「王侯伝/中国」の版間の差分

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#*農作業の手を休め、仲間に「おい、偉くなってもお互い忘れんようにしようぜ」と言った。仲間はみんな笑ったが、陳勝は平気な顔で、<BR>「燕雀いずくんぞ鴻鵠の志を知らんや!」とうそぶいたそうな。
#*農作業の手を休め、仲間に「おい、偉くなってもお互い忘れんようにしようぜ」と言った。仲間はみんな笑ったが、陳勝は平気な顔で、<BR>「燕雀いずくんぞ鴻鵠の志を知らんや!」とうそぶいたそうな。
#**現代語訳:「おめーらみたいなクズ野郎共に俺様みたいなBIGな男の考えが分かるかよ!」 DQNだ。
#**現代語訳:「おめーらみたいなクズ野郎共に俺様みたいなBIGな男の考えが分かるかよ!」 DQNだ。
#***実は陳勝が人夫時代の知人が訪ねてきたが、「あいつこんな人間だったんだぜー」と言いまわった結果、その人間を殺したことがある。
#*叛乱を決意した時、仲間たちに向かって<BR>「王侯将相、なんぞ種あらんや!」と焚きつけたそうな。
#*叛乱を決意した時、仲間たちに向かって<BR>「王侯将相、なんぞ種あらんや!」と焚きつけたそうな。
#**現代語訳:「はん!偉い奴がなんだってんだ?俺がその『偉い奴』になりゃ文句ねぇだろ!」 やっぱりDQNだ。
#**現代語訳:「はん!偉い奴がなんだってんだ?俺がその『偉い奴』になりゃ文句ねぇだろ!」 やっぱりDQNだ。

2021年8月9日 (月) 22:27時点における版

バカ人物志/中国

  • 「皇帝」と称さなかった君主。春秋戦国時代の国君は王侯伝/春秋戦国へ。
  • 正史に認められていない自称皇帝もこのページで扱います。

独立項目

古代の王侯

禹王

  1. 夏王朝を築いた。
  2. 黄河の治水にはじめて成功。
    • 自分で歩き回って測量や工事をおこない、大変な苦労をした。
    • そのため、後世ではやや軽侮されるところも。
      • 「えらい人は、自分でからだを動かして働いたりしない」というのが中国人の考え方なので。堯や舜に較べると一段下という感じ。
    • この時地ならしに使ったという重石が、後の如意棒である。
  3. 王位を重臣の「益」に譲ろうとした。
    • 当時の王様は、気苦労が多いばかりで、あんまり実入りのない役職だったらしい。だから子供に継がせようとは思わなかったのだろう。
    • しかし人々は「益」では納得せず、禹の息子の「啓」を押し立てて王様にしてしまった。

桀王

  1. 夏王朝最後の王様。
  2. 頭は良く、腕力もすごく強かったらしい。
  3. 美女「妺嬉」に溺れる。
    • この美女、絹を裂く音(裂帛の響き)が大好きという変な趣味があった。
  4. の最後の王・紂王といろんな意味でキャラがかぶり過ぎ。たぶん紂王より後で作られたキャラと思われる。

湯王

  1. 夏の桀王を倒し、王朝を築いた。
  2. 桀王に呼びつけられて「夏台」というところに幽閉されたが、奇蹟の復活。
  3. の文王といろんな意味でキャラがかぶっている。
  4. 人々が3年越しの干魃に苦しんでいるのを見て自分の不徳を恥じ、我が身を生け贄にして雨を呼ぼうとした。
    • 薪の山に伏して火をつけさせた。湯王の衣服に火が燃え移る寸前に雨が降り始めたそうな。
    • 伝説とはいえ、民のために我が身を犠牲にしようとした殊勝な帝王は中国史上彼ひとりだけ。天子や君主の徳ということを、歴史を通じてやかましく言い続けたにしては寂しい限りである。

武丁

  1. の22代目の王様。
  2. 殷王朝の中興の祖と呼ばれる。かなり衰えていた殷王朝の力を盛り返し、版図を拡げた。
    • 「高宗」という、なかなか良い宗廟名を贈られた。
  3. 文字を作ったのもこの王様の命令によるものだと言われる。
    • 甲骨文字史料が、武丁以前のものは発見されていないため。もちろん、今後発見される可能性はある。
  4. 奥さんも軍勢を率いて征戦に赴いたらしい。
    • 「婦好」という人。「婦」は殷では最高の爵位で、特別な王后にだけ与えられた。

紂王

  1. 王朝最後の王様。「受」王というのが正しいらしい。
  2. 頭は良く、腕力もすごく強かったらしい。
  3. 美女「妲己」に溺れる。
  4. 酒池肉林、炮烙の刑、沙宮の動物園の造営など、独創的なイベントを数々考案している。
  5. 長らく暴君の代名詞みたいな存在だったが、最近になって少し見直されている。
    • 甲骨文の解読などにより、今までと違った人物像が見えてきたため。
    • 実は信心深く、なおかつ果断に政治改革を試みた王様だったとか。
    • 殷の故地とも言える東方で叛乱が相次ぎ、それを鎮圧しようと兵を向けている隙に、西から進出したに足下をすくわれたというのが真相らしい。
      • 現政権が前政権の悪い話を捏造するというのは(特に中国では)よくある事なので、この人が暴君という話もそうなのかもしれない。

文王

  1. を倒すお膳立てをしたが、実は王位にはついていない。
    • 生前の呼び名は「西伯昌」。文王というのは息子の武王からの追号。
  2. 紂王に呼びつけられて「羑里」というところに幽閉されたが、奇蹟の復活。
    • 幽閉中、暇にあかせて易学の研究をしていたらしい。
  3. 太公望を見出し、軍師として重用する。
  4. 天下の諸侯のうち3分の2が帰服したので、いよいよ殷を倒そうと乗り出しかけたところで自分も死んでしまう。

武王

  1. 文王の次男。
    • 兄の伯邑考が紂王に殺され、スープにされてしまったので、急遽文王の後継者になった。
  2. 太公望の策を用いて、牧野で殷軍を撃破、を亡ぼす。
  3. 気苦労が多かったのか、天下を取って間もなく没。

幽王

  1. の12代目の王様。
  2. 美女「褒姒」に溺れる。
    • この美女、間違いの狼煙で集まってきた諸侯の軍勢がきょとんとしているところを見た時だけ笑うという変な趣味があった。
    • 幽王は彼女を笑わせようと、何度もフェイクの狼煙を上げ、諸侯の軍勢に無駄足を踏ませた。
    • おかげで、本当に敵が迫った時、いくら狼煙を上げても軍勢が集まらず、ほうほうの態で逃げ出す。
    • イソップの狼少年そのまんまのエピソード。
  3. 正室「申后」の産んだ王子「宜臼」を太子にしていたのに、褒姒の子に取り替えようとしたので、申后の父「申公」が激怒し、異民族「犬戎」を引き入れて幽王を攻撃。
    • 前項の通り軍勢が集まらず、幽王は逃げ出したが、やがて捕まって殺される。
    • 申公は宜臼を立てて「平王」とし、外祖父として権勢を振るおうとしたが、犬戎が思ったより獰猛で、首都・鎬京を荒らし尽くしたので、平王ともども逃げ出さなければならなくなった。
    • かくして「西周」は滅亡。以後は首都を東に遷して「東周」となる。


春秋戦国後の王侯

陳勝

  1. 帝国に初めて叛旗をひるがえした男。
    • ちなみに反乱の動機は、「徴用に行く途中に雨が降って、期日に間に合わなかったから」(当時の法律では「期日に間に合わないと死刑」となっていた)
  2. 元は日雇い人夫だが、けっこう偉そうなことを言っていた。
    • 農作業の手を休め、仲間に「おい、偉くなってもお互い忘れんようにしようぜ」と言った。仲間はみんな笑ったが、陳勝は平気な顔で、
      「燕雀いずくんぞ鴻鵠の志を知らんや!」とうそぶいたそうな。
      • 現代語訳:「おめーらみたいなクズ野郎共に俺様みたいなBIGな男の考えが分かるかよ!」 DQNだ。
        • 実は陳勝が人夫時代の知人が訪ねてきたが、「あいつこんな人間だったんだぜー」と言いまわった結果、その人間を殺したことがある。
    • 叛乱を決意した時、仲間たちに向かって
      「王侯将相、なんぞ種あらんや!」と焚きつけたそうな。
      • 現代語訳:「はん!偉い奴がなんだってんだ?俺がその『偉い奴』になりゃ文句ねぇだろ!」 やっぱりDQNだ。
        • もう少しきちんと訳すと「偉い奴も庶民も関係ない」というか、家柄がどうこうじゃない当時の下剋上の風潮を表した言葉だとかなんとか。
  3. 挙兵して間もなくけっこうな大都市の「陳」を落としたのでここを本拠にし、「張楚」という国号を建てて「陳王」を名乗る。
    • 項梁・項羽や劉邦たちも、まずは陳勝に合流しようとしたらしい。各地の叛乱軍の希望の星っぽかった。
    • 千葉さんが千葉市を落として「新江戸」を号して「千葉王」を名乗るようなもん?
      • 千葉市を落としたから千葉さんになった、という説もある。あるいは、千葉に住んでたから千葉さんと呼ばれた、という説もある。根っからの庶民なので、姓なんかよくわからんのである。
  4. 半年で没落。
    • 昔の仲間を大事にしなかったり、無茶な作戦を決行したりしたためだが、一番の原因は兵糧の欠乏。
    • 「王侯将相いずくんぞ種あらんや」と言いながら、王様の子孫を担ぎ出さなかったので人々の支持を集められなかったため(史記にも書いてある)。

楚の懐王(その2)

  1. 楚の懐王(その1)の孫。
    • 「子供の子供」という意味の「孫」なのか、「子孫」という意味なのか微妙。
    • そのため、推定年齢は人によってバラバラ。
      • 項梁に擁立された時、20そこそこの若者だったという説と、けっこう年配の人物だったという説がある。
  2. 楚が亡びた後、人に雇われて羊飼いをしていたが、帝国に叛旗をひるがえした項梁によって楚王に擁立される。
    • 懐王(その1)が秦になぶられ続けたことが、楚人にとっては痛恨の記憶で、秦への敵愾心をあおるために同じ「懐王」の王号を与えられた。
  3. いかにもな傀儡だが、項梁が戦死すると多少自主性を見せる。
    • 「最初に関中を落とした者を関中王とする」と宣言。これにより楚漢戦争のきっかけが生まれる。
  4. 楚軍を掌握し、関中に入った項羽により、「義帝」の名を贈られる。
    • もちろん有名無実。南方の僻地を所領として与えられただけ。
    • しかも、泣く泣くその僻地へ向かう途中、黥布に殺される。何やってんだか。

項羽

  1. 楚の名将・項燕の孫。叔父・項梁と共に帝国に叛旗をひるがえす。
  2. 叔父の戦死後、懐王によって宰相の宋義の下につけられるが、宋義を斬って全軍を掌握。
  3. 秦の将軍・章邯を破り、関中へ突入。秦を滅亡させる。
    • 関中へは先に劉邦が入っていたが、これを圧倒。
      • 劉邦を殺す一歩手前まで行ったが、いわゆる「鴻門の会」でそのチャンスをフイにしてしまう。
    • 勝手に論功行賞。もう懐王のことなど念頭に無かったらしい。
      • 劉邦に対しても「懐王の約束どおり『かん中』をあげてもいいけど、関中じゃなくて漢中でーすw」と。
    • 自分は「西楚王」になった。わりと遠慮した観がある。
      • が、人々は西楚王とは呼ばず、「項王」と呼んだ。
  4. とにかく戦闘に強かった。
    • 劉邦は何度戦っても負けてばかりいた。
    • そればかりでなく、各地で叛乱が起きると、どんな相手でも確実に叩きつぶした。
      • とはいえ、敵の軍勢を粉砕しても、敵将を取り逃がすことが多かった。このためいつまで経っても叛乱が絶えなかった。
  5. 百戦百勝していたのに、補給に無神経だったのが災いして兵を飢えさせ、最後は見放される。
    • その結果、小城に押し込められ、包囲軍からは故郷の楚の歌が。「四面楚歌」の語源。
      • 最期の時を目前に控えても「負けるのは俺が弱いからじゃなくて、天が俺を負かそうとするからだし」と言った。DQNのような男である。
        • だが故郷へ逃がそうとしてくれた人に対しては「こんな体たらくで故郷へ帰って再起を図ったところで恥になるだけ」と断った。最後までプライドの高い男である。
    • 「百戦百勝するは善の善なるものにあらず」という孫子の言葉を立証してしまった人と言える。
      • 勝と降伏兵を虐殺したとか
        • そんなもんだから、当然人の心を掴めるわけもなく、意図的に逆のことをやった劉邦のほうに味方が集まっていくことになる。
  6. 「羽」は字で、名は「籍」。
  7. 名将・韓信は劉邦に対して項羽のことを「匹夫の勇、婦人の仁(教養もなくて喧嘩っ早い癖にしょーもないことで情に流される、みたいな意味)」と言った。
  8. 劉邦のライバルとして描かれているが、何気に劉邦とは20歳ほど離れている。
  9. 戦うのが大好きという印象だが、本人は別に武勇の人でもなく好きなのは兵の指揮。そのわりに頭脳派のイメージはないという結構変わった人間。
    • 指揮統率は大得意だけど作戦立案はからっきし、というところか。

劉濞

  1. 前漢初期の呉王。高祖の甥、恵帝・文帝のイトコにあたる。
  2. 文帝時代、長安に訪れた際、息子を皇太子(のちの景帝)に殺され、皇室に対して恨みを持つ。
    • 双六のルールのことで言い争った挙げ句、双六盤で殴り殺されたらしい。どっちもどっちとしか。
  3. にっくき景帝が即位し、しかも封土削減を申し渡されてぶち切れ、仲間を募って挙兵。いわゆる呉楚七国の乱を引き起こす。
    • 当初はけっこう強勢で、長安も危ないと言われた。
    • 周亜夫将軍の丹念な攻略が無ければ、本当に長安を覆していたかも。
      • 洛陽で勢力を持っていた侠客・劇孟が呉王軍に通じていないとわかって、周亜夫は胸を撫で下ろしたと言う。当時の893の力は正規軍もあなどれないものだったらしい。
    • 結局仲間に裏切られて、名も無き刺客に暗殺される。以後、皇帝の下の「王」は実質の伴わない名誉称号みたいなものになってゆく。
    • それ以前からも野心家として有名で、皇帝にすら直諫する袁盎が宰相に就いた時、身内から「いつもの調子で諫めるな。たまに『謀反すんな』とだけ言っとけ」と釘を差されるほどであった。

更始帝

  1. 字面と響きが似ているが、始皇帝ではない。
  2. 本名は劉玄で、の皇族。
  3. に対する叛乱軍のひとつ、緑林軍に担ぎ上げられて皇帝を称する。
    • そして実際、王莽を倒して新を亡ぼしてしまう。本来なら次の王朝の創始者となるところだった。
    • しかし長安を取ってからいきなり気がゆるんで贅沢し放題。それだけならともかく、急に猜疑心にかられて功臣を粛正しはじめたので、謀反を起こされて長安を追い出される。
    • 別の叛乱軍である赤眉軍に頭を下げてかくまってもらったが、結局お荷物になって殺されてしまう。
    • 天下は更始帝の部将であった劉秀の手に。劉秀は後漢の光武帝となる。

袁術

  1. 後漢の皇帝が健在の中、淮南に「仲」という国を立て皇帝を名乗った人物。
  2. ただの「勝手に皇帝を名乗った男」では箔が付かないせいか、演義において孫策から実質的にぶん取った伝国の玉璽がトレードマークとされることも多い。
  3. 奢侈を好んだので末路はお察しください。
  4. 状況次第だと、兄とも平気で対立関係に。
  5. 袁紹は従兄。その袁紹が袁家の後継というイメージがあるが、実は袁術が嫡流。

曹操

  1. 言わずと知れた三国志の英傑。
  2. 事実上魏王朝の創始者だが、自分は帝位に就かず、魏公から魏王になったことで満足した。
    • ただし、では元来、劉姓でない者が王になることを禁じていたので、これだけでもかなりヒンシュクを買った。
      • 劉姓以外で王になったのは、初期を除けば、簒奪してを開いた王莽だけだったので、曹操も簒奪の野心アリアリとみんなに思われた。
    • 「わしは周の文王であればよい」とあくまで漢の臣下であろうとした、と言われている。が、このセリフ、息子の代で新しい王朝を作るという宣言に取れなくもない。
    • 司馬光にいわせると「光武帝や明帝、章帝の威光が凄すぎて曹操でも漢王室は無視できなかった」。要するに日本の天皇と将軍みたいな関係だったわけである。
  3. 父親が宦官・曹嵩の養子となったので、曹操も「宦官の孫」とバカにされたが、もちろん本当の孫ではない。
    • 元々は夏侯嬰の一族だった。そして養子に行ったところは曹参の一族。どっちの一族も名門中の名門。
  4. 文化人としても一流。
    • 多くの詩を残している。漢詩がメロディーを離れて、独立して「読まれる」ものになったのは、曹操とその取り巻きたちの作品から始まるとされている。
    • 兵法書「孫子」を校訂した。現代に伝わる「孫子」はすべて曹操版を元にしている。
      • 実は孫子に仮託して曹操自身の見解が数多く述べられている可能性もある。
  5. 三国志演義で悪のラスボス扱いされ、ずっと不人気だったが、近年になって見直されている。
    • 南北朝時代にはすでに悪役として定着していたらしい。演義が悪役に仕立て上げたのではなく、あくまでそれまでの通俗評価に従ったまでのこと。
    • 近代に入って最初に積極的な評価を下したのは魯迅。講演速記が残っている。
      • もっとも、庶民レベルでは元から人気があったっぽい。民からすれば、帝位を簒奪しようが儒家に何をしようが、優れた人物や良い統治者は好き、ということらしい。
  6. ラスボスだけに強敵でなければ面白くないので、良くも悪くもものすごい大人物としての印象が確立しているが、案外と小心な律儀者だったという説もある。
    • 「蒼天航路」で描かれていた曹操像も、ラスボス視の裏返しに過ぎない気がするんだよね。「魔王側から見たRPG」みたいな。
    • よく考えると、赤壁戦後ついに長江を渡ることはできなかったわけだし、魏王にとどまったのもワルになりきれない優柔不断さが感じられたりする。
      • 袁紹の残党がうるさくて動きがとりにくかったんじゃないのかなぁ。そうでないと、袁紹の根拠地ギョウに長くいないだろうと思う。
    • そもそも背丈が小さい背の低い小男という話がある。
      • 周辺の人物がやたらデカい可能性もある。
  7. よく泣く性格だったらしい。涙そうそうだけに。
  8. 儒教による統治から法による厳格な統治への転換を図った異端児。

司馬懿

  1. 晋の宣帝。
    • 本人は帝位に就いていないが、孫が晋を建国し帝位に就いたので、この称号がついた。
      • 帝位どころか王位にすら就いていない。それどころか仕えていた魏の丞相就任も固辞していて、最終階級は太傅だった。
  2. 三国志で、諸葛亮のライバルとして有名。
    • それゆえに、後期最大の敵として書かれている。それゆえにネタも豊富。
      • 「あわてるな、これは孔明の罠だ」と言いながら慌てる素振りが、よくネタにされている。
    • 「死せる孔明(諸葛亮)、生ける仲達(司馬懿)を走らす」という故事が有名。
      • 本人の生前から言われていたらしい。本人は平然として「いや、生きているヤツのことはわかるが、死んだヤツが何を考えているかはわからんからな~」と答えたとか。
    • 五丈原の戦いの後で蜀軍の陣地跡を見て「諸葛亮こそ天下の奇才」と評したらしい。
  3. 首が非常に柔軟で、真後ろを向くことができたらしい。まるでフクロウ。
    • 子孫が後に簒奪したことを考えると、梟雄という言葉がよく似合う。いろんな意味で。
  4. 軍師的なイメージがあるが、実は武官である。
    • しかし、最初は文官からのスタートだった。
  5. じっと我慢の子であった。
  6. 彼の長男の司馬師、次男の司馬昭を経て、孫の司馬炎の時に魏を簒奪して晋を立てたので、「4代にわたって簒奪を狙っていた腹黒い男」と解されているが、司馬懿本人にそこまでの野望があったかどうかは微妙。
    • 行動を見る限り、むしろ異常なまでに保身の感覚が鋭敏な男だったように思える。ヤバいと見るとすぐに身を引いて害をのがれる機敏さがあり、その辺が後から見ると腹黒さに見えたのではなかろうか。
      • とはいえ、そもそもはほぼ強引に仕官させられているんだよなぁ・・・このお人。
      • 三国志演義では身を引きすぎるところを諸葛亮に逆に利用される場面もある。
  7. ボケ老人のフリをして曹爽らを油断させた後にクーデター。芝居上手である。
    • その時点でジジイ数え71歳なのでジジイなのは確か。
  8. 子孫はクソばっか。
    • 息子二人はまだよかった。孫からおかしくなってゆく。

李自成

  1. 王朝にとどめを刺し、「順」という国号を立てて皇帝となったが、にボロ負けして三日天下で終わった男。
  2. もとは駅夫だった。
    • いまで言えばJPとJRを合わせたような組織の従業員。
    • 崇禎帝の仕分け作業で失業し、同じ失業者仲間を糾合して革命を起こす。
      • 運輸業者なので、
        1. 荷物を盗賊から護るため武装している。
        2. 同じく、荷物を運んだり護ったりするため集団になっている。
        3. 広域にわたる同業者のネットワークができている。
        • というわけで、そのまま暴動を起こしやすい状況になっていた。
  3. 中国では「闖王(ちんおう)」と言ったほうが通じやすい。
    • 皇帝になる前、盗賊の首領だった頃のあだ名。
  4. 17世紀という近世の人物なのに、いろいろ伝説が多く、実像がつかみにくい。
    • 李巌という名軍師が居たことになっているが、どうも架空の人物らしい。
    • 「滎陽大会」という、盗賊首領たちの一大サミットを主宰したことになっているが、こんなイベントは無かったらしい。
    • 現代中国の作家・姚雪垠が、集大成したような大河小説を書いたが、中共政府におもねって完全無欠の英雄としたため、かえってわけがわからなくなっている。
  5. 国境を護っていた呉三桂将軍を味方に引き入れようとしたが、その前に北京にいた呉三桂の愛妾・陳円円を取り上げてしまっていたので拒否され、しかも清軍を引き入れられてあっという間に壊滅。
    • 逃げに逃げ、最後は家来も四散して、自ら食べ物を見つけてこようとしたところ、土地の自警団に叩き殺されるというみじめな死をとげた。

洪秀全

  1. 後期に広東・広西を中心に「太平天国」という独立政権を建てた男。
  2. キリスト教のパンフレットを読んだことがあり、突如啓示を受けて自分が「エホバの次男」かつ「イエスの弟」であることを悟り、新興宗教を起こす。
    • いかにもうさんくさいが、当時の無学な庶民に圧倒的な支持を受け、たちまち数十万の信徒を獲得して南京を占領、清朝転覆を図るに至る。
      • 要するに麻原彰晃みたいなヤツだったような気がする。
    • 「皇帝」ではなく「天王」を名乗ったあたりが、ちょっとキリスト教風ではある。
  3. 布教の便宜のため、幹部の楊秀清にエホバが憑依して託宣を下すという設定にしたが、これが仇となり、のちに洪秀全と楊秀清の間が険悪になる。
    • 楊秀清がエホバの憑依を笠に着て好き勝手始め、洪秀全をないがしろにしたので、他の幹部に指令を下し誅殺。
    • しかしこの頃を境に、内ゲバが頻発して太平天国はガタガタに。
  4. 太平天国を退治するために派遣された曾国藩は、正規兵が役に立たないので、湘軍という私兵団を作り上げる。これが曾国藩の死後李鴻章に引き継がれて北洋軍となり、さらに袁世凱・蒋介石と引き継がれて民国軍の母体となる。
  5. 最後は病死というか餓死というか。
    • 南京城内の食糧が底をつき、「もう食べるものがありません!」と部下に報告された洪秀全、「甜露(雑草)を食べるのだ」
      部下「そんなもの食べられません」
      洪秀全「なにぃ、それは信仰が足りないからだ。見てろ、ワシが食べてみせるから」
      その後彼は雑草だけを食べ続けて死んだという。
  6. 洪秀全の死後まもなく南京は陥落。この時攻撃側によってものすごい虐殺暴行略奪がおこなわれた。
    • 中国人のいわゆる南京大虐殺はこの時のイメージが元になっているらしい。

袁世凱

  1. 本当の「ラストエンペラー」は愛新覚羅溥儀ではなく、この男。
    • 中華民国大総統の座を孫文から奪ったあと、御用学者に「中国には共和制は適さず、帝政が適している」という論文を出させ、皇帝に即位した。
    • が、諸外国から認められず、内部からの突き上げも激しくなって、数ヶ月で退位。間もなく死亡。
    • 後世の歴史家からも、皇帝と認められる可能性は薄い。まあ李自成クラスの自称皇帝扱いだろう。
      • こいつが皇帝として認められていたら満州国の傀儡政権も同様に認められそうな気がする。
    • その皇帝当時、「真の皇帝以外は天井の宝玉が頭に落ちてくる」という伝説のある部屋で、その宝玉が落ちるのを怖がって、落ちても大丈夫なように、座る位置を変えたという。本人も正当性には自信がなかったと言うことか?
    • 溥儀が袁世凱の死後、張勲による復辟騒動で、重祚しているはずだから、袁世凱がラストエンペラーというのは、違うのではないのか?
  2. 日清戦争の時には朝鮮王室の黒幕として権謀をふるった。日本側もかなりこの男に振り回された観がある。
  3. 中国人が今でも日本を罵る時に挙げる「対華21ヶ条要求」はこの男の演出らしい。
    • 実は「要求」の大部分が、それまでの既得権益の確認に過ぎず、新たな要求はせいぜい4ヶ条くらいだったとか。それを袁世凱は「日本は(第一次)大戦で列強の眼が届かないのをいいことに、21もの無理難題を突きつけてきやがった」と諸外国に訴えて同情を引こうとした。
    • 結局諸外国はどこも反応せず、彼の意図は不発に終わったが、国内向けには効果抜群。極悪非道な日本人の像が定着した。
    • 今に至るまで中国人の日本非難の口実となっているのだから、ある意味袁世凱の大いなる遺産であったと言えなくもない。
      • 日本人の中にも、真に受けて反省やら謝罪やらしたがるヤカラが少なからず居るので要注意。歴史の教科書にもたいてい「戦前の日本のゴーマンさの好例」として出てくるのではないかな。