「もし戦前からテレビが普及していたら」の版間の差分

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2021年3月1日 (月) 12:30時点における最新版

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  1. 20世紀のうちにデジタル化されていた。
    • そして21世紀を前にアナログは廃止。
  2. 電源周波数が50Hzな東日本はPAL規格になっていた。
    • 日本のテレビはNTSC/PAL両対応にせざるを得なくなる。
    • PALは1967年に放送が開始されたので日本のテレビのカラー化は若干遅れた。
    • それは歴史上あり得ない。
    • 50Hz・60Hz両方で使用可能な独自方式を採用してたのでは?
  3. 鉄腕アトムではなく、のらくろが日本初のテレビアニメに。
    • 鉄腕アトム以前にインスタント・ヒストリーがあったはず・・・
    • 黄金バットも戦前からアニメ化されたりしている。
  4. 正力松太郎による「網送放ビレテ本日」も戦前に開局、当然看板番組は史実通り職業野球中継。
    • 東京巨人軍大阪タイガース戦における沢村栄治対景浦将の対決もテレビで視られた。
    • 職業野球が戦前から人気を博していた。
      • 戦前の時点で2リーグ制になっていたかも。
      • 沢村の本当の球速を、この眼で確認する事が出来た。(本当に150~160km/h出ていたのか、今日でも議論の的である)
      • 戦前から打高投低の野球スタイルになっている。特にホームランはもっと出ていただろう。(テレビで最も盛り上がるのは、やっぱりホームラン)
      • もちろん中学野球や大学野球の中継も盛んに行われていた。
    • この場合「読売中央放送」になるのでは?
    • そもそも戦前の読売はまだ関東の地方紙だったため現実のような全国ネットの要にはなれなかったと思う。
    • 一部の局は「職業野球など見世物に過ぎない」として結果すら報じなかった。
  5. ンョヂビレテヂフ」も戦前に開局。
    • キャッチフレーズは「樂しからずんば テレビにあらず」
      • 産経資本じゃなくて、映画会社主導あるいは退役軍人じゃないか?
      • どっちみち戦後しばらくまでは硬派路線な気がする。
    • その勢いをかって「送放京東」・「ビレテ育教本日」・「ルネンャチ二十京東」も1950年までに開局。
      • こちらも「東京日日放送、朝日放送、日本経済放送」だとおもう。
        • 「東京朝日放送」じゃないか?
        • あと「日本経済放送」じゃなくて「中外商業放送」ね。
    • 戦時体制で地方が1局だけになる。
      • かつての韓国のように一部のテレビ局は国有化され、残りのテレビ局は株式の大半を国が取得することになったかもしれない。
    • この場合「産経放送」になるのでは?
      • 本社が大阪にありそうな。
    • 財閥系資本のテレビ局もできていたかも。
  6. 石炭火力の乱立で二酸化炭素大量排出だけでなく煤煙がひどかった。
    • やむなく原子力発電が開発される。
      • そのため技術発展は確実に日本がリードしていた。
        • PCには「イビデンはいってる?」がポピュラーに。
    • 戦前のうちに水力発電が史実以上に普及していたかも。
  7. 字幕放送も史実より早く始まっていた。
    • 1995年ごろには殆どの番組が字幕放送になってたかも。
  8. 1960年代にすでに衛星放送が実現していた。
    • この時代、日本に放送衛星を打ち上げる技術と場所は有るのか?実史でも、1963年に国際衛星中継ができたばかり。
    • 結局小笠原諸島や大東諸島ではテレビがみられるのは戦後にずれこむ。
  9. 昭和までにUHFを親局とする放送局が誕生していた。
  10. 1953年2月1日(史実のテレビ放送開始日)にカラー放送開始。1964年の東京五輪の頃にはオールカラー放送となっている。
    • ただし現実世界初のカラー放送は1954年開始(米WNBC)なので技術の進歩がかなり早まっているのが前提。
  11. 横綱・双葉山は連日マスコミの過熱報道によりプレッシャーを掛けられ、69連勝を達成できなかったかもしれない。
  12. 大正時代最大のスキャンダル事件を起こしたこのお方はテレビを通じて、夫への公開絶縁状を公表しただろう。
    • しかしテレビ局(特にワイドショーの評判の悪い某局)の事実を歪曲した過熱報道により、このお方の方が悪という認識が広がり、結果的に駆け落ちは失敗しただろう。
  13. 関東大震災(1923年)や室戸台風(1934年)の犠牲者数が減っていた。何故ならテレビを通じて、災害情報を知ることが出来たからである。(ちなみに室戸台風は台風接近中にもかかわらず、児童の登校を促した〈家庭よりも学校の方が安全と言う情報が流れた〉事により、児童251人が台風による校舎の倒壊で犠牲となってしまった)
    • 伊勢湾台風のように停電で放送ができないまたは見られないという事態もあった。
  14. おそらく終戦まではNHK以外の放送局は存在しなかった。
    • 1950年の放送法制定まで民間放送は想定されていなかった。
    • こうなったら、その限りではない。
      • ただし放送機器やスタジオの準備に莫大な費用がかかるため開設できる局はそこまで多くなかった。
  15. 史実以上の系列拡大を果たし、テレビの地方格差が史実よりマシになっていたかも。
    • それ以前に現在のような系列化が前提のビジネスモデルではなかったかもしれない。
    • もしかしたら主要な局の放送範囲が全国だったかも。
  16. 映画業界の斜陽化が史実より早かった。
    • サイレント映画のスターたちがトーク番組等に出演。役者によっては大根ぶりを露呈し一気にスターダムから転落する者も。
    • 活動弁士からアナウンサーに転向する事例もあったはず。
    • 戦時の映画会社再編では当初の予定通り松竹と東宝の2社だけになっていた。
  17. おそらくVHF局しか開局しなかっただろう。
    • 史実ではUHF局が開局したのは1960年代後半だが、より早くその必要性に迫られたのは間違いない。
  18. 東京タワーが戦前に完成していた。
    • 初代通天閣にはテレビの送信所機能があったかもしれない。
  19. 当初から紅白歌合戦はテレビで放送されていた。(多分、紅白音楽試合という名称で放送されていたかもしれないが。)
    • 「紅白音楽試合」はGHQの勘違いのせいでやむを得ず改名したものなので戦前なら普通に「紅白歌合戦」と名乗っていたのでは。
    • この項目のいくつかは実現していただろう。
  20. 第一次世界大戦はなかったか、被害は現実より少なかったであろう。
    • 第二次世界大戦は起きていないであろう。
      • 史実でもアメリカ、イギリス、ナチスドイツ、ソ連では1939年時点ですでにテレビ放送が始まっていたのでそれはない。
    • 1929年に世界恐慌が起きているが、第二次世界大戦は起きていなかったに違いない。
    • 高度経済成長は1960年代ではなく1940年代に起きる。 1960年代は第二次高度経済成長が起きる。
      • バブル景気は1970年代後半か1980年代前半に起きていた。
    • アメリカと戦争しても惨敗することが早期に判明した可能性もある。その場合、真珠湾攻撃はなかった。
    • 軍の都合が良い内容ばかり放送許可したと思われるため史実のように戦局悪化している。
  21. 1980年代になるまでテレビ東京系列を含め全ての民間放送が開局している。
    • 早ければ、1970年代でも可能。
      • テレビ東京が東京都域放送に限られた場合はその限りではない。
  22. 皇太子裕仁親王(昭和天皇)・良子女王(香淳皇后)の御成婚 (1924年1月26日)はテレビで大々的に報道された(勿論、この時期までにテレビ放送が開始されていればの話だが)。
    • これを機に、テレビを買う家庭が増えていた。
    • 畏れ多くも、現人神で有らせられる皇族の方々が写っている映像を下々に見せるなど以ての外なので、現在の法廷の様子を模写したイメージ画像の如く、あるいはジャニーズのポスターみたいに写真から起こした静止画画像を放送していた。
  23. 技術開発がかなり早まっていたら高柳健次郎の出る幕はなかった。
  24. 初期の受像機ではブラウン管の爆発事故が相次いでいた。
    • 戦前の技術ではガラスの厚みを均等にするのが困難を極めたと思われるため。
      • その対策が早くから進められ、ガラス製造技術の向上が史実より進んだかも。
  25. 電波障害を引き起こす恐れがあったため超短波治療器の製造・販売・使用が禁止された可能性あり。
  26. 占領軍によるラジオコードならぬテレビコード指令でネトサヨ大歓喜
  27. テレビでの見栄えを考慮して大相撲の土俵から四本柱が消えるのが早まっていた。
    • 遅くとも春秋園事件の後までには消えていた。
  28. 戦後すぐには一家に一台テレビがあるのが当たり前になっていた。
  29. テレビ映像はほとんど残っていない。
  30. 戦前・戦中に開設されたテレビ局の社名は「○○テレビ」「テレビ○○」ではなく「○○電視台」「○○電視放送」などとなっていたかもしれない。
  31. クイズ番組では帝国大学出身者vsそれ以外という構図が主流に。
    • いわゆる「高学歴芸能人」が早く一般的になるが、小学校卒で王座に輝く強者も現れる。

各年[編集 | ソースを編集]

1920年代[編集 | ソースを編集]

  1. 1926年(大正15年~昭和元年)には普及率が90%を超えていた。
    • しかし民放ラジオ局の開局が史実通りの場合、テレビ開局後にラジオが開局するというここのような状態の局が大量発生した。
      • 下手をすると戦時体制に入るまでラジオの普及が進まなかったかもしれない。
        • 受像機の価格を考えたら、幾ら何でもそれは無い。少なくとも一般的な世帯が買えるほどに下がるには10年近くは必要だろう。
  2. 大正天皇崩御で各テレビ局は特別報道へ。
    • 1989年1月の「昭和天皇」崩御の際は、この時の映像が「資料」として流れたかもしれない。
      • ただし現存映像がそこまでなさそうなので当時の新聞報道や局の資料などで代用することの方が多かった。
      • 大正から昭和への改元時、実史の東京日日新聞(現:毎日新聞)がやらかした様に、どこかのテレビ局が、誤報したかもしれない。
  3. 大正時代のハイカラ喫茶には必ずと言っていい程街頭テレビが置かれていた。
    • 大正末期~昭和初期の流行歌や大衆小説に、時代の最先端の象徴として「テレビジョン」が頻繁に登場する。
    • 一等車にもテレビが置かれていた。
      • 南海電鉄当たりにもテレビ電車があったかも。(戦前車内ラジオ放送や冷房電車など先進的なことをやっていたので)
  4. 第二次世界大戦は起きていなかった。
    • 報道の在り方は史実とあまり変わらなかったはずなのでそれは怪しい。
      • ネットが普及した今でも、な有様では。
  5. 現在のような電子式ではなく機械式テレビがそれなりに普及していた可能性あり。
    • だが駆動音や画質向上の限界により徐々に電子式に取って代わられる。
  6. モボ・モガのファッションがかなりの田舎にまで広まっていた。

1930年代~戦中[編集 | ソースを編集]

  1. 玉音放送はもちろん昭和天皇ご出演のVTRを放送していた。
    • 終戦の詔勅は玉音放送ではなく、「御真影放送」と呼ばれる。
    • 当時のテレビ撮影は灼熱地獄になるほどの照明が必要だったため「玉体の障りになる」として日の丸か菊の御紋章の静止画でごまかされていたのでは。
  2. 太平洋戦争の期間中は新聞と同時期に天気予報を放送しなくなった。
    • やはりニュースやワイドショー番組でも「日本は勝っている」等の情報が流されたであろう。
      • 従軍カメラマンによって日本軍が快勝する様子が撮影され、大々的に放送される。劣勢になっても連合軍側の被害だけが放送される。
      • 当時のテレビカメラは大砲のように巨大だったため一部の場合を除き撮影はフィルムカメラで行われていた。
        • それも銃後に届かなくなると絵で代用していた。
    • 43年頃になるとオイルショック期のような放送体制になり、45年になると放送休止に。
      • それ以前に本土への空襲で送信所・中継局が破壊されていた。
        • 一時、テレビは映らなくなっていただろう。
        • その前に電波を停止するだろう。(電波塔から電波を発射する事が攻撃目標になる為。実史のラジオ放送も同一周波数の電灯放送に切り替えている。)
      • 下手をすると史実のイギリスのようにテレビ放送自体完全に休止されていた可能性もある。
    • 戦後放送再開するも、直後にGHQが「テレビの開発・修理・改造禁止」と命令を出し、あちこち故障しても修理できない異常事態に。
      • その直後、東京のテレビ局の停波トラブルで史実より前に新規開発が許される。
      • GHQも「眞相はかうだ」などのプロパガンダ番組を流す必要があったので修理くらいは最初から許可していたのでは。
    • 逆に、地球の隅々まで取材するテレビクルーにより米英が強国とわかり太平洋戦争は起こりえなかったのではないか?
      • 国家に都合の悪い映像は内務省あたりの指示によりお蔵入りにされ一般国民の目には触れなかったと思われるので結局変わらない気がする。
    • それ以前に、満州事変や五・一五、二・二六事件などがTVで放映されるため、庶民は大日本帝国陸軍の暴走を間近で見ることが出来て反戦運動が激しくなり、結果十五年戦争(日中戦争・太平洋戦争・第二次世界大戦)なんて起きなかっただろう。
      • 反対に、帝国陸軍が熱狂的に支持されて史実以上に暴走し、先の大戦はもっと悲惨な結果になっていたかもしれない。
        • ドイツではナチスがプロパガンダにテレビを用いていたためこのパターンの方が可能性が高そう。
    • 木口小平がラッパ吹きではなく従軍テレビカメラマンになる。「死ンデモカメラヲ離シマセンデシタ」
  3. (中止しなかったと仮定して)1940年の東京オリンピック生中継がテレビジョン普及の起爆剤となった。
    • その前の1936年に行われたベルリンオリンピックで、日本人女性で初の金メダルを獲得した200m平泳ぎ・前畑秀子の活躍をどう報じたか?
      • 衛星放送はないので中継は出来なかったと思われる。
        • 前畑の活躍シーンをフィルムカメラで撮影しそれを日本に持ち帰ってから特集の一部で放送していた可能性も。
  4. 1936年9月の東京巨人軍(現:読売ジャイアンツ)対大阪タイガース(現:阪神タイガース)戦で、澤村栄治の日本初のノーヒットノーランが中継されていた。
    • 日本テレビ(に相当する民放テレビ局)が中継していたら、実史での日テレG+『ジャイアンツタイムマシーン』で、この試合が扱われていた。
  5. ラジオ同様に国が規格を定めた普及型の安い受像機が大量に製造された。
  6. 絵葉書などでは電波塔が画像修正により消されている。
  7. 戦局が悪化してくると空襲対策や建物の有効利用のため映画のテレビ放映が推進された。
    • 「桃太郎 海の神兵」のような少国民に受けそうな作品も放送された。
    • 少なからぬ劇場が閉鎖され軍需工場や倉庫などに転用された。
  8. サイパン占領後にアメリカがテレビでも日本に向けたプロパガンダ放送を行っていた。
  9. 本土空襲や原爆投下時の地上での映像が生中継され、どこかの支局で保存されていたであろう。
    • 命懸けの中継を行った方々が後に内外から表彰される。
    • 電報で「○○クウシユウデシス」という文面を送ることさえ禁じられていたような状態だったので生中継はあり得ない。
  10. 前線の兵士への慰問品にテレビの女子アナウンサーのブロマイドが含まれていた。
  11. 内地のテレビでも南満洲鉄道、南洋興発、三中井百貨店など外地企業の広告が普通に放送されていた。
    • 三中井百貨店の屋号が「住友財閥と紛らわしい」との意見が多く出るため変更された可能性も。
  12. 「大日本国民体操」「建国体操」などの集団体操がテレビで頻繁に流され普及に役立った。
  13. 日中戦争の頃から各局ともこぞって日本民族や日本文化を極端に賛美するような番組を大量に流し始めた。
    • 敗戦後にそうした番組の制作者から戦犯として起訴される人物も出ていた。
    • 正力松太郎は現実と違い起訴された。
  14. 戦時中に作られた映画「ハナコさん」が映画と同じ轟夕起子主演でテレビドラマ化され、大ヒットしていた。

終戦~1953年1月[編集 | ソースを編集]

  1. 樺太のテレビ局はソ連軍の進駐により放送停止される。
    • もちろん各テレビ局は局舎接収。
    • それどころか機材などを根こそぎモスクワやレニングラードに持っていかれる局もあった。
    • 満州、朝鮮、台湾、南洋のテレビ局も接収。
    • 日本向けの共産主義のプロパガンダ放送を流す。
  2. 巨人がプロ野球初の1000勝達成した時は日本テレビは祭り状態になっていただろう。
  3. 1948年のロンドンオリンピックは日本のテレビ局は報道していただろうか…。
    • 報道できたら、水泳・古橋廣之進の活躍を大々的に報じたかもしれない。
  4. 舞鶴や南風崎などの港に到着した引揚者を紹介する番組が放送され家族や親戚との再会に役立った。
    • 日本版「離散家族を探します(韓国で放送された朝鮮戦争時の国内離散家族を探す番組)」という番組もあったかもしれない。
  5. 手塚治虫のデビュー作『マァチャンの日記帳』はアニメ化されていた可能性が高い。
  6. GHQ制作の番組が作られていた。
    • 日本人製作の番組は検閲されていた。
  7. 電波割り当てでは新興勢力に優先的に割り当て。
  8. 東京裁判では日本側がアメリカの所業(原爆投下、無差別空襲・艦砲射撃など)をテレビを通じて海外に広め、アメリカ側が戦犯に対して極刑を下せない空気を作り出そうとした。
    • 占領期にはGHQにより日本から海外向けの放送を行うこと自体禁じられていたような・・・。
  9. 一時期はどこの局もアメリカの生活や文化を紹介するような番組ばかりになっていた。
    • 日本でもこの時代からMLBの試合映像を見ることができた。
  10. レッドパージによりどこの局からもアカ扱いされ追い出される人物が出ていた。
    • そのような人物が番組制作会社を設立する事例もけっこうあった。