ページ「ベタな席替えの法則」と「武将伝/三国」の間の差分

(ページ間の差分)
ナビゲーションに移動 検索に移動
編集の要約なし
 
>Yopida036
 
1行目: 1行目:
#嫌いな人の近くだと半泣きになる。
{{Pathnav|バカ人物志|[[バカ人物志/中国|中国]]|[[武将伝/中国|武将伝]]|name=三国}}
#*中学生いかは座席を離される。
==魏の武将==
#**カンニング防止のため、お昼の時以外はわざと机を離してる学校もあるよ。
===夏侯惇===
#*オレは小4の席替えの時、目が悪い奴と無理矢理入れ替えさせられ、障害児と隣になったことがある。<!--マジ、泣きそうになった。
#曹操に仕えた武将。
#**何が「泣きそうになった」だ。その差別意識を改めろよ。
#*曹操の挙兵当初から常に一緒に行動していた。
#***クラス全体(究極的に言えば社会全体)が改めなければ意味がない。隣になるだけでいじめの対象になったりする。-->
#*曹操の従兄弟だったらしい。
#*オレも小6の席替えで、相性の悪い男と隣になって半泣きになった。
#隻眼だったので「盲夏侯」と呼ばれた。
#*仲の良い人と隣になれなかった+最前列になって泣いてた人に対して、微調整の名目で「席替わる?」って言ったら突如満面の笑みになった。オイオイ、席替えに人生掛けてるのかアンタは?
#*片眼を戦場で射られ、矢を引き抜いたら眼球ごと抜けてしまい、それを食った……という勇ましい伝説があるが、なんぼなんでも作り話だろう。
#**向こう数ヶ月(=次の席替えまで)の学校生活が懸かっているのは間違い無い。
#**横山三国志では作者曰く「別に食わせなくてもいいじゃん」ということで食べる描写はなかった。
#***そしてその数ヶ月の暗黒時代を一生引き摺ってしまう事だってある。
#***演義では一応、「親から授かったこの身を無駄にしてなるものか」と叫んで食ったことになってるけどね。
#席や周りのメンバーが微妙だと、「この席、仕込んだだろ」と思いたくなる。
#*本人は相当気にしてたらしく、このあだ名を嫌い、鏡で自分の顔を見る度に怒ってその鏡を割ってしまったと言う。
#当日休んだ奴の席は勝手に決められる。
#三国志演義では数々の戦争で武功を挙げた猛将になっているが、夏侯惇が参戦したと正史に載っているのは2回だけ。しかも両方とも負け戦。
#*大抵、教壇の目の前の席が残っている。
#*武功では劣っていても治水事業などで功績を挙げていたりもして、曹操が無能な人間を高位につけるわけがないので、本来は軍政家だったのかもしれない。
#次の日、昨日まで自分の席だった所に座ってしまう。
#*基本的に曹操の近くにいたため、記述が省かれてるだけだろう。
#*イジメっ子の席だったところに決まってしまい、そのイジメっ子から「何で俺の席に座ってるんだ」などと後々に渡っていわれの無い因縁(どう考えても故意)を付けられる。
#最近は理想的なナンバー2として描かれることが多い。
<!--#*隣に1番嫌われている女、その近くにも嫌われている女、その近くに暴力的な男が来た時の絶望感と言ったら……2年生の時で移動教室で首根っこ掴まれたりとか放置されたりとか散々でしたよ。それ以来学校の旅行とか移動教室とやらはあまり行きたくなくなりました。-->
 
#「せんせー、目が悪いので前にしてくださーい」。
===張遼===
#*視力が1.0未満だと強制的に一番前だった(実話)。眼鏡があっても容赦なし。
#曹操に使えた武将で、元は呂布の配下。
#**上と同じ理由で一番前にさせられたが「先生ー、前が見えませーん」(クラスで一番背高かった)という理由で後ろの席にいったことがある。
#*呂布とともに処刑されそうになった時、関羽が彼の命乞いをしたため、命を助けられることとなった。
#***背が高くて目が悪い人はどうしても替える場所が制限されてしまう。
#主に呉との戦で活躍し、呉では泣く子も黙ると恐れられた。
#****その結果、いつも席が近くになるコンビが発生する。
#演義では矢が刺さった傷が元で死んだことになっているが、実際は普通に病死だったらしい。
#*学年があがるほど近視の人が増えるので、更にその中で重い人が優先される。
#*横山三国志における矢の刺さった場所が・・・。
#*逆に後ろの席に行きたいときの決め台詞。「せんせー、遠視なんで後ろ行っていいですかー?」
#おそらく魏最強の将軍。
#**大抵の場合本気にされない。
#*呂布の配下時代は、劉備攻めの先陣を務めて散々に蹴散らし(関羽と張飛がいたはずなんだが・・・)、劉備は命からがら曹操の元に逃げ込んだ。
#**本当に遠視な人はかなり損をしていると思う。
#*呉の合肥攻めでは少ない軍勢で孫権の本陣まで攻め込んで将軍数名を討ち取った。
#*なぜか、真面目なやつが目が悪いと主張し不良が遠視と主張する。(前が好きだが、真面目ではない人)。
 
#席替えしたのに席が変わってない。
==蜀の武将==
#*俺は3回連続だった別のときは2回連続同じ席だったが隣の女子がその2回とも同じだった。
===関羽===
#**隣どころか席替えしたのに1年間ぶっ通しで同じ班になったことが・・・
#蜀の劉備に仕えた武将。
#***自分は4連続席が変わらなかった。しかも一番人気の一番後ろかつ窓側の席。無論注目の的(別の意味で)。
#*義兄弟だが、「[[シスター・プリンセスファン|お兄ちゃん大好き]](おっさん声)」とか言ったりしない。
#**オレは席は変わったが、やたら同じ女子と一緒になって…。(その女子好きな人なんだよねぇ)
#智勇兼備の名将で、主君への忠義は絶大だった。
#***'''よかったじゃん。'''
#結構気難しいタイプだったようで、部下や領民は可愛がるが、同僚や目上の人物、他国の人々とはたびたび衝突したようだ。
#***実はその女子も↑のことが好きで、隣のクジを引いた女子はその子と席を入れ替わるよう女子内で暗黙の了解となっていた可能性も…。
#*そのため、本来は味方であるはずの呉や、後方支援の味方まで敵に回してしまい、結局はそれが命取りになった。
#*担任が、PCの授業で使っていたロゴライターを使って席替えプログラムを作ったが、その実行結果は、何故か自分だけ以前と同じ席だった。
#*呉「関羽殿、お宅の娘を嫁がせてくれ。我らと婚戚関係になって同盟を確固たるものにしよう」→関羽「犬に娘をやれるか!」→呉「犬だと…忘れんぞ」
#*こっちは、5回連続で同じ女子だった。当然まわりの奴に冷やかされた。その次もまた一緒になったが、視力の調整で他と変わった。
#*後方支援「しまった、関羽への支援が足りない。怒らせると怖いし、感謝されたことないし、プライド高いし……よし、支援要請自体をなかったことにしよう」
#**小中挟んで4回連続で隣の女子がいて、しかも今も記録継続中。(誰も気がついていないようだが、2人でまた隣かと、言っている。)
#死後、神様になった。
#*なぜか必ず一番前の列になる。別に最前列は嫌いじゃないが嫌になってくる。
#*なぜか武の神様ではなく、商人の守り神になった。しかも皇帝はおろか王にもなってないのに、「関帝」と名付けられた。
#**そのジンクスにかかった奴を救うために席を交換したら、自分にジンクスが降りかかってきた…
#**約束を必ず守る信義固さで、商取引に大事な信用の象徴→商売の神様となった。
#クラスの人数が奇数のとき、1人だけ「隣がいない」という状態になる。
#**また敵中にあっても揺るがない忠誠で、後世の皇帝に「関羽を神として祭れば、ウチの部下も忠誠を尽くすだろう」と思われ、その後の皇帝に「ならば朕は『候』を贈り『関候』とするぞ」「それを倒した我が帝国は候より上の『関王』だな」「ならウチは更に『関帝』だ」「さ、更に上となると『皇』しかない…けど自分と同格では忠誠じゃないぢゃん」となった。
#*人によってはむしろその方が落ち着いて勉強できる。
#異様に嫉妬深いタイプでもあった。特に劉備の寵愛に関しては、自分をしのぐヤツが出現するのを絶対に許さなかった。
#*日直も一人でやらされる。
#*馬超、黄忠などに対してもものすごい敵愾心を燃やした。
#**もしくはその場合も二人でやるため、最初の基準からどんどんずれていく。
#**馬超が劉備陣営に加わった時は、わざわざ諸葛亮に荊州から手紙を出して「馬超と俺とどっちが上だ?」と問い合わせた。諸葛亮はおっかなびっくり「張飛とどっこいどっこいというところ、ヒゲ殿にはとてもかないません」と機嫌をとった。
#*小学生ぐらいだと横に3人並ぶケースもある。
#**黄忠を後将軍に任命する時も、諸葛亮はまだびびっていて、「同格の将軍にするなんて、雲長さんが怒りますよお」と劉備に訴えたが、劉備は「ワシがよく言い聞かせるから」と断行。案の定関羽は激怒し、「あんな老いぼれと同格なんて辛抱できん!」と荒れまくった。
#**両隣が女子のときがあった。(結構疲れる)
#映画祭。
#不良は後ろだと喜ぶ。
#実は劉備より年上という説が有力。
#*前だと後ろのヤツを脅し、やっぱり後ろになる。
#ヒゲ。何といってもヒゲ。
#*不良でなくとも、一般的には後ろの人気が高い。前に行こうとする人は近眼かガリ勉が多い。
#*これを敵の首に巻きつけて絞殺することもあった。
#*しかし、プリントの回収という作業が発生するので嫌う人も少なくない。
#*専用のヒゲケースを持っていて、寝るときは痛まないようにヒゲをしまって寝ていた。
#**一番の特等席は後ろから2列目。夏は廊下側、冬は窓側。
#*ヒゲがピンっと立つことによって、敵の来襲を察知できた。しかし味方の裏切りは察知できなかった。
#*苗字が「さ」で始まる人辺りが窓際の一番後ろになる。「す」になると二列目の前の方(byツッパリではないがお調子者だった「さ」で始まる苗字の人)。
 
#男女差が2人以上の場合は男子同士、女子同士で並ぶことがある。
===張飛===
#*一度13人の女子に囲まれたことがある(by男女差5人ほどの文系クラス)
#関羽と同じく、蜀の劉備に仕えた武将で、劉備、関羽と義兄弟になった。
#**僕も経験した事あります。(by国際科クラス)
#武勇は蜀軍の中でもトップクラスで、智略もあったようだ。
#***その男子生徒にとっては、「両手に花」ならぬ「一面に花」状態でちょっと嬉しい。
#*でも[[コーエーテクモゲームス|コーエー]]のゲーム・三国志シリーズでは、知力が異様に低くなっている。
#好きな人が後ろにくると、授業中、気になって、後ろの壁にかかっている時計を見る振りをして、見てしまう。
#関羽とは逆に、同僚や目上の人物からの受けは良かったが、部下や領民には厳しかったようだ。
#*隣の隣の隣の隣に好きな人がいる。横向いても見えないからウズウズする。
#*関羽と同じく、それが命取りとなり、部下に寝首を掻かれてしまった。
#**隣の人や隣の隣の人が"非常勤"の人だったりよく寝る人の場合は見えやすい。
#*劉備から「おめえさんは手下を殺しすぎらあ。しかも殴ったヤツを平気で自分の側に置いてるってえじゃねえか。危ねえよそりゃあ」と忠告されたが、聞かなかったらしい。
#***俺今まさに2個上と同じ状況。でもよく見えるから、じーっと見てるとその子の隣の男子が微笑んでくる(by男子中学生)
#**それどころか、「いや兄貴、俺だって考えちゃあいるんだぜ。ぶん殴る手下は身寄りが少ないヤツにしてるんだ。そうすりゃ下手うって殺しちまっても、後で仇を討たれる心配はないからよお」と答えたとも言う。本当だとしたら実はとんでもなくイヤなヤツである。
#*プリントなんかを回すとき、キュンキュンする。
#**案の定、虐待した部下たちに殺された。劉備は張飛の副官から報告が来たことを聞いただけで、<BR>「あちゃあ~、益徳が死んじまったか~orz」と落胆したそうな。
#*好きな子が前にくると、うなじ見放題。
#死後は、三国志の人物ではNo.1の人気者になり、京劇などでは主人公になったりと大忙し。
#**自分の方に振り向いてほしいけど、振り向くのはプリントを回す時とかに限られる。
#『はるひ』ではない。
#高校の理系クラスの男子はやたらと席替えをしたがる。(女子が少ないから)
#*[[涼宮ハルヒファン|宇宙人や未来人、超能力者に興味があったわけではない]]。
#*四方八方に一人も女子がいないと意気消沈する。
#得意技は燕返し。
#**逆に女嫌いの男子は近くに女子がいると同じ極の磁石のごとく常に離れる。
#現在の重慶では、張飛が酒の当てにしていたという料理が現存しているらしい。
#*物理選択しかいないクラスだとなおさら。
 
#**物理教室には女子がいなかったので、どうでも良かったです・・・orz
===趙雲===
#*男子校だがほとんど席が変わらない。
#公孫瓉から蜀の劉備に乗り換えて活躍した武将。
#何回席替えしても「前の席のほうがよかった~」
#三国志演義を読むと、けっこう見せ場が多くて、関羽・張飛に次ぐ地位に居たように見えるが、実は意外と重用されていない。
#理想の席になるのが3学期になってから。
#*乱戦の中から阿斗を救ったとか、孫氏(孫権の妹で劉備の妻)が里に帰る時に阿斗を連れ出したのを奪回したとかいうのは作り話だし。
#*「最後ですからぁ、自由に選んで良いですよぉ。」
#**阿斗を救ったのは事実。というか正史の本文にはそれしか功績らしいものは見当たらなかったりする…
#*でも眼が悪い人や背の低い人に配慮せざるをえないから結局は微調整。
#*益州攻略戦や夷陵の戦いなど、劉備にとって重要な戦争にはほとんど置いてきぼりをくらっていたし。
#**時々本人が後ろでいいと言っても先生の独断で前に来させられる場合がある。個人の自由というのはどうなったんだろ?
#*「五虎将軍」に加えられたというのも「演義」の創作で、実際には、馬超と黄忠が関羽・張飛と同格の将軍に任命された時に外されていたし。
#**今は前後期制が多い罠。
#**馬超は涼州軍団を率いており、黄忠は荊州勢のまとめ役みたいな立場だったので幹部に取り立てざるを得なかったが、趙雲は個人的就職だったので選に漏れたのだろう。
#*最後ということで初心に帰る目的なのか、出席番号順に戻ることも。
#**実のところ、魏延よりも地位は低かったという説もあるし…
#窓側かつ後ろの席が人気。
#劉備が関羽の復讐戦に猛り立った時、ただひとり冷静な意見を述べて反対した。
#*生徒の人数が6の倍数+1人だと、一番後ろに孤立する席ができる。この場合人気が出るかどうかは様々。
#*この辺のクールさが、情に走りがちな劉備陣営ではやや異質な感じだったのかも。
#成績とクラス内感情を考慮する場合、担任教師と学級委員会の協議で席を決定する場合がある。特に問題児関連。
#**そもそも出兵に反対したという事自体、信憑性が低いけどね。
#*当然の如くそれに便乗し、好意を抱く女子生徒が自分の近くに来るように工作。
#三国志演義で脚色された部分を見ても、将としての活躍というより、個人的な武勇伝ばかり。たぶん軍勢を進退させる能力はあんまり無かったと思われる。
#好きな人同士で席(班)を決める場合、必ず先生から「○○さんも誰か仲間に入れてあげて下さい」という指示が入る。
#*実際には劉禅の警護役みたいな立場だったように感じられるんだが、どうかな。趙雲が死んだ時に劉禅が大変心のこもった弔辞を送っているのは確かなようなので。
#*友達が一人もいない人にとっては好きな人同士で決めるよりもくじ引きの方が内心嬉しかったりする。
#昔見た実写映画(タイトル忘れた)では、馬上でバク転してた。
#**そうだね(by群れるのに失敗した人)
#某ゲームのおかげで美青年という印象が日本では植え付けられたが、劉備達よりも年上だったらしい。
#*教師はやたらと生徒に仲間を作らせたがる。仲間意識とか言っているが、結局群れないと何もできない教育じゃないか。
#*漢中攻略戦の際、敵将が趙雲と聞いた曹操が「あの老いぼれ、まだ生きていたのか?」と述べたそうな。
#**そんな勝手な思想を投げかけられても困りますが
#*中国で老将というと彼のことを指すとか。
#自分が嫌いな相手と一緒になるのは嫌だが、自分を嫌っている相手と一緒になるのはもっと嫌だ。
 
#*何故だか知らんが一方的に嫌われて、一緒になった1ヶ月間自分とそいつの机は常に3cmほど離れていた。
===馬超===
#*される側はいい迷惑。
#蜀の五虎大将の一人として知られるが、元は西涼に割拠していた群雄である。
#なぜか嫌いな奴とばかり一緒になることがある。
#演義では処刑された父・馬騰の仇討ちで兵を挙げるが、正史では逆に彼が兵を挙げたことで馬騰が処刑されている。
#*あれ?俺いつのまに書き込んだんだろう。
#CV:服巻浩司
#私立の進学校だと模試の成績で席が決まることがあるらしい。
#おっかし~なかぶとをか~ぶる~♪<!--(わかる人にはわかるネタ)-->
#男子校だと席替えしようと言う奴がいないので1年間出席番号順で同じ席
 
#*女子校もその傾向にあり。
 
#*クラス替えにもかかわらず出席番号がずっと同じで、教室違いの3年間同じ席にすらなる。
===黄忠===
#*んなこたない、俺の所じゃ学期の区切りに先生主導で変えてるぞ。それどころか一部の騒がしい生徒が早く席替えしてほしいと先生に言ってたりする
#荊州平定後に劉備の配下となった武将。
#席替えしても、試験のときは何故か番号順。
#演義では五虎大将の一人。正史では関羽、張飛、馬超と同格の将軍に任命される。
#*その方が、試験を整理しやすいのだろう。
#老将として知られており、現在でも老いてますます意気盛んな人を彼になぞらえて「老黄忠」と言うとか。
#*その番号順の席で4月のクラス結成当初を懐かしむ。
#弓の名手だったらしい。
#**そしてそれが気付いたら「試験唯一の楽しみ」になる。
 
#***しかしその結果嫌いな奴が来た場合は楽しめない…
===魏延===
#*移動先の席が汚くて面食らう。
#蜀の将軍で、劉備には絶賛されたが、諸葛亮とは反りが合わなかった。
#**テストが終わって戻った後に自分の席が汚くなっていて面食らう。
#*劉備に絶賛されたからこそ、諸葛亮に疎まれたんだろう。
#**それを防ぐためか、試験前日までに机の中・横を片付けさせる教師も多い。
#諸葛亮の死後、実権を握ろうとして、楊儀と争い処刑された。
#***カンニング防止って聞いたけど
#*要は、蜀の荊州閥の勢力争いに敗れただけ。
#席替えの結果にイチャモンをつけるのは大抵言いだしっぺ。
#後世の扱いはひどい。
#席を決める方法でもめる。
#*演義では完全に悪者扱い。
#*ドラフト方式で決める場合、クラスの雰囲気最悪
#*実力ある将軍だったのに・・・・・・。
#*[[周りからバカクラスと呼ばれる法則|こういうクラス]]だと、漢字テストとかの成績順で決められる場合もある。
#*墓をぶっ壊されてその上に線路を敷かれているらしい。
#*まあ籤引きが多いが、完全に籤の結果と一致するとは限らない。
#魏との国境に近い漢中の太守を劉備から任され、大過なく治める。実は行政能力もけっこうあった。
#**また籤引きのはずなのに何故か不良連中はかたまることが多い。
#*最前線の司令官兼行政官として、魏の攻略法を考案し練り上げていたと思われる。その結果が長安への電撃侵攻作戦だったが、諸葛亮に一蹴される。そりゃ腐るわな。
#*班長が立候補→「明るく楽しい班」のような政策を掲げる→支持したい班長のところにみんなが名前を書く、という班決めをやったら、誰にも支持されない班長がいて気の毒だった
#**後世にも、諸葛亮の言い分に理があったと認める人が多いが、魏延の作戦が通っていたらどうなっていただろうか。
#一番後ろの席は人気が高いがデメリットも多い。
#***実はこの作戦の記述は『魏略』によるもので、信憑性は低い。彼がこの作戦を本当に提案したのかは疑わしい。
#*テストの答案や提出物を集めなければいけない事がある。
#***仮にも漢を名乗る政権が長安を奪取すると言うことは、諸侯が雪崩を打って寝返る可能性もなきにしもあらずということか?
#**時間が来たから集めているだけなのに、単にたまたま集める担当であるだけなのに、まだ解答が全部終わっていなくて往生際の悪い奴から謂れの無い反発を受ける。
#困った人を放っておけない、情に厚い人間だったらしい。魏延金だけに。
#*配布物を先生が前から列ごとに配った時、その列に配られた中で一番状態が悪い物が手元に来る。
 
#**先生がツバを付けた一枚が手元に来る。
===楊儀===
#**白紙(印刷中に紙送りミスで紛れ込んだ?)が来る。
#蜀の武将というより文官。だが文官の項目がないので、ここにした。
#**印刷がずれている物が来る。
#魏延の喧嘩相手として有名。
#**足りない場合、自分で取りに行かなければいけない。
#*だが蜀建国の頃に上司の劉巴に逆らって左遷されている辺り、よく人と衝突するタイプだったようだ。
#***余っている場合、自分が返しに行かなければいけない。
#魏延との対比で、魏延が劉備に、楊儀が諸葛亮に抜擢されたと思われがちだが、実は彼も劉備が抜擢した武将だ。
#****人数分とは異なるのは列の途中で発覚しているのに結局自分がアクションを取らないと解決しない。
#*しかもかなりの高評価だったようだ。
#**別に後ろの人が嫌いな訳じゃないのに、ついつい状態の悪い物を後ろに送ってしまう。(嫌いな人が後ろにいたら尚更だけど)
#**ちなみに最初は関羽に仕えていたが、関羽の推薦で劉備の直臣になったという経歴がある。関羽からも認められていたようだ。
#*因みに前の席だと状態のいいものが貰える(自分は前に算数のプリントで先生が例題用に式と答えを書いてあるプリントを貰って1門得したw無論先生から後で小言言われたけど)
#***関羽がもてあまして劉備に押しつけたんだと思ってた。
#席替えするかどうかを多数決で決める場合もある。
#軍事には素人だったが、事務官としてはチートだったらしい。
#*嫌いな奴が周りにいる人は大喜びで賛成するが、周りと仲が良いので反対する人も結構多い。
#*軍事チートと事務官チートの対立。孔明も頭を悩ませるわけだ。
#**現状不利な人は変革に期待して賛成、現状有利な人は今の利益を手放したくないために反対。どう見ても社会の縮図です本当に(ry。
#最期は『魏に仕えていたらここまで落ちぶれなかっただろう』と不満を言った『'''として'''』、逮捕、投獄され『自殺』した。
#**しかし、前回と今回と賛成反対が真逆になる場合がある点は社会の縮図と異なる。
#*楊儀が容疑者になってしまった。
#***与党と野党がひっくり返るという事が起こってみると、あながち異なるとも言えなくなってきた。
 
#*窓側の人、後側の人からも反対が出る。
===姜維===
#中2くらいになると5番のやつをベースに「せんせー、目が良すぎるので後ろにしてくださーい」なんてボケ始める奴が出てくる。
#諸葛亮が晩年に見出した蜀の武将。
#*8割の確率で黙殺される。
#末期の蜀軍を支え、しばしば魏に侵攻しようとした。
#トランプがくじになっている。不正や折り曲げた跡がありかなりの年季物。スタバのトランプとかあったw
#*ずっと侵攻したがっていたのを、蒋琬や費褘に抑えられていたというのが実情。費褘が暗殺された途端に活発に軍事行動を始めた。
#*あるいは、余っていたプリント等を40枚ぐらいに切り刻んでそれぞれに番号を書くって場合もある。
#*このため、三国志演義の読者からは人気が高いが、実際には姜維の連年の軍事行動で蜀の財政が著しく疲弊し、滅亡を早めたとも言える。
#あまりに変わっている人やいじめられっ子だと隣の人を固定にしているらしい。(教師談、経験などから)<!--その変わっている人とは投稿者本人のことだ。-->
#**これが魏の狡猾な計略で、'''死間'''として姜維を送り込んでいたとか言うのだったら、びびるがなぁ。
#授業態度が悪いと、担任の裁量で最前列の真ん中にされる。
#*後主・劉禅とその周辺に嫌われたのは主にそのせいで、宦官・黄皓の讒言があったためではない。
#*最前列より前の位置の「特別席」にご招待となる場合もある
#*とはいえ、涼州方面に軍事拠点を作られてしまうと蜀が終わってしまうという現実があったわけで、北伐は別に私利私欲で行われたわけではない。
#時にはクラスのムードが悪くなる場合も。
#*実際、蜀の存在意義は「魏を倒して漢を復興させる」だから魏への侵攻は間違いではなかったが、内政が整わない状態で侵攻していたのが問題だった。
#席替えで騒ぐモンスターペアレント
#魏の鍾会が攻め込んでくるとかなわず降参。口ほどにもないヤツである。
[[Category:ベタの法則/学校|せきかえ]]
#*あんまりだというので、後世の人は「鍾会に降ったのは計略で、機を見て鍾会を倒し、劉禅を救い出して蜀を再建するつもりだったのだ」ということにしたが、ほどなく殺されているため、そんなつもりがあったかどうかはわからない。たぶん作り話。
#*× 鍾会が攻めてきたので降参  ○鍾会と対峙中に'''首都の劉禅が降参'''
#*ちなみに降伏後に鐘会と手を組んで反逆を試みたが、どさくさに紛れて兵士に切り刻まれて殺されてしまった。
#生'''姜'''の繊'''維'''。
#*生'''姜'''の'''維'''新とも言う。
#死後に腹を切り裂いたら、肝が一升ほどの大きさって・・・。人間ちゃうやろ。妖怪か何かか。
 
==呉の武将==
===周瑜===
#孫策・孫権に仕えた武将。
#*孫策とは幼馴染みで、しかも相聟(嫁さん同士が姉妹)。
#*孫策の臨終の時、張昭と共に孫権を託される。
#赤壁の戦いで大活躍。
#*三国志演義ではしばしば諸葛亮に煮え湯を飲まされるが、実際にはほぼ単独で曹操軍を撃退した。
#劉備を全く信用してなかった。
#*そもそも周瑜と接触した時点での劉備は、ほとんど信用されるに足る履歴を持っていなかったのだから、それもやむを得ない。信用した魯粛のほうが奇特な人と言える。
#三国時代の'''リア王'''。
#*本人も「美周郎」とあだ名されたほどのイケメン。
#**「イケてる周サマ!」というところ。
#**しかも若かった。享年なんと37。
#*嫁の「小橋」も名だたる美人。
#**曹操が呉を攻めたのは「小橋」と孫策未亡人「大橋」の美人姉妹を得るためだったというような噂が流れたほど。
#*音楽にも堪能。
#**食事の時など、流れている音楽に間違いがあると、振り返って演奏者を睨みつけた。
#***宴会で酔っ払っていても。人はビビっていたそうな。
#*リア充でもあった。「爆発しろ」と思われていたかどうかは知らないが。
#ゲームとかでは、軍師扱いが多いが、どちらかというと将軍だろう。確かに頭脳明晰ではあるが。
#関西弁は似合わなさそう。「天はこの世に周瑜を生んどきながら、なんで諸葛亮も生んだんや!?」
#*実際には諸葛亮に会ったこともないし、存在も知らなかったらしい。劉備からの使者として名前くらいは聞いたかもしれないが。
#**諸葛瑾の親族程度の認識はあったんじゃないかな。弟というのまでは知らないまでも。
#***諸葛亮は赤壁前に外交官として孫権に会っているので、面識ぐらいはあるだろう。
#****周瑜が孫権のところに召還される前に諸葛亮は帰国していたと思われる。その後の荊州争奪の折りも、諸葛亮が大戦略を立てているとは周瑜は全く気づいていなかった。というか、周瑜は劉備自身を自分より格下に見ていたので、劉備の家来にまで興味を持ったとは考えられない。
#*****関羽、張飛は高く評価していた。劉備に美女をあてがって骨抜きにして、関羽、張飛を自分の部下に引き抜こうとしていたし。ただし孔明は全く気にしてなかった。
#[[大豆]]を発酵させて搾った液体。
#周瑜黄巾賊。
 
===魯粛===
#孫権に仕えた武将。
#演義などの影響で、頼りなげな文官のイメージがあるが、実際は武官で、頭脳明晰で果断な人物だった。
#*まだ呉に仕える前、周瑜が彼の家を訪問したとき、家にあった蔵のうち半分をそのままプレゼントした。
#*当時荊州に駐留していた関羽の元に単身乗り込み、領土(荊州南部)を奪い取ってみせた。
#**このとき関羽はぐうの音も出なかったという。
#**戦わずに勝つという孫子の兵法をまさに体現した人物。
#*赤壁の戦いの前に、孫権をおどかしたあたりもなかなかの骨っぽさ。
#**「ワイはええんでっせ。曹操に降伏しても、まあぼちぼちの身分で取り立てられると思いますわ。でもあんさんはどないでっか? もともと大した家柄でもなし、どないして身ィ立てる気やねん」<BR>これを聞いて孫権は慄え上がり、曹操との対決を決意したと言う。
#惜しむらくは、寿命には恵まれなかった。享年46。あと20年長生きしたら、どうなっただろうか。
#*息子の魯淑が、魯粛死後ほぼ一年後生まれだというのを逆算すると、'''腹上死'''していたのかもしれないとかなんとか。
#金持ちのボンボン。親族から変人呼ばわりされるほどのボンボン気質。
 
===賀斉===
#演義には登場しない、呉最強の将軍。
#*異民族討伐が主な任務だったので、演義では出番がなかった。
#いつも少ない兵力で出陣し、勝利を収めた。
#*異民族の中には、彼の名を聞いただけで震え上がる者も。
#合肥では、魏最強の張遼とぶつかり合い、張遼に奪われた大将旗を奪い返すという戦功を挙げる。
#*この時の張遼のチートな強さを考えれば、賀斉もどんだけ強いんだと。
#*その直後に孫権に説教。
#**賀斉「おめえは戦下手なんだからもう少し自重汁。」
#**孫権は「ごめんなさい」と平謝りだった。
#派手好きで、鎧や盾、戦艦などにも派手な装飾を施していたという。
 
===呂蒙===
#孫権に仕えた武将。
#無学だったが、孫権に薦められて書物を読むようになり、いっぱしの軍略家となる。
#*最初「忙しくて本なんぞ読んでられまへんわ」と逃げようとしたが、孫権はしつこく、「忙しいちゅーたらワイのほうがよっぽど忙しいわ。それでもワイはいつも本を手元に置くようにしとるんやで。何も学者になれゆーとるんやない、騙された思て読んでみ」と薦めた。しかも推薦図書まで何冊も挙げた。
#*そんなわけでたぶん最初はいやいや本を読み始めたと思われるが、だんだん面白くなったらしい。
#*この時期「呉下の阿蒙」の逸話を残す。
#**たまたま魯粛と話す機会があり、呂蒙が急に賢くなっていたので驚いた魯粛が「いやはや、呉の街の蒙ちゃんとはもう呼べんなあ」と慨嘆。
#**「男ゆうもんはな、3日顔合わせんかったら、眼ン玉見開いてよ~く見とかんとあかんで」と逆に魯粛に説教。
#***頑張ったのはわかるが、この上から目線はなんなんだ。
#関羽を打ち破る。
#*本人は意外と病弱で、関羽を破って間もなく病死。人々はみんな「関羽様のたたりじゃあ」と大騒ぎ。
#**呂蒙の霊「ちゃうわ! わしゃその前から病気やったんや! 信じてくれ~!」
 
===陸遜===
#孫権に仕えた武将。
#関羽の仇討に燃える蜀軍の迎撃の指揮を執った。
#*はやる諸将を抑えて時を待ち、敵軍の戦線が延びきり疲労の色が濃くなった機を見逃さず一気呵成に責め立て、劉備を白帝城に追い込んだ。
#長年に渡り呉に尽くしたが、後継者争いに巻き込まれて憤死。
#*蓄財などは感心がなく、死亡時に何の財産もなかったらしい。
 
==その他の武将==
===呂布===
#三国志の武将の中でも、武勇は随一。
#*演義ではアンタッチャブルな強さ。実際個人でも強かったのだろうが、騎馬民族の部隊を率いていたからとも。
#裏切り者の代名詞的な存在。
#*本人は裏切っているつもりはなかったかもしれない。
#**丁原「あいつは乱暴者で悪いヤツだって董太師に言われただ。だから首をとってやっただ」
#**董卓「あいつは帝を苦しめるひどいヤツだって王司徒が言ってただ。だからこらしめてやっただ」
#**袁術「身内を全部殺した董卓をおらが討ってやったのに、ちっともありがたがらねえで冷たかっただ。だから出てきてやっただ」
#**袁紹「なんでおらを殺そうとするだ。こんなヤツのとこには居たくねえだ」
#**劉備「おらがこんなに良くしてやっただに、ちょこまか動き回っておらを陥れようとするだ。ちょっくらお灸を据えてやるだ」
#***劉備が袁術の配下の紀霊に攻められた際、仲裁に入って、「おらは戦うのは嫌えだ。人を仲良くさしてやんのが好きなんだ」と言ったのは、案外本音だった可能性もある。
#その格好から、[[ゴキブリ]]と言われることも。
#イケメンだったらしい。
#曹操に敗れて捕まった時、「あんたの歩兵とおらの騎兵がありゃあ天下無敵だべ。これでまあ、天下は定まったってもんだ」と本気で言った。曹操もけっこうその気になりかけたが、傍らに居た劉備が水を差したので結局処刑。
#*呂布はこの時はじめて劉備に嫌われていたことに気づいたのであった。
#**「こんの、大耳野郎! 裏切ってばかりいんのはおらでねえ、おめえでねえか!」というのが、呂布の絶望を込めた最後の言葉。
#赤菟という最高級の名馬に乗っていた。
#*「人中に呂奉先あり、馬中に赤菟あり」と称えられた。
#*演義では呂布の死後、曹操から関羽に贈られたことになっているが、正史にはそんな記述は無い。それに呂布が死んだ頃には、赤菟もかなり高齢だったはず。
#**関羽が呂布未亡人を欲しがったという話もある。後世の人々は、なんとなく呂布から関羽へいろんなものが引き継がれたイメージを持ったのかもしれない。
#中国での評判は散々。裏切りはともかく、義父を2度も殺しているのが痛すぎる。(儒教的な意味で)
 
[[Category:バカ人物志/中国|ふしようてんさんこく]]
[[Category:三国志|ふしよう]]

2016年1月26日 (火) 15:10時点における版

魏の武将

夏侯惇

  1. 曹操に仕えた武将。
    • 曹操の挙兵当初から常に一緒に行動していた。
    • 曹操の従兄弟だったらしい。
  2. 隻眼だったので「盲夏侯」と呼ばれた。
    • 片眼を戦場で射られ、矢を引き抜いたら眼球ごと抜けてしまい、それを食った……という勇ましい伝説があるが、なんぼなんでも作り話だろう。
      • 横山三国志では作者曰く「別に食わせなくてもいいじゃん」ということで食べる描写はなかった。
        • 演義では一応、「親から授かったこの身を無駄にしてなるものか」と叫んで食ったことになってるけどね。
    • 本人は相当気にしてたらしく、このあだ名を嫌い、鏡で自分の顔を見る度に怒ってその鏡を割ってしまったと言う。
  3. 三国志演義では数々の戦争で武功を挙げた猛将になっているが、夏侯惇が参戦したと正史に載っているのは2回だけ。しかも両方とも負け戦。
    • 武功では劣っていても治水事業などで功績を挙げていたりもして、曹操が無能な人間を高位につけるわけがないので、本来は軍政家だったのかもしれない。
    • 基本的に曹操の近くにいたため、記述が省かれてるだけだろう。
  4. 最近は理想的なナンバー2として描かれることが多い。

張遼

  1. 曹操に使えた武将で、元は呂布の配下。
    • 呂布とともに処刑されそうになった時、関羽が彼の命乞いをしたため、命を助けられることとなった。
  2. 主に呉との戦で活躍し、呉では泣く子も黙ると恐れられた。
  3. 演義では矢が刺さった傷が元で死んだことになっているが、実際は普通に病死だったらしい。
    • 横山三国志における矢の刺さった場所が・・・。
  4. おそらく魏最強の将軍。
    • 呂布の配下時代は、劉備攻めの先陣を務めて散々に蹴散らし(関羽と張飛がいたはずなんだが・・・)、劉備は命からがら曹操の元に逃げ込んだ。
    • 呉の合肥攻めでは少ない軍勢で孫権の本陣まで攻め込んで将軍数名を討ち取った。

蜀の武将

関羽

  1. 蜀の劉備に仕えた武将。
  2. 智勇兼備の名将で、主君への忠義は絶大だった。
  3. 結構気難しいタイプだったようで、部下や領民は可愛がるが、同僚や目上の人物、他国の人々とはたびたび衝突したようだ。
    • そのため、本来は味方であるはずの呉や、後方支援の味方まで敵に回してしまい、結局はそれが命取りになった。
    • 呉「関羽殿、お宅の娘を嫁がせてくれ。我らと婚戚関係になって同盟を確固たるものにしよう」→関羽「犬に娘をやれるか!」→呉「犬だと…忘れんぞ」
    • 後方支援「しまった、関羽への支援が足りない。怒らせると怖いし、感謝されたことないし、プライド高いし……よし、支援要請自体をなかったことにしよう」
  4. 死後、神様になった。
    • なぜか武の神様ではなく、商人の守り神になった。しかも皇帝はおろか王にもなってないのに、「関帝」と名付けられた。
      • 約束を必ず守る信義固さで、商取引に大事な信用の象徴→商売の神様となった。
      • また敵中にあっても揺るがない忠誠で、後世の皇帝に「関羽を神として祭れば、ウチの部下も忠誠を尽くすだろう」と思われ、その後の皇帝に「ならば朕は『候』を贈り『関候』とするぞ」「それを倒した我が帝国は候より上の『関王』だな」「ならウチは更に『関帝』だ」「さ、更に上となると『皇』しかない…けど自分と同格では忠誠じゃないぢゃん」となった。
  5. 異様に嫉妬深いタイプでもあった。特に劉備の寵愛に関しては、自分をしのぐヤツが出現するのを絶対に許さなかった。
    • 馬超、黄忠などに対してもものすごい敵愾心を燃やした。
      • 馬超が劉備陣営に加わった時は、わざわざ諸葛亮に荊州から手紙を出して「馬超と俺とどっちが上だ?」と問い合わせた。諸葛亮はおっかなびっくり「張飛とどっこいどっこいというところ、ヒゲ殿にはとてもかないません」と機嫌をとった。
      • 黄忠を後将軍に任命する時も、諸葛亮はまだびびっていて、「同格の将軍にするなんて、雲長さんが怒りますよお」と劉備に訴えたが、劉備は「ワシがよく言い聞かせるから」と断行。案の定関羽は激怒し、「あんな老いぼれと同格なんて辛抱できん!」と荒れまくった。
  6. 映画祭。
  7. 実は劉備より年上という説が有力。
  8. ヒゲ。何といってもヒゲ。
    • これを敵の首に巻きつけて絞殺することもあった。
    • 専用のヒゲケースを持っていて、寝るときは痛まないようにヒゲをしまって寝ていた。
    • ヒゲがピンっと立つことによって、敵の来襲を察知できた。しかし味方の裏切りは察知できなかった。

張飛

  1. 関羽と同じく、蜀の劉備に仕えた武将で、劉備、関羽と義兄弟になった。
  2. 武勇は蜀軍の中でもトップクラスで、智略もあったようだ。
    • でもコーエーのゲーム・三国志シリーズでは、知力が異様に低くなっている。
  3. 関羽とは逆に、同僚や目上の人物からの受けは良かったが、部下や領民には厳しかったようだ。
    • 関羽と同じく、それが命取りとなり、部下に寝首を掻かれてしまった。
    • 劉備から「おめえさんは手下を殺しすぎらあ。しかも殴ったヤツを平気で自分の側に置いてるってえじゃねえか。危ねえよそりゃあ」と忠告されたが、聞かなかったらしい。
      • それどころか、「いや兄貴、俺だって考えちゃあいるんだぜ。ぶん殴る手下は身寄りが少ないヤツにしてるんだ。そうすりゃ下手うって殺しちまっても、後で仇を討たれる心配はないからよお」と答えたとも言う。本当だとしたら実はとんでもなくイヤなヤツである。
      • 案の定、虐待した部下たちに殺された。劉備は張飛の副官から報告が来たことを聞いただけで、
        「あちゃあ~、益徳が死んじまったか~orz」と落胆したそうな。
  4. 死後は、三国志の人物ではNo.1の人気者になり、京劇などでは主人公になったりと大忙し。
  5. 『はるひ』ではない。
  6. 得意技は燕返し。
  7. 現在の重慶では、張飛が酒の当てにしていたという料理が現存しているらしい。

趙雲

  1. 公孫瓉から蜀の劉備に乗り換えて活躍した武将。
  2. 三国志演義を読むと、けっこう見せ場が多くて、関羽・張飛に次ぐ地位に居たように見えるが、実は意外と重用されていない。
    • 乱戦の中から阿斗を救ったとか、孫氏(孫権の妹で劉備の妻)が里に帰る時に阿斗を連れ出したのを奪回したとかいうのは作り話だし。
      • 阿斗を救ったのは事実。というか正史の本文にはそれしか功績らしいものは見当たらなかったりする…
    • 益州攻略戦や夷陵の戦いなど、劉備にとって重要な戦争にはほとんど置いてきぼりをくらっていたし。
    • 「五虎将軍」に加えられたというのも「演義」の創作で、実際には、馬超と黄忠が関羽・張飛と同格の将軍に任命された時に外されていたし。
      • 馬超は涼州軍団を率いており、黄忠は荊州勢のまとめ役みたいな立場だったので幹部に取り立てざるを得なかったが、趙雲は個人的就職だったので選に漏れたのだろう。
      • 実のところ、魏延よりも地位は低かったという説もあるし…
  3. 劉備が関羽の復讐戦に猛り立った時、ただひとり冷静な意見を述べて反対した。
    • この辺のクールさが、情に走りがちな劉備陣営ではやや異質な感じだったのかも。
      • そもそも出兵に反対したという事自体、信憑性が低いけどね。
  4. 三国志演義で脚色された部分を見ても、将としての活躍というより、個人的な武勇伝ばかり。たぶん軍勢を進退させる能力はあんまり無かったと思われる。
    • 実際には劉禅の警護役みたいな立場だったように感じられるんだが、どうかな。趙雲が死んだ時に劉禅が大変心のこもった弔辞を送っているのは確かなようなので。
  5. 昔見た実写映画(タイトル忘れた)では、馬上でバク転してた。
  6. 某ゲームのおかげで美青年という印象が日本では植え付けられたが、劉備達よりも年上だったらしい。
    • 漢中攻略戦の際、敵将が趙雲と聞いた曹操が「あの老いぼれ、まだ生きていたのか?」と述べたそうな。
    • 中国で老将というと彼のことを指すとか。

馬超

  1. 蜀の五虎大将の一人として知られるが、元は西涼に割拠していた群雄である。
  2. 演義では処刑された父・馬騰の仇討ちで兵を挙げるが、正史では逆に彼が兵を挙げたことで馬騰が処刑されている。
  3. CV:服巻浩司
  4. おっかし~なかぶとをか~ぶる~♪


黄忠

  1. 荊州平定後に劉備の配下となった武将。
  2. 演義では五虎大将の一人。正史では関羽、張飛、馬超と同格の将軍に任命される。
  3. 老将として知られており、現在でも老いてますます意気盛んな人を彼になぞらえて「老黄忠」と言うとか。
  4. 弓の名手だったらしい。

魏延

  1. 蜀の将軍で、劉備には絶賛されたが、諸葛亮とは反りが合わなかった。
    • 劉備に絶賛されたからこそ、諸葛亮に疎まれたんだろう。
  2. 諸葛亮の死後、実権を握ろうとして、楊儀と争い処刑された。
    • 要は、蜀の荊州閥の勢力争いに敗れただけ。
  3. 後世の扱いはひどい。
    • 演義では完全に悪者扱い。
    • 実力ある将軍だったのに・・・・・・。
    • 墓をぶっ壊されてその上に線路を敷かれているらしい。
  4. 魏との国境に近い漢中の太守を劉備から任され、大過なく治める。実は行政能力もけっこうあった。
    • 最前線の司令官兼行政官として、魏の攻略法を考案し練り上げていたと思われる。その結果が長安への電撃侵攻作戦だったが、諸葛亮に一蹴される。そりゃ腐るわな。
      • 後世にも、諸葛亮の言い分に理があったと認める人が多いが、魏延の作戦が通っていたらどうなっていただろうか。
        • 実はこの作戦の記述は『魏略』によるもので、信憑性は低い。彼がこの作戦を本当に提案したのかは疑わしい。
        • 仮にも漢を名乗る政権が長安を奪取すると言うことは、諸侯が雪崩を打って寝返る可能性もなきにしもあらずということか?
  5. 困った人を放っておけない、情に厚い人間だったらしい。魏延金だけに。

楊儀

  1. 蜀の武将というより文官。だが文官の項目がないので、ここにした。
  2. 魏延の喧嘩相手として有名。
    • だが蜀建国の頃に上司の劉巴に逆らって左遷されている辺り、よく人と衝突するタイプだったようだ。
  3. 魏延との対比で、魏延が劉備に、楊儀が諸葛亮に抜擢されたと思われがちだが、実は彼も劉備が抜擢した武将だ。
    • しかもかなりの高評価だったようだ。
      • ちなみに最初は関羽に仕えていたが、関羽の推薦で劉備の直臣になったという経歴がある。関羽からも認められていたようだ。
        • 関羽がもてあまして劉備に押しつけたんだと思ってた。
  4. 軍事には素人だったが、事務官としてはチートだったらしい。
    • 軍事チートと事務官チートの対立。孔明も頭を悩ませるわけだ。
  5. 最期は『魏に仕えていたらここまで落ちぶれなかっただろう』と不満を言った『として』、逮捕、投獄され『自殺』した。
    • 楊儀が容疑者になってしまった。

姜維

  1. 諸葛亮が晩年に見出した蜀の武将。
  2. 末期の蜀軍を支え、しばしば魏に侵攻しようとした。
    • ずっと侵攻したがっていたのを、蒋琬や費褘に抑えられていたというのが実情。費褘が暗殺された途端に活発に軍事行動を始めた。
    • このため、三国志演義の読者からは人気が高いが、実際には姜維の連年の軍事行動で蜀の財政が著しく疲弊し、滅亡を早めたとも言える。
      • これが魏の狡猾な計略で、死間として姜維を送り込んでいたとか言うのだったら、びびるがなぁ。
    • 後主・劉禅とその周辺に嫌われたのは主にそのせいで、宦官・黄皓の讒言があったためではない。
    • とはいえ、涼州方面に軍事拠点を作られてしまうと蜀が終わってしまうという現実があったわけで、北伐は別に私利私欲で行われたわけではない。
    • 実際、蜀の存在意義は「魏を倒して漢を復興させる」だから魏への侵攻は間違いではなかったが、内政が整わない状態で侵攻していたのが問題だった。
  3. 魏の鍾会が攻め込んでくるとかなわず降参。口ほどにもないヤツである。
    • あんまりだというので、後世の人は「鍾会に降ったのは計略で、機を見て鍾会を倒し、劉禅を救い出して蜀を再建するつもりだったのだ」ということにしたが、ほどなく殺されているため、そんなつもりがあったかどうかはわからない。たぶん作り話。
    • × 鍾会が攻めてきたので降参  ○鍾会と対峙中に首都の劉禅が降参
    • ちなみに降伏後に鐘会と手を組んで反逆を試みたが、どさくさに紛れて兵士に切り刻まれて殺されてしまった。
  4. の繊
    • 新とも言う。
  5. 死後に腹を切り裂いたら、肝が一升ほどの大きさって・・・。人間ちゃうやろ。妖怪か何かか。

呉の武将

周瑜

  1. 孫策・孫権に仕えた武将。
    • 孫策とは幼馴染みで、しかも相聟(嫁さん同士が姉妹)。
    • 孫策の臨終の時、張昭と共に孫権を託される。
  2. 赤壁の戦いで大活躍。
    • 三国志演義ではしばしば諸葛亮に煮え湯を飲まされるが、実際にはほぼ単独で曹操軍を撃退した。
  3. 劉備を全く信用してなかった。
    • そもそも周瑜と接触した時点での劉備は、ほとんど信用されるに足る履歴を持っていなかったのだから、それもやむを得ない。信用した魯粛のほうが奇特な人と言える。
  4. 三国時代のリア王
    • 本人も「美周郎」とあだ名されたほどのイケメン。
      • 「イケてる周サマ!」というところ。
      • しかも若かった。享年なんと37。
    • 嫁の「小橋」も名だたる美人。
      • 曹操が呉を攻めたのは「小橋」と孫策未亡人「大橋」の美人姉妹を得るためだったというような噂が流れたほど。
    • 音楽にも堪能。
      • 食事の時など、流れている音楽に間違いがあると、振り返って演奏者を睨みつけた。
        • 宴会で酔っ払っていても。人はビビっていたそうな。
    • リア充でもあった。「爆発しろ」と思われていたかどうかは知らないが。
  5. ゲームとかでは、軍師扱いが多いが、どちらかというと将軍だろう。確かに頭脳明晰ではあるが。
  6. 関西弁は似合わなさそう。「天はこの世に周瑜を生んどきながら、なんで諸葛亮も生んだんや!?」
    • 実際には諸葛亮に会ったこともないし、存在も知らなかったらしい。劉備からの使者として名前くらいは聞いたかもしれないが。
      • 諸葛瑾の親族程度の認識はあったんじゃないかな。弟というのまでは知らないまでも。
        • 諸葛亮は赤壁前に外交官として孫権に会っているので、面識ぐらいはあるだろう。
          • 周瑜が孫権のところに召還される前に諸葛亮は帰国していたと思われる。その後の荊州争奪の折りも、諸葛亮が大戦略を立てているとは周瑜は全く気づいていなかった。というか、周瑜は劉備自身を自分より格下に見ていたので、劉備の家来にまで興味を持ったとは考えられない。
            • 関羽、張飛は高く評価していた。劉備に美女をあてがって骨抜きにして、関羽、張飛を自分の部下に引き抜こうとしていたし。ただし孔明は全く気にしてなかった。
  7. 大豆を発酵させて搾った液体。
  8. 周瑜黄巾賊。

魯粛

  1. 孫権に仕えた武将。
  2. 演義などの影響で、頼りなげな文官のイメージがあるが、実際は武官で、頭脳明晰で果断な人物だった。
    • まだ呉に仕える前、周瑜が彼の家を訪問したとき、家にあった蔵のうち半分をそのままプレゼントした。
    • 当時荊州に駐留していた関羽の元に単身乗り込み、領土(荊州南部)を奪い取ってみせた。
      • このとき関羽はぐうの音も出なかったという。
      • 戦わずに勝つという孫子の兵法をまさに体現した人物。
    • 赤壁の戦いの前に、孫権をおどかしたあたりもなかなかの骨っぽさ。
      • 「ワイはええんでっせ。曹操に降伏しても、まあぼちぼちの身分で取り立てられると思いますわ。でもあんさんはどないでっか? もともと大した家柄でもなし、どないして身ィ立てる気やねん」
        これを聞いて孫権は慄え上がり、曹操との対決を決意したと言う。
  3. 惜しむらくは、寿命には恵まれなかった。享年46。あと20年長生きしたら、どうなっただろうか。
    • 息子の魯淑が、魯粛死後ほぼ一年後生まれだというのを逆算すると、腹上死していたのかもしれないとかなんとか。
  4. 金持ちのボンボン。親族から変人呼ばわりされるほどのボンボン気質。

賀斉

  1. 演義には登場しない、呉最強の将軍。
    • 異民族討伐が主な任務だったので、演義では出番がなかった。
  2. いつも少ない兵力で出陣し、勝利を収めた。
    • 異民族の中には、彼の名を聞いただけで震え上がる者も。
  3. 合肥では、魏最強の張遼とぶつかり合い、張遼に奪われた大将旗を奪い返すという戦功を挙げる。
    • この時の張遼のチートな強さを考えれば、賀斉もどんだけ強いんだと。
    • その直後に孫権に説教。
      • 賀斉「おめえは戦下手なんだからもう少し自重汁。」
      • 孫権は「ごめんなさい」と平謝りだった。
  4. 派手好きで、鎧や盾、戦艦などにも派手な装飾を施していたという。

呂蒙

  1. 孫権に仕えた武将。
  2. 無学だったが、孫権に薦められて書物を読むようになり、いっぱしの軍略家となる。
    • 最初「忙しくて本なんぞ読んでられまへんわ」と逃げようとしたが、孫権はしつこく、「忙しいちゅーたらワイのほうがよっぽど忙しいわ。それでもワイはいつも本を手元に置くようにしとるんやで。何も学者になれゆーとるんやない、騙された思て読んでみ」と薦めた。しかも推薦図書まで何冊も挙げた。
    • そんなわけでたぶん最初はいやいや本を読み始めたと思われるが、だんだん面白くなったらしい。
    • この時期「呉下の阿蒙」の逸話を残す。
      • たまたま魯粛と話す機会があり、呂蒙が急に賢くなっていたので驚いた魯粛が「いやはや、呉の街の蒙ちゃんとはもう呼べんなあ」と慨嘆。
      • 「男ゆうもんはな、3日顔合わせんかったら、眼ン玉見開いてよ~く見とかんとあかんで」と逆に魯粛に説教。
        • 頑張ったのはわかるが、この上から目線はなんなんだ。
  3. 関羽を打ち破る。
    • 本人は意外と病弱で、関羽を破って間もなく病死。人々はみんな「関羽様のたたりじゃあ」と大騒ぎ。
      • 呂蒙の霊「ちゃうわ! わしゃその前から病気やったんや! 信じてくれ~!」

陸遜

  1. 孫権に仕えた武将。
  2. 関羽の仇討に燃える蜀軍の迎撃の指揮を執った。
    • はやる諸将を抑えて時を待ち、敵軍の戦線が延びきり疲労の色が濃くなった機を見逃さず一気呵成に責め立て、劉備を白帝城に追い込んだ。
  3. 長年に渡り呉に尽くしたが、後継者争いに巻き込まれて憤死。
    • 蓄財などは感心がなく、死亡時に何の財産もなかったらしい。

その他の武将

呂布

  1. 三国志の武将の中でも、武勇は随一。
    • 演義ではアンタッチャブルな強さ。実際個人でも強かったのだろうが、騎馬民族の部隊を率いていたからとも。
  2. 裏切り者の代名詞的な存在。
    • 本人は裏切っているつもりはなかったかもしれない。
      • 丁原「あいつは乱暴者で悪いヤツだって董太師に言われただ。だから首をとってやっただ」
      • 董卓「あいつは帝を苦しめるひどいヤツだって王司徒が言ってただ。だからこらしめてやっただ」
      • 袁術「身内を全部殺した董卓をおらが討ってやったのに、ちっともありがたがらねえで冷たかっただ。だから出てきてやっただ」
      • 袁紹「なんでおらを殺そうとするだ。こんなヤツのとこには居たくねえだ」
      • 劉備「おらがこんなに良くしてやっただに、ちょこまか動き回っておらを陥れようとするだ。ちょっくらお灸を据えてやるだ」
        • 劉備が袁術の配下の紀霊に攻められた際、仲裁に入って、「おらは戦うのは嫌えだ。人を仲良くさしてやんのが好きなんだ」と言ったのは、案外本音だった可能性もある。
  3. その格好から、ゴキブリと言われることも。
  4. イケメンだったらしい。
  5. 曹操に敗れて捕まった時、「あんたの歩兵とおらの騎兵がありゃあ天下無敵だべ。これでまあ、天下は定まったってもんだ」と本気で言った。曹操もけっこうその気になりかけたが、傍らに居た劉備が水を差したので結局処刑。
    • 呂布はこの時はじめて劉備に嫌われていたことに気づいたのであった。
      • 「こんの、大耳野郎! 裏切ってばかりいんのはおらでねえ、おめえでねえか!」というのが、呂布の絶望を込めた最後の言葉。
  6. 赤菟という最高級の名馬に乗っていた。
    • 「人中に呂奉先あり、馬中に赤菟あり」と称えられた。
    • 演義では呂布の死後、曹操から関羽に贈られたことになっているが、正史にはそんな記述は無い。それに呂布が死んだ頃には、赤菟もかなり高齢だったはず。
      • 関羽が呂布未亡人を欲しがったという話もある。後世の人々は、なんとなく呂布から関羽へいろんなものが引き継がれたイメージを持ったのかもしれない。
  7. 中国での評判は散々。裏切りはともかく、義父を2度も殺しているのが痛すぎる。(儒教的な意味で)