征夷大将軍/江戸時代

< 征夷大将軍
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江戸時代

江戸幕府の将軍

  1. ところで、将軍は本当に「殿!殿ー!」と呼ばれていたのか?
    • 「上様」では??
    • 「殿」=「城主・領主」って意味らしい。だから大名から旗本まで、「殿」は全国にたくさんいた。
  2. 「副将軍」という官職が正式にあったと思う人は多い。
    • 水戸のご老公とか。
    • 伊達政宗もそう称してましたな。
    • 実質的なその役目は大老(老中)だったが。
  3. 徳川家○な人が多い。歴代将軍の7割を占めている。
    • 家光以後、前将軍の直系の後継者には「家」がつけられている(家綱・家継・家重・家治・家慶・家定)。
      • 明治以後は一華族、戦後は一般国民だが、徳川本家では現在でもこの命名法が生きている。
        • 今の当主は傍系(それでも一応は家康の直系)から婿入りしたので全然別の名前だが、後継者(長男)にはやはり「家」の字がつけられている。
    • 傍系でも、わりに若い頃に後継者に指名されていた人には、元服時に「家」がつけられたり改名したりしている(家斉・家茂)。
      • ちょいと待て。家茂はもともと慶福。将軍になったときに改名。
    • けっこう大人になってから将軍になったが、改名した人も居る(家宣)。
    • 「家」がついていないのは4人。
      • 秀忠の頃は、まだ「家」が通字になっていなかった。家康の子で「家」のついた人はひとりも居ない。
      • 綱吉・吉宗・慶喜は傍系で、壮年になってから将軍になり、改名しなかった。

歴代将軍様の噂

徳川家康

  1. 家康、鯛の天ぷらの食い過ぎで食中毒にかかり死ぬ。
    • 食中毒なんて健康オタクの家康らしからぬ死に方だ。実際は胃癌との説が濃厚らしい・・・。
    • でも、実際に70過ぎまで生きたんだから、当時は大往生と言っても良いよな。
  2. 経営者たちにもっとも人気がある歴史人物。
    • 腹黒いところはあんまり見習って欲しくないなあ。
    • 中国の経営者・サラリーマンにも人気らしい。(この局の番組で出ていた。)
  3. 徳川家が政権を世襲することを示すため、さっさと秀忠に譲位。
    • しかし、それなら自分は陰に回って秀忠を立てればよいものを、いつまでも大御所として出しゃばり続ける。どういうつもりなんだか。
    • これについては「豊臣家の問題を自分の代でなんとか片付けて、息子に楽させたい」と好意的な見方をする人もいるにはいる。でも大半の人はこの時点で腹黒い狸親父のイメージ確立。
    • 大御所家康と同じように、信長は信忠に、秀吉は秀次に、その在世中に家督および公的な地位を譲りかつ実権は握り続けていたが、この点で腹黒さを誹謗されるのはなぜか家康のみ。
      • しかし秀次を族滅した秀吉に比べると、自らの正妻と嫡子を殺し次男を冷遇し三男に家を継がせた家康の場合、その点ではあまり非難されていない。
        • 信康と築山殿は信長の命令でしょうがないし秀康は気まぐれで手をつけてた奥女中との子だからなぁ。
  4. 実は,武田信玄との戦いで敗れ、アレを漏らしたことで有名。
    • しかも、その直後の情けない顔をわざわざ絵師に描かせる物好き。
      • あの絵は、見るたびに無謀なことはするまいという自戒の為に描かせたそうだけど。
    • その後で餅を食い逃げしたとかしなかったとか。
  5. 無類の健康オタクとして有名。
    • 事実上の首都を秋葉原近くにおいた。
    • 医師を信用せず、常に自分自身で調合した薬を服んでいた。
      • おそらく医学的知識は当時の医師の誰よりも豊富だったが、その知識を人々のために役立てようという意識はこれっぽっちもなく、ひたすら自分の健康のみを冀(こいねが)った。
      • 一応、孫のために薬を調合したりしている。
      • 死んだ時も、自分で調合した薬しか服まなかったので治療が間に合わなかったという話。
    • いつからそんなに詳しく知るようになったのか。家康七不思議の一。
  6. 終生のライバルはサナダ虫だった。
    • サナダ虫一家の長男に女狐(実は重臣の娘)を娶わせて飼いならすことに成功、だが父親には再三翻弄され、次男には危うく槍で刺し殺されそうになる。
      • 大阪夏の陣であやうく爆死されそうになったとか。
  7. 俺の大名を斬首するなどひどいことするねぇ・・・・
  8. 東照宮の神様。
  9. 江戸幕府を開いた。
  10. 暴れん坊将軍のひいお爺さん。
    • ついでにあっちのほうもかなり暴れん坊だったらしい。
    • 子供は十一男五女。別名「三河の後家殺し」(コーエーの攻略本より)
  11. 耐えて忍んで我慢して、最後に笑った人。
    • 「織田が捏ね 羽柴が搗きし天下餅 すわりしままに食ふは徳川」と狂歌にされた。
  12. この人の最大の武器は、長寿だったことだろう。
    • そりゃあ75歳まで生きりゃあねぇ。20代~40代で死んでることがごく普通で、60まで生きられることすら稀なあの時代にあっては…。
  13. 信楽焼の物が有名。
  14. いちゃもんをつけるのが好き。
  15. 死ぬ間際に豊臣を潰した。
  16. 名古屋から美女という美女を悉く江戸に連れて行ったために、名古屋に残された女性はみな×××××になってしまったらしい。
    • 家康がいつ名古屋にいたんだ?それを言うなら浜松だろ。
      • 某ドラマで東京もんがそう言っとった。
    • 北常陸から秋田へ行った殿様でも同じ話があるねえ。
  17. 春日井市民は「勝川」の名付け親だと思っている。
    • 厳密には戦の途中で立ち寄った「かちがわ」の「かち」に、縁起を担いで「勝」の字を当てたと伝承されている。
  18. 自称源氏。まあ、噂の域を超えているが。
  19. 江戸→東京だけでなく、今日の名古屋および大阪の街の原型をつくったのも実質的にこの人といえる。
    • 「大阪=商都」ってのは、江戸幕府の政経分離政策の結果。堂島・天満・船場などもこの時代から生まれている。
    • 名古屋は清州越しで著名に。

徳川秀忠

  1. パパ家康の存在感の陰に隠れて、けっこうえげつないことをしている人。
    • 大名家のお取り潰しは、秀忠の治世中がいちばん多い。
    • パパの影に隠れて目立たずに後を継いだため、しがらみがなかったからと思われる。
      • 福島正則が改易されるときのコメント、「先代なら言いたいこともあるが、当代ではどうしようもないわ」が象徴している。
  2. 恐妻家と言われているが、それも偽装っぽい。
    • そうかな。妾はいなかったし、うっかり女に産ませた保科正之とはだいぶ大人になるまで面会しなかったし・・・。
  3. 隆慶一郎の小説では必ず悪役のボスになっている。
    • 柳生宗矩を片腕にして陰謀の限りを尽くす。
    • 正室の於江の方も悪役。
  4. 将軍にはなったが、源氏の長者にはなってない。
  5. 石高10万石にも満たない小大名の真田幸村に喧嘩を売ったがあっさりと負ける。それが原因で関ヶ原の戦いには間に合わなかった。(藁)
    • しかも部下は徳川の主力部隊。そのせいで家康は論功行賞で外様大名に大盤振る舞いせざるをえなくなる。
      • 彼が大名を潰しまくったのは、それを挽回するためかもしれない。
      • 家康が亡くなってから時をおかずに、弟・松平上総介忠輝を越後高田から秋田へ転封させた。
    • 大名なのは幸村の親父の昌幸。念のため。
      • 上田城外戦では勝っていたが、それを罠だと気付かず、城内にうまく引き込まされて真田伏兵団にボロクソにやっつけられた。
    • これに懲りた秀忠は、大阪冬の陣では江戸から伏見を17日で移動するという強行軍を決めて遅参せずには済んだのだが、今度は兵が疲れまくって戦えなくなってしまい、汚名返上どころか汚名挽回という結果になっている。

徳川家光

  1. ホモだったので周囲を心配させた。
    • おかげで大奥が出来たわけで。
    • ようやく抱いた最初の女は尼さん。中性的な感じが、導入には良かったんでしょうね。
      • その後も「尼さんプレイ」が大好きだったとか。
    • 正妻は完全な政略結婚だったため、冷え切った夫婦仲どころか半軟禁状態。
  2. 親父の秀忠が嫌いで、「徳川家2代目」を名乗り、秀忠の治世を無かったことにした。
    • 源氏の長者としての2代目だったのは本当。
    • この頃までは、全国の武士を支配する根拠は「征夷大将軍」ではなく「源氏の長者」の地位だったという説もある。源氏の長者にならなかった秀忠が、なんとなくみんなから軽く見られていたっぽいのもそのせいかも。
    • 一方祖父の家康が大好きで東照宮を作った。また、自分と似た境遇の伊達政宗を重宝していた。
  3. 名君説と暗君説があるが、俺は名君説を支持したい。
    • 「将軍家光忍び旅」(テレビ朝日)を見てなんとなくそう思いたくなったのは内緒。
    • 夜な夜な変装して辻斬りにいそしんでいましたが・・・、名君?。
  4. 江戸四大飢饉のうちの一番初め、「寛永の大飢饉」発生。
  5. 長七郎の伯父さん。
  6. 実は、織田信長の姪の子供。織田家の血筋も入っている。
    • 浅井長政も忘れないで。
  7. 青山忠俊とのエピソードは完全に家光が手玉に取られた感がある。
  8. 家光時代の幕閣は、秀忠時代からの土井利勝に加え、「知恵伊豆」松平信綱、初代会津藩主保科正之、阿部忠秋、酒井忠勝と多士済々。
  9. 御三家の尾張義直とは険悪な仲であり(義直は謀反の嫌疑までかけられている)、紀州頼宣とも微妙な関係であったらしい。逆に水戸の頼房とは一緒に夜遊びに感けるなど良好な仲であった。
  10. 暴君ネロもびっくりするほどのキリスト教徒の大粛清を行った。
    • いつヨーロッパから十字軍が来てもおかしくなかった状況だったが、同じころドイツで三十年戦争があったおかげで堂々と粛清できた。
    • 宣教師が「殉教しろ」と命じたこと、日本の信者の質が高かったことも要因。キリスト教の歴史を見てみれば、島原の乱以外に反乱が起こらなかったのは奇跡。その島原の乱も半分はキリスト教と関係ない浪人だったみたいだし。

徳川家綱

  1. 大老・酒井忠清の言うなり。なんでも「そうせい」と許可したので「そうせい公」と渾名された。
    • 幕末の毛利敬親も「そうせい侯」と呼ばれた。
      • 毛利の方は、伊藤博文や井上馨などを輩出するなど、呆れるほど上手くいった。
        • 毛利は殿様が口をはさむと優秀な人材が伸びないと思ったからそうせいそうせいと言っていたらしい。いわゆる放任主義というやつ。ただ、重要な場面は全部敬親が決断していたそうだ。
  2. 家光の長男。産まれてすぐに「後継者」として育てられる。
  3. 幼少期時江戸城天守閣へ登った際近習の者が遠眼鏡をすすめたが、「自分は少年ながら将軍である。もし将軍が天守から遠眼鏡で四方を見下ろしていると知れたら、おそらく世人は嫌な思いをするに違いない」と遠眼鏡を手に取らなかった。
    • 島流しになり、流人となった者の話を聞き、家綱は「彼らは一体何を食べているのだ?」と側近に尋ねたが誰も答えられず、それに対し家綱は「命を助けて流罪にしたのに何故食料を与えないのか?」と言った。それを聞いた父の家光は喜び、「これを竹千代(家綱)の仕置きはじめにせよ」と家臣に命じ、流人に食料を与えるようになった。
  4. 外様大名などに一定の配慮を行なった(末期養子の禁を緩和等)
    • そりゃ将軍就任早々に「由比正雪の乱」が起こってるからな。
      • エピソードを見る限りかなり優しかったんだね。お父さんと違って。

徳川綱吉

  1. 犬公方。
    • 犬を特に保護したのは自分が戌(いぬ)年だったからだが、犬以外の動物も保護していた。
    • 世の中から殺伐とした気風を無くそうとの深慮遠謀のつもりだったらしい。
    • それなのにお膝元の江戸城で、浅野内匠頭が刃傷沙汰を起こしてしまった。ブチ切れるのも無理はない。
    • 元々は「動物を可愛がろう」という程度の御触書だったのに、みんなにおちょくられて次第に厳罰化。
  2. 金銀を改鋳。
    • 実行した荻原重秀は、「通貨とはそれ自体の価値を持つものではなく、発行者の信用によって価値を獲得するものだ」という経済思想を世界で最初に考えついた天才。
    • つまり、「実際の小判一枚にどれだけの分量の金が含まれていようと、それを幕府が一両と言えば一両になるんだ」という「信用貨幣」の考え方で、欧米でこの考え方が始まったのはずっと後のこと。
      • 実際、綱吉の時代は江戸時代通しても有数の好景気に恵まれている。
    • しかし、あまりに天才的すぎて誰も理解できず、奸物の汚名だけをこうむって失脚。
      • 天才というのは、評価してくれる人が居てはじめて能力を発揮できるんですね。
    • 日本が鎖国していて、外国との決算が限られていたからこそ築けたと思う。もし、貿易が盛んだったら、外国でも通用する品位の安定した貨幣を作らざるを得なかっただろう。
    • この政策によりマネーサプライが増加し、元禄景気が発生した。
      • 世界でも最も早い金融政策であると言えるだろう。
    • もし荻原重秀が書物を残していたら、アダム・スミスと並ぶ経済学の古典となっていたと思われる。
    • 荻原重秀を追い落とした新井白石は、その書物の中で荻原重秀をdisりまくった。
      • 経済論争が口汚いのは、この時代からの伝統である。
  3. 学問好きで、儒学を諸大名に講義したり、湯島聖堂を建てさせた。
    • ただし、その学問の中には経済学は含まれない。上項の荻原重秀の経済理論はまったく理解できなかった。
      • 経済学は、この時期西洋でもようやく研究され始めた頃。この時期の日本でそれを求めるのは無い物ねだりに等しい。
    • そのおかげでようやく学問が社会に必要だと認知され始めた。それまで学者は社会の落伍者扱いだった。
  4. 「低身長症説」がある。
    • 根拠は徳川氏の菩提寺である大樹寺に収められている歴代将軍の位牌はそれぞれの身長に合わせて作られている、という説があり、綱吉のそれは124cmしかなかったことである。
    • もっとも、この位牌は、骨が残っている将軍と比較した結果、割といい加減に作られているらしい。
  5. 母親孝行息子か、ただのマザコンかは微妙。
    • 母親の桂昌院は元八百屋の娘で名前をお玉。「玉の輿」の由来はこの人から。
  6. 優秀であれば外様大名でも登用したりした。
  7. 綱吉の治世の前半は基本的には善政として「天和の治」と称えられている。
    • 前半はな。
    • 後半も方針は変わっていない。が、彼の政策を理解していない人が多数派だったことや、地震や富士山噴火が起こるなどしたために悪口を書かれるハメに。
  8. 忠臣蔵や水戸黄門にはつきものの将軍の為、知名度は高い。が、やや悪役になる。
  9. グリーンピースやシーシェパードなどの一部動物愛護団体の関係者にとっては理想の君主
    • つまり理想的なテロリスト、と。
    • ぶっちゃけ当時は人間の方がよほどテロリスト。ささいな喧嘩で刃傷沙汰になったりなんて日常茶飯事。要するにテロリストを普通の人間に教化してくれた人と言える。

徳川家宣

  1. 綱吉の甥。
    • 家光の三男綱重の息子。綱吉は家光の次男。
  2. 法度類を変更しないようにと綱吉から遺言されたが、さっさと生類哀れみの令を廃止してしまった。国じゅうみんなが「GJ!」と思った。
    • 実は廃止されていない。罰則は無くなったので実質的には廃止だが。しかしこれも「違反者がいなくなったから」というのが理由らしい。
    • 近年の研究では、生類哀れみの令は未だに戦国の遺風で人命軽視が著しい社会を変える為に、ワザと極刑を科す事で生命尊重を植えつけようとしたという説が強い。まあ、この時期に解除したのは妥当な判断だと思うが。
      • ちょいと先を読みすぎた法律だったしな。
        • そして柳沢吉保が空気を読んで引退。
    • 綱吉との仲が悪かったという理由も。
    • 家宣は葬儀の2日前に綱吉の柩の前で、側用人の柳沢吉保に対し「生類憐みの禁令に触れ、罪に落ちた者は数知れない。私は天下万民のために、あえて遺命に背くこととする」と言った。柳沢は何も言えなかったらしい。
    • それにより8千人近くが釈放された。
    • どうもこれは作り話らしく、実際は綱吉路線を引き継いだらしい。収容されてる人間の数もいくらなんでも多すぎる。
  3. 新井白石を重用したが、白石が経済音痴だったので財政悪化。
    • 田沼の水が恋しくなったのもこの頃でしたっけ?
      • それは「寛政の改革」。徳川家斉の項を参照のこと。
    • 通貨の金銀含有率を上げてマネーサプライを減らしたため、日本はデフレ不況に陥ってしまった。
    • この政策は現在の日銀に受け継がれている。
      • きれい事だけではだめなんだな。
  4. 増上寺の遺体調査によると美男子だったらしい。
  5. 48歳で将軍に。しかし在位3年で死去。
  6. 綱吉から養子(後継者)として迎えられて江戸城西の丸に入った時、下心を持つ諸大名や旗本が賄賂に近い祝い品を持って来た。が家宣はこれらを全く受け取らなかったと。後に将軍になると、人事を一新して不正を厳しく取り締まった。

徳川家継

  1. 新井白石のごり押しで、4歳で将軍になる。
    • 親父の家宣は、息子が幼少なのを案じ、次の将軍に尾張徳川家の吉通を推薦したが、白石は儒教的スジ論から反対。
    • 「それならせめて吉通殿に後見して貰ってはどうだ」という家宣の提案にも白石は反対。こっちは自分の権力低下を恐れたか?
  2. 8歳で病死。これにて秀忠の直系子孫は全滅。
    • 新井白石、間部詮房などの権臣たちは、次の吉宗に忌避されて軒並み失脚。吉通を迎え入れていれば降格程度で済んだかもしれないのに……。
    • ちなみに7歳で婚約。
    • 「家を継ぐ」なのに後継ぎを残さぬまま亡くなっちゃった・・・。
  3. 日光の輪王寺宮が江戸城を訪れた際、深々と頭を下げる彼に対して、子供ながら家継は軽く会釈して見送った。その姿はとても自然で大人顔負けであったらしい。

徳川吉宗

  1. 暴れん坊将軍。
    • ↑というと痛快なイメージがあるが、実はどっちかというと陰謀や裏工作が得意だったらしい。将軍になった経緯もいまいち不透明。
    • 努力家。政務が忙しい中、の法律書から博物学書、果ては三国志演義まで様々な知識を吸収して、政策に生かそうとした。
    • 劇中、江戸城のシーンで姫路城の天守閣を用いているが、江戸城天守は吉宗が生まれる数十年前に明暦の大火で消失しており、その後現在に至るまで再建されていないため、この描写はおかしい。
  2. 目安箱設置。
    • 名君の証左とされるが、高級官僚と仲の悪い独裁者が直接民衆と結びつこうとするのは珍しくないことで、そんなに褒めた話ではない。
      • 目安箱は明治になるまであった。
  3. 米公方。
    • 徹底した農本主義者で、かなりの水準に達してきていた商品経済や金融経済をひたすら弾圧。
      • 一説によると母親は百姓の娘だとか。
    • それで不況も何回か起こった。一方で、貨幣改鋳によるマネーサプライとかもやって、物価安定に尽力した面もあるが。
    • 享保の改革は、それでも寛政や天保より幾分かまし。まだ経済学を勉強しているから。
      • 実は寛政の改革の松平定信は、懐徳堂などの先進的な学問も知ってはいる。殆ど政策に生かせてないけど。
      • そもそも当時経済学という学問が、日本どころか世界でも殆ど存在していない。それなのに、経済の無知を理由で吉宗を責めるのは、「後出しじゃんけん」でしょう。
      • 先代より劣ってしまっては「駄目なんじゃね?」と言われるのはしかたない。
        • 財政再建の一番の要因は上米令と増税によるもの。結局は百姓一揆が激増。
    • 吉宗の死後、傍らに置いていた箱の中から数百枚の反故紙が見つかった。そこには細かい文字で、浅草の米相場価格がびっしりと書かれていた。
  4. 紀伊藩の四男なのに、兄達が次々と早死。22歳で紀伊藩主となる。その後第7代将軍・徳川家継がわずか8歳で亡くなり、見事将軍に。
    • どっかの大学の数学者は、これを天文的確率と計算した。
    • 系譜から行けば将軍職は尾張藩に回る可能性があったが、当主が三代連続不審死を遂げるなど藩内はゴタゴタしており、結局吉宗が将軍に選ばれた(これも天文的確率?)
  5. ブス専。大奥に不器量な娘だけ残したり、不器量で嫁の貰い手がなかった娘に一目惚れして側室にしたりしている。
    • 美人は大奥以外でも仕事があるとした名将軍との説も
    • それに、ブスの娘を残してくれた父親が家臣だったら感謝で幕府に尽くすだろうし。毛利家でも優秀な武将の娘(ブス)を嫁に迎えることで・・・ということがあったらしいし。
  6. パチスロでも大人気。
  7. 近年、業績に関して突っ込まれているが、やっぱり名君。
    • 足高の制と、やはり彼の時代に許された御家人株の売買による農民や町人の登用によって、身分制の枠を超えた人事が可能になった。この制度がなかったら、勝海舟や川路聖謨といった幕末の人物が全く活躍出来なかっただろう。
    • 高麗人参をはじめとする薬種国産化プロジェクトにより、博物学をはじめとした科学が発達しただけでなく、日本全体の公共的な利益や国民全体の福利厚生の発想を生んだ。「技術立国・日本」の元祖と言えるかもしれない。
      • 御三卿の創設だけは擁護不能。幕府滅亡の遠因を作ってしまっている。
  8. 酪農も推奨している。
    • インドから牛のつがいを輸入して飼育していた。その乳でチーズやバターをつくって薬のように食べていた。
  9. 「米が無いのならイモでも食べれば」という発想で「さつまいも」を奨励。
  10. 理系かつ体育会系。
    • 鷹狩を頻繁にやっていた。
    • 冬でも薄着で平気でいたとか。
    • 庭に望遠鏡を据えて星を観測したり、白毛が多いオシドリを品種改良でつくって、その種を「白鴛鴦」と名付けたりしている。

徳川家重

  1. 言語不明瞭で、家重の言っていることがわかるのは側用人の大岡忠光だけだった。
  2. 病気がちで、あんまり表に出てこなかった。
  3. 本人がはたして人として暗愚であったかどうかは微妙。
    • 大岡忠光や、田沼意次のような人物を登用している点を見れば人を見る目はあったのかも。
  4. 大河ドラマ「八代将軍吉宗」で、中村梅雀が名演技を見せた役。
    • 西田敏行氏演じる吉宗が「ヤツは酒を呑み過ぎる」と嘆いてた。史実と違うかもしれないが。
  5. 実は女だったかもしれないという噂あり。
  6. バカ殿様のモデル。

徳川家治

  1. 頭は良かったがオネショの癖が抜けなかった。渾名は小便公方。
    • それは9代将軍家重だろ
      • 違うよ。
        • 何を根拠にそんなこといってるの?
  2. 田沼意次を重用し、吉宗が弾圧した商品経済・金融経済を大いに奨励。
    • しかし家治が死去したので頓挫。
  3. 杉田玄白、平賀源内などオモシロ文化人が大活躍。
  4. 将棋にはまる。将棋についての本まで書いた。
    • 将棋は棋譜が残っており、(もし棋譜が純粋に徳川家治自身の実力のみで指されたと仮定すれば)現在のアマ高段者レベルだったと推定される。
  5. 習字の手習いで「龍」の字を書いた時、あまりにのびのびと紙いっぱいに書いたので最後に点を打つ場所が無くなってしまった。すると家治は紙の外の畳の上に点を打ったのであるが、吉宗はこれを知って家治を大いに褒めたという。
  6. 祖父である吉宗のように「名君たらん」といつも意識し、食べ物にして変わったものが出ると「これは先々代様も食べられたものか?」と確認するほどだったという。
  7. ある激しい雨の日、家治は1人の近習が空を見上げ溜息をついてるのを目にした。別の者にその訳を聞いたところ、「あの者は貧しく、家が朽ちて雨漏りがしており、今頃親が苦心していることを思っているのでしょう」と答えた。更に家治は幾らあれば直せるのかと聞くと、「100両もあれば直せると思います」と答えた。家治は密かに溜息をついていた近習を呼ぶと「孝を尽くせ」と100両を渡したという。

徳川家斉

  1. オットセイ将軍。
    • なんと28男27女をもうけた。その他にも御落胤が何人も……
    • それらの子の片づき場所を確保するため、あちこちの大名家に無理を強いた。
      • その結果、有力大名のほとんどに家斉の血筋が入ったが、皮肉なことに家斉の出身である一橋家は後に家斉の血筋が途絶えてしまった。
        • 御三家、御三卿の中で唯一家斉の企みを免れた水戸家の跡取りが一橋家の養子に入った。
    • 家斉の21女溶姫を押し付けられた加賀藩主前田斉泰は、彼女を迎えるために藩邸に赤い門をわざわざ建立した。これが後に移築されて東大名物の赤門となった。
    • 精力絶倫で身体も頑健。在位中の病歴は風邪で数回寝込んだのみ。
      • 養育費も幕府財政を悪化させる原因に・・・。
    • 精力増強のため、オットセイのペニスを粉末にしたものを飲んでいたから。
  2. 文化文政時代到来。江戸期文化の爛熟期。
    • 時代劇に出てくる風俗は大体この時代のもの。元禄時代のはずの水戸黄門や忠臣蔵モノでも同様。女性の髷の形からして違うんですが……。
      • シーボルトのおかげで当時の医学技術が進歩した。
  3. 生きているうちに太政大臣になった武家出身の人物は、彼を含めてたった6人しかいない。
    • あと5人は、平清盛・足利義満・豊臣秀吉・徳川家康・徳川秀忠。ちなみに織田信長には明治になってから太政大臣の官位が追贈された。
      • 豊臣秀吉は武家ではなく公家として太政大臣になった。
  4. 幼少の頃、カニや鶏を殺して遊んでいたという嫌な逸話がある。
  5. 最初に松平定信が田沼路線を否定した構造改革を行うが、あまりに恐怖政治とデフレ不況がひどかったので7年で失脚。
    • 家斉自身にも倹約を押しつけられ、一度定信を斬ろうとしたが止められた。
  6. 家斉の在位50年は歴代将軍の最長記録。
  7. 「白牛酪」(はくぎゅうらく)という今で言うチーズのような高タンパク乳製品を大変好んだ。また生姜を好み、1年中食べていた。
    • 長生きの原因?
  8. 外交に無関心ではいられなくなったのはこの頃。

徳川家慶

  1. 14男13女をもうけたがほとんど夭折、ただひとり育った家定とは不仲という、子供運の悪い人。
  2. 黒船来航の騒ぎの中死去。老中・阿部正弘などは「なんでこのクソ忙しい時に……」と舌打ちしたことであろう。
  3. 最初に水野忠邦が構造改革を行うが、あまりに恐怖政治がひどかったので3年で失脚。
  4. 家慶は趣味に生きた将軍で、政治を省みなかった。そのため、諸大名の間では評判が悪く、家臣の意見を聞いても「そうせい」というのみであったから、「そうせい様」と呼ばれていた。
    • それで子供には早世されてしまったのか。
    • 同じ「そうせい侯」でも長州藩主とは偉い差……
  5. 天保の大飢饉や大塩の乱、黒船来航といった大事件、蛮社の獄や天保の改革といった狂気としか思えない圧政によって庶民の信頼をほぼ完全に失った。

徳川家定

  1. 早々とタネ無し認定され、在世中から後継者争いが始まっていた。
    • また脳性麻痺の説も。
    • 人前に出るのが苦手で、乳母である歌橋にしか心を開かなかったらしい。
  2. 豆やイモを煮るのが得意だった。松平春嶽から「イモ公方」と呼ばれたとか呼ばれないとか。
    • カステラ作りも得意だったと言われる。
    • 豆やイモを煮ては家臣に食べさせてうれしがったという。
  3. ガイキチ将軍といわれたとか。
  4. 新型銃を献上されたとき、その銃を構えて家臣を追いかけ回した。
  5. 一橋慶喜が大嫌いで登城すると聞いたとき一日中奇声を発していたとか。
  6. 篤姫の夫。
  7. ハリスと引見した際、言葉を発する前に頭を後方に反らし、足を踏み鳴らすという行動をとったとある。しかし、家定はハリスに対して「遥か遠方より使節をもって書簡の届け来ること、ならびにその厚情、深く感じ入り満足至極である。両国の親しき交わりは幾久しく続くであろう合衆国プレジデントにしかと伝えるべし」と告げ、将軍らしい態度も見せた。が、立派な返答をしたのは床下に控えていた代理であり、足を踏み鳴らしたのは代理に対して合図を送っていたという説もある。テンプレート:Long article L
  8. ペリーが来航したり、開国条約を結んだりという非常時に、30代の家定はガチョウを追いかけ回したりして遊んでいた。もう開き直っていたのかもしれない。

徳川家茂

  1. 井伊直弼のごり押しで就任。
    • ところがその井伊直弼は恐怖政治を行った挙げ句、あっという間に暗殺されてしまう。
  2. 徳川将軍で唯一皇女(和宮)と結婚。仲が良かったのか悪かったのかよくわからない。
    • 家茂が亡くなったとき、和宮が詠んだ歌は泣ける。
  3. みずから長州征伐に出向く途中、大坂城で病死。
    • 責任感は強かったんだろうね。大坂城から逃亡した慶喜とはえらい違い。
  4. 甘いお菓子が大好きだった。
    • ゆえに虫歯だらけだったとか。
    • 脚気で死んだのは、こういう偏食が祟ったからとも。
  5. 幼少の頃は池の魚や籠の鳥を可愛がるのを楽しみとしていた。しかし13歳の時に将軍として元服すると、それらの楽しみを捨てて文武両道を修めるように努めた。病弱な体なのにささやかな楽しみすら捨て、良い将軍であろうと心がけていた姿は幕臣たちを当時も没後も感激させたという。
  6. 後継ぎには徳川亀之助(田安家)を指名していた。一番血筋が近い人物だったが…。

徳川慶喜

  1. 非常な切れ者だった説と、けっこうアンポンタンだった説が入り乱れている、最後の将軍。
    • 目的のために手段を選ばない、かなり非情な人だったのは確からしい。
    • 桂小五郎に家康の再来だと言わしめた男
    • 変な行動が多すぎて、百年以上経った今でも「有能」か「無能」か、評価が極端に分かれる男。
  2. 大政奉還をおこなう。
    • テンプレート:薩長の機先を制し、大義名分を失わせるためだった。自分は新政権の首班になる気満々。
    • 窮した薩摩藩は、岩倉具視と図って倒幕の密勅を偽造。慶喜はあわてて逃げ出す。謀略戦は「より」手段を選ばなかった薩摩側の勝利。
  3. 将軍を辞めてからは、死ぬまで悠々自適な生活をしていた。
    • 写真撮影を趣味にしたり、明治初期に当時珍しかった自転車に乗っていたりしていた。
      • でも撮影技術はイマイチ。「俺の写真、投稿してもなかなか採用されないんだよ」と悩んでいたらしい。
        • ただ最近はネームバリューと、この時代の写真そのものが希少であるため、評価が上がっている。
        • ちなみに慶喜の写真を世に出したのは、曾孫でカメラマンの徳川慶朝氏。
    • 手裏剣の達人で、毎日鍛錬を欠かさなかったとか。
    • 投網は玄人はだし、日本刺繍もかなりの腕前。この芸達者さんめ。
    • 特技は飯盒でご飯を炊くこと。つくづく趣味に生きる人だ。
      • しかもその飯盒は自分が調達した銀塊で造幣局に作ってもらった。
    • 撮りテツの元祖との噂もある。
  4. 子供の頃は寝相が悪く、矯正するために枕の両脇にカミソリを立てて寝かされた。
  5. 長州は最初から敵だったので恨みはなかったが、薩摩は途中から倒幕に寝返ったので、死ぬまで恨んだ。
  6. 身長が意外と低く、150cmぐらいだったらしい。
    • 当時の成年男子の平均身長なんて160cmにも満たないくらいじゃないの?
  7. フランスマニア。
  8. 他の徳川の親戚には怨まれている。まあ当然か。
  9. 子供の頃、事情を知らなければいじめと思われそうな「豚一様」というあだ名で呼ばれていた。
    • 「(薩摩名物の)豚肉がお好きな一橋様」という意味。
  10. 本寿院から蛇蝎の如く嫌われていた。
    • 名前を聞くだけでも気分が悪くなるほどだった。
  11. 大正まで生きた。
    • もしかしたら、幼い時分、「ケイキさんに頭をなでなでしてもらった」というお年寄りが今なおご存命かも知れない。