ページ「もし本州のJRが東西2社体制だったら」と「武将伝/三国」の間の差分

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国鉄分割民営化の際、本州内は東と西の2社体制で分割する予定であった。ここでは本州内が2社体制だったらのケースを述べる。
{{Pathnav|バカ人物志|[[バカ人物志/中国|中国]]|[[武将伝/中国|武将伝]]|name=三国}}
==東京以西JR西日本、東京以東JR東日本の場合==
==魏の武将==
{{駅名標/西日本|name=新宿|ruby=しんじゅく|roma=Shinjuku|back=よよぎ|back2=Yoyogi|next=しんおおくぼ|next2=Shin-Okubo|color=yellowgreen|text=black}}
===夏侯惇===
#東海道・中央・山陽・北陸新幹線はJR西日本管轄。
#曹操に仕えた武将。
#車両は500系ベース。
#*曹操の挙兵当初から常に一緒に行動していた。
#*東海道・中央・山陽新幹線に全2階建て編成、北陸に平屋車編成。全路線に共通してGCT車両を投入。
#*曹操の従兄弟だったらしい。
#*700系は開発されない。
#隻眼だったので「盲夏侯」と呼ばれた。
#**[[新幹線/車両#700T型|台湾の新幹線]]も顔つきが変わっていた。
#*片眼を戦場で射られ、矢を引き抜いたら眼球ごと抜けてしまい、それを食った……という勇ましい伝説があるが、なんぼなんでも作り話だろう。
#*編成は1編成8両。東海道・中央区間では主に2編成16両で運行し、他にもGCT車両を併結した列車も運行。
#**横山三国志では作者曰く「別に食わせなくてもいいじゃん」ということで食べる描写はなかった。
#東北・上越・山形・秋田新幹線は東日本管轄。
#***演義では一応、「親から授かったこの身を無駄にしてなるものか」と叫んで食ったことになってるけどね。
#東京駅の新幹線ホームはすべて西日本の管轄。
#*本人は相当気にしてたらしく、このあだ名を嫌い、鏡で自分の顔を見る度に怒ってその鏡を割ってしまったと言う。
#*よって全番線60HZ。
#三国志演義では数々の戦争で武功を挙げた猛将になっているが、夏侯惇が参戦したと正史に載っているのは2回だけ。しかも両方とも負け戦。
#東海道新幹線と東北新幹線の相互乗り入れが行われる。
#*武功では劣っていても治水事業などで功績を挙げていたりもして、曹操が無能な人間を高位につけるわけがないので、本来は軍政家だったのかもしれない。
#*周波数切り替えのデッドセクションを東京駅上野方に設置して行う。
#*基本的に曹操の近くにいたため、記述が省かれてるだけだろう。
#中央線、東海道線は西日本管轄。
#最近は理想的なナンバー2として描かれることが多い。
#*京浜東北線、横須賀線など、その他の東京の主要線区は東日本管轄。
#**同じ会社が運営する横須賀線と東北本線が新宿経由で繋がっている。一方、東海道高崎線が・・・。
#**現実の湘南新宿ラインは新宿以北が東日本、以南が西日本となる。
#*東海道線は沼津、中央線も大月までは東日本。
#名古屋支社、静岡支社はアーバンネットワーク扱い。
#*車両も特別快速/新快速用及び静岡地区の普通用にに221系/223系、名古屋地区の普通用に207系/321系が投入。
#*静岡はむしろ國鐵靜岡になってそう。
#日本海側は金沢支社・長野支社エリア以西が西日本管轄。
#*高崎支社・新潟支社エリア以東は東日本管轄。
#JR西日本は新幹線とアーバンネットワークの収益で成り立つ会社に。
#*221系は最高速度110km/h、223系になってやっと120km/h。東海道新幹線の収益の恩恵で、高速化を急いで私鉄の客を奪わなくてもいいので。
#**いや、私鉄(大堤商会)に喧嘩を売られたのでお得意の130km/h運転を実施しているどころか、新快速による140km/h運転で東名阪の私鉄から一気に客を奪い取る。
#GCT車両の実用化が早期に進んでいた。
#東京-九州方面のブルートレインは電車化又は寝台新幹線に発展。(GCT方式を含めて)
#*685系と言う寝台専用車両が開発され、「サンライズあさかぜ」「サンライズさくら」「サンライズはやぶさ」「サンライズ富士」が設定される。
#JR西日本の財務体質は現在より強固だが、中央線、東海道線も管轄しているのでさらに強固になる。
#名松線は廃止されていたでしょう。
#「あずさ」や「しなの」、「やくも」、「くろしお」には283系が投入される。
#*現実のスーパーあずさは「アルペンアロー」になる。
#この場合JR西日本は営業距離、社員が日本一多い鉄道会社となる。
#東名阪の主力車両が全て223系(もちろん全て転換クロスシート)で、さらに種別が新快速になって現実よりもかなり速い速度を出している。
#3ツドア223系のせいで埼京線に東海道本線の車輌を入れる事ができなくなってた。=[[東海道本線|東海道]][[高崎線]]は誕生せず。
#*現実の湘南新宿ラインは新宿が東西の境界駅となるので、新宿以北直通用には321系のトイレ付きバージョンが、それ以外の列車には223系(但し車端はロングシート)が投入される。いずれも2階建てグリーン車を連結。
#東京発網干行きと言う豪快な行き先の快速電車を登場させる。
#*夜行もあり、のちに「ムーンライト○○<!--誰か決めて-->」と呼ばれるように。
#*現実の新快速が東京まで直通。青春18きっぷ利用者に重宝される。
#**新快速に客が流れるため、東京~大阪間の昼行高速バスは運行されない。
#平行している東名阪の私鉄路線は無料の転換クロスシートの車両を運行するも、スピードも速いJR西日本相手に苦戦している。
#この場合JR東日本とJR西日本は両方東京に本社がある。
#名阪直通の新快速が設定され、近鉄名阪特急と名神ハイウェイバスがほぼ全滅する。
#*だが座れない、落ち着かないという苦情が相次ぎ、名阪特急には客が戻る。
#**名阪直通の新快速に限り指定席車両が連結される。
#*京都-鳥羽にも新型気動車を使用した特急がスピードアップのうえ頻発運転される。近鉄京伊特急は新名神の開通を待つことなく利用者は激減。
#**草津線は複線化されている。
#165系を使ったリバイバル列車が東海道本線に運転されていた。
#*「なつかしの特急かえだま」という設定もあった。


==名古屋以西JR西日本、名古屋以東JR東日本の場合==
===張遼===
{{駅名標/東日本|name=千種|ruby=ちくさ|back=大曽根|next=鶴舞|back2=Ōzone|rome=Chikusa|next2=Tsurumai|color=#F15A22}}
#曹操に使えた武将で、元は呂布の配下。
{{駅名標/西日本|name=名古屋|ruby=なごや|roma=Nagoya|back=はった|back2=Hatta|next=|next2=|color=#009933}}
#*呂布とともに処刑されそうになった時、関羽が彼の命乞いをしたため、命を助けられることとなった。
#東海道本線・東海道新幹線は名古屋で東西に分断。
#主に呉との戦で活躍し、呉では泣く子も黙ると恐れられた。
#*'''名古屋止まり'''の新幹線が増え、利用者が激怒。
#演義では矢が刺さった傷が元で死んだことになっているが、実際は普通に病死だったらしい。
#中央本線はJR東日本管轄。関西本線はJR西日本管轄。
#*横山三国志における矢の刺さった場所が・・・。
#*神領電車区はJR東日本管轄、名古屋第一機関区と大垣電車区はJR西日本管轄。
#おそらく魏最強の将軍。
#東海道本線の西日本側と関西本線はアーバンネットワーク扱いで、車両も221系/223系が配置される。
#*呂布の配下時代は、劉備攻めの先陣を務めて散々に蹴散らし(関羽と張飛がいたはずなんだが・・・)、劉備は命からがら曹操の元に逃げ込んだ。
#*221/223系は豊橋まで特別快速として、高蔵寺まで普通列車として乗り入れる。
#*呉の合肥攻めでは少ない軍勢で孫権の本陣まで攻め込んで将軍数名を討ち取った。
#*むしろ関西のお下がり117系が大垣電車区に集められる。2000年代に入ってからリニューアル改造して、引き続き特別快速に活躍。一方211系セミクロス編成は東日本側(神領電車区)の所属に。
#JR西日本の収益が東京分割案の場合より少ないことに。
#名古屋支社(旧名古屋局)の帰属を巡って揉める。結局JR西日本に属することに。
#*但し東海道線名古屋以東はJR東日本静岡支社の管轄に。
#**その後大井川以西は浜松支社(もしくは豊橋支社)に分割。
#金沢支社はJR西日本管轄。但し大糸線は全線JR東日本管轄。
#静岡支社にE231系投入。
#*E231系は大垣まで普通列車で乗り入れる。
#*名古屋にはE231系とE233系を投入していそうだが静岡には205系を延々と使わせてそう(最近になって209系を投入)。
#新幹線品川駅は開業せず。
#あさぎりは新宿駅始発湘南新宿ライン・御殿場線経由になる。
#踊り子は全列車SVO化&伊豆急下田・修善寺行きになる。
#「ムーンライトながら」ではなく「ムーンライト名古屋」が登場。
#「しなの」にはE351系が投入。名称も「スーパーしなの」。車両は神領電車区か、長野運転所のいずれかに配置。
#名古屋発着の東北・北海道向けブルートレインが運行。
#東海道新幹線と東北新幹線の相互乗り入れ実施。東海道新幹線にMaxとミニ新幹線が乗り入れ。
#名松線は廃止されていたでしょう。
#「南紀」はキハ80系のまま。
#*「ひだ」は2000年になってからキハ187に置き換え「スーパーひだ」に。但し車両製作費は高山本線沿線の自治体が全額負担。


==両者の中間地点で分割した場合==
==蜀の武将==
*ただし、東海道新幹線はすべて西日本が管理。
===関羽===
#蜀の劉備に仕えた武将。
#*義兄弟だが、「[[シスター・プリンセスファン|お兄ちゃん大好き]](おっさん声)」とか言ったりしない。
#智勇兼備の名将で、主君への忠義は絶大だった。
#結構気難しいタイプだったようで、部下や領民は可愛がるが、同僚や目上の人物、他国の人々とはたびたび衝突したようだ。
#*そのため、本来は味方であるはずの呉や、後方支援の味方まで敵に回してしまい、結局はそれが命取りになった。
#*呉「関羽殿、お宅の娘を嫁がせてくれ。我らと婚戚関係になって同盟を確固たるものにしよう」→関羽「犬に娘をやれるか!」→呉「犬だと…忘れんぞ」
#*後方支援「しまった、関羽への支援が足りない。怒らせると怖いし、感謝されたことないし、プライド高いし……よし、支援要請自体をなかったことにしよう」
#死後、神様になった。
#*なぜか武の神様ではなく、商人の守り神になった。しかも皇帝はおろか王にもなってないのに、「関帝」と名付けられた。
#**約束を必ず守る信義固さで、商取引に大事な信用の象徴→商売の神様となった。
#**また敵中にあっても揺るがない忠誠で、後世の皇帝に「関羽を神として祭れば、ウチの部下も忠誠を尽くすだろう」と思われ、その後の皇帝に「ならば朕は『候』を贈り『関候』とするぞ」「それを倒した我が帝国は候より上の『関王』だな」「ならウチは更に『関帝』だ」「さ、更に上となると『皇』しかない…けど自分と同格では忠誠じゃないぢゃん」となった。
#異様に嫉妬深いタイプでもあった。特に劉備の寵愛に関しては、自分をしのぐヤツが出現するのを絶対に許さなかった。
#*馬超、黄忠などに対してもものすごい敵愾心を燃やした。
#**馬超が劉備陣営に加わった時は、わざわざ諸葛亮に荊州から手紙を出して「馬超と俺とどっちが上だ?」と問い合わせた。諸葛亮はおっかなびっくり「張飛とどっこいどっこいというところ、ヒゲ殿にはとてもかないません」と機嫌をとった。
#**黄忠を後将軍に任命する時も、諸葛亮はまだびびっていて、「同格の将軍にするなんて、雲長さんが怒りますよお」と劉備に訴えたが、劉備は「ワシがよく言い聞かせるから」と断行。案の定関羽は激怒し、「あんな老いぼれと同格なんて辛抱できん!」と荒れまくった。
#映画祭。
#実は劉備より年上という説が有力。
#ヒゲ。何といってもヒゲ。
#*これを敵の首に巻きつけて絞殺することもあった。
#*専用のヒゲケースを持っていて、寝るときは痛まないようにヒゲをしまって寝ていた。
#*ヒゲがピンっと立つことによって、敵の来襲を察知できた。しかし味方の裏切りは察知できなかった。


===浜松・飯田・木曽福島・南小谷・直江津で分割する場合===
===張飛===
{{駅名標/東日本|name=静岡|ruby=しずおか|back=東静岡|next=安倍川|back2=Higashi-Shizuoka|roma=Shizuoka|next2=Abekawa|color=#F68B1E}}
#関羽と同じく、蜀の劉備に仕えた武将で、劉備、関羽と義兄弟になった。
*史実の東海区間のうち、東海道本線浜松以東・中央本線木曽福島以東・飯田線飯田以北が東日本。
#武勇は蜀軍の中でもトップクラスで、智略もあったようだ。
#当然、静岡冷遇なんてモノも無かった。
#*でも[[コーエーテクモゲームス|コーエー]]のゲーム・三国志シリーズでは、知力が異様に低くなっている。
#静岡地区はE127系で運行されていた。
#関羽とは逆に、同僚や目上の人物からの受けは良かったが、部下や領民には厳しかったようだ。
#*東京-沼津間の普通列車が日中でも運行されていた。
#*関羽と同じく、それが命取りとなり、部下に寝首を掻かれてしまった。
#ふじかわはどうなっていただろうか・・・
#*劉備から「おめえさんは手下を殺しすぎらあ。しかも殴ったヤツを平気で自分の側に置いてるってえじゃねえか。危ねえよそりゃあ」と忠告されたが、聞かなかったらしい。
#'''当然[[あさぎり (列車)|こんな列車]]は速攻で打ち切り。'''
#**それどころか、「いや兄貴、俺だって考えちゃあいるんだぜ。ぶん殴る手下は身寄りが少ないヤツにしてるんだ。そうすりゃ下手うって殺しちまっても、後で仇を討たれる心配はないからよお」と答えたとも言う。本当だとしたら実はとんでもなくイヤなヤツである。
#果たしてのぞみはあったのだろうか…
#**案の定、虐待した部下たちに殺された。劉備は張飛の副官から報告が来たことを聞いただけで、<BR>「あちゃあ~、益徳が死んじまったか~orz」と落胆したそうな。
#*もしあったとすれば、浜松と静岡にも停車してただろう。
#死後は、三国志の人物ではNo.1の人気者になり、京劇などでは主人公になったりと大忙し。
#**後には熱海停車ののぞみも設定されるように。
#『はるひ』ではない。
#*0系や100系が今でも現役。
#*[[涼宮ハルヒファン|宇宙人や未来人、超能力者に興味があったわけではない]]。
#*食堂車付きグランドひかりがガンガン走っている。
#得意技は燕返し。
#米原止まりの琵琶湖線普通は日中でも大垣まで行っている。
#現在の重慶では、張飛が酒の当てにしていたという料理が現存しているらしい。
#しなのは今でも381系で運行。
#*後にスーパーくろしおタイプのパノラマグリーン車を連結。
#ひだ・南紀はどの車両で運行されていただろうか…
#だが'''やる気が無い事に変わりはない。'''
#ムーンライトながらは'''223系で運行されていた。'''
#日本海側は糸魚川で東西に分割。
#*糸魚川駅、大糸線全線、北陸本線糸魚川-直江津間は東日本管轄。
#*大糸線は全線電化されている。


===豊橋・中津川・南小谷・直江津で分割する場合===
===趙雲===
{{駅名標/東日本|name=豊橋|ruby=とよはし|back=二川|next=西小坂井|back2=Futagawa|roma=Toyohashi|next2=Nishi-Kozakai|color=#F68B1E}}
#公孫瓉から蜀の劉備に乗り換えて活躍した武将。
{{駅名標/西日本|name=中津川|ruby=なかつがわ|roma=Nakatsugawa|back=おちあいがわ|back2=Ochiaigawa|next=みのさかもと|next2=Mino-Sakamoto}}
#三国志演義を読むと、けっこう見せ場が多くて、関羽・張飛に次ぐ地位に居たように見えるが、実は意外と重用されていない。
#豊橋・南小谷・直江津はJR東日本、中津川はJR西日本の管理。
#*乱戦の中から阿斗を救ったとか、孫氏(孫権の妹で劉備の妻)が里に帰る時に阿斗を連れ出したのを奪回したとかいうのは作り話だし。
#静岡地区にE127系が導入されていた。
#**阿斗を救ったのは事実。というか正史の本文にはそれしか功績らしいものは見当たらなかったりする…
#中央本線塩尻~落合川がJR東日本長野支社の管轄になり、E127系によるワンマン運転が実施されていた。
#*益州攻略戦や夷陵の戦いなど、劉備にとって重要な戦争にはほとんど置いてきぼりをくらっていたし。
#名古屋近郊の路線網は「'''名古屋シティネットワーク'''」と呼ばれていた。
#*「五虎将軍」に加えられたというのも「演義」の創作で、実際には、馬超と黄忠が関羽・張飛と同格の将軍に任命された時に外されていたし。
#西日本の社風が東海と同じだったら、
#**馬超は涼州軍団を率いており、黄忠は荊州勢のまとめ役みたいな立場だったので幹部に取り立てざるを得なかったが、趙雲は個人的就職だったので選に漏れたのだろう。
#*直流型特急電車が383系で統一、681・683系は383系ベースになっていた。
#**実のところ、魏延よりも地位は低かったという説もあるし…
#*近郊型直流電車は313系で統一、近郊型交直流電車は313系ベースの511系になっていた。
#劉備が関羽の復讐戦に猛り立った時、ただひとり冷静な意見を述べて反対した。
#*月1回の運休は行われなかった。
#*この辺のクールさが、情に走りがちな劉備陣営ではやや異質な感じだったのかも。
#紀勢本線の三重県内が天王寺支社になっていた。
#**そもそも出兵に反対したという事自体、信憑性が低いけどね。
#三国志演義で脚色された部分を見ても、将としての活躍というより、個人的な武勇伝ばかり。たぶん軍勢を進退させる能力はあんまり無かったと思われる。
#*実際には劉禅の警護役みたいな立場だったように感じられるんだが、どうかな。趙雲が死んだ時に劉禅が大変心のこもった弔辞を送っているのは確かなようなので。
#昔見た実写映画(タイトル忘れた)では、馬上でバク転してた。
#某ゲームのおかげで美青年という印象が日本では植え付けられたが、劉備達よりも年上だったらしい。
#*漢中攻略戦の際、敵将が趙雲と聞いた曹操が「あの老いぼれ、まだ生きていたのか?」と述べたそうな。
#*中国で老将というと彼のことを指すとか。


==JR西日本が現実世界の「JR東海+JR西日本」のエリアだった場合==
===馬超===
{{駅名標/西日本|name=金山|ruby=かなやま|roma=Kanayama|back=おとうばし|back2=Otoubashi|next=あつた|next2=Atuta}}
#蜀の五虎大将の一人として知られるが、元は西涼に割拠していた群雄である。
#東海道山陽新幹線はJR西日本管轄で一体化して運営。
#演義では処刑された父・馬騰の仇討ちで兵を挙げるが、正史では逆に彼が兵を挙げたことで馬騰が処刑されている。
#*500系が東海道山陽新幹線の標準車両となり、700系は開発されない。
#CV:服巻浩司
#*実際は平屋編成では運びきれないので500系ベースの全2階建て編成を主力車として開発。
#おっかし~なかぶとをか~ぶる~♪<!--(わかる人にはわかるネタ)-->
#**1編成は8両で東海道区間では2編成併結で運行し、山陽区間では分割併合を行う。
#GCT車両開発。
#東京発九州方面のブルートレインは電車化されて生き残る。
#*ただし583系。新車ではない。
#名古屋支社、静岡支社はアーバンネットワーク扱い。
#*車両も特別快速/新快速用及び静岡地区の普通用にに221系/223系、名古屋地区の普通用に207系/321系が投入。
#*静岡地区には京阪神圏と名古屋圏からかき集めて来た117系が導入される。
#**しかし90年代後半には223系に置き換え。
#JR西日本はアーバンネットワークと新幹線の収益で成り立つ会社に。
#JR西日本の財務体質は現在よりは強固。
#「南紀」はキハ80系のまま。「ひだ」はキハ181系化。「たかやま」「かすが」「東海」「富士川」健在。
#名松線は廃止されていたでしょう。
#関西本線は全線電化されていた。
#*大和路快速は関西本線経由の名古屋行きになっている。
#太多線、武豊線、参宮線も全線電化されていた。
#*名古屋から鳥羽へは221系を使った快速が運転され、近鉄と利用客を奪い合っている。
#*高山本線(岐阜~美濃太田まで)も電化。しかし簡易電化で自治体に電化費用と車両の製造費用を請求。やっぱり却下されるな。
#*参宮線は電化されず、SL投入で観光路線化(実際、地元が希望中)か、関西から京都、草津線経由で特急爆走させて近鉄とバトってそう
#*'''武豊線電化決定'''(笑)
#[[新快速(JR西日本)|新快速]]は長浜へは行かず、名古屋方面へ運行されていた。
#*一応北陸本線の直流化が行われ、長浜へ行く新快速も設けられるが、現実よりも本数は少なくなる。
#*米原~大垣間はこの名古屋方面直通新快速が30分間隔で走る。
#**勿論米原~大垣間は各駅停車。
#*[[大阪駅]]の毎時00分・30分発の上り新快速は「京都・米原・名古屋・豊橋方面、浜松行」に。
#**浜松では熱海行の各駅停車に接続。(車両は223系)
#名古屋駅のセントラルタワーズは無かったかもしれない。
#*駅ビルが造られていたとしても、セントラルタワーズ程巨大な駅ビルが造られていたかどうか…。
#東海道新幹線のお陰で資金に余裕が出来る為、新型車両が積極的に導入されていた。
#*岡山・広島地区や北陸地区にも新型車両が導入されていた。
#**当然、新型車両の導入費用を地元自治体に求めたりはしない。
#*[[大阪環状線|環状線]]は90年代初頭に全車両が207系に置き換えられる。そして2008年地点では321系への置き換えが進んでいる。
#**環状線から淘汰された207系は阪和線や奈良線、桜井線、和歌山線へ。
#*中央西線のローカル区間には125系が導入される。
#*高山本線は全線がキハ120系で埋め尽くされる。
#[[四国旅客鉄道|JR最小のあの会社]]がJR西日本と合併していた…かも。
#*JR西日本の財務体質が現実よりも強固になれば、十分ありえる話。
#だが'''静岡冷遇に変わりはない。'''
#*オールロングシート車が導入されない代わりに中古車が来る。
#*現実のJR東海静岡支社の範囲はJR東日本管轄になったかもしれない。
#現実の[[JR東海バス]]のエリアは[[西日本JRバス]]のエリアになっている。
#*むしろ「東海JRバス」という社名で現実通りの路線を運行。
#JR西の経営状況が良いため、あの事故は無かった。
#JR東西の仲が悪くなったかも。


==JR東日本が現実世界の「JR東日本+JR東海」のエリアだった場合==
{{駅名標/東日本|name=金山|ruby=かなやま|back=尾頭橋|next=熱田|back2=Otoubashi|roma=Kanayama|next2=Atuta|color=#F68B1E}}
#伊勢線はJRのまま残る。
#*快速「みえ」は特急になるか、4両編成になる。
#高山本線・紀勢本線・伊勢線・参宮線・太多線が電化される。
#*武豊線も。
#大垣夜行がとっとと廃止され、「ムーンライトながら」が早くから登場。当然全区間全車指定席に。
#*でもJR東日本のお約束で特急化されてしまう。
#**ないない。そうなってたらえちごや信州も(ry
#東京-中国地方のブルトレはJR西日本が、東京-九州のブルトレはJR東日本が運行。
#JR東日本は東海道新幹線を獲得出来、財務体質は更に強固。
#*その代わり東海道と山陽の直通運転は打ち切り。
#**岡山・広島まではそれぞれ1本/時で直通。但し山陽区間は各駅停車。
#東海道新幹線と東北新幹線の相互乗り入れ実施。東海道新幹線にMaxが走る。
#*0系新幹線は未だ現役
#**それどころかリニューアルしている。
#***それどころか主役
#*名古屋-仙台は新幹線が6~7割、大阪-仙台も新幹線が4割のシェアとなる。
#*寝台新幹線は食堂車付き100系ベース。
#逆にJR西日本はドル箱である東海道新幹線を獲得出来ず、財務体質は今と変わらず劣悪。
#*もっと劣悪だったかもしれないはず。
#*それでも三島会社よりはマシ。
#東京発の静岡行き普通は現時点でも普通に運行されている。
#名古屋近辺にE231系が導入されている。
#*E231系投入前は113系や211系が普通に走っている。
#*名古屋地区限定バージョンとして転換クロスのE231も投入。
#東海道線の名古屋近辺の快速は1本/時。そしてパターンダイヤも崩れランダム運転に。
#*そんなことはない。対名鉄対策を考えれば快速を最低2本/時は走らせる。
#在来線普通列車から、転換クロスシート車が(改造してでも)一掃される。
#*しかし名古屋人から大バッシングを受けたためにやっぱり元に戻される。
#**そして名古屋限定でE231の転クロバージョン(但し4ドア)も快速に投入される。
#静岡口の普通列車はG車付きE231系10連だが、2本/時。
#名松線はキハ40系非冷房車のままで、4本/日。
#関連会社による「ぷらっとこだま」や「1day○○プラン」は発売されず。
#東海道新幹線関連の特急乗り継ぎ割引は全廃。
#*但し名古屋駅・米原駅・京都駅・新大阪駅は除く。
#新幹線並行在来線である米原-岐阜間を第3セクターとして分離。
#*東海道新幹線は国鉄時代開業なのでそれは無い。
#大糸線は全線東日本管轄。糸魚川駅はJR東日本新潟支社管轄。
#*大糸線は全線電化されているかもしれない・・。
#JR東海バスは東日本傘下で社名もJRバス東海に。カラーリングも関東や東北のような色調になる。
#甲府駅では、中央本線と身延線が相互乗り入れをする。
#東海道本線の大阪方面からの電車は殆どが米原駅までに折り返し、一部が北陸本線に乗り入れる。しかし大垣まで乗り入れる電車は存在しない。
#*いや、北陸本線は全線JR東日本管轄に。
#[[日本車輌製造|日本車両]]はJR東日本の子会社になり、走るんですシリーズは全て日車式ブロック工法で製造される。
#*いや、むしろ日車に[[東急車輛製造|東急車輛]]の工法を押し付ける。


===亀山・米原・猪谷・南小谷・直江津で分割する場合===
===黄忠===
{{駅名標/東日本|name=名古屋|ruby=なごや|back=尾頭橋|next=枇杷島|back2=Otobashi|roma=Nagoya|next2=Biwajima|color=#F68B1E}}
#荊州平定後に劉備の配下となった武将。
{{駅名標/西日本|name=亀山|ruby=かめやま|roma=Kameyama|back=いだがわ|back2=Idagawa|next=せき|next2=Seki}}
#演義では五虎大将の一人。正史では関羽、張飛、馬超と同格の将軍に任命される。
#南小谷・直江津はJR東日本、亀山・米原・猪谷はJR西日本の管理。
#老将として知られており、現在でも老いてますます意気盛んな人を彼になぞらえて「老黄忠」と言うとか。
#武豊線にはキハE130が導入されている。
#弓の名手だったらしい。
#三重県内の普通列車はキハ120だらけにになっている。
#*なので近鉄にケンカを売られまくっている。
<br style="clear:both;" />


==その他==
===魏延===
#NTTの東西の地域分けにも影響したか…
#蜀の将軍で、劉備には絶賛されたが、諸葛亮とは反りが合わなかった。
#ネクスコ(高速道路)にも影響したかも。
#*劉備に絶賛されたからこそ、諸葛亮に疎まれたんだろう。
#東海道本線ブルートレインの大量廃止はなかったかもしれない。
#諸葛亮の死後、実権を握ろうとして、楊儀と争い処刑された。
#*ただ、東京-九州間については3社間の折衝が絡むため、廃止の危機に遭っていたかも。
#*要は、蜀の荊州閥の勢力争いに敗れただけ。
#*それどころか新設・増備されて「金星」や「紀伊」。戦前の'''”銀河一族の7往復”'''なんてのも(笑)もちろん、普通や快速、急行の夜行は当たり前
#後世の扱いはひどい。
#[[Suica]]や[[PASMO]]、そして[[ICOCA]]の利用範囲も変っていた。
#*演義では完全に悪者扱い。
#東海道新幹線が西日本に継承された場合、JR西日本が儲け主義に傾倒することはなく、例の脱線事故も起きていなかった。ただし、阪神大震災時の在来線の復旧が史実より遅れていた可能性がある。
#*実力ある将軍だったのに・・・・・・。
#*墓をぶっ壊されてその上に線路を敷かれているらしい。
#魏との国境に近い漢中の太守を劉備から任され、大過なく治める。実は行政能力もけっこうあった。
#*最前線の司令官兼行政官として、魏の攻略法を考案し練り上げていたと思われる。その結果が長安への電撃侵攻作戦だったが、諸葛亮に一蹴される。そりゃ腐るわな。
#**後世にも、諸葛亮の言い分に理があったと認める人が多いが、魏延の作戦が通っていたらどうなっていただろうか。
#***実はこの作戦の記述は『魏略』によるもので、信憑性は低い。彼がこの作戦を本当に提案したのかは疑わしい。
#***仮にも漢を名乗る政権が長安を奪取すると言うことは、諸侯が雪崩を打って寝返る可能性もなきにしもあらずということか?
#困った人を放っておけない、情に厚い人間だったらしい。魏延金だけに。


[[Category:歴史のif検討委員会 鉄道史|ほんしゆうのしえいああるかとうさい]]
===楊儀===
#蜀の武将というより文官。だが文官の項目がないので、ここにした。
#魏延の喧嘩相手として有名。
#*だが蜀建国の頃に上司の劉巴に逆らって左遷されている辺り、よく人と衝突するタイプだったようだ。
#魏延との対比で、魏延が劉備に、楊儀が諸葛亮に抜擢されたと思われがちだが、実は彼も劉備が抜擢した武将だ。
#*しかもかなりの高評価だったようだ。
#**ちなみに最初は関羽に仕えていたが、関羽の推薦で劉備の直臣になったという経歴がある。関羽からも認められていたようだ。
#***関羽がもてあまして劉備に押しつけたんだと思ってた。
#軍事には素人だったが、事務官としてはチートだったらしい。
#*軍事チートと事務官チートの対立。孔明も頭を悩ませるわけだ。
#最期は『魏に仕えていたらここまで落ちぶれなかっただろう』と不満を言った『'''として'''』、逮捕、投獄され『自殺』した。
#*楊儀が容疑者になってしまった。
 
===姜維===
#諸葛亮が晩年に見出した蜀の武将。
#末期の蜀軍を支え、しばしば魏に侵攻しようとした。
#*ずっと侵攻したがっていたのを、蒋琬や費褘に抑えられていたというのが実情。費褘が暗殺された途端に活発に軍事行動を始めた。
#*このため、三国志演義の読者からは人気が高いが、実際には姜維の連年の軍事行動で蜀の財政が著しく疲弊し、滅亡を早めたとも言える。
#**これが魏の狡猾な計略で、'''死間'''として姜維を送り込んでいたとか言うのだったら、びびるがなぁ。
#*後主・劉禅とその周辺に嫌われたのは主にそのせいで、宦官・黄皓の讒言があったためではない。
#*とはいえ、涼州方面に軍事拠点を作られてしまうと蜀が終わってしまうという現実があったわけで、北伐は別に私利私欲で行われたわけではない。
#*実際、蜀の存在意義は「魏を倒して漢を復興させる」だから魏への侵攻は間違いではなかったが、内政が整わない状態で侵攻していたのが問題だった。
#魏の鍾会が攻め込んでくるとかなわず降参。口ほどにもないヤツである。
#*あんまりだというので、後世の人は「鍾会に降ったのは計略で、機を見て鍾会を倒し、劉禅を救い出して蜀を再建するつもりだったのだ」ということにしたが、ほどなく殺されているため、そんなつもりがあったかどうかはわからない。たぶん作り話。
#*× 鍾会が攻めてきたので降参  ○鍾会と対峙中に'''首都の劉禅が降参'''
#*ちなみに降伏後に鐘会と手を組んで反逆を試みたが、どさくさに紛れて兵士に切り刻まれて殺されてしまった。
#生'''姜'''の繊'''維'''。
#*生'''姜'''の'''維'''新とも言う。
#死後に腹を切り裂いたら、肝が一升ほどの大きさって・・・。人間ちゃうやろ。妖怪か何かか。
 
==呉の武将==
===周瑜===
#孫策・孫権に仕えた武将。
#*孫策とは幼馴染みで、しかも相聟(嫁さん同士が姉妹)。
#*孫策の臨終の時、張昭と共に孫権を託される。
#赤壁の戦いで大活躍。
#*三国志演義ではしばしば諸葛亮に煮え湯を飲まされるが、実際にはほぼ単独で曹操軍を撃退した。
#劉備を全く信用してなかった。
#*そもそも周瑜と接触した時点での劉備は、ほとんど信用されるに足る履歴を持っていなかったのだから、それもやむを得ない。信用した魯粛のほうが奇特な人と言える。
#三国時代の'''リア王'''。
#*本人も「美周郎」とあだ名されたほどのイケメン。
#**「イケてる周サマ!」というところ。
#**しかも若かった。享年なんと37。
#*嫁の「小橋」も名だたる美人。
#**曹操が呉を攻めたのは「小橋」と孫策未亡人「大橋」の美人姉妹を得るためだったというような噂が流れたほど。
#*音楽にも堪能。
#**食事の時など、流れている音楽に間違いがあると、振り返って演奏者を睨みつけた。
#***宴会で酔っ払っていても。人はビビっていたそうな。
#*リア充でもあった。「爆発しろ」と思われていたかどうかは知らないが。
#ゲームとかでは、軍師扱いが多いが、どちらかというと将軍だろう。確かに頭脳明晰ではあるが。
#関西弁は似合わなさそう。「天はこの世に周瑜を生んどきながら、なんで諸葛亮も生んだんや!?」
#*実際には諸葛亮に会ったこともないし、存在も知らなかったらしい。劉備からの使者として名前くらいは聞いたかもしれないが。
#**諸葛瑾の親族程度の認識はあったんじゃないかな。弟というのまでは知らないまでも。
#***諸葛亮は赤壁前に外交官として孫権に会っているので、面識ぐらいはあるだろう。
#****周瑜が孫権のところに召還される前に諸葛亮は帰国していたと思われる。その後の荊州争奪の折りも、諸葛亮が大戦略を立てているとは周瑜は全く気づいていなかった。というか、周瑜は劉備自身を自分より格下に見ていたので、劉備の家来にまで興味を持ったとは考えられない。
#*****関羽、張飛は高く評価していた。劉備に美女をあてがって骨抜きにして、関羽、張飛を自分の部下に引き抜こうとしていたし。ただし孔明は全く気にしてなかった。
#[[大豆]]を発酵させて搾った液体。
#周瑜黄巾賊。
 
===魯粛===
#孫権に仕えた武将。
#演義などの影響で、頼りなげな文官のイメージがあるが、実際は武官で、頭脳明晰で果断な人物だった。
#*まだ呉に仕える前、周瑜が彼の家を訪問したとき、家にあった蔵のうち半分をそのままプレゼントした。
#*当時荊州に駐留していた関羽の元に単身乗り込み、領土(荊州南部)を奪い取ってみせた。
#**このとき関羽はぐうの音も出なかったという。
#**戦わずに勝つという孫子の兵法をまさに体現した人物。
#*赤壁の戦いの前に、孫権をおどかしたあたりもなかなかの骨っぽさ。
#**「ワイはええんでっせ。曹操に降伏しても、まあぼちぼちの身分で取り立てられると思いますわ。でもあんさんはどないでっか? もともと大した家柄でもなし、どないして身ィ立てる気やねん」<BR>これを聞いて孫権は慄え上がり、曹操との対決を決意したと言う。
#惜しむらくは、寿命には恵まれなかった。享年46。あと20年長生きしたら、どうなっただろうか。
#*息子の魯淑が、魯粛死後ほぼ一年後生まれだというのを逆算すると、'''腹上死'''していたのかもしれないとかなんとか。
#金持ちのボンボン。親族から変人呼ばわりされるほどのボンボン気質。
 
===賀斉===
#演義には登場しない、呉最強の将軍。
#*異民族討伐が主な任務だったので、演義では出番がなかった。
#いつも少ない兵力で出陣し、勝利を収めた。
#*異民族の中には、彼の名を聞いただけで震え上がる者も。
#合肥では、魏最強の張遼とぶつかり合い、張遼に奪われた大将旗を奪い返すという戦功を挙げる。
#*この時の張遼のチートな強さを考えれば、賀斉もどんだけ強いんだと。
#*その直後に孫権に説教。
#**賀斉「おめえは戦下手なんだからもう少し自重汁。」
#**孫権は「ごめんなさい」と平謝りだった。
#派手好きで、鎧や盾、戦艦などにも派手な装飾を施していたという。
 
===呂蒙===
#孫権に仕えた武将。
#無学だったが、孫権に薦められて書物を読むようになり、いっぱしの軍略家となる。
#*最初「忙しくて本なんぞ読んでられまへんわ」と逃げようとしたが、孫権はしつこく、「忙しいちゅーたらワイのほうがよっぽど忙しいわ。それでもワイはいつも本を手元に置くようにしとるんやで。何も学者になれゆーとるんやない、騙された思て読んでみ」と薦めた。しかも推薦図書まで何冊も挙げた。
#*そんなわけでたぶん最初はいやいや本を読み始めたと思われるが、だんだん面白くなったらしい。
#*この時期「呉下の阿蒙」の逸話を残す。
#**たまたま魯粛と話す機会があり、呂蒙が急に賢くなっていたので驚いた魯粛が「いやはや、呉の街の蒙ちゃんとはもう呼べんなあ」と慨嘆。
#**「男ゆうもんはな、3日顔合わせんかったら、眼ン玉見開いてよ~く見とかんとあかんで」と逆に魯粛に説教。
#***頑張ったのはわかるが、この上から目線はなんなんだ。
#関羽を打ち破る。
#*本人は意外と病弱で、関羽を破って間もなく病死。人々はみんな「関羽様のたたりじゃあ」と大騒ぎ。
#**呂蒙の霊「ちゃうわ! わしゃその前から病気やったんや! 信じてくれ~!」
 
===陸遜===
#孫権に仕えた武将。
#関羽の仇討に燃える蜀軍の迎撃の指揮を執った。
#*はやる諸将を抑えて時を待ち、敵軍の戦線が延びきり疲労の色が濃くなった機を見逃さず一気呵成に責め立て、劉備を白帝城に追い込んだ。
#長年に渡り呉に尽くしたが、後継者争いに巻き込まれて憤死。
#*蓄財などは感心がなく、死亡時に何の財産もなかったらしい。
 
==その他の武将==
===呂布===
#三国志の武将の中でも、武勇は随一。
#*演義ではアンタッチャブルな強さ。実際個人でも強かったのだろうが、騎馬民族の部隊を率いていたからとも。
#裏切り者の代名詞的な存在。
#*本人は裏切っているつもりはなかったかもしれない。
#**丁原「あいつは乱暴者で悪いヤツだって董太師に言われただ。だから首をとってやっただ」
#**董卓「あいつは帝を苦しめるひどいヤツだって王司徒が言ってただ。だからこらしめてやっただ」
#**袁術「身内を全部殺した董卓をおらが討ってやったのに、ちっともありがたがらねえで冷たかっただ。だから出てきてやっただ」
#**袁紹「なんでおらを殺そうとするだ。こんなヤツのとこには居たくねえだ」
#**劉備「おらがこんなに良くしてやっただに、ちょこまか動き回っておらを陥れようとするだ。ちょっくらお灸を据えてやるだ」
#***劉備が袁術の配下の紀霊に攻められた際、仲裁に入って、「おらは戦うのは嫌えだ。人を仲良くさしてやんのが好きなんだ」と言ったのは、案外本音だった可能性もある。
#その格好から、[[ゴキブリ]]と言われることも。
#イケメンだったらしい。
#曹操に敗れて捕まった時、「あんたの歩兵とおらの騎兵がありゃあ天下無敵だべ。これでまあ、天下は定まったってもんだ」と本気で言った。曹操もけっこうその気になりかけたが、傍らに居た劉備が水を差したので結局処刑。
#*呂布はこの時はじめて劉備に嫌われていたことに気づいたのであった。
#**「こんの、大耳野郎! 裏切ってばかりいんのはおらでねえ、おめえでねえか!」というのが、呂布の絶望を込めた最後の言葉。
#赤菟という最高級の名馬に乗っていた。
#*「人中に呂奉先あり、馬中に赤菟あり」と称えられた。
#*演義では呂布の死後、曹操から関羽に贈られたことになっているが、正史にはそんな記述は無い。それに呂布が死んだ頃には、赤菟もかなり高齢だったはず。
#**関羽が呂布未亡人を欲しがったという話もある。後世の人々は、なんとなく呂布から関羽へいろんなものが引き継がれたイメージを持ったのかもしれない。
#中国での評判は散々。裏切りはともかく、義父を2度も殺しているのが痛すぎる。(儒教的な意味で)
 
[[Category:バカ人物志/中国|ふしようてんさんこく]]
[[Category:三国志|ふしよう]]

2016年1月26日 (火) 15:10時点における版

魏の武将

夏侯惇

  1. 曹操に仕えた武将。
    • 曹操の挙兵当初から常に一緒に行動していた。
    • 曹操の従兄弟だったらしい。
  2. 隻眼だったので「盲夏侯」と呼ばれた。
    • 片眼を戦場で射られ、矢を引き抜いたら眼球ごと抜けてしまい、それを食った……という勇ましい伝説があるが、なんぼなんでも作り話だろう。
      • 横山三国志では作者曰く「別に食わせなくてもいいじゃん」ということで食べる描写はなかった。
        • 演義では一応、「親から授かったこの身を無駄にしてなるものか」と叫んで食ったことになってるけどね。
    • 本人は相当気にしてたらしく、このあだ名を嫌い、鏡で自分の顔を見る度に怒ってその鏡を割ってしまったと言う。
  3. 三国志演義では数々の戦争で武功を挙げた猛将になっているが、夏侯惇が参戦したと正史に載っているのは2回だけ。しかも両方とも負け戦。
    • 武功では劣っていても治水事業などで功績を挙げていたりもして、曹操が無能な人間を高位につけるわけがないので、本来は軍政家だったのかもしれない。
    • 基本的に曹操の近くにいたため、記述が省かれてるだけだろう。
  4. 最近は理想的なナンバー2として描かれることが多い。

張遼

  1. 曹操に使えた武将で、元は呂布の配下。
    • 呂布とともに処刑されそうになった時、関羽が彼の命乞いをしたため、命を助けられることとなった。
  2. 主に呉との戦で活躍し、呉では泣く子も黙ると恐れられた。
  3. 演義では矢が刺さった傷が元で死んだことになっているが、実際は普通に病死だったらしい。
    • 横山三国志における矢の刺さった場所が・・・。
  4. おそらく魏最強の将軍。
    • 呂布の配下時代は、劉備攻めの先陣を務めて散々に蹴散らし(関羽と張飛がいたはずなんだが・・・)、劉備は命からがら曹操の元に逃げ込んだ。
    • 呉の合肥攻めでは少ない軍勢で孫権の本陣まで攻め込んで将軍数名を討ち取った。

蜀の武将

関羽

  1. 蜀の劉備に仕えた武将。
  2. 智勇兼備の名将で、主君への忠義は絶大だった。
  3. 結構気難しいタイプだったようで、部下や領民は可愛がるが、同僚や目上の人物、他国の人々とはたびたび衝突したようだ。
    • そのため、本来は味方であるはずの呉や、後方支援の味方まで敵に回してしまい、結局はそれが命取りになった。
    • 呉「関羽殿、お宅の娘を嫁がせてくれ。我らと婚戚関係になって同盟を確固たるものにしよう」→関羽「犬に娘をやれるか!」→呉「犬だと…忘れんぞ」
    • 後方支援「しまった、関羽への支援が足りない。怒らせると怖いし、感謝されたことないし、プライド高いし……よし、支援要請自体をなかったことにしよう」
  4. 死後、神様になった。
    • なぜか武の神様ではなく、商人の守り神になった。しかも皇帝はおろか王にもなってないのに、「関帝」と名付けられた。
      • 約束を必ず守る信義固さで、商取引に大事な信用の象徴→商売の神様となった。
      • また敵中にあっても揺るがない忠誠で、後世の皇帝に「関羽を神として祭れば、ウチの部下も忠誠を尽くすだろう」と思われ、その後の皇帝に「ならば朕は『候』を贈り『関候』とするぞ」「それを倒した我が帝国は候より上の『関王』だな」「ならウチは更に『関帝』だ」「さ、更に上となると『皇』しかない…けど自分と同格では忠誠じゃないぢゃん」となった。
  5. 異様に嫉妬深いタイプでもあった。特に劉備の寵愛に関しては、自分をしのぐヤツが出現するのを絶対に許さなかった。
    • 馬超、黄忠などに対してもものすごい敵愾心を燃やした。
      • 馬超が劉備陣営に加わった時は、わざわざ諸葛亮に荊州から手紙を出して「馬超と俺とどっちが上だ?」と問い合わせた。諸葛亮はおっかなびっくり「張飛とどっこいどっこいというところ、ヒゲ殿にはとてもかないません」と機嫌をとった。
      • 黄忠を後将軍に任命する時も、諸葛亮はまだびびっていて、「同格の将軍にするなんて、雲長さんが怒りますよお」と劉備に訴えたが、劉備は「ワシがよく言い聞かせるから」と断行。案の定関羽は激怒し、「あんな老いぼれと同格なんて辛抱できん!」と荒れまくった。
  6. 映画祭。
  7. 実は劉備より年上という説が有力。
  8. ヒゲ。何といってもヒゲ。
    • これを敵の首に巻きつけて絞殺することもあった。
    • 専用のヒゲケースを持っていて、寝るときは痛まないようにヒゲをしまって寝ていた。
    • ヒゲがピンっと立つことによって、敵の来襲を察知できた。しかし味方の裏切りは察知できなかった。

張飛

  1. 関羽と同じく、蜀の劉備に仕えた武将で、劉備、関羽と義兄弟になった。
  2. 武勇は蜀軍の中でもトップクラスで、智略もあったようだ。
    • でもコーエーのゲーム・三国志シリーズでは、知力が異様に低くなっている。
  3. 関羽とは逆に、同僚や目上の人物からの受けは良かったが、部下や領民には厳しかったようだ。
    • 関羽と同じく、それが命取りとなり、部下に寝首を掻かれてしまった。
    • 劉備から「おめえさんは手下を殺しすぎらあ。しかも殴ったヤツを平気で自分の側に置いてるってえじゃねえか。危ねえよそりゃあ」と忠告されたが、聞かなかったらしい。
      • それどころか、「いや兄貴、俺だって考えちゃあいるんだぜ。ぶん殴る手下は身寄りが少ないヤツにしてるんだ。そうすりゃ下手うって殺しちまっても、後で仇を討たれる心配はないからよお」と答えたとも言う。本当だとしたら実はとんでもなくイヤなヤツである。
      • 案の定、虐待した部下たちに殺された。劉備は張飛の副官から報告が来たことを聞いただけで、
        「あちゃあ~、益徳が死んじまったか~orz」と落胆したそうな。
  4. 死後は、三国志の人物ではNo.1の人気者になり、京劇などでは主人公になったりと大忙し。
  5. 『はるひ』ではない。
  6. 得意技は燕返し。
  7. 現在の重慶では、張飛が酒の当てにしていたという料理が現存しているらしい。

趙雲

  1. 公孫瓉から蜀の劉備に乗り換えて活躍した武将。
  2. 三国志演義を読むと、けっこう見せ場が多くて、関羽・張飛に次ぐ地位に居たように見えるが、実は意外と重用されていない。
    • 乱戦の中から阿斗を救ったとか、孫氏(孫権の妹で劉備の妻)が里に帰る時に阿斗を連れ出したのを奪回したとかいうのは作り話だし。
      • 阿斗を救ったのは事実。というか正史の本文にはそれしか功績らしいものは見当たらなかったりする…
    • 益州攻略戦や夷陵の戦いなど、劉備にとって重要な戦争にはほとんど置いてきぼりをくらっていたし。
    • 「五虎将軍」に加えられたというのも「演義」の創作で、実際には、馬超と黄忠が関羽・張飛と同格の将軍に任命された時に外されていたし。
      • 馬超は涼州軍団を率いており、黄忠は荊州勢のまとめ役みたいな立場だったので幹部に取り立てざるを得なかったが、趙雲は個人的就職だったので選に漏れたのだろう。
      • 実のところ、魏延よりも地位は低かったという説もあるし…
  3. 劉備が関羽の復讐戦に猛り立った時、ただひとり冷静な意見を述べて反対した。
    • この辺のクールさが、情に走りがちな劉備陣営ではやや異質な感じだったのかも。
      • そもそも出兵に反対したという事自体、信憑性が低いけどね。
  4. 三国志演義で脚色された部分を見ても、将としての活躍というより、個人的な武勇伝ばかり。たぶん軍勢を進退させる能力はあんまり無かったと思われる。
    • 実際には劉禅の警護役みたいな立場だったように感じられるんだが、どうかな。趙雲が死んだ時に劉禅が大変心のこもった弔辞を送っているのは確かなようなので。
  5. 昔見た実写映画(タイトル忘れた)では、馬上でバク転してた。
  6. 某ゲームのおかげで美青年という印象が日本では植え付けられたが、劉備達よりも年上だったらしい。
    • 漢中攻略戦の際、敵将が趙雲と聞いた曹操が「あの老いぼれ、まだ生きていたのか?」と述べたそうな。
    • 中国で老将というと彼のことを指すとか。

馬超

  1. 蜀の五虎大将の一人として知られるが、元は西涼に割拠していた群雄である。
  2. 演義では処刑された父・馬騰の仇討ちで兵を挙げるが、正史では逆に彼が兵を挙げたことで馬騰が処刑されている。
  3. CV:服巻浩司
  4. おっかし~なかぶとをか~ぶる~♪


黄忠

  1. 荊州平定後に劉備の配下となった武将。
  2. 演義では五虎大将の一人。正史では関羽、張飛、馬超と同格の将軍に任命される。
  3. 老将として知られており、現在でも老いてますます意気盛んな人を彼になぞらえて「老黄忠」と言うとか。
  4. 弓の名手だったらしい。

魏延

  1. 蜀の将軍で、劉備には絶賛されたが、諸葛亮とは反りが合わなかった。
    • 劉備に絶賛されたからこそ、諸葛亮に疎まれたんだろう。
  2. 諸葛亮の死後、実権を握ろうとして、楊儀と争い処刑された。
    • 要は、蜀の荊州閥の勢力争いに敗れただけ。
  3. 後世の扱いはひどい。
    • 演義では完全に悪者扱い。
    • 実力ある将軍だったのに・・・・・・。
    • 墓をぶっ壊されてその上に線路を敷かれているらしい。
  4. 魏との国境に近い漢中の太守を劉備から任され、大過なく治める。実は行政能力もけっこうあった。
    • 最前線の司令官兼行政官として、魏の攻略法を考案し練り上げていたと思われる。その結果が長安への電撃侵攻作戦だったが、諸葛亮に一蹴される。そりゃ腐るわな。
      • 後世にも、諸葛亮の言い分に理があったと認める人が多いが、魏延の作戦が通っていたらどうなっていただろうか。
        • 実はこの作戦の記述は『魏略』によるもので、信憑性は低い。彼がこの作戦を本当に提案したのかは疑わしい。
        • 仮にも漢を名乗る政権が長安を奪取すると言うことは、諸侯が雪崩を打って寝返る可能性もなきにしもあらずということか?
  5. 困った人を放っておけない、情に厚い人間だったらしい。魏延金だけに。

楊儀

  1. 蜀の武将というより文官。だが文官の項目がないので、ここにした。
  2. 魏延の喧嘩相手として有名。
    • だが蜀建国の頃に上司の劉巴に逆らって左遷されている辺り、よく人と衝突するタイプだったようだ。
  3. 魏延との対比で、魏延が劉備に、楊儀が諸葛亮に抜擢されたと思われがちだが、実は彼も劉備が抜擢した武将だ。
    • しかもかなりの高評価だったようだ。
      • ちなみに最初は関羽に仕えていたが、関羽の推薦で劉備の直臣になったという経歴がある。関羽からも認められていたようだ。
        • 関羽がもてあまして劉備に押しつけたんだと思ってた。
  4. 軍事には素人だったが、事務官としてはチートだったらしい。
    • 軍事チートと事務官チートの対立。孔明も頭を悩ませるわけだ。
  5. 最期は『魏に仕えていたらここまで落ちぶれなかっただろう』と不満を言った『として』、逮捕、投獄され『自殺』した。
    • 楊儀が容疑者になってしまった。

姜維

  1. 諸葛亮が晩年に見出した蜀の武将。
  2. 末期の蜀軍を支え、しばしば魏に侵攻しようとした。
    • ずっと侵攻したがっていたのを、蒋琬や費褘に抑えられていたというのが実情。費褘が暗殺された途端に活発に軍事行動を始めた。
    • このため、三国志演義の読者からは人気が高いが、実際には姜維の連年の軍事行動で蜀の財政が著しく疲弊し、滅亡を早めたとも言える。
      • これが魏の狡猾な計略で、死間として姜維を送り込んでいたとか言うのだったら、びびるがなぁ。
    • 後主・劉禅とその周辺に嫌われたのは主にそのせいで、宦官・黄皓の讒言があったためではない。
    • とはいえ、涼州方面に軍事拠点を作られてしまうと蜀が終わってしまうという現実があったわけで、北伐は別に私利私欲で行われたわけではない。
    • 実際、蜀の存在意義は「魏を倒して漢を復興させる」だから魏への侵攻は間違いではなかったが、内政が整わない状態で侵攻していたのが問題だった。
  3. 魏の鍾会が攻め込んでくるとかなわず降参。口ほどにもないヤツである。
    • あんまりだというので、後世の人は「鍾会に降ったのは計略で、機を見て鍾会を倒し、劉禅を救い出して蜀を再建するつもりだったのだ」ということにしたが、ほどなく殺されているため、そんなつもりがあったかどうかはわからない。たぶん作り話。
    • × 鍾会が攻めてきたので降参  ○鍾会と対峙中に首都の劉禅が降参
    • ちなみに降伏後に鐘会と手を組んで反逆を試みたが、どさくさに紛れて兵士に切り刻まれて殺されてしまった。
  4. の繊
    • 新とも言う。
  5. 死後に腹を切り裂いたら、肝が一升ほどの大きさって・・・。人間ちゃうやろ。妖怪か何かか。

呉の武将

周瑜

  1. 孫策・孫権に仕えた武将。
    • 孫策とは幼馴染みで、しかも相聟(嫁さん同士が姉妹)。
    • 孫策の臨終の時、張昭と共に孫権を託される。
  2. 赤壁の戦いで大活躍。
    • 三国志演義ではしばしば諸葛亮に煮え湯を飲まされるが、実際にはほぼ単独で曹操軍を撃退した。
  3. 劉備を全く信用してなかった。
    • そもそも周瑜と接触した時点での劉備は、ほとんど信用されるに足る履歴を持っていなかったのだから、それもやむを得ない。信用した魯粛のほうが奇特な人と言える。
  4. 三国時代のリア王
    • 本人も「美周郎」とあだ名されたほどのイケメン。
      • 「イケてる周サマ!」というところ。
      • しかも若かった。享年なんと37。
    • 嫁の「小橋」も名だたる美人。
      • 曹操が呉を攻めたのは「小橋」と孫策未亡人「大橋」の美人姉妹を得るためだったというような噂が流れたほど。
    • 音楽にも堪能。
      • 食事の時など、流れている音楽に間違いがあると、振り返って演奏者を睨みつけた。
        • 宴会で酔っ払っていても。人はビビっていたそうな。
    • リア充でもあった。「爆発しろ」と思われていたかどうかは知らないが。
  5. ゲームとかでは、軍師扱いが多いが、どちらかというと将軍だろう。確かに頭脳明晰ではあるが。
  6. 関西弁は似合わなさそう。「天はこの世に周瑜を生んどきながら、なんで諸葛亮も生んだんや!?」
    • 実際には諸葛亮に会ったこともないし、存在も知らなかったらしい。劉備からの使者として名前くらいは聞いたかもしれないが。
      • 諸葛瑾の親族程度の認識はあったんじゃないかな。弟というのまでは知らないまでも。
        • 諸葛亮は赤壁前に外交官として孫権に会っているので、面識ぐらいはあるだろう。
          • 周瑜が孫権のところに召還される前に諸葛亮は帰国していたと思われる。その後の荊州争奪の折りも、諸葛亮が大戦略を立てているとは周瑜は全く気づいていなかった。というか、周瑜は劉備自身を自分より格下に見ていたので、劉備の家来にまで興味を持ったとは考えられない。
            • 関羽、張飛は高く評価していた。劉備に美女をあてがって骨抜きにして、関羽、張飛を自分の部下に引き抜こうとしていたし。ただし孔明は全く気にしてなかった。
  7. 大豆を発酵させて搾った液体。
  8. 周瑜黄巾賊。

魯粛

  1. 孫権に仕えた武将。
  2. 演義などの影響で、頼りなげな文官のイメージがあるが、実際は武官で、頭脳明晰で果断な人物だった。
    • まだ呉に仕える前、周瑜が彼の家を訪問したとき、家にあった蔵のうち半分をそのままプレゼントした。
    • 当時荊州に駐留していた関羽の元に単身乗り込み、領土(荊州南部)を奪い取ってみせた。
      • このとき関羽はぐうの音も出なかったという。
      • 戦わずに勝つという孫子の兵法をまさに体現した人物。
    • 赤壁の戦いの前に、孫権をおどかしたあたりもなかなかの骨っぽさ。
      • 「ワイはええんでっせ。曹操に降伏しても、まあぼちぼちの身分で取り立てられると思いますわ。でもあんさんはどないでっか? もともと大した家柄でもなし、どないして身ィ立てる気やねん」
        これを聞いて孫権は慄え上がり、曹操との対決を決意したと言う。
  3. 惜しむらくは、寿命には恵まれなかった。享年46。あと20年長生きしたら、どうなっただろうか。
    • 息子の魯淑が、魯粛死後ほぼ一年後生まれだというのを逆算すると、腹上死していたのかもしれないとかなんとか。
  4. 金持ちのボンボン。親族から変人呼ばわりされるほどのボンボン気質。

賀斉

  1. 演義には登場しない、呉最強の将軍。
    • 異民族討伐が主な任務だったので、演義では出番がなかった。
  2. いつも少ない兵力で出陣し、勝利を収めた。
    • 異民族の中には、彼の名を聞いただけで震え上がる者も。
  3. 合肥では、魏最強の張遼とぶつかり合い、張遼に奪われた大将旗を奪い返すという戦功を挙げる。
    • この時の張遼のチートな強さを考えれば、賀斉もどんだけ強いんだと。
    • その直後に孫権に説教。
      • 賀斉「おめえは戦下手なんだからもう少し自重汁。」
      • 孫権は「ごめんなさい」と平謝りだった。
  4. 派手好きで、鎧や盾、戦艦などにも派手な装飾を施していたという。

呂蒙

  1. 孫権に仕えた武将。
  2. 無学だったが、孫権に薦められて書物を読むようになり、いっぱしの軍略家となる。
    • 最初「忙しくて本なんぞ読んでられまへんわ」と逃げようとしたが、孫権はしつこく、「忙しいちゅーたらワイのほうがよっぽど忙しいわ。それでもワイはいつも本を手元に置くようにしとるんやで。何も学者になれゆーとるんやない、騙された思て読んでみ」と薦めた。しかも推薦図書まで何冊も挙げた。
    • そんなわけでたぶん最初はいやいや本を読み始めたと思われるが、だんだん面白くなったらしい。
    • この時期「呉下の阿蒙」の逸話を残す。
      • たまたま魯粛と話す機会があり、呂蒙が急に賢くなっていたので驚いた魯粛が「いやはや、呉の街の蒙ちゃんとはもう呼べんなあ」と慨嘆。
      • 「男ゆうもんはな、3日顔合わせんかったら、眼ン玉見開いてよ~く見とかんとあかんで」と逆に魯粛に説教。
        • 頑張ったのはわかるが、この上から目線はなんなんだ。
  3. 関羽を打ち破る。
    • 本人は意外と病弱で、関羽を破って間もなく病死。人々はみんな「関羽様のたたりじゃあ」と大騒ぎ。
      • 呂蒙の霊「ちゃうわ! わしゃその前から病気やったんや! 信じてくれ~!」

陸遜

  1. 孫権に仕えた武将。
  2. 関羽の仇討に燃える蜀軍の迎撃の指揮を執った。
    • はやる諸将を抑えて時を待ち、敵軍の戦線が延びきり疲労の色が濃くなった機を見逃さず一気呵成に責め立て、劉備を白帝城に追い込んだ。
  3. 長年に渡り呉に尽くしたが、後継者争いに巻き込まれて憤死。
    • 蓄財などは感心がなく、死亡時に何の財産もなかったらしい。

その他の武将

呂布

  1. 三国志の武将の中でも、武勇は随一。
    • 演義ではアンタッチャブルな強さ。実際個人でも強かったのだろうが、騎馬民族の部隊を率いていたからとも。
  2. 裏切り者の代名詞的な存在。
    • 本人は裏切っているつもりはなかったかもしれない。
      • 丁原「あいつは乱暴者で悪いヤツだって董太師に言われただ。だから首をとってやっただ」
      • 董卓「あいつは帝を苦しめるひどいヤツだって王司徒が言ってただ。だからこらしめてやっただ」
      • 袁術「身内を全部殺した董卓をおらが討ってやったのに、ちっともありがたがらねえで冷たかっただ。だから出てきてやっただ」
      • 袁紹「なんでおらを殺そうとするだ。こんなヤツのとこには居たくねえだ」
      • 劉備「おらがこんなに良くしてやっただに、ちょこまか動き回っておらを陥れようとするだ。ちょっくらお灸を据えてやるだ」
        • 劉備が袁術の配下の紀霊に攻められた際、仲裁に入って、「おらは戦うのは嫌えだ。人を仲良くさしてやんのが好きなんだ」と言ったのは、案外本音だった可能性もある。
  3. その格好から、ゴキブリと言われることも。
  4. イケメンだったらしい。
  5. 曹操に敗れて捕まった時、「あんたの歩兵とおらの騎兵がありゃあ天下無敵だべ。これでまあ、天下は定まったってもんだ」と本気で言った。曹操もけっこうその気になりかけたが、傍らに居た劉備が水を差したので結局処刑。
    • 呂布はこの時はじめて劉備に嫌われていたことに気づいたのであった。
      • 「こんの、大耳野郎! 裏切ってばかりいんのはおらでねえ、おめえでねえか!」というのが、呂布の絶望を込めた最後の言葉。
  6. 赤菟という最高級の名馬に乗っていた。
    • 「人中に呂奉先あり、馬中に赤菟あり」と称えられた。
    • 演義では呂布の死後、曹操から関羽に贈られたことになっているが、正史にはそんな記述は無い。それに呂布が死んだ頃には、赤菟もかなり高齢だったはず。
      • 関羽が呂布未亡人を欲しがったという話もある。後世の人々は、なんとなく呂布から関羽へいろんなものが引き継がれたイメージを持ったのかもしれない。
  7. 中国での評判は散々。裏切りはともかく、義父を2度も殺しているのが痛すぎる。(儒教的な意味で)