もしあの人が健在だったら/四輪レーサー
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- なお、F1レーサーについてはもしあの人が健在だったら/F1レーサーへお願いします。
浮谷東次郎
- 1967年頃に日産ワークスに移籍し、その後のハコスカGT-Rに乗っていたかもしれない。
- フェアレディZ(2008年~)のCMに出演していた。
- トヨタワークスに残留した場合は、トヨタ7のドライバーとしてCan-Amに参戦していた。
- 2000GT、1600GT、AE86、ソアラ/レクサスSC、MR2、MR-Sの開発に関わっていたかも。
- フォーミュラには転向せず、引退まで「ハコ」にこだわり続けていた。
- 一応ジム・ラッセル・レーシングスクール出身だし、ハコへのこだわりはそんなにないでしょ。むしろイギリスF3参戦が実現していた可能性の方が高い。
- レース引退後はモータージャーナリストに転向。
- 史実の事故で致命傷を負った原因がシートベルトの未着用と見られるため、仮に怪我から回復し生還していた場合、シートベルト着用の重要性を訴えるモータージャーナリストになっていただろう。
- 交通事故防止を呼びかけるCMにも出演していた。
- 免許更新の際の講習会で使われる交通安全ビデオに出演していた。
- あるいは盟友・林みのるに誘われ、童夢設立に参加。
- 自動車雑誌に自身のコーナーが設けられている。
- 盟友である徳大寺氏との対談も定番に。
- 「カーグラTV」での試乗インプレッションも定番となっている。
- テレフォンショッキングに最低1回は出演していた。
- 史実の事故で致命傷を負った原因がシートベルトの未着用と見られるため、仮に怪我から回復し生還していた場合、シートベルト着用の重要性を訴えるモータージャーナリストになっていただろう。
- おそらくル・マン24時間にも出場していたはず。(もし袂を分かっていなかったら)日産ももっと本腰を入れてル・マンでのワークス活動に取り組んでいたはずで、マツダより先に日本車初の優勝を果たしていたかもしれない。
- 所ジョージやヒロミや三木眞一郎ら車好きの芸能人と交友関係を持っていた。
- 土屋圭市の盟友になっていた。
- 漫画「頭文字D」に監修で名を連ねていた。
- 『グランツーリスモ』シリーズの開発にも関与していた可能性も。
- スーパーアグリ設立の際に何らかのメッセージを送っていた。
- 国政選挙に最低1回は出馬していた。
ヤリ・マティ・ラトバラ
- 2010年にローブを圧倒していて連覇を阻止していてダブルタイトルを獲得していたらローブの9連覇はなく4連覇したあとに2018年と2019年に2回タイトルで6回に落ち着いて最多のチャンピオンになっていた。
- マクレーやマキネンやカンクネンの再来と呼ばれていた。
- ナンバー2に甘んじることも無かった。
- 最強ドライバーはローブでもサインツでもなく彼だった。
小河等
- 予定通り92年のル・マンに出場し、トヨタ・TS-010をドライブ。
- (資金の折り合えさえ付けば)94年頃にF1への参戦が叶っていた可能性も。
- 実際はロータスやミナルディなどからオファーもあったが、資金面の問題で断念している。
- トヨタのF1参戦時には監督か何らかの形でチームに関わっていた。
高橋徹
- 確実にF1昇格は果たしていたはず。
- おそらく中嶋悟と鈴木亜久里との間で昇格順が前後していた。
- 片山右京は日本人4人目。以降の日本人F1レーサーの順番は1つずつずれる。
- おそらく中嶋悟と鈴木亜久里との間で昇格順が前後していた。
- 当然、『たった一度のポールポジション』は存在しないことに。
舘信吾
- 1999年は予定通りJGTC(現スーパーGT)のGT500クラスとフォーミュラニッポンに参戦していた。
- 2002年にトヨタがF1に参入したのを機に、F1への参戦も数年ほど経験した。
- その後スーパーGTに復帰し、脇阪寿一らと並ぶエースドライバーとなっている。
- 父上である信秀氏が武者修行と称してインパルもしくはセントラル20の日産系チームあるいはニスモワークス入りを勧める(過去にトムス所属だった鈴木亜久里氏をF3参戦に際してセントラル20入りを勧めたこともあったし)
リチャード・バーンズ
- 04年のスバルはシトロエンとマニュファクチャラー争いを演じていた。
- ヒルボネンはプジョーのセカンドドライバーに収まった。
- 三菱に移籍した可能性も。
- 持ち前の安定感で40歳前後までレギュラーの座に就いていた。
- ラトバラすら破れない最多出走記録を保持していた。
- 撤退までスバルにいた。
- スバルが撤退した後にシトロエンで最後のキャリアを送っていた。
- コリン・マクレーの事故死の際には、バーンズがコメントを送っていた。
萩原光
- F1ドライバーになっていただろう。
- でもフォーミュラでの実績がないから、スーパーライセンスが下りずに参戦断念という中谷明彦パターンに陥るかも。
- とりあえず鈴木亜久里のその後の躍進はなかった。
- ラングレーのCMに出演していたかも、CMコピーは「光がレーサーしない日」
- 日産ワークスの一角として、星野一義・鈴木利男と共にル・マン24時間の名物トリオを形成。
- 92年に日産がデイトナ24時間を制したときにもドライバーを担当。
- 87年にトヨタ陣営に電撃移籍する。
- レイトンハウスはF1に進出せず、萩原と共にJSPC・全日本F3000の中堅どころのチームとして活動。
- アパレルも史実ほどの大ヒットはしないが、逆に今でもブランドは健在。
- R32以降のGT-Rの開発テストドライバーを勤めていた。
福澤幸雄
- トヨタの黒歴史が1つ減っていた。
- 果たして松田和子と小川知子のどちらを生涯の伴侶としていただろうか…。
- ギリシャ人とのハーフで福澤諭吉の曾孫という血筋から、レース引退後は俳優になっていたかも。
- あるいはレース映画などでスタントドライバーを務め、二輪の平忠彦(『汚れた英雄』での草刈正雄のスタントライダー)と相対する存在になっていた。
- 日本人離れしたルックスから、団時朗などの活躍の場を奪っていた。
- 『帰ってきたウルトラマン』の郷秀樹役は団時朗ではなく彼だったかもしれない。
- 『水戸黄門』に最低1回はゲスト出演していた。
- 親族の福澤克雄がプロデューサーを務める『半沢直樹』などのドラマにもゲスト出演していた。
- モータージャーナリストに転向していた場合は上記浮谷東次郎のケースとほぼ同じかもしれない。
- 交通事故防止を呼びかけるCMで、浮谷と共演していた可能性もあり得る。