武将伝/日本
2009年8月8日 (土) 20:10時点における>面毒斎による版 (→源義朝)
征夷大将軍
平安時代の武将
平将門
- 西国の植民地みたいなものだった関東地方に、はじめて独立運動を展開した人。
- まあ、本人にそこまでの自覚とビジョンがあったわけではなく、なりゆきでそうなってしまったという感が強いが。
- ともあれ「新皇」を名乗り、京都の朝廷とは別個の勢力圏を築こうとしたのは革新的。
- 若い頃比叡山に登って天下制覇の野望を抱いたと言われているが、疑わしい。
- 頼ってくる者、救いを求めてきた者を、義侠心と正義感で助けているうちに、いつの間にか巨大勢力になってしまった感じ。野望を抱いたとしたら最終段階だろう。
- 言ってみれば、とびきり気っぷのいい任侠の親分というところではなかったか。
- 東京の守護神になっているという噂。
- 大手町あたりに首塚があり、開発のため撤去や移築をしようとすると必ず事故が起こるそうな。
藤原純友
- 海賊退治を命じられて瀬戸内海に行ったが、海賊稼業のうまみを知って自分が海賊の首領になってしまった。
- 平将門と示し合わせて乱を起こしたと言われているが、疑わしい。
- 将門が敗死するまでは大した動きを見せていないので。
小野好古
- 藤原純友の乱を平定した老将。
- 妹子ちゃんの子孫。
- 小野小町のいとこだかはとこだか。
- 元祖・好古なのに知名度は秋山好古にボロ負け。
源護
- 「みなもとのまもる」と読むらしい。無理だw
- 平将門に喧嘩売ってフルボッコにされる。
源頼義
- 前九年の役を平定する。
- 実は、関東地方のフロンティアがだいぶ少なくなってきたので、東北地方に目をつけた頼義が、難癖をつけて有力者の安倍氏を圧迫したのが前九年の役の発端。
- 頼義が執拗に朝廷に働きかけ、陸奥守とか鎮守府将軍とかの官位を貰っているので、彼の野望は大体見当がつく。
- 当初、安倍貞任と藤原経清の連合軍の前に手も足も出ず敗退を重ねる。
- 特に黄海(きのみ)の合戦では惨敗。
- 出羽の清原氏に三拝九拝し、側面攻撃をかけて貰ってようやく安倍氏を亡ぼす。
- 正直言って、勝つには勝ったが、かなりみっともない勝ち方。
- そのため子孫たちは、頼義ではなく子の義家を称揚した。
- 実は、関東地方のフロンティアがだいぶ少なくなってきたので、東北地方に目をつけた頼義が、難癖をつけて有力者の安倍氏を圧迫したのが前九年の役の発端。
源義家
- 頼義の息子。八幡太郎。武家源氏の象徴みたいな人。
- 後三年の役を平定すべく出陣したが、清原(藤原)清衡には翻弄され、朝廷からは私戦として恩賞を貰えず、あんまりいいところ無し。
- 仕方なく自分の所領の中から配下に恩賞を分け与えたところ、「これは頼もしい大将だ」と思いがけず人気沸騰。源氏興隆の礎を築く。
- 雁の飛び方の乱れから伏兵を見抜いたとして、その眼力を賞賛される。
- 大江匡房から教わった兵法。でもこれって、野戦の将として、人に教わらなければわからないようなことか?
源義朝
- 為義の息子。頼朝の父親。
- 保元の乱では勝ち組。平治の乱では負け組。
- 同じ立場だった藤原信西に密着しすぎていたか?
- かなりの艶福家。
- 都でいちばんの美女と評判の「常磐」を手に入れた。義経などの母になる。
- 最後は平氏方に寝返った配下に風呂で殺される。
- 場所は知多半島の先っぽ。
- 後世、同じ場所で切腹に追い込まれた織田信孝が、秀吉への恨みを込めて
「昔より主を内海(討つ身)の野間なれば報ひを待てや羽柴筑前」
という辞世を詠んだのはこの故事による。義朝を討った長田忠致はのちに頼朝に斬られた。- ちなみに、「内海」も「野間」も知多半島尖端の地名。
- 長田忠致は頼朝に、「そなたは父を殺した憎きヤツなれど、よく勤めれば美濃・尾張を与えよう」と言われ、懸命に働いて手柄を立て、得意満面で頼朝のもとに帰った。すると頼朝は「約束通り『身の終わり』を与えよう」と言って長田を斬ってしまった。ダジャレで斬られた長田の立場って。
- 長田忠致の最後の言葉は「誰がうまいことを言えとWWW」であったとかなかったとか。
- 後世、同じ場所で切腹に追い込まれた織田信孝が、秀吉への恨みを込めて
- 場所は知多半島の先っぽ。
源為朝
- 為義の息子、義朝の弟。
- 鎮西八郎とも呼ばれる。
- 剛力な上に、おそるべき弓の名手で、子供の頃から大変な暴れん坊。
- あんまり暴れん坊なので九州に追い出されたが、九州でも暴れ回ってそこらの豪族や武将をみんな配下にしてしまったらしい。それで「鎮西」のあだ名を奉られた。
- 保元の乱では父に従って崇徳上皇側に就く。
- 夜襲を進言するが、あっけなく却下される。
- 「正義の軍がそのような卑怯なことができるか」という理由。
- 一方後白河天皇側は容赦なく夜襲をかけてきて、上皇軍ボロ負け。
- しかし為朝の強弓は後白河側の多くの将兵を斃し、怖れられた。
- 夜襲を進言するが、あっけなく却下される。
- 保元の乱ののち捕縛され、もう弓が引けないように右腕の腱を断ち切られて、伊豆大島に流される。
- しかし一向にしょげもせず、大島を乗っ取ってしまう。
- 大島ばかりでなく、艦隊を組織して伊豆七島を完全征服。
- 大軍による討伐を受け、ついに自害して果てる。が……
- 実は伊豆で敗れてからが為朝伝説の真骨頂。
- 自害はせず、弧舟で南西諸島へ逃れ、沖縄を征服し、尚氏王朝の祖となったとも言われる。
- なんと尚氏王朝の正史にちゃんと記されているので、伝説ではあるが必ずしもトンデモ説ではない。
- 滝沢馬琴の『椿説弓張月』はその辺を小説化してある。
- しかし沖縄程度の島におさまる器量ではなく、さらに大艦隊を仕立ててフィリピンやインドネシア方面への征旅に発ったという壮大な伝説もある。
- 自害はせず、弧舟で南西諸島へ逃れ、沖縄を征服し、尚氏王朝の祖となったとも言われる。
山本義経
- 源義経とであったことがある。ちなみに彼も源氏なので、彼が源義経と名乗っていたりすることもある。
鎌倉時代の武将
楠木正成
- 領地を持った武士ではなかったので「悪党」扱いされる。河内地方の運送業のおっちゃん。
- 「七生滅敵」の言葉と南朝方の忠臣だったことから戦時中のヒーロー。
- 皇居外苑に銅像がある。外国の方も写真撮ってたりするが、↑のことは、、、忘れておいてください。
- 明治になってから正一位を追贈された。
- 籠城戦では熱湯かけたりウンコかけたり。
新田義貞
- 後醍醐天皇麾下の総大将だったのに、戦前は楠木正成の人気に隠れ、戦後は足利尊氏復権のあおりを食って二流武将扱いされ続けている不遇な人。
- よく調べれば、すごく頑張ってるんだけどねえ……
- 足利氏とはもともと同族だが仲が悪かった。
- 源義家の次男・義国が両家の先祖。
- 義国の長男・義重が新田氏を興し、次男・義康が足利氏を興した。
- が、義重は先に家を出たため、なんとなく義国家の家督を辞退したような形になってしまい、以後足利氏が嫡流のような印象ができた。
- しかも足利氏は、頼朝や北條氏に機敏に接近して高位を得ていたが、新田氏は代々剛直かつ融通の利かない当主が続き、義貞誕生時にはすっかり落ちぶれていた。
- 鎌倉を落とし、幕府を覆した殊勲者。
- 幕府のかなりの兵力が上方に行っていたため、鎌倉がやや手薄になっていたという事情はあったものの、難攻不落の要塞都市を落とすのは容易でなかったはず。
- 六波羅探題を落とした足利尊氏より功績はどう考えても上。
- 刀を海に投げ入れると潮が引き海側から攻めたという逸話がある。これは伝説にすぎないといわれていたが、最近事実だということが判明。
- 京都に呼び出されてからは、あまり勝ち戦が無い。
- 常に公家が同格もしくは上位者として同行し、作戦に口を出すばかりか勝手な動きばかりしていたので、そのフォローのために戦機を失い続けた観がある。
- 箱根の合戦や比叡山の合戦では特にその印象が強い。
- 足利軍が京都に攻め寄せた時は、朝廷を丸ごと避難させたのち、鮮やかに勝利し、尊氏を九州まで追い落とす。やっぱり口出しするヤツさえ居なければ、充分にできる子。
- 尊氏が九州から復活して攻めてきた際も、同じ手で戦おうとしたが、「一年の内に二度も動坐するなどとんでもない」という理由で却下される。仕方なく水際で叩こうと湊川に出陣したが、楠木正成を失う敗戦となる。
- 関東に帰って精兵を募ってくることを申し出たが、却下される。
- 公家側の言い分は「帝のお墨付きがあるのだから、兵など日本中どこからでも集められるはずではないか」というもの。
- 義貞が一旦関東に帰ったら、そこで自立して戻ってこないのではないかという警戒心もあったようだ。
- 常に公家が同格もしくは上位者として同行し、作戦に口を出すばかりか勝手な動きばかりしていたので、そのフォローのために戦機を失い続けた観がある。
- 後醍醐天皇から勾当内侍という美女を賜ったそうな。
- この美女にうつつを抜かして戦機を失った愚将だと思われがちだが、詳細に日付を見てゆくと、女のために軍事行動をおろそかにしたと考えられる時期は全然存在しない。「太平記」の記述で悪いイメージが作られてしまった例。
- 最後の死に方はちょっと間抜けっぽい。これもまた愚将のイメージのもとになっている。
- 越前の灯明寺畷で、自ら偵察行動に出ていたところ斯波高経の軍勢と遭遇してしまい、戦死。
- 大将みずから偵察行動をしなければならない理由は全然無かったので、無駄死にと言われても仕方がないかも。
- 自称、新田流の黄門様により、討死にしたと伝わる地域から立派な兜が発見され、その地を新田義貞討死の地とし地名は新田塚と名付けられた。
- 越前の灯明寺畷で、自ら偵察行動に出ていたところ斯波高経の軍勢と遭遇してしまい、戦死。
室町時代の武将
足利持氏
- ダメ上司の典型のような人物。
- 気性の激しさは宿敵義教と同じだが、政略・軍略に関しては足元にも及ばないヘタレだった。
- 鶴岡八幡宮に奉納した血染めの感状の話とか…そこまであからさまにしなくても。
上杉憲実
- 中間管理職の悲哀をそのまま表したような人物。
- 凄腕だがワンマン経営の独裁社長と、そいつと犬猿の仲で、出世欲だけ一流の支店長の狭間で悩まされ続けた。
- 「お前は俺より社長の言う事を聞くんだな!」「そういうつもりはございません!」
- その他、義絶した息子が元上司の息子に殺されたり、後半生はこれでもかというほどに不幸続き。流浪の末最後は山口で一生を終えたそうな。
- 凄腕だがワンマン経営の独裁社長と、そいつと犬猿の仲で、出世欲だけ一流の支店長の狭間で悩まされ続けた。