武将伝/三国
魏の武将
夏侯惇
- 曹操に仕えた武将。
- 曹操の挙兵当初から常に一緒に行動していた。
- 曹操の従兄弟だったらしい。
- 隻眼だったので「盲夏侯」と呼ばれた。
- 片眼を戦場で射られ、矢を引き抜いたら眼球ごと抜けてしまい、それを食った……という勇ましい伝説があるが、なんぼなんでも作り話だろう。
- 横山三国志では作者曰く「別に食わせなくてもいいじゃん」ということで食べる描写はなかった。
- 演義では一応、「親から授かったこの身を無駄にしてなるものか」と叫んで食ったことになってるけどね。
- 横山三国志では作者曰く「別に食わせなくてもいいじゃん」ということで食べる描写はなかった。
- 本人は相当気にしてたらしく、このあだ名を嫌い、鏡で自分の顔を見る度に怒ってその鏡を割ってしまったと言う。
- 片眼を戦場で射られ、矢を引き抜いたら眼球ごと抜けてしまい、それを食った……という勇ましい伝説があるが、なんぼなんでも作り話だろう。
- 三国志演義では数々の戦争で武功を挙げた猛将になっているが、夏侯惇が参戦したと正史に載っているのは2回だけ。しかも両方とも負け戦。
- 武功では劣っていても治水事業などで功績を挙げていたりもして、曹操が無能な人間を高位につけるわけがないので、本来は軍政家だったのかもしれない。
- 基本的に曹操の近くにいたため、記述が省かれてるだけだろう。
- 最近は理想的なナンバー2として描かれることが多い。
張遼
- 曹操に使えた武将で、元は呂布の配下。
- 呂布とともに処刑されそうになった時、関羽が彼の命乞いをしたため、命を助けられることとなった。
- 主に呉との戦で活躍し、呉では泣く子も黙ると恐れられた。
- 演義では矢が刺さった傷が元で死んだことになっているが、実際は普通に病死だったらしい。
- 横山三国志における矢の刺さった場所が・・・。
- おそらく魏最強の将軍。
- 呂布の配下時代は、劉備攻めの先陣を務めて散々に蹴散らし(関羽と張飛がいたはずなんだが・・・)、劉備は命からがら曹操の元に逃げ込んだ。
- 呉の合肥攻めでは少ない軍勢で孫権の本陣まで攻め込んで将軍数名を討ち取った。
- 後世では名将として評価されている。
- 武廟64将とかいう名将64選に魏では鄧艾 (蜀を滅亡させた) とともにランクインしている。
- ぶっちゃけ合肥にこいつがいなければ、魏の東部方面は大きく後退していた可能性すらある。
張郃
- 曹操に仕えた武将。元は袁紹配下だったが、官渡の戦いで郭図に讒言されて曹操に降っている。
- 黄巾討伐~孔明の北伐まで戦い続けた。
- 夏侯淵を倒した劉備をして「一番重要な者 (張郃) の首がないではないか」と言わしめた。
- 吉川英治版では、作者の手違いで3回死んでいる。
- 実際には戦死で1回死んでいる。(当然か)
夏侯淵
- 夏侯惇のいとこ
- 定軍山の戦いで戦死する。
- 実は張飛とは親戚筋にあたる。
- 息子の夏侯覇はその縁を頼って蜀に亡命する。
満寵
- 曹操~曹芳までにつかえていた武将。
- 曹仁と組んで樊城で関羽に対応したり、合肥で呉に対応したりと守戦での活躍が目立つ。
- 名前の響きはちょっとアレである。
蜀の武将
関羽
- 蜀の劉備に仕えた武将。
- 義兄弟だが、「お兄ちゃん大好き(おっさん声)」とか言ったりしない。
- 智勇兼備の名将で、主君への忠義は絶大だった。
- 結構気難しいタイプだったようで、部下や領民は可愛がるが、同僚や目上の人物、他国の人々とはたびたび衝突したようだ。
- そのため、本来は味方であるはずの呉や、後方支援の味方まで敵に回してしまい、結局はそれが命取りになった。
- 呉「関羽殿、お宅の娘を嫁がせてくれ。我らと婚戚関係になって同盟を確固たるものにしよう」→関羽「犬に娘をやれるか!」→呉「犬だと…忘れんぞ」
- この件はかなり割り引いて考えたほうがいい。方面司令の立場では外交交渉を専断的に行えるワケが無い。
- 後方支援「しまった、関羽への支援が足りない。怒らせると怖いし、感謝されたことないし、プライド高いし……よし、支援要請自体をなかったことにしよう」
- 死後、神様になった。
- なぜか武の神様ではなく、商人の守り神になった。しかも皇帝はおろか王にもなってないのに、「関帝」と名付けられた。
- 約束を必ず守る信義固さで、商取引に大事な信用の象徴→商売の神様となった。
- また敵中にあっても揺るがない忠誠で、後世の皇帝に「関羽を神として祭れば、ウチの部下も忠誠を尽くすだろう」と思われ、その後の皇帝に「ならば朕は『候』を贈り『関候』とするぞ」「それを倒した我が帝国は候より上の『関王』だな」「ならウチは更に『関帝』だ」「さ、更に上となると『皇』しかない…けど自分と同格では忠誠じゃないぢゃん」となった。
- なぜか武の神様ではなく、商人の守り神になった。しかも皇帝はおろか王にもなってないのに、「関帝」と名付けられた。
- 異様に嫉妬深いタイプでもあった。特に劉備の寵愛に関しては、自分をしのぐヤツが出現するのを絶対に許さなかった。
- 馬超、黄忠などに対してもものすごい敵愾心を燃やした。
- 馬超が劉備陣営に加わった時は、わざわざ諸葛亮に荊州から手紙を出して「馬超と俺とどっちが上だ?」と問い合わせた。諸葛亮はおっかなびっくり「張飛とどっこいどっこいというところ、ヒゲ殿にはとてもかないません」と機嫌をとった。
- 黄忠を後将軍に任命する時も、諸葛亮はまだびびっていて、「同格の将軍にするなんて、雲長さんが怒りますよお」と劉備に訴えたが、劉備は「ワシがよく言い聞かせるから」と断行。案の定関羽は激怒し、「あんな老いぼれと同格なんて辛抱できん!」と荒れまくった。
- 馬超、黄忠などに対してもものすごい敵愾心を燃やした。
- 映画祭。
- 実は劉備より年上という説が有力。
- ヒゲ。何といってもヒゲ。
- これを敵の首に巻きつけて絞殺することもあった。
- 専用のヒゲケースを持っていて、寝るときは痛まないようにヒゲをしまって寝ていた。
- 外した時に見えたひげの美しさは天下一品だったことだろう。演技では「美髯公」と名付けられる。
- ヒゲがピンっと立つことによって、敵の来襲を察知できた。しかし味方の裏切りは察知できなかった。
- そろばんを発明した伝説が残る。
- 演技で養子とされる関平は実は実子。
- 関帝廟で、関平と一緒に鎮座する変な帽子をかぶった周倉は架空の人物。
張飛
- 関羽と同じく、蜀の劉備に仕えた武将で、劉備、関羽と義兄弟になった。
- 武勇は蜀軍の中でもトップクラスで、智略もあったようだ。
- でもコーエーのゲーム・三国志シリーズでは、知力が異様に低くなっている。
- 軍事的な知略はあったが、国や地方を統治する能力はなかった模様。実際漢中太守は張飛が有力視されていたのに蓋を開けたら魏延がその任に当たったことから劉備や諸葛亮は張飛に統治能力は期待してなかったことがうかがえる。
- そりゃ徐州時代に張飛とともに留守任せた守将を〇して、呂布に奪われるくらいだからな。
- 関羽とは逆に、同僚や目上の人物からの受けは良かったが、部下や領民には厳しかったようだ。
- 関羽と同じく、それが命取りとなり、部下に寝首を掻かれてしまった。
- 〇〇「こんな兵隊野郎と何を話し合えと (怒)」
- 劉備から「おめえさんは手下を殺しすぎらあ。しかも殴ったヤツを平気で自分の側に置いてるってえじゃねえか。危ねえよそりゃあ」と忠告されたが、聞かなかったらしい。
- それどころか、「いや兄貴、俺だって考えちゃあいるんだぜ。ぶん殴る手下は身寄りが少ないヤツにしてるんだ。そうすりゃ下手うって殺しちまっても、後で仇を討たれる心配はないからよお」と答えたとも言う。本当だとしたら実はとんでもなくイヤなヤツである。
- 案の定、虐待した部下たちに殺された。劉備は張飛の副官から報告が来たことを聞いただけで、
「あちゃあ~、益徳が死んじまったか~orz」と落胆したそうな。
- 死後は、三国志の人物ではNo.1の人気者になり、京劇などでは主人公になったりと大忙し。
- 『はるひ』ではない。
- 得意技は燕返し。
- 現在の重慶では、張飛が酒の当てにしていたという料理が現存しているらしい。
- 園田光慶による漫画では、一人だけ別の作品の登場人物みたいな顔つきで、ことあるごとにギャグばかりかましている。
趙雲
- 公孫瓉から蜀の劉備に乗り換えて活躍した武将。
- 三国志演義を読むと、けっこう見せ場が多くて、関羽・張飛に次ぐ地位に居たように見えるが、実は意外と重用されていない。
- 乱戦の中から阿斗を救ったとか、孫氏(孫権の妹で劉備の妻)が里に帰る時に阿斗を連れ出したのを奪回したとかいうのは作り話だし。
- 阿斗を救ったのは事実。というか正史の本文にはそれしか功績らしいものは見当たらなかったりする…
- 益州攻略戦や夷陵の戦いなど、劉備にとって重要な戦争にはほとんど置いてきぼりをくらっていたし。
- 「五虎将軍」に加えられたというのも「演義」の創作で、実際には、馬超と黄忠が関羽・張飛と同格の将軍に任命された時に外されていたし。
- 馬超は涼州軍団を率いており、黄忠は荊州勢のまとめ役みたいな立場だったので幹部に取り立てざるを得なかったが、趙雲は個人的就職だったので選に漏れたのだろう。
- 実のところ、魏延よりも地位は低かったという説もあるし…
- ただ、蜀志の伝では「関張馬黄趙伝」と立てられているからそこまで扱いが低かったわけでもない、はず。
- 乱戦の中から阿斗を救ったとか、孫氏(孫権の妹で劉備の妻)が里に帰る時に阿斗を連れ出したのを奪回したとかいうのは作り話だし。
- 劉備が関羽の復讐戦に猛り立った時、ただひとり冷静な意見を述べて反対した。
- この辺のクールさが、情に走りがちな劉備陣営ではやや異質な感じだったのかも。
- そもそも出兵に反対したという事自体、信憑性が低いけどね。
- この辺のクールさが、情に走りがちな劉備陣営ではやや異質な感じだったのかも。
- 三国志演義で脚色された部分を見ても、将としての活躍というより、個人的な武勇伝ばかり。たぶん軍勢を進退させる能力はあんまり無かったと思われる。
- 実際には劉禅の警護役みたいな立場だったように感じられるんだが、どうかな。趙雲が死んだ時に劉禅が大変心のこもった弔辞を送っているのは確かなようなので。
- 昔見た実写映画(タイトル忘れた)では、馬上でバク転してた。
- 某ゲームのおかげで美青年という印象が日本では植え付けられたが、劉備達よりも年上だったらしい。
- 漢中攻略戦の際、敵将が趙雲と聞いた曹操が「あの老いぼれ、まだ生きていたのか?」と述べたそうな。
- 中国で老将というと彼のことを指すとか。
馬超
- 蜀の五虎大将の一人として知られるが、元は西涼に割拠していた群雄である。
- 演義では処刑された父・馬騰の仇討ちで兵を挙げるが、正史では逆に彼が兵を挙げたことで馬騰が処刑されている。
- 「曹操のやつ漢中を平定するとか言ってきたが、うち (雍州) を攻めてくるためかもしれない」
- CV:服巻浩司
- おっかし~なかぶとをか~ぶる~♪
- 正史では一騎打ちで殺されかけている。
- 劉備の元に下り臣従した後も、劉備に対し馴れ馴れしい態度を取っていたがため、関羽と張飛に命を狙われそうになったことがある。
黄忠
- 荊州平定後に劉備の配下となった武将。
- 演義では五虎大将の一人。正史では関羽、張飛、馬超と同格の将軍に任命される。
- 老将として知られており、現在でも老いてますます意気盛んな人を彼になぞらえて「老黄忠」と言うとか。
- ここでいう黄忠は正史の黄忠ではなく演技の黄忠。
- 弓の名手だったらしい。
魏延
- 蜀の将軍で、劉備には絶賛されたが、諸葛亮とは反りが合わなかった。
- 劉備に絶賛されたからこそ、諸葛亮に疎まれたんだろう。
- 孔明からは、初対面でいきなり、容姿を理由にケチつけられた。
- 諸葛亮の死後、実権を握ろうとして、楊儀と争い処刑された。
- 要は、蜀の荊州閥の勢力争いに敗れただけ。
- 後世の扱いはひどい。
- 演義では完全に悪者扱い。
- 実力ある将軍だったのに・・・・・・。
- 墓をぶっ壊されてその上に線路を敷かれているらしい。
- 魏との国境に近い漢中の太守を劉備から任され、大過なく治める。実は行政能力もけっこうあった。
- 最前線の司令官兼行政官として、魏の攻略法を考案し練り上げていたと思われる。その結果が長安への電撃侵攻作戦だったが、諸葛亮に一蹴される。そりゃ腐るわな。
- 後世にも、諸葛亮の言い分に理があったと認める人が多いが、魏延の作戦が通っていたらどうなっていただろうか。
- 実はこの作戦の記述は『魏略』によるもので、信憑性は低い。彼がこの作戦を本当に提案したのかは疑わしい。
- 長安を抑えた「後」をどうするかについて、穴があり過ぎるというか、情勢や前提条件を自分有利に設定し過ぎな内容であり、さすがにそれは無いやろというツッコミも多い。
- 仮にも漢を名乗る政権が長安を奪取すると言うことは、諸侯が雪崩を打って寝返る可能性もなきにしもあらずということか?
- 実はこの作戦の記述は『魏略』によるもので、信憑性は低い。彼がこの作戦を本当に提案したのかは疑わしい。
- 後世にも、諸葛亮の言い分に理があったと認める人が多いが、魏延の作戦が通っていたらどうなっていただろうか。
- 最前線の司令官兼行政官として、魏の攻略法を考案し練り上げていたと思われる。その結果が長安への電撃侵攻作戦だったが、諸葛亮に一蹴される。そりゃ腐るわな。
- 困った人を放っておけない、情に厚い人間だったらしい。魏延金だけに。
- 演技では「反骨の相」があるとかいわれている。
楊儀
- 蜀の武将というより文官。だが文官の項目がないので、ここにした。
- 魏延の喧嘩相手として有名。
- だが蜀建国の頃に上司の劉巴に逆らって左遷されている辺り、よく人と衝突するタイプだったようだ。
- 魏延との対比で、魏延が劉備に、楊儀が諸葛亮に抜擢されたと思われがちだが、実は彼も劉備が抜擢した武将だ。
- しかもかなりの高評価だったようだ。
- ちなみに最初は関羽に仕えていたが、関羽の推薦で劉備の直臣になったという経歴がある。関羽からも認められていたようだ。
- 関羽がもてあまして劉備に押しつけたんだと思ってた。
- ちなみに最初は関羽に仕えていたが、関羽の推薦で劉備の直臣になったという経歴がある。関羽からも認められていたようだ。
- しかもかなりの高評価だったようだ。
- 軍事には素人だったが、事務官としてはチートだったらしい。
- 軍事チートと事務官チートの対立。孔明も頭を悩ませるわけだ。
- 最期は『魏に仕えていたらここまで落ちぶれなかっただろう』と不満を言った『として』、逮捕、投獄され『自殺』した。
- 楊儀が容疑者になってしまった。
姜維
- 諸葛亮が晩年に見出した蜀の武将。
- 末期の蜀軍を支え、しばしば魏に侵攻しようとした。
- それなりに軍事能力はあった模様。魏の数県を占領したり、魏の雍州刺史の軍を撃破したりしている。
- ずっと侵攻したがっていたのを、蒋琬や費褘に抑えられていたというのが実情。費褘が暗殺された途端に活発に軍事行動を始めた。
- このため、三国志演義の読者からは人気が高いが、実際には姜維の連年の軍事行動で蜀の財政が著しく疲弊し、滅亡を早めたとも言える。
- これが魏の狡猾な計略で、死間として姜維を送り込んでいたとか言うのだったら、びびるがなぁ。
- なお諸葛瞻や樊建など当時の蜀の文官は姜維の北伐に飽き飽きで軍権取り上げようとした。
- 後主・劉禅とその周辺に嫌われたのは主にそのせいで、宦官・黄皓の讒言があったためではない。
- とはいえ、涼州方面に軍事拠点を作られてしまうと蜀が終わってしまうという現実があったわけで、北伐は別に私利私欲で行われたわけではない。
- 実際、蜀の存在意義は「魏を倒して漢を復興させる」だから魏への侵攻は間違いではなかったが、内政が整わない状態で侵攻していたのが問題だった。
- 魏の鍾会が攻め込んでくるとかなわず降参。口ほどにもないヤツである。
- あんまりだというので、後世の人は「鍾会に降ったのは計略で、機を見て鍾会を倒し、劉禅を救い出して蜀を再建するつもりだったのだ」ということにしたが、ほどなく殺されているため、そんなつもりがあったかどうかはわからない。たぶん作り話。
- × 鍾会が攻めてきたので降参 ○鍾会と対峙中に首都の劉禅が降参
- ちなみに降伏後に鐘会と手を組んで反逆を試みたが、どさくさに紛れて兵士に切り刻まれて殺されてしまった。
- 生姜の繊維。
- 生姜の維新とも言う。
- 死後に腹を切り裂いたら、肝が一升ほどの大きさって・・・。人間ちゃうやろ。妖怪か何かか。
- 最初は魏に仕えていた。
呉の武将
周瑜
- 孫策・孫権に仕えた武将。
- 孫策とは幼馴染みで、しかも相聟(嫁さん同士が姉妹)。
- 孫策の臨終の時、張昭と共に孫権を託される。
- 赤壁の戦いで大活躍。
- 三国志演義ではしばしば諸葛亮に煮え湯を飲まされるが、実際にはほぼ単独で曹操軍を撃退した。
- 劉備を全く信用してなかった。
- そもそも周瑜と接触した時点での劉備は、ほとんど信用されるに足る履歴を持っていなかったのだから、それもやむを得ない。信用した魯粛のほうが奇特な人と言える。
- 三国時代のリア王。
- 本人も「美周郎」とあだ名されたほどのイケメン。
- 「イケてる周サマ!」というところ。
- しかも若かった。享年なんと37。
- 36だと思うが
- 正史にもイケメンの記述が残されている。
- 嫁の「小橋」も名だたる美人。
- 曹操が呉を攻めたのは「小橋」と孫策未亡人「大橋」の美人姉妹を得るためだったというような噂が流れたほど。
- 音楽にも堪能。
- 食事の時など、流れている音楽に間違いがあると、振り返って演奏者を睨みつけた。
- 宴会で酔っ払っていても。人はビビっていたそうな。
- 食事の時など、流れている音楽に間違いがあると、振り返って演奏者を睨みつけた。
- リア充でもあった。「爆発しろ」と思われていたかどうかは知らないが。
- 本人も「美周郎」とあだ名されたほどのイケメン。
- ゲームとかでは、軍師扱いが多いが、どちらかというと将軍だろう。確かに頭脳明晰ではあるが。
- 関西弁は似合わなさそう。「天はこの世に周瑜を生んどきながら、なんで諸葛亮も生んだんや!?」
- 実際には諸葛亮に会ったこともないし、存在も知らなかったらしい。劉備からの使者として名前くらいは聞いたかもしれないが。
- 諸葛瑾の親族程度の認識はあったんじゃないかな。弟というのまでは知らないまでも。
- 諸葛亮は赤壁前に外交官として孫権に会っているので、面識ぐらいはあるだろう。
- 周瑜が孫権のところに召還される前に諸葛亮は帰国していたと思われる。その後の荊州争奪の折りも、諸葛亮が大戦略を立てているとは周瑜は全く気づいていなかった。というか、周瑜は劉備自身を自分より格下に見ていたので、劉備の家来にまで興味を持ったとは考えられない。
- 関羽、張飛は高く評価していた。劉備に美女をあてがって骨抜きにして、関羽、張飛を自分の部下に引き抜こうとしていたし。ただし孔明は全く気にしてなかった。
- 周瑜が孫権のところに召還される前に諸葛亮は帰国していたと思われる。その後の荊州争奪の折りも、諸葛亮が大戦略を立てているとは周瑜は全く気づいていなかった。というか、周瑜は劉備自身を自分より格下に見ていたので、劉備の家来にまで興味を持ったとは考えられない。
- 諸葛亮は赤壁前に外交官として孫権に会っているので、面識ぐらいはあるだろう。
- 諸葛瑾の親族程度の認識はあったんじゃないかな。弟というのまでは知らないまでも。
- 実際には諸葛亮に会ったこともないし、存在も知らなかったらしい。劉備からの使者として名前くらいは聞いたかもしれないが。
- 大豆を発酵させて搾った液体。
- 周瑜黄巾賊。
魯粛
- 孫権に仕えた武将。
- 演義などの影響で、頼りなげな文官のイメージがあるが、実際は武官で、頭脳明晰で果断な人物だった。
- まだ呉に仕える前、周瑜が彼の家を訪問したとき、家にあった蔵のうち半分をそのままプレゼントした。
- 当時荊州に駐留していた関羽の元に単身乗り込み、領土(荊州南部)を奪い取ってみせた。
- このとき関羽はぐうの音も出なかったという。
- 戦わずに勝つという孫子の兵法をまさに体現した人物。
- 赤壁の戦いの前に、孫権をおどかしたあたりもなかなかの骨っぽさ。
- 「ワイはええんでっせ。曹操に降伏しても、まあぼちぼちの身分で取り立てられると思いますわ。でもあんさんはどないでっか? もともと大した家柄でもなし、どないして身ィ立てる気やねん」
これを聞いて孫権は慄え上がり、曹操との対決を決意したと言う。
- 「ワイはええんでっせ。曹操に降伏しても、まあぼちぼちの身分で取り立てられると思いますわ。でもあんさんはどないでっか? もともと大した家柄でもなし、どないして身ィ立てる気やねん」
- 惜しむらくは、寿命には恵まれなかった。享年46。あと20年長生きしたら、どうなっただろうか。
- 息子の魯淑が、魯粛死後ほぼ一年後生まれだというのを逆算すると、腹上死していたのかもしれないとかなんとか。
- 金持ちのボンボン。親族から変人呼ばわりされるほどのボンボン気質。
- 天下三分の計を唱えていたとされている。(諸葛孔明のやつとは全くの別物)
賀斉
- 演義には登場しない、呉最強の将軍。
- 異民族討伐が主な任務だったので、演義では出番がなかった。
- いつも少ない兵力で出陣し、勝利を収めた。
- 異民族の中には、彼の名を聞いただけで震え上がる者も。
- 合肥では、魏最強の張遼とぶつかり合い、張遼に奪われた大将旗を奪い返すという戦功を挙げる。
- この時の張遼のチートな強さを考えれば、賀斉もどんだけ強いんだと。
- その直後に孫権に説教。
- 賀斉「おめえは戦下手なんだからもう少し自重汁。」
- 孫権は「ごめんなさい」と平謝りだった。
- 派手好きで、鎧や盾、戦艦などにも派手な装飾を施していたという。
呂蒙
- 孫権に仕えた武将。
- 無学だったが、孫権に薦められて書物を読むようになり、いっぱしの軍略家となる。
- 最初「忙しくて本なんぞ読んでられまへんわ」と逃げようとしたが、孫権はしつこく、「忙しいちゅーたらワイのほうがよっぽど忙しいわ。それでもワイはいつも本を手元に置くようにしとるんやで。何も学者になれゆーとるんやない、騙された思て読んでみ」と薦めた。しかも推薦図書まで何冊も挙げた。
- そんなわけでたぶん最初はいやいや本を読み始めたと思われるが、だんだん面白くなったらしい。
- この時期「呉下の阿蒙」の逸話を残す。
- たまたま魯粛と話す機会があり、呂蒙が急に賢くなっていたので驚いた魯粛が「いやはや、呉の街の蒙ちゃんとはもう呼べんなあ」と慨嘆。
- 「男ゆうもんはな、3日顔合わせんかったら、眼ン玉見開いてよ~く見とかんとあかんで」と逆に魯粛に説教。
- 頑張ったのはわかるが、この上から目線はなんなんだ。
- このとき、蒋欽という武将も一緒に学問を勧められたのだが、知名度の都合でイマイチ目立っていない。
- 関羽を打ち破る。
- 本人は意外と病弱で、関羽を破って間もなく病死。人々はみんな「関羽様のたたりじゃあ」と大騒ぎ。
- 呂蒙の霊「ちゃうわ! わしゃその前から病気やったんや! 信じてくれ~!」
- 本人は意外と病弱で、関羽を破って間もなく病死。人々はみんな「関羽様のたたりじゃあ」と大騒ぎ。
陸遜
- 孫権に仕えた武将。
- 関羽の仇討に燃える蜀軍の迎撃の指揮を執った。
- はやる諸将を抑えて時を待ち、敵軍の戦線が延びきり疲労の色が濃くなった機を見逃さず一気呵成に責め立て、劉備を白帝城に追い込んだ。
- 長年に渡り呉に尽くしたが、後継者争いに巻き込まれて憤死。
- 蓄財などは感心がなく、死亡時に何の財産もなかったらしい。
- 陸遜「わしが孫権に直談判するわ、帰国してもええか?」孫権「陸遜、お前うっさいわ、帰ってくんな」
- 周瑜に次ぐ、孫呉の二代目放火魔。
- 「三國志」の史書では数多くの武将が伝を建てられているが、王侯以外で独立した伝を建てられているのは諸葛亮とこの人だけ。
陸抗
- 陸遜の息子
- 陸遜の嫁(つまり母)は孫策の娘であるため、孫策の孫にもあたる。
- 国境の向こうにいる武将と仲良くしていたことで有名。
陶濬
- 呉末期の武将。
- 晋が呉に攻めてくると迎撃部隊の総大将になるが、戦う前に兵が全員逃げたため降伏しなければならかった。
- ビックリしたような表情の顔グラを設定され「顔芸武将」として知られるのは、上記エピソードのときはマジでそんな顔をしていたのかもしれない。
その他の武将
呂布
- 三国志の武将の中でも、武勇は随一。
- 演義ではアンタッチャブルな強さ。実際個人でも強かったのだろうが、騎馬民族の部隊を率いていたからとも。
- 裏切り者の代名詞的な存在。
- 本人は裏切っているつもりはなかったかもしれない。
- 丁原「あいつは乱暴者で悪いヤツだって董太師に言われただ。だから首をとってやっただ」
- 董卓「あいつは帝を苦しめるひどいヤツだって王司徒が言ってただ。だからこらしめてやっただ」
- 袁術「身内を全部殺した董卓をおらが討ってやったのに、ちっともありがたがらねえで冷たかっただ。だから出てきてやっただ」
- 袁紹「なんでおらを殺そうとするだ。こんなヤツのとこには居たくねえだ」
- 劉備「おらがこんなに良くしてやっただに、ちょこまか動き回っておらを陥れようとするだ。ちょっくらお灸を据えてやるだ」
- 劉備が袁術の配下の紀霊に攻められた際、仲裁に入って、「おらは戦うのは嫌えだ。人を仲良くさしてやんのが好きなんだ」と言ったのは、案外本音だった可能性もある。
- 本人は裏切っているつもりはなかったかもしれない。
- その格好から、ゴキブリと言われることも。
- イケメンだったらしい。
- 曹操に敗れて捕まった時、「あんたの歩兵とおらの騎兵がありゃあ天下無敵だべ。これでまあ、天下は定まったってもんだ」と本気で言った。曹操もけっこうその気になりかけたが、傍らに居た劉備が水を差したので結局処刑。
- 呂布はこの時はじめて劉備に嫌われていたことに気づいたのであった。
- 「こんの、大耳野郎! 裏切ってばかりいんのはおらでねえ、おめえでねえか!」というのが、呂布の絶望を込めた最後の言葉。
- 呂布はこの時はじめて劉備に嫌われていたことに気づいたのであった。
- 赤菟という最高級の名馬に乗っていた。
- 「人中に呂奉先あり、馬中に赤菟あり」と称えられた。
- 演義では呂布の死後、曹操から関羽に贈られたことになっているが、正史にはそんな記述は無い。それに呂布が死んだ頃には、赤菟もかなり高齢だったはず。
- 関羽が呂布未亡人を欲しがったという話もある。後世の人々は、なんとなく呂布から関羽へいろんなものが引き継がれたイメージを持ったのかもしれない。
- 中国での評判は散々。裏切りはともかく、義父を2度も殺しているのが痛すぎる。(儒教的な意味で)
- 裏切り者の代名詞と呼ばれているが、部下には割りと恵まれている(軍師の陳宮、共に殉じた高順、後に曹操に仕えた張遼等)
- しかし最後の敗戦の原因は部下(魏続・侯成・宋憲)に裏切られてあえなく捕縛。裏切り者と呼ばれた英傑は皮肉なことに部下の裏切りで幕を閉じるという結果に。
曹豹
- 徐州牧・陶謙配下の武将。
- ゲーム「三國志II」ではメチャクチャ弱い能力設定にされており、それをネタにされたことがある。
- ゲームではぱっとしない能力値を与えられることが多いが、なにげに夏侯惇の軍を追い返している功績もあったりする。そして実は徐州の相という高い位にあったりもしてかなりの人物、のはずだった。