人
ルソン助左衛門
- ルソンから茶壺を輸入して財をなす。
- が、実はその壺は現地では糞壺として使われていたものだったとか。
鴻池新六
- 尼子十勇士の筆頭・山中鹿介の遺児。
- 上月城が落ちて父が囚われ、のちに毛利に斬られたのち、武士として生きるのをやめ、商人に。
- 清酒を発明した。
- うっかり酒樽の中に灰を落としてしまったところ、酒の濁りがすっきり取れて、見事な無色透明になっていたという。
- つまり、信長の時代くらいまでの酒盛りシーンで透明な酒が出てきたら、そのドラマは考証不足ということになります。
- 半透明くらいな「澄んだ酒」はそれ以前にもあったようだが。
- 鴻池財閥の基礎を築く。つまり三菱東京UFJ銀行の祖。
紀伊国屋文左衛門
- 通称「紀文」。
- でもかまぼこ屋の紀文とは直接の関係はない。
- 書店チェーンの紀伊国屋とも関係はない。
- ミカンを江戸に運んで大儲け。
- 紀州で大豊作だったので上方では大暴落、一方江戸では「ふいご祭」にミカンが必要なのに荒天で船が着かず大高騰。文左衛門は嵐の中頑張って船を出し、ただ同然の上方からミカンを輸送し、その利ざやで一躍お大尽となる。
- その後、鮭を上方まで運んでこれまた大儲け。
- 調子に乗って貨幣鋳造まで請け負うが、粗悪品を作って信用を落とし、没落。
- まあ実際は、元禄時代の右肩上がり経済が、一転してマイナス成長になってしまったため、それまでの拡大戦略が頓挫し、方針転換に対応しきれなかったのが没落の原因と思われる。
芸術家
鳥羽僧正(覚猷)
- 日本最古のマンガ家。
- 現代のマンガ家やアニメ関係者は、みなこの人に感謝すべき。
- 将来「マンガの日」とかできたら、この人の命日(10月27日)がふさわしいと思う。
- 「鳥獣戯画」が有名だが、「放屁合戦」「陽物くらべ」などの爆笑作品も。
- 臨終の席で、弟子から遺産の分与について訊ねられると、「腕力で決めろ」とひとこと言って大往生。どこまでもお茶目さん。
世阿弥
- 能の完成者。
- 実技だけでなく、「花伝書」というレッスン・ノートを遺してくれたのが良かった。
- 「花伝書」は今の楽器やバレエのレッスンなんかにも応用が利く。
- 実技だけでなく、「花伝書」というレッスン・ノートを遺してくれたのが良かった。
- 足利義満に寵愛される。
- でも足利義満を暗殺したなんて噂もある。
雪舟
- 足でも絵が描けた天才画家。
- 寺の小坊主だった頃に、絵ばかり描いていたので和尚さんに叱られ、お仕置きに柱に縛られた。その時、流れ出る自分の涙と足の指を使って床にネズミを描いた。雪舟がネズミにかじられるかと驚いた和尚さんが紐を解いてくれた……という有名な伝説がある。
- 残っている作品のほとんどは国宝か重要文化財。
- 外国の切手に初めて印刷された日本人。
千利休
- 千家流茶道の創始者。
- もとはしがない魚屋の「田中与四郎」だったが、茶の湯の流行によって一躍時代の寵児に。
- 信長・秀吉に寵愛された他、数多くの武将を弟子にした。
- おかげで隠然たる権勢をふるうことに。
- 大友宗麟が秀吉の弟・秀長と会った時、「うちうちのことは利休に、おおやけのことはこの秀長にご相談下され」と言われたほど。
- 外国の粗悪な陶器でも、利休が認めれば何十両もの価値を持つ芸術品に早変わり。
- おかげで大儲け。一代で巨万の富を築く。
- 秀吉の弟・秀長の暗黙の協力があったらしい。
- ちょっとやりすぎて、秀吉の不信を買ってしまう。
- 武将ではなかったがやはり典型的な戦国人。壮絶な辞世を残して切腹し果てる。
- 秀吉との確執を、「芸術家の権力に対する抵抗」もしくは「価値観の相違による対立」とする、えらく高尚な見方が一時期流行ったが、どうだかねえ。
- 単に、秀吉の威を借りてえげつなく儲け過ぎたから睨まれた、程度ではないかという気もする。
- そうならば、そのおこぼれに与った親類縁者、特に販売に共に関わった商人も連座し、それが当時の常識のはずだが、実際に処罰されたのは利休ただ一人。やはり原因は利休個人にあると考えた方が妥当。
- 利休の茶の根本は、今の茶道の姿からすれば信じられないが、「茶の湯に決まりはない」という一種の革命思想。秀吉からすれば、天下を統一するまでは旧習を改革するのに都合のいい考えだけれども、天下を統一し自分が支配体制を確立する段階になると、その革命思想は自らの権力を否定することになりかねなかった。
- 利休が殺されたのが統一直後で、その排斥に強く動いたのが石田三成をはじめとした秀吉体制の組織者たちというのがそれを裏付けていると思う。
- また、そう考えると後の古田織部の場合もすんなり説明できる。
- 当時他に幾らでも織部より年期のある茶人がいたのに、彼らを押し退けて織部が天下一の茶人になれたのは、利休の革新性を最もよく受け継いでいたから。しかしそれ故に、師と同様非業の死を遂げることになる。
- 単に、秀吉の威を借りてえげつなく儲け過ぎたから睨まれた、程度ではないかという気もする。
- 「ごめんなさいって言えば許してやってもいいよ」と秀吉から言われるが、「誰がごめんなさいなんて言うもんか。あっかんべー」と意地を張って、結局切腹するはめに。
- 辞世の句「堤(ひっさぐ)る我が得具足(えぐそく)の一太刀(ひとつたち) 今此時ぞ天に抛(なげうつ)」
- 「ド真ん中に傷がある花入れ」だの「真ん中に節があり、しかもそこがくの字に曲がった茶杓」だのを美しいと言い切るためには、それくらいの確固な信念がいるのだろう。
- 秀吉との確執を、「芸術家の権力に対する抵抗」もしくは「価値観の相違による対立」とする、えらく高尚な見方が一時期流行ったが、どうだかねえ。
- 本人は横死したが、有力な弟子が多かったので、千家流は茶道の本流として今に伝わる。
- でもけっこう浅ましい本家争いがあって、表と裏に分かれる。
- 本人も後継者も、芸術上は「わびさび」を重んじたが、実際の処世は「わびさび」には程遠かったようだ。
- 当時は小堀遠州や片桐石州の武人茶道の方が流行っており、それらに対抗するためには利休の功績を過度に強調し、自分はその後継者だから正当なのだという宣伝をして門弟を得ようとした。家門を守るためには仕方がない面もあるのだが、結果として利休のやったことを絶対視し、茶の湯の持っていた創造性は抜け落ちてしまった。
- でもけっこう浅ましい本家争いがあって、表と裏に分かれる。
- リキュール×1000
出雲阿国
- 歌舞伎の元祖。
- 出雲大社の巫女上がりと言われているが、真偽のほどは微妙。
- 遊女上がりとも言うが、巫女兼遊女というのも別に珍しくはないので、両方とも正しいのかも。
- 脚本、演出、主演、音響監督、プロデューサーなどを一手に引き受けたスーパー芸能人。
- 蒲生氏郷の小姓だった名古屋山三郎をパトロン兼スーパーバイザーにつけ、歌舞伎をさらに洗練する。
- 山三郎がしょーもないケンカ沙汰で殺されるや、そのネタで一本興行してしまうという抜け目の無さも。
- 蒲生氏郷の小姓だった名古屋山三郎をパトロン兼スーパーバイザーにつけ、歌舞伎をさらに洗練する。
中国史
王様
禹王
- 夏王朝を築いた。
- 黄河の治水にはじめて成功。
- 自分で歩き回って測量や工事をおこない、大変な苦労をした。
- そのため、後世ではやや軽侮されるところも。
- 「えらい人は、自分でからだを動かして働いたりしない」というのが中国人の考え方なので。堯や舜に較べると一段下という感じ。
- 王位を重臣の「益」に譲ろうとした。
- 当時の王様は、気苦労が多いばかりで、あんまり実入りのない役職だったらしい。だから子供に継がせようとは思わなかったのだろう。
- しかし人々は「益」では納得せず、禹の息子の「啓」を押し立てて王様にしてしまった。
桀王
- 夏王朝最後の王様。
- 頭は良く、腕力もすごく強かったらしい。
- 美女「妺嬉」に溺れる。
- この美女、絹を裂く音(裂帛の響き)が大好きという変な趣味があった。
- 殷の最後の王・紂王といろんな意味でキャラがかぶり過ぎ。たぶん紂王より後で作られたキャラと思われる。
湯王
紂王
- 殷王朝最後の王様。「受」王というのが正しいらしい。
- 頭は良く、腕力もすごく強かったらしい。
- 美女「妲己」に溺れる。
- 酒池肉林、炮烙の刑、沙宮の動物園の造営など、独創的なイベントを数々考案している。
- 長らく暴君の代名詞みたいな存在だったが、最近になって少し見直されている。
- 甲骨文の解読などにより、今までと違った人物像が見えてきたため。
- 実は信心深く、なおかつ果断に政治改革を試みた王様だったとか。
- 殷の故地とも言える東方で叛乱が相次ぎ、それを鎮圧しようと兵を向けている隙に、西から進出した周に足下をすくわれたというのが真相らしい。
文王
- 周が殷を倒すお膳立てをしたが、実は王位にはついていない。
- 生前の呼び名は「西伯昌」。文王というのは息子の武王からの追号。
- 紂王に呼びつけられて「羑里」というところに幽閉されたが、奇蹟の復活。
- 幽閉中、暇にあかせて易学の研究をしていたらしい。
- 太公望を見出し、軍師として重用する。
- 天下の諸侯のうち3分の2が帰服したので、いよいよ殷を倒そうと乗り出しかけたところで自分も死んでしまう。
武王
- 文王の次男。
- 兄の伯邑考が紂王に殺され、スープにされてしまったので、急遽文王の後継者になった。
- 太公望の策を用いて、牧野で殷軍を撃破、殷を亡ぼす。
- 気苦労が多かったのか、天下を取って間もなく没。
幽王
- 周の12代目の王様。
- 美女「褒姒」に溺れる。
- この美女、間違いの狼煙で集まってきた諸侯の軍勢がきょとんとしているところを見た時だけ笑うという変な趣味があった。
- 幽王は彼女を笑わせようと、何度もフェイクの狼煙を上げ、諸侯の軍勢に無駄足を踏ませた。
- おかげで、本当に敵が迫った時、いくら狼煙を上げても軍勢が集まらず、ほうほうの態で逃げ出す。
- イソップの狼少年そのまんまのエピソード。
- 正室「申后」の産んだ王子「宜臼」を太子にしていたのに、褒姒の子に取り替えようとしたので、申后の父「申公」が激怒し、異民族「犬戎」を引き入れて幽王を攻撃。
- 前項の通り軍勢が集まらず、幽王は逃げ出したが、やがて捕まって殺される。
- 申公は宜臼を立てて「平王」とし、外祖父として権勢を振るおうとしたが、犬戎が思ったより獰猛で、首都・鎬京を荒らし尽くしたので、平王ともども逃げ出さなければならなくなった。
- かくして「西周」は滅亡。以後は首都を東に遷して「東周」となる。
斉の桓公
- 春秋五覇の第一号。
- 春秋五覇が誰と誰を指すのか、各種の説があって一定していないが、斉の桓公と晋の文公だけはどの説でも必ず含まれている。
- 若い頃は小白という名で、兄の襄公を怖れて国外逃亡していた。
- 襄公は妹萌えで、魯の桓公に嫁いだ妹の文姜と相思相愛。ついには魯の桓公を謀殺して文姜とちちくりあう。そんなこんなで斉の風紀は乱れまくり。
- しかも襄公は粗暴な男で、親類や重臣にケチをつけては殺したり追放したり。小白も身の危険を感じて逃げ出した。
- やがて襄公がイトコの無知に暗殺され、その無知も重臣たちに暗殺される。小白にも希望が出てきた。
- 同じく国外逃亡していたもうひとりの兄・糾に競り勝って斉君に即位。
- この時、糾に従っていた重臣・管仲に殺されかかる。
- 逃亡中ずっと支えてくれた重臣・鮑叔の意見を容れ、にっくき管仲を宰相として登用。これが思わぬ拾い物で、管仲の政策で斉は一躍大国の仲間入りをし、他の諸国に影響力を及ぼす覇者となる。
- 本人の性格はけっこう享楽的でチャランボランだったらしい。
- しかし、ひとたび人を信じればとことん信じ抜くという美点があり、ほとんどそれだけで覇者に昇りつめた観がある。
- 管仲に政務を任せきりにし、臣下が何を言ってきても「仲父(管仲の尊称)に聞け!」としか言わなかったので、側近の道化役が
「国君とは気楽なものですねえ。なんでも『仲父に聞け!』で済むなら、あっしにも務まりそうです」とからかった。桓公は
「何を言う。ワシは若い頃苦労したんだから、いま楽をして何が悪い」と言い返したそうな。
- 死後は悲惨なことになった。
- 管仲も鮑叔もすでに亡く、最後は佞臣ばかり残った。
- その連中が桓公の遺児たちをそれぞれに担いで内乱状態になってしまい、桓公の棺は埋葬もされずに放置。棺からウジ虫が大量発生する惨状となった。
晋の文公
- 春秋五覇の第二号。
- 春秋五覇が誰と誰を指すのか、各種の説があって一定していないが、斉の桓公と晋の文公だけはどの説でも必ず含まれている。
- 若い頃は重耳という名で、父の献公を怖れて国外逃亡していた。
- 太子である兄・申生、弟の夷吾と共に、献公の後妻・驪姫に疎まれて遠ざけられていた。やがて申生は自害。
- 驪姫の子が国君になったが、重臣たちに攻め滅ぼされる。
- 重耳と夷吾のもとに、次の国君に迎えようとする使者が来るが、重耳はなぜか辞退。宿老・狐偃の意見に従ったらしい。一方夷吾はあっさり承知し、晋の恵公となる。
- 少数の臣下と共に中国じゅうを放浪する。
- 恵公が兄の重耳を警戒し、刺客を送ったので、重耳は隠れ里から出奔し、あちこちの国をさすらう。通過した国は10を下らない。
- その時冷遇された国(衛や曹)には、あとできっちり落とし前をつけさせたというが、「あの文公が戦争を仕掛けるくらいだから、きっと以前よほど冷遇したに違いない」ってんで後からこじつけられた話かもしれない。
- 斉に行き、桓公に厚遇され、重耳も斉に骨を埋める気になったようだが、臣下たちが無理矢理連れ出してしまう。
- 重耳がさすらっているうちに、恵公とその子の懐公が評判を落としまくっており、晋に帰国した重耳はかなりあっさりと国君として迎え入れられる。
- 恵公が兄の重耳を警戒し、刺客を送ったので、重耳は隠れ里から出奔し、あちこちの国をさすらう。通過した国は10を下らない。
- 即位して文公となった時、すでに60代半ばで、在位も短かったが、春秋時代最高の名君とされる。
- 在位が短かったからこそ人気が高かったような気もする。長期政権ならボロが出ていたに違いない。
宋の襄公
- 春秋五覇のひとり……に数える人も居る。
- 実際には、覇者にもう少しでなれそうだった人、と言うべきか。
- 斉の桓公の太子をかくまって即位を助けたり、晋の文公を厚遇して帰国を助けたりしたので、なんとなく覇者のような気がしてしまったらしい。
- 斉の桓公を真似て、諸国会盟を主宰してみたが、集まったのはほとんど小国ばかり。
- それどころか、調子に乗って何度も会盟をやっているうちに、楚の成王がやってきて、主宰者の席からひきずり下ろされてしまう。
- 泓水の戦いで楚に惨敗、「宋襄の仁」という言葉を後に残す。
- 楚軍が圧倒的に大軍だったので、重臣たちは奇襲を薦めたが、覇者気取りだった襄公は拒否。堂々と正面からぶつかって、当然のごとく惨敗。本人も重傷を負い、やがてそのために死ぬ。
- 「宋襄の仁」は「身の程知らずにカッコつけて敵に情けをかける」意味となる。
楚の成王
- 春秋五覇のひとり……に数える人も居る。
- なかなか剛毅な王様で、周囲を侵略しまくる。
- 晋の文公が即位前に訪ねてきた時、大いに厚遇。
- 「さて、この礼に、あなたは何をワシにくれるのかな」と文公に質問。即位したら少し領土を割譲しろという含み。
- 文公は考えたのち、「そうですな、将来干戈を交えることがあれば、三舎を避けましょう」と答えた。成王はこの答えが気に入ったらしい。
- 後年、実際に晋と楚が戦った際、文公は約束を守って、前線から三舎(軍勢の三日分の行程)退却した。
- 息子に反逆されて死ぬ。
- 「死ぬ前に、熊の掌を食べさせてくれないか」と頼んだが、拒否された。
- 熊の掌は煮込むのにやたら時間がかかるため、成王はそれを時間稼ぎにして反撃の糸口をつかもうとしたらしい。
- 息子(穆王)のほうもそれと察して拒否したらしいが、「父親のいまわの頼みも拒絶した親不孝者」として後世に悪名を残した。
- 「死ぬ前に、熊の掌を食べさせてくれないか」と頼んだが、拒否された。
楚の荘王
- 春秋五覇のひとり……に数える人も居る。
- ただし、数えていない人のほうが少数派で、ほぼレギュラーと言って良い。
- とにかく長い歴史を持つ楚の国君の中で最高の名君とされている。
- 「鳴かず飛ばず」の元祖。
- 即位して三年間、放蕩の限りを尽くして、臣下の反応を観察。
- 三年経って、たまりかねた重臣のひとりが、なぞなぞを出す。「ここに三年間、ひと声も鳴かず、一度も飛ばない大きな鳥がおります。この鳥なあんだ?」
- 荘王の答えは「その鳥は、一旦鳴けば人々を驚かし、一旦飛べば天に届くぞ」
- 荘王はその日から大変身し、佞臣を一気に粛正し、賢臣を抜擢したとか。
宰相・軍師
伊尹
- 殷の湯王を助けた。
- 軍事よりも外交や内政を得意としたらしい。
- なぜか夏の桀王にも信頼されていたようだ。
- もとは凄腕の料理人だったらしく、それだから桀王のもとにも出入りできたのかも。
- 湯王の孫の太甲がDQNだったので、「桐」という場所に幽閉して反省を促す。
- 誰もが、太甲が出てきたら伊尹は殺されると思ったが、反省した太甲はおとなしく伊尹の教えを受けるようになったという。
- 人使いがうまく、「適材適所」を絵に描いたようだった。
- 「まるでハカリのような人だ」と評判になり、「阿衡」と尊称された。
- はるかな後世、日本の宇多天皇が、藤原基経に「阿衡の佐(たすけ)をもって卿(けい)の任となす」という勅書を出して騒動になったが、これはまた別の話。
太公望
- 周の文王や武王を助けた。
- 斉の国を築いた。
- 釣り人の代名詞。
- まっすぐな釣り針をつけて、しかも水面から離して釣り竿を構えていたというのだから、本当は釣りは苦手だったと思うんだが……
- 当時の人々にもツッコまれたが、「俺は魚を釣るのではなく天下を釣ろうとしているんだ」と強がりを言った。
- 呂尚、姜子牙などいろんな名前が伝えられる。
- 「太公望」の名は、文王が彼に会って「おお、これこそ太公(文王の祖父の古公亶父のこと)が待ち望んでいた人材だ!」と叫んだことからついたというのだが……
- 同僚だった「召公奭」や「周公旦」の例から見て、やっぱり「望」が名前で「太公」は諡号だったんではないかという説が近年有力。
- 「呂」は氏(いわば苗字)、「姜」は姓(日本で言えば源平藤橘みたいなもの)のようだ。
- 「太公望」の名は、文王が彼に会って「おお、これこそ太公(文王の祖父の古公亶父のこと)が待ち望んでいた人材だ!」と叫んだことからついたというのだが……
- 年齢は諸説あり。
- 文王に招かれた時にはすでに70過ぎのジジイだったというのが伝統的な説。
- しかしそれでは余命が長すぎて、最後は悠に100歳を超えることになってしまうので、もっとずっと若かっただろうというのが近年の説。
- 宮城谷昌光さんの小説では20代後半くらいになっていた。
- 藤崎竜さんのマンガではどう見ても10代だった。
- 古典的トンデモファンタジー「封神演義」の主人公。
- 主人公ではあるが、脇役たちのキャラが濃すぎて、あんまり活躍しない。
周公旦
- 周の文王の四男。
- 兄である武王の急死後、早々と崩壊しそうな周王朝を支えて奮闘。
- 周公旦ばかり偉そうにしているのに反撥した他の兄弟たちが、殷の残党と手を結んで叛乱を起こしたが、毅然とした態度で鎮圧した。
- もっとも、兄弟たちの反撥にまったく理がなかったわけでもなく、周公旦の独裁ぶりは確かにヤバいレベルだったらしい。
- 実際、武王の跡継ぎの成王から簒奪し、みずから王位に就いてしまったのではないかとする研究者も居る。
- 魯の国を築いた。
- ただし、実際に魯の整備にあたったのは周公旦の息子。周公旦自身は天下の経綸に忙しく、魯を顧みている暇はなかった。
- とはいえ魯にとっては建国の父。魯に生まれた孔子からすごく尊敬された。
- おかげで簒奪の疑いも表立っては言われなくなった。
管仲
- 斉の桓公に仕えた宰相。
- もともとは桓公の兄の「糾」に仕えていた。桓公には管仲の親友・鮑叔が仕えていた。
- 糾を君主にしようとして桓公を狙撃するが、失敗。
- 当然、命はないものと思っていたら、鮑叔の口利きでなんと宰相に。
- 鮑叔は桓公に「斉の国を治めるだけなら私で充分ですが、殿が天下を望まれるのであればあの男が必要です」と説いたという。
- 管仲は商工業を大いに奨励して斉の国力をアップさせ、桓公を覇者に押し上げた。
- 鮑叔との交友は「管鮑の交わり」として有名になった。
- 実は管仲の施策は鮑叔が黒幕として案を練っていたという見方もある。
- 当時、政策が失敗すると命を奪われかねなかったので、それを嫌った鮑叔が、処刑されてもともとだった管仲を表に立ててリモートコントロールしていたというわけ。
- 桓公から後継者を問われた管仲が、鮑叔の名が上がった時に即座に否定したのも、そんな事情があったからかも。
- 実は管仲の施策は鮑叔が黒幕として案を練っていたという見方もある。
百里奚
- 秦の穆公に仕えた宰相。
- もともとは虞という小国の大臣だったが、晋の献公に亡ぼされ、捕虜となる。献公の娘が穆公に嫁入りする時に、奴隷として一緒に連れて行かれる。
- 一名、五羖大夫。
- 秦からも逃げ出して、楚で農民の奴隷になっていたところ、秦の使者に見つけられて、5枚の羊の皮(五羖)で買い取られる。
- 秦では百里奚と語ったことのある重臣が穆公に推薦してくれていた。穆公も連れ戻された百里奚の話を聞いて、その見識に驚き、重用する。
- が、急な出世に悪口を言う人も多く、「あいつは羊の皮で買われてきたヤツだ」と暴露される。百里奚は気にせず、みずから五羖大夫と号したらしい。
- 徹底した徳政を心がけ、西方の野蛮国とされていた秦を、大国として躍進させた。
- 穆公に見出された時すでに70代、宰相になった時には90を越えていたという。
- どうも、太公望のケースと同じで、本当かな~と思ってしまうね。
思想家
孔子
- 儒学の祖。礼楽の元締めとして多数の弟子を育てる。
- とはいえ、出自は貧乏な武士の子で、国家儀礼にタッチする機会は無さそうだったし、ちゃんとした先生から礼楽を教わった形跡もない。孔子の教えた礼楽は、民間習俗を独学と想像で練り上げた、思いっきりオリジナルなものだった可能性が高い。
- 弟子たちとの会話などをまとめたのが『論語』。
- 礼楽の書としてはともかく、世間智の書としてはなかなかよくできており、今でもファンが多い。
- マックス・ヴェーバーには「インディアンの酋長のおしゃべり」と酷評されたが……
- ちゃんとした諸侯に仕えて、自分の理想を実現してみたいと熱望していたが、結局誘いをかけてきたのは陽虎のようなヤバいヤツばっかり。
- 晩年、もう少しで斉の景公に仕えることができそうだったのだが、晏嬰に阻止される。
- リアリストの晏嬰は、孔子の言う空想的な礼楽を採り入れたらとんでもないことになると見抜いていたらしい。
- 晩年、もう少しで斉の景公に仕えることができそうだったのだが、晏嬰に阻止される。
- 魯の国の歴史書「魯国春秋」は孔子が編纂したと言われ、「春秋経」として大変な権威を持ったが、眉唾。
- 魯の高官でも史官でもなんでもなかった孔子が、国家事業である歴史書編纂に携われたとは考えられない。
荘子
- 老荘思想の第一人者。老子は実在がはっきりしていないので、荘子が祖と言っても良いかもしれない。
- 実存、実用などに関する荘子の考え方は、現代でも充分通用するものがあり、2500年近く前の人とはとても思えない。
- しかも、文章は非常に読みやすく、ユーモアにあふれている。作家・エッセイストとしても超一流。
- ちょくちょく文章の中に孔子やその弟子たちを登場させてはおちょくりまくっているのが笑える。
- 恵子という論敵が居たが、荘子の文章を読む限り、論敵と言っても飲み仲間みたいな感じ。しょっちゅう悪口を言い合う仲良しさんだったのだろう。
墨子
- 絶対平和主義の専守防衛主義者。
- しかし、決して非戦論者ではない。防衛のための兵器の開発に力を注ぎ、攻められている国へ出かけて行っては侵略者を撃退しまくっていた。
- MD兵器にさえ猛反対するどこかの党首にもぜひ見習って欲しい。
- 墨子が防衛にあたった城は必ず守り抜けたので、人々は彼の鉄壁の守備を「墨守」と呼んで讃えた。
- 「墨守」という言葉が、だんだん「融通の利かない」「旧態依然」というような悪い意味になって行ったのは残念。
世界史
皇帝、王様、大統領
アレクサンドロス3世
- 通称アレクサンダー大王。マケドニアの王様。
- 大学者アリストテレスの薫陶を受ける。
- 史上初の「世界征服」をやってのける。
- この場合の「世界」は、「その当時知られていた世界」という意味で、「地球上すべて」ということではありませぬ。
- 親父のフィリッポス2世も貪欲に他国を征服した男で、若き日のアレクサンドロスは「父上は俺に征服する土地を全く残さないつもりか!」と煩悶したとか。
- フィリッポスも「百人に一人」レベルの英雄なのだが、息子が「千人に一人」の英雄だったため、過小評価される可愛そうな人。
- フィリッポスが完璧な下準備、特に最先端の軍制と優秀な部下を残してくれたため、アレクサンドロスは思うがまま征服事業に専念できた。
- もし、アレクサンドロスとフィリッポスの生まれる順番が逆だったら、慎重なフィリッポスがペルシャを征服できないのはもちろん、一本気なアレクサンドロスでは、複雑で反復常ならぬギリシャを統一することは出来なかっただろう。
- もしかして「百年に一人」「千年に一人」では……? 百人に一人じゃ大したことないと思うぞ。
- orz。
- フィリッポスも「百人に一人」レベルの英雄なのだが、息子が「千人に一人」の英雄だったため、過小評価される可愛そうな人。
- エジプトを制圧し、ペルシャを叩き潰し、ソグディアナを蹴散らし、インドまで到達したところでひとまず帰国。
- わずか33歳で病死。長生きしていたらどうなっていたことか。
- 息子のアレクサンドロス4世はこの時まだ母の胎内におり、巨大な版図の後継者が居なかった。
- アレクサンドロスの遺言は「最も強い者が帝国を継承せよ」……たちまち血で血を洗う内戦が始まり、巨大帝国はあっけなく瓦解した。
- 長生きしていたらこうなっていたのかな。
- 征服地のあちこちに「アレクサンドリア」と名付けた都市を建設。
ユリウス・カエサル
- 一般的にカエサルと言えばユリウス・カエサルのこと。
- 「ジュリアス・シーザー」は英語読み。
- フランス語では「ジュリアン・セザール」イタリア語では「ジュリオ・チェザーレ」スペイン語では「フリオ・セサル」となる。いや、だからどうしたってこともないが。
- 「ジュリアス・シーザー」は英語読み。
- 「賽は投げられた」「来た、見た、勝った」など名言を連発、死に際の虫の息の状態で尚名言を放った。歴史上の名言の7割はカエサルのものであるとどっかの歴史家が言ったらしい。
- 大阪で、喜多商店を創業。
- ハゲのオッサンだったがイケメンだったので女が沢山寄ってきた。
- なんでも元老院の三分の一がカエサルに嫁さんを寝取られたらしい。
- 若い頃は借金で首の回らない駄目人間だったが、中年に差し掛かる年齢になってから台頭した。大器晩成型の人物。
- アレクサンダー大王とかその辺と並んで古代史の名将扱いされている。
- ルビコン河を渡河する際、「覆水盆にカエサル」と言って檄を飛ばし、不退転の決意で渡河作戦を決行した。
- ブルータス、お前もか!!
- カフェでの会話。
- 「ぶるうたす」とひらがなで書くと、マッチョなイメージ。
- 「無留宇他巣」と漢字で書くと、珍走団なイメージ。
ティベリウス
- 後半生はひきこもりそのもの。
- 吝嗇家、加えてとても猜疑心が強く、人望は薄かった。
- 一応、政治家としては及第点の評価を歴史家各位(塩姐含む)から貰えている様だ。
ネロ
- 絵に書いたようなナルシスト
- なおかつマザコン。
- 無能な暴君として唾棄される傾向が強い。
- 為政者としては失格の烙印を押されているが、芸術面においては類稀なセンスを発揮していたようだ。
- ローマを焼いた逸話から、なぜかCD-R焼きソフトにその名を使われている。
- 良いから寝ろ!
- 暴君ぶりが祟って最期は飼い犬のパトラッシュと一緒に悲劇の死を遂げた。
- 僕はもう疲れたよ・・・
カールⅠ世
- 例の駄菓子「カール」が大好きでそれを自分の名前にしてしまった神聖ローマ皇帝。
- 飼い犬は、後に刑事犬となった。
武将
ロバート・ランバート・ベインズ
- 豚が一匹撃ち殺されただけで始まった戦争をあやうく指揮するところだったイギリスの軍人。
ジャンヌ・ダルク
- 世界初の魔法少女。フランス征服をもくろむ謎の秘密結社イングランドとの戦いに敗れて処刑された。
- ちなみにそのシーンがあまりに残虐だったため、後に出てくる魔法少女のアニメは全て最終的に勝利することになっている。
- だから、ダルクは武将じゃないって!旗持ちもとい魔法少女だって!本当だってば!
学者
アリストテレス
- 「自然科学」の基礎を築いた。
- 師匠のプラトンや、そのまた師匠のソクラテスが「人文科学」の域にとどまっていた点からすれば、この一歩は大きい。
- 今から見ればごく大雑把ながら、分類学と論理学を創始。またいろんな学問を体系的に秩序立てた。
- アリストテレスの体系が当時としてはあまりに完成されていたため、千数百年にわたってヨーロッパの学問を縛り続けた。
- 地球球体説も地動説もギリシャ時代に存在したのに、「アリストテレス大先生が地球が中心だって言ってるから」って理由で封印されてしまった。アリストテレスが生きていたら嘆いたに違いない。
- アレクサンドロス大王の家庭教師。
ユークリッド
- 数学を習い始めた人々の怨嗟の的。
- とはいえ、「当たり前のことから順々に複雑な理論を構築してゆく」という方法論を確立してくれたのは、その後の科学の発展に大きく役立った。
- その怨みはリーマンが晴らしてくれたが、かえって苦しむ羽目になった。
アルキメデス
- エウレカ!
- 浮力の原理を発見した時の叫び。意味は「われ発見せり!」
- 「ユリイカ」とも言う。後世、日本の雑誌のタイトルになった。
- 「エウレカ! エウレカ!」と言いながら街路をマッパで走ったらしい。
- 物理学の基礎を築いた。
- 「われに支点を与えよ。地球すら動かしてみせん」と豪語。
- 故郷シチリアに攻め寄せるローマ艦隊を、ソーラ・システムで焼き払った。
- 伝説ではあるが、シチリアの強烈な陽光を見ると、できそうな気がしてしまう。
- ポエニ戦争のさなかに、ローマ兵により殺された。
- 最後の言葉は「私の図形を壊すな」。地面に図形を描いて何か計算していたらしい。
- 図形を壊すと壊したやつに呪いがかかる計算だったんじゃない???
- ……確かに、アルキメデスを殺した兵士は、上官から「アルキメデスを殺しちゃダメだって言ったろ!」と叱られ、処刑されてしまったんだよなあ。
- いや、図形と思わせて実はえっちな絵だったんだろ。
- 図形を壊すと壊したやつに呪いがかかる計算だったんじゃない???
- 最後の言葉は「私の図形を壊すな」。地面に図形を描いて何か計算していたらしい。
コペルニクス
- 地動説を提唱。
- 物の考え方の革命的な変化を「コペルニクス的転回」と呼ばれるまでになったほど。
- さぞ迫害されただろうと思いきや、意外と賛同者も多く、穏やかに生涯を送っている。
- そもそもコペルニクスは「地球は動いてるんだ!」と主張したわけではない。
「地球が動いていると仮定したほうが、天体の動きがシンプルに解釈できるよ」と指摘しただけ。
- そもそもコペルニクスは「地球は動いてるんだ!」と主張したわけではない。
ガリレオ
- それでも地球は動いている!
- けっこう偏屈で頑固な人だったらしい。
- 裁判にかけられたのは、地動説のせいというより、著書の中で当時の有力者を誹謗中傷したせいらしい。
- 手作り望遠鏡を空に向け、数々の発見をする。
- 物理学上でもいろいろ発見している。
- この人たちは「♪ガリレオ~(ガリレオ~)ガリレオフィガロ~」を思い出す。
- この人たちにとっては出演ドラマ。
ニュートン
- 万有引力を発見。その他にも多くの科学上の業績がある。
- そのくせ錬金術師でもあった。中世人と近代人の狭間に居た人。
- 論敵の排除には容赦なかった。
- 変なエピソードが数々ある。後世の「変な科学者」像のモデルとも言える。
- ズボンをはくのを忘れて街を歩いた。
- 猫を2匹飼っていたが、家に自由に出入りさせるため、猫用のドアを作った。それだけなら良いのだが、大きい猫用と小さい猫用にわざわざふたつ作ったらしい。